城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2017/05

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2017年05月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧





これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧


5月から始まった熊本城天守の解体・復旧工事の該当部分(熊本市より)

(※この該当部分の表示のしかたが正しいのかは、記事の後半で…)




あの震災からの復興の“旗印”という大きな意義はあるものの、当ブログが予想したとおりの「事態」が具体的に動き始めました。

各報道によれば、朝日新聞デジタルで「熊本市は天守閣を復興のシンボルと位置付け、2019年までの復旧・公開に向けて作業を進めている」、産経ニュースで「大天守は昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、6階部分は鉄骨造りで耐震性が劣っていた」、そしてYOMIURI ONLINEで「最上階の解体は6月頃に完了し、8月には再建作業が始まる」のだそうです。


で、この工事を受注した大林組のホームページによれば…

事業期間(※1)大天守:2016年11月〜2019年3月(29ヵ月)
        小天守:2016年11月〜2021年3月(53ヵ月)
事業費(※1) 設計業務費:308百万円(税抜)
        建設費:6,334百万円(税抜)
(※1=プロポーザルで提示した事業期間および事業費)


部分的な解体・復旧でも建設費63億円!(税込68億円)だそうで、ここに解体費用は含まれているのか分かりませんが、これらは結果的に <現状のコンクリート天守は守り切る!!> という政治的インセンティブが、市政のうえに強烈に働いたことがうかがわれる事態でありまして、これでおそらく、熊本城のコンクリート天守は、今後100年間は存続する、と、この場で言い切っても間違いにならないのではないでしょうか。

そしてむしろ今回の動きは、ある種の「説話」「伝説」の類い(→いちはやく復活した熊本城天守、云々…)となって、復旧するエレベーター付き耐震化コンクリート天守は、熊本市民の間で未来永劫(みらいえいごう)、存続していく可能性さえ、感じられて来てなりません。





このことは昨年、『日本から城が消える』で加藤理文先生が心配された城郭遺産の未来像とはうらはらに、各地のコンクリート天守は、地元自治体があらゆる手段(→部分改修のくり返し等)で延命化をはかり、欧米ではなかなか見られない建築カテゴリーの「コンクリート天守」が、この先も我が国で永久(とわ)の命を得てしまうのでは…… と当ブログが危惧した状態に向かっているようです。

現に、見れば見るほど興味深い大林組の技術提案書によりますと、今回のすばやい復旧は「熊本地震発生から2年後の平成30年4月には4階以上の足場を解体し、ライトアップを再開することで熊本城の復旧を力強く発信します」などと、政治的な効果を最大限にねらったものであることが分かります。


大天守の工事が終わる平成31年3月の進捗状況の予想図!!(技術提案書から引用)

(東側状況)


(西側状況)→ 小天守台の石垣は一旦、全周にわたって撤去!!!


(南北断面図)


小天守の北面・西面の近況写真


(※小天守台の穴倉は崩壊の激しい動画報告があるものの、被害の詳細は分かりません)


昭和11年刊行の古川重春著『日本城郭考』に掲載の図(左側が大天守台、右側が小天守台)

→ 熊本城の天守台石垣は、日本の城を代表する「文化財」であることは明らか




――― かくのごとき荒療治のアクロバット的な現代工法が展開されるのだそうで、そのなかで例えば、小天守台の外面や穴倉の石垣はどこまで正確に復元できるのか??(崩壊の具合も分からず、技術提案書ではなんと、新しい石材との「取替率」が墨塗り!!…になっている、など)まったくもって分かりません。

ここまでやるのなら、いっそのこと、この機会に、小天守台の下を「発掘調査」してみれば、加藤清正時代の熊本城がもっと良く分かるはずなのに、と私なんぞには思えてならないほどです。…


小天守台がまだ無かった当時(=加藤清正の存命中)を推定した当ブログ記事のイラスト

このイラストの左半分の側に、二代目藩主・加藤忠広が小天守(台)を増築したことになる



かくして熊本城では、再来年の3月には大天守が復活する、という「コンクリート天守」ならではの超スピード復旧がなされるのに対して、文化財の修復になるはずの城全体の「石垣」「櫓」を含めた場合は、熊本市の試算で総額634億円、20年後の完了を目指すと市長が宣言したものの、それでは終わらないのかも… という声が一部にあるほどです。

(※ただし、災害復旧事業はかなりの部分が、国からの補助金でまかなえるのだそうですが)


最後にもう一言、これを申し添えないわけにいかないのが、今回、大林組の関係者の皆様が数多くの「最善」を尽くしておられるのは、技術提案書を拝見しても推察できるわけですが、私が申し上げたいのは、そうした「最善」の数々が、すべて、すべて「コンクリート天守」を存続させてしまう(=我が国の社会・歴史上にそれを「固定化」させてしまう)ことにつながるのだ、という、真っ黒い、落とし穴のごとき「矛盾」を申し上げておきたいのです。

……… 改めて、コンクリート天守の「魔力」を思わざるをえない状況にあります。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年05月19日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」





目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」


大砲を持たなかったヌルハチの満洲「八旗」兵の寧遠城 攻め / 城壁を崩した!?…


先月の記事では、澁谷由理著『<軍>の中国史』で「兵士や軍人は不人気なうえにきらわれる存在であったし、現在でも庶民からじつは畏怖敬遠されている」という風に、中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史があることをお伝えしましたが、そんな中でも、最後の帝国・清朝(満洲族)の「八旗」制度の兵だけは、ちょっと違ったニュアンスで紹介されていました。


(澁谷由理『<軍>の中国史』2017年より引用)

清朝のつよさの一因としてかならずあげられる八旗(はっき)制度は、ヌルハチがはじめたことになっている。(中略)一色につきふちどりのない旗とある旗との二本をつくった。
たとえばふちどりのない黄色い旗(およびそのグループ)は「正黄旗(せいこうき)」、同色でもふちどりのある旗は「鑲黄旗(じょうこうき)」、というように区別され、四旗の二倍であるから「八旗」である。





(引用の続き)

戦時には各旗、およびそれ以下の単位にも、役割を分担させて複雑な戦法をとることができた。
ふだんから生活をともにする仲間どうしで部隊が形成されているので団結力もあり、満洲人躍進の原動力となった。

(※「旗」の下の組織単位である)ニル・ジャラン・グサの長は平時においては行政官、戦時においては指揮官であった。日常生活と従軍生活とのメンバーを一致させるしくみは金朝の猛安・謀克の制とおなじだが、時代がくだったためもあり、さらに整然としている。



!… 日常の行政官と戦時の指揮官が同一人物で、しかも日常生活と従軍生活のメンバーがいつも一緒とあっては、兵に対する「蔑視」など、起こりようが無かったのかもしれません。

そんな「八旗」制度の生活を想像するには、日本で言うなら江戸時代の「五人組」とか昭和の戦時下の「隣組(となりぐみ)」などを連想しそうですが、最小単位の「ニル」が兵士300人程度を出せる集団だったと言いますから、規模はケタ違いに大きく、例えばソ連の実験的な集団農場「コルホーズ」の構成人員は60人程度だったそうで、それよりさらに一ケタ以上、大きな集団だったことになります。

では何故、そうした軍の全体が「八つ」の「旗」だったか、と言えば…



杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』2015年(第5回 三島海雲学術賞 受賞)

懐徳堂記念会編『世界史を書き直す 日本史を書き直す』2008年

 

『大清帝国の形成と八旗制』261頁の「巻狩の陣形」の図から


(『大清帝国−』より引用)

八旗の左右翼の区分・序列は、一見すると無原則にも見えるが、このように黄旗を北として南面して翼を閉じた場合、左翼すなわち東方に白旗、右翼すなわち西方に紅旗、そして南方で翼端の両藍旗が合わさって、円陣を構成するようになっているのである。

この中軍すなわち囲底をフェレ(fere)、両翼をメイレン、翼端をウトゥリ(uturi)といい、囲猟の基本型は囲底を中心とする五隊編成で、翼端のウトゥリが合同して包囲陣が完成すると、四面になるのである。

(中略)
狩猟とはすなわち戦闘訓練であるので、これは実戦における包囲戦時の基本配置でもあった。


という風に、前々回の記事からご紹介してきた同書では、実際に、二代目ホンタイジの軍勢が遵化城や大凌河城を包囲した際、この色の配置どおりに城を包囲した記録が紹介されていて、したがって「八旗」とは、狩猟の陣形からヒントを得た初代ハンのヌルハチが、それを軍の編成から社会の統治手法まで一貫させた(ちょっと無茶な感じもする…)壮大な国家制度であったようなのです。


で、私が上記2冊の本に興味をもったのは、藤田達生先生の著書『天下統一』のあとがきに「杉山清彦氏の研究によると … 大清時代の八旗体制(旗とは大名家中、藩に相当する)と江戸時代の幕藩体制との類似点が注目されている」とあったからでして、上記2冊のなかで杉山先生は清帝国(正式な国号は大清)について、歴代の帝国とは決して同列に語れないものであり、当時の世界情勢やアジア情勢が生み出した、特異な「新興軍事政権」なのだと主張されています。

とりわけ、上記左側の大著での満洲族(マンジュ=大清グルン)に関する情報量の多さには、私なんぞは到底、付いて行けるわけがなかったものの、その論述の大枠のねらいに対しては、私なりに大きな共感をおぼえました。


(『大清帝国−』386頁より引用)

大清国家の形成とその特質を一六〜一七世紀のアジア大・世界大の政治・社会変動の一環として捉えることが、中国近世史や日本対外関係史の分野から提起されている。

すなわち、倭寇・海商勢力や明の辺境軍閥、またモンゴルあるいはジュシェン
(※女真)勢力を、「民族」や「国籍」で区分して考えるのではなく、国際商品と銀をめぐる辺境の交易ブームの中でこの時期に形成された新興軍事勢力と把握し、続く一七〜一八世紀を、それらのなかで勝ち残った者が主催者となった近世国家の並存の時代と捉えるのである。




(引用の続き)

私は、八旗が基本的に軍事組織であることの重要性を充分認めつつも、それと表裏一体のものとして国家組織そのものでもあったこと、そして入関(※山海関の突破)以後も引き続き帝国支配の人的中枢たり続けたことをも八旗制のうちに読み込んで、あらためてこれが大清帝国形成の原動力であり、支配の中枢であったことを主張したい。

かかる意味において、当時のユーラシア東方各国の新政権の特徴として村井
(※村井章介)が指摘する、<軍事行動を前提に組織された規律ある社会組織>なる表現の有効性が注目されるのである。

これこそが、大清帝国の根幹をなす八旗制の世界史的意義に他ならない。


(※印は当ブログの補足)


 


そして、ヌルハチ発案の「八旗」制と徳川幕藩体制がよく似ていた、という点については、同じく杉山先生の、上記右側『世界史を書き直す 日本史を書き直す』所収の「大清帝国と江戸幕府 −東アジアの二つの新興軍事政権−」に詳しい説明があります。

その主な類似点を抜き出しますと…

■八旗と幕藩はともに封建的な集団の集合体で、明の完全な官僚制とは異なる

■皇帝は正黄・鑲黄・正白旗だけを率い、徳川将軍も最大の大名として君臨した

■そして譜代と新参の序列については「官位」を与えて秩序づけていた

■さらに親藩・譜代の中でも「旧満洲」「御三家・三河譜代等」は別格とされた

などの点が、いくつも似ていたと言うのです。


ところが、そんな杉山先生も認めるとおり「むろん、似ている似ているといっても、お互いが影響を与えあったり一方が他方を模倣・借用したという関係は、いうまでもなく一切ありません。(同書)」という無関係の間柄であって、しかも長子相続の有無だけは全く逆だったそうですし、両者はやはり、日本海をはさんで、ほぼ同時進行で天下統一をなし遂げた「新興軍事政権」同士であった、としか言えないそうなのです。!


それはまさに、同時進行で、あまりにも近くで、規模も同じ程度で始まり…





かくして、両者の体制が「似ていた」という現象は分かっても、「なぜ似たのか」というメカニズムはいま一つ、解明しきれない感もある八旗制と幕藩体制ですが、そのあたりを私なりの読後感から申し上げるならば、両者の共通項として、少数の満洲族が多数の漢族を従えた清帝国と、徳川の親藩・譜代が外様の大名や領国を従えた幕藩体制、という点に着目するなら、おのずと「支配の二重性」という共通のキーワードが頭に浮かびます。

それは例えば…


武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台

その天守台の現状(南面)

(※ご覧の写真はサイト「古城の歴史」様からの引用です)


突然ですが、天守ファンのひそかな関心の的(まと)… ご覧の躑躅ヶ崎館に残る「天守台」は、織田信長軍による武田氏滅亡や本能寺の変のあと、甲斐を支配した徳川家康(※平岩親吉)の頃に築かれたとされるもので、現在、周辺は武田神社の立ち入り禁止区域のため竹林におおわれ、調査もされて来ておりません。

が、いずれにしても、この天守(台)というのは、戦国の雄・武田信玄のかつての居館内にドカッと「鎮(しず)め石」のように載せられた存在でありまして、その意味では、織豊政権下の新たな支配者の出現を(地侍らに)見せつけるための建造物でしょうし、当時の姿はきっと、甲斐国内の「支配の二重性」を強烈にアピールしたのではなかったでしょうか。…


このように、なんでも天守の話題に引きつけてしまうのが私の悪いクセですが、八旗制と幕藩はなぜ似たのか? という直接の「原因」を素人なりに想像しますと、その形が、各地の新支配地での「支配の二重性」に適した(即応できる!)封建的な軍の制度であり、国家制度でもあった、と考えることも可能なように感じたのです。


そうなりますと、類似性の原点は <織田信長> に求めた方がいいのではないかと思うわけでして、足利義昭の追放後、各地で広がる戦闘において、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益(+徳川家康!)を司令官とする「方面軍」を組織していた信長は、自分の死後の、大陸での清帝国の膨張ぶり(のメカニズム)も、どこか予見していた節があるように思えて来てなりません。

それはもちろん、 夷狄(いてき)が中華に取って代わる「華夷変態(かいへんたい)」を覚悟したものでしょうし、そんな信長の発想の中に、すでに <東アジアの下克上> の「芽」があったと感じるのは、過去に朝尾直弘先生のこんな文章もあったからです。…



(朝尾直弘「東アジアにおける幕藩体制」/『日本の近世1』1991年より)

信長は武家政権の継承者として、その権力の伸張の段階に応じ、天下をときに禁裏(朝廷)とほとんど同義に用い、ときに拡大して北海道と沖縄をのぞく列島とその住民の意味で用い、さらにすすんで「信長に一味することが天下のためであり、自他のためである」との論理でもって、天下と自己との一体化をはかった。 

こうして、野蛮な武力による夷(えびす)が天下人になったとき、日本列島における華夷の価値秩序が逆転した。

武家権力を抑圧しつづけてきた伝統的な価値秩序が崩壊するとともに、天下人の眼がこの秩序の本家である中華に向けられたのは避けられないことであったのではなかろうか。折から世界の拡大とともに、天下人の天下も天の下というそのことばの意味どおり拡大した。

武力による大陸侵略は、そこに起きた。




やはり彼らのエネルギーは、華夷秩序の逆転(=東アジアの天下布武)に向かわざるをえなかった?

ヌルハチが生れた1559年、まだ信長は、上洛して13代将軍・足利義輝に謁見していたが…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年05月04日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応





肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応


ウサマ・ビン・ラディンの遺体をアラビア海に投棄(水葬)した米空母

カール・ヴィンソン, CVN-70



この空母の接近に対して、朝鮮労働党の機関紙・労働新聞は、こともあろうに、

「太って肥大した変態動物を一撃で水葬してしまう戦闘準備を整えた」と……




この21世紀にあって、知らない、知らせない、伝わってない、という事態の怖さを、ひたひたと感じる日々が続いております。

そんな状態をよそに「城」「天守」関連の話題を隔週でお話している当ブログにおきましても、前回の予告では杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』等を通じて織田信長の「天下布武」について取り上げる予定でしたが、目下の韓国大統領選もふくめた情勢は、上記タイトルの話題を、ここで一回、はさんでおくべき様相を呈しているようです。

と申しますのも、今回、<肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応> というタイトルにしましたのは、2011年度リポート「そして天守は海を越えた」を作成した当時、豊臣政権の軍勢30万余の集結・発進基地として築城された肥前名護屋城の威容をもってしても、朝鮮側には開戦前に事の重大性や緊迫感がほとんど伝わらなかった点を申し上げたものの、その原因については、あまり言及できませんでした。


2011年度リポート「そして天守は海を越えた」より

漢城(ソウル)と肥前名護野城との距離は約500km(肥前名護屋−大阪間とほぼ同じ)

肥前名護屋城を描いた当サイト推定復元イラスト


しかしその後、日朝関係の記事や本などをパラパラと目にするうちに、朝鮮側の危機意識の低さが生じた原因として、儒教を国教とした李氏朝鮮の、驚くほどの対日認識が作用していた可能性が感じられました。

とりわけ、下記の河宇鳳(ハ ウボン)著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』(2008年刊)という本では、李氏朝鮮のいわゆる「小中華思想」への傾斜と固執が、すでに、日本をまともに見る目を無くしていた実態が紹介されています。




ちなみにこの本は韓国で、韓国の読者向けに出版された本の翻訳版ですから、著者がいかに日朝・日韓の交流史を冷静に検証してはいても、やはりその言葉の端々は、日本人としては決して心地良い響きでない!…ことをお断りした上で、それでもなお、総勢30万余の軍勢が終結した軍事都市(肥前名護屋城)の出現が、対馬海峡の対岸の半島では、何故ああも無反応(不感症)であったかの<秘密>をさぐる材料としては、有効だと感じました。


(上記書28頁より引用)

朝鮮は中華主義的な華夷(かい)観と事大朝貢体制から見れば「夷狄(いてき)」として分類される。

しかし儒教文化の面では、自ら中国と対等か、あるいは中国の次を行くものとして自負し、「華」と称した。文化的アイデンティティーの方向性を華夷観の中心部に積極的に向けていき、自らを中華と同一視したのである。

こうして朝鮮は自ら「小中華」と称し、中華である明と一体化する一方、周辺国家の日本・女真・琉球を他者化し、「夷狄」とみなした。
これが、いわゆる小中華意識である。

この時期の朝鮮の人々の国際観念と自我意識をよく示しているのが、一四〇二年(太宗二年)に製作された「混一疆理(こんいつきょうり)歴代国郡之図」である。



混一疆理歴代国郡之図(龍谷大学蔵)



ちなみに、これを所蔵する龍谷大学のネット上の解説では…

「この地図は、明の建文4(1402)年、李氏朝鮮で作成されたもので、現存最古の世界地図だ。地図の下段に記される由来によると、朝鮮使として明に派遣された金士衡という官僚が、1399年に2種類の地図を国へ持ち帰った。それは李沢民の『声教広被図』と、仏僧である清濬の『混一疆理図』で、それらを合わせ、さらに朝鮮と日本を描き加えたものである」

ということで、ご覧の地図のうち、いちばん左端の湖のある半島はアフリカ大陸だというから驚きですが、明帝国の側はそんなつもりが無いのに「小中華」を自称していた李氏朝鮮が、こんな地図を意図的に作ったわけでして、上記書が注目したのは、朝鮮半島と日本列島の、逆転させた以上の極端な面積の違いです。


(上記書34頁より引用)

日本に対しては「倭寇の巣窟」というイメージがあり、知識人は華夷観に立脚して日本夷狄(いてき)観をもつようになった。これに加え、朝鮮時代前期には日本を「小国」として認識するようにもなる。

すなわち、朝鮮時代前期の日本認識には、日本夷狄観の上に「日本小国観」も含まれていたのである。

(中略)
十五世紀半ばに日本への通信使の派遣が中断したことで、朝鮮朝廷では日本の国内情勢に対する情報が不足し、辺境の情勢が安定したことも重なって日本に関心を向けない傾向がさらに強まった。


そんな「傾向」はやがて、韓国の国立中央図書館蔵の「天下地図」(18世紀初め)になると…



!! なんと、朝鮮半島の下によく見えるのは「琉球国」であり、日本列島は小島のごとくちっぽけに描かれるか、枠外に排除された地図が作られ、それらが朝鮮国内では「天下地図」と呼ばれる事態へと向かっていたそうなのです。

―――地図は雄弁だと改めて思い知らされますが、次の引用文はやや長文になるものの、是非ともご一読ください。




<朝鮮側の「日本小国観」を、応仁の乱や対馬・宗氏の「偽使」が助長したという指摘>




(上記書178頁より引用)

世祖・成宗代(※1455〜1494年)に至ると、両国の内政は一変し、日朝通交の様相に変化が見られるようになる。

朝鮮の場合、建国当初に比べて政治が安定し、統治体制が整備され、北方開拓を通じて対内的・対外的にも状況が安定していった。しかし、日本は応仁の乱に見られる内乱状態で、室町幕府の弱体化現象は著しくなっていった。

(中略)
この時期の日本の諸侯には、使行時の書契(※書きつけ)から朝鮮上国観ないしは朝鮮大国観が見られる。例えば、当時日本各地の使臣は、世祖を「仏心の天子」と称していた。(註:中村栄考「室町時代の日鮮関係」)

室町幕府八代将軍の足利義政(在位一四四九〜七三)の代に至ると、書契にも朝鮮に対する低姿勢がはっきりと表れるようになる。
具体的には朝鮮を「上国」といったり(『成宗実録』)、また、朝鮮の国王に対しても日朝間の国書で通常使用してきた「殿下」の代わりに「陛下」を用いたりしている。(『世祖実録』)

(中略)
「上国」や「陛下」といった用語は、抗礼国の間で用いられるものではなく、小国が大国に対して、あるいは諸侯国が宗主国に対して使用するものであるのはいうまでもない。

ただ、一四六六年から一四七一年の間に集中的に現れる、こうした室町幕府やそのほかの通交者の「朝鮮大国観」は、当時の日本がおかれていた切迫した状況や、あるいは最近の日本学界の研究で明らかにされたように、大多数の使節が対馬島主の派遣した偽使であるという点を考慮した時、額面どおりに受け取ることは難しい。

しかし、こうした日本の通交者の姿勢と態度が、朝鮮側の日本認識の形成に重要な影響を与えたであろうことは確実である。



最近話題の「応仁の乱」ですが、やっぱりね… というため息が出てしまいますし、自国内の視点だけで、歴史をああだこうだと論じていてはダメだ(危険だ)という思いにかられて来てなりません。

で、上記書に登場する朝鮮の知識人たちは、「儒教」に骨の髄まで染まっていたため、文化的に高度(中華と同一)であれば、国家は安全保障も含めて、すべてうまく行く、と完璧に信じ込んでいたようであり、下等な狢(むじな)の類いの東夷「倭人」の豊臣軍が半島になだれ込む(文禄の役/壬申倭乱)までは、具体的な防衛措置をほとんど講じませんでした。

そしてその30年後、同じく夷狄(いてき)とされた「野人」女真族(満洲族)は、『朝鮮王朝実録』の表現上では「夷狄というより禽獣に近かった」にも関わらず、そんな「野人」の二代目ハーン(後金・清の皇帝)ホンタイジの軍勢によって、朝鮮は物心両面に決定的な打撃=丁卯胡乱(ていぼうこらん)と丙子胡乱(へいしこらん)を加えられました。


「小中華意識」に青天のヘキレキ!!… 三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)の銅版レリーフ

皇帝ホンタイジに三跪九叩頭(さんき きゅうこうとう)の礼をとる朝鮮王・仁祖


(※三跪九叩頭…合計9回、土下座で地面に頭を打ち付ける、清朝の礼式)


1627年(日本では寛永4年)の丁卯胡乱(ていぼうこらん)は、文禄・慶長の役の被害から立ち直ってなかった朝鮮に対して、ホンタイジの後金軍が、わずか3万の軍勢で漢城(ソウル)にまで攻め込んだもので、ソウルの西沖の江華島に逃亡した国王の仁祖は、後金を兄、朝鮮を弟とする盟約を結ばされました。

10年後の丙子胡乱(へいしこらん)は、ホンタイジが皇帝に即位して国号を後金から清に改めたものの、朝鮮側は(帝国末期の)明への配慮からその即位を認めなかったため、ホンタイジ自ら10万の兵を率いて親征したものです。

国王・仁祖は、逃げ込んだソウル近郊の南漢山城から出て、平民の衣服に着替えたうえで、ホンタイジの三田渡(さんでんと)の陣中で「三跪九叩頭」の臣下の礼をとらされました。

この世にこれ以上の屈辱もないだろう、と思うハメに朝鮮国王がおちいり、その後、朝鮮の国民、とりわけ知識人らがどうなったかと言えば、あっと驚く展開に向かったのだそうです。


(上記書42頁より引用)

倭乱と胡乱を経た十七世紀前半、朝鮮思想界では極端な華夷峻別論が強調され、外来文化と民族に対して排他的な認識が深まった。

すなわち、朝鮮時代前期の小中華意識が「朝鮮中華主義」としてさらに強化されたのである。

その結果、受容の対象としての中国(清)、競争の対象としての日本、新たな文明圏である西洋、その三つのすべてを認識の対象から除外してしまった。言い換えれば、周辺諸国の「他者化」というより、他者の除外である。



!!――― あたかも、過度のトラウマが人間をどうしてしまうか、という人類史上の実験のようでもあり、民族的な“独りよがり”がここから始まったのかとも思えるほどの展開でして、歴史のif(イフ)として、もしも李氏朝鮮が「儒教」や「小中華意識」に国をあげて傾斜することが無かったなら、これほどまでに傷は深くなかったのでは… という、まことに勝手な想像を「倭人」の一人としては、せずにいられません。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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