城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2017/05/29

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2017年05月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧





これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧


5月から始まった熊本城天守の解体・復旧工事の該当部分(熊本市より)

(※この該当部分の表示のしかたが正しいのかは、記事の後半で…)




あの震災からの復興の“旗印”という大きな意義はあるものの、当ブログが予想したとおりの「事態」が具体的に動き始めました。

各報道によれば、朝日新聞デジタルで「熊本市は天守閣を復興のシンボルと位置付け、2019年までの復旧・公開に向けて作業を進めている」、産経ニュースで「大天守は昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、6階部分は鉄骨造りで耐震性が劣っていた」、そしてYOMIURI ONLINEで「最上階の解体は6月頃に完了し、8月には再建作業が始まる」のだそうです。


で、この工事を受注した大林組のホームページによれば…

事業期間(※1)大天守:2016年11月〜2019年3月(29ヵ月)
        小天守:2016年11月〜2021年3月(53ヵ月)
事業費(※1) 設計業務費:308百万円(税抜)
        建設費:6,334百万円(税抜)
(※1=プロポーザルで提示した事業期間および事業費)


部分的な解体・復旧でも建設費63億円!(税込68億円)だそうで、ここに解体費用は含まれているのか分かりませんが、これらは結果的に <現状のコンクリート天守は守り切る!!> という政治的インセンティブが、市政のうえに強烈に働いたことがうかがわれる事態でありまして、これでおそらく、熊本城のコンクリート天守は、今後100年間は存続する、と、この場で言い切っても間違いにならないのではないでしょうか。

そしてむしろ今回の動きは、ある種の「説話」「伝説」の類い(→いちはやく復活した熊本城天守、云々…)となって、復旧するエレベーター付き耐震化コンクリート天守は、熊本市民の間で未来永劫(みらいえいごう)、存続していく可能性さえ、感じられて来てなりません。





このことは昨年、『日本から城が消える』で加藤理文先生が心配された城郭遺産の未来像とはうらはらに、各地のコンクリート天守は、地元自治体があらゆる手段(→部分改修のくり返し等)で延命化をはかり、欧米ではなかなか見られない建築カテゴリーの「コンクリート天守」が、この先も我が国で永久(とわ)の命を得てしまうのでは…… と当ブログが危惧した状態に向かっているようです。

現に、見れば見るほど興味深い大林組の技術提案書によりますと、今回のすばやい復旧は「熊本地震発生から2年後の平成30年4月には4階以上の足場を解体し、ライトアップを再開することで熊本城の復旧を力強く発信します」などと、政治的な効果を最大限にねらったものであることが分かります。


大天守の工事が終わる平成31年3月の進捗状況の予想図!!(技術提案書から引用)

(東側状況)


(西側状況)→ 小天守台の石垣は一旦、全周にわたって撤去!!!


(南北断面図)


小天守の北面・西面の近況写真


(※小天守台の穴倉は崩壊の激しい動画報告があるものの、被害の詳細は分かりません)


昭和11年刊行の古川重春著『日本城郭考』に掲載の図(左側が大天守台、右側が小天守台)

→ 熊本城の天守台石垣は、日本の城を代表する「文化財」であることは明らか




――― かくのごとき荒療治のアクロバット的な現代工法が展開されるのだそうで、そのなかで例えば、小天守台の外面や穴倉の石垣はどこまで正確に復元できるのか??(崩壊の具合も分からず、技術提案書ではなんと、新しい石材との「取替率」が墨塗り!!…になっている、など)まったくもって分かりません。

ここまでやるのなら、いっそのこと、この機会に、小天守台の下を「発掘調査」してみれば、加藤清正時代の熊本城がもっと良く分かるはずなのに、と私なんぞには思えてならないほどです。…


小天守台がまだ無かった当時(=加藤清正の存命中)を推定した当ブログ記事のイラスト

このイラストの左半分の側に、二代目藩主・加藤忠広が小天守(台)を増築したことになる



かくして熊本城では、再来年の3月には大天守が復活する、という「コンクリート天守」ならではの超スピード復旧がなされるのに対して、文化財の修復になるはずの城全体の「石垣」「櫓」を含めた場合は、熊本市の試算で総額634億円、20年後の完了を目指すと市長が宣言したものの、それでは終わらないのかも… という声が一部にあるほどです。

(※ただし、災害復旧事業はかなりの部分が、国からの補助金でまかなえるのだそうですが)


最後にもう一言、これを申し添えないわけにいかないのが、今回、大林組の関係者の皆様が数多くの「最善」を尽くしておられるのは、技術提案書を拝見しても推察できるわけですが、私が申し上げたいのは、そうした「最善」の数々が、すべて、すべて「コンクリート天守」を存続させてしまう(=我が国の社会・歴史上にそれを「固定化」させてしまう)ことにつながるのだ、という、真っ黒い、落とし穴のごとき「矛盾」を申し上げておきたいのです。

……… 改めて、コンクリート天守の「魔力」を思わざるをえない状況にあります。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。