城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2017/07

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2017年07月20日(Thu)▲ページの先頭へ
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?…





金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?…


すでにご存じのとおり、先日の報道では、発掘調査が進む「駿府城」天守台跡から、従来とは異なる「金箔瓦」が出土していたそうです。




これは例えば産経ニュース <駿府城天守台調査で初めて発見 豊臣系の「金箔瓦」一般公開> によりますと、「今回見つかった「金箔瓦」は、織田信長系の城にみられる、瓦の凹部に金箔を貼り付けたものではなく、凸部に金箔を貼り付けた豊臣秀吉系のもの」とのことです。

この「豊臣系」金箔瓦について、静岡市の歴史文化課では、天正18(1590)年から慶長6(1601)年まで駿府を居城としていた、豊臣大名の中村氏(一氏/忠一)によるものと解釈し、説明を行なっています。

かくして、天正末期から文禄・慶長前期には、天守台の位置のあたりに「豊臣系」天守が建っていた可能性が出てきた、となれば―――




これは当サイトの2013−2014年度リポートで申し上げた、大それた【新仮説】の図でありますが、このように慶長12年の年末の火災で焼けた天守とは、その時、徳川家康が建造中のものではなくて、中村一氏の時代からずっとそこに存続していた天守ではなかったのか? という新仮説を図示したものです。

かくのごとき発想に対して、今回、中村時代の「豊臣系」天守の可能性が出てきたということは、新仮説の前提条件が、一歩も二歩もクリアされたことになりましょうし、私なんぞとしては、今後の発掘調査のさらなる成果に期待を寄せております。



――― で、ここで是非とも確認したいのが、報道の駿府城「豊臣系」金箔瓦は、東国で発見されたのですから、前回も話題に出た甲府城の金箔付きシャチ瓦などと同じく、いわゆる「徳川包囲網」の金箔瓦だと解説されて行くのでしょう。

しかし自分は、実のところ、この「徳川包囲網」の金箔瓦という言い方に、若干の疑問を感じて来た一人でありまして、何故ならば、徳川は豊臣政権下で筆頭の大大名であり、そうした「徳川だけ」を、政権内で公然と敵視するような政策が本当に可能だったのか?… という疑念が、どうにも心の中でぬぐえなかったからです。


そこでお目にかけたい以下の図は、昨年の当ブログ記事で引用した朝尾直弘先生の『豊臣政権論』の、東国の「集権派」「分権派」大名(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)の色分けにしたがって、新たに描いてみた領国の図です。




時期的には、冒頭の駿府城「豊臣系」金箔瓦の主(ぬし)だとされた中村一氏が、駿府に入封した翌年の天正19年を想定した図でありまして、この年は豊臣秀吉による「奥州仕置」が行なわれた直後でもあり、当然のごとく、朝尾先生が「分権派」大大名の一人とした戦国大名の後北条氏は、すでに滅亡したあとになります。

そしてこの時は、同じ「分権派」大大名の徳川家康は関東に移り、もう一人の伊達政宗は極端に領地を削られた状態にあって、このあと政宗は、ひそかに葛西大崎一揆を扇動し、その鎮圧に乗じて、北側の木村吉清の領地をうばって行くことになる直前の様子です。


朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・前田利家…

そして「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…


では念のため、朝尾先生の「豊臣政権論」(『岩波講座 日本歴史9 近世1』所収)の引用文を若干、繰り返しますと…


がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。

一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上 上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。
(中略)
同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。
徳川・北条・伊達 三氏である。
豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。

(中略)
豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。




といった状態にあって、駿府城の「豊臣系」金箔瓦は、たしかに徳川家康の領国に接した「駿河」に配置されたわけですが、では、ご覧の図と、最近までに発見された金箔瓦の分布とをダブらせてみますと…



こうして見直しますと、例えば「蒲生」氏郷の会津若松城の金箔瓦などは、必ずしも「徳川だけ」を包囲したとは言い切れない印象があるのではないでしょうか?

これは山形城の金箔瓦が2014年に発見されたことによる現象で、ちなみに近くの小高城は南北朝時代からの相馬氏の居城であり、長年、伊達氏との領地争いを続け、石田三成と通じた16代目の相馬義胤(よしたね)が関ヶ原戦の結果、領地を没収されるまで、相馬氏本城の輝きを保った城でした。

そして山形城もまた、南北朝時代からの最上氏(斯波氏)の居城でしたが、その11代目の最上義光(よしあき)は、例えば文禄・慶長の役での陣中から、堀の普請の進捗状況をたずねる手紙を出していたそうです。


最上義光が修築した頃の山形城を描いた「最上氏時代山形城下諸家町割図」

→ すでに広大な三ノ丸が広がり、二ノ丸は南東側が丸くなっていて、

本丸の堀は西側が二重になるなど、より複雑な形状だった…



山形城の本丸跡から出土した金箔瓦

(※この写真はサイト「TADyのブログ」様からの引用です)


そこでご覧の金箔瓦は、本丸中央の御殿跡から発掘された、丸い石の野面積み石垣の堀跡などで見つかったもので、どのような状況だったかを、山形市教育委員会が公開しているPDF資料を引用しつつご紹介しますと…


山形城は、江戸時代に入封した鳥居氏による大改修を受けていて、その時、

本丸南東隅に新たに「本丸一文字門」などが設けられました
(→ 図の右下)



現在では、中央の本丸御殿跡は鳥居時代の遺構がほとんど失われたものの…



その下層から、最上義光の時代の野面積み石垣の堀跡などが見つかり、


上記「金箔瓦」はこの堀の中から発見されました



このように山形城は、本丸が江戸時代に全面的に築き直された疑いがあり、義光の時代は堀の位置がかなり違っていたのかもしれず、現に図や写真のとおり、金箔瓦が見つかった場所は、義光の頃には二重の堀で固めた本丸表門?(→図の礎石建物か)のすぐ脇になりますので、その瓦は、まさに「豊臣大名」義光の居城を飾り立てた意匠とも解釈しうるものではないでしょうか?

金箔の貼り方を申せば、冒頭の駿府城「豊臣系」と同じ凸部に施されています。

で、もしもこれらが「豊臣大名」時代にさかのぼる瓦だとすれば、これらはいったい「誰を」包囲していたのか?… とあえて想像力をふくらませますと、再び下図でご覧のように、会津若松城や小高城とともに「伊達政宗」!!を三方から囲んだ金箔瓦だった、と考えることも出来そうです。




かくして、東国の金箔瓦は「徳川包囲網」の目印であると言われておりますが、それは必ずしも「徳川だけ」を包囲したのではなくて、徳川や伊達(や北条)ら「分権派」大大名を包囲網のターゲットにしたのではなかったか…… という勝手な疑念を、私なんぞは捨てきれずにおります。

すなわち、石田三成が首魁(しゅかい)となって糾合した「集権派」群小大名らが、豊臣印をかかげることに命脈を見い出し、各々が必死の思いで中央の許可を得たのが「金箔瓦」であり、そんな屋根瓦の風景こそ、石田・増田グループにとっては、脅威の「分権派」大大名を“集団で押さえ込む”ツールであった、と思えて来てならないのです。

(※さらに「金箔瓦」は集権派グループの目印として拡大解釈が進んだとすれば、例えば九州の佐土原城=島津豊久、日之江城=有馬晴信、麦島城=小西行長という三つの城の金箔瓦は、実のところは“加藤清正包囲網”!!であったのかもしれません…)





そんな中で面白いのは、朝尾先生の引用文の最後の「豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか」の一文でありまして、朝尾先生は前田や浅野も「分権派」に数えられたものの、前田利家(もしくは利長)の金沢城にも金箔瓦はあった(→有名な幻の「辰巳櫓」直下のいもり堀で発見された)ことでしょう。

一般的に申しまして、利家の金沢城に「金箔瓦」があることに違和感を感じる城郭ファンの方は、まずいらっしゃらないと思いますが、今回の記事で申し上げている考え方では“大きな矛盾”をきたしてしまいます。

ですから、これはひょっとすると、晩年の利家の豊臣政権内での立場や、利家死後の利長の微妙な立場が影響して「金箔瓦」につながったのかもしれず、要するに、豊臣政権の末期になって、前田家はいちやく三成らの「集権派」に鞍替(くらが)えして!!? 秀吉亡きあとの主導権をうかがったのではないかとも邪推するのですが、どうでしょうか。


……… そして今回の話題のしめくくりに申し上げたいのが、同じく分権派に <浅野長政> の名前が挙がっていることなのです。


甲府城内で発見された金箔付きシャチ瓦


つまり、ご覧の金箔付きシャチ瓦の主(ぬし)は誰だったか? という問題が、ここ何回かの当ブログの内容(=甲府城「天守」のゆくえ)が集約される一点でありまして、もしも甲府城の金箔瓦が浅野長政のものとすると上記の論理とは矛盾してしまい、その前の領主・加藤光康のものならば、矛盾はしない可能性があるからです。


「集権派?」加藤光康       「分権派」浅野長政


以上の一応の結論として申し上げたいのは、問題の金箔付きシャチ瓦については、やはり加藤光康が「躑躅ヶ崎館の天守」にかかげたものと考えたく、それが甲府城内で出土したのは、浅野長政か幸長が「天守移築用」として豊臣政権末期の“微妙な時期”に甲府城内に運び込んだものではなかったかと想像しています。

そして有名な風神(雷神)の金箔瓦や、城内で多数が出土した浅野家の違鷹羽(ちがい たかのは)紋の瓦のなかに、少数の金箔が付いた瓦も発見されたことは、その同じ動きの中で制作されたものだろうと想像するのですが…。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年07月08日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している





続・甲府城「天守」のゆくえ



(※大分合同新聞の報道写真を引用)

前々回まで熊本城の話題を続けていただけに、九州の記録的大雨の報道には注視していたのですが、想像以上の被害の大きさに驚くとともに、自分もテレビの仕事を長く続けて来たせいか、ある傾向を感じ取りました。

というのは、民放の某テレビ局は、ご覧のような自衛隊の災害救助の映像を <今回は絶対に映さない> としたようでありまして、そうした意図的な映像の選択に限らず、物事は、見えていない部分が多くを語ってくれるのかもしれません。…


そこで当ブログの本題に入りますと、まずは私事で恐縮ですが、自分は小学生の頃に甲府の武田神社(躑躅ヶ崎館)の近くに住んでいた者であり、その後も幾度となく武田神社や甲府城は訪れたはずなのに、先月、20年ぶりくらいで甲府城の中を再訪したところ、自分でも愕然(がくぜん)とするほど、まるで別の印象を受けてしまいました。

それは多少“やりすぎ”の感もある門や塀の再建、石垣の積み直し、江戸時代の縄張りとは無関係のスロープや虎口や橋の新設といった「新たな装い」のせいではなくて、まったくもって、かつての自分の未熟さから来る、重大な見落としをいくつも見つけてしまったからです。…




(※ご覧の本丸内のはげしい起伏は、石切り場など埋設物の保存用だとのこと)

まずはそのさわりの部分から白状しますと、ご覧の写真は、近代に増築された謝恩碑の台上から、本丸の内部とその東側に建つ天守台を眺めたところですが、背景の愛宕山の尾根に見えるのは県立科学館のプラネタリウムでして、現場の感覚ですと、この写真よりもずっと近くに山が迫っている感じです。

すなわち、詰め城ではなかった山が、これほど本丸に迫っている近世城郭も珍しいのではないか… という風に、今更ながら感じたわけでして、例えば地形的に厳しい制約のあった新宮城とか大洲城とは違い、広い甲府盆地の中のここなのですから、これは城の防衛上、見逃すことの出来ない欠点でもあり、どうしてこんな簡単なことに自分は気づかなかったのかと、のっけから自己嫌悪におちいりました。…




で、このことを踏まえて甲府城の構造を見直しますと、背後の愛宕山から見た場合、天守台はちょうど、すぐ西側の足下の本丸御殿や二ノ丸、楽屋曲輪、大手門などを隠す(=さえぎる)かのような位置にあるのだと分かります。




ですから、もしも天守台そのものが遮蔽(しゃへい)物の機能を負っていたなら、そうした天守台の上に、必ずしも木造の天守建物が建っていなくても、防御上の期待にはじゅうぶん応えられたのではないか……

そんな“予想外の疑念”が頭の中に浮かんでしまい、そこで思い出したのが、数年前、おなじみの三浦正幸先生が復元考察された天守について、じつは先生ご自身が講演会で「甲府城の天守台について今回、寸法を測りました。本当は現地で巻尺を使って測るのがよいのですが、今回時間がなかったので図面に基づいて測りました」という風にして、あの有名な復元案を仕上げたことでした。


ここはやはり、天守台の「現物」をもう一度、じっくりと見つめ直した方がいいのではないか? と思い立ち、改めて天守台をぐるぐると見て回れば、またまた、とてつもない重大事を見落としたことに気づいたのです。


天守台の現状 →所々に大ぶりな石(鏡石)を配して圧倒的な迫力を出しているが…





ご覧の天守台の石垣は、近年、間石(詰石)の補充や部分的な石の取り替え(石段の踏み石など?)はなされたものの、基本的には築城時そのままの石垣だそうで、大変に見ごたえがあるのですが、このまま石段を上がっていわゆる「穴倉」の中に入ったとき、その重大事に気づいたのでした。



写真の人物がいるあたりが、天守地階(穴倉)の門や扉になるはずで、

例えば、この人物の右側(北側)の石垣にある縦長の石は、


縦の長さが約170cm。こうした大石がさらに奥まで続いていて


最初に石段を登ったとき、真正面に見えたこの石も、縦の長さが約180cm

似たような調子の石垣が、さらに東面、南面と続いている―――





以上の総括として、もう一度、穴倉の北面の石垣をご覧いただきますと、

左端が穴倉の扉(とびら)のはずですが、そこから奥(右側)の穴倉内部まで

まったく同じ調子で!! 大ぶりな石が配されつつ築かれていたのです



つまり甲府城の天守台は、穴倉の「奥」の方まで、城主や登城者に“見られること”を意識していたことになる―――

こんなことは他の天守にもあったことだろうか… と思わず記憶をたどってみても、例えば会津若松城、犬山城、安土城、津山城、福岡城、松山城などなど、各々それなりに穴倉内の石垣を築いてはいても、どこか“おざなり”な扱いであったように思われますし、それもふだんは真っ暗闇なわけですから、当然のことでしょう。

ところが、甲府城の天守台は、石段を登ってすぐの位置に立つと、本来なら目の前に天守地階(穴倉)の扉や引き戸があって見えない(なおかつ暗い闇の奥になる)はずの、正面奥の石垣に、大ぶりな石がわざわざ配してある……


見た目の直感→ <この明るい状態が、この天守台の「完成形」ではないのか??>



江戸時代にはご覧の手前の位置に小さな門だけが建っていたそうですが、もしもこのように天守の地階が無い“明るい状態”が、もとから天守台の完成形だとすれば、そのことが示す「答え」は単純なはずです。

………ただ、江戸時代に天守の無い状態が長く続いたなかで、これらの石垣が(城主や登城者の目を意識した形に)築き直された、というケースも考えられなくはないでしょうから、そのあたりの確認ができないうちに、ここで性急な結論を出すわけにも行かないでしょう。


ただし一つだけ申し添えたいのは、穴倉の大石はどれも残念なことに「落書き」の跡で汚れておりまして、しかし、だからと言って、これらの石は絶対に取り替えないで欲しい、と強く申し上げておきたく、何故ならば、これらの落書き石は以上のごとく <甲府城最大の歴史の証言者> なのかもしれない… と感じるからです。



城下の多くの場所からよく見える、甲府城の天守台


さて、以上のような天守台は、御殿が建ち並んでいた西側を除けば、城のどの方角からも非常に良く見えるものです。

ですから江戸時代に「天領」の支配の象徴としては、これで十分であったのかもしれませんが、現代の地元の方々にしてみれば、毎日、建物の無い「台だけ」の状態を見せられ続けているわけで、必ずしも地域振興という意味だけでなく、人間の自然な心理的欲求として、天守の再建論議(実在を検証する要求)が起きるのも無理からぬところでしょう。


ですが冒頭から申し上げたとおり、今回の再訪の直感として、私は甲府城の天守台には、どの時代にも「天守」は無かったはずだと、かなり強く思えて来ました。


ならば天守台を築いた大名自身が、あえてそのようにした理由や動機は何だったか? という「謎」は依然として残るわけでして、そこで逆に申し上げてみたいのは、例の躑躅ヶ崎館の「天守台」に加藤光康の頃などに天守が築かれ、それがそのまま浅野長政・幸長の時代にも踏襲されて行き、結局のところ“甲府の城”の天守は、解体されて撤去されるまで、ずうっと、躑躅ヶ崎館の方にあり続けたのではなかったのか!!?… という超大胆仮説です。



(※当図は左が北)


この場合、かつて甲府城の天守「実在」説を勢いづけた金箔付きシャチ瓦などは、例えば、躑躅ヶ崎館から甲府城への「天守移築用」として、浅野幸長の時代などに運び込まれたものの、豊臣秀吉の死に始まる動乱の中で行き場を失い、そのまま甲府城内に埋められてしまったのかもしれない… といった想像も出来なくはなく、私なんぞはますます「躑躅ヶ崎館の天守」がどういうものだったのか、興味が増しているところなのです。


では最後に、お蔭様で当ブログは6月29日に累計200万アクセスを超えまして、この場を借りて、皆様の日頃のご支援にあつく御礼申し上げます。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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