城の再発見!天守が建てられた本当の理由 - 2017/11

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (265)



全エントリ記事の一覧はこちら

2017年11月
     
25
26 27 28 29 30    

新着エントリ
城の再発見!続『モンタヌス日本誌』→大坂城天守の記録はまさに「駿府城天守」のことか (11/17)
城の再発見!今回は『江戸始図』の補強になるか?『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的 (11/5)
城の再発見!さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング (10/18)
城の再発見!『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか?? (10/13)
城の再発見!家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点 (9/29)
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (25)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)


アクセスカウンタ
今日:3,184
昨日:2,766
累計:2,269,794


RSS/Powered by 「のブログ

2017年11月17日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!続『モンタヌス日本誌』→大坂城天守の記録はまさに「駿府城天守」のことか





続『モンタヌス日本誌』→大坂城天守の記録はまさに「駿府城天守」のことか




前回も挿絵をご覧いただいた『モンタヌス日本誌』は、是非この機会に、ご覧の挿絵についても申し上げておきたいと思うのですが、このとおり同書には「大坂城」の挿絵がありまして、石垣や虎口の形状から、明らかに豊臣滅亡後に徳川幕府が大改修を行なったあとの大坂城だと分かります。

ところが、本丸の「天守」の姿をよくよく見ますと…

屋根は六層あるらしく、しかも初重には回廊のごとき柱が並んでいる



一般に絵画史料の天守の「重数」が間違っていたケースは多々ありますから、この挿絵も屋根が六層あることに異をとなえても仕方がないでしょうが、ご覧の「回廊」のごとき柱の表現は、かなり異様なものだと感じます。

当然ながら、幕府が再建した実際の大坂城天守には、こんな構造は無かったわけですから、これはひょっとすると『モンタヌス日本誌』の「大阪城を作りし人及其大なる理由」という小見出しがついた、徳川再建大坂城を紹介した文章の中に、天守の「階下は廣(ひろ)き方形の回廊より成る」という、不思議な一文が含まれていたことと関係があるのではないでしょうか?


(和田萬吉訳『モンタヌス日本誌』より)

本城の中央に近く第三堡ありて、総ての他の建物の上に聳(そび)えたり。

其基礎は青き石塁の上に築かる。形状は方形にして胸壁を以て囲まる。壁石は大なるものを用ひ、且巧に接続せらる。城の上方の地面より上ること二百尺弱なり。

此処に又エムペロルの饗宴室あり。階下は廣き方形の回廊より成る。

第一の屋は窓及入口の上に斗出し、第一階の上に尚五階あり。上に進むに随ひて狭小なり。
第二階には七室あり、第三階も同数なれども室小なり。第四階は六室、第五階は五室、第六階は四室を有す。

第一第二の屋背は石を以て葺き、第三第四は鉛、第五は銅、第六は金の瓦なり。



というように「六階」建ての大坂城天守は「饗宴室(?)」の「階下」に「廣き方形の回廊」があった、と説明しているわけでして、冒頭の挿絵は、この不思議な文章に引きずられて、“妙な描き方”になってしまったとも感じるのですが、どうでしょうか。




ちなみに、天守研究の歩みの中では、かの桜井成廣先生がこの『モンタヌス日本誌』の記述…とりわけ各階の部屋数や屋根の材質(色)に注目して、それらが徳川再建天守とは異なるため、豊臣時代の大坂城天守のことであろうと解釈し、お得意の復元模型に反映させたりしました。

ただ、その際においても「回廊」だけは解釈に苦慮し(→例えば天守台内部の半地下の穴倉のへりが回廊状に見えたか?…との解釈で)模型の初重に柱を並べることはありませんでした。




そこで今回、当ブログが是非とも申し上げてみたいのは、桜井先生は「これは家康の駿府城の天守に似て(『豊臣秀吉の居城』1970年)」いると書いたものの、上記の文章が描き出す天守は駿府城天守に似ているどころか、「回廊」という一語を踏まえますと、まさに現在、駿府城跡の発掘調査で姿をあらわしつつある巨大な天守台こそが「回廊」にふさわしい存在なのではないでしょうか。

つまり、上記『モンタヌス日本誌』の大坂城天守の紹介文というのは、この部分の文章がまるごと、駿府城天守の記録がまぎれ込んだものだと考えた方が、よほど理にかなっていると言えそうでありまして、それは例えば、八木清勝先生の復元による駿府城天守の模型と照らし合わせますと、かなりの一致をみるのです。




(上記『モンタヌス日本誌』より)

其基礎は青き石塁の上に築かる。形状は方形にして胸壁を以て囲まる。壁石は大なるものを用ひ、且巧に接続せらる。



此処に又エムペロルの饗宴室あり。階下は廣き方形の回廊より成る。



第一の屋は窓及入口の上に斗出し、第一階の上に尚五階あり。上に進むに随ひて狭小なり。



第二階には七室あり、第三階も同数なれども室小なり。第四階は六室、第五階は五室、第六階は四室を有す。



という風に、説明文はまさに駿府城天守のことのようであり、とりわけ私なんぞが驚嘆してしまうのは、そのうちの「饗宴室」が、八木先生が「天守の二階に高欄を設けたのは、二階からの眺望を得るためと思われる(『城』第四巻)」と主張された、高欄廻り縁の階にあたっている、という点です。

(※『モンタヌス日本誌』では地階を「階下」と呼び、高欄の階は「一階」と表記)

ですから、もし本当に高欄の階が「饗宴室」と受け取られる種類の部屋であったなら、それはやはり、八木先生が「(家康は)隠居城を造営するに当って富士山の眺望を無視することは考えられない」と指摘したとおりに、何よりも<見晴らし>が大切になり、それを邪魔する隅櫓や多聞櫓はまず考えられないことになります。

しかも「階下は廣き方形の回廊より成る」(→落ち縁?)とか「胸壁を以て囲まる」とも書いているのですから、周囲の石垣(石塁)は言わば“むき出し”の状態であって、結局、天守台上は隅櫓はおろか、多聞櫓も無かった、ということを重ね重(がさ)ね、描写しているように感じるのです。



(上記『モンタヌス日本誌』より)

第一第二の屋背は石を以て葺き、第三第四は鉛、第五は銅、第六は金の瓦なり。


そこで我田引水ながら、当サイトの復元案ですと……





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年11月05日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!今回は『江戸始図』の補強になるか?『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的





『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的


有名な『モンタヌス日本誌』挿絵(さしえ)の江戸城 / 三基の巨大な大小天守が建ち並ぶ…



ご覧の挿絵は、ザクセン・アンハルト州立図書館のデジタルコレクションにある『モンタヌス日本誌』の江戸城の絵ですが、このように三基の巨大な大小天守が建ち並んでおりまして、さながら、話題の『江戸始図』や『慶長十三年江戸図』にある慶長度天守と符合するかのような描き方になっています。

ですが一般に、これ以外の『モンタヌス日本誌』の挿絵と言えば、インドか中国か?どこの国のことか?と仰天してしまう図柄(宗教や習俗など)が数多く含まれていて、その「写実性」を語る方はまずいらっしゃいませんが、ただし風景画に限って申せば、いくらか写実的と感じる点もあり、とりわけご覧の「江戸城」の場合、よくよく見ますと、けっこう興味深い描写が多々見つかるのです。


そこで話の手始めに「絵の注釈文」に着目しますと、冒頭の挿絵のとおり左上には英語の注釈文があり、画面下にはオランダ語の注釈文がありまして、英語の方だけでもグーグル翻訳等を使えば理解が可能なのですが、番号10だけがやや意味不明のため、下のオランダ語の方もやってみますと「観客のための開いた黄色い屋根」となりまして、これを反映させた形で、英語の“直訳っぽい”翻訳を並べますと…




この中の「皇帝」というのは、ご承知のごとく1669年(=寛文9年)にオランダ語の原書が出版された『モンタヌス日本誌』は、宣教師の報告書を下敷きにしていたものの、編集者のA・モンタヌスは訪日の経験が無かったため、足利将軍や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光らをすべて「エムペロル」と呼んでしまっていて、言わば「天下人」の意味で「エムペロル/皇帝」が使われた点に注意が必要です。

で、この注釈の場合の「皇帝」は誰かと申せば、挿絵の前後の江戸城を紹介した文章を踏まえますと、おそらくは二代将軍の徳川秀忠になるのでしょうが、次にこの直訳っぽい翻訳と、挿絵の中の番号とを、線で結びますと…



(※画面クリックで拡大版もご覧になれます)


いかがでしょう? 江戸城の本丸周辺の縄張りが頭に入っている方は、これをご覧になったただけで アッ…と気づくのではないかと思うのですが、いちばん左側の「彼の教会堂」は紅葉山東照宮(※元和4年建立)であると仮に解釈しますと、ご覧の構図には、ちゃんとした、あるアングル(視点)から眺めた江戸城の景観がベースになっていることが分かります。

すなわち―――


例えば『江戸始図』でそのアングルを示しますと…


この絵図では「平岩主計」=かの毒まんじゅう伝説でも知られる、家康の腹心で犬山藩主の平岩主計頭親吉(ひらいわ かずえのかみ ちかよし/慶長16年没)の屋敷あたりを「視点」にして、そこから北側の江戸城を眺めた場合、まさに、モンタヌスの挿絵と非常によく似た景観が見えたはずでありまして、その際、いちばん手前の「門」は坂下門になるわけです。




しかも、のちに蛤雁木(はまぐりがんぎ)と呼ばれる円弧状の石段や、その対岸の円弧状の土塁・石垣が、モンタヌスの挿絵では“それらしき円弧状の柵”に「変形」されつつ描き込まれていたり、坂下門の奥の広い「(?)スペース」は江戸時代を通じて歴代将軍の廟所が建てられていった場所ですが、このスペースを「利用」して庭や御殿が描かれるなど、何らかの「原画」や城絵図を介しての、変形や合成による作画の可能性が強く感じられるのです。!!

かくして、この挿絵は思いのほか「写実的」であると申し上げたいのですが、写実性をある程度、信用するとなれば、もう一つ、新たなギモンが浮かび上がります。

すなわち…


<挿絵には長局の「彼の後宮」が。→ 三基の大小天守は、本当に慶長度天守か?>



こうして城の奥の方(=本丸北部)に目をやりますと、そこにはなんと「彼の後宮」として、長局(ながつぼね)の屋根が並んでいる!! ように描かれております。

これはさながら、江戸城最盛期の寛永度以降の本丸御殿を“予言”したかのような描写でありまして、本丸北部に長局はまだ描かれていない(そんな敷地さえ存在しない)『慶長十三年江戸図』や『江戸始図』の内容からは絶対に分かるはずのない事柄です。


――― となりますと、この挿絵の「原画」の景観年代はいつだったのか? もしくは、画家が入手した資料はいつの時代の城絵図だったのか? という問題がここに浮上して来るわけです。


前述のごとく『モンタヌス日本誌』がオランダで出版されたのは1669年(=寛文9年)であり、その初版から挿絵は存在した、とのことですから、「彼の後宮」というのは、指図類の残っていない元和度の本丸御殿(元和8年1622年造営)か、寛永度(寛永14年1637年造営)か、ぎりぎり万治度(万治2年1659年造営)の本丸御殿でしかありえないでしょう。

つまり、長局が並んだ「彼の後宮」は早くても元和8年以降のことであり、その時にはもう天守が「元和度天守」に建て替わるのですから、結局、「彼の後宮」と「慶長度天守」は同時には存在しえない、という矛盾が、今回もまた出てしまいそうなのです。…


(※ただし前回記事の「深刻きわまりないバッティング」で申し上げた【「刻印」優先論 】によって、もしも慶長11年か19年の石垣工事の直後に、本丸北部に「彼の後宮」がすでに建てられていた、などと仮定しますと、話はまるで違って来ますので、今回はそういう「仮定の話」はとりあえず省略します…)



ところが、「三基の大小天守は、本当に慶長度天守なのか」と問い直せば、


挿絵のいちばん右側の「小天守」らしき櫓は、ひょっとすると、これ?……


となると、残り二基の大小天守は、実は(連結式の)「元和度天守」かもしれない。



今回の「アングル」の図を作ってみて初めて気づいたのですが、このように『江戸始図』には、天守曲輪と富士見櫓台との中間あたりに、まるで小天守かと見まがうほど大きな黒い四角(櫓?)があり、これがアングル的には、モンタヌスの挿絵の右側の小天守とぴったり位置が合いそうなのです。

そして一方、当ブログはこれまでに、「元和度天守」は名古屋城と同様の連結式天守(のはずである)と申し上げて来ておりまして、またまた強引な我田引水で恐縮ですが、こういった想定(→上記の櫓が元和以降も残っていた)ならば、前述の景観年代の「矛盾」はきれいに解消するのではないでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。