城の再発見!幕末、幻の大阪籠城戦での「大狭間筒vsエンフィールド銃」の勝負を夢想すると…


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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年03月01日(Tue)
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城の再発見!幕末、幻の大阪籠城戦での「大狭間筒vsエンフィールド銃」の勝負を夢想すると…






幕末、幻の大阪籠城戦での「大狭間筒vsエンフィールド銃」の勝負を夢想すると…


真田丸との関連で話題の 大狭間筒(おおはざまづつ)

(NHK「歴史秘話ヒストリア これが真田丸だ」より)

大坂城というのは本当に話題の尽きない城ですが、前回、アジアの要塞寺院に話が及んだ中で「(仏教の)本尊とそれを守護する護法神(十二神将など)といった考え方が影響したのでは…」等と申し上げ、それはアジアの仏教国の「城づくり」にも影響したかのように感じる旨を申し上げました。

これは私のトラウマにも原因があるようで、どうして日本の城は中国やヨーロッパのような城壁都市として発展しなかったのか、と城好きでない人々にパパッと呆気なく言われてしまうことに対して、何か、綺麗に言い返せる論理(ロジック)は無いものか… と常に思い続けているからかもしれません。

ご承知のとおり、日本においても、領民を収容する機能をそなえた城はいくつも事例があったわけですが、それをいちいち城好きでない人々に数え上げるのは徒労になりそうですし、それよりは「ご本尊とそれを守護する十二神将」といったおなじみの仏教スタイルが、日本の城づくりに影響したからだ、と言い切れたなら、どんなに楽か、という気分になります。

… … すなわち、日本の封建社会における武家の「城づくり」の究極の目的は、やはり「主君の命を守ること」であり、主君のまわりに幾重にも並べた塁壁や櫓や堀は、言わばご本尊を守る十二神将なのであって、だから(その究極の目的とはやや異質な)城壁都市を築くに至った事例は、あくまでも二の次、三の次の補完的な作業だったのだ、と。


江戸末期の古地図にみる大阪城(「改正 摂津大坂図」より)


そういう意味で申しますと、大坂の陣の後に徳川が再築した大阪城は、守るべき「主君」がずっと遠くの関東におわす、という複雑な立場のまま、230年以上、大阪の地で孤塁を守って来ました。

ところが幕末の動乱期、長州征伐に向かう徳川十四代将軍・家茂が入城し、また最後の将軍・徳川慶喜も薩摩打倒のために入城すると、いちやく大阪城は守るべき「主君」を得た形になり、そんな中で勃発した鳥羽伏見の戦い(慶応4年・明治元年/1868年正月)では、「主君」慶喜と幕府陸軍・会津及び桑名藩兵らによる「大阪籠城戦」が必至と思える情勢になりました。

で、ここで一つ確認すべきは、鳥羽伏見の戦いで、薩長土芸の軍勢が三分の一の兵力で幕府軍(1万5000人)に勝ったのは“近代的な兵器の差だ”という世間一般の認識は、まったくの誤り!!らしい、という一件でしょう。


映画「ゲティスバーグの戦い/南北戦争運命の三日間」より

アメリカの南北両軍が大量に使用した エンフィールド1853マスケット銃



ご覧の画像のエンフィールド銃は、ミニェー式の銃弾を先込めする「ミニェー銃」の一種で、英国のエンフィールド造兵廠が大量生産したモデルですが、実は、幕府軍・薩長軍ともに鳥羽伏見で使用した小銃は、大半が「これ」そのもの(→アメリカから輸入した中古品の銃!!)であったというから、驚きです。


大砲についても、両軍が使用したのは同じ「四斤砲」であり、結局、そういう中で薩長軍が勝利したのは、作戦指揮の能力の差と、意識の差(この日の戦闘を全く想定していなかった幕府軍と、この日に何がなんでも戦端を開きたかった薩摩軍との意識の差)だというのが、『会津戊辰戦史』や野田武彦著『鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間』が明らかにした実態だと言われています。


ちなみに上記画像のエンフィールド銃は、クリミア戦争で実力が証明されるとアメリカに90万丁も輸出されたそうですが、南北戦争が終わるとそれらは一斉に払い下げになり、武器商人の手で中国や日本に転売され、これを幕府陸軍が5万丁も買い入れ、倒幕派の諸藩も正式銃として競って買い求めました。

ということは、かつて「関ヶ原合戦」では東西両軍で約6万丁の国産火縄銃が使われて徳川の天下が到来し、当時の日本は世界最大の鉄砲保有国(50万丁とも)などと言って来たわけですが、皮肉なことに、その徳川の世の終わりを決めた第二の天下分け目の戦では、こともあろうに、黒船を送ってきた国アメリカが(南北戦争で)使った中古の輸入銃で、薩長(官軍)も幕府軍も、互いに撃ち合っていたのだという、ちょっと笑うに笑えない現実があるようなのです。


西洋式軍装に身を包んだ幕府軍歩兵(ウィキペディアより)

当時は両軍ともに、真っ黒い軍服を着た兵士達が、同じ銃砲を撃ち合っていた…




これは近年の中東情勢を見ても、内乱に発展しそうな国の双方の勢力に、世界の第一線で使われたばかり… といったふれ込みで新兵器を渡せば、どうなるかは火を見るより明らかでしょう。

幕末の日本もまるで同じことで、同国人にしか解らない難しい理屈での悶着が、産業革命直後のグローバルな兵器産業にとっては格好のターゲットになっていて、しかしそうした中で我が国の「明治維新」は果たされたのだと思うと、結果的には、我が国はどこか、絶妙のコントロールが効いていたようにも感じられてなりません。

そんな風に思う時、重大なターニングポイントとして頭に浮かぶのは、やはり最後の将軍・慶喜が断念した「幻の大阪籠城戦」ではなかったでしょうか。…


有名な「浪華城全図」にみる江戸後期の大阪城の姿


ご覧の絵図は、中央の天守が落雷で焼失したままですが、本丸と二ノ丸に櫓26基が健在であった姿を伝えていて、前出の本と同じ野田武彦著『慶喜のカリスマ』には、鳥羽伏見の緒戦に負けた時点での大阪城内が以下のように描写されています。


(野田武彦『慶喜のカリスマ』2013年より)

将士たちは大坂籠城を覚悟し、慶喜が出馬して陣頭指揮すれば頽勢(たいせい)を盛り返せると信じていた。
事実、軍配書を見ても、大坂城警備には、
 大久保能登守(陸軍奉行並)の奥詰銃隊八小隊
 戸田肥後守(同)の奥詰銃隊八小隊
 杉浦八郎五郎(銃隊頭並)の四小隊
 三浦新十郎(撒兵頭並)の撒兵四小隊
がそっくり温存されていた。

城廻り十四ヵ所の関門には、
 小林端一(歩兵頭並)の歩兵一大隊
も前線に出ずに残されていた。

さらに大坂蔵屋敷を警備する、
 天野加賀守(「花陰」、撒兵頭)・塙健次郎(撒兵頭並)の率いる撒兵九小隊
 吉田直次郎(大砲師範役)の砲兵二門
 会津兵四百人
がいた。
要するに、遊撃隊・見廻組といった腕に覚えのある旗本剣槍軍団のほかに、銃隊化されていた旗本の諸部隊はこれまで戦闘に投入されていなかった。

ただ、実際に大坂城に配置されていた諸部隊は全部が全部 戦闘意欲に満ちていたわけではなかった。



という風に籠城戦は必至と見られたわけですが、そもそもこの戦いの1ヶ月前(慶応3年末)に、薩摩の大久保利通・西郷隆盛と岩倉具視らによる「王政復古」のクーデターが起きたことで、徳川慶喜は前述の幕府陸軍と会津・桑名の藩兵を率いて大阪城に入城したのであり、当時、慶喜の大阪入城は、戦略的にかなりの圧力をクーデターの新政府側に与えたようです。


それは例えば大久保の手紙に「(慶喜の)下坂の義、大いに策略これ有り、華城(=大阪城)に根拠し、親藩・譜代を語らひ、持重の策をもって五藩を難問し、薩を孤立の勢になし、隠に朝廷を謀り挽回せんとの密計に候由、異説紛々たり」(大久保利通文書)と書いてあるとおり、もしそのまま慶喜が大阪城にどっかりと腰をすえ、畿内で次々と政治的策謀をめぐらし始めたなら、大久保と西郷は打つ手無しの窮地に追い込まれたはずだと言います。

それが、うっかり、幕府軍の先手の兵を京都に入れようと京都方面へ移動させたことが、大久保・西郷に千載一遇のチャンスを与えてしまい、鳥羽伏見の戦いになったのだというのですから、まるで三国志の陸遜(りくそん)の「先に動いた方が負け」を想わせる展開です。


現代の城郭ファンとしては、慶喜はもっと「大阪城の底力」を信じるべきであったと思うばかりですが、仮に百歩ゆずって、鳥羽伏見の緒戦に負け、大久保が岩倉と謀って「錦旗」を戦場に掲げたとしても、旧幕府軍としては、敗走の兵を大阪城に収容しつつ大阪籠城戦に持ち込めば、なおも慶喜には勝機があったはずだと思えてなりません。

後の会津戦争や西南戦争での戦闘の様子を見れば、おそらく薩長軍は当時、大阪城ほどの堅城を取り囲んだまま、半年や一年も攻城戦を続けられるような力量は無かったでしょうし、大阪湾には幕府の軍艦もいたわけですから、新政府側になだれを打った諸藩の動きもやがては止まり、幕末の大阪において、日本の「城」が軍事的な遺産として十分に機能してしまう姿を、鮮やかに天下に見せつけたのではなかったでしょうか。…





と、ここまでアレコレと申し上げて来たのは、今回のタイトルの「大狭間筒vsエンフィールド銃」という対戦の可能性はあったのか、探ってみたいという興味から始まったことでして、ひょっとすると幕末の大阪城でも、真田丸の戦いの再現が成ったのではあるまいか?…といった興味本位の仮説によるものです。

奇(く)しくも、話題の大狭間筒とエンフィールド銃は、両方とも先込め式の銃ですし、ともに有効射程は300mほどと言われ、命中率はエンフィールド銃の方が格段に上回るようですが、六匁玉(径16ミリ)等々の大きな鉛玉(=変形してつぶれる!)を発射する狭間筒の殺傷力はすさまじいもので、籠城戦・攻城戦における両者の実力は、優劣つけ難かったのではないか… と。


ところが、その当時、大阪城内にはどれほどの「狭間筒」「大狭間筒」が備蓄してあったのか、という肝心要の史料がいまだに把握できておりませんで、今回の記事はここで企画倒れにならざるをえません。

この他にも、幕府陸軍歩兵隊は果たして籠城戦が出来たのか? とか、砲撃戦での大阪という地形(会津若松城の小田山のごとき攻城側に有利な高地は無く、また幸いにも目標になる天守が無いこと!)がどう影響したのか? 分からない点も色々とあって、このテーマは私の宿題として、もう少し時間をかけてから再挑戦してみたいと思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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