豊臣大坂城

 
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年03月29日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると…






続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると…


(※前回も引用の『完訳フロイス日本史』より)

(最上階の)この席において関白は大いに心をこめて決意を述べ、下(しも)の九ヵ国を豊後、薩摩、山口の諸国主に分配するつもりだが…(中略)こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。


最上階に登った豊臣秀吉と宣教師らは、降りる時だけ、複数の階段群を使った…

これはすなわち「表の階段・奥の階段」という構造ならではの出来事か!?



ご覧のとおり、天正14年のコエリョら宣教師一行の大坂城訪問において、関白(秀吉)と宣教師は天守の最上階に登ったあと、降りる時になると突如、複数の階段群を使ったことがフロイスの『日本史』に書かれています。

細かい事を申し上げて恐縮ですが、この「降りる時だけ複数の別々の階段」という妙な現象は、よくよく考えますと、表・奥の2系統の階段群であれば、なんら不思議ではなかったことが解ります。

つまり、登りの行程では、秀吉がアレコレと天守内を案内しつつゾロゾロと行くため、一筋のルートしか行けなかったわけですが、最上階から降りる場合は、三十人以上の一行が(例のごとき急階段を)スムーズに降りて行くためには、2系統の階段群をすべて使った方が手っ取り早い、と思われたのではなかったでしょうか?

くどいようですが、こうした点もまた、豊臣大坂城天守には2系統以上の階段群があった、という可能性を補強しているように思えてなりません。




では、その2系統以上の階段群は「何階まで」達していたのだろうか? という点に興味は移ると思うのですが、その前に、皆様におわびを申し上げねばならないのは、思えば、ご覧の天守イラストは、内部の「階」の想定について、これまで一度も説明を申し上げて来ておらず、図示などもしておりません。

これはまことに私の手落ちであったと反省しつつ、早速、豊臣大坂城天守の内部についての当サイトの想定をご覧いただきたく思うのです。



それは「8階」建ての構造に「中5階」が加わり「橋敷以上九ツ」になっていたのでは…

(青文字=『輝元公上洛日記』より / 赤文字「御蔵」=『大友家文書録』より)



まず、フロイス『日本史』に最上階が「八階」と書かれたのは、コエリョやフロイスらが一番下の土間の階から入って順に上まで登ったからでしょうし、この時、秀吉は別のルート(おそらくは付壇・付櫓の方)から先回りして入っていて、それが『日本史』に「関白は、この門の鍵を所持している、一人の修道女のような剃髪した比丘尼(ビクニン)だけを伴って、すでに上から降りて来ていた」と伝えられたのだろうと想像しています。


そして毛利輝元の訪問などを記した『輝元公上洛日記』には、各階の名称について「金乃間、銀の間、銭の間、御宝物の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重也」とあり、筆者の平佐就言が「以上七重也」と書きながら、階の名称は六つしか挙げていない、ということは、その他に名称の無い階(穴倉など)があったことを証言しているのでしょう。

したがって上記のイラストのごとく、天守台上の1階(3階)が「御武具の間」にあたり、その名の由来としては、内部に付櫓から雁行する形で対面所が設けられ、例えばその最奥に記念の甲冑(秀吉自身の、もしくは旧主・織田信長の??)を飾ったことで「御武具の間」という名称がついたのでは… などと想像しております。


で、そこから上は『輝元公上洛日記』のとおりの各階が続いたとしますと、ちょうど「御小袖の間」(4階)が「御上(おうえ)の階」(天守台上の2階)にあたることになりまして、まさにここに正室・北政所らの部屋があって、旧主・織田信長の天主の構想が反映されていたのではないでしょうか。

しかもこの階は、全部で「八階」と記したフロイスが「四階で茶を飲んだ」とも書いていますから、ここがその場所であったことになり、この階より上が“財宝類を納めた塔の領域”になるだけに、極めて妥当な話だと思われます。


さらにご注目をいただきたいのは「中5階」の張り出しでありまして、前述のように全体が8階建てと思われるのに、なぜか『大友家文書録』には「橋敷以上九ツ」=土台の上に階段が九つもあった(→10階建て!!?)と記録されていて、それはこの「中5階」のごとき特殊な構造が、間に組み込まれていたからではないか… と想定しているわけです。




かくして、壮大で、なおかつ新種の「立体的御殿」豊臣大坂城天守は、旧主・信長の構想を受け継ぎつつも、上層階の塔の領域を「宝物蔵」とする、ある意味で実に秀吉らしい発想を具現化した天守であったと思うのです。




<2系統の階段群は、天守台上の「何階」まで達していたか?

 という観点で、他の各城の天守を区分すると…>





さて、以上のような豊臣大坂城天守において、2系統以上の階段群はどの階まで達していたのか? と考えますと、例えばこれに近いはずの彦根城天守・広島城天守・姫路城天守など、付櫓などで「二つの登閣路」があった天守でも、それらのほとんどは天守台上の1階で一つに合流してしまい、それより上に2系統の階段群が伸びる形にはなっておりません。

つまり2系統の階段群というのは、確認できる天守の中では、けっこう珍しい部類に含まれていて、それだけ「立体的御殿」のなごりは希少な現象であったのでしょうが、しかしそれらには“ある共通点”がしっかりと残されているようです。すなわち…


■2系統の階段群が天守台上の「3階」まであった例

名古屋城大天守


徳川再建の大坂城天守(願生寺蔵「大坂御天守指図」部分より)

ご覧の写真で右端に写っている「三重目」を拡大して見れば…



■2系統の階段群が天守台上の「4階」まであった例

松本城天守(天守四階平面図/『国宝松本城』より)


ご覧の名古屋城大天守、徳川再建の大坂城天守、松本城天守の三つは、階段の付け方が各々バラバラのようでいて、実はこんな共通点があります。




このように、いずれの天守も、天守台上の1階から、いちばん上から数えて三重目の階まで、2系統の階段群があった形になります。

で、この「上から数えて三重目の階まで」という共通点について申しますと、さらに当サイトの我田引水になってしまって恐縮ですが、かの安土城天主!! もまた、そうであったと申し上げざるをえないところなのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』より 五重目 小家ノ段

それはご覧の『天守指図』そのままの全体図においても…

また当サイト独自の「新解釈『天守指図』復元案」でも…


したがって、この件に関して、豊臣秀吉の天守もやはり、旧主・織田信長の構想をしっかりと受け継いでいたはず… つまり「上から数えて三重目の階まで」というのが、今回の話題の結論になるのではないかと思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年03月16日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣大坂城天守も階段群が2系統か →ならば建物の造りは「立体的御殿」のうち??






豊臣大坂城天守も階段群が2系統か →ならば建物の造りは「立体的御殿」のうち??


(『完訳フロイス日本史』「副管区長が大坂に関白を訪れた時の(関白の)歓待と恩恵について」より)

その後関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔(トルレ)の門と窓を急ぎ開くように命じた。彼自ら城内を案内することになっていたが…
(中略)
そして途中では閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いて行った。このようにして我らを第八階まで伴った。
(中略)
この最上階において関白はおもむろに着座し、我ら一同は彼の周りに座を占めた。その場所は狭く、我らの一行は三十名を越えるほど多かったので、幾人かは関白の衣服に触れたほどであった。

この席において関白は大いに心をこめて決意を述べ、下(しも)の九ヵ国を豊後、薩摩、山口の諸国主に分配するつもりだが…
(中略)こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。


このところ話題の豊臣大坂城天守は、その内部の様子が断片的にしか伝わっておらず、おそらく実際は「宝物蔵」として使ったらしい、という風に(上記のフロイス日本史など)様々な記録をもとに考えられ、当ブログもそのように紹介してまいりましたが、実は若干、そう言い切っていいのか… と思える節もあります。

と申しますのは、上記の引用文には「種々の別の階段から降り始めた」とありまして、天守の最上階から下の階には、複数の別々の階段を使って降りられる構造であった、と書かれたわけで、この天守も、内部の各階が2系統以上の階段群で接続されていた可能性があるからです。



2系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか…



【模式図】立体的御殿は階段にも「表」と「奥」があったのでは?



これらの図は過去のブログ記事で何度もご覧いただいたものですが、御殿建築が縦に重なった「立体的御殿(=天守の原初的なスタイル)」を当時の人々が不都合なく使うためには、ご覧のように、階段の位置が非常に重要なポイントであったはずでしょう。

そこで例えば「表の階段」「奥の階段」という風に、2系統の階段群で上下の階を接続すれば、かなり便利に使えたのかもしれませんし、現に、名古屋城大天守などは手前と奥に2系統の階段群が設けてあって、それらは「立体的御殿」のなごりとも見て取れます。

ということで、かの豊臣大坂城天守にも2系統以上の階段群があったとなれば、「実際上は宝物蔵」という解釈とは別に、建物の構造としては、やはり「立体的御殿」の影響を濃厚に受け継いだ建築物であった、という風にも思えてならないのです。




さらに申しますと、冒頭の引用文から、最上階は「畳敷きの座敷」であったことが明らかでしょうし、その点でも「立体的御殿」が感じられ、いっそう大胆なことを申せば、その引用文に続くくだりが、さらなる大問題に発展しそうなのです。!!


(冒頭の引用文の続き)

こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。

そして我らは同所から今まで見たものよりもさらに秘された幾つかの部屋のところで立ち止りながら進んだところ、関白はさらに自分が平素夫人と寝る場所を我らに見せた。
彼は納戸になっている室の戸を自ら開き、その中でおもむろに坐ったので、我らも彼とともに着座した。

その際、関白が彼女たちに、彼ら伴天連らを見たければ出てくるがよいと許可を与えたところ、かなりの人数の女たちが姿を現した。

(中略)
こうした談話と歓待で二時間以上が経過した後に、関白は我らに別れを告げた。

彼は一、二の婦人に平素は開けない秘密の門の鍵を奥から持って来るように命じ、そこから出るのがもっとも近道だからと言った。

そして彼は先頭に立って降りて行き、我らが先に通り、関白と我らが互いに会見した場所まで来ると立ち止り、非常に嬉しそうな面持でふたたび我らに別れを告げた。



さあ、ご覧の引用文が描いた「場所」は、いったいどこなのでしょう??

従来の解釈では、関白(豊臣秀吉)と宣教師らは、天守を出て、天守のすぐ足元の「御納戸御殿」に入り、そこで「夫人と寝る場所」を拝見したり、「かなりの人数の女たち」を目撃したのだと言われて来ましたが、本当にそうでしょうか。

ここで私なんぞが申し上げてみたいのは、織田信長の岐阜城においては、山麓御殿の四階建て楼閣の二階は、みごとな装飾の「婦人部屋」「王妃の休憩室」であったという宣教師の報告でありまして、すなわち「立体的御殿」の二階は「御上(おうえ)の階」=正室の部屋とする、信長の構想があったように思われる点です。




こうした仮説の延長線上で話を進めますと、ひょっとすると、秀吉の豊臣大坂城天守も二階は「御上(おうえ)の階」であったのかもしれず、そのため、先ほどの引用文が描写した「場所」も実は天守の二階!!!であったのかもしれない、という可能性が生じてまいります。

そして引用文に「彼は先頭に立って降りて行き」とあるように、秀吉らは問題の場所から“さらに降りて行った”ことが示されていますし、これらの点を総合して勘案しますと、豊臣大坂城天守の内部は“素っ気ない宝物蔵”と言うよりも、構造的に見れば、れっきとした「立体的御殿」の造りが施された格式ある空間であった、と考えてしかるべきではないでしょうか。


そう仮定して冒頭の引用文を見直しますと、「主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔(トルレ)の…」という妙な表現のしかたも、フロイスらの「原初的な望楼型天守」に対する深い洞察を示しているのかもしれない… とさえ思えて来るのです。





→ 豊臣大坂城天守も階によって、使い方に差があった? →「立体的御殿」の範疇(はんちゅう)か





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年03月01日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!幕末、幻の大阪籠城戦での「大狭間筒vsエンフィールド銃」の勝負を夢想すると…






幕末、幻の大阪籠城戦での「大狭間筒vsエンフィールド銃」の勝負を夢想すると…


真田丸との関連で話題の 大狭間筒(おおはざまづつ)

(NHK「歴史秘話ヒストリア これが真田丸だ」より)

大坂城というのは本当に話題の尽きない城ですが、前回、アジアの要塞寺院に話が及んだ中で「(仏教の)本尊とそれを守護する護法神(十二神将など)といった考え方が影響したのでは…」等と申し上げ、それはアジアの仏教国の「城づくり」にも影響したかのように感じる旨を申し上げました。

これは私のトラウマにも原因があるようで、どうして日本の城は中国やヨーロッパのような城壁都市として発展しなかったのか、と城好きでない人々にパパッと呆気なく言われてしまうことに対して、何か、綺麗に言い返せる論理(ロジック)は無いものか… と常に思い続けているからかもしれません。

ご承知のとおり、日本においても、領民を収容する機能をそなえた城はいくつも事例があったわけですが、それをいちいち城好きでない人々に数え上げるのは徒労になりそうですし、それよりは「ご本尊とそれを守護する十二神将」といったおなじみの仏教スタイルが、日本の城づくりに影響したからだ、と言い切れたなら、どんなに楽か、という気分になります。

… … すなわち、日本の封建社会における武家の「城づくり」の究極の目的は、やはり「主君の命を守ること」であり、主君のまわりに幾重にも並べた塁壁や櫓や堀は、言わばご本尊を守る十二神将なのであって、だから(その究極の目的とはやや異質な)城壁都市を築くに至った事例は、あくまでも二の次、三の次の補完的な作業だったのだ、と。


江戸末期の古地図にみる大阪城(「改正 摂津大坂図」より)


そういう意味で申しますと、大坂の陣の後に徳川が再築した大阪城は、守るべき「主君」がずっと遠くの関東におわす、という複雑な立場のまま、230年以上、大阪の地で孤塁を守って来ました。

ところが幕末の動乱期、長州征伐に向かう徳川十四代将軍・家茂が入城し、また最後の将軍・徳川慶喜も薩摩打倒のために入城すると、いちやく大阪城は守るべき「主君」を得た形になり、そんな中で勃発した鳥羽伏見の戦い(慶応4年・明治元年/1868年正月)では、「主君」慶喜と幕府陸軍・会津及び桑名藩兵らによる「大阪籠城戦」が必至と思える情勢になりました。

で、ここで一つ確認すべきは、鳥羽伏見の戦いで、薩長土芸の軍勢が三分の一の兵力で幕府軍(1万5000人)に勝ったのは“近代的な兵器の差だ”という世間一般の認識は、まったくの誤り!!らしい、という一件でしょう。


映画「ゲティスバーグの戦い/南北戦争運命の三日間」より

アメリカの南北両軍が大量に使用した エンフィールド1853マスケット銃



ご覧の画像のエンフィールド銃は、ミニェー式の銃弾を先込めする「ミニェー銃」の一種で、英国のエンフィールド造兵廠が大量生産したモデルですが、実は、幕府軍・薩長軍ともに鳥羽伏見で使用した小銃は、大半が「これ」そのもの(→アメリカから輸入した中古品の銃!!)であったというから、驚きです。


大砲についても、両軍が使用したのは同じ「四斤砲」であり、結局、そういう中で薩長軍が勝利したのは、作戦指揮の能力の差と、意識の差(この日の戦闘を全く想定していなかった幕府軍と、この日に何がなんでも戦端を開きたかった薩摩軍との意識の差)だというのが、『会津戊辰戦史』や野田武彦著『鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間』が明らかにした実態だと言われています。


ちなみに上記画像のエンフィールド銃は、クリミア戦争で実力が証明されるとアメリカに90万丁も輸出されたそうですが、南北戦争が終わるとそれらは一斉に払い下げになり、武器商人の手で中国や日本に転売され、これを幕府陸軍が5万丁も買い入れ、倒幕派の諸藩も正式銃として競って買い求めました。

ということは、かつて「関ヶ原合戦」では東西両軍で約6万丁の国産火縄銃が使われて徳川の天下が到来し、当時の日本は世界最大の鉄砲保有国(50万丁とも)などと言って来たわけですが、皮肉なことに、その徳川の世の終わりを決めた第二の天下分け目の戦では、こともあろうに、黒船を送ってきた国アメリカが(南北戦争で)使った中古の輸入銃で、薩長(官軍)も幕府軍も、互いに撃ち合っていたのだという、ちょっと笑うに笑えない現実があるようなのです。


西洋式軍装に身を包んだ幕府軍歩兵(ウィキペディアより)

当時は両軍ともに、真っ黒い軍服を着た兵士達が、同じ銃砲を撃ち合っていた…




これは近年の中東情勢を見ても、内乱に発展しそうな国の双方の勢力に、世界の第一線で使われたばかり… といったふれ込みで新兵器を渡せば、どうなるかは火を見るより明らかでしょう。

幕末の日本もまるで同じことで、同国人にしか解らない難しい理屈での悶着が、産業革命直後のグローバルな兵器産業にとっては格好のターゲットになっていて、しかしそうした中で我が国の「明治維新」は果たされたのだと思うと、結果的には、我が国はどこか、絶妙のコントロールが効いていたようにも感じられてなりません。

そんな風に思う時、重大なターニングポイントとして頭に浮かぶのは、やはり最後の将軍・慶喜が断念した「幻の大阪籠城戦」ではなかったでしょうか。…


有名な「浪華城全図」にみる江戸後期の大阪城の姿


ご覧の絵図は、中央の天守が落雷で焼失したままですが、本丸と二ノ丸に櫓26基が健在であった姿を伝えていて、前出の本と同じ野田武彦著『慶喜のカリスマ』には、鳥羽伏見の緒戦に負けた時点での大阪城内が以下のように描写されています。


(野田武彦『慶喜のカリスマ』2013年より)

将士たちは大坂籠城を覚悟し、慶喜が出馬して陣頭指揮すれば頽勢(たいせい)を盛り返せると信じていた。
事実、軍配書を見ても、大坂城警備には、
 大久保能登守(陸軍奉行並)の奥詰銃隊八小隊
 戸田肥後守(同)の奥詰銃隊八小隊
 杉浦八郎五郎(銃隊頭並)の四小隊
 三浦新十郎(撒兵頭並)の撒兵四小隊
がそっくり温存されていた。

城廻り十四ヵ所の関門には、
 小林端一(歩兵頭並)の歩兵一大隊
も前線に出ずに残されていた。

さらに大坂蔵屋敷を警備する、
 天野加賀守(「花陰」、撒兵頭)・塙健次郎(撒兵頭並)の率いる撒兵九小隊
 吉田直次郎(大砲師範役)の砲兵二門
 会津兵四百人
がいた。
要するに、遊撃隊・見廻組といった腕に覚えのある旗本剣槍軍団のほかに、銃隊化されていた旗本の諸部隊はこれまで戦闘に投入されていなかった。

ただ、実際に大坂城に配置されていた諸部隊は全部が全部 戦闘意欲に満ちていたわけではなかった。



という風に籠城戦は必至と見られたわけですが、そもそもこの戦いの1ヶ月前(慶応3年末)に、薩摩の大久保利通・西郷隆盛と岩倉具視らによる「王政復古」のクーデターが起きたことで、徳川慶喜は前述の幕府陸軍と会津・桑名の藩兵を率いて大阪城に入城したのであり、当時、慶喜の大阪入城は、戦略的にかなりの圧力をクーデターの新政府側に与えたようです。


それは例えば大久保の手紙に「(慶喜の)下坂の義、大いに策略これ有り、華城(=大阪城)に根拠し、親藩・譜代を語らひ、持重の策をもって五藩を難問し、薩を孤立の勢になし、隠に朝廷を謀り挽回せんとの密計に候由、異説紛々たり」(大久保利通文書)と書いてあるとおり、もしそのまま慶喜が大阪城にどっかりと腰をすえ、畿内で次々と政治的策謀をめぐらし始めたなら、大久保と西郷は打つ手無しの窮地に追い込まれたはずだと言います。

それが、うっかり、幕府軍の先手の兵を京都に入れようと京都方面へ移動させたことが、大久保・西郷に千載一遇のチャンスを与えてしまい、鳥羽伏見の戦いになったのだというのですから、まるで三国志の陸遜(りくそん)の「先に動いた方が負け」を想わせる展開です。


現代の城郭ファンとしては、慶喜はもっと「大阪城の底力」を信じるべきであったと思うばかりですが、仮に百歩ゆずって、鳥羽伏見の緒戦に負け、大久保が岩倉と謀って「錦旗」を戦場に掲げたとしても、旧幕府軍としては、敗走の兵を大阪城に収容しつつ大阪籠城戦に持ち込めば、なおも慶喜には勝機があったはずだと思えてなりません。

後の会津戦争や西南戦争での戦闘の様子を見れば、おそらく薩長軍は当時、大阪城ほどの堅城を取り囲んだまま、半年や一年も攻城戦を続けられるような力量は無かったでしょうし、大阪湾には幕府の軍艦もいたわけですから、新政府側になだれを打った諸藩の動きもやがては止まり、幕末の大阪において、日本の「城」が軍事的な遺産として十分に機能してしまう姿を、鮮やかに天下に見せつけたのではなかったでしょうか。…





と、ここまでアレコレと申し上げて来たのは、今回のタイトルの「大狭間筒vsエンフィールド銃」という対戦の可能性はあったのか、探ってみたいという興味から始まったことでして、ひょっとすると幕末の大阪城でも、真田丸の戦いの再現が成ったのではあるまいか?…といった興味本位の仮説によるものです。

奇(く)しくも、話題の大狭間筒とエンフィールド銃は、両方とも先込め式の銃ですし、ともに有効射程は300mほどと言われ、命中率はエンフィールド銃の方が格段に上回るようですが、六匁玉(径16ミリ)等々の大きな鉛玉(=変形してつぶれる!)を発射する狭間筒の殺傷力はすさまじいもので、籠城戦・攻城戦における両者の実力は、優劣つけ難かったのではないか… と。


ところが、その当時、大阪城内にはどれほどの「狭間筒」「大狭間筒」が備蓄してあったのか、という肝心要の史料がいまだに把握できておりませんで、今回の記事はここで企画倒れにならざるをえません。

この他にも、幕府陸軍歩兵隊は果たして籠城戦が出来たのか? とか、砲撃戦での大阪という地形(会津若松城の小田山のごとき攻城側に有利な高地は無く、また幸いにも目標になる天守が無いこと!)がどう影響したのか? 分からない点も色々とあって、このテーマは私の宿題として、もう少し時間をかけてから再挑戦してみたいと思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年02月10日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!幻の石山本願寺城から ブータンの要塞寺院「ゾン」へ






幻の石山本願寺城から ブータンの要塞寺院「ゾン」へ


前回まで、当サイトの仮説による豊臣大坂城の移り変わりをご覧いただきましたが、私自身の興味として「じゃあ、この以前はどうなのか?」という関心もあり、今回は逆に時系列をさかのぼって、幻の石山本願寺城も同じようにイラスト化できるのか、さぐってみたいと思い立ちました。

石山本願寺の復元と言えば、城郭の分野に限らぬ諸先生方によって長い間、考察が重ねられて来た結果、現在では、おおむね後の豊臣大坂城と同じ位置に築かれたものと言われています。


大坂本願寺 寺内町 想像復原模型(真宗大谷派 難波別院蔵)→東側から眺めた状態

または、浄土真宗親鸞会のHPからの引用図「石山本願寺(想像図)」では…


ご覧の二つめの「想像図」は北側から眺めた状態らしく、となると御影堂が北向きに建つ点が特徴的ですが、前者の模型に比べますと、ずっと豊臣大坂城に似た雰囲気をただよわせていて興味津々です。

このような復元の基本史料になったのは、織田信長による包囲の陣形を描いた「石山合戦図」でしょうが、この「石山合戦図」というのは、淀川(大川)と四天王寺との距離感から考えますと、絵の真ん中に描かれた(水堀に囲まれた)中心部分がすなわち、後の豊臣大坂城の「惣構え」と同じ範囲である、と想定していいはずでしょう。

そこで…

石山合戦図(写)/和歌山市立博物館蔵に描かれた石山本願寺城の中心部分

この上に、当ブログで描いた豊臣大坂城の図をダブらせてみますと…(※図は左が北)

で、これをよくよく見れば…


ご覧のとおり、この和歌山市立博物館蔵の「石山合戦図」の場合、図中の「石山御堂」はサイズも位置も、後の大坂城本丸にぴったりと合致するようですし、その他の地形の起伏についても、豊臣大坂城と合致する箇所がいくつもあるようで、意外な発見があります。

こうなりますと、当サイトでずっと「豊臣大坂城の築城は、基本的な縄張りは石山本願寺城をそのまま踏襲したのではないか」と申し上げて来たのが、さらに勇気づけられるような気もしてまいります。




であるなら、以前のブログ記事()でも申し上げたごとく、石山本願寺城はたいへんに富貴な教団の本拠地であり、例えば天文10年8月の「暴風」で「寺中之櫓悉吹倒之、只五相残」(『証如上人日記』)とあるように、櫓がことごとく倒れた時に、残ったのは“たった五基”だというのですから、完全な状態ではひょっとすると、何十基!?もの櫓を構えた頑強な城であったのかもしれません。

前出の「石山合戦図」を見ても建物は四天王寺などしか描写されておらず、櫓の数や位置などはまったく分かりませんので、そこで今回のイラストは、そのあたりの「櫓の数のシミュレーション」だけに特化して描いてみることにします。

(※中心部の諸堂の配置は松岡利郎先生の復元図を参照しました)


では、ご覧の豊臣秀吉による第一期築城から「時」を5年ほどさかのぼって…



【シミュレーション】櫓30基が秀吉築城時と同じ範囲に建っていた場合…



天正8年1580年、織田信長との11年におよぶ闘いを経て、

顕如(けんにょ)らが退去する直前の石山本願寺城(仮説)



あくまでも櫓の数のシミュレーションでして、こうではなくて、櫓は「惣構え」の周縁に建ち並んでいたという考え方もありそうですが、先ほどの強風で櫓が倒れたとの記録をもとに、イラストの櫓はかなり背の高い大櫓も含めて描きましたし、いずれにしても、これほどの鉄壁の防衛力が頑強な「王城楽土」を実現したのではなかったでしょうか。

ですから教団の退去の際に顕如の子・教如らが自ら火を放ったとも伝わるのは、やはり「王城楽土」がそうとうに完璧であっただけに、それを信長にそのまま獲られることを恐れたからだと思えて来ます。…

本願寺第十一世・顕如(1543年−1592年)





<「世界一幸せな国」ブータンを統治する要塞寺院「ゾン」とは…>




さて、ここからは話の方向をちょっと変えまして、当ブログでは以前、ヒマラヤ山脈(インド北部のヒマーチャル地方)の城や山岳寺院には、下図のごとき「角塔」という、上部が張り出した塔が付設された例が多く存在していて、それらが日本の城の「唐造り」にそっくりだという話を申し上げました。

以前に申し上げた、チャイニのヨーギニー寺院の「角塔」があるのは…


そして今回の記事では、同じヒマラヤ山脈の国「ブータン」に是非ともご注目をいただきたいのです。

――ブータンと言えば、若きワンチュク国王とペマ王妃の来日でも知られた国ですが、国民総幸福量という考え方で「世界一幸せな国」を目指しているにも関わらず、実際には国内各地に要塞寺院「ゾン」Dzongというものがあり、それらが行政・宗教・社会の安定にものすごく寄与して来たそうです。

その要塞寺院「ゾン」が築かれ始めたのは、なんと、顕如が生きた時代とほぼ同じであったそうで、正直申しまして、ここからの記事は私が一箇所も行ったことがない所ばかりで、夢見るような記事になりそうですが、まずは興味がそそられる一方の要塞寺院の姿をご覧下さい。


ガサ・ゾン(Gasa dzong)ガサ県 17世紀創建/2008年の火災後に修築

パロ・リンプン(宝石の山)・ゾン(Paro rinpung dzong)パロ県 1644年再建

ルンツェ・ゾン(Lhuentse dzong)ルンツェ県 1654年築造

トンサ・ゾン(Trongsa dzong)トンサ県 1647年創建/1999年改装

トンサ・ゾンの内部

ハ・ゾン(Haa dzong)ハ県 1968年再建

「ゾン」の推進者ガワン・ナムゲルが創建したシムトカ・ゾン(Simtokha dzong)ティンプー県

17世紀にブータンを統一したガワン・ナムゲルの像


「ゾン」は地域の仏教の拠点と行政機関を兼ねた要塞ですが、ご覧のガワン・ナムゲル(1594年−1651年)は、チベット仏教のドゥク派の後継者争いに(チベット中央政府の介入で)やぶれたのち、当時はチベットの一部であったブータンに逃れ、そこで初代シャブドゥン(政教両面の統治者)としてブータンを統一し、独自の政権を樹立しました。

その過程でガワン・ナムゲルは、チベットやモンゴルの軍勢を撃退するため、1630年にシムトカで、1638年にワンデュ・ポダンで、1641年にタシチョで、それぞれ要塞寺院「ゾン」を建設し、それがブータン国内の各地に(=まるで日本の県庁のごとく、徳川幕藩体制下の諸大名の居城のごとくに!)ゾンが分布している、という状態の始まりになったそうです。

ゾンは元来、チベット発祥の建築ではあるもの、ブータンでの使われ方は独特であり、それを推進したガワン・ナムゲルという人は、例えば信長と争って石山本願寺城を退去した顕如のようでいて、ブータンでは信長・秀吉・家康の三人の役回りを一人で演じきった人のようでもあります。


ガワン・ナムゲルが築いた古都、プナカ・ゾン(Punakha dzong)プナカ県


ご覧のプナカは1637年から1907年までブータンの首都であり、このようにゾンは川沿いの低地にも築かれ、ここは2つの川、ポ・チュとモ・チュに挟まれた場所であり、守りやすい地の利を選んだそうです。

そして現在、仏教界の総本山でかつ王宮、国会議事堂や行政機関もある

タシチョ・ゾン(Tashichho dzong)ティンプー県 1907年創建/1968年再建


(※以上のゾンの写真はすべてウィキペディアより)


かくして「世界一幸せな国」ブータンには、国内統治のメカニズムとして要塞寺院が数多く存在しているわけで、平和や安定と防衛的な城(=拠点城郭)とは両立するものだという歴史的な証拠が、ここにあるように感じるのです。




<ブータンの「ゾン」の源流を、チベット自治区などに探せば…>




中国がダライ・ラマ政権を追放して接収した「ポタラ宮」


これを見れば、有名なポタラ宮もまた「ゾン」と同じルーツをもつ建造物なのだということが想像できるでしょう。

それにしても、ご覧の宮殿周辺の開発ぶりは言語道断と思えてなりませんが、さらにチベット自治区では、かのチベット動乱での人民解放軍との戦闘で破壊されたゾンも多いようで、シガツェ・ゾンなどはもう元来の姿が分からず、近年、中国政府は「国家歴史文化名城」に指定しつつポタラ宮そっくりに再建(ねつ造)したそうです。

しかし、まだこんな例もあり…


ギャンツェ・ゾン(Gyantse dzong)14世紀創建


! あああ… これって、チベットに現存する織田ノブナガの安土城か、岐阜城か… と頭がクラクラするような、死ぬまでに一度は行ってみたい、と思うばかりの要塞寺院ですが、ここもすでに国家歴史文化名城に指定され、中国政府の開発が進行中と言われます。




ご覧のとおり、ギャンツェ・ゾンは左右の峰に登り石垣か、連続する櫓のような構造が伸びていて、その先はふもとの町にまで延びているようです。

で、ここにギャンツェ・ゾンの【google映像検索ページ】をリンクしておきましたので、これをご覧になれば、その複雑な姿もある程度、理解できそうですし、驚くべきは、写真のふもとの町は「根城」のごとくに塁壁で囲い込まれ、山上のゾンと一体化して防衛されている点でしょう。



で、さらに隣国ネパールにはこんなゾンも… 「シェガー・ゾン」!


山頂から中腹の下あたりまで囲い込んで要塞化したシェガー・ゾン Shegar dzong は、まるで倭城のいくつかの城や松山城のようでありながら、決して地上との連絡のためにそれをした訳ではなさそうで、やはり主眼は <山上での立て籠もり> にあるところが実に興味深いゾンです。

中腹下の集落(=修道院)から地上までは小さな道がつけられていて、画面中央下の別の集落につながっているようで、かつては約800人の僧侶が修道院に入って修業をしていたそうです。



では最後にもう一度、前出のインド・ヒマーチャル地方にもどってみれば、

こんな守り方もあったか と目からウロコの修道院「キ・ゴンパ」Ki Gompa(11世紀創建)




以上のごとく、ヒマラヤ山脈の国々の要塞寺院をネット上で見て行きますと、さながら「王城楽土の作り方」を見ているような気分になります。

で、今回ご覧いただいた要塞寺院はすべて、インド発祥の「仏教」寺院でありまして、そこには仏教と要塞寺院のあり方に何か関連性が感じられ、例えて言うなら、本尊とそれを守護する護法神(十二神将など)といった考え方が影響して来たのではなかったでしょうか。

さらに思い切って申し上げるなら、そういった仏教のならわしと、仏教国の「城づくり」の間にも何かつながりがあるように思えて来ますし、それがアジアの仏教国において(儒教の国には見られない)ある種の社会的「安定」をもたらしたようにも感じるのですが、どうなのでしょう。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年01月26日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・時系列のイラストで追う豊臣大坂城 …二代目の秀頼が増築した千畳敷「二階」は広大無縁な真っ暗闇か






続・時系列のイラストで追う豊臣大坂城 …


千利休の木像


前回に続いて、豊臣大坂城が豊臣時代の中でも激変をくり返したことを、当サイトの仮説に沿ったイラストでご覧いただきますが、今回もまた、話題の中心は「千畳敷」――と言っても今度のは、後継者の秀頼が、秀吉七回忌の慶長9年にわざわざ二階建てに改めたという、新しい千畳敷が中心になります。

この時、秀頼はなぜ「二階」を増築したのか? という動機については、これまで議論になった試しはほとんど無いようで、単純な受け止めとしては、何か、見晴らしのよい眺望を得るために「二階」を増築したのだろうか… といった程度に思われがちですが、私なんぞはむしろ真逆の!イメージを抱いております。

と申しますのは、例えば冒頭写真の「千利休の木像」が置かれたのは、有名な大徳寺三門の二階でしたが、この二階はそもそも利休自身が寺に寄進して増築した部分です。



(写真:ウィキペディアより)


普段は二階の扉がすべて閉じてあるため、内部に日の光がさすことも無く、真っ暗闇のなかに釈迦如来像などとともに問題の利休の木像が(現在のは幕末の復刻ですが)置かれております。

ご承知のように、利休が活躍していた頃の初代の木像は、利休の寄進に報いるために寺側が安置したものでしたが、これが利休切腹の一因になったとも言われ、このように、二階を増築、と言えば明るいイメージばかりかというと、まるで逆の印象や意味を抱えた空間もあったわけで、今回はそんな時代の豊臣大坂城に話を進めてみたいと思うのです。…



【第1図】当サイトの2010年度リポートより

築城当初(輪郭式の二ノ丸の造成前)を推定した略式イラスト


【第2図】慶長元年(1596年)慶長伏見地震の直前の最盛期

【第3図】慶長伏見地震の被害状況の推定

【第4図】慶長3年、再建計画としての中井家蔵『本丸図』の姿へ

【第5図】慶長5年、徳川家康の上杉討伐軍の出陣と同時に「極楽橋」を移築

豊臣秀頼のいる本丸の有名無実化がいっそう進む……



さて、当ブログでこのところずっと話題にして来た「極楽橋」が、京都の豊国社(豊国明神)に移築されたのは、秋に関ヶ原合戦が起きる慶長5年の5月であり、家康自身が大坂城西ノ丸を出陣したのとほぼ同時の出来事でした。


(『義演准后日記』慶長五年五月十二日条より)

豊国明神の鳥居の西に 廿間ばかりの二階門建立す 大坂極楽橋を引かれおわんぬ


――ということは、移築の具体的な名目が気になりますが、いずれにしても、これは前々回に申し上げた極楽橋の「意味」から考えますと、朝廷と豊臣家との関係を早く絶ちたいと考えていた(に違いない)家康による“工作の一環”と見えてなりません。

そのようにして、豊臣秀頼のいる本丸を有名無実化する作業は、すでに前年の慶長4年に建造された「西ノ丸天守」のねらいと連動したもの、と思わざるをえないからです。


ちなみに私なんぞは、この時、豊臣大坂城には もはや西ノ丸天守しか天守は無かったとにらんでおりまして、したがって、かつて盛んに書かれた「大坂城に並び立った二つの天守」という解釈は、どうも納得できない、という立場にあります。

それは四重天守との関わりが深かった家康であっても、この場合に限っては、本丸天守に対して明らかに見劣りする“小ぶりな天守”に甘んじては政治的な効果や意味がありませんし、どういう形であれ、本丸を凌駕(りょうが)する形にならなければ、「御本丸のごとく」と石田三成に糾弾されるはずがないだろう!… とも思えて来るからです。



【第6図】慶長9年、秀頼時代の豊臣大坂城が完成して輝きをとりもどす




かくして政治的な軟禁状態に置かれた秀頼(当時12歳)でしたが、慶長8年の千姫輿入れを契機として、ご覧の秀頼再建天守(当サイト仮説)が完成し、豊臣家はようやく新たな城の姿を整えたのではなかったでしょうか?

話題の「極楽橋」については、京都の豊国社に移築されたあとの措置として、すかさず本丸西側の木橋を利用して新たな極楽橋を設けたものと思われますし、その外観は、大坂夏の陣図屏風にあるとおりの「黒塗り」の珍しい色の橋であったのかもしれません。


大坂夏の陣図屏風に描かれた黒い「極楽橋」(左隻の右端部分)



そして冒頭から申し上げたとおり、上記【第6図】の慶長9年(1604年)には、千畳敷が「二階建て」に改められたという記録(義演准后日記)があります。

その増築の方法としては、おそらくは冒頭の大徳寺三門などと同様に、表御殿の対面所を、一階とほぼ同じ<規模と棟方向>のまま二階を増築したのが、新「千畳敷」であろうと想定しています。

※当サイトでは、大坂夏の陣図屏風の天守や千畳敷は「南から眺めた描写」である(→リポートの前説)と申し上げて来ておりまして、そのため千畳敷の屋根は東西棟となるからです。


そして何よりも、この年が秀吉の七回忌であり、下記の絵でも知られた「豊国祭」(8月に8日間にわたって盛大に行われた豊国神社の臨時大祭)の年であったことが、二階の増築(=これも8月の完成!)と決して無縁ではないように思えてならないのです。


豊国祭礼図屏風より(部分)


この時、祭礼に集まった民衆の心には「いよいよ家康が太閤の遺言を守って天下を秀頼に譲るのではないか」という気分が満ち満ちていたようですし、そうした心理が大坂城内とも共有されていたのではなかったでしょうか。

ならば何故「二階」だったのか? という発想の出どころを考えたとき、私なんぞがまず連想するのは、かの安土城「ハ見寺」の二階です。



鳥取環境大学紀要「仏を超えた信長 −安土城ハ見寺本堂の復元−」からの引用図



ご覧の図は、織田信長の安土城「ハ見寺」本堂の復元のために、鳥取環境大学の岡垣頼和・浅川滋男両先生が、本堂の二階に安置された有名な「盆山」の位置(高さ)について考察した図です。


両先生はこの紀要のなかで「境内の立地に目を向けると、最も背の高い三重塔を本堂よりも低い隣接地に配し、「盆山」を安置する本堂の2階から見下ろせるようレイアウトしていた。以上のような伽藍内部の空間設計を通して、信長は己が「仏を超えた存在」であることを誇示しようとしたのであろう」との興味深い指摘をされていて、これが、私なんぞには秀頼・淀殿の母子による新「千畳敷」のくわだてに通ずるように思えてなりません。


……まことに勝手な空想ではありますが、秀頼と淀殿が新「千畳敷」に置こうと考えた何かが、少なくとも自らの居所の本丸御殿よりも“高い位置”に置かねばならない、という観念にとらわれたことが、二階の増築を考えた具体的な動機であったとは考えられないでしょうか。


それが果たして何か? 秀吉の木像(立像)!? か 盆山の類い!? かといった点は全く分かるはずもなく、空想のまた空想でしかありえませんが、それにしても新「千畳敷」というのは、秀頼と淀殿にとって初代の建物よりもはるかに切実な存在であり、広大無縁な「意味」をたっぷりと抱えた空間ではなかったか、と感じるのです。


豊臣秀頼像(方広寺蔵)



【第7図】慶長20年、大坂冬の陣の和議が結ばれた結果の惨状



多くの民衆を熱狂させた豊国祭から11年、ついに秀頼の大坂城が最期を迎える慶長20年、城は大久保彦佐衛門の『三河物語』にあるとおり「二之丸の土居、矢倉を崩し、石垣を堀底へ崩し入れ真っ平らに埋め」られてしまいます。

ただし、外堀を言葉どおりの「真っ平らに」埋めるほどの土木工事が、本当に可能だったのか? という疑問は残るため、上記の図は「破城」という形を取った状態として描きました。

この方が「あさましき体」と評された城の姿に近いようでもあり、結局、豊臣大坂城は秀吉の築城当初(当サイト仮説では南は千貫櫓のラインまで城郭化)よりも、ずっと防備の手薄な状態におちいったことになります。



最後に余談ながら、前出の大坂夏の陣図屏風の“黒い極楽橋”のちょうど真下には…

ご覧の、幌(母衣)を背負いつつも、いかにも高貴な緋威(ひおどし)の鎧武者は何者??


これもまた私の思い込みに過ぎないかもしれませんが、阿鼻叫喚のさまが描かれた同屏風の「左隻」を見ていて、ずーっと気になって来た鎧武者の一行が、群集のなかに描かれています。

この武者は、屏風全体で五千人にのぼる人物描写の中でも、いちばん端整な顔だちだと思うのですが、落城の直前、本丸桜門の内側で出馬の機をうかがった秀頼は、『大坂御陣覚書』に「梨子地緋威の御物具を召して」「太平楽という七尺の黒の御馬に梨子地の鞍を置きて」その時を待っていたと伝わります。

屏風絵では、鞍の色は分からないものの、伝承どおりの甲冑をまとい、鞍の下には虎皮!を敷いていて、数名の侍を連れるなど、ただの幌武者とは思えない描き方ですし、かっぷくの良さといい、年齢的にも二十三歳の秀頼として、何ら問題の無い描きぶりに見えます。

幌(母衣)や指物は脱出用の「偽装」と考えれば、むしろリアリティを感じるくらいであり、これはひょっとすると、秀頼の「生存説」を描き込んだ部分ではないのでしょうか?




一方、本丸桜門の外側には、豊臣家の金瓢の馬印のちょうど真下あたりに、上記の伝承とは明らかに異なる鎧姿の使い番らしき若武者が、さも秀頼の影武者であるかのように、それらしき位置に描かれています。

―――ということは、悲惨さばかりが強調されるこの屏風にも、実は、こんな「願望」が密かに描き込まれていたのかと、灯火のような明るさが(私なんぞは勝手に)感じられますし、そのうえ鎧武者の一行が「極楽橋」の真下に描かれたことにも、また何か、意味が込められているのではないかと思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年01月11日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!時系列のイラストで追う豊臣大坂城の姿 …最大の謎「千畳敷は地震で倒壊したのか?」を焦点に






時系列のイラストで追う豊臣大坂城の姿 …


現在も、大阪城天守閣3Fに展示中の <豊臣時代 大坂城本丸復元模型>

手前の堀に渡された屋根付きの橋が「千畳敷に付設の廊下橋」!…




ご覧の模型は、1992年に宮上茂隆先生の復元図を参考にしながら製作され、この20年以上、館内に展示されて来たものですが、この写真ですと「極楽橋」は本丸の向こう側の見えない所にあります。

そして手前に見えるのが「千畳敷に付設の廊下橋」であり、このように慶長元年1596年に造営された廊下橋は「極楽橋」ではなく、ご覧の「千畳敷に付設の廊下橋」である、とした宮上先生や櫻井成廣先生の見解にならったものと言えましょう。(作:馬場勇/建築家)


で、昨年末の当ブログ記事では、この極楽橋と 千畳敷に付設の廊下橋をめぐる混乱ぶりについて申し上げたものの、それらの <位置関係>や<時系列> が若干、解りにくいままに話を進めてしまったようで、今回はその点をおぎなうため、当サイトの仮説どおりに描き分けた豊臣大坂城の移り変わりをイラストでお目にかけようと思います。

その第1図は、これまでに何度もご覧いただいたものですが…


【第1図】当サイトの2010年度リポートより

築城当初(輪郭式の二ノ丸の造成前)を推定した略式イラスト



冒頭の復元模型に比べますと、このイラストの視点はほぼ反対側(北西)から眺めた状態であり、時期的には築城当初の天正13年(1585年)を想定したものです。

そしてこの状態から、豊臣大坂城は豊臣時代の中においても激変をくり返すことになるわけで、それを強めた第一の要因は、かの「千畳敷」が慶長元年の慶長伏見地震で完全に“倒壊”したという、おなじみの「1596年日本年報補筆」に書かれた宣教師の記録に他ならないでしょう。


この「千畳敷」が本当に倒壊したのか? という問題は、もしそうであれば、千畳敷が描かれていない! しかも「極楽橋」がただの木橋になっている!!中井家蔵『本丸図』は、いったいいつからいつまでの状況になるのか??
(→例えば冒頭の復元模型では、ほぼ『本丸図』どおりの表御殿が、築城から30年後の落城の時まで、二階の増築のみでずーっと存在し続けた!想定のようであり、ならば東西25間×南北20間とも伝わる巨大な千畳敷はいったいどこに!?…)

という未解決の大問題を含めて、いまだに合理的な解釈や定説を見い出せておりません。

ではひとまず、当サイト仮説の地震直前の本丸周辺をご覧いただきますと…


【第2図】慶長元年(1596年)慶長伏見地震の直前の最盛時

明国使節を圧倒するために千畳敷・廊下橋・大舞台が造営された



ずばぬけて巨大な「千畳敷」が、本丸の南側に造営された様子がお分かりでしょうが、このとおり、当サイトの仮説では「表御殿」はこの頃も後の山里曲輪にあったという想定ですから、巨大きわまりない「千畳敷」も、表御殿とは一切バッティングすることなく、ご覧の“通説どおりの位置”に建てられたことになります。

もちろん、そこには1596年日本年報補筆にある豪華な「付設の廊下橋」や「大舞台」もあったわけで、この一時期、「極楽橋」と「千畳敷に付設の廊下橋」は本丸の北と南にこうして並存していたはずです。

しかし間もなく…


【第3図】慶長伏見地震の甚大な被害状況の推定

千畳敷は「倒壊」、全く無事だったのは表御殿と「極楽橋」だけ?



伏見城を一撃で壊滅させた慶長伏見地震は、大坂城など畿内各地にも甚大な被害をおよぼし、その様子は1596年日本年報補筆にも詳しく記されています。



【ご参考】

(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

まず、大坂に居所を有する我らの司祭は次のように報告している。

本年(一五)九六年八月三十日夜八時に、地震が起こった。地震はしばらく続いたが何らの被害ももたらさず、ただ来るべきことを警告しただけであった。
九月四日の真夜中に、突然非常に恐ろしく、震動の激しい地震が起こったが、人々にとっては屋外に飛び出す余裕もないほどであった。

(中略)
しかも(地震)は、(太閤)がシナ使節たちを迎えようと考えていて、その荘重さと多彩なことで一同の目を集中させていた千畳敷のあの広壮ですばらしい宮殿を最初に倒壊してしまった。
(中略)
天守(閣)と呼ばれる七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭(propugnaculum)は倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復はできない。



という風に、豊臣大坂城は千畳敷が「最初に倒壊してしまった」と明記した形になっていて、ほぼ全滅の伏見城が「大坂のそれに似た千畳敷の宮殿しか残らなかった」という風に、対照的な被害を伝えた点は興味深く、そうした被害状況の把握は次の「太閤がシナ使節一行を謁見した次第」という(…若干の情報の錯誤が感じられる)くだりでも一貫しています。



(上記の同書より)

この地震によって伏見の市、とりわけ城郭(propugnaculum)は非常に震動して荒廃したので、使節一行のための住居と謁見に適当な場所が残らなかったほどである。

太閤は彼らを大坂で謁見することに決めたが、そこでは非常な震動があった唯一の(天守)閣(turris)と、山里と言われた或る屋敷と極楽橋〔または楽園の橋と言ってもよい〕と言われ一万五千黄金スクードに値する非常な黄金で輝くいとも高貴な橋を除いては、地震のため城郭(propugnaculum)内には何も残らなかった。

(中略)
他の諸建造物は千畳敷の政庁とともに倒壊したり、または何らかの害になるので国王(太閤)の命令によって倒壊させられ…



という風に書いてあり、ただお気付きのとおり、こちらの文章では「一万五千黄金スクードに値する非常な黄金で輝く」という一部分だけは、情報の錯誤で「千畳敷に付設の廊下橋」の説明文がまぎれ込んでしまった!ようであり、その点では注意が必要でしょう。

(※ただし、前回の記事で申し上げた北川央・大阪城天守閣館長は、逆に、この一部分だけをよりどころにして「極楽橋」の慶長元年造営説を説明しておられますので、皆様には是非とも1596年日本年報補筆の全文を通してお読みいただきたいところです)

そして絶対に見逃せないのが、この錯誤の部分を除けば、実は、この文章には大変に重要な情報が隠れているのかもしれない、という点が、今回の記事の一大焦点なのです。すなわち…


「唯一の(天守)閣と」「山里と言われた或る屋敷と極楽橋」

「を除いては」「何も残らなかった」


ということは、後の山里曲輪の周辺だけが被害をまぬがれたことに!!?




大変に重要な情報かも、と申し上げたいのはこの点でありまして、1596年日本年報補筆に書かれた被害状況を総合しますと、ご覧のように、城内で奇跡的に無事であったのは後の山里曲輪の周辺に限られて来ます。

ということは、この記録で「山里と言われた或る屋敷」と書かれた建物は、実際には、ここにあった「表御殿」であったのだと思い切って解釈しますと、前述の未解決の大問題(→表御殿と千畳敷との入れ替わりの関係→詳しくは後述)に対して、ある程度の、合理的な解決策が見えて来そうなのです。


1596年日本年報補筆に基づく被害状況の解釈

■千畳敷は完全に倒壊した(付設の廊下橋や大舞台も一緒に倒壊した)
■主要な建物では(後に山里曲輪となる)表御殿と極楽橋だけが残った
■天守は使用不能の危険な状態におちいった
■奥御殿はまだら状に被害が広がり、個々の建替えと修理で対処した
■櫓群も多くが建替えを余儀なくされた
■輪郭式の二ノ丸(西ノ丸御殿など)は不明


このところ話題の1596年日本年報補筆に基づけば、上記のような被害状況と思えるものの、ところが、ご承知のごとく、地震の直後に豊臣大坂城で行われた明国使節との対面(明使登城)は、その千畳敷で!!儀式が行われた、とする国内外の記録が一方にありまして、果たして本当に千畳敷は倒壊したのか? しなかったのか? という大きな矛盾を抱えた状況が、今日に至るまで続いております。


(諸葛元声『両朝平壌録』より)

正使楊方亭前に在り、副使沈惟敬金印を捧げて階下に立つ。

良や久しうして殿上黄幄
(あく)開く、一老叟杖を曳き二青衣(=小姓)を従えて内より出づ、即ち関白(太閤)なり。
侍衛呼吶し人皆竦慄
(=身がすくんでおののく)す。


明国使節と太閤秀吉との対面の様子を伝えた文章ですが、これをご覧になって、やや奇妙で、意外に感じられたのは、儀式は御殿の前庭に明国使節(正使・楊方亭と副使・沈惟敬)を立たせて、その眼前で御殿の黄色い幕があいて秀吉が姿を現す、という風に「屋外」で行われたことではありませんでしょうか。

―――黄色い幕、と言いますと、私なんぞは映画「ラストエンペラー」で幼児の頃の溥儀(ふぎ)が、太和殿の前庭に居並ぶ大勢の臣下に気づかずに、無邪気に黄色い幕で遊んでしまうシーンを連想しますが、黄色い幕とは、取りも直さず「皇帝」を意味したのでしょう。

ですから、秀吉の場合も「黄色い幕」というのは、鳥肌が立つような、ただ事ではない事態が明国使節の眼の前でくり広げられた疑いがありそうで、これは「中国式」の儀式を逆手にとって行ったものに違いない、と解説した書物もありましたが、本当にそれだけが「屋外」開催の真の理由だったのか??…


ここで、さらなる大胆仮説を申し上げてみたいのですが、この明国使節との対面儀式というのは、実際には、奇跡的に無事であった「表御殿」の玄関前の白洲!!か、その近くの渡り廊下の前の「勢溜り」において、それがあたかも「中国式」であるかのような体を装いつつ、場合によっては眼前の建物が「千畳敷である」とさえ言い放って、挙行したのではなかったか… と邪推するのですが、いかがでしょう。




……これには異論もございましょうが、様々な条件をかいくぐりながら、何とか物理的に成り立ちうる、矛盾の解決策の一つと思われますし、また上記のようにして、「表御殿」が全く無事であったと解釈しうる“当サイトならでは”の解決策であることを、重ねて強調しておきたいと思うのです。



【第4図】慶長3年、再建計画としての中井家蔵『本丸図』の姿へ



さて、ここに至って、ようやく中井家蔵『本丸図』にある城の姿が実現に向かったのだと考えておりまして、秀吉の最晩年の大坂町中屋敷替と三ノ丸の築造に合わせて、豊臣大坂城の大手を南に変更すべく、本丸の大改造が行われたはず、と申し上げて来ております。(→2010年度リポート)

具体的には、幸いにして被害をまぬがれた「表御殿」を、まるごと本丸の南側に移築することで、城の大手を南に変え、それとともに、修築中の奥御殿を含めて、ほぼ全ての殿舎を「瓦葺き」に改めたのではなかったでしょうか?(→『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』の城内はほとんどが瓦葺き屋根であること)

そして1596年日本年報補筆に「全部を取り壊さぬ限り修復はできない」と書かれた天守については、やはり一旦は、全面的な解体修理がなされた、と考えることが出来るのかもしれません。

と申しますのは…


2010年度リポートより / 中井家蔵『二條御城中絵図』の色分けの意味

ならば、同じ中井家蔵『本丸図』の色分けは?(当サイト仮説)

ちなみに同図の天守の色は… 無色!紙の地の色のまま!!

で、もう一度『二條御城中絵図』を見れば、左下の天守はちゃんと「継続使用」の色!!!


あまりに単純な話であり、そのせいか、これまでどなたも両図の天守の「色」の差異をおっしゃったことは無いように思いますが、これはいったいどうしてなのか?と、めいっぱい想像力を働かせますと…

おそらく天守は1596年日本年報補筆のとおりの危険な状態になり、「解体修理」という方針が決まって解体したものの、その時点で秀吉が死んでしまい、一方、西ノ丸天守(≒代替天守)の方が、政治状況の流動化でどんどん話が進んで行き……

というような、図には「御天守」と墨書したものの、結局、そこを「色分け」出来るような状況にならなかったのではないか、と。


そこで上記の【第4図】は、幼き後継者・豊臣秀頼による再建天守(当サイト仮説)の建造がスタートするまでの“空白期間”に、『本丸図』は該当するのかもしれない、という可能性を示す状態で描いてみました。



かくして、豊臣大坂城は秀吉死後のさらなる激変を強いられて行くのですが、今回の記事はすでにかなりの長文になっておりまして、これ以降については、まことに勝手ながら、次回に改めて申し上げさせていただきたく存じます。…


【第5図】慶長5年、徳川家康の上杉討伐軍の出陣とほぼ同時に「極楽橋」を移築

豊臣秀頼のいる本丸の有名無実化がいっそう進む……




(次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年12月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!正確な極楽橋の描写は、瓦葺きではなく、総「檜皮(ひわだ)」葺きで描いた方か






正確な極楽橋の描写は、瓦葺きではなく、総「檜皮(ひわだ)」葺きで描いた方か


〜秀吉時代の大坂城に架かっていた特別な建造物「極楽橋」〜

YOMIURI ONLINE 中部発「図解 天下人の城」より引用/絵:富永商太/監修:千田嘉博




前回の記事では、オーストリアの大坂図屏風にある「極楽橋」の豪華な描き方の“隠れた由来”について申し上げましたが、やはりあの屏風絵のインパクトは大きかったようで、例えば2015年に千田嘉博先生が注目すべき指摘を行った <YOMIURI ONLINE 中部発「図解 天下人の城」権威象徴する極楽橋> のイラストもまた、基本的にオーストリアの屏風絵にならったものでした。

そしてこれ以外でも、昨今では諸誌を飾るCG等で豊臣大坂城の「極楽橋」が登場すると、これでもかっ! というほどの、ものすごい豪華版が描かれるようになったのはご承知のとおりで、こうした状況はぜんぶ、オーストリアの屏風絵とその解釈による結果なのでしょう。そして、あろうことか…


すべて! 瓦葺きの「極楽橋」まで登場―――

NHK「歴史秘話ヒストリア 古城に眠る秀吉の“Beobo”」平成21年放送より引用




NHKは私も長いこと出入りして来た局ですので、あまりケチをつけるような事をしたくはありませんが、さすがに、この映像を観た時は「ぁ……」と力の抜ける思いがしました。

何故こんな風に申し上げるかというと、長い間、極楽橋を描いた絵画史料といえば、以下の写真の大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」や大阪歴史博物館蔵「京・大坂図屏風」のように、総檜皮(ひわだ)葺きで描いたものしか知られていなかったところに、オーストリアの屏風絵の“瓦葺き”が発見されるや、たちまち状況が一変してしまったからです。

思いますに、檜皮葺きと瓦葺きの間には、けっこう大きな意味の違いや景観年代の問題も付随するでしょうから、この件を、そう易々と断定することは出来ないはずです。



<<対照的な「極楽橋」の描き方>>

総檜皮葺き
で描いた古風な二例=「大坂城図屏風」と「京・大坂図屏風」
VS
瓦葺きを取り入れた豪華なオーストリアの「豊臣期大坂図屏風」




で、前回も申し上げたとおり、当時の人々を驚かせた豪華な廊下橋というのは、「極楽橋」に関する記録ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」の方だ、という動かしがたい文献上の“事実”があります。

この際、是非とも申し上げたいのは、現在の「極楽橋」をめぐる無用な混乱をおさめるためにも、オーストリアの屏風絵の解説でよく引き合いに出された「1596年日本年報補筆」の全文を、一度、じっくりと読んでみて下さい。

そうすれば、そこで「政庁」と何度も書かれた建物が「千畳敷」に他ならない!! ことは、だれにでも分かるような文章になっているのですから、当然、そこへの「通路」として架けられた廊下橋は「千畳敷に付設の廊下橋」でしかありえないはずなのです。――



【ご参考】

(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

堺から三里(レーグア)隔たり、都に向かう街道に造られた大坂の市には、民衆がその造営を見て驚嘆に駆られるように、太閤の宮殿と邸に巨大な装置ができた。(太閤は)その政庁に千畳の畳(それは非常に立派な敷物の一種である)を敷き、それをダマスコ織と全絹の黄金色の縁で覆うよう命じたが…(中略)

デウスはこのように豪壮な造営における、かくも空しい誇示を本年 懲らしめ給うたように思われる。なぜなら大坂では豪雨のため政庁が支えられていた一方の壁面が崩壊したからである。この崩壊によって政庁に少なからぬ傾斜が伴った。しかし太閤はいっそう熱をあげて気をもみ…
(中略)

(太閤)はこの政庁の前の非常に美しい広場に狂言を上演するために舞台を構築するよう命じたが、その舞台の両脇に、或る程度の間を隔てて三、四層造りの二基の櫓を(構築したが)、その一基は降り続く雨のために、長く保たずして転倒し…
(中略)

(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。その小櫓には…




という最後の部分に続くくだりが、「豪華」説の紹介でさんざん引用された部分でありまして、このとおり、何度も申し上げて恐縮ですが、豪華なのは「極楽橋」ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」の方なのです。

(※「政庁の前の非常に美しい広場」とはきっと桜の馬場のことなのでしょう)

(※さらに追記:この「極楽橋」の豪華さをめぐる混乱の背景を皆様にお解りいただくために、勇気をもって追記いたしますと、この1596年=慶長元年に造営された廊下橋を「極楽橋」だと断定する「慶長元年説」を主導した北川央先生が、昨年から大阪城天守閣の館長に就任しております。北川先生は年齢で言えば私の一歳年下だということに免じて書かせていただきますと、先生は大阪城天守閣の言わば叩き上げの学芸員として活躍して来られた方ですが、得意な分野は織豊期の政治史や庶民信仰、大阪の地域史だそうで、絵画史料の分析でも権威とされています。ただ、私のような「城」にドップリの城郭マニアとは、興味や観点=城郭研究の先人達に対する思いが、やや違うのかもしれない… つまり、1596年に造営された廊下橋は「極楽橋」ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」であるとした櫻井成廣先生や宮上茂隆先生の業績を尊重する気持ち → 旧説の城郭論を否定するのならせめてその論拠を城郭論で示す姿勢が、やや違うのかもしれない… というあたりが、昨今の混乱の背景にあるのではないでしょうか?)

ということで、今回は、より正確な「極楽橋」の描写はどちらなのか? というテーマで、当サイトなりの解釈を申し上げておきたいと思うのです。




<「極楽橋」が“瓦葺き”だという文献を見ると>




(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け…


という風に、先ほどの1596年日本年報補筆には「鍍金した屋根」とだけ書かれていて、ここでは特に屋根の材料は限定されていません。(→柿葺きや檜皮葺きでも垂木に「金具」をあしらうケースはありますので…)

では、どこから“瓦葺き”という話が具体的に出て来るのか? というと、前回の記事でも挙げた「千畳敷に付設の廊下橋」のもう一つの記録の方に、それが登場するのです。



(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より/※細字だけ当ブログの補筆)

城外には湟(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)りにして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱 欄干 甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。



と、こちらの記録で「鍍金したるを瓦を以て屋を葺き」という風に、はっきりと“瓦葺き”と明言した形になっていて、この記録が千畳敷に付設の廊下橋のことであるのは誰の目にも明らかでしょう。

しかも絶対に見逃せないポイントは、最後の「此の如き結構は世に類なしと云へり」という部分でありまして、つまりは、この千畳敷に付設の廊下橋こそ、当時の日本はおろか世界的な観点で見ても、地球上で最も豪華な橋であろう、と記録したことになる点です。

ということは、もちろんそれは「極楽橋」よりも豪華であったはずで、この際、城郭論の立場から考えてみますと、豪華さ(→明国使節の目を驚かすこと)が「極楽橋」の命ではなかったはずであり、極楽橋が極楽橋たりえた最大の要件というのは、もっと別のところ―――それは、大坂城本丸から“北”に向けた出入口、すなわち都の朝廷を意識した出入口、という点にあったはずではないのでしょうか?




<そもそも「極楽橋」は誰が渡る橋だったのか??

 →それを本丸の搦め手(からめて)門や臨時の大手門とする諸説の限界>





ここで冒頭の、千田嘉博先生の注目すべき指摘について、改めてご紹介する必要があると思うのですが、そのYOMIURI ONLINEの記事には、

…天下人とそれに準じる大名の城には、さらにある重要な建造物があった可能性がある。「極楽橋です」と、千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は言う。(中略)千田さんは「官位で大名を序列化した秀吉は、権威を象徴する特別な施設として、極楽橋を架けさせたのではないか」と言う。…

とありまして、千田先生の関心もやはり豊臣関白政権を支える「権威」の一環としての極楽橋にあるようです。

であるならば、いったい「極楽橋」とは誰が渡る橋だったのでしょう?




その疑問について同記事には言及が無いため、まことに手前味噌ながら当サイトの大坂築城当初の想定をご覧いただきますと、図のように本丸北部の表御殿には「主門(礼門)」と「脇門」という二つの門があったはず、と考えております。

これらは足利将軍邸の門の形式を意識したもので、まさに築城当初から! こうした形が採用されていたという想定であり、ちなみに千田先生も著書の中で、洛中洛外図屏風に描かれた足利将軍邸を、以下のように解説しておられます。


洛中洛外図屏風(歴博甲本)の足利将軍邸



(千田嘉博『戦国の城を歩く』2003年より)

…館の正面には平唐門形式の礼門(らいもん)とよぶ正式の門と、四脚門形式の日常の通用門という二つの門があったことも見てとれます。

礼門は将軍のお出ましなど特別なときしか用いませんでした。ちょうどこの「洛中洛外図屏風」が描いた「将軍のある日」は特別な日ではなく、正式の門(向かって左側)は門扉が閉じたままでした。将軍は館にいるのでしょう。

日常使いの通用門は戸が開いていて、人びとが出入りできました。正門と通用門との違いも意図的にしっかりと描き分けています。



といった足利将軍邸の門の形式を、豊臣大坂城の表御殿も踏襲していたはず、というのが当サイトの基本的な考え方でありまして、ですから「極楽橋」というのは、本丸の搦め手門でも臨時の大手門でもない、最初から渡れる人物を厳しく限定した“特別な門”に直結した廊下橋なのだろうと思うのです。


当サイトの2010年度リポートより

築城当初(輪郭式の二ノ丸の造成前)を推定した略式イラスト


淀川に通じた舟入堀から入城すれば、極楽橋を経て表御殿に…



(※ご覧のうち極楽橋の望楼の屋根が薄青色なのは描画の都合ですのでご容赦を…)


そこで豊臣大坂城の「極楽橋」に限って申しますと、それは本来、城主の羽柴(豊臣)秀吉よりも高位の人物を迎えるための橋であった、と考えても良いのではないかと思われますし、千田先生が指摘された大大名らの「極楽橋」は、そうした大坂城の用法にならって、天下人・秀吉を各城に迎えるための御成り橋であった、と考えてみても良いのではないでしょうか。


で、そのうえに付言させていただくなら、そうした「橋」が築城まもない豊臣大坂城に必要とされたのは、やはり豊臣関白政権の異例の成り立ちや、かの「大坂遷都計画」の推進との関わりを、どうしても考えざるをえないように感じるのです。!!



檜皮葺き「勅使門」の一例、大徳寺・勅使門(創建は慶長年間)

宇佐神宮の呉橋(創建は鎌倉時代以前/これも勅使を迎えるための屋根付き橋)

そして何より実際の「極楽橋」そのものの現在の姿、宝厳寺・唐門

(※上記3写真はいずれもウィキペディアより)


ご覧の門や橋はもうよくご存知のものでしょうが、改めてこのように並べてみますと、総檜皮葺きの「極楽橋」というのは、大坂城の本丸から内裏移転候補地の天満地区に向けて、さらには京の都に向けて北向きに架けた廊下橋だった、という理解が深まる感がして来ますし、完成直後の「極楽橋」はまさに朝廷からの勅使(=大坂遷都の吉報!)を待っていたのではなかったでしょうか。


再びオーストリアの「豊臣期大坂図屏風」より

極楽橋の先、淀川の流れの先には、京の都が。…






かくして、オーストリアの屏風絵の極楽橋の方は、言わば <情報の折衷(せっちゅう)案> として、絵師が独断で瓦葺きと檜皮葺きの両方をとり入れて“作画”したもののように見えて来ますし、ましてや、この極楽橋をよーく見ると、その前には魚をのせたまな板をもつ庖丁師ら?が描かれていて、この廊下橋はいったい何なのか=超豪華な家臣の通用門!??…という、絵師の無謀な画面操作が暴露されているかのようです。

……以上のごとく、「極楽橋」とは一言で言えば、秀吉の政権構想のあらわれであり、総檜皮葺きこそが「極楽橋」にふさわしい屋根の意匠と思えてなりませんし、そういう考え方の裏側では、極楽橋を本丸の搦め手門や臨時の大手門としか(構造的に)扱えない諸説の“限界”が露呈していると思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年12月11日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!前回記事の部分訂正=「文献どおりの豪華さ」は極楽橋ではなくて千畳敷に付設の廊下橋のはずなので…






「文献どおりの豪華さ」は極楽橋ではなくて千畳敷に付設の廊下橋のはずなので…


極楽橋を“より豪華に”描いたオーストリアの大坂図屏風(本丸周辺のみ)


前回の記事では、ご覧の屏風絵の“天守の描き方”をめぐって色々と申し上げましたが、その文中において「極楽橋」に関して、その豪華な描き方が「正確である」かのように書きました。

しかしそれは、絵師が「情報を取り違えながらもその内容どおりに忠実に描いた」という意味であって、極楽橋の描写としては決して「正確」だとは考えておりませんので、今回は、そうした前回記事のつたないニュアンスを反省して訂正しつつ、そこでなおも深まるオーストリアの屏風絵に対する疑問を、補足させていただくことにします。



「千畳敷に付設の廊下橋」を紹介した宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』(1984年)

同じく「千畳敷に付設の廊下橋」がある櫻井成廣作・豊臣大坂城模型


さて、極楽橋の問題は4年前の記事(1)(2)でも取り上げましたが、ご覧の著書や模型の宮上茂隆先生や櫻井成廣先生など、往年の先生方は、『イエズス会日本報告集』『日本西教史』にある豊臣秀吉が晩年に大坂城内に造営した廊下橋というのは、極楽橋ではなく、上記のような千畳敷に付設の廊下橋のことだと解釈され、私なんぞもそれで間違いないものと確信しております。

そう考えざるをえない理由は、過去の記事の中でいくつも申し上げましたが、決定的なのは、文献にある橋の長さ「十ブラザ前後」=22m前後=約11間では、現実の極楽橋の半分くらいにしかならず、それではとても水堀を渡りきれない!! という点でしょう。


【ご参考】中井家蔵『本丸図』の極楽橋の周辺



【ご参考】

(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。
その小櫓には、四角の一種の旗幟〔長さ八〜九パルモ、幅四パルモ〕が鍍金された真鍮から垂れ、また(小櫓)には鳥や樹木の種々の彫刻がかかっている。(小櫓)は太陽の光を浴びるとすばらしい輝きを放ち、櫓に新たな装飾を添える。

(橋の)倚りかかれるよう両側の上方に連ねられた欄干は、はめ込みの黄金で輝き、舗道もまた非常に高価な諸々の装飾で鮮明であり、傑出した工匠たちの手によって入念に仕上げられたすばらしい技巧による黄金塗りの板が介在して輝いていた。

そこで堺奉行(小西ベント如清)はこの建物について話題となった時、我らの同僚の某司祭に、(その橋は)十ブラザ前後あるので、黄金と技巧に一万五千金が注ぎ込まれたことを肯定したほどである。




(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より/※細字だけ当ブログの補筆)

太閤殿下は頻(しき)りに支那の使者を迎ふる用意を命じ、畳千枚を敷るゝ程の宏大美麗なる会同館を建て、(中略)其内に入れば只金色の光り耀然たるを見るのみ。
城外には湟
(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)にして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱 欄干 甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。



ということでして、この二つの文献が伝えたのは、「極楽橋」としては明らかに短か過ぎる!!別の廊下橋であり、それはやはり豊臣大坂城の本丸南側に架けられた「千畳敷に付設の廊下橋」なのでしょう。

したがって、オーストリアの屏風絵で極楽橋がひときわ豪華に描かれたのは、必ずしも“正確な描写”と言えるものではなく、これもまた絵師の努力と工夫(→情報を取り違えつつも忠実であろうとした真摯さ)がもたらした表現なのだと理解せざるをえません。


この屏風の絵師については、17世紀中頃に活躍した京都の町絵師だろうと言われていますが、その町絵師が参考にしたと言われる<原画>の絵師も、これまた、ひょっとしますと、様々な資料を集めて作画を行ったのかもしれず、その絵師さえも豊臣大坂城を実際には見ていなかった!? 可能性がありうるのではないでしょうか。

……となれば改めて、やはり、と感じる、以下のごとき“画面構成の操作”が透けて見えるのです。








<天守の右側、極楽橋との間にある「小天守」風の三重櫓の正体は…>




ちょうど前々回まで、江戸城の元和度天守が大・小天守による連結式ではなかったか、という話題を続けて来ただけに、ご覧の天守も連結式(…前回記事の流れで言えば二条城の慶長度天守を意識したもの?)と早合点しそうですが、そう話は簡単ではないようです。

そもそも、描いたのが豊臣大坂城そのものであれば、こんな場所(本丸の北東隅?)に小天守風の三重櫓などあるはずがありませんし、そのせいで天守と極楽橋の位置関係がちょっとおかしいことを含めて、この屏風絵の本丸の描写には、かなりの混乱が見て取れます。

で、これに比べますと、例えば大阪歴史博物館蔵の「京・大坂図屏風」に描かれた豊臣大坂城の本丸などは、建物の配置にある程度の信憑性(しんぴょうせい)があるように思われます。


京・大坂図屏風(部分)…モノクロ写真で恐縮ですが…


ご覧の本丸は、西(北西)から眺めた景観であり、しかもここには前述の「天守の右側、木橋との間にある小天守風の三重櫓」と言えなくもない! ひときわ目立つ三重櫓が描かれています。

このちょっと意外な符号はどういうことなのか、当サイトが想定する(築城当初の)豊臣大坂城の本丸北部「表御殿」周辺の建物配置を、ご参考までにお目にかけますと…






どうでしょうか。このようにご覧になれば、この「京・大坂図屏風」の建物配置にはある程度の信憑性がありそうだ、と考える当サイトの立場にも、幾分かのご理解がいただけますでしょうか。


したがって、これらは同じ櫓(上記「三重菱櫓」)を描こうとしたのでは??


といった以上の見方を、さらに突き詰めますと…




まさにご覧のごとく、京・大坂図屏風とオーストリアの屏風絵は言わば“パズル”のような関係にあったのかもしれず、両者の違いとしては、オーストリアの屏風絵では屏風全体の“北(北東)から眺めた景観”に合せるため、判りやすい「記号」としての極楽橋が、本丸の北側(=正面側)にコンバートされていることが分かります。

こうなると「記号」として極楽橋は、とびきり豪華に(必要以上に?)描かざるをえなかったわけでしょうし、本丸内の描写の基本的なレイアウトを踏襲した以上は、画面の構成上、極楽橋だけの“単独移動”が不可欠であった、という絵師の事情がここに透けて見えるのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年11月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影 ?






オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影?




先日、NHK番組の「ハイビジョン特集 新発見大坂図屏風の謎 〜オーストリアの古城に眠る秀吉の夢〜」(初回放送2009年)の再放送が深夜にありまして、たいへんに遅ればせながらも、この機会をとらえて、この屏風にある“大坂城天守の描写のナゾ”について申し上げておきたいと思うのです。


2006年にオーストリアで発見された「豊臣期大坂図屏風」(部分)


もう良くご存知のことでしょうが、ご覧の屏風は、記録では17世紀後半にはオーストリア南部のエッゲンベルク城に収蔵され、その後に城内の「日本の間」の壁面に貼り付けられて、そのまま今日に至ったものです。

そして当地の博物館学芸員や大学教授から相談を受けた高橋隆博先生らによって「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城とその城下を描いた絵」と鑑定され、話題になりました。

当時のニュース報道は「どうしてオーストリアの古城に?」という意外性に焦点が当てられ、1640年代前半(=寛永年間)にオランダ東インド会社が長崎の出島から何十点かの屏風を輸出した経緯があることから、そのあたりの時期に描かれ、ヨーロッパに渡ったのだろう、などと報道されました。


で、ご承知のとおり、この絵には華麗な「極楽橋」が描かれ、天守は「望楼型」であり、豊臣大坂城に特有の巨大な「馬出し曲輪」もあるため、描かれたのは豊臣秀吉や秀頼の頃の大坂城と思われるのに、人物の顔の描き方などは、京都の町絵師による「洛中洛外図屏風」と同系統のものだそうで、そうなると制作は江戸時代の17世紀中頃になってしまう、という点(制作年代と景観年代のズレ)が大きな謎だと言われました。

そこで、おそらくは、より古い豊臣全盛期に近い頃の屏風を手本にしながら、17世紀に改めて制作された屏風なのだろう、と推定されています。


同屏風に描かれた大坂城天守


―――という屏風絵ですが、「極楽橋」の文献どおりの華やかさ(=正確さ)に反して、最近では、ご覧の天守の描き方が、他の豊臣大坂城天守の描写に比べて色々と相違点のあることが、やや問題視され始めています。

と申しますのは、天守の最上階には高欄廻縁があって「望楼型」らしき様子があり、その天守にシャチ瓦が無い!! のは豊臣大坂城らしい特徴ではあるものの、以下の白壁に黒い柱を見せた「真壁づくり」の建物として描かれた点は、他の絵画史料(=多くは天守の全体が黒っぽく、おびただしい金具や金箔瓦、金色の紋章群が光り輝く印象)とは、ずい分とかけ離れた描き方になっているからです。

(※ちなみに、豊臣大坂城天守を“白い天守”で描いてしまった例は、出光美術館蔵の大坂夏の陣図屏風など他にもありますが…)


そして、そういう壁面とは打って変わって、まるで小倉城天守の「黒段」のごとき真っ黒いだけの最上階はどういうことなのか?(→「黒段」は戸袋や雨戸を黒塗りしたものですから高欄廻縁とは矛盾する!)という不思議な点もあります。

さらに申せば、ご覧の天守は二重目の屋根に「唐破風」が描かれていて、<天守の下層階の妻側にある唐破風>となると、私なんぞは思わず(当サイト仮説の駿府城天守など)小堀遠州が関与した徳川の城の天守群を連想してしまい、これは徳川の天守か??と叫びたくなってしまう方なのです。…


豊臣大坂城天守の描き方の代表例 …大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」より


むしろ、こちらの方がそっくり!?

左側は京都国立博物館蔵「洛中洛外図」に描かれた徳川の二条城天守(慶長度)




!!! 左右の絵をじっくり見比べてご覧になればお判りのとおり、オーストリアの屏風絵の天守は、実は、様々な点において、徳川の天守(とりわけご覧の二条城天守)を描いた事例にたいへん近い表現がなされている、ということが言えるのかもしれません。

……となると、様々な相違点を抱えた天守の“ナゾの描写”はいったい何に起因したのか、この際、思い切った想像をめぐらせてみたいと思うのです。



豊臣大坂城の落城を伝えた最古のかわら版(大阪城天守閣蔵)


そこで、屏風絵の背景をさぐるうえで私なんぞが注目したいのは、豊臣大坂城が大坂の陣で落城し、徳川による天下の支配が加速していくなかで行われた、いわゆる“豊臣残党狩り”です。

例えば大坂陣の直後ですと、宣教師が記録した「京都から伏見に至る街道に沿ふて台を設け首級をその上にさらしたが、その台は十八列あり、ある列には千余の首が数えられた」という話が有名ですが、残党狩りの対象は幅広い人々に及んだようで、狩野派の絵師・狩野山楽なども、豊臣家との関わりがあって追及を受けたことが知られています。

そうした豊臣残党狩りがいつまで続いたのかと言えば、豊臣方のキリシタンの猛将・明石全登が消息不明のままであった中で、やがて島原の乱(寛永14年1637年勃発)が起きると、時の将軍・徳川家光は、改めて大規模な「明石狩り」を命じたことが知られています。


つまり、今回話題のオーストリアの屏風絵が描かれたとされる17世紀中頃というのは、そんなキリシタン鎮圧や豊臣残党狩りの余韻がまだ世の中にただよっていた頃のはずです。


何を言いたいのかと申せば、この屏風は、いよいよ徳川の支配が定まる頃の、ある種の虚無感のなかで、あえて豊臣全盛期の大坂城を描こうとした(意図はそうとうに挑戦的な)屏風であった、という点なのです。
それを考えますと、様々な相違点を含んだ天守の描き方についても、その動機が見えて来るのではないでしょうか?


なぜ天守だけが徳川風なのか…


結論から申しまして、この屏風の全体は、華麗な「極楽橋」がより正確に描かれた点などを考慮しますと、やはり高橋先生らの鑑定どおりに「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城」を描こうとしたことに間違いはないのでしょう。

ただし、先ほど申し上げた当時の世情と、天守だけが部分的に徳川風であるという矛盾点は、こんな可能性も示しているのではないでしょうか。


すなわち、挑戦的な画題ではあったものの、イザという時の危険回避のために、天守だけは徳川風の描写… 例えば前出の二条城天守とか、または寛永年間に再建された二条城天守や大坂城天守などの明らかな特徴を、巧妙に、ずい所に採り入れて描いたのではなかろうか? という可能性です。(例えば白壁、真壁の柱、唐破風…)


いつものごとく考え過ぎ、と言われてしまうのかもしれませんが、こんな手前勝手な見方で改めて屏風絵を見直しますと、この屏風が結局はオランダ商人に転売されたことや、前述の小倉城天守「黒段」に似た最上階の描写についても、まったく次元の異なる経緯によるものと思えて来てしまうのです。


これは、屏風を売却する際に、墨塗りで“危険な何か”を塗りつぶした跡!? なのでは…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年05月16日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…






話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…


ゴールデンウィークに大坂では「真田丸」の復元ジオラマが完成してお目見えしたそうで、いつか現物を見てみたいものですが、その復元には千田嘉博先生も監修で関わったとのことで、報道写真で見るかぎり、これまでに登場して来た真田丸の様々なイラストやCGとも違った点があるようです。

ご承知のとおり、真田丸と言えば、従来は、大坂城内と簡単に行き来できる構造と考えられて来たものの、最新の等高線調査の結果、城とは大きな谷を隔てた“孤立無援の砦”だった可能性が高い、という指摘が千田先生からあったばかりで、ジオラマも基本的にそうした考え方に沿っています。

写真で見たジオラマは、東西2カ所の出入り口がものすごく印象的で、そのため一見、これはやはり巨大な「丸馬出し」のようにも見えてしまうのですが、千田先生によれば“孤立無援の砦”であって、だからこの不思議な砦を「戦国時代最高の出城」と評したものの、決して“戦国時代最大の丸馬出し”とは言っていないところが、大きなミソのようです。


「真田丸」復元ジオラマ 完成イメージ(天王寺区のHPより)


かと思えば、時系列的には後先(あとさき)してしまいますが、先ごろ、城郭史学会の坂井尚登さんが、たいへんに精緻な地形考証を踏まえた「正方形に近い五角形」という画期的な真田丸の復元案を発表されました。

坂井さんは地形図の専門家であり、どの会合でも一目おかれている方ですから、千田案と対照的な「形」を提起されたことが、今後どうなっていくのだろうと、はるか遠方から遠目で見ていましたら、『歴史群像』6月号に、その坂井案を基本としつつ、軍事学的な検討を重ねた記事とイラストが登場し(文=樋口隆晴、監修=坂井尚登、イラストレーション=香川元太郎)、その記事の中では千田案への厳しい批判もあったりして、一気に、まるで大坂の陣のごときガチンコ状態が勃発したようです。


―――ということで、この“大坂の陣”を、おそらくは淡路島あたりから見ているに過ぎない私でありますが、遠くから見ているだけに感じる“ド素人なりの疑問”もあって、「天守」の話題でない記事を書くのは、これ一回きりにしたいと思いますし、岐阜城の続きの件も含めて、何とぞご容赦いただきたいと思うのです。





まずは『歴史群像』6月号を拝見しての率直な感想ですが、真田丸が、それほどまでに惣構え南面の欠点をおぎなって、緊密かつ精緻に(惣構えと)組み合わされて構築された「陣地」であったのなら、その状態に攻め寄せてきた幕府軍が、とりわけ真田丸を攻略目標に選んだのは、いったい何故なのでしょう??… という素朴な疑問が心に浮かびました。

つまり真田丸が「主陣地線防御の核心ともいえる存在」というほどに、軍事学的な優勢が強まれば強まるほど、逆に、そういう“疑問”がふくらんで来てしまったのです。

私の悪い猜疑心(さいぎしん)のせいでしょうが、真田丸が『当代記』に「惣構ノ横矢」と記されたなら、それは文字どおり、いかにも突出した“目の上のタンコブ”に見えて仕方がなかった―――という風にでも解釈した方が、幕府軍の動機を説明するうえでは合理的だろうと(ド素人の私には)感じられてならないのですが、どうなのでしょう。


「浪華戦闘之図」大坂冬の陣配陣図(大阪城天守閣蔵/右下の半円形が真田丸)


そしてやはり、何故、多くの絵図類で真田丸が「丸い形」として描かれて来たのか、坂井案のまことに緻密な検証はあるものの、これだけ共通して「丸い」というのは、何かそれなりに原因があったはず、という疑念がチラチラと消えないのは私だけでしょうか。

そこで、ちょっと視点を変えまして、例えば「丸い曲輪」という点から連想しますと、真田の名をいちやく天下にとどろかせた「上田城」も、ひょっとすると、真田時代の本丸は、丸かったのかもしれない… と思わせる古城図が残っています。


真田時代の上田城の破却後の状態を描いた「元和年間上田城図」(個人蔵)


ご覧のとおり、左下に描かれたのが、関ヶ原合戦後に破却された真田昌幸(まさゆき=幸村(信繁)の父)築城の上田城の跡で、半円形の「古城本丸」のまわりを、少しずつ四角くなっていく二ノ丸と三ノ丸の痕跡が取り巻いています。

ちなみに「古城本丸」のすぐ南(図の下側)は断崖絶壁であり、絵図のように千曲川の尼ヶ淵が流れていた地形であることは、現地を訪れた方はよくご記憶のはずです。


現在ある上田城の四角い堀や石垣、櫓、門などは、江戸時代に仙石氏が大々的に復興したものに基づいていますから、真田時代の本丸がこのように半円形の曲輪で、しかも城全体は完全に土塁づくりだったとしますと、見た目の印象は、けっこう違っていたのではないでしょうか。


で、そんな真田時代の「上田城」が、どうして徳川の大軍を二度も撃退できたのかと言えば、田舎じみた古風な城構えに反して <挑発行為で敵を引きつけて強力な鉄砲隊の火力だけでなぎ倒す> というパターンが繰り返し成功したようで、徳川方はこれに「腰を抜かした」という話がよく紹介されます。


上下二段の鉄砲狭間もさりながら、間の櫓の二階は全面に石落し(=唐造り!!!)

(東京国立博物館蔵「大坂冬の陣図屏風」より)


転じて、真田丸の場合を想像しますと、<鉄砲隊の火力だけで> はご覧の大坂冬の陣図屏風の描写でおなじみですが、要は <挑発行為で敵を引きつける> ことが出来なければ、この得意の勝ちパターンには持ち込めない?という話に戻ってしまうわけでして、どうやら、真田丸の「形」と密接にからんだ「勝因」をどのように描くかで、千田案と坂井案は、思った以上に決定的な違いをはらんでいるようです。

とりわけ戦端がひらくキッカケになった、真田丸の手前の「篠山」という小山の位置については、坂井案と歴史群像は、従来言われてきた位置(=真田丸のずっと南側)とは違う場所を想定していて、その位置で「挑発」になりえたのか?という点など、戦いの様相をかなり変えるものと言えましょう。


こうなると私なんぞの立場では、人間の能力は瞬時に10段階も20段階も成長できない、といった当たり前の話を持ち出すしかなく、やはり真田丸の「勝因」は、どこか部分的に、上田城の勝因をなぞっていたのではなかろうか―――というド素人の感覚がぬぐいきれません。

とりわけ幸村(信繁)は長い間、幽閉生活をおくっていたわけで、その間は、何か文献で学べたとしても、実地の試行錯誤のチャンスは一切、無かったのですから、なおさらそのように感じられてしまいます。

そこで今回の記事の最後に、真田丸が幕府軍を「引きつける」ために必要だった「形」を、私なりに思いっきり妄想しますと…





<真田丸は意図的に、田舎じみた古風な「丸馬出し」に偽装されていた!?>





千田案の考え方を基本として、一部、坂井案の地形考証を参考にさせて戴くと、

こんな「真田丸」を想定することも出来るのでは…


(※大阪文化財研究所と大阪歴史博物館による「古地理図」を使用しております)


それは南から来る街道の、右斜め前方に、やや見おろすような位置にあって、

第一印象として、幕府軍の諸大名には“格好の餌食”と見えたか…





そしてやはり、真田丸の発想の原点は、真田昌幸の「上田城」にあり!!??

(左図は南北を逆にした上田の地図に、古城図の本丸の位置だけを合わせた状態)



左右の地図はもちろん同縮尺にしてあり、ちょっと見づらい図になっていて恐縮ですが、こうしてみますと、右図の豊臣大坂城の惣構えは、左図の上田城における背後の千曲川(尼ヶ淵)と同様に見立てた形のなかで、「真田丸」は計画され、築かれたようにも見えて来るのです。


このことは時空を超えて、しかも空から見おろした時に初めて(真田丸の背後にも惣構えがそのまま残っていると)確認できることであり、地上を攻め寄せてきた幕府軍の将兵の目には、ただ単に、古臭い武田遺臣の一点張りのような「丸馬出し」が、こともあろうに豊臣大坂城の防御の最前線にしゃしゃり出てきた!! と見えてしまって、多くの兵が思わずうすら笑いを浮かべた… というような状態だったのではないでしょうか?


で、そういう「偽装」がどこか上田城に似ていたとしても、それは苦杯をなめた徳川の将兵にしか解らないことであり、味方の豊臣勢にも解らなかっただろうという点が、まことに興味深いところで、なおかつ徳川家康や秀忠自身は“過去の汚名”があるだけに、そのことを心中でうっすらと察知しても、なかなか言い出せない(!!)…という好条件があったのかもしれません。




例えば、玉造を応援する情報サイト「玉造イチバン」様のインタビュー記事によれば、千田先生は真田丸の解説として「砦の出入口は東西2カ所、西側の出入り口は惣構の近い場所にわざと作っています。徳川軍が出入口を襲おうとすれば、砦からはもちろんのこと、惣構内の右側からも左側からも射撃され、三方向から袋だたきに合います」と説明しています。


説明のとおりに、西側(左側)の出入り口に注目しますと、惣構堀の内側(上側)の丘にも、強力な狭間鉄砲による鉄砲隊を潜ませたことは間違いないでしょうし、この出入り口に殺到した幕府軍が、戦死者 数千人以上とも言われる膨大な数の犠牲を出して、ここが凄惨な“屠殺(とさつ)場”と化したのは本当かもしれません。

ですからひょっとすると、左右二つの出入り口も、かなり「偽装」された疑似餌(ぎじえ)のような巧みな工夫があったのではないでしょうか…。


そもそも幸村(信繁)という人物の評価は、前半生が謎だらけで、なかなかに難しいとされていますが、今回申し上げた妄想のままなら、父・昌幸ゆずりの策謀家と思えて来ますし、そのため <真田丸は真田の父子二代にわたる策謀の結晶だった> と、ここで一気に申し上げてしまうのは言い過ぎでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年02月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!糸杉が描かれた「死の島」と大坂夏の陣図屏風の天守






糸杉が描かれた「死の島」と大坂夏の陣図屏風の天守


前回、前々回と、当サイトがスタートした当時(2008年)のリポートをWeb形式に変えてお届けしましたが、それらの内容は、これまでのブログ記事と部分的な重複(焼き直し)もあって、そうしたネタばれの部分も露呈してしまったようです。

そこで今回の記事は、そうした白状のついでに、リポートでご覧いただいたイラストについて、今だから申し上げたい、作画の裏話として、豊臣秀頼の再建と思われる大坂城天守の右脇に描かれた「糸杉」の、ちょっと怖いお話を申し上げてみたいと存じます。


※             ※



ですが、その前に「秀吉の大坂城・前篇」の論拠に関わる追記を、ほんの少しだけさせて下さい。

それは、羽柴(豊臣)秀吉はなぜ「関白政権」を選択したのか?という理由について、リポートでは今谷明先生の学説(=小牧・長久手の敗戦が征夷大将軍の任官の障害になったというもの)を挙げさせていただきましたが、この今谷説をめぐっては「秀吉は自ら征夷大将軍を断った」との記録もあり、ご懸念の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

例えば堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』では「秀吉が「将軍の官」を断ったことは『多聞院日記』天正十二年十月十六日条に明記されている。(中略)信長も秀吉も将軍任官を望んだがはたせなかったとすることで、将軍となった家康の正当性を強調し、さらには将軍職の神聖化をはかった徳川史観である。」とも書かれています。

そのように秀吉が自ら将軍職を断っていたのなら、小牧・長久手の敗戦のせいで将軍職を断念したという今谷説は、説得力を失ってしまいそうですが、しかし私なんぞの感想としましては、その「断った」時期が大問題だと思えてなりません。

すなわち『多聞院日記』にある天正十二年十月十六日という日が、どういうタイミングなのかと申せば、リポートと同じ年表にその「時期」を書き加えますと…






ご覧のように秀吉が「将軍職を断った」時期というのは、秀吉が織田信雄と和睦し、矢継ぎ早の任官昇叙が始まるのとほぼ同時期でありまして、あえて申し上げるなら、これらはすべて一連の出来事だったのではないか、という気もしてまいります。

つまり秀吉としては、この頃にはもう、矢継ぎ早の任官昇叙でいずれ従一位・太政大臣にも登り詰める“めど”は得ていて、したがって将軍職はもはや関心の枠外になりつつあり、そうした直後に、たまたま関白職を近衛信輔から奪取するチャンスにも恵まれた、という風にも見えるわけです。

ですからこの時期には、秀吉自身が今谷説の言う「王政復古政権」をはっきりと自覚(選択)していたのかもしれず、そんな秀吉の心理をうかがえるのが、前出の『多聞院日記』の記録に付け加えられた秀吉の一句ではないのでしょうか。

 冬ナレト ノトケキ陰ノ 光哉
(冬なれど のどけき陰の 光かな)

…厳しい冬かと思ったら、うららかな日の光も見えて来た、と詠んでいるようでして、結局のところ、「将軍職を断った」という記録は、むしろ今谷説を“補強”する材料でさえあるように、私なんぞには感じられてしまうのです。


※             ※



さて、それでは今回のメインテーマ「糸杉」の話題に戻りますが、まずはこれらをご覧下さい。


大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)の天守部分と、当サイトの推定イラスト



ご覧の3点でお判りのように、屏風絵の天守の右脇には、杉かヒノキか分かりませんが、「針葉樹」が特徴的に描かれていて、この木々は、推定イラストの方では省略して描いておりません。

これは作画した当時、天守の脇に「松」を描いた屏風絵なら他にいくつも思い当たり、また実際に天守の脇にあった木としては熊本城のイチョウなども思い浮かびましたが、針葉樹の「杉」ですと、城外からの見通しをさえぎるため、土塀の手前などにはあったものの、天守の脇という例はちょっと聞いたことが無かったため、本当だろうか… と作画に加えるか否か迷ったのです。

そんなおり、ふと、西欧では「糸杉」の木が象徴的に描かれた絵として、こんな絵もあるのだと初めて知りました。

かのヒトラーが、同じ画家による三枚目を所持していたという「死の島」です。


アルノルト・ベックリン画「死の島」1880年制作(ウィキペディアより)


(中野京子『怖い絵2』2008年/「死の島」解説文より)

水面からは、ごつごつ赤茶けた岩島が立ち上がり、その懐(ふところ)には不気味な糸杉が何本も高くそびえている。
糸杉は死の樹だ。
黄泉(よみ)の国の支配者ブルトンに捧げられ、不慮の死を司る女神アルテミス(ディアナ)の聖樹でもある。太陽神アポロンは、誤って自分の鹿を弓で殺した少年キュパリッソスを、永劫に嘆き続けることができるようにと糸杉へ変身させた。またこの木は神々の彫像や棺の材料として用いられ、しばしば古代神殿跡や墓地に植えられる。

(中略)
糸杉、棺、小舟、白装束、そして岸壁に穿(うが)たれたいくつもの人工的横穴、即(すなわ)ち埋葬所。
さまざまな死のモチーフを散りばめたこの絵は、陰鬱な死の気配に満ち、人が生から死へ向かうときの気分とでもいうべきものを濃密に伝える。





この絵で一躍、19世紀末のドイツ画壇で人気を博し、その陰鬱なイメージにも関わらず、多くのドイツ人家庭でこれの複製画が飾られ、若きアドルフ・ヒトラーもそうしたファンの一人で、のちに本物(1886年制作の三枚目)を手に入れたというベックリンの絵です。

『怖い絵』シリーズで知られるドイツ文学者の中野京子先生の解説のとおり、この絵の中心の「糸杉」というのは、欧州やイスラム文化圏では「死」の象徴でもあるそうで、その木部に虫除けの効果があるため、腐敗を防ぐとして死者の埋葬に使われ、そのためか、キリストが磔にされた十字架は、この木で作られたという伝説まであるそうです。


墓地の糸杉 / ベックリンの娘も埋葬されたフィレンツェのイギリス人墓地(ウィキペディアより)


ちなみに、日本のスギやヒノキは日本列島周辺の固有種だそうですから、ここで言う「イトスギ」とは別種の木になるわけですが、キリシタン大名・黒田官兵衛の子、黒田長政が、問題の大坂夏の陣図屏風の発注者であるとも言われて来た経緯を踏まえますと、天守脇の植樹としては異例な「針葉樹」は果たして何なのか… このままイラスト化をしても良いのか… まったく判らなくなってしまったのです。




リポートの論点においては、この天守が、大坂夏の陣図屏風(右隻)の右端にある徳川秀忠本陣と徳川家康本陣の対極(=絵の左端)に位置づけられたのは、ある特別な意図が込められた配置であって、それは「天守」と「征夷大将軍(幕府)」が本来は対極的な存在であり、まさに豊臣関白家vs徳川将軍家の闘い(=大坂の陣)の政治的な図式を、象徴的に示した構図だったのではないか? という仮説を申し上げました。




と同時に、この絵の構図はご覧のとおり、左右で「敗者と勝者」「死者と生者」という対比やコントラストも強烈でありまして、そんな構図のいちばん左端(!)に、もしかして、キリシタンの“死の象徴”イトスギが、あえて描き加えられたのではあるまいか… などという、悪い想像も出来てしまうのです。

考え過ぎとは思いつつも、もしそうであったなら、それを「封印」と見るか、「鎮魂」と見るかで、これまた、注文主の本音はやや違って見えるわけなのです。



合掌…。(豊臣秀頼像/方広寺蔵)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年05月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・西ノ丸天守――詰ノ丸に天守を上げないスタイルの原型か






続・西ノ丸天守――詰ノ丸に天守を上げないスタイルの原型か


小田原城天守閣(鉄筋コンクリート造/昭和35年竣工)


じつは先月7日、小田原で行われた「小田原城 木造化を考えるシンポジウム」に私も出掛けまして、思いのほか、単なる復元以上の、大きな問題提起を感じました。

シンポジウムのフィナーレ、地元職人による木遣り唄(きやりうた)の様子


シンポジウムは小田原の老舗のカマボコ屋・まんじゅう屋・魚屋の三人の若主人が立ち上げた「小田原 城普請会議」の主催だそうで、平成27年度までに耐震改修を迫られた小田原城天守閣にかなりの費用(7億〜15億円とも)を使うのなら、いっそ木造化の可能性を探ってみよう、という趣旨でした。

会場には小田原市長も挨拶に駆けつけ、主たる眼目は「木造化」ということで木造建築業者もチラホラ参集し、その他大勢の城郭ファンが集まった中で、ゲストの有名棟梁らがスピーチをしたわけですが、主催者側の背景にあったのは <コンクリート天守を抱えた市民のジレンマ> とでも言うべきものだったように感じました。

で、今回は本題の前に、このコンクリート天守の件について一点だけ述べさせて下さい。



<話題の名古屋城天守の木造再建「342億円」は本当に高いのか?>



東京駅丸の内駅舎/言わば“屋根の改修”なのに総事業費500億円!!

(画像:JR東日本より)


天守の木造化と言えば、最近、名古屋城天守は「342億円かかる」「工事に12年かかる」というニュースが流れて、(掛川城11億、大洲城16億、小田原城48億円予想などに比べても)さすがに高い、という世間の反応がありましたが、報道のポイントは「それに対して現状のコンクリート天守は6億4000万円だった」と、さも河村たかし市長の暴走ぶりを訴えるような論調でした。

ですが私なんぞは、どうもそこに、原子力発電は安いのか高いのか、という情報操作にも似たニュアンスを感じた口です。

と申しますのは、今年いよいよ完成する東京駅丸の内駅舎は、もちろん現代の工法による復元改修ですが、免震工法やら三階増築やらで費用がかさみ、JR東日本はその500億円をいわゆる「空中権」の売買で調達したと言います。


名古屋城天守の場合、そんな妙案があるのかどうか分かりませんが、この先、築53年の建物がいよいよ限界を迎える30〜40年後に、やむなくコンクリートで建て替えるはめに陥った時、一体いくらかかるのか?(=ゼネコンがいくらフッかけて来るのか?)という、ちょっと空恐ろしいシミュレーションも、公平な判断を下すためには、今のうちに下調べしておくべきではないでしょうか。

このままでは、建て替えの場合でも、免震工法とかハイブリッド木造とか色々な施策が求められ、結局は342億円どころではない、超豪華なコンクリート天守に「イエスかノーか」という選択(情報操作)に追い込まれやしないかと気がかりです。


詰まるところ、戦後日本の映し鏡のような、地域振興と費用対効果の申し子「コンクリート天守」の見えざる壁を打ち破るには、単なる復元以上の工夫が必要なのかもしれません。

「小田原 城普請会議」の皆さんには是非ともその突破口を開いていただきたいのですが、シンポジウムの印象としては、私はあの「木遣り唄」が良かったように思われ、こういう「木の文化」に関わる問題では、どんなに理詰めで話をするより、ああいう唄が日本人の魂を揺さぶるのだと感じ入りました。

―――で、そもそも小田原という地は、関東における“古城観光都市”に変貌できる潜在力(歴史的な三つの城…北条氏の戦国小田原城、豊臣秀吉の石垣山城、徳川による近世小田原城)を秘めたラッキーな街だと思うのですが。



<続・西ノ丸天守――詰ノ丸に天守を上げないスタイルの原型ではなかったか?>





さて、話はガラリと変わって、前回も登場した豊臣大坂城の西ノ丸天守に関してです。

この建物の詳細は一切不明である(小規模だという証拠も無い)ものの、独特な立地の手法だけは、のちの天守に若干の影響を残したように見えます。




と申しますのは、時期的にそれ以降になって、天守をあえて詰ノ丸(最高所)よりも一段低い曲輪に設けた例が、いくつか登場したことになりそうだからです。

(※これは当サイトが申し上げて来た仮説に照らしますと、天守の発祥には、織豊城郭の求心的な曲輪配置の頂点にそれが誕生した、というストーリーが欠かせず、その点では「一段低い曲輪」はゆゆしき?重大事件なのです)



伊賀上野城の絵図(ウィキペディアより/当図は上が北)


ご存知、藤堂高虎が改築した伊賀上野城は、図の中央の本丸左側(西側)の高石垣が印象的です。


(高田徹「上野城」/『戦国の城 近世の城』1995年所収より)

上野城の最大の見所は、本丸西面に構えられた高さ二〇m余の石垣である。ところで、この石垣は本丸西面にしか築かれておらず、他の本丸周囲はいずれも切岸(きりぎし)のみで防御されている。
天守台は本丸の西寄りに築かれ、小天守台を備えたものであるが、城内中の最高所は本丸東端の城代屋敷の曲輪である。城代屋敷は、筒井氏時代の本丸といわれるが、その最高所を外してわざわざ西面の高石垣寄りに天守台が構えられている
これは、西の大坂方面に防御を周到にしたというより、むしろ視覚的に威圧度を高めようとした面が大きかったと思われる。



高石垣ごしに見た復興模擬天守(現存の天守台の上に建設)


高虎が何故この位置に天守を移したかについては、特段の理由も伝わっていないようで、そこで高田先生の指摘のように、高石垣との関連で理由を推測するしか手がないようです。

ただしここで、問題の西ノ丸天守を含めて考えた場合は、そういう発想のそもそもの原点… 天守は必ずしも最高所でなくても良いのだ、という前例の打破(新機軸)を西ノ丸天守が果たしていた、と考えることも出来るのではないでしょうか。

(※この伊賀上野城の場合は、何故か「西」も共通していますが…)


その他の類似のスタイルとしては、徳島城や鳥取城は山頂の本丸から山腹の曲輪に天守が移る形になりましたし、萩城は初めから山頂の詰ノ丸ではなく山麓の本丸に天守を築き、そして加納城や水戸城の「御三階」は本丸を避けて二ノ丸に設けられましたが、これらのうち、西ノ丸天守より以前にさかのぼる事例はありません。

そして何より、これらの中では、他の参考例になるような強烈な存在は「西ノ丸天守」の外に無さそうです。

それを豊臣の旧臣・徳川の譜代を問わず、様々な大名が参考にしたのは、ひょっとすると <徳川家康の天下獲りにちなんだ天守の位置> だという暗黙の了解が、諸大名の間に広まっていたからではないのでしょうか??



<毛利家の萩城天守も似たような位置にあるが…>



毛利輝元(もうり てるもと)の肖像(毛利博物館蔵/ウィキペディアより)


さて、そうは申しましても、関ヶ原戦の西軍総大将にかつがれ、戦後に所領の六ヶ国を失った毛利輝元が、新たな居城・萩城でまさか <家康の天下獲りにちなんだ天守の位置> を採用したと早合点するわけにも行きません。

輝元にとって西ノ丸天守は、まったく別の意味で、忘れることの出来ない天守だったのではないでしょうか。


萩城の現存天守台(右側背後の指月山の頂上が詰ノ丸)


関ヶ原合戦の三ヶ月前、家康が東軍を率いて上杉討伐に向かうと、豊臣三奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)が、大坂入りした輝元をさっそく豊臣秀頼に会わせ、家康のいない西ノ丸の守備を要請した(『一斎留書』)と言います。

そんな長盛の底意には、この頃、「西ノ丸」という曲輪が、前年に北の政所が家康に明け渡したあたりから、豊臣政権の事実上の「政庁」と化していた事情がありそうです。


例えば一味の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は、輝元と毛利勢の大坂入りは「大坂城西ノ丸の留将よりの要求である」と、反対する吉川広家(きっかわ ひろいえ)と激論を交わしたと記され(『吉川家文書』)、したがって西ノ丸はそうした指令の発信地であったことになります。

またその広家の起請文においても「輝元が豊臣奉行衆の申し出に任せて西ノ丸に罷り上がったのは秀頼に対する忠義と考えたからだ」という意味の文面があるそうで、輝元が(家康に代って)西ノ丸に入ることは、言わば豊臣政権の「執権」職に新任されたかのようなニュアンスを帯びていたようです。


そしてご承知のとおり、輝元は御輿(みこし)にかつがれやすいタチなのか、西ノ丸にいた三ヶ月間、関ヶ原戦に向けて様々な指示(瀬田の防御陣地、津城攻略の督励、四国の藤堂家・加藤家領地の撹乱など)を精力的に発しながらも、自ら出陣することはなく、結局、関ヶ原の敗戦や毛利家の所領安堵、秀頼と自らの地位の保証を知らされると、あっけなく西ノ丸を退去してしまいました。

で、昭和の戦時中に毛利家の三卿伝編纂所がまとめた『毛利輝元卿伝』には、西ノ丸を退去した輝元と家康について、こんなふうに書かれています。(文中の「卿」は輝元のこと)


(渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』1957年刊より)

卿に代って新に大坂城西丸に拠った家康は俄然 強硬態度を以て卿に臨み、且つ毛利氏分国安堵の誓約を反故にするに至った。
これ家康が今や秀頼を擁して大坂の金城湯池に拠り、卿とその地位を代へたゝめに最早 卿を憚(はばか)る必要なきに至ったため、俄(にわ)かに従来の温和なる態度を一変したのである。



どっちもどっち、という感じはしますが、毛利家の史料を総覧して書かれたこの本の言いようには、毛利家の先祖たちが見た豊臣大坂城や西ノ丸の印象(魔力?)が浮き彫りになっているのではないでしょうか。

そしてそこには、どこかしら輝元の心象も含まれていて、歴史の厚いフィルターの向こう側に、西ノ丸天守の残像を探し出せるのではないか… などという余計な想像力が働いてしまうわけなのです。

ご覧の風景には、ある原型があったのではないかと。











作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年04月24日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらにもう一基あった?大坂城天守 〜1596年度年報補筆の不思議〜






さらにもう一基あった?大坂城天守 〜1596年度年報補筆の不思議〜


前回に申し上げた、慶長伏見地震で被災した豊臣秀吉の大坂城天守は、その後、どうなったのでしょうか。
この点については、以前の記事(仮説:大坂城には「五代」におよぶ天守建造の歴史があった)でも申し上げたとおり、有名な西ノ丸の天守が重要なカギを握っているように思われます。




       1.豊臣秀吉による創建天守(天正13年1585年完成)
       2.西ノ丸天守(慶長5年1600年頃完成)
       3.豊臣秀頼による再建天守(慶長8年1603年以降の完成か)
       4.徳川幕府による再建天守(寛永4年1627年完成)
       5.現在の復興天守閣(昭和6年1931年竣工)



通説では大坂城天守は「三代」にわたるものであり、ご覧の当サイトの仮説で申しますと、1〜3が通説では1基の天守としてカウントされていて、すなわち豊臣時代の天守はあくまでも1基であり、慶長伏見地震による被災や倒壊は無かったとされています。

また通説では、関ヶ原合戦の前に、豊臣政権の三奉行が徳川家康の罪状を書き連ねた弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」に登場する“西ノ丸の天守”についても、それを「大坂城天守」の1基としてカウントするようなことはありません。

しかし、これも以前の記事で申し上げたとおり、西ノ丸天守の位置は下図でご覧のように、秀吉が晩年に設けた「惣構(そうがまえ)」の中心点に築かれた、と考えることが出来そうなのです。




つまり西ノ丸天守とは、慶長伏見地震による被災を踏まえて計画された“震災復興天守”だったのではないか―――
そしてそのことを百も承知だったはずの豊臣三奉行(および石田三成)は、弾劾状ではあえて、家康が勝手に西ノ丸に天守を建てたと、事情を知らぬ諸大名にハッタリをかましたのではないか―――
というふうにも思われてならないのです。

現に、文献上では、西ノ丸天守は豊臣三奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)の手配で築かれた、と書いたものがあって、その辺の疑いはかなり濃厚です。

そこで当サイトでは、西ノ丸天守を「大坂城天守」の1基(一代)としてカウントすべきではないか、と申し上げて来たわけです。






<さらにもう1基あった!? 〜1596年度年報補筆の不思議〜>



ところが、前回ご覧いただいたルイス・フロイスの報告書には、取り上げた文章の前の方にちょっと気になる“妙な記述”があって、今回は是非その件を申し上げたいと思います。

早速、問題の箇所をご覧いただきますが、これは、フロイスが慶長伏見地震による都や大坂の被災状況を伝えるうえで、(おそらくは都や大坂の予備知識が無いイエズス会士のために)年報の1596年よりもずっと以前の大坂築城について、改めて書き添えた部分になります。



(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第2巻/1596年度年報補筆「大坂と都での造営のこと」より)

堺から三里(レーグア)隔たり、都に向かう街道に造られた大坂の市(まち)には、民衆がその造営を見て驚嘆に駆られるように、太閤の宮殿と邸に巨大な装置ができた。
(中略)
このように種々の豪壮な諸建築が非常に迅速にしかも入念に完成されるためには、すべての大工、鍛治工、金工、絵師、その他動員される限りの職人たちを、(太閤)は都とその近郊だけでなく、近くのあらゆる領国から召集した。
また(太閤)は大坂の市の第一の塔(天守閣)を改修するように、そしてもっと高く、すなわち七層にまでするように命じた




!!… 最後の二行で「あれ?」とお感じになったのではないでしょうか。

築城を始めたばかりの秀吉が、なんと「大坂の市の第一の塔(天守閣)を改修」して「七層にまでするように命じた」と言うのです。


こんなことを書いた文献は他に無いと思うのですが、ちなみにこれ以降の文面では、大坂城天守は「七層」だと何度も書かれているため、まさにこの築城の時に七層に改められ、秀吉以前はそれよりも低い天守が存在していたかのような書きぶりなのです。

しかも、やや細かいことを申しますと、フロイスはこれ以降の文中で「私が言ったように、七層にまで積まれ」云々というふうに、天守が七層に改められた件をくり返していて、問題の箇所は単なる書き間違いとも思われません。


ただし、この場合、「改修」とは言っても、秀吉の大坂築城が天守台石垣の構築から始まったことは別の文献で明確のようですので、仮にこの報告書のとおりだとしても、厳密には、建物を直に改修したのではなく、それを「七層で建て直した」ということなのかもしれません。

―――で、事の真偽はともかく、秀吉以前の状況はどうだったかを再確認しておきますと、大坂城の前身・石山本願寺が織田信長との戦いの末に開城・退去したあと、すぐに信長の家臣団が入って、退去時に炎上した城内の修築を始めたらしいことが判っています。



(松岡利郎『大坂城の歴史と構造』1988年より)

信長は本願寺を攻めている間に安土に豪壮華麗な天守を築いて「天下布武」をめざしていたが、大坂石山を手中にすると、本丸は丹羽長秀に、千貫矢倉は織田信澄に預けて在番させた(『細川忠興軍功記』)。
また信長は天正八年九月、明智光秀に城の縄張りを命じたという(『大坂濫觴書一件』)。
いずれ大坂を居城とする考えであったらしいが、天正十年(一五八二)六月二日、信長は光秀の謀反により急襲され、京都本能寺で自害してしまう。




丹羽長秀と明智光秀の肖像(ともにウィキペディアより)


さてさて、秀吉以前のこの城には丹羽長秀(にわ ながひで)、明智光秀(あけち みつひで)という、城づくりを語るうえで欠かせない二人の重要人物が登場して来ます。

ご存知、丹羽長秀と言えば、安土城の普請奉行も務めた織田家の重臣で、一方の明智光秀は築城名人としても知られ、この二人のあとで(一時、池田恒興の預かりを経て)同じ「秀」の字つながりの秀吉が、大坂を大城郭に築き直したことになります。


そして松岡先生の指摘のように明智光秀が縄張りを行っていたとしますと、“問題の天守”は、例えば光秀ゆかりの福知山城や亀岡城などの例から類推して、本丸の中央付近にあったと想像できるのかもしれません。

そこで本丸にいた丹羽長秀の名をとって、これを仮に<長秀在番天守>と呼ぶことにしますと、冒頭の「五代」云々の話を踏まえるなら、それらの前にもう一代さかのぼって、合計「六代」になってしまうのです。




もう、いいかげんにしろ!…というお叱(しか)りの声が聞こえるようで、たいへんに恐縮です。

ですが、当時は大坂周辺でも高槻城や有岡城にも天守があったようですし、それらが<天下布武の版図をしめす革命記念碑>であったのなら、信長が長年かかって攻略した石山本願寺の地にも、すぐさま、天主を築け、と命じたとしても、それほど不自然ではなかったように思われるのですが…。



<安土城天主の縮小版? それとも“信長の大坂城天主”のプロトタイプ??>



丹羽長秀の子の天守という伝来の小松城「本丸御櫓」復元アイソメ図

明智光秀ゆかりの福知山城大天守(外観復元)…初重と二重目が同大


ご覧のいずれの天守も初重と二重目が同大で建ち上がり、その上に小さな望楼が載っている、という点では、まさに1596年度年報補筆の「もっと高く、すなわち七層にまで」改修したという話に、ピタリと合致しそうで、どうも胸騒ぎが治まりません。

と申しますのは、ご承知のとおり秀吉の大坂城天守も、天守台上の初重と二重目が同大で建ち上がっていたことは、ほぼ確実のようだからです。


で、妄想ついでにもう一言だけ申し上げるならば、もしも、もしも明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に勝っていたなら、いずれは光秀も、自らが縄張りした大坂城に入城して、この<長秀在番天守>に登って天下に号令していたのではないか―――

などという、二重三重の妄想が頭の中を駆けめぐってしまうのです。……









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2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城天守は「倒壊」したのか イエズス会士の意味深(いみしん)な報告文






大坂城天守は「倒壊」したのか イエズス会士の意味深(いみしん)な報告文




すでにご承知のとおり、当サイトの出発点になった発想は、ご覧の豊臣大坂城の天守には、豊臣秀吉が創建した十尺間の望楼型天守と、二代目の秀頼(ひでより)が再建した層塔型の唐破風屋根の天守があり、それらは屏風絵に描かれ、それぞれに「天守」の時代的な変遷(変質)を体現していたのではないか――― というものです。

で、この発想の支えになっている史料は、有名な文禄5年(慶長元年)閏7月の「慶長伏見地震」によって、伏見城だけでなく、大坂城の天守も「倒れた」「全部倒壊」云々という被災状況が記された宣教師(イエズス会士)の報告書です。


かつて黒田慶一先生は、そうした一連の報告書をもとに欧州で出版されたJ・クラッセの『日本教会史』(邦題『日本西教史』)に触れつつ、大坂城天守の“改修”の可能性について言及されました。

そして当サイトも、やはり慶長伏見地震で秀吉の大坂城天守は大きく被災し、そのことが秀頼の再建につながったのだろうと想定しています。

この基本的な考え方は微動だにしないものの、ただし例の「豊臣大名の天守マップ」(慶長3年当時)には、クッキリと「豊臣大坂城」を記入しておりまして、この一見矛盾するような表示について、今回は若干のご説明(釈明?)を申し上げたいと思います。






(ジアン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より)

太閤殿下の宮殿は大廈高楼盡く壊れ、彼の千畳座敷竝(ならび)に城櫓二箇所倒れたり。此(この)櫓は七八層にして各譙楼(しょうろう)あり。



これは『日本西教史』の大坂城天守の被災についての短い文章で、これだけの文面ですと、「倒れた」のが天守だと解釈されても仕方がないような書き方です。

と申しますのも、原書の『日本教会史』が出版されたのは1689年、慶長伏見地震からは90年ほど後のことでして、そこでよりオリジナルな報告文をたどりますと、まさに地震の年に、ルイス・フロイスが書き送った「1596年度年報補筆」というものがあります。

これは大坂にいた司祭や、京の都にいた別の司祭(フランチェスコ・ペレス)が地震の2週間後にまとめた報告文をもとに、豊臣政権下の出来事をフロイスが長崎から書き送った報告書(グレゴリオ暦の9月18日都発信、12月28日長崎発信)であり、大坂城天守の被災状況がより詳細に語られています。



(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第2巻/1596年度年報補筆より)

私はその地震によって生じた破壊を一部分は自ら目撃したし、また一部分はそこに居住しているキリシタンたちの口から知った。
(中略)
天守(閣)と呼ばれる七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭(propugnaculum)は倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復できない。
同様のことは城郭の他のほとんどすべての諸建築物に及んだが、太閤はそれらの中にいて、それらの建築物の美麗さと絢爛さと輝かしい装飾を楽しんでいたのであった。

(中略)
最後に、すべての中で一番高く、私が言ったように、七層にまで積まれ、その修復のために最終的な手が加えられ、すべてを金箔でめぐらした居間〔そこから(太閤)は非常に絢爛たる装備と隊伍を組んで凱旋行列する十五万の歩兵と騎馬を、シナ使節たちに見せるために展開させるように決めていた〕を有するあの塔(turris)は、半時してから全部倒壊した



というように、こちらの報告文ですと、被災当時の様子をある程度つかむことができ、大坂城天守は初め「倒壊はしなかった」ものの、「半時してから全部倒壊した」と述べられています。

しかしこれをあえて厳しい目で見た場合、詳細でありながらチョットおかしな所があって、それは中段部分で「誰もそこに住まおうとせず」「取り壊さぬ限り修復できない」「太閤はそれらの中にいて…楽しんでいた」などと、多少“日数のかかる事柄”を述べておきながら、最後の部分で、唐突に「半時してから全部倒壊した」としている点です。


これは何故なのか?と邪推をめぐらせますと、この慶長伏見地震を含む一連の長い文章が、第1から第4の「不思議な兆候」という話(体裁)でくくられていて、その第4の「兆候」が慶長伏見地震になっているのです。

第1の兆候……7月、都に大量の灰が降り、大坂に赤みがかった砂が降った

第2の兆候……その後、都と北陸に大量の白い毛髪が降った

第3の兆候……8月、長い光芒を放つ彗星が約2週間、北西の空に現れた

第4の兆候……9月、大地震が秀吉のいる伏見を最も激しく破壊した

この体裁は『日本西教史』にも若干反映されていて、さながらソドムとゴモラ… 神の裁きで滅びた都市のように、高慢華美な秀吉の伏見城や都の大寺院がついに打ち砕かれた、というトーンで一連の文章がまとめられている感があります。


描かれたソドムとゴモラの物語(ジョン・マーティン作/1854年/部分)


 同 (アルブレヒト・デューラー作/1498年/部分)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah



(上記書/1596年度年報補筆より)

願わくは、我らの主なるデウスがこれらの不思議な兆候によって、人々の心にデウスの御威光に対するより大いなる畏怖と愛とが、またデウスの諸律法のよりいっそう熱心な遵守が励まされるよう、その御恩恵を分かち与え給うように、と希求する次第である。



フロイスはこのように「兆候」の成果が得られるよう願っていて、やはりこの年に再び禁教令を出した秀吉に対して、より明確に、神の裁きが下ったことを伝えたい、という心理が働いたことは間違いないでしょう。

そしてフロイス(もしくは大坂や都の司祭)は、いわゆる修辞法(しゅうじほう/言葉を巧みに用いて効果的に表現すること)に最大限の努力をはらったのではないでしょうか。


描かれたソドムとゴモラの物語(ベンジャミン・ウエスト作/1810年/部分)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah


そしてこの年報補筆には、一方の秀吉が、地震国日本の立場を説いたエピソードも紹介されています。

それは、宣教師を敵視していた仏僧が「地震の災禍はキリシタンのせいだ」と秀吉に訴えたとき、秀吉はその仏僧にこう答えたと、フロイスが年報補筆に書き加えた部分でして、これがなかなか興味深いので、やや長文ですが是非ご一読いただけますでしょうか。



(上記書/1596年度年報補筆より)

太閤は本性が賢明で判断力において鋭敏な人間であり、あらゆる風説によって各種の人々の勧めによって己れを欺瞞に導くことを少しも許さず、たとえ我らに対しての愛情または同情によって決して動かされることはなかったとはいえ、彼は次のように答えた。

「汝らは何を言っているのか、判っていない。なぜならもしこれらのこと(地震の災禍)が我らの先祖の時代に決して起こったことのない、日本国前代未聞のことならば、汝らが主張していることは全き真実であると予は思うであろう。しかし歴史上の諸々の古記録によれば、当諸国においては大きな恐るべき地震と震動は何度も何度も生じたことが明白であり、その時にはかの連中(宣教師たち)はまだ日本へは来ていなかったし、かの(デウスの)律法については何も考えられていなかったのであるから、汝らはこうした理由で今回の事件(地震)の原因をかれら(キリシタンたち)に帰することができると思うのか」と。




地震国日本の宿命を説いて、豊臣政権のダメージをやわらげたい、という下心を持った秀吉に対して、ちょっと同情を寄せたような報告文ですが、ただしこの文面においても、なおも、フロイスは「修辞法」の類を駆使した節があります。

と申しますのは、例えば新約聖書「ペトロの手紙第2」にもこれと似たようなフレーズがあるからです。



(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ペトロの手紙第2より)

まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」




これは不信心な者の典型的な“言い草”を挙げたエピソードですが、宣教師の間であれば、ご覧の二つのフレーズが似ていることは、即座に思い当たるでしょう。

つまり地震国日本の宿命を語った秀吉と、「あざける者」とが、ともに「何も変わりはしない」と言い張る未教化の輩(やから)として、同一視できるような形で書かれているわけです。


描かれたソドムとゴモラの物語(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作/1857年)

Free Christ Images/Sodom and Gomorrah


今回ご紹介した「1596年度年報補筆」は、地震の直後に書かれた報告文でありながら(否、その時代の利害関係者が直接に関わっていたからか)前述の第1〜第4の兆候といい、秀吉の発言の取り上げられ方といい、巧みな修辞法によって、神の裁きが下ったことが浮き彫りになっています。

そうした傾向を注視するなら、問題の、年報補筆の最後の唐突なくだり(「全部倒壊した」)もまた、フロイスらの修辞法(付け足し)だったのではないか… という疑惑が感じられて来ます。


となれば、秀吉の大坂城天守は、実際には、年報補筆の中段の「倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復できない」という状態が、地震の日から、ひょっとすると秀吉の死まで、約2年間(!)誰も口出しできずに、そのまま放置されていたのではないか―― とも思われて来るのです。

以上のような疑惑から、例の天守マップにあえて「豊臣大坂城」を表示することにした次第です。



で、最後にもう一つだけ付け加えますと、下の中井家蔵『本丸図』は、そうした満身創痍(まんしんそうい)の豊臣大坂城を、二代目・秀頼のために大改修する青写真だったようにも思えるのです。

(ご参考→2010年度リポート)







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城の再発見!水軍大将・菅達長(かん みちなが)は黄金天守を仰ぎ見すぎたのか






水軍大将・菅達長(かん みちなが)は黄金天守を仰ぎ見すぎたのか


今回は、当ブログが累計40万アクセスを越えました御礼を申し上げるとともに、2011年度リポートの準備を進めるなかで初めて気づいた一件をお話させていただこうと思います。

と申しますのは、豊臣秀吉の黄金天守の姿が、ある武将の心に深く根をおろしたために、老齢にも関わらず彼を決死の行動に駆り立てたのではないか… と思われる節を見つけたからです。


<管流水軍の祖・菅達長の城「岩屋城」とは>


ふつう「岩屋城」と言いますと、歴史ファンの多くが北九州の岩屋城… かの猛将・高橋紹運(じょううん)が島津の大軍に抵抗して玉砕した城を思われるでしょうが、今回の話題の城は、淡路島の北端にあった岩屋城です。

この城は、戦国末期の淡路島に割拠した「淡路十人衆」の一人で、島の北岸から東岸の水軍を率いていた菅平右衛門達長(かん へいえもん みちなが)の拠点の一つでした。


そして大坂湾一帯で織田信長と毛利輝元の覇権争いが激化すると、達長は十人衆の中でただ一人、毛利方について奮戦したそうです。
が、そんな淡路島の攻防も、天正九年、織田方の羽柴秀吉と池田之助の軍勢が上陸すると、たった一日で島内は掃討されてしまいます。

達長は逃亡し、その後も城を奪回すべく、長宗我部元親の弟(香宗我部親康)の与力になるなどして戦を続けたものの、再び豊臣秀吉の四国攻めが起こると、ついに長宗我部氏と共に秀吉の軍門に下りました。


しかしそれ以降は、秀吉麾下の水軍として一隊を率い、九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵と出陣し、朝鮮出兵では舟奉行の一人に加えられたと云います。

岩屋で1万石(後に四国伊予で1万5千石)を領することを許され、達長が創始した水軍の術は「菅流」と称して後世に伝えられました。


豊臣大名の居城(天守)配置/慶長3年 1598年当時…秀吉死去の年

(※新人物往来社『日本史総覧』所収「豊臣時代大名表」を参考に作成)


さて、そんな達長の岩屋城ですが、ご覧のとおり大坂湾をグルリと取り囲んだ豊臣大名の居城(天守)群の中にあって、小城ながらも、淡路島から明石海峡を監視するという重要な役目を担っていたことが分かります。

この時期はおそらく近世の岩屋城ではなく、戦国期以来の岩屋城を使っていたものと思われますが、この岩屋城あたりからも海の向こうの豊臣大坂城はよく見えたことでしょう。


フロイスは「とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」(『完訳フロイス日本史』)と書いていますから、ひょっとすると晴れた日の夕刻には、西陽を照り返して強烈に輝く天守が臨めたのかもしれません。

いずれにせよ、これは達長に対する秀吉の全幅の信頼をうかがわせる居城配置だったと思うのですが、慶長3年、秀吉が死去すると、達長は秀吉の遺品として名刀「長光の太刀」を受け取ったとされています。


そして天下分け目の関ヶ原合戦では、達長はやはり西軍に属したため、所領は没収。辛くも朝鮮出兵時に同じ船手の将だった藤堂高虎の嘆願で救われ、高虎の城下で蟄居し、破格の五千石で仕える身となったそうです。


やがて運命の大坂の陣―――。達長はすでに相当な老齢に達していたようですが、冬の陣が終わり、有名な「外堀・内堀の埋め立て」工事の場で、事件が起きました。

達長らは藤堂高虎の埋め立て分の作業を担当したものの、「内堀まで埋めてしまおう」という徳川幕府の謀略に嫌気がさしたのか(はたまた豊臣方に肩入れしたのか)作業をボイコットして現場に出ず、見回りにきた高虎を激怒させました。

この時、高虎は達長を「腰抜け」と罵倒したようです。
それに対して、達長は「悪言を吐きてこたへり、あまつさえ既に公(高虎)に切り掛からんとの風情なり」(『公室年譜略』高山公巻之七)という行動に出たのでした。

達長の悪言とは「私の腰の抜けたるをいつ御覧ありし」だったとも伝わっていて、達長としては“どちらが腰抜けなのか”という鬱憤(うっぷん)もあったのかもしれませんが、達長はこの件で即座に切腹を命じられました。

(※事件の経緯はサイト「辛酉夜話」様がたいへん詳しく、参考にさせて戴きました)


切腹は埋め立てが終了した三日後だったとも云います。

今日では、達長の行動は古武士の気骨を示したもの、等々と語られますが、ついに達長に「悪言」を吐かせたのは、岩屋城から日々眺め続けた金色の城への憧憬だったようにも思われてならないのです。











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2011年11月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!拡充版!の新イラストと共に見る天守台構造






拡充版!の新イラストと共に見る天守台構造




ご覧のイラストは、前々回の記事でお届けした新イラストを、さらに広い範囲に拡大して、そこに想定される狭間塀(さまべい)や走長屋などを描き加えたものです。

こうしてご覧いただきますと、当サイトの復元案では、豊臣大坂城の天守台周辺はかなり複雑な構造になっていることがお分かりでしょう。

で、今回は、何故こんな形になるのかを、特に天守台の中の石蔵(穴倉)を中心に図解付きでご覧いただこうと思います。
まずは復元の基本的な考え方としまして…


T.<中井家蔵『本丸図』の朱線はやはり無視できない、という基本スタンス>


通称「黄堀図」部分          「青堀図」部分

(※当図は上が南)


お馴染みの中井家蔵『本丸図』には通称「黄堀図」「青堀図」と呼ばれる2枚があり、そのいずれもが、天守の南西隅(図では天守の右上の角)のあたりを墨線でなく「朱線」で描いています。

『本丸図』の他の箇所では「朱線」は土塀や狭間塀を示しているため、この天守の「朱線」をどう解釈するかについては色々な見解がありました。

前回記事でご紹介した櫻井成廣案は「天守台上の空き地を囲う土塀」と考え、また宮上茂隆案は「(この部分の天守壁面が)本丸地面から直接建ち上がっていた」と考証し、三浦正幸案・佐藤大規案はかなり限定的にとらえて石蔵(穴倉)の入口だけ復元するなど様々でしたが、この部分はやはり、何か“特殊な状態”であったことを示しているように思われてなりません。




そしてもう一つ、ここには気になる「朱線」が引かれています。

天守台の南側(写真では上側)に、御殿(「御納戸」)との境界を区切るかのように引かれた「朱線」があり、その中央付近からは天守側に伸びる「朱線」がT字形に枝分かれしています。

このように天守台の間際を細かく仕切った「塀」というのは、現存天守や城絵図の天守にもまるで例が無いため、諸先生方の復元案では、この塀の用途(ねらい)をはっきり言及したものはありませんでした。


ただ唯一、大竹正芳先生が、『本丸図』は築城開始早々の様子だという前提で、
「この時点ではまだ天守の建物が築かれていなかったに違いない。天守台のまわりを塀で囲ったのは工事の安全確保と機密保持のためではなかろうか」(『秀吉の城』1996年所収)
と指摘されたのが、合理的な解釈として印象に残っているのみです。

大竹先生の解釈は、例えば尾張名古屋城の天守台を加藤家(清正)が独力で築いた際に、石垣技術の「機密保持」のために幕で覆った…云々という伝承を想起させるもので、かなり魅力的です。

しかし加藤家のケースは、築城が徳川幕府の監視下であり、諸大名の分担箇所が複雑に入り組んだ「天下普請」の場であったからで、豊臣大坂城の天守台築造のときも、そのような機密保持は本当に必要だったのでしょうか。


さらに当サイトでは『本丸図』の作成時期は「秀吉の最晩年」だったのではないかと申し上げています。(「2010年度リポート」)

その場合、大竹先生の指摘を参考にしますと、なんと、慶長地震で秀吉の天守が大破したあと、秀頼の再建天守(当サイト仮説)が建つまでの“空白期間”に当たる(!)という可能性が出て来ます。

しかしこれについても、果たしてその状態の「機密保持」は本当に必要だったか?という疑問はぬぐえず、この複雑な塀(朱線)はやはり、何かしら別の役割を担っていたように思われるのです。





U.<いま確認できる秀吉の天守台には「浅い穴倉しかない」という、厳然たる事実>


発掘された秀吉時代の姫路城と肥前名護屋城の天守台跡


(※上写真は加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の写真をもとに作成)
(※下写真の肥前名護屋城跡の礎石等は、穴倉の埋め戻し後の模擬石ですのでご注意を)


さて、豊臣大名の天守台には、大規模な石蔵(穴倉)の有るものと無いものが混在しておりまして、その違いを分けた判断基準は何なのか、定かでありません。

例えば秀吉直臣だった浅野長政の甲府城、加藤清正の熊本城、黒田長政の福岡城などの天守台にはそれが有ったのに、いわゆる五大老の毛利輝元の広島城や萩城、前田利家の金沢城(推定)、小早川隆景の三原城、宇喜多秀家の岡山城などは一様に「無かった」と言えそうだからです。


―――では秀吉自身の居城はどうだったか?とダイレクトに問えば、上写真でご覧のとおり、いま確認できる秀吉の天守台遺構は、姫路城も、肥前名護屋城も、深さ5尺ほどの浅い穴倉しか存在しなかった(!)という厳然たる事実があります。


さらにもしも石垣山城や山崎城の天守台跡にも発掘調査が入れば、事態はずっとクリアになるはずだと思うのですが、私の勝手な印象を申しますと、やはりそれらも大規模な石蔵(穴倉)は想像しにくく、たとえ有ったとしても、同様の浅い穴倉の跡が見つかるのではないかと感じられてなりません。

ですから豊臣大坂城についても、気宇壮大な天守台がそびえながら、その上に、わずか「深さ5尺」という浅い穴倉を“いかに復元できるか”が、現下のマニア冥利(みょうり)につきると思うのです。



で、以上のT.U.の考え方を両立できる復元が、ご覧のとおりの複雑な天守台だと考えられるわけです。



(※上図の「高さ5尺の石塁」は『本丸図』の書き込みの数値にぴったり合致するものです)



(※なお当イラスト左隅の走長屋の窓は、突き上げ戸であった可能性も高いと思われます)

(※また前々回の繰り返しで恐縮ですが、こうした景観の手前には、実際は奥御殿の殿舎群が建ち並んでいて、当イラストはそれらを“透明化”した描写になります)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年11月08日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣大坂城天守の造形の肝(キモ)…「付櫓」の話






豊臣大坂城天守の造形の肝(キモ)…「付櫓」の話


かつて著名イラストレーターの香川元太郎先生が「安土城天主は研究者の数だけ復元案がある」と発言されましたが、豊臣秀吉の大坂城天守にも、これまで多くの復元案が登場して来ました。

前回のブログでお見せした新イラストも、そうした系譜の上にアツかましくも参戦させていただこう、との意気込みで作成したものです。

で、改めて歴代の復元案を見直してみますと、「付櫓(つけやぐら)」の復元方法が、それぞれに千差万別の手法(特に天守台の解釈や屋根の突き合わせ方など)を示していて、これがまたマニアックな興味を引きつけてやまないのです。


<櫻井成廣(さくらい なりひろ)案>
(※櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 大阪城編』1970年に掲載の図より作成)

まずは城郭研究のパイオニアの一人・櫻井先生の復元ですが、これは天守台に大規模な石蔵(穴倉)は無かった(!)という大前提から出発しています。

そのため「付櫓」は、天守本体と同じ高さから二階建てで付設され、そこに天守南面では唯一の(!)出入口がある、という構造です。

しかも屋根は天守二重目の屋根から一続きで葺き降ろし、そこに大きな千鳥破風を設けています。


<宮上茂隆(みやかみ しげたか)案>
(※『歴史群像 名城シリーズ@ 大坂城』1994年に掲載の図より作成)

さて次の宮上案は、お馴染み『大坂夏の陣図屏風』の描写と、中井家蔵『本丸図』で天守台南面に引かれた「朱線」に着目した結果、天守の南西部分は本丸地面から直接建ち上がっていた、と解釈したものです。

その影響なのか「付櫓」も、天守台上より一階分低い位置から建てられ、二階建てであるものの、上の櫻井案ほどは屋根の突き合わせに苦労をしていません。


<三浦正幸(みうら まさゆき)案>
(※三浦正幸 監・編修『CG復元 よみがえる天守』2001年に掲載の図より作成)

この三浦先生の復元案もまた、『大坂夏の陣図屏風』の描写に基づく場合を考察したものですが、新たに熊本城天守との類似性に着目したため、上の宮上案に比べれば、天守の中層以下の破風がすべて90度回転した配置になっています。

その結果、「付櫓」については、天守の(二つ並んだ)比翼千鳥破風の復元を優先せざるをえず、平屋建てとなり、それでも屋根どうしが上下に密着した状態です。

また天守台は明確に、大規模な石蔵(穴倉)が存在したとしています。


<佐藤大規(さとう たいき)案>
(※三浦正幸監修『図説・天守のすべて』2007年に掲載の図より作成)

ご覧の佐藤案は、天守台については、上の三浦先生のもう一つの復元案…『大坂冬の陣図屏風』に基づく案と同一のものだと思われます。

そして「付櫓」についても、建物の高さと壁面の意匠以外は同じ構造のようであり、屋根の突き合わせはまったく無理のない自然な処理になっています。





(※このほか大竹正芳先生の復元画等もありましたが、画像の都合で今回は割愛しました)

こうして各案を見比べますとそれぞれ特徴があり、それと言うのも、この「付櫓」は中井家蔵『本丸図』等に漠然とした平面形が示された以外は、何も文献上に情報が無いため、言わば“どうにでも復元できる”フリーゾーンなのです。

―――ということは、逆を申しますと、この部分の復元は、研究者の個々の発想や資質がもろに表出した箇所でもありそうなのです。




そこで当ブログの新イラストを再度ご覧いただき、この「付櫓」はどんな発想から出たものか?と問われれば、「福山城天守」の構造に大きなヒントを得たことを白状いたします。



<何故か多くの共通点をもつ、福山城天守の不思議さ>



福山城天守(アメリカ軍の空爆で焼失/昭和41年に外観復元)


大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、元和年間に徳川幕府の肝いりで、水野勝成(みずの かつなり)が現在の広島県の福山に新築した近世城郭が、福山城です。

築城時には現存の伏見櫓をはじめ、徳川再築の伏見城から多くの建物が移築され、「伏見城」との関係が深いものの、天守については水野氏による新築と言われています。

ところが、この天守、どうにも豊臣大坂城との共通点が多いように思われてならないのです。


【共通点1】 付櫓と付庇(つけびさし)、その下にある唯一の出入口

上の写真でも明らかなように、この天守は、正面向かって右手前側に「付櫓」と「付庇」が一体化して張り出していて、このデザインは冒頭からご覧の大坂城天守の復元像にそっくりです。(張り出しはともに南東側!)

それは細部においても、天守の屋根から一続きで葺き降ろしている点や、大きな千鳥破風で屋根の造形をまとめている点、その下に唯一の出入口がある点など、<櫻井成廣(さくらい なりひろ)案>を介した共通点が満載です。


【共通点2】 半地下構造の天守台石蔵(穴倉)

さらに内部の構造でも、付櫓・付庇・天守本体ともに、初階が浅い石蔵(穴倉)を伴っていて、半地下構造になっていました。

これは秀吉の姫路城天守や肥前名護屋城天守が、ともに深さ5尺という、浅い穴倉を伴っていたことを連想させますし、同様の仕組みはやはり<櫻井成廣案>に採用されています。




以上の事柄を踏まえますと、歴代復元案の中でも古い<櫻井成廣案>というのは、なかなか捨てがたい貴重な示唆を含んだ案であると分かり、新イラストでも多くを参考にさせていただいた次第です。

ただし、そうなりますと……




―――ならば、福山城天守で印象的な「付櫓」の望楼部分はどう解釈すればいいのか? ひょっとして豊臣大坂城まで遡(さかのぼ)るのか?

この点では、ご承知のとおり、秀吉が自ら縄張り(設計)した豊臣時代の和歌山城にも「小天守」が築かれ、大小連立天守だった、との伝承があります。(『南紀徳川史』)

また現在の大阪城天守閣(復興)を設計した古川重春(ふるかわ しげはる)先生も、豊臣時代の大坂城は「二層の小天守を伴った所謂複合式の天守で」と著書に記すなど、「小天守」の可能性には寛容な立場でした。(『日本城郭考』1974年)

マニア心理として、思わず新イラストにあらぬものを描き込んでしまいそうな“誘惑”に襲われ、それを振り払うのに精一杯の心境です。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年10月26日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい






新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい


大阪城天守閣蔵の屏風絵(部分)とその推定復元/ともに<西面>!


当サイトでは、豊臣秀吉が創建した大坂城天守について、上記の『大坂城図屏風』が伝えるおびただしい紋章群こそ、この天守に込められた深刻な政治的思惑を示すもの… と申し上げて来ました。

それは、まさに宣教師の「地の太陽は殆ど天の太陽を暗くする」(『日本西教史』)という評伝どおりの破天荒な外観であり、当サイトはそうした屏風絵の描写に忠実にイラスト化を行ったつもりです。

ただしそれ以来、長らくこの<西面>イラストばかりをお見せして来たため、この度、新たに<南面>(厳密には南西の詰ノ丸奥御殿の南部付近)から見上げた様子を推定して、イラスト化してみました。



(※クリックすると壁紙サイズでもご覧いただけます!)


こうしてご覧になれば、『天正記(柴田退治記)』が伝えたとおりの「四方八角」の建築であったことが、如実にお判りになるでしょう。

で、この新イラストで申し上げたいことは多々あるのですが、まず今回は「紋章群」の実際についてお話してみたいと存じます。



<紋章群は大型の木彫なのか?それとも錺(かざり)金具か?>



その紋章群とは、具体的にはどのような材質だったのでしょう。

同時代の事例で似たものを挙げますと、まずは醍醐寺三宝院の国宝・唐門にある木彫の紋が連想され、この門が勅使門であることを示した「菊紋」「桐紋」には、かつて金箔が張られていたそうです。


醍醐寺三宝院 唐門


一方、『信長記』『信長公記』類によりますと、織田信長の安土城天主には、京の装飾金工・後藤平四郎が腕を振るったという金銅製の錺金具が施されていました。
おそらくは釘隠し(くぎかくし)の類かと思われ、その仕事で平四郎は信長から小袖を賜ったと記されています。


ならば大坂城天守の巨大紋章群の場合、果たして木彫なのか? 錺金具の応用なのか? と問われますと、それを判断できる直接的な史料は無いようですが、ただし紋は「壁」そのものに取り付けられた例はあまり一般的でないようで、その点では注意が必要でしょう。

つまり建物に「紋」がつくのは大抵、門扉、破風、瓦、幕、提灯といった箇所になりがちで、醍醐寺三宝院も門扉であり、その例に漏れません。

例えば年代を問わずに色々挙げてみますと…


北野天満宮の門扉         宇和島城天守の唐破風下


靖国神社の白幕             高山陣屋の提灯



―――ですから巨大紋章群の位置も「壁」ではない、と考えた場合、ここで大きなヒントになるのが、ルイス・フロイスの見聞録にある“秀吉が大坂城天守の戸や窓を自分の手で開いて行った”という記述だと思われるのです。


(※『完訳フロイス日本史4』中公文庫版より)

その後関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔の門と窓を急ぎ開くように命じた。
(中略)
彼は城内で登り降りする際には、低い桁がある数箇所を通過するにあたって足を留め、おのおのが上の桁で頭を打たぬよう注意して通るようにと警告した。
そして途中では閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いていった
このようにして我らを第八階まで伴った。



これはフロイスら宣教師など三十人余りが大坂城を訪問したおりのことで、城内で“頭を打ちそうな桁(けた)”と言えば、まさに天守や櫓の階段部分であることは、お城ファンならすぐに思い当たるでしょう。

そして秀吉と一行がわざわざ天守に登閣するのですから、いきなり真っ暗な天守内にゾロゾロ上がっていったとは思えず、事前に窓を開け放つなどの準備は、当然、ぬかりなく行われていたはずです。


にも関わらず、秀吉が自ら開ける箇所を“残していた”というのは、そこに一行の話題となる何か(つまり興味の対象…)があったとも想像できます。

なおかつ、その箇所が秀吉一人では作業が危ういほど重いもの(例えば巨大な木彫が外側に取り付けられた戸など)であったはずはありません。


このように考えた時、ふと想起されるのが、国宝・犬山城天守にある両開きの窓です。
左右の戸は止め金等でフックするだけの構造であり、秀吉一人でも自在に開け閉めできる程度のものです。


犬山城天守の窓(昭和の解体修理時の復原)


そして「一行の興味を引いた何か」がここにあったとしますと、黄金の紋章群とは、大型の扉金具ではなかったか? と考えられるように思うのです。

―――つまり個々の紋章は、止め金と一体化して左右の戸に打たれた錺金具であり、その窓をあける動作を外から見ますと、巨大な紋章が真っ二つに割れて開き、閉めるとぴったり元の紋章に一体化する、といった面白い(やや不敬な印象もあって大胆不敵、かつ破天荒な)仕掛けだったとしますと、前述の秀吉のエピソードはまことに痛快です。




細工としてこれに類似のものは、例えばこちらは全く時代の異なる錺金具ですが、成田山新勝寺の開山堂などにも同類のものが見られます。


と、今回は、かなり手前勝手な「空想」を申し上げてしまったのかもしれませんが、私が想像するに、そんな仕掛けを宣教師らの前で得意げに開け閉めしてみせる秀吉の表情が、ありありと思い浮かぶのは何故なのでしょう。……

(※次回に続く)


(※ちなみに今回のイラストは、下記の三浦正幸先生による復元CGと、ほぼ同じアングルから作画したことになります)

(※そして両者ともに、実際は手前に奥御殿が建ち並んでいたため、このようなアングルから天守の全身をスッキリ見通せなかったことは言うまでもありません)



別冊歴史読本『CG復元 よみがえる天守』2001年







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2011年06月28日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・皇帝vs八幡神 …大成功?した秀吉の世論誘導






続報・皇帝vs八幡神 …大成功?した秀吉の世論誘導


唐突ですが、現代の戦意高揚の立役者と言えば…

証言する少女ナイラ/油まみれの水鳥/救出されたジェシカ・リンチ上等兵


写真は今回の話題の伏線として挙げてみたもので、いずれも米国民の軍事行動への支持を高めることに成功した事例です。
で、前回は、織田信長と豊臣秀吉の天守が担ったはずの“人心収らん術”について触れましたが、信長の天主は本能寺の変による挫折があったものの、秀吉の天守はひょっとすると“大成功”を収めていたのかもしれません。

と申しますのは、やはり問題の屏風絵にある「菊紋」「桐紋」「左三つ巴紋」「牡丹唐草」の四種類の紋章群が、それを示唆しているようなのです。


大坂図屏風(大阪城天守閣蔵)より


菊紋(十六八重菊)     桐紋(太閤桐)     巴紋(左三つ巴)


このうち「菊紋」「桐紋」は天皇家の紋としても有名で、秀吉が豊臣姓を下賜されたとき、同時に拝領した紋でもあります。

屏風絵の「菊紋」は天皇家の紋と同じ十六八重菊のように見え、「桐紋」は葉脈の少なさや左右の花房が傾いていることから秀吉特有の「太閤桐」とも見えます。


そして天守四重目には「巴紋」があります。巴は神社の紋「神紋」の代表格であり、前回に申し上げた「八幡大菩薩」の紋としても古今の武家から尊崇されたものです。

屏風絵には左巻きの「左三つ巴紋」が描かれ、これと同様のものは神功皇后の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)ゆかりの織幡神社や気比神宮など、数多くの神社で使われています。

(※当ブログの巴の「左右」表記は丹羽基二先生が考証した古い表記法によります)


牡丹唐草


さらに天守二重目と五重目縁下には「牡丹唐草」があります。

牡丹紋は五摂家(藤原氏嫡流)の近衛家の紋として知られ、当時、秀吉が「藤原秀吉」として関白に叙任されたことや、その一件などで縁の深い近衛信尹(このえ のぶただ)の家紋がそれであることも連想されます。

このように四種類の紋は、それぞれに秀吉との関係を語ることが出来る紋章だと言えます。


では、これらが天守全体を使って並べられたこと自体については、特段の意味もなく、ただの羅列に過ぎないと理解していいのでしょうか?

そうではなく、反対にこの点こそが秀吉の狙いであり、紋章群は例えて言うと“秀吉が発したブロックサイン”ではなかったかという感があるのです。



仮説:「見せる天守」に隠された民族の寓意



野球でお馴染みのブロックサインは、監督やベースコーチが敵側にさとられずに次の作戦を味方に伝えるため、複数のサインの組み合わせや順序で指示を伝えるものです。

つまりサインの一つ一つは敵に見られてもその真意は知られず、味方プレーヤーに意図を伝え、密かに意思統一を図るための手段です。


もしもブロックサインという言葉が稚拙であるなら、それは「暗示」「隠喩」「寓意」と称してもいいものかもしれません。

いずれにしても紋章群は、それ全体で、ある一つの(同じ民族だけに通じる)暗示を伝えた、というのが真相に近いのではないでしょうか。……




そしてその中身と言えば、やはり“王政復古の新政権として、神功皇后の三韓征伐伝説を世情に喚起したい”といった、政治的な思惑であったように思われるのです。

つまり、これらの紋章群を掲げた大坂城天守とは、後の「朝鮮出兵」に向けて、底深い意図をもって誕生した建造物だったのではないか…

この点に関連して、著書『雑兵たちの戦場』等で知られる藤木久志先生は、秀吉の朝鮮出兵への動員令をテコに、全国各地で、大名による直接支配が進んだことを指摘しておられます。


政権による全国統一の貫徹と朝鮮出兵の態勢づくりとは並行し統一して進められていった、と断定してもよいであろう。佐竹領で、動員令と太閤検地の指令とが同時に発せられている事実は、統一と侵略の不可分を直接に示す。

(藤木久志『戦国史をみる目』1995年)




秀吉の朝鮮出兵は文禄元年4月、「数千艘」とも伝わる、小西行長・宋義智ら第一陣の釜山上陸から開始されました。

しかし秀吉自身がこの戦争について初めて語ったのは、その7年も前の天正13年だったことはご承知のとおりです。

以来、豊臣政権がこの戦争に向けた態勢固めは凄まじく、前出の藤木久志先生は、開戦の年に発令された「個人の人身把握をめざす個別調査のための人掃い(ひとばらい)令」とその台帳を例に挙げておられます。


こうして秀吉権力によって握られたこの帳面は、やがて民衆の徴兵台帳とも、欠落を追及するさいのブラック・リストともなった。
翌年春、「高麗へ召し連れ候船頭・かこ(水夫)ども相煩い、過半死」という悲惨な状況がおこったさいにも、秀吉権力はただちにこの台帳により、「浦々に相残り候かこども、ことごとく相改め、かみ(上)は六十、下は十五を限って補充を早急におこなえ」という徴発の態勢をとることができた。


(藤木久志『戦国史をみる目』1995年)


まさに国家人民を挙げての総力戦であったことが想像されますが、それをいかに遂行したのかと言えば、藤木先生の同書の指摘がさらに興味深いものです。


しかも、日本人をとらえていた侵略戦のイデオロギーのありようを知ろうとするなら、高麗日記の田尻という侍が、緒戦の連勝に酔いしれながら、そのかみ神功皇后、新羅を退治していらいの日本の神力をみよ、と宇佐八幡宮によせて、特異な意識のたかぶりを示していたことを、見逃しにはできない。

(藤木久志『戦国史をみる目』1995年)


ここに抜粋した鍋島家の侍・田尻鑑種(たじり あきたね)ばかりでなく、当時、従軍した将兵らの心には、際立った“神国意識”が満ち満ちていたことが指摘されているのです。


豊臣秀吉像(大阪 豊國神社)


宣教師の報告にも、朝鮮出兵の直前には“日本中が湧き立っていた”という描写があるものの、そのような高揚感(世情喚起、世論誘導)がいかにして起きたのか、詳しい解明はまだ研究途上のようです。





その点で、もし秀吉にとって統一(再統一)と大陸遠征が不可分のものであったなら、政権発足時に建造した天守にすでに三韓征伐の寓意が込められ、八幡三神の神紋を中心に建物が荘厳された、という可能性はありうるように思われます。

つまり秀吉は、いにしえの記憶の底から「天皇の大権」を呼び覚ますことでまず陣営(関白政権)の正統性を獲得し、そのうえ「神国意識」を奮い立たせることで、天下統一後もつづく戦時体制の構築に成功したとも言えそうなのです。


かつて秀吉の城を「見せる城」と評されたのは小和田哲男先生ですが、華やかな金色の意匠の裏に狡猾な政治的「暗示」を組み込んだ大坂城天守は、おそらく古今に比類なき「見せる天守」であったのです。




これまで秀吉の天守を、たんに“成り上がりの豪華趣味”と評する、表層的で一面的なとらえ方が横行して来たわけですが、むしろ信長ともども、この二人が「成り上がり」だからこそ天守を創造したのであって、私はそういう(豪華趣味という)とらえ方には断固、反対の声を上げるものです。

秀吉の天守は、はるかに深刻な政治的思惑を帯びて、出現した建造物だと思うからです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年06月15日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!皇帝vs八幡神 …信長と秀吉の天守にあらわれた人心収らん術の相違






皇帝vs八幡神 …信長と秀吉の天守にあらわれた人心収らん術の相違




かねてから申し上げて来ましたように、天守とは、それまでの日本の歴史や武家の伝統などを引き継いで出現したものではなく、主に当時のほんの二、三人の人物らの想念が形になって現れた、まことに作為的な造形物だったように思われます。


そびえ立つ天主(天守と同じ意だが、安土城では天主と表記されている)という垂直的なシンボルは、連歌や一揆に象徴されるような、平等原理を基本とした室町時代の社会のあり方や、庭や犬追物といった水平的なシンボルを特徴とする室町幕府的な館のあり方とは正反対のものであり、天下人を頂点として、上位の人間が下位の人間に対して絶対的な優位に立つピラミッド型の権力のシンボルである。

(小島道裕『信長とは何か』2006年)


小島道裕先生のこのような指摘や、また千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭の発展形態として出現したのが信長・秀吉スタイルの城でした」(『戦国の城を歩く』)という発言、そして中井均先生監修の「それまでの城にも、確かに高層建築物は存在していた。しかし、その高層建築物を城内の最も高所に築いて、自分の居住施設とし、「てんしゅ」と呼ばせたのは、信長の安土城からである」(『日本の城』)といった文章など、織豊期城郭の曲輪(くるわ)配置の強い求心性と天守の出現とを関連づけるような考え方が、近年とみに勢いを増しております。


で、思いますに、その(天守“創造”の)ねらいは決して自領内の統治にとどまるものではなかったはずで、何故なら狭い自領だけのことであれば、従来どおりの支配のスタイルで何の不足も無かっただろうからです。

したがって天守“創造”の動機には、その頃、全国政権としての統治のあり方を模索する立場に立っていた、織田信長や羽柴(豊臣)秀吉という成り上がりの“貴種の生まれでない天下人”の強い渇望があったように思われるのです。


その点に関しては前回、「秀吉流天守台」のお話を続ける中で《秀吉の天守と鶴岡八幡宮》という話題に踏み込んだ経緯もありましたので、この機会に一度、信長と秀吉の天守から見えて来る、足利将軍追放(室町幕府消滅)後の人心収攬(しゅうらん)術の模索について確認しておくことに致します。



当サイトの安土城天主の推定イラスト


ご覧のイラストを解説した以前の記事の中で、壁面の「龍」はひょっとすると印判状の紋章であって、さながら中国の九龍壁の「九五之尊」によって「皇帝」を示したのかもしれない、と申し上げました。(→参考記事

その点では、前出の小島先生はこうも発言しておられます。


信長が中国を意識し、自分を皇帝になぞらえようとしていたことは間違いないだろう。天皇を超える権威として存在していたのは、中国の皇帝しかいない。少なくとも信長の意識としては、安土はすなわち、天主の下に天皇を従えた「皇帝」たる信長の都市として意味づけられていたと考えることができる。

(小島道裕『信長とは何か』2006年)


まさに「信長の九龍壁」は城下町の中心に向けられていたわけですが、しかし小島先生が同書で「天下統一の戦争というものが本当に必要だったのかどうかは自明なことではない」ともおっしゃっているとおり、戦国の世で、信長ただ一人が天下統一(再統一!)を叫んでいたわけで、そうした早過ぎた革命児の末路(本能寺の変)が、「皇帝」云々の真の意図を判らなくしてしまいました。



そして秀吉の天守には別種のおびただしい紋章群が… 大坂図屏風(大阪城天守閣蔵)より


その点、後継者の豊臣秀吉は、信長が果たせなかった天下統一を成し遂げた上で、諸大名を総動員して朝鮮出兵に踏み切るという、信長同様の政治目標に(その結末は別として)到達することが出来ました。


そうした秀吉の天守の中には、ご覧の屏風絵のように、日本の城郭建築には似つかわしくない、異様な表現で描かれた天守があることはご存知のとおりです。

上の『大坂図屏風』の天守がそれで、壁面にはおびただしい数の金色の紋章群が並び、屋根には金色の彫刻充填式の破風が据えられ、軒瓦にも金箔が押されています。ここまで黄金づくしで飾り立てられた天守は、他に類似例もありません。

このあまりの異様さから、おそらくは“黄金関白の城”を誇張して描いた特殊な例と解され、これを詳細に検証しようという試みも殆ど行われて来ませんでした。


そこで問題の屏風絵をよく見てみますと、天守には「菊紋」「桐紋」「左三つ巴紋」「牡丹唐草」の四種類の紋章が配置されています。


菊紋(十六八重菊)     桐紋(太閤桐)     巴紋(左三つ巴)


そのうち、ご覧の「菊紋」「桐紋」「三つ巴紋」の三種類は、前回にお話した鶴岡八幡宮など我が国の八幡信仰の起こりと言われる、宇佐神宮の神紋と同様であることが分かります。

これは秀吉が自らの死後に「新八幡」という神号を贈られることを願った件(フランシスコ・パシオの報告)を踏まえますと、問題の天守におびただしい紋章群が掲げられた意図について、改めて検証してみる価値は大きいと思われるのです。



《 辺境の地で「軍旗」に降り立つ神、八幡神 》



宇佐神宮 本殿


平安時代に関東で蜂起した平将門や、石清水八幡宮で元服した源義家、平家物語の那須与一など、日本のあらゆる武家が武運を祈ったのは「八幡大菩薩」でした。

大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮は、その八幡信仰の発祥地にして、全国に四万社以上あるという八幡宮(八幡神社)の総本宮です。


その本殿には、祭神の八幡三神を祀る社が横に並んでいます。

一之御殿の祭神は八幡大神(はちまんおおかみ)であり、社伝(『八幡宇佐宮御託宣集』)によれば、第十五代天皇の応神天皇(誉田別尊/ほんだわけのみこと)の霊であるとされています。

二之御殿の祭神は比売大神(ひめおおかみ)であり、これは地方神の宗像三女神であるとも、また別説には応神天皇の后神とも言われています。

そして三之御殿の祭神が、応神天皇の母、神功皇后(息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと)です。
ご承知のように、神功皇后(じんぐうこうごう)は軍勢を率いて朝鮮半島に渡り、百済・新羅・高句麗の三国に朝貢させたという「三韓征伐伝説」(『日本書記』)の主人公です。
神功皇后は応神天皇を妊娠したまま出陣し、帰国して出産したとされています。




これら三つの社が現在の形に整ったのは弘仁14年(西暦823年)と伝えられ、社殿全体は南に見える御許山(おもとやま)を向いて建立されています。

この山は八幡神が馬に乗って出現したという民間伝承のある山ですが、例えば、山を御神体とする神社はその山を背にして建立されるものであって、その点、宇佐神宮は反対に山側(九州内陸部)を向いて建っているのです。


御許山と周辺の山々


飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年


何故このような形なのか、別府大学の飯沼賢司先生は、これは八幡神の起源にかかわる問題であるとして、次のように指摘されています。


八幡神はその成立の時から、国家というものを背負って登場し、発展してきた。鎮座した宇佐という場所は、古代国家の西の国境であり、八幡神はやがて西方鎮守の神から大仏建立を契機に国家の鎮守神へと変身した。

(飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年)


すなわち八幡神は、古代国家が九州の「隼人」と戦う中で神として現れたもので、その直接の契機は、和銅7年(西暦714年)、隼人側の大隈国の真っ只中(辛国城)に古代国家が豊前の国人衆を入植させたことでした。

社伝に「辛国城(からくにのしろ)に始めて八流(やつながれ)の幡(はた)と天降りて、我は日本の神と成れり」とある瞬間が訪れたのです。


入植民は、周囲の隼人の人々と常に緊張状態にあり、その緊張と争いの中で、「八流の幡」がその城に天降ったのである。
まさに対隼人との戦いの際の軍旗に降りた神であった。


(飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年)


秀吉が自らの死後にまでこだわった「八幡」とは、その起源をたどっても、辺境の地に立って新たな国境を守護する神であり、最前線の尖兵らの軍旗に降り立つ神、すなわち「軍神」であったのです。



(※次回に続く)


  皇帝        vs      八幡神


足利将軍の追放後に、いかにして戦国の世(分裂国家)を再統一するのか…

信長と秀吉、それぞれの深意は天守の紋章群に?








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年05月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!会津若松城と大坂城、二つの楼閣の不思議なめぐり合わせ






会津若松城と大坂城、二つの楼閣の不思議なめぐり合わせ




左の絵は「大坂冬の陣図屏風」に描かれた豊臣大坂城の、本丸(詰ノ丸)奥御殿の楼門式の玄関と遠侍と思われる建物で、これは当サイトの「リポートの前説」(一番上のバナー)でもご紹介したものです。

そして右の写真は、豊臣秀吉が国内平定の総仕上げ「奥羽仕置」を行うべく下向した地・会津若松城で、本丸御殿内に建てられた「御三階」という楼閣の現在の姿です。
これは幕末の戊辰戦争で会津が落城したのち、近くの阿弥陀寺に“ある改造”を施して移築され、当時は本堂として使われたそうです。

(※会津若松城の唯一現存する建物)



二つはいずれも唐破風屋根の入口があって、見た目にも似たところがありますが、今回はこの二つの楼閣の“人知を超えた”めぐり合わせについてのお話です。


では最初に「リポートの前説」を思い出していただくため、是非、その部分をもう一度ご覧下さい。


【疑惑】屏風絵の本丸奥御殿は180度回転している


屏風絵の本丸奥御殿には、鎧をまとった豊臣秀頼が描かれています。
その周辺の殿舎の並び方を仔細に眺めてみますと、それらは中井家蔵『本丸図』の奥御殿を、東西が逆になるように、180度回転した形で描いていることが分かります。




『本丸図』と照らし合わせれば、建物の名称も分かります。
すなわち秀頼のいる御殿が「小書院」であり、その奥には屋根に煙出しのある「台所」があり、左側の大きな屋根二つが「広間」と「対面所」です。

さらに左側の桧皮葺の楼閣は、織田有楽斎ゆかりの正伝院楼門と同形式の玄関と「遠侍」であり、辺りは南庭の路地、数寄の空間につながっていたことまで分かります。




この屏風絵の操作を図解すると…(中井家蔵『本丸図』の同じ範囲で/ともに左方向が北)


ご覧の図解のように、上記の文面で申し上げたのは、大坂冬の陣図屏風は諸資料の合成によって描かれていて、特に奥御殿の周辺は、『本丸図』を180度回転させた形で描かれているのではないか… という疑惑です。

で、もしそのとおりならば、屏風絵に北向きで描かれた玄関付きの楼閣こそが、『本丸図』奥御殿の「遠侍」に他ならないことになるわけです。




ということで、奥御殿は、正式にはこの南の楼閣(楼門)から御殿にあがる形だったと思われるのですが、ここで留意すべきは、『本丸図』(青堀)ではこれらの殿舎がオレンジ色に色分けされている点でしょう。



2010年度リポートではオレンジ色は「建替え新築」を意味したのでは… と申し上げました。

では何故、この周辺にオレンジ色が集中しているのか? と考えますと、あえて大胆に申せば、これらは秀吉の築城以前の、織田信長が命じた丹羽長秀(にわ ながひで)在番時代にさかのぼる、城内で最も古い殿舎群だったのではないでしょうか?

そして大改造の頃には、それらは(少なくとも)築20年近くを経ていたため、建替え新築になったのではないかと……。

で、ご注目いただきたいのは、チョット細かな描写で恐縮ですが、「遠侍」の唐破風の玄関だけは濃い黄色(つまり「移築」?)で色分けされた点です。



これをグググッと深読みしますと、ひょっとすると、丹羽長秀の在番時代は、玄関は西側の台所?の側にしか無かったのではないでしょうか… 

つまりそこが丹羽長秀の「旧遠侍」であり、秀吉の築城を経て、大改造のおりに、その「旧遠侍」玄関の由緒ある唐破風屋根を、「建替え新築」した南側の「新遠侍」にコンバート(移築)したのではないのか……

それらはもちろん大改造の目的、<南に大手を付け替える>という狙いに合わせた措置だったのではないかと……


マニアックな妄想もほどほどにしろ、と言われかねませんが、しかし次の会津若松城の場合を見ますと、そうとばかりも言えないのかもしれません。




右の阿弥陀寺「御三階」は、実際には、正面の唐破風屋根がもともと「御三階」にあったものではなく、城の本丸御殿「内玄関」にあったものを寺が譲り受けて、このように付設したと言われます。

(※「大書院玄関」と表現される場合もあるようです)

高瀬家蔵「若松城下絵図屏風」に描かれた本丸御殿の玄関と御三階



したがって阿弥陀寺の楼閣は、会津若松城の殿舎のポイントとなる部分を、幸運にも、二つも受け継いだ建築物と言えそうです。

こうしたカニバリズム的な措置は伝統建築によくあることで、いっそう興味深いのは、その会津若松城の原形と思われる豊臣大坂城でも、「内玄関」という場所は、文献に度々登場して来た場所だということです。

例えば『落穂集』には、慶長4年、徳川家康が登城して秀頼母子に対面したとき、帰りに「大台所」の「大行燈」(おおあんどん)を供の者に見物させて「内玄関」から出て帰ったという記述があります。


大台所ニ之有る弐間四面の大行燈は外ニ之無き者也。供の者共に見せよとの仰ニ付、備後守承られ中の口に出て御供中を同道して参られ候へば、各各御見せ遊され、夫(これ)より直に内玄関へ御出遊され、御供中を召連られ御旅館へ御帰遊され候と也。

(『落穂集』より)


ここにある「大台所」「中之口」「内玄関」は『本丸図』ではどこに当たるのか?と探してみますと、秀頼母子との対面は奥御殿(の御対面所)で行われたとも言いますので、その場合…



この時、家康は千畳敷に戻る廊下(いわゆる「百間廊下」か)をたどらずに、その前をわざわざ「右の方へ」曲がって、大台所の大行燈を見たいと言い出したそうです。

これは慶長4年(秀吉の死の翌年、関ヶ原の前年)という微妙な時期で、家康が暗殺者の気配を感じて打った大芝居だ、という説もあって、上記の引用の「直に内玄関へ御出遊され」というのは、早く建物外に出るためのとっさの行動で、家康主従が集団で通った「内玄関」とは、まさに屏風絵の楼閣の玄関であったのかもしれません。




ちなみに右の「御三階」の玄関に光り輝いているのは、会津松平家の会津葵(あいづあおい/丸に三つ葉葵)の紋です。

会津若松城と大坂城… と言えば、もちろん“最後の将軍”徳川慶喜と松平容保らの大坂城脱出行の一件も想起されます。


明治時代に阿弥陀寺の関係者がそこまで意図したとは、とても思えないのですが、この二つの楼閣はいずれも、故ある「内玄関」を伴った楼閣のようなのです。










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2011年04月19日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!工程の推理(3)−銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ−






工程の推理(3)−銃撃で敵をなぎ倒す詰ノ丸北西虎口の巧みさ−


宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年/表紙と裏表紙


裏表紙の中ノ段帯曲輪(本丸西側)…詰ノ丸奥御殿より一段低く復元してある


前回も引用させて戴いた宮上先生の本ですが、ご覧のように表紙から裏表紙にわたって、豊臣大坂城の本丸を北から眺めた様子が描かれています。(イラストレーション:穂積和夫)

で、今回の話題は、ちょうど裏表紙の真ん中に描かれた、本丸西側の「中ノ段帯曲輪」(なかのだん おびぐるわ)についてです。


この部分、上記イラストは中井家蔵『本丸図』をごく素直に読んで、詰ノ丸奥御殿よりも一段低い高さで描いてありますが、実は、会津若松城との比較や、別の絵図(『大坂築城地口坪割図』)を踏まえますと、必ずしもこうではなかったのかもしれない、と思われるからです。



【仮説】本丸西側の中ノ段帯曲輪は、実際には詰ノ丸とあまり変わらない高さであり、そのため詰ノ丸の北西虎口は、城郭史上に特筆すべき堅固な「外枡形」(そとますがた)形式の虎口であったのかもしれない



詰ノ丸北西虎口(赤い部分)/敵勢に十字砲火を浴びせる“恐怖の外枡形”か


冒頭のイラストレーションとは異なり、このように中ノ段帯曲輪をより高く想定しますと、石段のすべてを囲い込む形が生まれ、これは例えば、安土城の伝黒金門(でん くろがねもん)の周辺にも似た「外枡形」形式の虎口になります。


これには『本丸図』の描線の情報をやや修正して「読む」必要がありますが、そうすることで、(類似性を申し上げている)会津若松城の天守から鉄門(くろがねもん)にかけての構造に似た形にもなり、その上、銃撃のための巧みな工夫が浮き彫りになるのです。


雁行(がんこう)させた鉄砲狭間は、撃ち手の利便性のためか


この石段を登りきった先の石塁が「雁行」状になっていることは、これまで全く注目されて来なかった点です。

しかし、こうして考えてみますと、雁行状の石塁とその鉄砲狭間は、銃身の長い「狭間鉄砲」(さまでっぽう)の撃ち手らに対して、限られた範囲でより広い稼動スペースを与えるための工夫だったのかもしれません。

しかも…

太線の弾道… 銃撃からの逃げ場を無くす、容赦ない石積み!


このように『本丸図』の描線のままでは意図が分からなかった、細かな石積みの狙い… 敵勢を容赦なく銃撃でなぎ倒すための仕掛けが、ここに隠れていた可能性も浮上してくるのです。




さて、問題の中ノ段帯曲輪が、通説よりずっと高い位置にあったと感じさせるもう一つの理由は、下の絵図の不思議な描写です。


毛利家文庫『大坂築城地口坪割図』(南を上にした状態)


これは豊臣氏の滅亡後に、徳川幕府が大坂城の大改修(二ノ丸石垣の再築工事)を諸大名に分担させた時の絵図ですが、中央の本丸については、まだ豊臣時代のままである可能性が指摘されて来た史料です。

そこで試しに、この図上で、詰ノ丸の範囲を色づけしてみますと…

同図の詰ノ丸の範囲(ブルー)

上図の同じ範囲を『本丸図』で色づけすると…


ご覧のとおり、豊臣氏の滅亡直後の絵図では、詰ノ丸の範囲が広がっていることがお判りになるでしょう。

しかもブルーの領域はちょうど、問題の中ノ段帯曲輪と詰ノ丸を合わせて、一つの曲輪に造成したような形で広がっています。



ですが、もともと中ノ段帯曲輪と詰ノ丸が、冒頭の裏表紙イラストほどの段差があったとしたら、そんな土盛りを行ったうえに、石垣面をぴったり延長して嵩上げ(かさあげ)することなど、簡単に出来るものでしょうか?

それも豊臣秀頼らの主従が城内で生活を続けていた中で…


それよりは、もともと、一つの曲輪に造成しやすい高さがあって、秀頼時代に、その間にあった長い石塁をたんに撤去しただけ、と考えた方がずっと合理的ではないでしょうか。

中ノ段帯曲輪(本丸西側)と詰ノ丸の一体化を示した『大坂築城地口坪割図』


結論として、やはり中ノ段帯曲輪の高さは、必ずしも通説どおりではなかったのではないか…

そして実際の豊臣大坂城は、(秀頼時代の化粧直しの青写真である)『本丸図』のとおりに、すべてがそのまま施工されたとは限らないのでは…

二つの絵図を突き合わせると、そんな疑いも、無くは無いのです。








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2011年04月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!窮民を収容した「本願寺城」の都におとらぬ富貴さ!






窮民を収容した「本願寺城」の都におとらぬ富貴さ!


前回から、豊臣大坂城の極楽橋は「慶長元年に新設された」とする《慶長元年説》に対する疑いを申し上げています。

その理由(論点)を挙げ始めると本当にキリがないのですが、とりあえず羅列した上で、最後に「極楽橋」という名称の由来(寺内町「本願寺城」の実像!)についてお話したいと思います。



理由2.極楽橋周辺の水堀は「十ブラザ前後」の廊下橋ではとても渡れない…



中井家蔵『本丸図』の極楽橋周辺


《慶長元年説》が根拠とする『イエズス会日本報告集』の「十ブラザ前後」という長さの廊下橋では、そもそも極楽橋周辺の水掘は、途中までしか渡れない(!)という物理的な“無理”が伴います。

何故なら、「このブラザは往時のポルトガルの長さの単位で、二.二メートルにあたるから」(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』1992年)であって、つまり「十ブラザ前後」は22m前後=11間前後であり、この水掘の中ほどまでしか届かないのです。


したがって「十ブラザ前後」の廊下橋は、前回、櫻井成廣先生の模型でもお見せした、千畳敷御殿の南の空堀に架かる廊下橋、と考えるのがせいぜい合理的な範囲の長さでしか無いのです。



理由3.かの宮上茂隆先生も、千畳敷に付設された廊下橋と舞台を想定した



宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』(1984年)

※表紙は「極楽橋」を中井家蔵『本丸図』どおりに木橋で描いている


ご覧の宮上茂隆先生の著書『大坂城 天下一の名城』は、ある年代の城郭ファンにとっては懐かしい一冊ですが、この中でも千畳敷と舞台をつなぐ廊下橋が紹介されています。


対面のさい使節に能を見せるための能舞台は、空堀の向かい側に設けられ、千畳敷との間には橋がかけられました。舞台と橋はいずれも彩色され、彫り物などでみごとに飾られていました。

(宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年)


ここで宮上先生が「舞台と橋はいずれも彩色され、彫り物などでみごとに飾られて」と書いたあたりは、やはり『イエズス会日本報告集』の「鳥や樹木の種々の彫刻」等々の表現を意識した結果と思われ、先生がこれらを慶長元年に千畳敷と共に造営されたもの、と考えたことは明らかです。


ただし、ご覧のイラストレーションからは、千畳敷を(櫻井先生とは異なり)「大坂夏の陣図屏風」のままに南北棟の殿舎と想定したためか、懸造りがより大きく南に張り出し、その分、約十間(十ブラザ)の廊下橋は、能舞台の脇(向こう側)を通り越して楽屋につながる形になったことが分かりますし、しかも廊下橋には「小櫓」の類が見られないなど、興味深い点がいくつか盛り込まれています。




そして表紙においては、極楽橋が中井家蔵『本丸図』のとおりに木橋で描かれていて、これは従来の通説に従って、『本丸図』は築城後まもない時期の城絵図である、という考え方に沿ったものでしょう。


で、これに引き比べますと、《慶長元年説》の場合、極楽橋は“まだ当分は存在しない”ことになるわけですから、下の絵のように極楽橋は消えてしまいます。


これは『イエズス会日本報告集』の問題のくだりが「太閤はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし」と始まっている以上、新規の架橋なのでしょう。

――しかし、そうしますと《慶長元年説》では、中井家蔵『本丸図』は、どの時期を描いた絵図だということになるのでしょうか?

もし仮に秀頼時代まで下るとしても、『本丸図』表御殿と千畳敷の時系列的な関係を考えますと、すでに解決策の無い袋小路に陥っているのかもしれません。


《慶長元年説》による極楽橋の未設状態




理由4.肝心要の文献が、極楽橋は「二十間」程度だったことを示唆している



豊国社の跡地から見た阿弥陀ケ峰


ここまでご覧のように、極楽橋の長さは、いずれの先生方の復元でも「二十間」程度ですが、これを裏付けるかのような数字が、日本側の肝心要の文献に記されています。


豊国明神の鳥居の西に 廿間ばかりの二階門建立す 大坂極楽橋を引かれおわんぬ

(『義演准后日記』慶長五年五月十二日条)


この文面は、最終的に廊下橋の「極楽橋」が慶長5年(1600年)、豊臣大坂城から移築され、豊国社の正門(楼門)になったことを伝えたものです。(※その後、再び竹生島に移築)


で、この肝心要の文献に「廿間(にじゅっけん)ばかり」とあるのが要注意点であって、これは言わば“縦使い”の廊下橋を、“横使い”にして、楼門と左右翼廊による約20間幅の門に仕立て直した、という意味になるのでしょう。

「廿間」は39m余ですから相応の構えになりますし、逆に、もしも極楽橋が半分の「10ブラザ前後」しか無かったなら、そこに他の何かを継ぎ足さなくてはなりません。



理由5.しかも『イエズス会日本報告集』の「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」形の廊下橋と言えば、あの有名な橋もたしか秀吉が…



京都の観光名所、東福寺の「通天橋」


ご覧の「通天橋」は歴史上、度々架け替えられて来たそうで、現在の橋は、以前の橋が昭和34年(1959年)8月の台風で倒壊したのを、翌々年に再建したもので、橋脚が鉄筋コンクリート造に変わっています。

で、歴代の通天橋をザッと振り返りますと、寺が発行した『東福寺誌』には…


慶長二年
三月 秀吉の命により、瑤甫恵瓊、東福の通天橋を改架す



という記述があって、なんと秀吉は大坂城に“問題の廊下橋”を架けた翌年(!)に、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)に命じて通天橋も架け替えさせていたのです。

この慶長2年の通天橋は、惜しくも江戸後期の文政12年(1829年)にまた架け替えられてしまい、詳しい形状等は不明のようです。

ただし文政12年の通天橋は、前述の昭和34年の台風で倒壊するまでは健在で、これが古写真等にも数多く残っていて、現状とほぼ同じデザインなのです。


ご参考/江戸時代の名所図会(上方文化研究センター蔵『澱川両岸一覧』文久3年)より

ご参考/通天橋の古写真 「京都東福寺通天橋(国立国会図書館所蔵写真帖)」より


橋の中央に平屋造りの小櫓?


で、慶長元年の問題の廊下橋について『イエズス会日本報告集』は「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」と伝えていて、早くもその翌年に、秀吉はこの通天橋も架け替えさせたわけですから、両者のデザインの“思わぬ符合”が示唆するものは一つでしょう。

大坂城の廊下橋が「此の如き結構は世に類なし」と宣教師が伝えたほどの出来栄えで、さも得意げな秀吉の表情が目に浮かぶようです。


ただし、現状の通天橋は張り出しが片側にしかなく、言わば「平屋造り」の「小櫓」が一基しか無い形ですが、もしも慶長年間には張り出しが橋の両側、もしくは片側に二つ並んでいたとするなら、それはまさしく『イエズス会日本報告集』の記述にピッタリであり、なおかつ、望楼のある極楽橋とはまったくの別物と言えるでしょう。

結局のところ、豊臣大坂城で、望楼のある廊下橋は「極楽橋」だけで、一方の『イエズス会日本報告集』の廊下橋は「平屋造り」の張り出しだけだった、という可能性もありうるのです。



以上のような諸々の疑いから、大坂城「極楽橋」が慶長元年に架けられたとする《慶長元年説》は、幾重にも困難がつきまといます。

正直申しまして、『イエズス会日本報告集』という文献と「城郭論」にもう少し、折り合いがつけばいいのに…(否、櫻井先生や宮上先生の段階ではついていたはず!)と、古参の城郭マニアとしては、ただ、ただ、戸惑うばかりなのです。




補論:「極楽橋」という名は極楽浄土にちなんだものか? それとも全く別の由来のものか?



藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』2006年


さて、豊臣大坂城の前身は石山本願寺であったことから、「極楽橋」という名も、何か仏教に関連したもののように見えます。


しかし例えば「極楽浄土」にちなんだものとすると、極楽橋は本丸の北側に架けられた橋であって(しかも伏見城や金沢城の極楽橋も北側であり)「西方浄土」の西ではない点が矛盾してしまうのかもしれません。

この点に関しては、「村の城」等の研究で知られた藤木久志(ふじき ひさし)先生が、ご覧の表紙の著書で、そのヒントになるような指摘をされているので、是非ご紹介したいと思います。


藤木先生は、近江堅田の真宗本福寺の僧、明誓(みょうせい)が記した『本福寺跡書』によると、本願寺教団とは、商人や職人を本業とする幹部門徒を中核とした、経済的に豊かな教団であり、飢饉のときには窮民らを進んで寺内町に収容したのだと言います。



「御流(本願寺教団)ノ内ヘタチヨリ、身ヲ隠ス」というのは、飢餓や戦争の辛い世を生き残れない、数多くの難民や、世をはみ出した牢人たちを、本願寺教団は包容し匿(かくま)っていた、という。

真宗教団というのは、不遇な人々にとって、大切な生き残るための組織(生命維持装置)でもあった、というのである。

これは、真宗教団の本質についての、とても重要な証言であり、広く一向衆の寺の組織や、寺内町の門徒たちの職業構成についても、同じ視点から検討してみることが、今後の大きな課題になるであろう。


(藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』2006年より)



つまり一般に、当時の「本願寺」や「一向宗」に対して抱かれている“ムシロ旗を振りかざす貧農門徒の集団”といった先入観は、実態とは真逆に近い誤りだったわけで、この点は仁木宏先生も『二水記』の記述から、山科本願寺のたいへん富貴な実像を指摘しています。



筆者の鷲尾隆康(わしお たかやす)は「中流」の公家で、本願寺とは別に利害関係のない人です。その彼の日記の中に(中略)
「寺中」=本願寺は大変広く、その「荘厳」さは「仏国」のようだ。寺内町の「在家」=町屋もまた「洛中」の町屋と違わないぐらい立派だ。「居住の者」はみな「富貴」=富裕で、町人の「家々」の装飾も大変「美麗」である、というのです。

(仁木宏「山科寺内町の歴史と研究」/『戦国の寺・城・まち』1998年所収)



当ブログも以前の記事で、石山本願寺が何十基もの櫓を構えた可能性をお伝えしましたが、それほど「本願寺城」というのは、豊かな経済力や軍事力を備え、それを伝え聞いた人々がさらに集まるという、実在の“王城楽土”であったようなのです。


ですから、ひょっとすると織田信長は、戦場での門徒兵の捨て身の抵抗よりも、むしろ本願寺教団が果たした“社会制度的成功”とでも言うべきものに、いっそう大きな脅威を感じたのかもしれません。

そしてその後、秀吉が大坂城本丸の大手口とした「極楽橋」は、そんな“王城楽土”の輝きを、あえて積極的に継承するための命名だったのではないか――

などと思うわけなのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年03月21日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!望楼のある「極楽橋」は築城当初から存在していた






望楼のある「極楽橋」は築城当初から存在していた




毎日この国の存亡が問われる局面下で、たかが橋一本にこだわるマニア心理はおぞましいと思いつつ、それでも自分なりの決着をつけねば死ぬに死にきれません。
で、「覚悟を決めて」この記事を書きます。……


前回から話題の大坂城「極楽橋」は、豊臣秀吉の晩年の慶長元年(1596年)になって新設されたものだという《慶長元年説》が昨今、定番化しつつありますが、これには大きな戸惑いを感じざるをえません。


と申しますのは、この件では過去に、城郭研究のパイオニアの一人、櫻井成廣(さくらい なりひろ)先生が示したような“別の考え方”(後述)があり、私もずぅーっと(20年以上?)そうだろうと思って来たからです。

それは、屋根や望楼のある廊下橋の「極楽橋」は、結論として、秀吉の築城当初からあったことを容認しうる考え方です。

(※そこで当サイトでは、廊下橋の「極楽橋」は、天正11年(1583年)に始まった秀吉の築城時に架けられたものと考えています)


で、問題の《慶長元年説》の根拠になっているのは、1596年(慶長元年)12月28日付の、ルイス・フロイスの「年報補筆」(『イエズス会日本報告集』所収)の中の「大坂と都での造営のこと」というくだりです。

このくだりは直前に「太閤様へのシナ国王の使節」という文章もあって、まさに朝鮮出兵の収拾策をめぐる明国との交渉の経緯が紹介され、それに続くくだりに、太閤・秀吉が大坂城の堀に「巨大な橋」を架けた話が出てまいります。

やや長文ですが、一連の全文をまずご覧下さい。


(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。
その小櫓には、四角の一種の旗幟
(のぼり)〔長さ八〜九パルモ、幅四パルモ〕が鍍金された真鍮から垂れ、また(小櫓)には鳥や樹木の種々の彫刻がかかっている。(小櫓)は太陽の光を浴びるとすばらしい輝きを放ち、櫓に新たな装飾を添える。

(橋の)倚りかかれるよう両側の上方に連ねられた欄干は、はめ込みの黄金で輝き、舗道もまた非常に高価な諸々の装飾で鮮明であり、傑出した工匠たちの手によって入念に仕上げられたすばらしい技巧による黄金塗りの板が介在して輝いていた。

そこで堺奉行(小西ベント如清)はこの建物について話題となった時、我らの同僚の某司祭に、(その橋は)十ブラザ前後あるので、黄金と技巧に一万五千金が注ぎ込まれたことを肯定したほどである。


(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

(※細字だけ当ブログの補筆)



《慶長元年説》では、この「巨大な橋」こそ極楽橋であり、「鳥や樹木の種々の彫刻」等といった華やかな描写は、例えばオーストリアで発見された豊臣期大坂図屏風の極楽橋の描き方によく符合するとしています。




確かに一見、そのようにも感じられますが、それは話の大前提として、大坂城には華やかな廊下橋がこれ(極楽橋)一本しか無かった場合のことです。

ところが、実際は、そうでも無いようなのです。



論点1.『日本西教史』が伝える、豊臣大坂城にあった“もう一つの廊下橋”



太閤殿下は頻(しき)りに支那の使者を迎ふる用意を命じ、畳千枚を敷るゝ程の宏大美麗なる会同館を建て、(中略)其内に入れば只金色の光り耀然たるを見るのみ。
城外には湟
(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)りにして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱欄干甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。

(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より)

(※細字だけ当ブログの補筆)



ご覧のように『日本西教史』では、冒頭の『イエズス会日本報告集』とまったく同時期の情勢を伝えた部分で、どう見ても「極楽橋」とは別個の、金づくしの廊下橋が新規に架けられたことを伝えています。

こちらの廊下橋は、「畳千枚」の「会同館」つまり千畳敷(御殿)と、その前の堀を隔てた大舞台とを「往来」するための橋のようです。

「鍍金したるを瓦を以て屋を葺き」とありますから間違いなく廊下橋ですし、しかも「一万五千金」という費用の額も『イエズス会日本報告集』と一致しています。


櫻井先生はこれを自作の模型にも反映させていて、ここで是非とも、先生の著書から写真を引用させて戴きたく存じます。


櫻井成廣先生の豊臣大坂城の模型(『戦国名将の居城』より)


左から千畳敷、廊下橋(金ノ渡廊)、大舞台


この模型は本丸を南西から見たところで、「極楽橋」はちょうど反対側の見えない所になります。

櫻井先生はこのように表御殿曲輪の堀際に、清水の舞台のような懸造り(かけづくり)で千畳敷が建てられ、同時に廊下橋や大舞台も併設されたとしていて、これらによって秀吉は、明国の使節に豊臣政権の余力(戦争継続力)を誇示しようとしたのかもしれません。


フロイシュ書簡及び『日本西教史』は御殿の前に堀を越して舞台を設けたとあり、西教史は御殿と舞台とを繋ぐのに約十間の廊下を以てしたと記して居るが、空堀の幅は本丸図によると十三間半であったから三間位突出ていれば廊下の長さは矢張り十間位になる筈であってよく一致する。

(櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 大阪城編』1970)


「三間位突出て」(つきでて)というのは懸造りの部分のことでしょうが、こうして櫻井先生が「金ノ渡廊」と仮称した(もう一つの)廊下橋こそ、冒頭の『イエズス会日本報告集』の「巨大な橋」に当たるのだろうと、ずぅーっと思い込んできた私としましては、いま何故、これが「極楽橋」と混同されてしまうのか、不思議でならない思いがします。

つまり慶長元年に架けられた廊下橋が、この「金ノ渡廊」であって、「極楽橋」はそれ以前から存在していたはずでは… と申し上げたいわけです。



そこで例えば「巨大な橋」という描写を、大坂城の堀のサイズに則して考えてみますと、両者の橋の印象はかなり異なっていたはずです。

何故なら、実際の橋脚の高さは大きく変わらなかったものの、水掘に架かる「極楽橋」は殆どが水面下で、一方の「金ノ渡廊」は水の無い空堀に架かっていたため、見える橋脚はおそらく3倍近い高さがあったと思われるからです。






論点2.しかも『イエズス会日本報告集』の「橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた」形の廊下橋と言えば、あの巨大な橋もたしか秀吉が…

(次回に続く)








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2011年03月09日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!全国に広がる「極楽橋」チルドレンの城郭群






全国に広がる「極楽橋」チルドレンの城郭群


前回、最後のくだりが「極楽橋」の話題になり、それは豊臣大坂城の本丸の「顔」であったと申し上げましたが、今回は、その補足の余談をチョットお話させて戴きます。

――それは豊臣大坂城のあとも、「極楽橋」か、ほぼ同様の廊下橋を持つ城は全国にいくつも事例が続いていて、それらの橋はまさに本丸の「顔」であったり、はたまた奥の別郭への「扉」であったりした、というお話です。


高橋隆博編『新発見 豊臣期大坂図屏風』2010年

(※ちなみにこの話題は、大坂城にいつごろ廊下橋形式の極楽橋があったのか?という「時期の問題」がつきまといますが、仮に上記の本の解説のように慶長元年〜同5年という限られた時期であったとしても、それが「顔」だったのか、別郭への「扉」だったのかという、橋の位置付けはやはり重要ですから、ひとまずこちらのお話を先に致します。)



  一例:金沢城「極楽橋」の現状    一例:和歌山城に復元された「御橋廊下」
 


大坂城以降の「極楽橋」や屋根付の廊下橋には様々なものがあり、その多様性をどのように整理できるかが課題でしょう。そこで例えば…




まず「極楽橋」という名のついた橋の一群があり、そして別の名がついた屋根付の廊下橋の一群もある中で、それらを位置関係や用途から分類しますと、本丸の「顔」として建てられた例と、おもに数寄の別郭への「扉」として設けられた例が混在しているようです。

しかも「極楽橋」という名称を受け継ぎながら、屋根が無かった木橋もあるため、話はやや複雑です。


例えば伏見城の「極楽橋」もそうで、多くの洛中洛外図屏風であたかも“城の顔”のように描かれたものの、それらはすべて屋根の無い木橋でした。

かと思えば、2010年に初公開された洛中洛外図屏風(個人蔵)では、手前の「極楽橋」とは別に、城内の奥まった場所に(おそらくは舟入堀を越えて学問所に渡るための)豪華な廊下橋が描かれていて話題になりました。


KKベストセラーズ『歴史人』2011年1月号にも掲載された話題の屏風


こうした状況は、「極楽橋」と廊下橋の使われ方が、すでに豊臣政権下で変化していた影響ではないかと思われるものの、真相はよく分かりません。

そんな中でも、次のような興味深い現象が見られるのです。



注目すべき事例1 ―渡った先の左手前隅角に天守台 松平秀康の福井城―



福井城に復元された「御廊下橋」/ちょうど背後の石垣が天守台


福井城はご承知のとおり、徳川家康の次男で、二代将軍・秀忠の兄にあたる松平秀康(まつだいら ひでやす)が築いた居城です。

かつては写真の天守台上に天守がそびえていて、この写真の方角から見ますと、まさに当サイトが申し上げている「信長の作法」を踏まえていた疑いがあります。


詰ノ丸(「奥」)の左手前隅角に天守 …豊臣大坂城の場合



しかも福井城の城絵図によりますと、上記の写真の手前側、つまり「御廊下橋」のこちら側は「山里」と名づけられた“馬出しのような曲輪”になっていて、その形状はまるで、当リポートの「北馬出し曲輪」にそっくり(!)なのです。

松平文庫蔵『寛文年間家中屋敷図』より     リポートの豊臣大坂城イラスト
 


このようなデザインの類似や「山里」という名称の符合は、豊臣大坂城のこの場所の変遷(歴史)を踏まえたものだと言わざるをえません。

これはいったい何故なのか?と考えますと、やはり城主の松平秀康が、家康の次男でありながら、実際は豊臣秀吉の側近くで育ったという事実を想わずにはいられません。


小牧・長久手戦後の事実上の人質として、秀康が豊臣家の養子に入ったのは11歳の時。
まさに完成途上の大坂城で秀吉と対面した秀康は、その後、関東の結城家を継いでもなお、伏見や名護屋で秀吉の側近くに仕えたと言います。

関ヶ原合戦の後に福井を居城とし、松平を名乗った秀康が、はるばる江戸入りする時には、二代将軍・秀忠が兄の秀康を品川まで出迎え、駕籠を並べて江戸に入ったという有名な逸話を残しました。


そんな秀康の居城にやはり、豊臣大坂城の残照がくっきりと残されていたことには、徳川と豊臣の間で数奇な人生をおくった秀康の、意地のようなものが感じられるのです。






注目すべき事例2 ―徳川秀忠・家光の二条城の細部も豊臣大坂城そっくり―



二条城の「橋廊下」/橋の二階部分が取り壊された現状


さて、二条城は江戸初期に、大御所・徳川秀忠と三代将軍・家光が、後水尾天皇の行幸を迎えるため、二重の堀に囲まれた城に大改造されました。

そしてその時、二ノ丸御殿から本丸御殿へ内掘を渡る地点に「橋廊下」が架けられました。

行幸の直後に橋の二階部分は取り壊されたものの、今に残る橋の様子もまた、色々と見所が多いのです。


かつては立体交差の複雑な構造だった… 天皇は橋廊下の二階を通って左の本丸へ


全体の構想として、本丸が大御所・秀忠の御殿、二ノ丸が将軍・家光の御殿を兼ねていたと言われますので、「橋廊下」は本丸の格式を高めつつ、ひょっとすると“奥の院”に渡るニュアンスを加味する意図もあったのかもしれません。

したがって「橋廊下」は本丸の「顔」でありつつ、別郭への「扉」でもあったのかもしれず、まさに大坂城や伏見城で熟成された「極楽橋」の進化形のようです。


左:橋を渡って本丸側から見たところ     右:少し角度をずらして撮影 
 


さらに現状の細部を見ますと、これはもう豊臣大坂城を手本とした可能性が濃厚なのです。

例えば右写真の奥の小さな石段は、中井家蔵『本丸図』の極楽橋のたもとに描かれた小さな石段と、まったく同じ位置関係になります。




そして二条城の場合、この小さな石段の上を、先程の天皇が渡った二階廊下が通っていて、そのまま真っ直ぐ本丸御殿の遠侍に達する形になっていました。

(※リポートのイラストもほぼ同じ構造を想定しています)






一方、二条城「橋廊下」の一階を渡って来た者は、大きな方の石段を登って本丸の敷地に上がり、目の前に現れた本丸御殿の玄関から入る形になります。

これもまた豊臣大坂城の仮説と同じスタイルです。


ちなみに下の右写真のように、一階を渡った突き当たりの石垣は、他より大ぶりな石を選んで積んであり、この橋が本丸の正面入口であることを示しています。

左:小さな石段の側から見た様子       右:突き当たりの石垣     
 



このように「極楽橋」の進化と伝播は、なかなか語り尽くすことが出来ませんで、また回を改めてお話させて戴きます。―――



高松城の「鞘橋」/背後に見える建物が天守台上の玉藻殿(解体前)

ここもまた廊下橋を渡った先の左隅に天守が!!









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年02月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!工程の推理(2)−秀吉時代の大坂城が出来るまで−






工程の推理(2)−秀吉時代の大坂城が出来るまで−


クイズ番組の「二つの絵を見て、違いを探して下さい!」ではありませんが、今回の話題は、まさに二つの屏風絵の違いが【謎解き】に関わって来ます。……




上は「京大坂祭礼図屏風」(個人蔵)の大坂城本丸で、下は「大坂冬の陣図屏風」(東京国立博物館蔵)で同じ範囲が描かれた部分です。

ご覧のように上の絵は、極楽橋や桜御門のほかに、手前(西側)から本丸に渡る“もう一本の木橋”が架かっているのに対し、下の絵は、その橋の辺りがちょうど金雲で見えなく(!)なっています。

当ページの最上部バナーの「リポートの前説」をお読みの方は、「アッ」とお気付きのことでしょうが、ここでも問題の“金雲”が暗躍しているのです。

では早速、この【謎解き】を始めることにしましょう。



工程の仮説3.会津若松城と同様に二つの馬出し曲輪があったはず




今回のリポートのイラストにおいて、やはり“風当たりの強い”特徴的な表現(仮説)が、本丸の北側と西側に描いた「馬出し曲輪」でしょう。

これらは現存の会津若松城にも見られるもの(北出丸・西出丸)ですが、現地の発掘調査では、同じ場所から、前代の蒲生(がもう)時代と思しき馬出しの石垣跡も見つかっています。

会津若松城と大坂城築城時の馬出し(※図の両城の方角は異なる)


左の会津若松城を築いた蒲生氏郷(がもう うじさと)は、豊臣政権下で徳川家康・毛利輝元に次ぐ92万石の大大名に登りつめた人物ながら、突然の病で早死にしたために、のちに新井白石が『藩翰譜』(はんかんふ)で石田三成による毒殺説をほのめかしました。

私の勝手な印象でも、氏郷の最盛時の領国(会津若松ほか)は海が無く、内陸部に封じ込められた感があって、これも氏郷の実力が政権中枢部から警戒されていた証のように思われてなりません。


そんな中で、氏郷が、秀吉の天下統一の総仕上げ「奥羽仕置」の地・会津若松で、居城を大坂城とそっくりに築いていたとしますと、これは、かなり痛切な響きがあります。

氏郷の胸中を含めて、築城の方針に関する発言は殆ど無かったようですが、これはひょっとすると、「ひたすら大坂城のとおり」ならば、もう何も仰々しく語る必要は無かったのかもしれません。





さて、今回の仮説の「北馬出し曲輪」は、第一義的には極楽橋が直接、城外にさらされることを避けつつ、本丸北側の防御と出撃の機能を担った曲輪です。

その形は、幸いにして『僊台武鑑』の大坂冬の陣配陣図(個人蔵)にうっすらと痕跡が残されているようなのです。




ご覧の場所が「北馬出し曲輪」の範囲だったとしますと、例えば京橋を渡って来た者がここに入るには、いったん掘際の狭い通路を進んで、さらに堀と本丸に背を向けながら城門に向かわざるをえない、という巧みな構造が見えて来ます。


また、この馬出し曲輪の東側(図では左)は、配陣図の「舟入り堀」に接していた可能性も見てとれます。

このような形式は「馬出し」本来の機能とはやや違ったものになりますが、京の都と連絡する淀川の水運こそ、豊臣政権にとって重大な意味を持っていた点を踏まえますと、かなり信憑性は高いのではないでしょうか。


ちなみに、後の伏見城にも(こちらは大坂城との連絡のために)巨大な「舟入り堀」が備えられていて、それは慶長地震の復興時にもきちんと再築されたほど、不可欠の設備だったことが判ります。

したがって大坂城も、同じ淀川水系の城として、伏見城に似た条件下にあったと考えますと、「舟入り堀」に接した曲輪(「北馬出し曲輪」)には、おそらく接遇のための「舟入御殿」が設けられていたと想像されるのです。






さて、一方の「西馬出し曲輪」は、会津若松城と全く同じならば本丸の東側になりますが、正反対の西側であったように思われます。

その第一の理由は、中井家蔵『本丸図』にある、石垣の下段に設けられた「細い城道」の不可思議な様子にあるのです。




この細い道を城外(右)からたどりますと、本丸に深く切れ込んだ掘の際をグルッと半周して、詰ノ丸や山里曲輪の直下にまで達することが出来ます。

逆にたどる場合は、まるで落城時の脱出ルートみたいですが、それにしては何故、道の先端が城外で“むきだし”になっているのでしょうか?

これでは侵入者に「ここからどうぞ」と言わんばかりであって、およそ理解不能です。


ですから例えば、本来、この道の先端には“何か”があったのではないでしょうか??

その“何か”によって城外と隔てられていたのが、やがて輪郭式の二ノ丸が築かれて、全体が城内に組み込まれますと、その後に“何か”が無くなった時、先端はむきだしのまま放置されてしまったのかもしれません。

で、その“何か”こそ「西馬出し曲輪」だとしますと、この道は、密かに馬出しの内側に通じることになり、それは柵ごしに堀や本丸を眺めただけでは殆ど気付かれない、見事な仕掛けになります。





そして第二の理由が、冒頭に申し上げた“もう一本の木橋”です。

改めてご覧いただきますと、上側の「京大坂祭礼図屏風」には、西から本丸に渡る木橋が描かれています。



このような木橋は『本丸図』の類は勿論、どの大坂陣の配陣図にも見当たらない“謎の木橋”であり、下側の「大坂冬の陣図屏風」の絵師は頭を抱えたことでしょう。

――こんな木橋、資料のどこにある! また金雲で隠すしかないッ… と。


つまりこの木橋は、「大坂冬の陣図屏風」が描かれた江戸初期から、密かに、問題とされて来た存在であることが疑われるのです。




では試しに、この木橋が(築城当初は)実在した可能性を考えてみますと、例えば、第一の理由で浮上した「西馬出し曲輪」の地点から、まっすぐ東(下図では左)に木橋が延びていた場合、その着地点はちょうど山里曲輪の西端(右端)の一段低い場所になります。

そしてこの場所は、先程の「細い城道」の終着点でもあるのです。




つまりこの木橋が実在した場合、《西馬出し曲輪―木橋―山里曲輪の西端―細い城道―西馬出し曲輪…》という、ループ状の閉じた空間が出来上がるのです。

このことから「細い城道」とは、城外と城内の中間に設けられた、帯曲輪の一部であったことが明確になり、これもまた見事な工夫(オリジナリティ)と言えるのではないでしょうか。


そこでさらにイラストでは、『本丸図』の石垣の屈曲を“改造の跡”と想定して、そこに木橋の東端や櫓門、および屏風絵の三重櫓を描いてみました。





さて、以上の仮説を総合しますと、問題の「表御殿」は二つの門「主門・脇門」(礼門・通用門)を備えたことになり、それは京の足利将軍邸にならったデザインである可能性が出て来るのです。

足利将軍邸の二つの門について、千田嘉博先生はこう書いておられます。


館の正面には平唐門形式の礼門(らいもん)とよぶ正式の門と、四脚門形式の日常の通用門という二つの門があったことも見てとれます。礼門は将軍のお出ましなど特別なときしか用いませんでした。(中略)日常使いの通用門は戸が開いていて、人びとが出入りできました。

(千田嘉博『戦国の城を歩く』2003年)


このように築城時の表御殿が、足利将軍邸の作法にのっとって造営されていたのなら、ひょっとすると、唐破風屋根のある極楽橋こそ、人々に事実上の「礼門」と見られていたのではないのか―――

華やかさといい、奇抜さといい、秀吉の宮殿の「顔」として申し分のない建造物だったと思われます。

(次回に続く)








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2011年02月09日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!秀吉時代の大坂城が出来るまで−工程の推理(1)−






秀吉時代の大坂城が出来るまで−工程の推理(1)−




越年でお届けした2010年度リポートは、ご覧のイラストの解説が間に合っておりませんで、今回からその補足説明をしてまいります。


工程の仮説1.基本的な縄張りは石山本願寺をそのまま踏襲した


まずは、ルイス・フロイスが伝えた大坂築城のくだりの一部です。


旧城の城壁や濠は、このようにすべて新たに構築された。そして宝物を貯え、武器や兵糧を収容する多数の大いなる地下室があったが、それらの古い部分は皆新たに改造され、警備のために周囲に設けられた砦は、その考案と美観においてやはり新建築に属し、とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた。

(『完訳フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳)


ご覧のように、豊臣秀吉の大坂城の前身が石山本願寺(「旧城」)であったことは確実ですが、構造(縄張り)的にどこまで関連があったのかは明確でありません。

そうした中で、当サイトは、豊臣大坂城の築城当初の構造は“石山本願寺と殆ど変わらなかった(!)のではないか”という仮説を申し上げております。

それは上記の文章にも拠りますし、さらには…




ご覧の図の右側は、本願寺がその昔、大坂に本拠地を移す以前の「山科本願寺」の様子でして、周囲には巨大な土塁と堀をめぐらした国内有数の要害でした。

そして左の青い部分が、リポートで申し上げた大坂築城当初の範囲であり、この両者の相似形には、本願寺側の一貫した着想(つまり両方とも本願寺の普請だった可能性)が感じられてならないからです。

(※これは当ブログの記事「大坂城に隠された、もう一つの相似形」でも申し上げた件です。)


で今回、是非とも付け加えたいのが、石山本願寺にも“相当な数の櫓が林立していた”可能性があることです。


松岡利郎先生の指摘によりますと、天文10年(1541年)の寺側の記録に「寺中之櫓悉吹倒之、只五相残」(『証如上人日記』)とあるそうで、櫓がことごとく倒れ、たった五棟だけが残った、というのですから、通常はいったい何十棟(!?)の櫓が建ち並んでいたのでしょうか。

これも先程のフロイスの報告「警備のために周囲に設けられた砦は、その考案と美観においてやはり新建築に属し」という文章と突き合せて考えますと、櫓について秀吉がやったことは、新しく織豊城郭の手法を駆使しつつも、同じ場所(の石垣上)に櫓を再建しただけではないのか… といった疑いが深まるのです。


唯今成す所の大坂の普請は、先づ天守の土台也。其高さ莫大にて、四方八角、白壁翠屏の如し

(『天正記(柴田退治記)』より)

リポートでも引用したこの文章の「翠屏(すいへい)」は屏風のことですから、城には「四方八角」の天守がそびえ立ち、石垣の上に白漆喰の櫓や塀が「屏風のごとく」幾重にも屈曲しながら連なっていたことが推測できます。

その辺は、まさに「新建築」や「天守閣」で人々を驚かそうとした秀吉のねらい通りだったのかもしれません。





さて、ちなみにフロイスもまた、秀吉時代の大坂城が“北を大手としていた”可能性をほのめかしていて、この機会に是非ご紹介しましょう。

それは秀吉が大坂遷都を断念した後、その空いた土地(天満)に、再び本願寺を呼び戻した時の報告文です。


筑前殿は、本章の冒頭で述べたように雑賀に移っていた大坂の仏僧(顕如)に対しては、彼が悪事をなさず、なんらの裏切りなり暴動をなさぬようにと、川向うにあたり、秀吉の宮殿の前方の孤立した低地(中之島、天満)に居住することを命じたが…

(『完訳フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳)


このようにフロイスは、天満を「宮殿の前方の」とさり気なく形容していて、「背後」とか「裏」とかいった言葉は、決して用いていないのです。


現在の京橋と復興天守閣/これが城本来の正面(北)からの景観か?




工程の仮説2.大規模な石垣工事で会津若松城に酷似した連郭式の城へ


申し上げたように、秀吉の最初の大坂築城工事とは、土塁づくりの旧城を、石垣や白壁や天守のある新式の城に「改装」したことに他ならないようです。

そして出来上がった大坂城は、《本丸−二ノ丸−三ノ丸》と曲輪が連なる「連郭式」の城として、現存の会津若松城にそっくりな縄張りであったように思われます。

(※左の大坂城の曲輪は通例のままの名称で、これが築城当初は、本丸−二ノ丸−三ノ丸であったはずです。)



いま会津若松城の話題と言いますと、江戸後期の旧観を取り戻すべく「赤瓦」への改修が終わったところで、三月には記念のイベントが開かれるそうです。

会津若松市観光公社のHPより


こうした天守の雄姿は、遠くからも、例えば会津若松の駅の方からやって来る場合も、時おり、建物の間に天守を望見することが出来ます。

ところが城の東側、二ノ丸・三ノ丸の側から城に近づく場合は、フッと、いつの間にか天守が全く見えなくなる区域があり、やっと本丸に至る「廊下橋」の辺りに来ても、天守はまことに見えづらいままなのです。






これはまるで…

同じく、天守が見えにくい大阪城二ノ丸南西の大手口


このように、天守をしっかり見せる必要の無い方角…… それは本来ならば、身内や家中に連なる者供が控える区域であったはず―― そんな風に思えてならないのですが…。

(次回に続く)








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2009年04月13日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!大坂城に隠された、もう一つの相似形





大坂城に隠された、もう一つの相似形


予告どおり大坂城の話題に戻ります。

ただし前回まで「天守の発祥」について色々とお話しましたので、豊臣秀吉の大坂城においても、天守(特に天守台)の築造がいかに肝心要の事業だったかをご紹介します。


大阪城の航空写真(※上が南)



かつて東洋学者の藤枝晃先生が、「大阪城の本丸は前方後円墳だった」という説を発表しました。


航空写真でご覧のように、現在の大阪城は徳川幕府の再築を経たものですが、本丸の形には前方後円墳の面影が感じられ、藤枝先生がおっしゃったとおりのようです。

そうしますと、この場所の歴史的な変遷としては、前方後円墳→→石山本願寺→豊臣氏の大坂城→幕府再築の大阪城→現在の大阪城公園ということになります。


そして当ブログは、さらにもう一つ、大坂城には“意外な相似形”が隠されていることを指摘したいと思います。






左の豊臣大坂城の図で青く示した部分は、いわゆる本丸の奥御殿と表御殿、そして二ノ丸の(塀で区画された)南部のスペースです。

この部分を仔細に眺めますと、妙なことに、秀吉の有力家臣だった蒲生氏郷(がもううじさと)の会津若松城に酷似しているのです。



すなわち豊臣大坂城の本丸奥御殿は会津若松城では本丸にあたり、同様に、表御殿は二ノ丸にあたり、二ノ丸南部は会津若松城では三ノ丸にあたるというわけです。


しかも天守台の配置もそっくりであって、それぞれの曲輪の屈曲の具合まで、妙に似ていることがお分かりでしょうか?

(※表御殿と会津若松城の二ノ丸は“左右”が反転している可能性もあります)


これは、まるで一方が、もう一方を参照しながら築城したようにも感じられます。

(※勿論、時系列では大坂城の方が先です)



このように見直してみますと、豊臣大坂城の縄張りには、実は、本丸・二ノ丸・三ノ丸が一列に並んだ「連郭式」のレイアウトが隠れていた可能性があるのです。

これには一体、どういう経緯があったのでしょうか?

その謎を解くヒントが、右の「山科本願寺」の復元図にありそうなのです。






山科本願寺は、浄土真宗の中興の祖と云われる蓮如が、文明10年(1478年)、門徒らと共に京都の東・山科盆地に築いた寺内町です。

ここには武家の城に先行する大規模な土塁のあったことが注目されていますが、やがて六角定頼と日蓮宗徒の焼き討ちに遭うと、教団は大坂の石山(豊臣大坂城の前身、石山本願寺)に移転しました。


そうした山科本願寺と豊臣大坂城は、全体のレイアウトが似ているのです。

殊に北部(図では下)のカーブを描いた辺り、豊臣大坂城で云えば前方後円墳の「円」にあたる箇所はよく似ていて、天守台と山里丸の高低差のある部分が山科本願寺では「大ホリ」にあたり、また二ノ丸南部に向けて曲輪が斜めに接続していく形も同じです。


何故このような相似形が生まれたのか?

それはひょっとすると、この山科本願寺のレイアウトを踏襲しながら、大坂の石山本願寺は前方後円墳の上に建設され、それがすでに、のちの豊臣大坂城とほぼ同じ連郭式の土塁造りの城塞になっていた、ということではないのでしょうか??




石山本願寺の復元に関しては、すでに諸先生方による研究が進んではおりますが、この“思わぬ相似形”が示す仮説ならば、かの千貫櫓(せんがんやぐら)の石山本願寺時代の位置についても、無理なく説明することが出来ます。


千貫櫓とは、織田信長の軍勢が石山本願寺を攻めたとき、難攻不落の手強い櫓を「千貫、銭を出しても欲しい櫓」と呼んだことに始まります。




そしてその位置は、仮説のとおりならば、豊臣大坂城の千貫櫓とまったく同じ場所だった、と考えることも可能になるのです。



ですから、秀吉による第一期の大坂築城とは、実は、堀を一から掘り始めるような土木工事はごく一部に限られ、多くは石山本願寺の構造をそのまま流用して、もっぱら総石垣の構築に全力を傾けたものだったのかもしれません。


となると、秀吉が完成させた当初の大坂城は、まさに図の青い部分だった可能性が浮上し、それによって会津若松城との相似も十分に説明がつくのです。


(※中井家蔵『本丸図』との整合性を懸念される方に申し上げますと、次回リポート「秀吉の大坂城・後篇」で驚くべき種明かしを予定しています。ご期待下さい)



秀吉の大坂城天守(十尺間の復元案)



さて、今回の結論として注目すべき点は、秀吉が、そうした大坂城の築城を「天守台の築造」から開始したことでしょう。


唯今所成大坂普請者、先天守土台也

(唯今成る所の大坂普請は先ず天守の土台なり/『秀吉事記』)



天正11年夏、来たる徳川家康・織田信雄連合軍との激突を前に、秀吉は同心する大名や家臣団を動員して「石集め」を終えると、9月に天守台の築造を始め、11月にはその石垣を完成させています。


城の中心から石垣を築くという手順もさることながら、まずは天守ありき、という秀吉の築城術のもと、自らの陣営の正統性をアピールするため、十尺間という“関白太政大臣の天守”が建造されることになったのだと思われます。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年02月25日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣秀吉の生涯最大の発見





豊臣秀吉の生涯最大の発見


今回はやや話を戻しまして、「十尺間の天守」に関連した、ある興味深い「本」を見つけたので、その話題でチョット書きます。


下の図は、関白秀吉の大坂城天守の柱割を推定したものです。

こうした破格の(十尺間の)天守は、関白政権(今谷明先生のおっしゃる“王政復古”政権)を喧伝するため、秀吉があえて建造したものと想定しています。



  (※詳細はぜひ2008冬季リポートをご覧下さい)


何故こんなものが必要だったか?と申しますと、例えば「天下」(「天下布武」)という言葉は、中国大陸での用例を踏まえれば、分裂した戦国の世を再統一する願望が込められた言葉だったようです。
(参考:古くは安部健夫著『中国人の天下観念』など)

また立花京子先生も、天下布武の語源について、中国の古典に「天下に武を布き静謐と為す」意味の語句があるのではないかと探し、「七徳の武(しちとくのぶ)」を挙げておられます。


同様に「天守」という名称にも、どこか“古代の統一国家への回帰”という調子が含まれていて、秀吉の王政復古政権を喧伝する「十尺間の天守」も、その範疇にしっかり納まるものだと感じています。


ところが最近、まったく別の視点から「秀吉の狙い」を読み解くヒントが得られそうな本を見つけました。



国際日本文化研究センターの井上章一先生がお書きになった『日本に古代はあったのか』(角川選書/2008年)がそれです。

(※※城郭関連の本ではありませんので念のため)

この本で、井上先生は「自分は歴史学者ではない」と何度も断りながら論述されてはいるものの、その指摘にはハッとするものがあり、要は、日本史には「古代」はもともと存在せず、原始社会からいきなり「中世」封建社会になったのではないか、という内容なのです。




現状の歴史区分をおおまかに申し上げますと、西洋史では、「古代」とは古代ギリシャや古代ローマなどの「奴隷が生産を担った時代」であり、それは5世紀の西ローマ帝国の滅亡で終わり、その後は「中世」に区分されます。

にも関わらず、日本史で「古代」が終わり「中世」になるのは、武家政権が胎動する11世紀頃の院政期とされていて、西洋史に比べると700年も遅く、(前漢の滅亡を古代の終わりとする)中国史に比べると、1000年も遅くなってしまうわけです。


何故こんなことになるのか?? この本によれば、その原因の一つに、第二次大戦後、マルクス主義史観の学者たち(渡辺義通、石母田正といった人々)がそう決めてしまった、という背景もあるそうです。



そこでこの本では、日本に「奴隷が生産を担った古代」など本当にあったのか、という話が展開されていくわけですが、特に興味を引かれたのは、旧ソ連(!!)のコンラードという学者まで例に出して、外国人の研究者がやはり日本の歴史区分はおかしいと感じている部分の紹介でした。


「日本では、武家の台頭によって封建制ができあがったとされやすい。しかし、コンラードは、官僚貴族も封建諸侯であったと考える。公家も武家も、ひとしなみにあつかわれていたのである。(中略)ともに、農奴からあがりをまきあげていたという点では、つうじあう。だから、律令制下の公家社会もまた、封建的であったと、そう考えたのである。」
(『日本に古代はあったのか』)

つまり経済基盤から言えば、公家も、武家も、同じく農民(農奴)に頼った封建領主だ、というわけです。



そこで話は「秀吉」にもどるのですが、百姓から武家になり、やがて豊臣姓を下賜され、人臣を極めた秀吉は、日本の階級社会を突き抜けたスーパーマンのようにも言われます。

ところが『日本に古代はあったのか』のように、日本は有史以来、「中世」封建社会だったとすると、秀吉はことさら特殊な人間ではなかったのかもしれません。


秀吉は、織田信長の家臣であった頃、京都奉行として“公家”をじっくり観察できる時期がありました。

ですから、ひょっとすると、秀吉の生涯最大の発見は「西洋の歴史に照らせば、日本の公家も、武家も、同じ穴のムジナだ」と見抜いて、関白政権の実現性をまったく疑わなかったことではなかったのか、とも思われるのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年02月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!特撮映画の神様がつくった豊臣大坂城





特撮映画の神様がつくった豊臣大坂城


映画・テレビに登場する天守は、現存や復興の「別の」天守を「堂々と」画面に映し出すことが日常茶飯事であって、これは映画の誕生以来、百年以上もまかり通っています。

例えば姫路城天守で「江戸城」と字幕を打つカットなど、かの『暴れん坊将軍』の旧作でお見かけしたりすると、ある種の“爽快感”も漂うほどです。


でも、2、3日前に時代劇専門チャンネルで見かけたNHK大河『おんな太閤記』(1981年放送)では、秀吉の長浜城を、岡山城天守の妙な仰角アングルでこなしていたら、次に、その岡山城のシーンが来てしまい、やむなく松江城天守で「岡山城」と字幕を打っていました。

その時の、現場のスタッフの狼狽ぶりが目に浮かぶようです。


さて、当ブログがこだわる豊臣時代の大坂城も、映画やテレビにさんざん登場してきましたが、そうした中で「さすがは!!」と感じ入った1本が、三船敏郎主演の東宝映画『大坂城物語』(1961年公開)です。

映画の冒頭シーンからタイトルバックが、豊臣大坂城の威容を見せつける移動ショットで、終盤クライマックスの砲撃で櫓の壁が崩れるシーンなど、みごとなミニチュアセットの特撮で表現されています。




この映画、特技監督はあの円谷英二(つぶらやえいじ/1901−1970)であり、つまりは、ゴジラを創造した“特撮映画の神様”が手がけた豊臣大坂城なのです。


時期的には、円谷監督60歳の時の仕事で、前年には傑作『ガス人間第一号』、同じ年には日本映画初の海外同時公開『モスラ』、翌年には東宝30周年記念『キングコング対ゴジラ』公開という、東宝特撮映画の黄金期につくられた映画です。


そして写真でご覧のとおり、この大坂城天守の造形は、まぎれもなく故・櫻井成廣先生の復元案を忠実になぞっています。

(※エントリ記事「大坂城に七色の天守はあったか?」ご参照下さい。ただし円谷監督は、櫻井先生の復元案にある屋根の色については、さすがにそのままは採用できなかったようで、普通の土瓦で屋根を葺いています。)

また映画のクライマックスでは、櫻井先生が復元に苦心された千畳敷御殿も、みごとな仕上がりで登場し、二階部分から「炎上」しています。


なお余談ながら、この円谷監督の豊臣大坂城は、市川染五郎(現・松本幸四郎)主演『士魂魔道 大龍巻』(宝塚映画/1964年公開)という作品でも、まったく同じミニチュアセットのシーンが登場します。

こちらも特技監督に「円谷英二」の名がクレジットされるのですが、映画を見続けても、それ以外に特撮シーンが一つも見当たらないまま物語は進み、ラストになって、びっくり仰天の“大特撮シーン”が現れ、筋立てがドンデン返しを食らうという、かなり破天荒な作品です。
(※失礼!両作とも映画全体は名匠・稲垣浩監督の作品です。)


こちらは『大坂城物語』とは制作年度が違うため、きっと豊臣大坂城のシーンは、撮影済みのフィルムを、両巨匠(稲垣&円谷コンビ)の一存で、制作会社の違いも乗り越えて「使い回した」のではないでしょうか??




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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