城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」


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2017年05月19日(Fri)
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城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」





目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」


大砲を持たなかったヌルハチの満洲「八旗」兵の寧遠城 攻め / 城壁を崩した!?…


先月の記事では、澁谷由理著『<軍>の中国史』で「兵士や軍人は不人気なうえにきらわれる存在であったし、現在でも庶民からじつは畏怖敬遠されている」という風に、中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史があることをお伝えしましたが、そんな中でも、最後の帝国・清朝(満洲族)の「八旗」制度の兵だけは、ちょっと違ったニュアンスで紹介されていました。


(澁谷由理『<軍>の中国史』2017年より引用)

清朝のつよさの一因としてかならずあげられる八旗(はっき)制度は、ヌルハチがはじめたことになっている。(中略)一色につきふちどりのない旗とある旗との二本をつくった。
たとえばふちどりのない黄色い旗(およびそのグループ)は「正黄旗(せいこうき)」、同色でもふちどりのある旗は「鑲黄旗(じょうこうき)」、というように区別され、四旗の二倍であるから「八旗」である。





(引用の続き)

戦時には各旗、およびそれ以下の単位にも、役割を分担させて複雑な戦法をとることができた。
ふだんから生活をともにする仲間どうしで部隊が形成されているので団結力もあり、満洲人躍進の原動力となった。

(※「旗」の下の組織単位である)ニル・ジャラン・グサの長は平時においては行政官、戦時においては指揮官であった。日常生活と従軍生活とのメンバーを一致させるしくみは金朝の猛安・謀克の制とおなじだが、時代がくだったためもあり、さらに整然としている。



!… 日常の行政官と戦時の指揮官が同一人物で、しかも日常生活と従軍生活のメンバーがいつも一緒とあっては、兵に対する「蔑視」など、起こりようが無かったのかもしれません。

そんな「八旗」制度の生活を想像するには、日本で言うなら江戸時代の「五人組」とか昭和の戦時下の「隣組(となりぐみ)」などを連想しそうですが、最小単位の「ニル」が兵士300人程度を出せる集団だったと言いますから、規模はケタ違いに大きく、例えばソ連の実験的な集団農場「コルホーズ」の構成人員は60人程度だったそうで、それよりさらに一ケタ以上、大きな集団だったことになります。

では何故、そうした軍の全体が「八つ」の「旗」だったか、と言えば…



杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』2015年(第5回 三島海雲学術賞 受賞)

懐徳堂記念会編『世界史を書き直す 日本史を書き直す』2008年

 

『大清帝国の形成と八旗制』261頁の「巻狩の陣形」の図から


(『大清帝国−』より引用)

八旗の左右翼の区分・序列は、一見すると無原則にも見えるが、このように黄旗を北として南面して翼を閉じた場合、左翼すなわち東方に白旗、右翼すなわち西方に紅旗、そして南方で翼端の両藍旗が合わさって、円陣を構成するようになっているのである。

この中軍すなわち囲底をフェレ(fere)、両翼をメイレン、翼端をウトゥリ(uturi)といい、囲猟の基本型は囲底を中心とする五隊編成で、翼端のウトゥリが合同して包囲陣が完成すると、四面になるのである。

(中略)
狩猟とはすなわち戦闘訓練であるので、これは実戦における包囲戦時の基本配置でもあった。


という風に、前々回の記事からご紹介してきた同書では、実際に、二代目ホンタイジの軍勢が遵化城や大凌河城を包囲した際、この色の配置どおりに城を包囲した記録が紹介されていて、したがって「八旗」とは、狩猟の陣形からヒントを得た初代ハンのヌルハチが、それを軍の編成から社会の統治手法まで一貫させた(ちょっと無茶な感じもする…)壮大な国家制度であったようなのです。


で、私が上記2冊の本に興味をもったのは、藤田達生先生の著書『天下統一』のあとがきに「杉山清彦氏の研究によると … 大清時代の八旗体制(旗とは大名家中、藩に相当する)と江戸時代の幕藩体制との類似点が注目されている」とあったからでして、上記2冊のなかで杉山先生は清帝国(正式な国号は大清)について、歴代の帝国とは決して同列に語れないものであり、当時の世界情勢やアジア情勢が生み出した、特異な「新興軍事政権」なのだと主張されています。

とりわけ、上記左側の大著での満洲族(マンジュ=大清グルン)に関する情報量の多さには、私なんぞは到底、付いて行けるわけがなかったものの、その論述の大枠のねらいに対しては、私なりに大きな共感をおぼえました。


(『大清帝国−』386頁より引用)

大清国家の形成とその特質を一六〜一七世紀のアジア大・世界大の政治・社会変動の一環として捉えることが、中国近世史や日本対外関係史の分野から提起されている。

すなわち、倭寇・海商勢力や明の辺境軍閥、またモンゴルあるいはジュシェン
(※女真)勢力を、「民族」や「国籍」で区分して考えるのではなく、国際商品と銀をめぐる辺境の交易ブームの中でこの時期に形成された新興軍事勢力と把握し、続く一七〜一八世紀を、それらのなかで勝ち残った者が主催者となった近世国家の並存の時代と捉えるのである。




(引用の続き)

私は、八旗が基本的に軍事組織であることの重要性を充分認めつつも、それと表裏一体のものとして国家組織そのものでもあったこと、そして入関(※山海関の突破)以後も引き続き帝国支配の人的中枢たり続けたことをも八旗制のうちに読み込んで、あらためてこれが大清帝国形成の原動力であり、支配の中枢であったことを主張したい。

かかる意味において、当時のユーラシア東方各国の新政権の特徴として村井
(※村井章介)が指摘する、<軍事行動を前提に組織された規律ある社会組織>なる表現の有効性が注目されるのである。

これこそが、大清帝国の根幹をなす八旗制の世界史的意義に他ならない。


(※印は当ブログの補足)


 


そして、ヌルハチ発案の「八旗」制と徳川幕藩体制がよく似ていた、という点については、同じく杉山先生の、上記右側『世界史を書き直す 日本史を書き直す』所収の「大清帝国と江戸幕府 −東アジアの二つの新興軍事政権−」に詳しい説明があります。

その主な類似点を抜き出しますと…

■八旗と幕藩はともに封建的な集団の集合体で、明の完全な官僚制とは異なる

■皇帝は正黄・鑲黄・正白旗だけを率い、徳川将軍も最大の大名として君臨した

■そして譜代と新参の序列については「官位」を与えて秩序づけていた

■さらに親藩・譜代の中でも「旧満洲」「御三家・三河譜代等」は別格とされた

などの点が、いくつも似ていたと言うのです。


ところが、そんな杉山先生も認めるとおり「むろん、似ている似ているといっても、お互いが影響を与えあったり一方が他方を模倣・借用したという関係は、いうまでもなく一切ありません。(同書)」という無関係の間柄であって、しかも長子相続の有無だけは全く逆だったそうですし、両者はやはり、日本海をはさんで、ほぼ同時進行で天下統一をなし遂げた「新興軍事政権」同士であった、としか言えないそうなのです。!


それはまさに、同時進行で、あまりにも近くで、規模も同じ程度で始まり…





かくして、両者の体制が「似ていた」という現象は分かっても、「なぜ似たのか」というメカニズムはいま一つ、解明しきれない感もある八旗制と幕藩体制ですが、そのあたりを私なりの読後感から申し上げるならば、両者の共通項として、少数の満洲族が多数の漢族を従えた清帝国と、徳川の親藩・譜代が外様の大名や領国を従えた幕藩体制、という点に着目するなら、おのずと「支配の二重性」という共通のキーワードが頭に浮かびます。

それは例えば…


武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台

その天守台の現状(南面)

(※ご覧の写真はサイト「古城の歴史」様からの引用です)


突然ですが、天守ファンのひそかな関心の的(まと)… ご覧の躑躅ヶ崎館に残る「天守台」は、織田信長軍による武田氏滅亡や本能寺の変のあと、甲斐を支配した徳川家康(※平岩親吉)の頃に築かれたとされるもので、現在、周辺は武田神社の立ち入り禁止区域のため竹林におおわれ、調査もされて来ておりません。

が、いずれにしても、この天守(台)というのは、戦国の雄・武田信玄のかつての居館内にドカッと「鎮(しず)め石」のように載せられた存在でありまして、その意味では、織豊政権下の新たな支配者の出現を(地侍らに)見せつけるための建造物でしょうし、当時の姿はきっと、甲斐国内の「支配の二重性」を強烈にアピールしたのではなかったでしょうか。…


このように、なんでも天守の話題に引きつけてしまうのが私の悪いクセですが、八旗制と幕藩はなぜ似たのか? という直接の「原因」を素人なりに想像しますと、その形が、各地の新支配地での「支配の二重性」に適した(即応できる!)封建的な軍の制度であり、国家制度でもあった、と考えることも可能なように感じたのです。


そうなりますと、類似性の原点は <織田信長> に求めた方がいいのではないかと思うわけでして、足利義昭の追放後、各地で広がる戦闘において、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益(+徳川家康!)を司令官とする「方面軍」を組織していた信長は、自分の死後の、大陸での清帝国の膨張ぶり(のメカニズム)も、どこか予見していた節があるように思えて来てなりません。

それはもちろん、 夷狄(いてき)が中華に取って代わる「華夷変態(かいへんたい)」を覚悟したものでしょうし、そんな信長の発想の中に、すでに <東アジアの下克上> の「芽」があったと感じるのは、過去に朝尾直弘先生のこんな文章もあったからです。…



(朝尾直弘「東アジアにおける幕藩体制」/『日本の近世1』1991年より)

信長は武家政権の継承者として、その権力の伸張の段階に応じ、天下をときに禁裏(朝廷)とほとんど同義に用い、ときに拡大して北海道と沖縄をのぞく列島とその住民の意味で用い、さらにすすんで「信長に一味することが天下のためであり、自他のためである」との論理でもって、天下と自己との一体化をはかった。 

こうして、野蛮な武力による夷(えびす)が天下人になったとき、日本列島における華夷の価値秩序が逆転した。

武家権力を抑圧しつづけてきた伝統的な価値秩序が崩壊するとともに、天下人の眼がこの秩序の本家である中華に向けられたのは避けられないことであったのではなかろうか。折から世界の拡大とともに、天下人の天下も天の下というそのことばの意味どおり拡大した。

武力による大陸侵略は、そこに起きた。




やはり彼らのエネルギーは、華夷秩序の逆転(=東アジアの天下布武)に向かわざるをえなかった?

ヌルハチが生れた1559年、まだ信長は、上洛して13代将軍・足利義輝に謁見していたが…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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