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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (258)



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2017年05月19日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」





目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」


大砲を持たなかったヌルハチの満洲「八旗」兵の寧遠城 攻め / 城壁を崩した!?…


先月の記事では、澁谷由理著『<軍>の中国史』で「兵士や軍人は不人気なうえにきらわれる存在であったし、現在でも庶民からじつは畏怖敬遠されている」という風に、中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史があることをお伝えしましたが、そんな中でも、最後の帝国・清朝(満洲族)の「八旗」制度の兵だけは、ちょっと違ったニュアンスで紹介されていました。


(澁谷由理『<軍>の中国史』2017年より引用)

清朝のつよさの一因としてかならずあげられる八旗(はっき)制度は、ヌルハチがはじめたことになっている。(中略)一色につきふちどりのない旗とある旗との二本をつくった。
たとえばふちどりのない黄色い旗(およびそのグループ)は「正黄旗(せいこうき)」、同色でもふちどりのある旗は「鑲黄旗(じょうこうき)」、というように区別され、四旗の二倍であるから「八旗」である。





(引用の続き)

戦時には各旗、およびそれ以下の単位にも、役割を分担させて複雑な戦法をとることができた。
ふだんから生活をともにする仲間どうしで部隊が形成されているので団結力もあり、満洲人躍進の原動力となった。

(※「旗」の下の組織単位である)ニル・ジャラン・グサの長は平時においては行政官、戦時においては指揮官であった。日常生活と従軍生活とのメンバーを一致させるしくみは金朝の猛安・謀克の制とおなじだが、時代がくだったためもあり、さらに整然としている。



!… 日常の行政官と戦時の指揮官が同一人物で、しかも日常生活と従軍生活のメンバーがいつも一緒とあっては、兵に対する「蔑視」など、起こりようが無かったのかもしれません。

そんな「八旗」制度の生活を想像するには、日本で言うなら江戸時代の「五人組」とか昭和の戦時下の「隣組(となりぐみ)」などを連想しそうですが、最小単位の「ニル」が兵士300人程度を出せる集団だったと言いますから、規模はケタ違いに大きく、例えばソ連の実験的な集団農場「コルホーズ」の構成人員は60人程度だったそうで、それよりさらに一ケタ以上、大きな集団だったことになります。

では何故、そうした軍の全体が「八つ」の「旗」だったか、と言えば…



杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』2015年(第5回 三島海雲学術賞 受賞)

懐徳堂記念会編『世界史を書き直す 日本史を書き直す』2008年

 

『大清帝国の形成と八旗制』261頁の「巻狩の陣形」の図から


(『大清帝国−』より引用)

八旗の左右翼の区分・序列は、一見すると無原則にも見えるが、このように黄旗を北として南面して翼を閉じた場合、左翼すなわち東方に白旗、右翼すなわち西方に紅旗、そして南方で翼端の両藍旗が合わさって、円陣を構成するようになっているのである。

この中軍すなわち囲底をフェレ(fere)、両翼をメイレン、翼端をウトゥリ(uturi)といい、囲猟の基本型は囲底を中心とする五隊編成で、翼端のウトゥリが合同して包囲陣が完成すると、四面になるのである。

(中略)
狩猟とはすなわち戦闘訓練であるので、これは実戦における包囲戦時の基本配置でもあった。


という風に、前々回の記事からご紹介してきた同書では、実際に、二代目ホンタイジの軍勢が遵化城や大凌河城を包囲した際、この色の配置どおりに城を包囲した記録が紹介されていて、したがって「八旗」とは、狩猟の陣形からヒントを得た初代ハンのヌルハチが、それを軍の編成から社会の統治手法まで一貫させた(ちょっと無茶な感じもする…)壮大な国家制度であったようなのです。


で、私が上記2冊の本に興味をもったのは、藤田達生先生の著書『天下統一』のあとがきに「杉山清彦氏の研究によると … 大清時代の八旗体制(旗とは大名家中、藩に相当する)と江戸時代の幕藩体制との類似点が注目されている」とあったからでして、上記2冊のなかで杉山先生は清帝国(正式な国号は大清)について、歴代の帝国とは決して同列に語れないものであり、当時の世界情勢やアジア情勢が生み出した、特異な「新興軍事政権」なのだと主張されています。

とりわけ、上記左側の大著での満洲族(マンジュ=大清グルン)に関する情報量の多さには、私なんぞは到底、付いて行けるわけがなかったものの、その論述の大枠のねらいに対しては、私なりに大きな共感をおぼえました。


(『大清帝国−』386頁より引用)

大清国家の形成とその特質を一六〜一七世紀のアジア大・世界大の政治・社会変動の一環として捉えることが、中国近世史や日本対外関係史の分野から提起されている。

すなわち、倭寇・海商勢力や明の辺境軍閥、またモンゴルあるいはジュシェン
(※女真)勢力を、「民族」や「国籍」で区分して考えるのではなく、国際商品と銀をめぐる辺境の交易ブームの中でこの時期に形成された新興軍事勢力と把握し、続く一七〜一八世紀を、それらのなかで勝ち残った者が主催者となった近世国家の並存の時代と捉えるのである。




(引用の続き)

私は、八旗が基本的に軍事組織であることの重要性を充分認めつつも、それと表裏一体のものとして国家組織そのものでもあったこと、そして入関(※山海関の突破)以後も引き続き帝国支配の人的中枢たり続けたことをも八旗制のうちに読み込んで、あらためてこれが大清帝国形成の原動力であり、支配の中枢であったことを主張したい。

かかる意味において、当時のユーラシア東方各国の新政権の特徴として村井
(※村井章介)が指摘する、<軍事行動を前提に組織された規律ある社会組織>なる表現の有効性が注目されるのである。

これこそが、大清帝国の根幹をなす八旗制の世界史的意義に他ならない。


(※印は当ブログの補足)


 


そして、ヌルハチ発案の「八旗」制と徳川幕藩体制がよく似ていた、という点については、同じく杉山先生の、上記右側『世界史を書き直す 日本史を書き直す』所収の「大清帝国と江戸幕府 −東アジアの二つの新興軍事政権−」に詳しい説明があります。

その主な類似点を抜き出しますと…

■八旗と幕藩はともに封建的な集団の集合体で、明の完全な官僚制とは異なる

■皇帝は正黄・鑲黄・正白旗だけを率い、徳川将軍も最大の大名として君臨した

■そして譜代と新参の序列については「官位」を与えて秩序づけていた

■さらに親藩・譜代の中でも「旧満洲」「御三家・三河譜代等」は別格とされた

などの点が、いくつも似ていたと言うのです。


ところが、そんな杉山先生も認めるとおり「むろん、似ている似ているといっても、お互いが影響を与えあったり一方が他方を模倣・借用したという関係は、いうまでもなく一切ありません。(同書)」という無関係の間柄であって、しかも長子相続の有無だけは全く逆だったそうですし、両者はやはり、日本海をはさんで、ほぼ同時進行で天下統一をなし遂げた「新興軍事政権」同士であった、としか言えないそうなのです。!


それはまさに、同時進行で、あまりにも近くで、規模も同じ程度で始まり…





かくして、両者の体制が「似ていた」という現象は分かっても、「なぜ似たのか」というメカニズムはいま一つ、解明しきれない感もある八旗制と幕藩体制ですが、そのあたりを私なりの読後感から申し上げるならば、両者の共通項として、少数の満洲族が多数の漢族を従えた清帝国と、徳川の親藩・譜代が外様の大名や領国を従えた幕藩体制、という点に着目するなら、おのずと「支配の二重性」という共通のキーワードが頭に浮かびます。

それは例えば…


武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台

その天守台の現状(南面)

(※ご覧の写真はサイト「古城の歴史」様からの引用です)


突然ですが、天守ファンのひそかな関心の的(まと)… ご覧の躑躅ヶ崎館に残る「天守台」は、織田信長軍による武田氏滅亡や本能寺の変のあと、甲斐を支配した徳川家康(※平岩親吉)の頃に築かれたとされるもので、現在、周辺は武田神社の立ち入り禁止区域のため竹林におおわれ、調査もされて来ておりません。

が、いずれにしても、この天守(台)というのは、戦国の雄・武田信玄のかつての居館内にドカッと「鎮(しず)め石」のように載せられた存在でありまして、その意味では、織豊政権下の新たな支配者の出現を(地侍らに)見せつけるための建造物でしょうし、当時の姿はきっと、甲斐国内の「支配の二重性」を強烈にアピールしたのではなかったでしょうか。…


このように、なんでも天守の話題に引きつけてしまうのが私の悪いクセですが、八旗制と幕藩はなぜ似たのか? という直接の「原因」を素人なりに想像しますと、その形が、各地の新支配地での「支配の二重性」に適した(即応できる!)封建的な軍の制度であり、国家制度でもあった、と考えることも可能なように感じたのです。


そうなりますと、類似性の原点は <織田信長> に求めた方がいいのではないかと思うわけでして、足利義昭の追放後、各地で広がる戦闘において、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益(+徳川家康!)を司令官とする「方面軍」を組織していた信長は、自分の死後の、大陸での清帝国の膨張ぶり(のメカニズム)も、どこか予見していた節があるように思えて来てなりません。

それはもちろん、 夷狄(いてき)が中華に取って代わる「華夷変態(かいへんたい)」を覚悟したものでしょうし、そんな信長の発想の中に、すでに <東アジアの下克上> の「芽」があったと感じるのは、過去に朝尾直弘先生のこんな文章もあったからです。…



(朝尾直弘「東アジアにおける幕藩体制」/『日本の近世1』1991年より)

信長は武家政権の継承者として、その権力の伸張の段階に応じ、天下をときに禁裏(朝廷)とほとんど同義に用い、ときに拡大して北海道と沖縄をのぞく列島とその住民の意味で用い、さらにすすんで「信長に一味することが天下のためであり、自他のためである」との論理でもって、天下と自己との一体化をはかった。 

こうして、野蛮な武力による夷(えびす)が天下人になったとき、日本列島における華夷の価値秩序が逆転した。

武家権力を抑圧しつづけてきた伝統的な価値秩序が崩壊するとともに、天下人の眼がこの秩序の本家である中華に向けられたのは避けられないことであったのではなかろうか。折から世界の拡大とともに、天下人の天下も天の下というそのことばの意味どおり拡大した。

武力による大陸侵略は、そこに起きた。




やはり彼らのエネルギーは、華夷秩序の逆転(=東アジアの天下布武)に向かわざるをえなかった?

ヌルハチが生れた1559年、まだ信長は、上洛して13代将軍・足利義輝に謁見していたが…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年04月22日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。





「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、

 死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。





以前の当ブログ記事でも申し上げたとおり、現存する織田信長の「天下布武」朱印状のうち、いちばん最後のものは、下記の天正10年5月7日付け(奥野高廣著『織田信長文書の研究』より)だそうで、その一ヵ月後にはもう本能寺の変が起きるという時期に、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てた書状でした。


【神戸信孝宛朱印状】

  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、

右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿



という風に、信長は死ぬまぎわまで「天下布武」印を使い続けたわけでして、しかもこれから四国を攻め取ろうというこの書状にまで、神田千里先生や金子拓先生らが近年主張される「天下布武」の意味(→それは五畿内に足利将軍の治世を確立させることであり、足利義昭が将軍に就任した永禄11年に達成されたこと)のままの印判を押したというのは、やっぱり、おかしいだろ…… という素朴(そぼく)な疑問が、私なんぞは、どうにもぬぐえないことを申し上げました。


そして皆様すでにご承知のとおり、問題の「天下布武」の本当の意味については、もう一つの新説として、ある画期的な【アマチュアの指摘】がネット上をにぎわせております。

――― すなわち「天下布武」とは、『礼記』の皇宮を歩く時のマナー用語「堂上接武,堂下布武」の「堂下布武」をもじったものであり、この「武」には軍事的な意味合いはまるで無く、「歩く」と同義語であるため、その結果、信長がねらった「天下布武」を意訳すれば、<天皇や神仏等の既成の権威に捕らわれず、天意に沿ってわが道を普通に歩く> または <天下を闊歩(かっぽ)する> という意味になる、との驚くべき新説です。


とりわけこの新説は、二つのサイト(「平成談林」様と「Dagaya Blog」様)がほぼ同時期に言い出したところが面白く、しかも、かつて立花京子先生が「天下布武」を解釈した際の「武を布(し)く」という読み方に対して、そのような読み方は中国の古典には存在せず(!…)、言わば“和製漢語の読み方”なのだと批判している点は、まことに捨て置けない印象があります。




<言われてみれば、だれも「布武」の原典を確認してなかった?… 想定外の落とし穴>




では、諸先生方の「布武」の読み方を、ザッとふり返りますと…


(神田千里『織田信長』2014年 98頁より)

「布武」とは「武力が行きわたる」と解釈できるから、彼は「天下に武力が行きわたる」という標語を旗印にしたと考えざるを得ない。


(小島道裕『信長とは何か』2006年 38頁より)

もっとも、この時代の「天下」は、日本全国という使い方もあるが、むしろ京都を中心とする中央、畿内の意味であり、フロイスなど宣教師が用いる天下tencaの語も主にそのように用いられている。したがって、この「天下布武」の宣言も、中央を平定するという意味になるが、……


(立花京子『信長と十字架』2004年 37頁より)

まず初めに考えたことは、中国の古典に「天下に武を布き静謐と為す」というような語句があるのではないか、であった。
それをどうにかして見つけたいと願い、『論語』などをパラパラとめくってみたが、膨大な漢字の海から、そのような語句が簡単に見つけられるはずがない。

思いあまって、古典に詳しい友人の津田勇氏にこの悩みを話したら、氏はあっさりと「ありますよ」というではないか。
そして、私は、津田氏から、孔子があらわした『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』のことを教えていただいた。
『春秋左氏伝』の魯(ろ)の宣公帝の条に、「七徳(しちとく)の武」という語は存在した。



(朝尾直弘「天下人と京都」/『天下人の時代』2003年所収より)

信長は永禄十年(一五六七)ごろから「天下布武」の朱印をもちいていました。天下を武家の力で統一しようという戦略目標であり、スローガンでもあります。


ご覧のとおり、並みいる諸先生方の中で(かの朝尾直弘先生でさえも)「布武」の読み方について、中国の古典などに用例をあたってみた上で解説をされた先生は、おそらく一人もいらっしゃらなかったのではないか… そして先生方はもっぱら「天下」の意味(地理的な範囲)の方に100%の関心を向けてしまった、という、ちょっと恐ろしい状況が見えて来たのではないでしょうか。


もちろん「天下布武」は、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の第一座もつとめた禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とひっくり返した(『政秀寺古記』)と伝わるものです。

ですから、沢彦の知識が反映されたはずの「布武天下」に対して、「堂下布武」を連想した信長のシャレっ気が加えられて出来たのか、もしくは、ひょっとするとその時、沢彦の側から「堂上接武,堂下布武」の話が冗談まじりに伝えられたのか!??… そんな話を“面白い”と感じた信長の表情が、アリアリと、私の頭の中にふくらんで来て仕方がないのです。




で、かくのごとき新説が飛び出した背景には、パワフルな「検索」機能を使ってネット民が専門家の問題点をあぶりだした、2020東京オリンピックの「エンブレム騒動」を思わせる面もありそうなのです。…


(サイト「平成談林」様より引用)

自分は仏典と中国古典を徹底して調べようと、そのデータベースをチェックした。すると唖然としたほど意外に、簡単にその語源にたどり着けたのだった。

宋本廣韻:で「武」を調べると色々な例があるが、曲禮曰 堂上接武 と出ている。「天下布武」の語源となった、「堂下布武」は禮記(らいき)上の28にある。

(中略)
念のため、「武を布く」という言葉自体が中国の他の古典には在るのだろうか。結論としては 否である。諸子百家・雑家のどの書にも、全くその意味で使われた言葉は無いのだ。


(サイト「Dagaya Blog」様より引用)

布武とは「大股に歩く」の意であることが分かる。兵の行軍のように大股で歩くさまから「武」の文字を用いるらしいが意味するところは軍事とは全く無関係である。

さて、これをかの有名な「天下布武」に適用すれば「天下を大股に歩く」、意訳して「天下を闊歩する」と解することができる。



かくして「天下布武」とは「天意に沿って我が道を歩む」との意味であったのならば、そんな印判を信長が死ぬまぎわまで使い続けたことにも納得できましょうし、そうした姿に私なんぞは思わず(心の中で)拍手を送ってしまうのです。

そして私の最大の驚きは、「天下布武」にもこんな“シャレっ気”が込められていたのか、という点でありまして、思えば、自らの旗印に「永楽通宝」なんかを堂々と掲げた人ですし、自らを「第六天魔王」などと呼び、大事な跡継ぎの子らにも奇妙キテレツな命名をしたことを踏まえますと、自らの印判に“そんなことを”したとしても、何ら不思議ではなかったのかもしれません。




さて、以上のごとく、今回は【アマチュアの指摘】が「天下布武」に新たな光をあてた意義についてお話してみましたが、次回は、話題の【プロの著書】を通して「天下布武」をさぐってみたいと思うのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年04月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から





中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から





天皇を迎えに御所へと向かう関白の牛車(『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より)

前回まで三たび「聚楽第」の話題を続けてしまい、その中では故・足利健亮先生の「外郭」ラインに説得力が感じられ、そこに当てはめた『諸国古城之図』の「せまい本丸」が豊臣秀吉の築城時の本丸かもしれず、その後に二代目の豊臣秀次が、京大防災研究所が探査した「外掘」と一連のものとして、南北に縦長の本丸(内堀)を築き直したのではなかったか… などという勝手な推測を申し上げました。

これ以上、ここで勝手なことを申すつもりはありませんが、豊臣家による聚楽第の盛事というのは、いわゆる貴種の生まれでない織豊大名らが、戦国の世の勝ち抜きレースに勝った“祝祭”であったことは間違いないでしょうし、その一回目の聚楽第行幸は天正16年(1588年)の4月14日に始まりました。


映画「七人の侍」1954年公開より


で、突然ですが、日本映画の最高峰とも言われた「七人の侍」は、ご覧の菊千代の偽(にせ)系図をめぐるシーンから、この映画が<天正14年>を舞台にしていたことが分かります。

―――天正14年と言えば、秀吉が小牧長久手で戦った徳川家康をようやく臣従させ、翌年の九州遠征に向けて準備を進めていた頃であり、全国規模での勝ち組・負け組が決しようという状況が、映画の時代設定として選ばれたのでしょう。


映画はご存じのとおり、主家の滅亡で牢人となった初老の島田勘兵衛をはじめ、仕官や恩賞にもならず、ただ白い飯が腹いっぱい食える、という条件だけで六人(菊千代を入れて七人)の牢人たちが村人に雇われ、山奥の村を野武士から守るべく臨時の防備をほどこして戦い、一人また一人と死んでいく姿を描きました。

現在では私たち城郭ファンは「村の城」や島原の乱で籠城した牢人たちの存在をよく知っているわけですが、黒澤明監督がこの映画を準備していた当時は、こんな話は夢のような“ありえない”歴史的現象として監督や脚本家の目にうつったそうで、思わずこのネタ(設定)に飛びついたと言います。


時代の負け組として行き場を無くしたサムライが、おのれの技量に熱中できる場を与えられれば、そこが山奥の人知れぬ農村であっても、命がけでのめり込んでいくという「七人の侍」の特異な人物設定には、日本人として妙な説得力を感じてしまいます。

かく申し上げる私は、我が国の歴史上にサムライの価値観や行動規範があったからこそ、日本が日本たりえたのだと確信している一人でもあります。




その一方で、かの中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史がある、という興味深い新刊本を読み終えたばかりでして、その本によりますと、中国の有名なコトワザ「良い鉄は釘(くぎ)にはならない、まっとうな人は兵にならない」(好鉄不打釘,好男不当兵)は、中華人民共和国の建国(1949年)の頃までは日常的によく使われたそうです。…


澁谷由理『<軍>の中国史』2017年



全体を読み終えた感想としましては、出版社からの執筆依頼の意図(→ご覧の帯のキャッチフレーズ)のせいか、昨今の南シナ海の問題など、中国共産党の「私兵」である人民解放軍について、北京政府が完全にコントロールしきれない状態の“言い訳さがし”を、歴史的にふり返ったようにも見えてしまう点が、やや損なところのある本だなと感じました。


ですが、それにもまして、著者の澁谷由理(しぶたに ゆり)先生が指摘された、中国の歴代王朝は正規の「国軍」を編成し切れなかった歴史の繰り返しであり、そこでは常に「軍閥(ぐんばつ)」のごとき私兵集団が皇帝の直属軍を補完する立場にあって、時に犯罪者や流民・生活困窮者の収容先としての「軍」も機能していて、そんな素性の悪さから「まっとうな人は兵にならない」というコトワザが社会に定着していた、との論述は印象的でした。


(澁谷由理『<軍>の中国史』より引用)

儒学でもっとも重要なのは、家族の結合を基礎においた社会秩序の維持と、それを尊重する為政者の「仁徳」である。家族とは、生計と先祖祭祀を一にする共同体であるから、その永続こそが為政者に課せられた最大の義務である。
(中略)
収穫物をねらう外敵の侵入と農耕地の防衛は、つねにさけられない問題であり、じゅうぶんに安全を確保するためには兵力を増強しつづけるしかない。

兵力増強のためには、兵役従事期間をながくしなければならず、そうすると農地は十全には維持できない――王朝が農耕民からの徴兵にこだわりつづけるかぎり、解決策のない問題のようにおもわれる。

ところが皮肉なことにこの問題は、王朝(ないしは皇帝)が、最終責任を負わなければ解決するのである。つまり、王朝(皇帝)直属の兵にこだわらなければよい。…



ということで、農耕民を兵役につかせる「兵農一致」は古代の前漢時代に早くもほころび、その後は国防を「豪民」など様々な私兵集団に補完させる政治が繰り返されたそうで、そんな中では、かの曹操(そうそう)が、画期的でありながらも皮肉な結果をまねく政策を打ち出したようです。




(『<軍>の中国史』より引用)

「兵農一致」を維持しようとすれば財政破綻の危機があり、それを回避するために皇帝直属軍を削減すれば内乱をふせぎえないという、古代中国におけるジレンマは、かの『三国志』で有名な、曹操(一五五〜二二〇)のとった「兵農分離」政策により、出口を見いだすことになる。
(中略)
曹操は自軍を安定させるために、兵士とその家族を「兵戸(へいこ)」として、一般民(「編戸」)とは別のあつかいにした(独身の兵士にはむりやり妻帯させてまで「兵戸」をつくった)。

彼らに生活保障をあたえ徴税を免除するかわりに、永代(父子ないしは兄弟間でかならず欠員をうめる)の兵役義務を課し、兵士が逃亡した場合、あるいは反乱をおこしたさいには家族全体に重罰をくだすことにした。

(中略)
しかし特別な待遇をあたえられた「兵戸」も、けっして特権層にはなっていかなかった。一般人とは戸籍が区別され、生まれながらに家族もふくめて戦闘要員として拘束され、農耕定住民になれないかれらは、特殊な境遇ゆえにかえって蔑視(べっし)されるようになる。


という風に、曹操の政策は、兵の安定供給には役立ったものの、兵士を一般の農耕社会から遠い存在に追いやってしまったようです。

ちなみに「兵農分離」と言えば、それを日本で最初に断行したのか?していないのか? と議論の的になっているのが織田信長ですが、本日の話題から申せば、少なくとも信長の家臣団は、恐れられたとしても“蔑視された”形跡は無いようですから、日中間の「兵」をめぐる環境は(実は…)天と地ほども差があったのかもしれません。


ならば、それはいったい何故?? という疑問が、日本人としては当然、気になるわけです。


我が国も古代の律令制下では国軍を編成できたものの、土地の私的所有が進んで律令制が崩れ始めるとそれも難しくなり、やはり私兵集団の「武士」が、各地で軍事的な要求に応えて跋扈(ばっこ)し始めました。


ご承知のとおり「武士」の厳密な起源や定義については、学問的にはいまだ議論のただなかにあるようで、そんな中では、山本博文先生の「政争に平氏や源氏の武士団が私兵として使われるようになると、最初は利用したつもりだったのでしょうが、次第に武士団の軍事力が天皇や上皇の権力を圧倒するようになります」(『歴史をつかむ技法』)という解説が解りやすかった記憶があります。

すなわち、平安時代の王朝国家において、皇位の継承をめぐる「皇統」のあらそいという、日本社会ではそれを上や横から仲裁できない“雲の上の紛争”が起きてしまった時、それを軍事的に“決着させる手立て”として「武士」団(→具体的には保元の乱の平清盛ら)が日本社会にとって欠かせない立場を得たのだ、という山本先生の解説でした。


そのうえ「蔑視」云々では、ざっくばらんに言って、マニュアルどおりに軍務に従事すればいい国軍兵士と、プロフェッショナルな家業の技で敵方と闘う武士(場合によってどちらの味方にもなりうる存在)との違いだろう、という感触が私なんぞにはありまして、では、どちらが尊敬の念を得られるかと言えば、やはり武士の方が、例えば那須与一(なすのよいち)のごとき、あっぱれな武芸で、人々の共感を得やすいというアドバンテージがあったのではないでしょうか。


那須与一像(渡辺美術館蔵/ウィキペディアより)


―――であるならば、例の織田信長が掲げた「天下布武」という謎の文言のうち、「天下」の語意については近年の議論があるものの、一方の「布武」はどうなのかが気になります。

基本的に儒教の体系のなかにある『春秋左氏伝』の「七徳の武」を使って、かつて立花京子先生は「布武」を解説されましたが、本当にそういう中国流の「武」だけで「天下布武」を解釈して大丈夫なのでしょうか?

これには信長自身が「武士」社会に対してどういう態度を取っていたのか、という基本的な事柄を含めて、今回申し上げた話題のとおり、単純な中国語の引用だけで「布武」を考えますと(→日中間の「武」の違い?/「武士」はすでに天下の裁定者?) けっこう大きな間違いをおかす危険があるようにも思えて来たのです。…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年09月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説






「革命」は 織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった?


天下人の偉業の継承者・石田三成が完成させられなかった「革命」を、

268年後に実現したのが 大久保利通だったのでは… というお話。



!!
<<石田三成は本当に、豊臣家への「義」のために、決起したのだろうか?…>>


全国の三成ファンの方々が聞いたら、今なら一気にフクロ叩きになってしまいそうな、こんな疑問を、実は、私は長いこと胸の内に抱えて来ておりまして、なかなか自信を持てずにいたのですが、最近ようやく藤田達生先生の中公新書『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(2014年刊)を読んだことで、いささか気分が軽くなった思いがしています。




と申しましても、藤田先生の本に、決してそんなことがズバリと書いてあるわけではないのですが、この中の先生の指摘や各分野の学説の動向を読み進むうちに、「やはり、そうだな…」と、けっこうな手応えを感じるに至りました。

すなわち、石田三成は豊臣家に対する「義」のために決起したのではなくて、もっと別の「ある大望」を完成させるには、何としても、それに逆行していた徳川家康という巨魁(きょかい)は排除せざるをえない、というイデオロギッシュな!闘争のために決起したのだ、と。

ご承知のごとく当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という手前勝手な仮説を申し上げておりますので、そういう立場からも、今回はひとつ、余談の余談として、「城」とは関係のないお話をちょっとだけさせていただこうかと思うのです。



<石田三成は「義」に生きた武将? …どこからそういう話が出て来たのか>



昨今ちまたで流行の石田三成の人物像というのは、ゲームの影響がそうとうに大きいのではないかと想像され、試しに、書籍で「義」という文字をタイトルに使っている三池純正著『義に生きたもう一人の武将 石田三成』や、おなじみの『歴史人』9月号(なぜ石田三成は豊臣に殉じたのか?)を例に、本当に三成は豊臣家に対する「義」や「忠誠心」から家康打倒の大軍勢を組織したのか? という観点で確認してみますと、けっこう怪しい結果になるのです。…

例えば『歴史人』の方から申せば、巻頭の特集記事で作家の童門冬二先生は「石田三成の忠誠心は「豊臣秀吉個人」に対する、三成個人の至誠心の表明だ。豊臣政権という組織、あるいは秀吉の後継者秀頼への忠誠心という要素はあまりない。その意味では三成の忠誠心は、「限定された忠誠心」といっていいだろう。」とまで言い切っておられます。


そして一方の『義に生きたもう一人の武将 石田三成』では、三成の動機をさぐる手がかりとして、三成が家康の前で頭巾を取らなかったという『寛元聞書』の逸話や、三成が落とした杖(つえ)を家康が拾って返しても、三成は礼も言わなかったという『淡海落穂草』のエピソードを挙げたうえで…


「これらのエピソードは一面 三成が普段から家康を警戒し、露骨に敵意を表していたことを示しているともいえる。これは、家康は虫が好かないとか、家康とは性格が合わないとか、そんな感情的な次元の話ではなかろう。
(中略)
三成が家康に敵意をむき出しにしていたとすれば、それは、三成は家康が将来 豊臣家の敵となる存在であると早くから見抜いていたということであろう」


という風に“推理する”論述にとどまっていて、具体的に徳川家康の“何が”豊臣家や豊臣秀頼の命運にさしさわるのか、この段階(三成の存命中)では殆ど明確になっておらず、ただ、ただ、家康の豊臣政権内での“増長ぶりが目にあまる”という三成ら奉行からの糾弾が、有名な「内府ちがひの条々」に書き連ねられたことしか、動機の判断材料は無かったのだということが分かります。


したがって、こんな状態で、三成は本当に、豊臣に対する「義」や「忠誠心」のために家康打倒の軍を起こしたのだと判断していいのでしょうか?

そこで冒頭の藤田先生の本に戻りますと、三成が天下人・秀吉のもとで常に意識させられたはずの「大義」と、三成個人の運命?のようなものが見えて来ます。




<藤田先生の著書から読み取れる、天下人による「革命」の最重要ポイント。

 ツルの一声で国替えができる「鉢植え大名」化で、強力な中央集権国家へ>





(藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』より)

時は、スペインやポルトガルが植民地を求めて東アジアに跋扈(ばっこ)した大航海時代だった。東アジア社会の動揺のなかで信長のめざした天下統一とは、預治思想にもとづき領地・領民・城郭を収公して国家のものと位置づける上からの「革命」だった。

秀吉や光秀をはじめとする麾下(きか)の大名たちは、天下人信長からこれらを預かったのであり、政治状況の変化に応じて知行替(転封)が繰り返されることも覚悟せねばならなかった。

鉢植大名となった彼らは、預かった領地で城割・検地などの仕置を強行していった。天下統一に向けて、預治思想にもとづく大名の官僚化と 石高制導入にもとづく軍役負担制度とが一体になった 近世知行制の導入という方向性が示された。…




藤田先生はこの本において、各分野でひるがえりつつある学説の動向をにらみながら、代表作の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』などで示した天下人の戦争のあり方(…若き日には室町幕府に理解を示したはずの信長が、なぜ「天下人」をめざしたのか?)との決着点を見い出されたと感じるのですが、そのキーワードはやはり「預治思想」による「鉢植え大名」化でした。


先生の言う「預治思想」では、領地も、領民も、城郭も天下人のものであり、臣下の大名はそれらを預かりながら全国の統治を分担するだけであって、時に天下人の意のままに“鉢植え”のごとく国替えもせねばならず、そうなると家柄や地縁はほとんど通用せず、ひたすら大名個人や家臣団の能力を限界以上に使って、天下人が思いついた無理難題に必死に応えて行くことになります。

ですから、明智光秀などは“そこで脱落して”反逆したのでしょうし、反対に石田三成は、近江の没落した地侍と言われる一族の中から、「才器の我れに異ならない者は三成のみ」と秀吉に言わしめたほどの才覚を持って現れ、名だたる大々名からも畏怖される存在にまでのし上がりました。


ところが、それほどの権勢にも関わらず、ご承知のとおり(関ヶ原合戦後に落城した)三成の居城・佐和山城には、豪華な財宝類や意匠は一切無かった、という有名な話があり、現に『老人雑話』には三成が「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったと伝えられていて、これらの事柄は単なる“美談の類い”と片付けてよかったのでしょうか。


<<主君より戴いた物は(主君のために使うもので、断じて私の蓄財などに)残してはならない>>

なんと、これって「預治思想」そのもの!!?…… ということは、もしや石田三成という人は、実は、信長と秀吉・二人の天下人が実行した「預治思想」を受け継ぎ、たちまち預治思想の“権化(ごんげ)”と化していった、地侍出身の、成り上がり高級官僚だったのでは―――

そんな、思わぬ人物像が、藤田先生の本からインスパイアされて浮かび上がって見えたのです。


で、もしそうだとすると、そんな三成にしてみれば、徳川家康とは、主君(天下人の秀吉)から戴いた形のものを大量に溜め込んで残す、盗人(ぬすっと)同然の大悪党、と見えて仕方がなかったのだ… とも思えて来てしまいます。

また、とかく印象の悪かった三成の言動も、個人の性格というより、ことごとくが革命家の情念のなせるワザであったと考えれば、納得のいくことばかりではなかったでしょうか。


そして三成は当然ながら「中央」志向が強かったようで、三成の働きぶりを見た秀吉が、九州に33万石の領地を与えようとすると、三成は「私が九州の一大名におさまっては中央の政治に支障が出るので」との理由で加増を断ったという話もあります。

そんな姿に、私なんぞが連想するのは、明治維新を主導して「廃藩置県」などの“革命”を断行した<大久保利通>でありまして、次のことは司馬遼太郎の受け売りなのですが、下級藩士の出の大久保らは、さらに「国民皆兵」という形の革命(=究極の下克上/平民が武士に成り変わる国民国家への道/フランス革命が発祥)も成し遂げたとされ、もしも三成があと10年か15年、豊臣政権を思うままに主導していたなら、何をしでかしただろうか… とまったく余計な夢想をしてしまうのです。



例えば、三成の「大一大万大吉」の紋章。これは由来や意味がはっきりせず、

一説に「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」

などと解釈されていますが、これなどは、まさに… !?






<「革命」は織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった??

 それを押し戻したのが徳川家康、という歴史的な構図も描けるのでは…>








さて、三成渾身の「闘争」が関ヶ原合戦でついえたのち、三成を排撃していた豊臣「武断派」七将の領地は、合戦前は各地にバラバラに細かく散っていたのが、合戦後はそろって大幅に加増され、あたかも集団で西日本を占拠したかのような勢いになっています。

一般にこの状態は、徳川家康によって彼らが東日本から“遠ざけられた結果”だと言われ、さらには笠谷和比古先生が持論の「豊臣・徳川の二重公儀体制」論との兼ね合いから、西日本で“豊臣の”勢力基盤が維持されたようにも言われましたが、今回の石田三成の闘争や「預治思想」を踏まえますと、また違った印象があるのではないでしょうか?

―――ズバリ申し上げるなら、この状態は、壮大な「共犯関係」の収穫物!!(獲物の山分け状態)ではなかったのか、と。

そんな風に私が感じたのは、かつて「三成研究家」を自称しておられた白川亨先生が、「武断派」の面々について、こう書いたことがあったからです。



(『歴史群像シリーズ55 石田三成』所収「関ヶ原決戦の虚実」より)

天正十八年(一五九〇)、病床を見舞った前野長康に対し、(豊臣)秀長は兄・秀吉に朝鮮侵略の無謀なることを諌(いさ)めたことを語っている(『前野家文書』)。

秀長はその言葉の中で「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」として「武断派」の存在を苦々しく語っている。

さらに秀長は、なおも秀吉に対して「(彼らが)それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」と迫り、朝鮮侵略計画の中止と、交易による隣善友好を求めている。

すなわち、秀長の言葉は「武断派」の存在を示唆すると同時に、その武断派が秀長にとって、嫌悪すべき存在であったことも匂わせている。

(中略)
彼らが東軍として家康に味方したのも、彼らなりの豊臣政権以後を睨(にら)んだ処世的行動と結論すべきである。

「武断派」七将が三成を襲撃し、佐和山退隠(たいいん)に追い込んだ日、当時の心ある人は、苦々しく、
「若き大名共、内府(家康)の気に入りたく体にて……云々」
と、家康に迎合する「武断派」七将の動きを冷静に見ていたのである。




こうした『前野家文書』に基づいた理解が正しいのなら、かの朝鮮出兵には「武断派」の面々、加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明の7人の圧力が、そうとうに加担していたことになるのでしょう。

(※ご承知のとおり『前野家文書』(武功夜話)は過去に偽書と言われ続けたものの、小和田哲男先生は歴史資料としての有用性を認め、前出の藤田先生もまた「良質な史料とは言い難いかもしれないが、信長や秀吉に関する一次史料の空白を補う参考資料としては貴重」としています)


となれば、その後の、徳川家康による上杉征伐から関ヶ原合戦へという大戦略の企図は、そもそも家康が、高禄を欲する「武断派」七将を手なずけ、ともに一大合戦を企てて、彼らにたんまりと日本国内に!!! 広大な領地を与えて“共存の新体制”を築くための大戦略だったのかと思えてなりません。…

その犠牲(いけにえ)にされたのが、豊臣政権の構造は温存したいと願う「吏僚派(集権派)」諸大名の領地だった… などというグランドデザインがあったとすれば、三成の危機感は当然のことであり、もちろん家康の思惑が一筋縄で行かなかったのも当然ですが、それにしても、家康の大戦略の結果は、三成の「革命」による中央集権国家とは“真逆の封建社会”に向かっている(逆行している)と見えたのではなかったでしょうか。





で、それから268年後、家康が築いた幕藩体制(官僚制的封建主義)が崩壊し、ふたたび「分権」と「集権」が大逆転しました。

薩摩藩の下級藩士から明治新政府の巨頭となって君臨し、西南戦争にも勝った<大久保利通>は、盟友・西郷隆盛の戦死を聞かされた時に「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が…」とつぶやいたと言われます。

以上の事柄を踏まえて、つぶやきの真意を想像してみますと、ともに幕藩体制を突き崩したものの、国民皆兵の思想にまではなじめず、征韓論を唱えて失脚した<西郷隆盛>という人は、どこか「武断派」七将… なかんずく加藤清正か福島正則のように見えて来て、清正や正則は本来なら、豊臣「新政府」のためにもう少し、三成と歩調を合わせられなかったのかと、時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説を夢想するわけなのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年01月23日(Fri)▲ページの先頭へ
【続報!!】予告のリポート「秀吉の大坂城・前篇」がWeb形式になりました






予告のリポート「秀吉の大坂城・前篇」がWeb形式になりました


やはり年度リポートの作業は時間を要してしまい、アップが遅れました。

2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」がWeb形式になり、文章もブラッシュアップして、作図も大幅に増やして読みやすいものにいたしました。

もちろん無料です。どうぞ、上のバナーからご覧になってみて下さい。






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2015年01月01日(Thu)▲ページの先頭へ
【お知らせ】2008年の「渾身の第1弾リポート」がWeb形式になりました!!






2008年の「渾身の第1弾リポート」がWeb形式になりました!!


新年にあたり、当サイトも今年2015年を新たなスタートの年にしたいとの思いから、第1弾のリポート「豊臣秀頼の大坂城再建天守 −復元篇−」を、これまでのPDF形式からWeb形式に変え、文章も部分的にブラッシュアップしたうえ、作図も適宜くり返すなどして、グンと読みやすいものにいたしました。

どうぞ、上のバナーからご覧になってみて下さい。

なお次回は、2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」も同様のWeb形式に変え、もちろん無料で、自由にご覧いただける形に変えさせていただく予定です。ご期待下さい。






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2014年10月04日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!ついに2013−2014年度リポートをアップしました!!





ついに2013−2014年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせ致しました。
2年にわたる難産のすえ、ようやくお届け出来ることになりました。
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2013年02月18日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!2012年度リポートをアップしました!!






2012年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
〜「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ〜


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2012年01月31日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!2011年度リポートをアップしました!!






2011年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
− 豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか −


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2011年01月21日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!2010年度リポートをアップしました!!






2010年度リポートをアップしました!!


たいへん長らくお待たせしました。ようやく新リポートをお届けできます。

秀吉の大坂城・後篇
〜中井家蔵『本丸図』に隠された大改造の跡〜


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2010年12月21日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!2010年度リポートのお知らせ





2010年度リポートのお知らせ


制作中イラストの一部 /(追記:もう秒読み段階デス!!…)


この年末か、おそらくは年明け早々になりそうですが、2010年度リポート「秀吉の大坂城・後篇 〜中井家蔵『本丸図』に隠された大改造の跡〜」をお届けすべく作業を鋭意、進行中です。

そこで今回はやや余談としまして、今夏に5回にわたって記事を書いた岐阜城で、その後、大きな出来事が重なったため、それを少しだけフォローしておきたいと存じます。


金箔瓦片の出土で、信長居館は「豪華説」に方向転換!?


お聞きのように今年の発掘調査で、いわゆる明治大帝像前の曲輪にあがる「上り通路」が発見され、そこから約3cm四方の金箔瓦片が出て来ました。

岐阜市教育委員会の発表では「今回の金箔瓦の出土により、中心の建物は豪華だったことをうかがわせる」というコメントがあったとか…


その金箔瓦片の現物の印象は、ネット情報(例えば『山城踏査日記&城郭関連情報』さんの記事)によれば、「説明されないとわからないくらい小さい」そうですが、やはり世間一般は“金”に鋭敏であって、あたかも救世主のような瓦片になってしまうのかもしれません。

一時は専門家の間から“信長公記にある御殿の豪華さは割り引いて考えねばならない”といった声も出ていたはずで、もう天と地ほどの落差です。

ただし、もし金箔瓦の出土がこれ一個で終わるとなると、それはそれでまた世間の受取り方も変わってしまうのかもしれません。


かく言う私は、人騒がせな金箔瓦片よりも、賛否両論を浴びる「闇(くらがり)通路」の方が面白く、本当に「上り通路」の上に建物が載るほど強度があったのか? これがまた、建築学の先生方からどんな声があがるのかと興味津々なのです。


岐阜城跡が文化財保護法による国の「史跡」に指定


さて、もう一つの大きな動きとして、岐阜城跡(金華山の北半分、山頂の本丸や砦が分布する209ヘクタール)が国の「史跡」になったそうです。


「史跡」と言われてもピンと来ない感がありますが、でも、問題の山麓居館周辺はどう線引きされたのか?? と思い立ち、とりあえず「信長居館発掘調査」ブログにある「岐阜城跡の史跡指定範囲」という図を使って、お馴染みの図にトレースしてみました。すると…



山麓居館跡に京の東山山荘(現慈照寺/銀閣)をダブらせた図では…


ご覧のとおり、どうやら「史跡」の範囲は、絶妙に、ロープウェー山麓駅やその下の岐阜公園の半分をはずしてあるようなのです。


これは図らずも、先程の発掘調査ブログにある「その範囲はほぼ現在の金華山国有林全域と岐阜公園の現在調査を行っている範囲となり」「これは城域と考えられていた範囲が指定対象となった」という市側の認識どおりです。

このような役所の線引きは、現実の社会の諸条件に沿ったものでしょうが、将来的にこれ自体がジワジワと既成事実化していくものです。


ですから当ブログが申し上げている、信長公居館は、岐阜公園の下半分の平地に「銀閣にならった月見のための、白い四階建て楼閣」として建てられたのでは…… などという“枠外の仮説”は、こんなことから、無言のうちに排除されていくのかもしれません。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2009年12月31日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!2009緊急リポートをアップしました!!





2009緊急リポートをアップしました!!


年の瀬も押し詰まった今宵、ようやく新リポートをお届けできます。

新解釈による『天守指図』復元案
〜安土城天主は白壁の光り輝く天守だった〜


どうぞ上のバナーからご覧下さい。


リポートは年に一回でも難しいものであると知りました。
思えば、前回は2年がかりでしたし…

「秀吉の大坂城・後篇」は2010年に改めて完成いたします。








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2009年12月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!2009緊急リポートのお知らせ





2009緊急リポートのお知らせ


ただ今、大晦日12月31日中のアップを目指して、

2009緊急リポート
新解釈による『天守指図』復元案
〜安土城天主は白壁の光り輝く天守だった〜


の作成中です。
ご自由にご覧になれますので、是非ともご期待下さい。








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2009年01月15日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!復元画を大きな壁紙サイズで!!

壁紙「天守画」シリーズ


リポートに掲載中の復元画を、パソコンの壁紙サイズでお届けするコーナーを、トップページに設けましたので、お知らせいたします。

下記の画はいずれも1024×768pxです。





ご希望の方は、どうぞ上の「SAMPLE」画面をクリックしてみて下さい。

お申込みのページで、ご希望の壁紙をお選びのうえ「DL」をクリックしますと、ダウンロードできます。

その後、「レジ」でクレジットカードの決済をして頂きますと、壁紙を開くための「ライセンスキー」が届きます。
各\350円です。



※お支払いはクレジットカードのみです。国内最多16000サイトが利用するGMOペイメントゲートウェイ株式会社の電子決済システムによる決済になります。

※お客様とGMOペイメントゲートウェイ株式会社とのやりとりは、SSL方式のセキュリティによってデータが暗号化され、安全性を確保しています。


カードロゴ

特定商取引法に基づく表記



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2009年01月08日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守台石垣を鑑賞する




新コーナー「天守台石垣を鑑賞する」開始!!


年末年始にブログの更新ができず、ご無沙汰しております。
この度、ご好評の季刊リポートとは別途に、トップページで新コーナーを始めましたので、お知らせいたします。

「天守台石垣を鑑賞する」

かなりマニア向けな趣向のため、食指の動く方だけ、どうぞご覧になってみて下さい。

全国各地の「天守の無い」可哀想な天守台や、復興天守が載っていて「何かと邪険に扱われる」不遇な天守台にも、じゅうぶんに楽しめる面白みがあることを、真剣に、真面目にご紹介してまいります。

第一回目は、静岡県の浜松城です。

今後は、例えば三重県の神戸城ですとか、越前大野城ですとか、福岡城、甲府城、天王山城…はたまた木幡山の伏見城?等々、天守台(跡)から見える幻の天守について、あれこれとビジュアルにお見せしたいと存じます。

トップページに行く



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2008年12月05日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!渾身のリポートが完成しました!!




新設HPとリポートが完成です!!


長らくお待たせしましたリポート2件、思えば2年がかりの労作です。どうぞご覧になってください。

(※そしてやはり1件は有料とさせて頂きました。今後とも宜しくお願い申し上げます。)

現在、疲労の極に達しておりますので、また改めまして、ブログ記事の方も全面展開してまいりたいと存じます。感無量です…



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2008年10月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!リンク集をアップ



リポートや新設HPの完成を急いでおりますが、並行してブログの工事も進行中です。
アップしたリンク集はさらに充実を図り、今後は、

「現存天守の鑑賞ポイント写真集」

「天守台の鑑賞(!?)ポイント写真集」

「リポートこぼれ話」

「インタビュー にっぽん城郭研究者 列伝」
 (…奇しくも同じ住宅地の故・櫻井成廣先生をはじめ、
   草創期の研究者から現役バリバリの先生方まで)


といった記事を展開してみたいと
考えております。


【Myリンク集】は表ページにあります。



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2008年10月09日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!お知らせ



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

公開が当初の予告より一ヶ月以上遅れております。技術的な課題クリアのための新設HPとの連動工事は、ただいま最終盤です。近日公開予定!!


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