城の再発見!どの戦で天守が「司令塔」だったのか??


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城の再発見!どの戦で天守が「司令塔」だったのか??





どの戦で天守が「司令塔」だったのか??




ご覧の新刊雑誌『週間 江戸』第2号(2月9日発行)で、天守の役割について、チョットこれはどうか… と思う説明文が、さりげなく載っていました。

一見、説得力のある誤情報が伝わるのは、マスコミ批判の厳しい最中、どうも気になるため、今回だけ(安土城シリーズの)番外記事とさせて下さい。


天守の役割
司令塔からシンボルへ
当初は城が攻められた場合に、高い位置から戦況を把握し、兵の移動などを命令する軍事的な指令所であった。やがて泰平の世になると公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合いが大きくなっていった。



それはこんな囲み記事だったのですが、もしこの説明のとおり、「天守の役割」が当初は「軍事的な指令所」であったのなら、初期の天守は、平安末期から続いた侍たちの篭城戦で、何か新しい効果を発揮するために考案された建築、ということになります。

そして「高い位置から戦況を把握する」のは一見、良さそうに感じられますが、鉄砲が戦の主役となった時代に、「高い位置から」見ることにどれほどの効果があったのでしょう。

むしろ様々な文献では、天守が“砲撃のうってつけの標的”になった話が、わんさかと出て来ます。


もし仮に、天守が篭城戦にめざましい効果をもたらしたのなら、天守は国境の砦の類も含めて、一つの国に何十基と建てられても良かったはずです。

ところが現実は、一つの国(大名領)に天守は一つ、という形が常に原則であったわけで、その点だけを取っても、天守がいかなる建造物であったのかを厳然と規定しています。


――ではそもそも、どの戦で、天守は「司令塔」だったのか?

その検証は、幸いにも天守があった時代の篭城戦は比較的、事例が少なく、主な戦の経緯は文献に記されているため、天守の状況もある程度、推測が可能です。



事例1:関ヶ原合戦の前哨戦での大津城

史上、篭城戦を耐え抜いた天守として有名な、大津城の天守。

その「高い位置」を活かしていかに活躍したか、と思えば、実際のところ、大津城は琵琶湖のほとりに秀吉の別業(遊興地)として、また港をおさえる城として築かれたため、周辺の地形で一番低い所にあり、敵の集中砲火をあびました。

その惨状を『慶長記』は、「大津の城三之丸のへいは鉄砲にてうちつくし、こまい計なり。二之丸に松丸殿御家あり。火矢の用心にやねをまくり 鉄砲のおとに女房衆おとろき日夜かなしみ候事おひたゝし」と伝えています。

時の城主・京極高次の陣は本丸のどこにあったか定かでありませんが、天守の二重目に命中した砲弾によって、中にいた松丸殿(まつのまるどの/秀吉の側室で高次の姉)の侍女二人が死に、松丸殿自身は気絶したとも云います。

そうして三之丸や二之丸が陥落し、本丸も陥落寸前という時、高次が降伏を受け入れたことで、天守は焼失をまぬがれたに過ぎないのです。



大坂城天守の窓の女性たち



事例2:大坂夏の陣での豊臣大坂城

城主の豊臣秀頼は、夏の陣の開戦後も本丸の御座間を居所としつつ、戦功のあった家臣に千畳敷で褒賞を与えるなど、必要に応じて城内を移動しています。

そして落城の日、秀頼は最期の出馬のため桜御門まで出張ったものの、味方の総崩れで適わぬとなると、「さて御生害は何方にて遊ばさるべき候や」と家臣に問われ、「殿守を用意仕り候へ」と答えたことが『浅井一政自記』にあります。

一政は「火縄に火を付け持ち参仕り 殿守へ御供致し参候」とも書いていて、御座間に戻っていた秀頼とともに、天守に登ったことが分かります。



会津若松城の鉄門(くろがねもん)と天守(ともに復興)



事例3:幕末の会津若松城

白虎隊(びゃっこたい)の逸話など、悲劇的な篭城城で知られる会津若松城では、藩主・松平容保(かたもり)は戦の間、本丸中心部の櫓門「鉄門」の階上を「御座所」と定め、そこで自軍を指揮しました。

官軍の激しい砲撃を受け、無残な姿をさらした天守の写真が現存していますが、そうした結果を城方はちゃんと予期していたわけです。



これらの記録から判ることは、「天守は司令塔」という言葉が、単なる物見の塔として、使い番の兵が危険をかえりみず登っては眼下の情勢を確認し、再び降りてきて城主に報告する、という使用方法を言うのなら、充分ありえたでしょう。


しかしそんな危険な場所が、文字どおり「戦の司令塔」――城主の御座所(本陣)とされた例は、残念ながら、文献上から見つけ出すことは難しいのです。

むしろ「落城」が決定的になった時点でしか、城主(主将)は天守に登らない、という不文律さえ見えて来ます。



しかも上の事例1〜3でもお感じのとおり、篭城戦での天守は(決して安全な場所ではないにも関わらず)“城の女性たちがこもる場所”とされた可能性が濃厚なのです。

それは天守の位置が、例えば『匠明』屋敷図に照らしてみますと、ちょうど夫人の生活空間と言われる「御上方」の位置に当たるため、かなり興味深い現象です。

そうした天守に、合戦の当事者の中心であり、一族の家父長である「城主」が登るということは、その行為自体が、ひょっとすると「敗北の自認」「落城の覚悟」を城内に知らしめる効果も含んでいたのではないでしょうか?





以上の結論として、天守は、基本的に「平時のための」建築である、という理解が不可欠のように思われます。


より具体的に申しますと、織豊政権においては統一戦争の版図を領民に示すための「政治的モニュメント」であり、徳川幕藩体制下では(分権国家としての)各藩の統治の中心を示す「政治的モニュメント」であったわけです。


そうした天守の理解は、冒頭の『週間 江戸』の説明文では、後半の「公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合い」という部分は正しく、しかもそれは戦国末期(天守の発生当初)から一貫して続いた観念だと申せましょう。

つまり北ノ庄城や豊臣大坂城で、落城が確実になったとき、それぞれの城主(柴田勝家や豊臣秀頼)が天守に登った動機は、まさに統治者の「権威」を示す天守とともに、滅びる覚悟を決めたからに他ならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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