城の再発見!世界の中でのニッポンの「天守」


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城の再発見!世界の中でのニッポンの「天守」





世界の中でのニッポンの「天守」


いよいよ昨年度から持ち越しの年度リポート(仮題:最後の「立体的御殿」としての駿府城天守)が追い込みに入っておりまして、このところは時間があると「立体的御殿」というキーワードをアレコレと考えるばかりの毎日です。

この数ヶ月のブログ記事でも、織田信長時代の小牧山城の主郭について、スペース的な制約から「御殿の立体化」が始まったのではないかと申し上げてみたり…




また岐阜城の山麓居館に四階建て楼閣を想定して、山頂天守と一体的にとらえて「七重の立体的御殿」の構想があったのでは… 等々と申し上げて来ました。




とりわけ岐阜城の構想は、足利義政の東山殿「銀閣」とその背後の山頂にあった「義政公遠見の櫓」とのセットが、直接的な参考事例のようでもあり、信長は義政ゆかりの地を思いつつ、“立体的城郭”とでも“階層城郭”とでも言うべき独自のスタイルを編み出していたのでしょうか。…




<垂直の落差を「軍事的な防御壁」とするか 「政治的な階層の表現」とするか…>




おなじみの世界遺産「万里の長城」「シーギリヤ」「開平の楼閣村」

(※写真はいずれもウィキペディアより)


さて、ご承知のとおり、アジアでは有史以来、連なる山の稜線上に「万里の長城」のような塁壁を連ねて城郭化した例や、険しい山や断崖の頂上部分を「シーギリヤ」のように城砦化(空中都市化)した例、さらには商人が自宅を高層化した「開平の楼閣村」といった例もあり、これらはいずれも、垂直の落差を軍事的な防御壁として活かしたものでした。



小牧山城 / 一つの山塊を下から上まで要塞化した“階層城郭”??

(※築城450年記念のパンフレットに使われたイメージ画より)


一方、垂直の落差を政治的な階層の表現として活用した節があるのは、小牧山城から以降の、織田信長の城だと言えるでしょう。


ご覧のように一つの山塊を下から上までカンペキに要塞化したのは、例えばフランスのモン・サン・ミシェルなど、宗教施設(山岳寺院)が真っ先に頭に思い浮かぶわけですが、それが日本の信長の手にかかると“階層城郭”とでも言うべき代物に変わってしまう…

この仮称“階層城郭”は、果たしてアジアや世界の視点から見るとどうなるのかが、たいへんに興味のあるところです。

何故かと申せば、この“階層城郭”の延長線上に「天守」が出現したとも思われるため、そうしますと天守はまさに、公家と武家が並び立って来たニッポンという国柄を踏まえて、権威(統治)と軍事の両面にまたがる「象徴」として生み出されたのかもしれない… などとも感じ取れてしまうからです。


そんな中で、世界の中でのニッポンの城(天守)を非常に考えさせる画像がありまして、今回はそれらを是非ご紹介したく存じます。



それは、おーぷん2ちゃんねるの「さよなら旧速記念」様のスレッド <世界の日本に対するイメージ画像・韓国だけがこんなにひどい件> というものでして、すでにご覧になった方も多いのかもしれません。
世界の国々の人が「日本」を画像検索した時に、どんな画像が上位にランクインしているのか?というもので、今回は特に、注目の画像にグリーンの枠を付けつつ、その他をやや暗くして見やすくさせていただきました。



アメリカ(→弘前城1画像)

タイ(→姫路城2画像、大阪城1画像、松本城1画像、弘前城1画像)

台湾(→姫路城1画像、芸者と松本城1画像)

中国(→姫路城と桜1画像)

ロシア(→姫路城2画像、大阪城1画像、名古屋城1画像、松本城1画像)

フランス(→姫路城1画像)

サウジアラビア(→姫路城1画像)

南アフリカ(→大阪城1画像、姫路城1画像)

【番外】韓国(→誰がこんな事態を招いたのか!?…この際立った異常さ)


(※検索の方法は、上記スレッドによれば「世界で大きなシェアを誇る検索エンジンGoogle、それを使いGoogle UK、Google France等々、世界の国々のGoogle検索サイトへ飛び、そこで各々の原語で「日本」という言葉を検索してみたところ、微妙に異なるそれぞれの「日本像」が生々しく浮かび上がって来た。Google Franceではフランス語で「Japon」、Google Brasilではポルトガル語で「Japao」と検索するなど、各国の公用語で「日本」を検索し、日本のイメージ画像をキャプチャ」というもの)


お察しのとおり、ご覧の画像のスレッドは、最後の韓国のひどい検索結果を伝えることを主題としたものですが、それはそれとして、私なんぞが思わず注目したのは、他の国々での「日本の城」とりわけ「天守」の画像の予想以上の多さなのです。!


そこで実際に、私も上記の方法で検索してみますと、日によって画像が変わるためか、各国ともに「日本の城」の画像はさらに多かったように感じました。

(※また意外と言っては恐縮ですが、世界では「弘前城」がずいぶんと健闘していることにも気付かされました)


この現象はもちろん、事の正確性を担保できるような話ではありませんが、例えば際立って「日本の城」が多いタイやロシアのように、もし本当に彼等にとって、日本のイメージの「数分の一」を「城」が担っているのだとしたら、これはやはり要注意の事柄であり、我々としてもそれなりの心構えが、改めて必要になるのではないでしょうか。…


タイ(→35画像のうち5画像)

ロシア(→35画像のうち5画像)


もちろんここでは、ニッポンの城の初心者である外国人の皆さんに「天守=城そのものではない」という基本情報を、まずはお伝えすべきなのでしょうが、彼等にしてみれば、とにかく検索画像に出て来た現物(→天守)を見てみたい、と思うのが人情でしょう。

それが日本の城そのものではなくて、一部分であるのなら、それはそれで、ちゃんとそうした説明(→ならば「天守」は城の何なのか?)が無ければ、まるで不親切と申しますか、最低限、日本人もまだ解明できないミステリーはミステリーとして、そのまま丁寧に伝えていくべきだと思われてならないのです。


そして出来るなら、世界の城の中での「ニッポンの天守」はどういう位置にあるのか、積極的にアピールできれば最良でしょうし、それに関しては、今年4月から奈良大学の学長!の千田嘉博先生の文章が勇気を与えてくれるようです。



(千田嘉博「“ガラパゴス”ではなかった日本の城」/『歴史発見 vol.3』2014年所収より)

日本では織田信長や豊臣秀吉の居城を手本にした織豊系城郭が、天下統一の過程にあわせて各地に広がった。そして一七世紀初めにきわめて共通性の高い近世城郭が、列島の広い範囲にわたって一斉に出現した。
日本の城がもつ鮮やかな政治史的な特徴も、世界史的に見て特筆される。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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