城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか


カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (258)



全エントリ記事の一覧はこちら

2017年8月
    3
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

新着エントリ
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問” (8/15)
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する (8/2)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (18)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)


アクセスカウンタ
今日:1,009
昨日:2,894
累計:2,085,864


RSS/Powered by 「のブログ

2017年08月03日(Thu)
< 城の再発見!話題の「旧二... < 城の再発見!驚嘆、信長の... | 天守の発祥/岐阜城/織田信長の「立体的御殿」/一覧 | 城の再発見!フロイスの岐... >  
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか





どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか


前回は、駿府城の「豊臣系」金箔瓦のニュースから始まって、「徳川包囲網」という考え方に対する、私なんぞの勝手な“疑念”を申し上げてしまいました。

あの中でお伝えしたかったのは、要は、日本人一般の感覚にありがちな <強大な有力大名だから(余裕の)金箔瓦> ではなくて、実際は180度の真逆で、豊臣政権に加わった群小大名が集団で力を得るために <豊臣頼みの弱小大名だから(必死の!)金箔瓦> ではなかったのか??… という逆転の発想でした。

ですから「山形城」についても、金箔瓦が導入された時期は、関ヶ原合戦後に最上氏が57万石の“大藩”になった以降ではなく、もっと前の、豊臣大名の時代に求めるべきであろうと考えた次第です。


(※その意味で「山形城」の金箔瓦は、伊達政宗の江戸時代の居城・仙台城と一緒にはあつかえず、思うに政宗の金箔瓦というのは、言わば豊臣時代の集権派グループへの“意趣返し”、とりわけ直近のライバル「上杉景勝」に対する“あてつけ”や“見かえし”であったと、私なんぞには感じられてなりません。
 と申しますのも、金箔瓦の効果は、天下人に忠誠を示すこと以外は、効果が他の遠隔地の大名らには伝わりにくく、そもそも遠隔地の他家にとってはどうでもいいことであり、やはり主たる目的は、国境を接した隣国に対するアピール効果だと思うからです)


そして奇(く)しくも、前回ブログをアップした直後に本屋で見つけた『歴史REAL』最新号では、おなじみの千田嘉博先生が、やはり「徳川包囲網」という考え方に対する問題意識から「金箔瓦」を解説しておられ、望外の奇遇(きぐう)に驚きいったところです。

しかもその解説文は「千田先生、ついに断言しましたね」と思わず心の内でヒザを叩いてしまった文言を含んでおり、こうなると今回はもう「甲府城天守」の話題を一時中断しても、脱線させていただくしかないな、と即座に決心しました。


『歴史REAL』天下人の城(8月12日発行号)P74〜75


ご覧の本は最新号ですので、千田先生の解説文はほんの一部分だけ引用させていただきますと…


岐阜城出土の金箔瓦は、信長以降の城主が改修して用いたと考えるべきである。岐阜城の発掘成果をすべて信長に引きつけて解釈してしまうと、歴史評価を間違えてしまう。
(中略)
ちなみに岐阜城出土の金箔瓦は文様の飛び出した部分に金箔を貼っており、型式から見ても信長段階でないことは明らかである。


と、千田先生が「(織田)信長段階でない」と断言した、岐阜城出土の金箔瓦

その金箔瓦(牡丹文の飾り瓦)を、日本いぶし瓦株式会社が復元して寄贈したもの


ご覧の地元企業が復元した方の瓦は、ちょっとツヤがあり過ぎる?ような気はするものの、ご覧のとおり、岐阜城の山麓の「千畳敷」曲輪跡から出土して話題になった金箔瓦は、現在までのところ、どれもが瓦の文様の凹凸の凹部に金箔があるのではなくて、凸部に金箔が貼られています。


安土城から出土した金箔瓦 / 文様の凹部に金箔が貼られた「織田系」の典型例

そして旅行サイト「ついっぷる」で見つけた、松坂城出土の金箔瓦も同じく凹部に…



申すまでもなく、ご覧の松坂城の金箔瓦は、織田信長の二男・信雄の居城「松ヶ島城」に葺かれていた瓦が、のちに転用されて松坂城で使われたものと言われ、安土城と同じく凹部に金箔が貼られていて、これが信長が自らと子の居城だけに許した「織田系」金箔瓦の特徴とされます。

厳密に申せば、安土城や松ヶ島城、神戸城(三男の信孝の城)から出土した金箔瓦には、凸部に金箔の瓦も含まれるものの、千田先生は、少なくとも凹部の典型的な「織田系」は、岐阜城では一つも見つかっていない、という基本事項を改めて確認したかたちです。


岐阜城 山麓の「千畳敷」信長公居館の推定復元CG

(「岐阜市信長公450プロジェクト」の告知サイトからの引用)




さて、皆様ご存じの、岐阜市が「信長公450プロジェクト」のために制作した驚異的な出来栄えのCG(玉井哲雄先生ほか監修)ですが、まぁ率直に申しまして、これだけの大建築を裏付けられる「礎石」がいったい何個あるのか?…… と心配になっておられる城郭ファンは、全国に大勢いらっしゃるはずでしょう。

にも関わらず、こうしたCGが岐阜市で“公的に”使われる様子を伝え聞きますと、かつて駿府城天守の再建論議が「礎石も指図も無くては」「根拠が乏しいものはNO」という厳正な結論(※その検討委員会には小和田哲男先生や平井聖先生ほか)に行き着いた過去を思い出してしまい、この先の岐阜市民の反動を想像しますと、さらに心配になります。

そういう中では、今回の千田先生による、岐阜城「千畳敷」出土の金箔瓦は「信長段階でない」という厳正な?発言も、この先、かなりの波紋を呼ぶことになるのかもしれません。


CGは、出土した金箔瓦が、屋根の「棟」に大量に使われたという想定で制作



これら金箔瓦(菊花文・牡丹文の棟飾り瓦)が「信長段階でない」となると、

ご覧のCGは、出来栄えの大きな要素(根拠)を失うことに……



――― で、この際、そもそもの疑問として申し上げたいのは、<どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか> という初歩の初歩的な問いかけでありまして、千田先生の解説文によれば、それはまず、織田信長の金箔瓦は安土城から始まったからだ、という答えになるそうです。

また著書の中で「安土城の屋根は、かつて見たこともない輝く瓦で覆われていた。城郭専用瓦で葺かれた初めての城の出現である」と書かれた加藤理文先生もまた、同書で次のごとく説明しています。


(加藤理文『織田信長の城』2016年より)

ところで現在のところ、岐阜城で確認された瓦が、信長の居城最古の瓦とされている。岐阜城では、山頂部および山麓居館推定地周辺から、信長在城期と推定される瓦が出土している。

金箔の棟飾り瓦(信忠段階の可能性もある)を除けば、総量そのものは非常に少ないため、特殊な建物のみを瓦葺にしたという状況であり、瓦もそのために焼かせたという感じではなく、転用したとするのが妥当である。


(さらに同書254頁より)

これらの状況から、信忠が従三位左近衛権中将に叙任され、名実ともに織田家総帥の地位を確実にした天正五年に、「信忠の城」とするための改修が推定される。

それまで天守のなかった岐阜城山上部に天守を築き、さらに山麓御殿に金箔の棟飾り瓦を使用したことによって、その居城の体裁も織田家序列一位に相応しいものとなった。



ということで、まずは、信長時代の岐阜城の山頂に「天守」の類いが全く無かったとされる諸先生方の説明には、私なんぞは未だに納得できずにおります(※たとえ平屋建てでも「天守は天守」というのが当サイトの基本姿勢です…)が、それはそれとして、ご覧のとおり加藤先生もまた、山麓居館の金箔瓦は「信長段階」ではなく、嫡男の信忠の時代のものだとお考えのようです。

このように諸先生方のほぼ一致した見解として、信長の金箔瓦は安土城から始まったのだから、岐阜城で「織田系」が見つからないのは当たり前だ、という風になるものの、当ブログはあえてもう一つ、忘れてはいけない「答え」があるはずだと申し上げてみたいのです。

それはつまり、信長時代の山麓居館一帯が基本的に「山里」曲輪だったから、ではないでしょうか。


巨石で護岸した「千畳敷」中央の渓流

(引用:岐阜城跡 信長公居館発掘調査デジタルアーカイブの掲載写真より)


当時は天守や櫓に限らず、例えば二条城の御殿の飾り瓦にしても、「城の金箔瓦」というのは基本的に、言わば「金色の威(おど)し瓦」=見る者を威嚇(いかく)するための道具だったという感覚を、忘れてはいけないのではないでしょうか。

その点で、信長時代の山麓居館は「450プロジェクト」も盛んにPRしているとおり、かの足利義政の東山殿にならう形で、信長が特別なVIPをまねくための空間として設けた“迎賓館”であり、おそらく「山里」曲輪の発祥でもあったのですから、その中に「威(おど)し瓦」など、あってはいけない存在のはずだと思うのです。

ですから、これまでの山麓居館を中心とした発掘調査では、「織田系」金箔瓦が見つからないのは至極当然のことと感じますし、そこからまた別の問題意識も生じて来ます。




<そんな「山里」を短期間のうちに築き直したりするだろうか??>






ご覧の図は、「平成27年度 信長公居館跡 発掘調査成果」の公開されたPDFの中から、居館の中心的な曲輪(C地区)は、発掘調査の結果、いったん出来上がった敷地がのちに大きく拡張されていたことが判明した時の説明用模式図の引用です。

思いますに、このようなC地区の拡張(築き直し)は、まずは曲輪じたいの「使用目的」が修正・見直しされたことを考えるのが自然な発想でしょうが、そうした解釈はなされなかったようで、結局、信長が城主のうちに(すばやい計画変更で)拡張工事が行なわれたと解釈されました。

そして上記CGでも、まさにその拡張部分に、今回の千田先生の解説文で「信長段階でない」とされた、問題の金箔飾り瓦の建物が建っている形なのです。!!―――


果たして本当に、この急な拡張部分に居館の中核的な建物が建つ、ということが、普通の状態でありえたことなのか。

そのような状況をごく普通に考えるなら、例えば、C地区の中央に「綺麗な庭」がすでに出来上がっていて、その「庭」をつぶさずに新たな建物を建てたい、となって、やむをえず曲輪じたいを拡張し、その拡張部分を使って新しい建物を付け加えた…… といったケースを想像するのが常道ではなかったのか。

つまり、大規模拡張の前と後には、それなりの時期差(時代の差)があったとしますと、C地区の大規模拡張の痕跡と、ちょうどその地点で今回話題の「金箔飾り瓦」が出土していたことこそ、嫡男・信忠以降による「千畳敷」改修の“動かぬ証拠”だと思えて来たのですが、いかがでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。