天守の発祥/岐阜城/織田信長の「立体的御殿」

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2017年08月17日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない





フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない


前回記事の「脱線」のインパクトがけっこう強かったようで、このまま甲府城や躑躅ヶ崎館の話にもどって良いのか迷うところでありまして、とりあえず今回だけは、出来るだけ簡潔に、前回の補足をさせていただこうかと思います。




すでにご覧のとおり、岐阜城出土の金箔瓦(菊花文や牡丹文の棟飾り瓦)は「(織田)信長段階でない」と千田嘉博先生が誌上で断言されたことから、それならば、千畳敷C地区の大規模拡張そのものも“信長段階でない”可能性を疑うべきではなかったか―― という疑念を申し上げました。

つまり「金箔瓦」が3年前に千畳敷の発掘現場で出土した時から、間を置かずして、それらが信長居館の位置を示す“証拠品”であるかの解釈が一気に進み出したわけですが、そうした解釈に対して申し上げるべきは、例えば <フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない> という単純な事実でしょう。

これは「無い」ということを理屈では証明できませんので、是非ともお手元のフロイス日本史など、当時の文献を一度ご確認いただくしかありません。

しかもルイス・フロイスは、時系列的にはその後になる安土城の報告文(第一部八四章)では、ちゃんと「塗金した枠がついた瓦(完訳フロイス日本史)」「金縁瓦(柳谷武夫訳)」と書き、別の部分(第二部三一章)でも「前列の瓦にはことごとく金色の取付け頭がある」と書いており、前回の千田先生や加藤理文先生の解説文のとおりに <織田信長の金箔瓦は安土城から始まった> ということを、言外に認めた形になっています。!



(※ご覧の図はPDF「平成27年度 信長公居館跡 発掘調査成果」からの引用です)


ということは、話題の「信長段階でない」金箔飾り瓦が見つかったのは、ご覧のC地区の拡張部分の右側(西側)の池跡など、きわめて限定的な範囲であったわけですから、この拡張そのものが信長段階でなく、例えば嫡男の織田信忠以降による「改修」であった可能性が疑われても良かったのではないでしょうか。

――― となりますと、ならば信長時代の居館はどこにあったか? という大問題がぶり返してしまいますので、これは“言いっぱなし”で済む事柄でもないでしょうから、ここからは当ブログで初めて申し上げる話題によって、自ら「脱線」の尻ぬぐいをさせていただきます。




<フロイスの岐阜城訪問記にある「ゴアのサバヨ」の予想を超えた巨大さ>




ここまでは文献に「書いてないこと」を軸にお話をしましたが、ここからは逆に「書いてあること」に焦点をしぼり込むため、まずはフロイスの岐阜城訪問記の有名なくだりを確認しておきますと…


(『完訳フロイス日本史』第一部八九章より)

宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。
驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます。

第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。
広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます。

ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが
……


という風に、これは信長がフロイスらに「予の邸」=いわゆる信長居館を見せようとした直前の部分ですが、ここでは是非、文中の「劇場ふうの建物」と広い石段を登って入る「ゴアのサバヨのそれより大きい広間」とは何なのか――― ひょっとすると、それは想像以上の <<巨大建築>> なのかもしれない、というお話をしてみたいのです。

何故なら「二本の大きい影を投ずる果樹」「ゴアのサバヨ」という二つの文言がどうにも心に引っかかるからでして、ご承知のとおり「ゴア」というのは、当時のポルトガル領インドの首都であり、ザビエルら宣教師も寄航したマンドヴィ川河口の港湾都市でしたが、「ゴアのサバヨの…」とは、この頃はポルトガルによる占領後ですから、いわゆる印度総督邸のことになります。

その後の18世紀中頃の首都移転のため、いま現存するのは倉庫にいたる「門」だけという「印度総督邸」とは、いったいどれほどの規模の建造物だったのか、ネット上にある旧ゴア(OLD Goa)の市街図から探ってみますと…



旧ゴア市街図(1750年/アントワーヌ・フランソワ・プレヴォの著作より)

その中心部を拡大していくと…





!! なんとなんと、ゴアの印度総督邸とは、四階建て?の複数の鐘楼や大型の倉庫や礼拝堂を備えた、そうとうに大規模な建築群から成っていたようなのです。

ポルトガル人によるゴア占領後の都市建設は、同じく河口の港湾都市の「リスボン」を手本にしたと言われ、その景観は「東方一の貴婦人」「黄金のゴア」「東方のローマ」などと色々と異名がつくほどの出来栄えで、その中心たる印度総督邸(宮殿)は占領前の要塞を利用しつつ、イスラム建築を模して創建されたそうで、川べりに位置した様子はリスボンのリベイラ宮殿に似ていて、中には王室倉庫や礼拝堂、二つの大きなホールを備えていたと言います。

したがって印度総督邸の大きさについては、間違っても建物の右下の“港の荷役をする象”に惑わされてはいけないわけで、これと同種の旧ゴア市街図でも、印度総督邸は似たような描き方がなされ、旧ゴア市街を代表するランドマークになっています。



(1596年頃/ヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテン画)


……… ということは、当方の岐阜城の「ゴアのサバヨのそれより大きい広間」という“称賛”を込めて書かれた建物は、実際のところ、どれほどの<<巨大建築>>だったのか!!?… と考えざるを得ないことになって来まして、(→「ゴアのサバヨ」は当時の国際常識による大きさの表現か?)そんな難題を解くカギは、やはり信長が植えさせた「二本の大きい影を投ずる果樹」ではないかと思うのです。




<我が国の「古典」の常識から言えば、御殿の前の「二本の大きな樹」というと

 京都御所「紫宸殿」の右近橘(うこんのたちばな)と左近桜(さこんのさくら)を、

 昔の日本人であれば、だれもが想起したはずで……>







(もう一度『完訳フロイス日本史』より)

第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。

広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます。



このフロイスの書き方をもう一度ご覧になって、上記写真との“不思議な一致”をお感じになりませんでしょうか。

今回の話題の中心の「劇とか公の祝祭を催す」「劇場ふうの建物」とは、文字どおりに受け取るなら、信長は何を思ったか「神楽殿」とか「拝殿」の類いを建ててしまったようにも受け取れるものの、全国の神楽殿や拝殿で「両側に」「二本の」「果樹」を植えた例などは、おそらく一例も存在しないでしょう。

(※わずかに、梅と松を植えた北野天満宮の拝殿+本殿が、権現造りによる特殊な事例でしょうか)

ですから「二本の大きい影を投ずる果樹」というのは、非常に変わったスタイルと申しますか、私なんぞにとっては、もう「あの建物」を連想する以外はありえないほどの描写であり、それはきっと、多くの日本人にも同じではなかったか(→信長自身のねらいも全く同じ!?)と思えて来てならないのです。


夏の間は青い「橘(たちばな)」の実は、冬になると赤くなる




現在、紫宸殿(ししんでん)の左右にある樹は、言わずと知れた「右近橘」と「左近桜」ですが、実は「左近桜」は古代においては「梅」であったそうで、もしも信長の選んだ二本の樹が「橘と梅」という古典的なスタイルならば、フロイスらの岐阜城訪問は初夏の頃でしたから、橘にはもう青い実が、梅には黄色みづいた実が無数になっていたに違いありません。!…


… お前は何を言い出すのか? という戸惑いの声が聞えてきそうですが、ご想像のとおり、今回、私が申し上げたいのは、こういう破天荒な措置の可能性も(信長ならば)ありえたのではないか、という超・大胆仮説です。

紫宸殿と言えば、かの足利義満(よしみつ)が「北山第」に造営したという紫宸殿の例もあり、信長もまた義満らにならって「天皇の行幸」を模索するに至った人物なのですから、こんな超・大胆仮説も、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)とばかり言えないのではないでしょうか。

何よりそれが「ゴアのサバヨ」に対比された大建築だった、という一点だけをとっても、岐阜城の調査は、これまでの発掘調査の範囲より西側の、より城下側の「昔御殿跡(むかしごてんあと)」を含む<総合的な調査>に進むことが、岐阜城の国際的な注目度を高めるためにも、急がれるのではないかと改めて申し上げたいのです。




(※ご覧の図は市教育委員会の「織田信長公居館発掘調査ホームページ」から

  引用した<信長公居館跡地形復元図>に「昔御殿跡」を加筆しました)



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年08月03日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか





どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか


前回は、駿府城の「豊臣系」金箔瓦のニュースから始まって、「徳川包囲網」という考え方に対する、私なんぞの勝手な“疑念”を申し上げてしまいました。

あの中でお伝えしたかったのは、要は、日本人一般の感覚にありがちな <強大な有力大名だから(余裕の)金箔瓦> ではなくて、実際は180度の真逆で、豊臣政権に加わった群小大名が集団で力を得るために <豊臣頼みの弱小大名だから(必死の!)金箔瓦> ではなかったのか??… という逆転の発想でした。

ですから「山形城」についても、金箔瓦が導入された時期は、関ヶ原合戦後に最上氏が57万石の“大藩”になった以降ではなく、もっと前の、豊臣大名の時代に求めるべきであろうと考えた次第です。


(※その意味で「山形城」の金箔瓦は、伊達政宗の江戸時代の居城・仙台城と一緒にはあつかえず、思うに政宗の金箔瓦というのは、言わば豊臣時代の集権派グループへの“意趣返し”、とりわけ直近のライバル「上杉景勝」に対する“あてつけ”や“見かえし”であったと、私なんぞには感じられてなりません。
 と申しますのも、金箔瓦の効果は、天下人に忠誠を示すこと以外は、効果が他の遠隔地の大名らには伝わりにくく、そもそも遠隔地の他家にとってはどうでもいいことであり、やはり主たる目的は、国境を接した隣国に対するアピール効果だと思うからです)


そして奇(く)しくも、前回ブログをアップした直後に本屋で見つけた『歴史REAL』最新号では、おなじみの千田嘉博先生が、やはり「徳川包囲網」という考え方に対する問題意識から「金箔瓦」を解説しておられ、望外の奇遇(きぐう)に驚きいったところです。

しかもその解説文は「千田先生、ついに断言しましたね」と思わず心の内でヒザを叩いてしまった文言を含んでおり、こうなると今回はもう「甲府城天守」の話題を一時中断しても、脱線させていただくしかないな、と即座に決心しました。


『歴史REAL』天下人の城(8月12日発行号)P74〜75


ご覧の本は最新号ですので、千田先生の解説文はほんの一部分だけ引用させていただきますと…


岐阜城出土の金箔瓦は、信長以降の城主が改修して用いたと考えるべきである。岐阜城の発掘成果をすべて信長に引きつけて解釈してしまうと、歴史評価を間違えてしまう。
(中略)
ちなみに岐阜城出土の金箔瓦は文様の飛び出した部分に金箔を貼っており、型式から見ても信長段階でないことは明らかである。


と、千田先生が「(織田)信長段階でない」と断言した、岐阜城出土の金箔瓦

その金箔瓦(牡丹文の飾り瓦)を、日本いぶし瓦株式会社が復元して寄贈したもの


ご覧の地元企業が復元した方の瓦は、ちょっとツヤがあり過ぎる?ような気はするものの、ご覧のとおり、岐阜城の山麓の「千畳敷」曲輪跡から出土して話題になった金箔瓦は、現在までのところ、どれもが瓦の文様の凹凸の凹部に金箔があるのではなくて、凸部に金箔が貼られています。


安土城から出土した金箔瓦 / 文様の凹部に金箔が貼られた「織田系」の典型例

そして旅行サイト「ついっぷる」で見つけた、松坂城出土の金箔瓦も同じく凹部に…



申すまでもなく、ご覧の松坂城の金箔瓦は、織田信長の二男・信雄の居城「松ヶ島城」に葺かれていた瓦が、のちに転用されて松坂城で使われたものと言われ、安土城と同じく凹部に金箔が貼られていて、これが信長が自らと子の居城だけに許した「織田系」金箔瓦の特徴とされます。

厳密に申せば、安土城や松ヶ島城、神戸城(三男の信孝の城)から出土した金箔瓦には、凸部に金箔の瓦も含まれるものの、千田先生は、少なくとも凹部の典型的な「織田系」は、岐阜城では一つも見つかっていない、という基本事項を改めて確認したかたちです。


岐阜城 山麓の「千畳敷」信長公居館の推定復元CG

(「岐阜市信長公450プロジェクト」の告知サイトからの引用)




さて、皆様ご存じの、岐阜市が「信長公450プロジェクト」のために制作した驚異的な出来栄えのCG(玉井哲雄先生ほか監修)ですが、まぁ率直に申しまして、これだけの大建築を裏付けられる「礎石」がいったい何個あるのか?…… と心配になっておられる城郭ファンは、全国に大勢いらっしゃるはずでしょう。

にも関わらず、こうしたCGが岐阜市で“公的に”使われる様子を伝え聞きますと、かつて駿府城天守の再建論議が「礎石も指図も無くては」「根拠が乏しいものはNO」という厳正な結論(※その検討委員会には小和田哲男先生や平井聖先生ほか)に行き着いた過去を思い出してしまい、この先の岐阜市民の反動を想像しますと、さらに心配になります。

そういう中では、今回の千田先生による、岐阜城「千畳敷」出土の金箔瓦は「信長段階でない」という厳正な?発言も、この先、かなりの波紋を呼ぶことになるのかもしれません。


CGは、出土した金箔瓦が、屋根の「棟」に大量に使われたという想定で制作



これら金箔瓦(菊花文・牡丹文の棟飾り瓦)が「信長段階でない」となると、

ご覧のCGは、出来栄えの大きな要素(根拠)を失うことに……



――― で、この際、そもそもの疑問として申し上げたいのは、<どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか> という初歩の初歩的な問いかけでありまして、千田先生の解説文によれば、それはまず、織田信長の金箔瓦は安土城から始まったからだ、という答えになるそうです。

また著書の中で「安土城の屋根は、かつて見たこともない輝く瓦で覆われていた。城郭専用瓦で葺かれた初めての城の出現である」と書かれた加藤理文先生もまた、同書で次のごとく説明しています。


(加藤理文『織田信長の城』2016年より)

ところで現在のところ、岐阜城で確認された瓦が、信長の居城最古の瓦とされている。岐阜城では、山頂部および山麓居館推定地周辺から、信長在城期と推定される瓦が出土している。

金箔の棟飾り瓦(信忠段階の可能性もある)を除けば、総量そのものは非常に少ないため、特殊な建物のみを瓦葺にしたという状況であり、瓦もそのために焼かせたという感じではなく、転用したとするのが妥当である。


(さらに同書254頁より)

これらの状況から、信忠が従三位左近衛権中将に叙任され、名実ともに織田家総帥の地位を確実にした天正五年に、「信忠の城」とするための改修が推定される。

それまで天守のなかった岐阜城山上部に天守を築き、さらに山麓御殿に金箔の棟飾り瓦を使用したことによって、その居城の体裁も織田家序列一位に相応しいものとなった。



ということで、まずは、信長時代の岐阜城の山頂に「天守」の類いが全く無かったとされる諸先生方の説明には、私なんぞは未だに納得できずにおります(※たとえ平屋建てでも「天守は天守」というのが当サイトの基本姿勢です…)が、それはそれとして、ご覧のとおり加藤先生もまた、山麓居館の金箔瓦は「信長段階」ではなく、嫡男の信忠の時代のものだとお考えのようです。

このように諸先生方のほぼ一致した見解として、信長の金箔瓦は安土城から始まったのだから、岐阜城で「織田系」が見つからないのは当たり前だ、という風になるものの、当ブログはあえてもう一つ、忘れてはいけない「答え」があるはずだと申し上げてみたいのです。

それはつまり、信長時代の山麓居館一帯が基本的に「山里」曲輪だったから、ではないでしょうか。


巨石で護岸した「千畳敷」中央の渓流

(引用:岐阜城跡 信長公居館発掘調査デジタルアーカイブの掲載写真より)


当時は天守や櫓に限らず、例えば二条城の御殿の飾り瓦にしても、「城の金箔瓦」というのは基本的に、言わば「金色の威(おど)し瓦」=見る者を威嚇(いかく)するための道具だったという感覚を、忘れてはいけないのではないでしょうか。

その点で、信長時代の山麓居館は「450プロジェクト」も盛んにPRしているとおり、かの足利義政の東山殿にならう形で、信長が特別なVIPをまねくための空間として設けた“迎賓館”であり、おそらく「山里」曲輪の発祥でもあったのですから、その中に「威(おど)し瓦」など、あってはいけない存在のはずだと思うのです。

ですから、これまでの山麓居館を中心とした発掘調査では、「織田系」金箔瓦が見つからないのは至極当然のことと感じますし、そこからまた別の問題意識も生じて来ます。




<そんな「山里」を短期間のうちに築き直したりするだろうか??>






ご覧の図は、「平成27年度 信長公居館跡 発掘調査成果」の公開されたPDFの中から、居館の中心的な曲輪(C地区)は、発掘調査の結果、いったん出来上がった敷地がのちに大きく拡張されていたことが判明した時の説明用模式図の引用です。

思いますに、このようなC地区の拡張(築き直し)は、まずは曲輪じたいの「使用目的」が修正・見直しされたことを考えるのが自然な発想でしょうが、そうした解釈はなされなかったようで、結局、信長が城主のうちに(すばやい計画変更で)拡張工事が行なわれたと解釈されました。

そして上記CGでも、まさにその拡張部分に、今回の千田先生の解説文で「信長段階でない」とされた、問題の金箔飾り瓦の建物が建っている形なのです。!!―――


果たして本当に、この急な拡張部分に居館の中核的な建物が建つ、ということが、普通の状態でありえたことなのか。

そのような状況をごく普通に考えるなら、例えば、C地区の中央に「綺麗な庭」がすでに出来上がっていて、その「庭」をつぶさずに新たな建物を建てたい、となって、やむをえず曲輪じたいを拡張し、その拡張部分を使って新しい建物を付け加えた…… といったケースを想像するのが常道ではなかったのか。

つまり、大規模拡張の前と後には、それなりの時期差(時代の差)があったとしますと、C地区の大規模拡張の痕跡と、ちょうどその地点で今回話題の「金箔飾り瓦」が出土していたことこそ、嫡男・信忠以降による「千畳敷」改修の“動かぬ証拠”だと思えて来たのですが、いかがでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年06月09日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか…






驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか…


元亀3年、織田信長が、対立する足利義昭に突きつけた最後通牒(さいごつうちょう)と言われる「十七ヶ条の異見書」の十七条目には、このように書かれていました。

<諸事について御欲にふけられ候儀、理非にも外聞にも立ち入られざるの由、その聞え候、しかれば不思儀の土民・百姓にいたるまでも、あしき御所と申しなし候由に候>




出典:http://i.imgur.com

そして、足利義昭の坐像(等持院蔵/ウィキペディア)より


【口語訳】

あなたは万事欲が深い。金を貯めたり、怪しいことをして懐(ふところ)をこやしている。理非曲直を明らかにせず、世間の批評も耳に入らないという評判だ。そのため、物を考える力のない無知の土民・百姓までもが、悪い将軍だといっている。

(朝尾直弘ほか共著『天下人の時代』掲載の訳文より)


ご承知のとおり信長は「天下の評判」を人物評価の物差しとして使い、自らの家臣の働きぶりをほめた書状でも、ご覧の足利将軍に対する最後通牒においても、そういう言い方をしていたことが知られています。

この件については、上の訳文が載っている著書『天下人の時代』で、歴史学(日本近世史)の巨頭のお一人、朝尾直弘先生が以下のように解説しておりまして、やはり私なんぞは、こんな見方の方がしっくり来るのです。




(朝尾直弘ほか共著『天下人の時代』2003年より)

ここで、信長は「土民・百姓」の意見を受けとめるかたちをとって、義昭を批判しています。

武田信玄がこの意見書を見て「信長という男はたいへんなやつだ」といったというエピソードが伝わっていますが、信長が「天下のほうへん(褒貶)」、すなわちほめるとけなすと、世間の動向をいうとき、それには「土民・百姓」が含まれていました。

「土民・百姓」はたんなる支配の対象でなく、政治的見解をもつ一つの勢力、世論を構成する主体として位置づけられていたと考えられます。「土民・百姓」の勢力がそれだけ無視しえないものに成長していたこと、信長の天下がそれだけ厚みをもってとらえられていたことを示していました。



このような見方の中でも、私は武田信玄がふと感じたはずの違和感(危機感?)に興味を感じておりまして、どういうことかと申しますと、織田信長が決して「土民・百姓」の味方でなかったことは明白でしょうし、それはおそらく武田信玄も百も承知だったと思うのですが、戦国大名(信長)が現職の足利将軍を詰問するのに、こともあろうに「土民・百姓」まで使って散々に言い立てる、という感覚に対して、まるで新種の生き物に出くわしたような(いよいよ出て来たか、といった)驚きが信玄の心にあったのではないでしょうか。


そもそも領国の“実効支配”に血道をあげていた戦国大名らが、自分たちは何者か、というアイデンティティをどこに求めたかと言えば、信玄などは文句なく“新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の血筋”がよりどころでしょうが、そんな信玄であれば、もしも足利将軍を詰問する立場になったとしても、絶対に「土民・百姓」の意見など、根拠にすることはなかったでしょう。

ところが、信長は違ったわけで、何故そんなことが出来たか?という点で、「天守」を創造するに至った信長や豊臣秀吉ら、織豊大名の「出自」が大きく関わっていたのだろうと思えてなりません。

当ブログで何度も申し上げたことですが、貴種の生まれでない武家が足利将軍を追放し、自らが天下人として君臨するとなれば、それ相当の軍事力があってもまだ不安のようで、そこで例えば、従う信者達の信仰心とか、民衆の「世論」といった、人々の「数」の力をよりどころにして、貴種の力に対抗するしかなかったのではないでしょうか。



BS朝日「歴史ミステリー 日本の城見聞録」徹底解明!天守の建築美 より




さて、そこで話はちょっと変わりまして、先ごろ、皆様おなじみの「城」番組において、木岡敬雄(きおか たかお)先生の出演で「天守の建築美」が語られたりしていましたが、番組での木岡先生の解説は主に技術的な観点からのもので、これを観ていた私なんぞは、どうしても、城主や大工の動機の面… つまり「見せる天守」を造り上げた原動力はどこから発していたのか? という面の方が気になって仕方がありませんでした。


その点で、前述の朝尾先生の「信長の天下がそれだけ厚みをもってとらえられていた」との指摘がググッと突き刺さるわけでして、つまり「見せる天守」を見せる対象というのは、それだけ厚みのある、当時の日本社会のあらゆる階層を想定したもので、それらをまるごと吸引する“力”のある建築が求められ、そのための「建築美」の追求であったように感じるのです。

とりわけ、我が国の「天守」が領国周辺のあらゆる人々に見せつけることを目的としたのに対して、西洋の美しい城館などは、その多くが領民の眺められる場所には建っていなかった、という事実は、美しい天守を造りあげた原動力が、どこから発したのかを如実に物語っているのでしょう。




<信長は結局、将軍にも、関白にも、太政大臣にもならずに(なる前に)

 いきなり“キングメーカー”になろうとしていた、という朝尾説への興味>





ではここで、信長をめぐる論議の最大のテーマ「信長の未完の政権構想とは」という問題で、少々確認をしておきたいのですが、信長が目指したのは将軍か関白か太政大臣かと、諸先生方や作家の方々がいろんな説をとなえた中で、前出の朝尾先生は(いまや古典的な?)解釈を表明されました。

すでにご承知の方も多いとは思いますが、朝尾先生は『御湯殿の上の日記』にある“正親町天皇の譲位と誠仁親王の天皇即位の費用は信長が負担するので、その後に官位の話はお受けする”という天正9年(本能寺の変の前年)の信長の返答について、次のように解釈しておられます。


(前出『天下人の時代』より)

信長の態度、考え方はここにはっきりと述べられています。

すなわち、かれのねらいは将軍や太政大臣など、朝廷の官職に無条件につくのではなく、キング・メーカーとして誠仁親王を即位させ、そのもとで権力をふるうところにありました。

これは秀吉が後陽成天皇を擁立し、太閤(前関白)として権力を行使し、家康が後水尾天皇を立て、大御所(前将軍)として政権を掌握したのと同じパターンです。

信長は「前右府(さきのうふ/前右大臣)」として死にましたが、かれのねらいは官職の制約を受けず、天皇の地位を左右する実力者として君臨するところにあったのです。



思えば、前回のブログ記事でも申し上げた「死ぬその時まで都の寺に<寄宿>し続けたのは何故なのか」というナゾも含めて考えますと、朝尾先生の言う、信長は結局、将軍にも、関白にも、太政大臣にもならずに(なる前に)いきなりキングメーカーになろうとしていたのだ、という極めてストレートな解釈は、たいへん魅力的に見えるのです。

信長は、朝廷が与える官職の枠に取り込まれず、より自由な立場で自らの政権を構想したい、という建て前を押し通したかったのであり、むろん足利将軍の位を簒奪(さんだつ)するつもりはなく、朝尾先生の言う「将軍に代わる新しい武家=天下人」による体制を模索していたのでしょう。


ですから、そんな信長らの美しい天守=「見せる天守」には、それ相応の動機や意図や思惑があったはず、という前提で申しますと、天守は言うなれば“安土桃山時代のマスメディア”でもあったのかもしれない… と思えて来まして、それは信長が気にした「天下の評判」にも、かなり巧妙に作用していたように思えるのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年05月25日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった?






話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった?


前回の地図に、古代文化調査会の「旧二条城」の推定位置をダブらせると…




前回記事のアップとちょうど前後して、京都で様々な発掘調査を行なってきた民間団体の古代文化調査会(家崎孝治代表)が、発掘した土塁の堀跡は「旧二条城」の内堀と外堀の間に急造された“第三の堀”と考えられる、という発表を行なってニュースになりました。

その“第三の堀”というのは、ご覧の図のとおり、前回記事の高橋康夫先生が想定した「旧二条城」よりも、いくぶん西側に広い範囲を城域として、その中に、あとから掘られた土塁の堀だということで、それは足利義昭が、対立の度を深めた織田信長の攻撃に備えて急造したものであろう、との解釈を調査会の方ではしているようです。

そもそも、これまでにも高橋先生のような想定のほかに、文献の記述等から、各専門家によって「旧二条城」は色々な想定の仕方があったわけですが、まず決定的だったのは昭和50年の地下鉄工事で発見された石垣の堀跡であり…




それらに基づいて「旧二条城」は内堀と外堀、二重の堀で守られた城であった、との見方がなされて来たものの、今回の“第三の堀”という考え方が出て来たのは、その地下鉄工事の調査の際に、もう一つ、南内堀のすぐ南側の(地下鉄ルート上の)地点を東西に走る土塁の堀跡も見つかっていた、という話などを踏まえてのことでしょう。

ですから図のように、それが今回の土塁の堀跡と結び付くなら、ぐるりと城の全周をめぐる“第三の堀”の可能性が生じるのでしょうが、発見当時はもっぱら、足利義昭の前の(前回ブログ記事でも申し上げた)義輝時代の二条御所(武衛陣の御構え)の堀跡であろう、と言われたものです。

その他の発掘成果も含めて解釈が揺れ動いている昨今ですが、今回の土塁の堀跡を“第三の堀”と解釈して(使って)しまいますと、ならば義輝時代の二条御所はどう考えるのか?という、言わばイタチゴッコのような真相究明の作業がこの先に待っているのかもしれません。…




<ではその後、「旧二条城天主」はいったい何処へ行ったのか??

 という問題にこだわってみると……>





平安女学院大学の角にある「旧二條城跡」の石碑と説明文


さて、ご覧の説明文はちょっと小さな字になって恐縮ですが、この文中に <その後、織田信長は旧二条城から足利義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された> とあるのが、思わず目を引きます。

と申しますのは、後半の <天正4年…に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された> という部分は、『言継卿記』の天正4年9月24日の条にあるそうした記述に基づいたもので、それについて高橋康夫先生は「残っていた西之御楯、すなわち天主をはじめ、南の門、東の門などがあいついで解体され、安土城の建設が始まっていた安土へ引かれた」と説明しておられます。


しかしその一方で、前半の <その後、織田信長は…東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていた> という部分はどうなのでしょう。!!…

もしそうだとすれば、問題の「天主」は約3年間、次期天皇への即位は間違いなしと目された誠仁(さねひと)親王が、使っていたか、もしくは居住していた!!?天主(立体的御殿)だという可能性が出て来て、これは天守の歴史を語るうえでコペルニクス的な大事件になります。

よもや、よもや、と思いつつ、この件を確認しようとしますと、思いのほか、この件について明確に説明した本は少なく、かろうじて金子拓先生が(前々々回記事の「五畿内説」を強く主張されている先生ですが)最近作『織田信長権力論』に掲載の略年譜やその解説文で、誠仁親王は弘治3年に「御方御所」に入居して以降は、天正7年に信長から「二条御新造」を献上されるまで、その他の御所に移ったことを示すような文献は見当たらない、としています。




ということは、綿密な史料批判で知られる金子先生ですから、この略年譜に間違いは無いとしますと、どういうことになるかと言えば、「旧二条城」は信長に攻められ炎上もした後は、おそらく御殿などが破却されて、誠仁親王はもちろん誰もそこを御所として使えた状態ではなく、その後の安土築城や「二条御新造」造営が始まるまでの約3年間は、天主や門、庭だけが寂しく残り、石垣の石が人々に略奪されるままに放置…もしくはある種の維持がなされていた、ということなのでしょう。


一説には信長自身が使った、との話もあるようですが、その年以降も毎年、信長は京の都では妙覚寺や知恩院、相国寺などに「寄宿」した記録がちゃんとありますから、とても「旧二条城」を修繕して使ったようには思えません。

となると、これもまた「3年間も放置された信長の天主があった」!!というコペルニクス的な事件になりそうで、いったいぜんたい「旧二条城天主」はどうなってしまったのか? という疑問が大きくふくらんで来るのです。


そこで、信長の意図をつかむため、ためしに永禄11年の上洛以降、信長は京の都でどこを「宿所」にしていたのか、非常にざっくりとした年譜にまとめてみますと、それだけで、ちょっと異様な感のある傾向が(信長の本意か、結果論なのか分かりませんが)透けて見えるようです。






という風に、結局、織田信長が「本能寺で死んだ」ということは、ほぼすべての日本人が知っているような事柄ですが、では何故、信長は天下人とされた晩年に至っても、京の都ではほぼ一貫して寺院に「寄宿」し続け、そこで落命する、などという結末を(あえて)迎えてしまったのか? という疑問が当然のごとくあるわけで、そこを信長本人はどういうつもりでいたのか、という動機や原因については、まだ良く解明されていないのではないでしょうか。…

信長が洛中に強固な「城」を築かなかったことは、義昭や朝廷からもそれを心配する声が出たと『信長公記』にありますし、これは「城郭論」のテーマとしても、かなり重要な問題を含んでいると思われ、例えば、西ヶ谷恭弘先生がかつて指摘された「吉田山築城計画」(『城郭史研究』19号)などが頓挫(とんざ)していなければ、本能寺の変は起きたかどうかも分からない感があります。


ちなみに上記の年譜に登場する寺は、位置も宗派もバラバラであり、あえて共通点を探すと、最初の清水寺をのぞけば、下京・上京の町組からほんの一歩外れた位置にあった寺を、好んで選んだかのように見えます。

で、そうした寺に「寄宿」しながら、足利義昭との暗闘を続け、浅井・朝倉や石山本願寺など各方面の敵と戦い続けた信長は、その間に造営した「二条御新造」をわずかな日数を使っただけで誠仁親王に献上し、再び寺院での「寄宿」に戻っていたわけです。


この「慎ましやかさ」と言うのか、何なのか分からない信長の習癖(ある種の信条か政策か)は、いったい何に起因したものだったのでしょう。??

余談ながら、ひょっとすると、明智光秀はそういった信長の習癖が「弱点」になりうることに早くから気づいていて、虎視眈々(こしたんたん)と“チャンス”を待っていたようにさえ思えてしまうのです。



以前のブログ記事でお見せした「織田信長の天守」

天正10年「本能寺の変」の時点で、可能性のある天守を積極的に挙げてみた――



(※「内陸部」「海寄り」「海辺・湖畔」の定義は2011年度リポートと同様)


さて、それではここで、前述の旧二条城天主の「3年間も放置された信長の天主があった」コペルニクス的な事件を改めて考えますと、ご覧の図はやや時期が違うものの、旧二条城が陥落した天正元年の時点では、もうすでに信長の天主は、畿内を中心にある程度の数があげられていた可能性があるのでしょう。

当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という仮説を申し上げておりますが、その立場から、洛中に「3年間も放置された信長の天主があった」原因を想像しますと、それは、いったん京の都に掲げた「記念碑」や「旗印」を、そう簡単に降ろすわけにはいかなかったからだ――― という風に想像できるのですが、どうでしょうか。


そうした考え方が許されるのなら、解体されて安土へ運ばれた「旧二条城天主」は、まず間違いなく「安土城天主」の建造に使われたに違いない、と申し上げることも出来そうですし、したがって「旧二条城天主」という存在には、もっと注意を向けるべきだったのかもしれません。

そしてその先をさらに申すなら、安土城じたいの成り立ちについても、例えば、おなじみの小牧山城(=南側に大手道のある城)と岐阜城(=西向きの山城)と、話題の旧二条城(=大型の天主がある、行幸を前提にした城)という三つの城が合わさって、言わば三位一体の“合体形”として、安土城は構想されたのでは… といった勝手気ままな夢想も出来るのかもしれません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年05月10日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々・信長の「天下」――安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響






安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響


前々回から、織田信長が意図したはずの「天下」の語義について申し上げて来ましたが、結局のところ、私なんぞには「天下布武」の「天下」の中に足利将軍の居場所は殆ど無かったように思われますし、また信長が使った「天下」の中に領域的な「五畿内」という意味が含まれていても、それはまず「天皇」が千年にわたり遷座を行なった都の地、としての畿内であったのだろうと感じられてなりません。




ですが、そうなりますと、一点だけ、気がかりな問題がありまして、それは10年以上前に、滋賀県が行なった安土城の発掘調査から、伝本丸にあった建物は「慶長年間に改修された京都御所内の天皇の日常の住まいであった清涼殿と酷似」していて、それこそ伝承の行幸殿「御幸の御間」である、という驚きの調査結果が出て、論議を巻き起こした一件です。


いまや懐かしい、調査結果を紹介した本の一例 /『図説 安土城を掘る』2004年より

安土城天主は足元の行幸殿を見おろしていた?(同書の平面図をもとに作成)


ご承知のとおり、この一件は、調査結果が出た後に三浦正幸先生や川本重雄先生から「発掘された遺構を清涼殿に見立てるのは恣意的で無理がある」という主旨の(古建築の分野からの)反論があり、その後の論議の中でしだいに勢いを失った経緯があります。


ただ、この時期に、多くの論述やメディアにおいては <信長の居所であった安土城天主は、行幸殿の上にそびえ立ち、天皇を見おろす形になっていた> というニュアンスの言われ方が度々なされました。

―――その物理的な分かり易さもあってか、例えば「天皇を従える信長」(小島道裕『信長とは何か』)「神仏や朝廷(行幸後)よりも上位にある信長のイメージを焼き付けることが可能であった」(藤田達生『信長革命』)「いわゆる天下布武の中での、彼なりの物の示し方というのか、権力の具現化、示し方だったのではないか」(木戸雅寿ほか『信長の城・秀吉の城』)という風に、二つの建物の上下の位置関係が、信長の人物像にまで多大な影響を与えてしまったようです。


結局、「御幸の御間」の具体的な位置や姿かたちは判らずじまいですが、いずれにしても狭い主郭の中のことですから、それが天主近くの“足元”にあったことは事実でしょうし、そんな行幸殿と天主の関係は、見るからに「天皇を従える信長」のようでもあったのでしょう。


しかし一方では、その天主の内部に描かれた障壁画は「安土城最上層の、三皇五帝をはじめとする、神話時代の聖天子や、孔子および孔門十哲の図など、ぼくのいうチャイニーズ・ロアの図像は、内裏の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)にそのままつながるものを持っている」…「安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないか」(大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』)といった見方もありました。

となると、安土城天主に紫宸殿の「賢聖障子」を連想させる絵があったのなら、もし安土に行幸があった場合は、そのまま天主への登閣があれば、天皇は自身の目でそういう“見慣れた絵”?を目撃することになっていたわけで、そのあたりの計算を信長の方はどういう風に心づもりしていたのでしょう。??


ということで、果たして信長の天主は、天皇を威圧的に見おろす建物だったのか否か… そんな問いの答えをさぐるためには、別の「行幸」を前提として京の都にそびえた“ある天主”が大いに参考になるのかもしれません。



徳川の二条城の行幸殿に入った後水尾天皇は、ご覧のような角度で天守を見上げたはず


(歴史群像 名城シリーズ11『二条城』1996年より)


寛永3年、徳川幕府が大改築した二条城に、かねてから幕府との確執があった後水尾天皇が行幸を行いました。その時、城内に建てられた行幸殿と天守との位置関係を、まずは安土城との比較で確認しておきたいと思います。


中井家蔵『二條御城中絵図』

絵図の上に安土城の平面図(ブルー)をほぼ同縮尺にしてダブらせると…


ご覧のとおり、安土城の天主と伝本丸との距離は、二条城の天守と行幸御殿との距離の三分の一くらいであり、かなり近い関係に見えるものの、これは安土山頂の狭い土地におさめなければならなかった事情もありそうで、その一方では、安土城も二条城も、方角的には似たような位置関係(→行幸殿が天主の東南東?)にあったとも見えます。

ちなみに二条城の天守も、内部は金碧障壁画で飾られていて、おそらく徳川の天守の中で一二を争う華美な造りだったのでしょうが、ここに後水尾天皇は五日間の滞在中に二度も登って眺望を楽しんだそうで、そうした経緯は、この天守が天皇自身の登頂を大前提として建てられたことを物語っているのでしょう。




<そもそも「行幸」を得るための築城、という発想はどこから??>




行幸と城… と言いますと、私なんぞは聚楽第行幸をまず思い浮かべますが、それまでに行なわれた武家の邸宅への行幸としては、足利義満の有名な「花の御所」や北山第への行幸がよく知られています。

しかしそれらは足利将軍の「御所」と言うべき邸宅ばかりで、「城」となると例が無かったようで、例えば歴代の足利将軍邸の中で初めて「城」と呼ばれたのが足利義輝の二条御所(武衛陣の御構え)だそうですが、それは完成の前に三好義継や松永久秀に攻め込まれて、義輝自身が落命のうきめに会ってしまいました。

そして義輝の死後、すっかり廃墟になった二条御所を大きく拡張して出来上がったのが、織田信長が足利義昭のために築いた、いわゆる「旧二条城」でした。


実に興味深い、織田信長(足利義昭)の「旧二条城」のあり方



ご覧の「旧二条城」と言えば、宣教師の記録に築城時の有名なエピソードがあり、その規模はかなりのものであったにも関わらず、色々な呼び方がなされて名称が一つに定まらないという不思議な城でしたが、この図は主に高橋康夫先生の論考を参照しながら、京都におけるその他の時代の御所や城の位置をまとめて表示してみたものです。


で、このようにしてまずお解りのとおり、足利将軍の幕府が「室町幕府」と呼ばれるのは、花の御所が室町通りに面した今出川付近(室町)にあったためですが、上記の義輝の二条御所や、信長(義昭)の「旧二条城」もまた、このように室町通りに面した形で築かれたそうで、それは義輝や義昭の足利将軍としての体面に配慮した形だと申し上げていいのでしょう。

なにしろ「旧二条城」の建設は、西側の(室町通りの側の)石垣を積む工事から始まったことが象徴的ですし、その結果、「大手門というべき西門櫓が中心街路である室町通りに面していた」(高橋康夫ほか『豊臣秀吉と京都』)そうですから、この城の性格がよく分かろうというものです。


そして徳川の二条城とまったく同様に、この「旧二条城」にも南西の隅に(三重の)「天主」があったことが確実視されています。

で、その位置は城の全体の(つまり二ノ丸の)南西の隅であったように解説した本もありますが、当ブログの図では、地下鉄工事で判明した「内堀」で分けられた本丸と二ノ丸は、高橋説の範囲に築かれた輪郭式の構造とあえて解釈し、その本丸の南西隅に★印をつけてみました。

こうしてみますと「旧二条城」というのは、城の立地は、かつての花の御所を踏襲した室町通り沿いの南北に細長い城でありながら、輪郭式の構造や天主の位置を見れば、まるで徳川の二条城(→しかも行幸のための寛永修築後の姿)にそっくりだという、たいへんに興味深い城であった可能性が浮き彫りになるのです。




ということであれば、「旧二條城」はこれだけの配慮を行なった上での築城だったのですから、それはもちろん、花の御所と同様に、いずれは「天皇の行幸」があることを想定していなかったはずはない!… と思われるのですが、そこには時代の変化をあらわす「天主」が新たにそびえ立ったことになります。

つまりは、築城を差配した信長も、それを使う側の義昭も、両人ともこの城に「天主」のごとき高層建築が加わることに特段の支障は感じておらず、義昭自身は「天主」で度々、公家との対面や雑談、町衆の踊りの見物などをしていたと言います。


したがって、以上の事柄を総合しますと、天皇の行幸が想定された城において、天主と行幸殿の位置関係というのは、ひょっとすると、織田信長が足利義昭のために築いた「旧二条城」に始まり、それが安土城、聚楽第、徳川の二条城と、脈々と踏襲された“形式”のようなものが存在していたのかもしれない、と思えて来るのです。

ですから、そんな中で安土城天主だけが、取り立てて行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、という見方はやや唐突な感じがしますし、少なくとも武家の側で <天守をあげること> と <そこから行幸殿を見おろしてやる>といった意識が直結したことは、まずは無かったのではないか、と感じるのですが、いかがでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年04月25日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか?






続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか?




前回に続き、織田信長が意図したはずの「天下」の意味について、もう少し申し上げてみようと思うのですが、まず最初に、ご覧の本はNHKの番組と連動した中身だろうと思っていたら、副題の <戦国時代を「城」で読み解く> にあたる章の中に、思わずヒザを打つ文章が並んでいたことの方が印象的でした。

そのクライマックスは「天守や石垣の有無、礎石・瓦の使用を近世城郭の指標として城を捉えるのは、歴史観として大きな問題があり、適切ではないと言わなくてはならないのです。… それでは近世城郭成立の本質的な指標とすべきものは何か。それはずばり城の形、とりわけ階層的な城郭構造の成立…」という部分に続く一文でしょうが、私はその前の「戦国期拠点城郭の登場」と題した部分にもハッとしました。



(上記の本より)

織田信長というと、非常に先進的で時代を先取りする人物という印象が一人歩きしていますが、天下統一に乗り出す以前には、室町時代的な館城を本拠としていました。後で触れる那古野城や清須城がそうです。信長が室町的な館城から脱するのは、永禄六年(一五六三)の小牧山城の築城からでした。
(中略)
小牧山城や岐阜城を築くことで、信長はようやく当時の他の戦国大名たちのスタイルに追いついたと言えるでしょう。



私なんぞは小牧山城や岐阜城の発掘成果の方に気をとられ過ぎのようで、それらがすごい、すごいと、頭の中でリフレインするばかりでしたが、千田先生は城の全体像(戦国期拠点城郭との類似)から「ようやく当時の他の戦国大名たちのスタイルに追いついたと言える」と冷静にサラリと言ってのけたところに、思わずハッとしたのです。


―――であるならば、そのせっかく「追いついた」ばかりの小牧山城をわずか4年で捨てて、しかももう一度、同じ「スタイル」のはずの岐阜城を、わざわざ新たな居城として修築した動機は何だったのか… と、逆にこの点が頭の中でクローズアップされて、気になって来たのです。


と申しますのも、小牧山城が「尾張統一の総仕上げ(『信長の城』)」として、あれだけ画期的に、かつ大規模な築城で、しかも新規に出来上がった城と城下であることが判明したのですから、それをさっさと惜しげもなく捨てた信長自身の「動機」(→小牧山城のままでは何故ダメだったのか?)がますます問われるべきだと思うからでして、この点について、当の千田先生はどう説明して来られたかと言うと、

「信長の小牧在城期間の短さは結果論であり、あらかじめ信長がすべてを見越して行動したと考える方が不自然ではないでしょうか」(『信長の城』)

という風に、予想外に美濃の攻略が早く済んでしまったから!… と説明されていたように記憶しています。


その時点では「まぁそうかな…」と感じたものの、こうして「天下」の語義が揺れ動き、信長はいったい何を目指していたのか、改めて確認せねばならない状況になりますと、“美濃の攻略が早く済んだから”では、岐阜への早急な居城移転の動機として、ちょっと弱いのでは… とも感じられてしまい、例えば、本当に岐阜への移転は既定路線だったのか? 画期的な小牧山城を捨ててまでして岐阜で実現したかったものは何だったのか? という点を、もう一度、確認しておく必要があるのではないでしょうか。





ご覧の画像は、おなじみの「織田信長公居館跡発掘調査ホームページ」から画像検索で出て来るトップ画面をそのまま引用させていただいたものですが、はからずも、このトップ画面に、先ほど申し上げた「小牧山城を捨ててまでして岐阜で実現したかったもの」が如実に現れている気がしてなりません。

と申しますのも…

岐阜城と足利義政の東山山荘(銀閣寺)との酷似

山頂の城砦と山麓の御殿・庭園という組み合わせ、しかも同じ「西向き」の城として…



室町幕府八代将軍・足利義政の晩年の木像(慈照寺蔵/写真はクリエイティブ・コモンズより)



ご覧の岐阜城と東山山荘の酷似という件は、過去のブログ記事でも申し上げたものの、この際、私自身、この件の「意味」を改めて問い直してみたいと思っておりまして、上の引用画像の「信長公居館跡」で発掘された庭園が、足利義政の東山山荘にならったものであろう、という指摘は発掘調査チームの報告にもあったわけですが、それは本当に「ならった」だけ?だったのでしょうか。


信長は何のために庭園群を?? それは「おもてなし」のためでなく、

<自らが足利将軍(義政)に成り変わった姿> を見せつけるためではなかったのか…



(※発掘調査チームが発表したイラストの引用)


つまり、これらは「ならった」と言うよりも、稲葉山城を手に入れて現地をじっくりと眺めた信長が、カミナリに撃たれたように直感したアイデア―――

すなわち、これは似ている、これなら面白く修築できると、敬愛する諸芸の祖・足利義政の東山山荘をスケールアップしてダイナミックに再現できるのかもしれない、という気付きがあったのかもしれず、それを我が物としてアピールできる「政治的効果への誘惑」こそ、信長が小牧山城をあっさりと捨てて、居城移転に踏み切った真の「動機」だったのではないでしょうか?? と申し上げてみたいわけなのです。


で、そういう観点から申せば、移転前の小牧山城というのは、やはり永禄2年に十三代将軍・足利義輝に謁見すべく上洛したことと「セット」になった築城(まさに「尾張統一の総仕上げ」)という感がして来ますし、その後に、肝心の義輝が横死してしまうと、信長の心には“これでもダメだ”という一種の切迫感が生じていたのではなかったでしょうか。


ですから、岐阜城の完成後にそこを訪れた宣教師らや山科言継、今井宗久といった面々に対して、信長が自ら破格のもてなしをしてみせたのは、彼らが信長にとっての大切なVIPだからこそで、彼らを通じた政治的アピール(→その先にある信長の真のねらい)にひたすら懸命であったのだと思うのです。

先頃もまた新たな発掘成果が報告された庭園は、今やその全体像の「意味づけ」がこの上もなく重要になって来ているようでして、私なんぞには、それこそ <この信長が足利義政公に取って代わる決意> <足利将軍を上に仰ぎ見ていた過去の自分、そして旧体制との決別宣言をも心に秘めた行為> であったと感じられてなりません。

つまり信長にとって、岐阜への移転というのは、他の戦国期拠点城郭の大名らとの「横並び」状態を脱して、いちはやく足利将軍と肩を並べる(…いずれは凌駕してみせる)という意図を表明するための行動だったのではないでしょうか。


先日はちょうど東京・赤坂の迎賓館が一般公開されましたが、これに例えて申せば、信長がやった行為というのは、東京以外の某有力都市が、本家を上回るほどの「新・迎賓館」を大々的に建設・公開し、そこに海外の注目のVIPらを国賓(こくひん)として!!招待して、一気に国内外からの注目を集めてしまおうとする行為(=政治的策謀)とでも言うべきものとさえ思われます。

ところが――



(岐阜市の「日本遺産【「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜】ストーリー」より)

(信長が)急峻な岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも手厚いおもてなしであった。信長は軍事の力で征服するだけでなく、文化の力で公家、商人、有力大名等の有力者をもてなすことで、仲間を増やしていったのである。



!!!… 確かに現在の状況は長年の発掘調査のたまものではありましょうが、その反面、山麓御殿と庭園を「迎賓館」になぞらえた専門家の解説が、どんどん一人歩きしているようです。

いま話題のインバウンドの観光促進 等々の目下の急務があるとは言え、岐阜城の山麓御殿や庭園をまるで「おもてなしの楽園」とだけとらえて、国内外に紹介(翻訳)して行くのは、それこそ織田信長という人物像や「天下布武」の真意、そして岐阜城という日本史上に特筆すべき城を、あらぬ方向へ大きく誤解させてしまうのではないかと、将来への心配がチラつくのは私の頭の中だけでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年04月11日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から






信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から


天正10年に織田信長が拡大した最大版図(本能寺の変の時点)


近年、信長の時代に「天下」という言葉が示した範囲は、実は、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五カ国)であった場合が多く、そのため信長が印判に使った「天下布武」の「天下」もまた五畿内を意味していて、したがって信長は、足利義昭を連れて軍勢を五畿内に進め、幕府を再興しつつ中央政治を安定させたかっただけであり、全国統一など まるで目指してはいなかった!――という新たな信長像が大流行しつつあります。

こうした解釈を主導して来たのは、日本中世史(とりわけ中世後期の宗教社会史)がご専門の東洋大学教授・神田千里先生(1949年生まれ)ということになるのでしょうが、例えば神田先生の『織田信長』(ちくま新書)にはこんな風に書いてあります。



「天下」の範囲について、五畿内という限定された地域を考えれば、「天下布武」の朱印も、五畿内における将軍秩序樹立のスローガンということになろう。

もちろん毛利氏の中国諸国の領有や、上杉氏の越後国支配とも何ら抵触しない、むしろ両立可能なものということになる。そうなれば、この印判を毛利元就や上杉謙信への書状に押捺した織田信長の意図も理解できよう。

あくまでも畿内における「天下」の秩序の樹立をめざす者である、と信長は自己アピールしていたことになる。




このように「天下布武」の「天下」が五畿内に限られるなら、その印判を押した書状を毛利や上杉に送っても何ら問題は起きず、逆に、もしも「天下布武」が“全国制覇”を意味していたなら、そんな印判状をわざわざ毛利や上杉に送った信長は“バカではないか”というロジック(理屈)は、この他にも松下浩先生や金子拓先生も踏襲して著書で使っておられます。



(前出の『織田信長』より)

織田信長が元亀元年に毛利元就に送った朱印状をみてみよう。その内容はこの年の四月に行った越前攻めに始まる、朝倉・浅井との抗争、有名な姉川合戦などの経緯を報告したものである。

そして最後に「畿内やその他の様子をお聞きになりたいとのことなので、実態を詳しく書きました。また申します」<畿内その他の躰、聞き届けられたき由候条、有姿端々筆を染め候。猶追て申すべき事>と記されている(七月一〇日朱印状、『織田信長文書の研究』上二四五)。

一見して対等な大名同士の友好的なやりとりであり、どこにも「天下統一」の野望を公言する様子はみられない。




というように、そのロジックを神田先生は説明しておられるのですが、ここでアレッ… と自分なんぞは引っかかるものがあり、ちょっと待って下さい、この朱印状は本当に「対等な大名同士の友好的なやりとり」ですか?… と申し上げたくなってしまうのです。

確かに文面は丁重な言葉を使ってはいるものの、こんな内容を書き送った信長の本音は、言わば、恫喝(どうかつ)そのもの!!… じゃないか、と私なんぞは感じてしまう方でして、ここに「天下布武」の印が押されていることに、きっと毛利氏の面々は信長の真意をいぶかり、やがて戦慄(せんりつ)したのではなかったか、とも想像してしまいます。


で、ご承知のように当サイトは <天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説> という仮説をテーマにしてやって来ておりますから、「天下」の語義が揺れ動くようでは、やりにくいことこの上ない、という面もありますし、このところのブログ記事は大坂城つながりで書いて来たものの、この先、さらに「立体的御殿」の話題を書き進めるには、やはり「天下」の意味がはっきりしないと、どんどん書きづらくなるでしょう。

そこで当サイトのスタンスをはっきりさせるために、この「天下」の語義の問題について、このあたりで当サイトなりの思うところを一度、申し上げておくべきだろう、と思い立った次第です。



近年、群馬県で発見された本願寺宛て「天下布武」朱印状(天正4年)


さて、信長の「天下布武」印というのは、かの禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とした、という故事(『政秀寺古記』)が知られています。

以来、その朱印や黒印を押した書状は、全国に650通ほども残っているそうで、例えば奥野高廣著『織田信長文書の研究』によりますと…


【尾張坂井利貞宛朱印状】

為扶助、旦嶋内弐拾貫文申付上、全知行、不可有相違之状如件、
 永禄十
   十一月日                  信長(朱印=天下布武印)
    坂井文助殿



これは信長が美濃を攻略した永禄10年、尾張の坂井氏に宛てて「扶助として、旦の島(現在の岐阜市内)のうち弐拾貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違あるべからざるの状 くだんの如し」という風に知行分を与えた朱印状で、これが「天下布武」印を押した最も早い例の一つだそうです。

それから6年、いよいよ信長と将軍・足利義昭の対立が深まり、ついに義昭を京都から追放した元亀4年の後も、大量の印判状を発給し続けました。

そして「天下布武」朱印状のいちばん最後としては、なんと、天正10年5月7日付の書状もあるそうで、時まさに、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てて発給したものだそうです。


【神戸信孝宛朱印状】

  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、

右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿



これは四国の長宗我部氏を討伐したあかつきには、信孝に讃岐国を、三好康長に阿波国をあてがうことを約束し、伊予・土佐の両国については自分が淡路に出陣した時に申し渡す、と指令した文書です。

で、天正10年5月7日といえば、3月に甲斐の武田氏を朝敵として攻め滅ぼし、それから一カ月以上かけて安土に帰還した直後になりますから、こうして生涯の最大版図を得たあとでも、なおも信長は「天下布武」の印判を使い続けていたわけで、この朱印状は信長が本能寺で死ぬ一カ月前のものになります。

(※黒印状を含めれば、これ以後の一カ月間にも何通かあるとのことです…)




では、ご覧の図の時点でもなお「天下布武」の「天下」の意味が、神田先生らがおっしゃった「五畿内」(「足利義昭による畿内平定」)となると、信長本人の意識としては、いったいどういうことになるのでしょう。??

これでは、信長という武将は「もはや無効になった昔の勲章を、いつまでも、死ぬまぎわまで胸に飾り続けた男」…という、いささか情けない人物であったことにもなりかねませんし、場合によっては、もっと始末の悪いことに「そんな振る舞いや天下静謐(せいひつ)という大義名分の陰で、実際は、自らの征服地をどんどん桁違いにまで拡大した男」という、ずいぶんと腹黒い!!人物評価さえ出て来てしまうのではないでしょうか。

ですから、文献史学に私のごときド素人が何かと申し上げるのは恐縮ですが、神田先生のご指摘のように「天下」の語句の用例には色々あったのだとしても、とりわけ信長の使った「天下」が「畿内五カ国だけ」という昨今の大流行の解釈に対しては、どうにもガテンが行かないままなのです。


――そこで、百歩ゆずって考え直せば、晩年の信長は「朝廷の軍事守護者(立花京子)」「天皇の軍隊(松下浩)」ではずっとあり続けたわけですから、そういう意味で、信長本人は「天下布武」印を使い続けていたのだと考えれば、まだ納得できるわけです。


つまり信長の心理の“奥底において”は、「朝廷の軍事守護者」であることが第一義であって、足利幕府の再興には殆ど重きが無く!!、足利義昭(及びその子の義尋)という存在は、やはり“方便”に過ぎなかったのではないでしょうか。

おそらく信長の目から見れば、尾張統一の頃の守護であった斯波義銀(しば よしかね)なども、足利義昭と、ほぼ同じ存在にしか見えていなかったように感じられますし、彼らは言わば既得権益で社会の支配層たりえた武家でしかなく、本当の武力の保持者=<軍事的実力者> である自分(信長)らこそ、それらを下克上して君臨すべきなのだ、というのが信長の終生の“本音”だったと思えてなりません。


そこでは、横死した足利義輝への失望も大きく作用したことでしょうし、その後の信長の生涯にとっては、「下克上」と「天下布武(天下静謐)」はまったく矛盾しない!! という画期的な気づき(→言わば「天正維新」という形?)が、この上なく決定的だったのではないでしょうか。

かく申し上げますのも、信長本人の価値観というのは、武家の「下克上」が起きるなら起こるにまかせればいい、何故なら、「上が弱い」というのがそもそもダメなんだから――― という経験則に裏打ちされていたように思えてならないからです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年07月10日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・臣下の五重天守をめぐる印象論 →海外への拡張政策の道を閉ざされた天守配置の様変わり






続・臣下の五重天守をめぐる印象論

→海外への拡張政策の道を閉ざされた天守配置の様変わり



前回記事の、織田・豊臣政権による「五重天守」の配置方法




前回にご覧いただいた五重天守の配置は、意外にも、当地の城主の「格」や所領高だけではなく、天下人の府城からの「距離」も深く関係していて、言わば政権の勢力圏の最終到達点をにらむ防人(さきもり)のような存在として、「五重天守」などの巨大天守が配置されたのかもしれない… などと申し上げました。

しかもそのような不文律は、日本列島の範囲を越えて「西」へと向かう拡張政策を前提にしていたようで、例えば宇喜田秀家が漢城(ソウル)にあげた三重?の天守は、そのはるか先の「西の最終到達点」において、やはり五重天守などの巨大天守が建造されることを織り込んでいたようにさえ、私なんぞには見えてしまいます。


五重以上と言われる天守



しかし朝鮮出兵の失敗と豊臣秀吉の死によって、その直後に関ヶ原合戦などの動乱が勃発し、そこから新たな天下人の座をつかんだ徳川家康は、政治体制の刷新をめざすなかで、諸大名が望む天守の建造(全国的な配置のしかた)についても、織田・豊臣の頃とはまったく異なる不文律を打ち出したようです。




これはその家康が死去した時点の様子を図示してみたものですが、一見してお気づきのとおり、もはや織田・豊臣の「北の果ての巨大天守」といったものは存在しませんし、臣下の五重天守のなかで天下人の府城(駿府城)から最も遠い地点にあったのは、南(西)の柳川城天守や熊本城天守でした。


そして私が気になるのは、西の橋頭堡としての三重天守が無いかわりに、瀬戸内沿いの中国・四国地方にはズラリと!!臣下の五重天守が並べられていて、これは西国大名らの要望に応えた結果のようでいながら、前述の時代状況を踏まえた目で見ますと、あたかも <臣下の五重天守群が外国軍隊の国内侵入に備えていた> かのようでもあり、はたまた <朝鮮通信使の来訪ルートを意識した配置> のようでもあった点でしょう。

このことは、前回の妄言を引き継いで申し上げるなら、防人(さきもり)としての五重天守というカテゴリーが立場を失い、もはや勢力圏の周縁部で領民や敵方に見せつける必要も無くなった「五重天守」を(既存の岡山城や広島城を含めて)今後はどういう風に扱えばいいのか? という大命題に対して、徳川幕府がひねり出したアイデアだったのではないでしょうか。




そして天守の配置をめぐる幕府の最大の関心事は、西国に臣下の五重天守が建ち並んだ一方で、技術的には九重・十二重などという巨大化も不可能な中で、<いかにして天下人の天守を際立たせるか> に腐心せざるをえなかったようです。


そこで出現した興味深い現象が、ご覧のとおり、駿府城天守を中心にして、松本城・名古屋城の五重天守と、江戸城天守という、三基の大型天守が、等距離の円周上にピタリと位置づけられていたことではないでしょうか。

半径の146km(37里)と言えば約4日の行程ですし、この時期、オレンジ色の円の中にあったその他の天守は、小田原城(→おそらくどこかの時点で石垣山城天守を破却した後は後北条氏の本丸天守を継続使用か)・横須賀城・吉田城・高島城の各天守や御三階櫓しか無かったはずですから、駿府城の五重七階天守は、他の大型天守との「距離」を別の意味で応用することでも、存在感を高めていたと思えてなりません。


で、重要なのは、こんなことは前の豊臣政権ではありえなかった手法だという点であり、そうした様変わりの裏では(やがて三代将軍・徳川家光の江戸城寛永度天守という「天守」の歴史でも大変に特殊なカテゴリーが出現したことを含めて)天守建造の理屈の180度近い大転換が起きていたようです。

と申しますのも、ためしに江戸城天守が明暦の大火で焼失した翌年(明暦4年)を4枚目の図にしてみますと、もしかすると「天守」の歴史をチョットとらえ直す必要があるのかもしれない… と思うような現象が見て取れるからです。


明暦大火で江戸城天守が焼失して初めてわかった?意外な等距離の円…


居城の佐倉城古河城を大改修した幕閣の最高実力者、土井利勝(どい としかつ)

(※肖像画は正定寺蔵/ウィキペディアより)

ありし日の佐倉城 / 現地の説明看板のイラストをもとに作成

ご覧の佐倉城と言いますと、徳川家康から江戸城の櫓を拝領して移築したという「天守」御三階櫓と、太田道灌の頃の江戸城「静勝軒」を移築したという「銅櫓」が、本丸の土塁上に並んでいたことで知られています。

で、それらが佐倉城に移築されたのは慶長16年以降と言われ、それは大御所家康と将軍秀忠による江戸城の慶長の天下普請と一連のタイミングで行われた作業と言えるでしょうから、言うなれば“古い江戸城を物語る建築”を拝領して佐倉に引き取った形であって、そうした措置がかなった土井利勝は「城の本丸や天守は天下人のもの」という趣旨の発言をした人物としても知られています。


そこで思いますに、いったい何故、関東の譜代大名らは(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」をああも関東一円に建て並べたのだろうか? という疑問について、従来は「徳川将軍の江戸城天守をはばかり(ランクを一段下げた?)富士見櫓にならったのだ」といった説明がなされて来たわけですが、私なんぞが今回、特に申し上げてみたいポイントは、〈その富士見櫓とは、いつの時代の富士見櫓なのか〉 という問いなのです。

そこで是非ともご覧いただきたいのが次の絵でありまして、これは江戸後期の鬼才・谷文晁(たに ぶんちょう)が、太田道灌の時代の江戸城を、築城古図を参照しつつ描いたという絵です。


谷文晁「道灌江戸築城の図」弘化3年(個人蔵)

その中央には「富士見櫓」がさも天守のごとく…





<江戸時代、関東を守る譜代大名らの意識では、天守の理想像が

 従来の安土城天主等から「太田道灌の富士見櫓や静勝軒」に変わる大転換が起き、

 それが「御三階櫓」を積極的に志向する流れを作っていたのかも??>





ご覧の谷文晁の絵は、やや石垣が多い点など気にはなりますが、要は <どうしてこんな絵が制作されたのか?> という辺りが、たいへんに興味を引くわけです。

そこで関東の御三階櫓の様子を含めて考えますと、それらのそっけない外観は、安土桃山以来の築城者たちの造形に対する意欲が萎縮(いしゅく)したのではなくて、ひょっとすると、この時期、譜代大名らの“あこがれる対象”が変わってしまっていた、ということだったのではないでしょうか??

考えてみれば、譜代大名の側からしてみれば、一度も訪れたことの無い安土城の幻の天主などより、いくつもの詩文にうたわれた太田道灌の江戸城「静勝軒」や富士見櫓(「含雪斎」?)の方がずっと身近であり、あこがれの対象になりやすかったことは確かでしょう。


現在、静勝軒などの具体的な姿は謎が多く、研究者の間で説が分かれるものの、江戸時代の認識としては、例えば名古屋城の記録集『金城温古録』の「天守の始」という文章には「武備の為に高台を建て威を示し、内に文を修て治道を専らとせしは太田道灌の江戸城に権輿(けんよ/事が始まる)す。是、天守の起源とも謂ふべし」とあり、その後段で「慶長十一年御改築の江戸城御天守」とも書いてあって、つまり江戸城は慶長11年の天下普請まで太田道灌ゆかりの「高台」が存在し、それが天守の起源であった、という理屈で(実際はどうであれ)首尾一貫している点は見逃せません。

(※『金城温古録』の「高台」は楼閣全般を示す言葉として使用)


ですから、先ほど“天守建造の理屈の180度近い大転換”と申し上げたのは、このように徳川幕下の天守は、理想の姿(手本/モチーフ)が以前とはかなり違っていた疑いがあるためで、それは太田道灌の江戸城をことさらに崇敬したものであったようです。

すなわち天守とは、太閤秀吉のごとく外観の見事さを競うものではなく、道灌の江戸城をうたい上げた詩文のごとくに、そこから見晴らす四周の「風景」の方が、天守の理想像を形づくる重要な観点になっていたのだとすれば、関東の譜代大名が建て並べた(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」というもののナゾが、ようやく解けるような気がして来るのです。




さて、元和8年に本多正純が失脚して、土井利勝が名実ともに幕閣の最高実力者となった晩年に加増移封された城が古河城であり、そこで佐倉城天守と同規模で建造した天守(御三階櫓)のCGが、「古河史楽会(古河の歴史を楽しむ会)」様のHPで公開されておりまして、最後にその一つを、ご参考までに引用させていただこうかと思うのです。

……と申しますのは、CGはちょうど「松本城天守」と規模の比較になっており、これは何かの引き合わせではないのかと、大変に驚いている次第だからです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年06月27日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!臣下の五重天守をめぐる印象論=天下人の府城からの「距離」は関係していなかったのだろうか






臣下の五重天守をめぐる印象論

=天下人の府城からの「距離」は関係していなかったのだろうか



甲府城跡出土の金箔鯱瓦(推定の総高132cm/山梨県立考古博物館蔵)

※まことに勝手な私見ですが、細身の感じが屏風絵の聚楽第天守のに良く似ているようで…



当ブログでは過去に、天守はあったのか無かったのか、という論争に決着がつかない「福岡城」について、“空とぶ絵師”歌川貞秀の姫路城の浮世絵が、実は福岡城を描いたものではないか? などと申し上げたりしましたが、より私の地元に近い「甲府城」でも似たような論争があり、地域の経済振興をにらんだ再建運動が続いています。

しかも甲府の方では、ご覧の金箔鯱瓦の大きな物(ブツ)が天守台の脇から出土しただけに、どうにも治まりがつかない状況のようです。


そしてすでにご承知の、四重天守として復元案が示された甲府城天守

(※サイト「やまなしお城10万人ACTION」様のホーム画面を引用/部分)



そうした地元の依頼を受けて、三浦正幸先生がこのような復元案を示されたわけですが、先生が「四重天守」とした判断材料は、主に <天守台の平面規模> と <政権内での城主の位置づけ> が中心であったようです。(→PDFご参照

この点について私なんぞの印象をザッと申し上げますと、例えば、ともに五重天守だった名古屋城天守と松本城天守の圧倒的!!な規模の差(総床面積など)を考えれば、天守の「重数」と「総床面積」は各々バラバラのもので、個々のケースで様々な組み合わせがあり、したがって「重数」と平面規模とは、総体的には無関係の事柄であったと思えてなりません。


そして一方、天下人に臣従した武将の中には、天下人を上回る規模の五重以上という巨大天守をあげた例もありそうなのですから、一般的に城主の「格」や所領高が天守の規模(重数)に影響したとしても、必ずしもそれらが絶対条件ではなかったのかもしれません。



織田政権と豊臣政権における“北の果ての巨大天守”の可能性



ご承知のように柴田勝家(しばた かついえ)の北ノ庄城、蒲生氏郷(がもう うじさと)の会津若松城には、時の天下人を上回る天守があった可能性が言われていて、であるならば、天守の「重数」は何によって決まったのか? というナゾは、今もまだ完全には解明されていないのではないでしょうか。

そこで一つ、是非とも申し上げてみたいのが、天守の「重数」を決めた因子(要素)には、天下人の府城からの「距離」も関係していたのではなかろうか… ということなのです。





この図は、以前のブログ記事でご覧いただいた「本能寺の変」当時の織田家中の天守について、今回は、その中から五重天守だけを「宗家と一門」「臣下の武将」で色分けしてみた図です。


こうしてみて、まず感じるのは、五重天守はやはり希少な存在であり、とりわけその位置が(中心の安土城は別として)織田の勢力圏の陸地の「北限」「南限」を天下に指し示すかのような立地になっていて、その逆に、本州の陸地が続く「西」と「東」の方角には一基も無い、という点が非常に際立っています。

例えば「東」では、家督を継いだ織田信忠の岐阜城がありましたが、そこにも(あえて)五重天守は置かなかったわけですから、これは織田信長が「五重天守」というものをどういう風に考えていたかを押し測る、一つの観点として重要かもしれません。

想像で申し上げるなら、信長は、天下布武の版図の広がりを最も効果的に示せる天守として「五重天守」を用いていて、そのために、東西南北の将来にわたる最終到達点とおぼしき地点だけを厳選していたのではなかったでしょうか。


そしてもう一つ、図中でいかにも目立つのが、安土城から北ノ庄城までの距離=約100kmの半径の円から、はるかに西へ飛び出した格好の「姫路城」三重天守でしょう。

この羽柴秀吉時代の天守は、考えてみれば、本当に三重天守だったのか?という議論もありえなくはないのでしょうが、おそらくは「姫路」が織田の勢力圏の西の端とは織田家中の誰もが思っておらず、とりわけ城主の羽柴“筑前守”秀吉が、そういう意志の強固な代弁者であったことが、三重天守にとどまらせた最大の理由であったようにも思えて来るのです。


では、そうした織田政権における「五重天守」や三重天守の扱いが、その後の豊臣や徳川の時代にどう変わったのかは、大変に興味のあるところで、順次、地図上で確認して行きたいと思うのですが、その前に、下の表は信長・秀吉・家康がそれぞれ死去した年でカウントしてみたものです。


五重以上と言われる天守



(※表の岸和田城天守の件は後述)

(※また豊臣の欄には、前田利家の金沢城天守や織田信雄の清須城天守なども入ったのかもしれません…)


で、このようにリストアップしてみますと、私の自説(=家康時代の江戸城は四重天守だった)もあって、徳川の欄には江戸幕府の「江戸城天守」が無いことになるのですが、不思議なことに、例えば織田の欄でも、信長が足利義昭のために建てた三重?の旧二条城天主が無く、また豊臣の欄でも、豊臣政権の政庁を飾った四重?の聚楽第天守が無いことになり、ここには何か一貫した法則が表れているようです。

これは当ブログで申し上げた仮説のように、そもそも天皇の血筋を引く「貴種」の生まれの武家ならば「天守」などは必要なく、もっぱら下克上の世の(素性の怪しい)天下人たちのために「天守」は創造されたはず、という天守発祥の原理が、ここに作用しているのではないでしょうか。

つまり「幕府」(征夷大将軍)の居館とか、「関白」の屋敷とか、日本古来の伝統的な地位を与えられてしまった城には、もはやあえて巨大な「五重天守」をあげる必要も無かった… という逆説的な論理が(この家康死去の時点までは)成り立っていたように思えてならないのです。





そして豊臣政権下の天守も前の図と同じく「五重天守」を色分けしますと、今度もまた、会津若松城の巨大天守が、天守群の「北限」(東限?)を指し示すかのように建っています。

では「南限」は?と目を移せば、ちょっと違った状態のようでいて、その実、織田政権の姫路城三重天守とまったく同じ論理が押し進められたのではなかったでしょうか。

と申しますのは、ちょうど織田の姫路城と同じような位置に肥前名護屋城があるようで、そこを新たな基点(宗家の五重天守)としつつ、豊臣政権はさらに西へ、西へと拡大を続け、そのうえで漢城(ソウル)に宇喜田秀家があげた天守は、まさにこの時の「姫路城三重天守」(→“もっと西に進むぞ”という意志表示)であったように見えてしまうのです。




<勢力圏の最終到達点をにらむ防人(さきもり)としての「五重天守」と、

 最前線に突出する橋頭堡としての「三重天守」というカテゴリーもあったのか…>





かくして、天守の重数を決めた因子には、天下人の府城からの「距離」も関係していたという風に考えますと、前述の“北の果ての巨大天守”が現れた理由をうまく説明できそうですし、また各地の城に「五重天守」や三重天守があげられたことについて、必ずしも城主の側の「格」だけではなくて、もう一つ、政権の側からの判断(カテゴリーの指定!)があったと考えることも出来そうなのです。

では、そのような不文律が、次の徳川の時代にはどうなったか? という観点から三つめの図を作りますと、これがまた興味深い現象を示していて、江戸時代は将軍のお膝元近くでは、いかなる天守も建造をはばかる、という慣習がどこで始まったのかが見えて来るようです。

……ですが、すでにかなりの長文になって来ておりますので、これは次回のブログ記事で改めて説明させて下さい。



【補足】岸和田城の五重天守について

「正保城絵図」和泉国岸和田城図より


さて、上記の表では、岸和田城の天守を「豊臣一門の五重天守」として扱いましたが、これは当時3万石の大名・小出秀政(こいで ひでまさ)がご覧の天守を建てたとの伝来(慶長2年説)によるもので、秀政が秀吉の母・大政所の妹を妻にしていたことが「五重天守」につながったのでしょう。

しかし、この天守を建てたのは江戸初期の松平康重だという説(元和5年説)もあって、親の代に松平姓を許された康重が、この時点で「五重天守」をあげるのは、かなり分不相応の感があるものの、康重という人物は“家康ご落胤”とささやかれていたそうで、それが松平一門のトップをきる「五重天守」につながったのでしょうか。

という風に、岸和田城の五重天守はチョット分からない部分もありまして、それでもやはり小出秀政の建造と考えるならば、冒頭の「甲府城天守」だって、秀吉の正室・北政所の実家である浅野家の当主(で妹の夫の)長政が築けば、そうとうな規模(五重?)になってもおかしくありません。

が、その前の甲府城主・加藤光康が築いたとなると、三浦先生の「四重天守」という考え方に俄然、説得力を感じるのですが、なんと先生自身は「豊臣秀吉の親戚筋であった浅野長政、そしてその息子・幸長の親子によって建てられた天守閣です」と説明しておられて、私なんぞはぷっつりと解らなくなってしまうのです。…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年06月12日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!精神的には岐阜城の山頂天守の方が安土城よりもラジカルだったか… と思わせる織田信長の問いかけ






精神的には岐阜城の山頂天守の方が安土城よりもラジカルだったか… と思わせる織田信長の問いかけ


思いますに、我が国の「天守」が最たるもので、建築というのは本当に「意味」「意図」「目的」の体現だと感じるのですが、こんなことを申し上げるのは、オリンピックで使う新国立競技場が“いったん屋根無しで完成”というドタバタ劇を聞いたからでして、そもそもは、ラグビーW杯の誘致との抱き合わせという姑息(こそく)な発想が災いしたのでしょうか。

そこで一つ、比較になるのか分かりませんが、「意味」「意図」「目的」が完全に抜け落ちてしまった無残な建物として“日本史上ワーストワン”に挙げるべきは、戦前の、大政翼賛会の本部だったのではないでしょうか??

―――かの大政翼賛会の本部がどこにあったか、ご存知ですか?

その歴史的なネームバリューから言えば、アドルフ・ヒトラーの総統官邸のむこうを張るぐらいの建物なのかと思いきや、まるで逆でした。


終戦時に、大政翼賛会の本部は、今では法務省がある霞ヶ関1丁目1番地で…


昭和20年、終戦時の大政翼賛会の本部は、ご覧のとおり場所だけはスゴイものの、建物はなんと、移転したあとの府立第一中学校(都立日比谷高校の前身)の廃墟同然の空き校舎(!!)を使っていたのでした。


その経緯は杉森久秀著『大政翼賛会前後』に詳しく、大政翼賛会というのは、かの近衛文麿(このえ ふみまろ)を中心に、すべての政党・政治勢力を糾合すべく発足したものの、実態は、政党や政治活動を“あって無きがもの”にする統制組織に横滑りし、近衛自身は早々に意欲を失っていたそうです。

そのせいか、発足時の本部は皇居近くの壮麗な「東京會舘」を接収してスタートしたものの、まもなくタライ回しの転居が始まり、まずは現在の国会議事堂の建設中に使った木造の「仮議事堂」に引っ越しし、さらに戦局が悪化するなかで、府立第一中学校が移転して十数年、空き家状態だった「日比谷校舎」(明治32年造)に入居して、終戦を迎えました。

ですから「大政翼賛会」という名前(=現在のイメージ)と実態との間には、実は、そうとうな開きがあったわけでして、そのうえ上記の東京會舘や日比谷高校は自身のHPにそうした経緯を一切、載せておりませんし、当時も今も殆どの日本人が所在地を知らないわけですから、大政翼賛会の本部とは、言わば「意味」「意図」「目的」のすべてを失った“迷いの館”であったと思えて来るのです。

で、新国立競技場はそんなものにならぬように祈りつつ、今日の本題に入りますと…




<岐阜城の山頂天守の最上階はどうなっていたか? を想像させる

 ロレンソに対する織田信長の問いかけ>





当ブログでは、岐阜城の山頂の「主城」でロイス・フロイスらが目撃した「千本の矢」というのは、アマテラスとスサノオの伝説にちなんだ神前の「千入(ちのり)の靫(ゆぎ)」ではなかったか? などと申し上げましたが、そうした千本の矢が置かれたのが山頂天守の一階とすれば、最上階の方はどうなっていたのでしょう。

例えば最近では、姫路城天守の最上階にある長壁(おさかべ)神社が改めて話題になりましたし、その他を見回しても、天守の最上階にあった宗教関連のものはどれも神社や神棚ばかりである一方、何故か、織田信長の安土城天主の最上階だけが古代中国の三皇五帝など儒教的な絵画で占められていた、という妙なコントラストがあります。

これはいったい何に起因した現象なのか? という疑問を解くカギは、岐阜城の山頂天守にあるのではないでしょうか。


この人物が、修道士のロレンソ了斎か?(神戸市立博物館蔵「南蛮屏風」より)



さて、平戸の出身で、それ以前は琵琶法師だったという修道士・ロレンソ了斎(りょうさい)は、フロイスと共に岐阜城の「主城」に登り、そこで信長みずからの歓待を受けたわけですが、結城了吾著『ロレンソ了斎』によると、ご覧の絵の人物がロレンソらしいとのことで、思わずハッとするものがあります。

と申しますのは、絵の人物は外国人宣教師らの間に立っていて、私のごときテレビ番組制作を行って来た者には、ロレンソらしき人物の立ち位置は、さながら海外取材の成否を左右する「現地コーディネーター」そのものに見えてならないからです。



(『完訳フロイス日本史』第一部九五章…岐阜城の訪問)

信長の傲慢と見栄は一通りでなく、あらゆる人々、ことに仏僧を軽蔑し、彼らに対して非常な嫌悪を抱いていた。(中略)彼がなしたすべてのことのうち、我らはここでは若干の主要なことだけに言及しよう。
(中略)
信長は談話を続け、ロレンソ修道士に、日本の神につき、なお伊弉諾(イザナギ)、伊弉冉(イザナミ)がこの国の最初の住民であるとの説をどう思うか、と質問した。信長はこの際、修道士から与えられた返答を喜び、修道士はデウスの正義と慈悲に関し詳細な談義を続けた。

他の部屋で傾聴していたおびただしい数の貴人たちは、修道士の言葉を聞いて非常な喜びを示し、信長は彼ら以上に喜び、明白な言葉で、「これ以上に正当な教えはあり得ない。邪道に走る者がこれを憎悪するわけがわくわかる」と語った。

(中略)
その時、以前に仏僧であり、信長が大いに信頼している(松井)友閑なる老人が口を出して、「伊留満(修道士)がデウスの教えについていとも詳細に語り得ても、これは伴天連らが教えこんでいるのだろうから予は驚かぬ。だが、彼が日本の諸宗の秘儀をかくも根本的に把握していることは、仏僧らにおいても稀なことで、予はその点で驚き入った」と述べた。



ご覧の部分からして、この時、ロレンソは信長の問いかけに対して、イザナギ・イザナミという、日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく)において神世七代の最後に生まれ、日本列島を創造した男女神について、決して否定や非難をしたのではなかったのでしょう。

逆に松井友閑もうなるほどの上手(うま)い受け答え… おそらくは日本神話とキリスト教の天地開闢(天地創造)との間の解釈的な整合性をとなえてみせたのは明らかで、そうした解釈を信長も喜んだのでしょう。

このことは記録者のフロイスにしても、この第一部九五章で信長の「若干の主要なことだけ」として挙げたのは、イザナギ・イザナミの話題と、もう一つは、同行したフランシスコ・カブラルの「眼鏡」に驚いた民衆が三千人も集まってしまった、という笑い話の二つだけなのですから、とにかくロレンソの対応ぶりを注目の成功事例として報告したかったのでしょう。




そこで私なんぞが一番、気になるのは、そういう問いかけをした信長の側の深意でありまして、つまり信長は、キリスト教の教義から見ると「日本神話」がどういう風に見えるのか、心の底で“かなり気をもんでいた”のではなかったでしょうか。

そうとでも考えませんと、無駄なことは一切発言しない性格の信長が、なぜ突然にイザナギ・イザナミなどと言い出したのか分かりませんし、この密かな心配は「おびただしい数の貴人たち」も察知していたようで、彼らが「修道士の言葉を聞いて非常な喜びを示し」てホッと安堵している点は見逃せません。


こうした不思議な場の状況と、その後に安土城天主の最上階だけが儒教的空間であったことを突き合わせて考えますと、そこに一つの想像が働いてしまいます。

―――それは、この時、完成したばかりの岐阜城の山頂天守は、発想は安土城天主と同じでも、障壁画の表現が「日本神話」に置き換えられていたのではないか? という疑いです。

!! 古代中国の「岐山」の故事にちなんだという「岐阜」の城で、そんなことが論理的に可能なのか? と言えば、それが、出来なくもなさそうなのです。…



天地開闢の主人公らを描いた日中それぞれの想像画

(左:小林永濯画のイザナミ・イザナギ / 右:中国神話の巨人「盤古」)



右の盤古(ばんこ/Pan-gu)というのは、ブリタニカ国際大百科事典によりますと「中国の天地開闢神話の主人公である巨人。槃瓠とも書く。天地がまだ形成されていない混沌の状態のとき、そのなかに生れ、1万8000年たって、天地を押し分けて分離し、その後に三皇が出た、という。」と説明されています。

…あれ? 古代中国の伝説の帝王は「三皇」と五帝から始まると安土城天主に描かれたはず、と思いきや、そういう形は、中国の歴史書の第一とされる『史記』(三皇本紀)にしたがったものであり、そもそも『史記』には天地開闢の神話は存在しないのだそうです。

で、そういう『史記』とは別に、呉の時代(3世紀)に成立した『三五歴記』などに「盤古」による天地開闢の神話があって、そのため、盤古のあとに三皇や五帝が出現したという形の神話が、民衆の間に根づいて来たそうです。

そして何故か、その「盤古」と日本の「イザナギ」には共通点がありまして、例えば盤古の左目が太陽に、右目が月に、吐息や声が風雨や雷霆(いかづち)になった、というあたりは、まさに古事記や日本書紀で、イザナギが左目を洗った時にアマテラス(太陽)が、右目を洗った時にツクヨミ(月)が、鼻を洗った時にスサノオ(雷)が生まれた、とされていることにそっくりなのです。




ということでして、ですから織田信長が岐阜城天守において、安土城天主と同様の障壁画(画題)を各階に配置しようとした時、その上層部を「日本神話」に置き換えてしまうことも、出来なくはなかったのかもしれません。

結局のところ、安土城天主は『史記』にならった正統的な形でまとめたものの、その前例の岐阜城天守では、話が天地開闢にまでさかのぼっていて、しかもそれが「日本神話」に置き換えられて表現された、となれば、岐阜城の方がずっとラジカルな建築であったようにも思えて来ます。

そこで山頂天守の最上階は、一つの想像として、天井画でイザナギ・イザナミの絵が大きく描かれ、その下の壁面には、彼ら男女神が創造した日本列島(すなわち大八島/おおやしま=淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州)の八つの島が、ちょうど日本八景の名所図会のごとくに、ぐるりと描かれていた…… というような姿が、思わず目に浮かんで来てしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年04月03日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!そして岐阜城の山頂天守と「策彦周良(さくげん しゅうりょう)」を結びつけると…






そして岐阜城の山頂天守と「策彦周良」を結びつけると…


もしも織田信長が、岐阜城を奪取せずに、小牧山城から天下に覇をとなえていたなら、

我が国に“高層の天守”は出現しなかったのかもしれない… と心配になるほど、

岐阜城は「天守」の完成にとって重要な城であったはず。



前回の“コペルニクス的な革新”を示してみた図ですが、信長の岐阜城では、山頂天守と(天守の原形とずっと申し上げて来た)立体的御殿が同時に並存していることに、疑問をお感じになった方がいらしたかもしれません。…

これについて最初に申し上げますと、後に安土城の山頂で統合されて完成した七重天主に比べれば、岐阜城の山頂天守というのは「その一部分」とも「半人前」とも言えそうですが、何より留意したいポイントは、「天守」の第一の要件は、建物の重数ではなくて、城内における「立地」であったはずだと申し上げて来た観点でしょう。

その意味では、ご覧の図には何ら問題はなく、やはり山頂にあったのが「天守」なのだと(たとえ重数がいくつであれ)確信しております。

―――すなわち、城内の曲輪配置の求心性の頂点にあり、「台」などを伴って他からぬきん出た位置に建てられた領主の館こそ、原初的な「天守」であり、それが、岐阜で進化した「立体的御殿」ともう一度、統合(立体化)されて、安土城の七重天主が出現したのではなかったでしょうか。…




「岐阜」「殿守」の命名など、多くを織田信長にさずけた名僧・策彦周良(さくげん しゅうりょう)

その策彦和尚が幼少時、初めて仏門に入ったのは 鹿苑寺(金閣寺)!! だったそうで…



(※ご覧の絵は『集古十種』/ウィキペディアより)


さて、前々回の記事では「どう登るかも天守のうち」という話題の中で、金閣と「天鏡閣」の関係に話が及んでしまいましたが、そもそも「金閣」を織田信長に強烈に意識させたのは、ご覧の策彦周良だったのではないでしょうか?

と申しますのは、策彦と信長が初めて会ったのは永禄11年(=岐阜城奪取の翌年)のことで、足利義昭を擁して上洛を果たしたおりに、信長の側から会見を申し入れて実現したもので、策彦と言えば、禅宗・京都五山の碩学というよりも、遣明船の正使として二度も明に渡った名僧でしたから、当然、二人の会話は寧波(ニンポー)や北京の見聞などに及んだことでしょう。


そんな策彦和尚は、細川家の家老・井上家の出身で、永正6年(1510年)に9歳で初めて仏門に入ったのは京都北山の鹿苑寺!!だったというのですから、私なんぞは、当ブログでも触れた「宮上茂隆説の本来の金閣」の姿を、小坊主の策彦少年が毎日のように仰ぎ見ていた可能性があることに、思わず身震いしてしまいます。

とりわけ渡航・帰国後の『策彦入明記』の様子からしますと、策彦和尚という人は「仏閣」への興味が大変に強かったようですから、なおさらのこと震えが止まりません。


宮上茂隆先生の考察による本来の金閣(『週刊 朝日百科』日本の歴史1986年より引用)


そんな策彦和尚が、中国各地の寺院を訪れた経験の上で、日本を代表する楼閣「金閣」をどう評価していたかは(それを造営した足利義満への人物評を含めて)大変に気になるところです。

信長の側としては、もしも京都の会見の場で、策彦という日本と中国の両方を見ていた賢人の口から「金閣」や天鏡閣について言及があったのなら、それは岐阜築城の大いなるヒントとして受け取ったことでしょうし、その会見の後、フロイスが岐阜城を訪れたのは永禄11年(=会見の翌年)のことでしたから、築城のあらゆる事柄が、信長が感じたインスピレーションのままに超・突貫工事で進んだことを想わざるをえません。


宮上先生の主張に沿った信長公居館のイラスト(『信長の城と戦略』1997年より)


で、ご承知のとおり宮上先生は、信長公居館については千畳敷C地区に楼閣形式の建物を想定し、それが策彦和尚によって「天主」と名付けられたはずだと主張されましたが、この命名は、決して何か“物証”のあった話ではなくて、安土城天主をめぐる『匠明』の記述から逆算した“宮上先生独自の推理”に基づく主張であったことは、当ブログでもご紹介したとおりです。

しかも何故か、宮上先生はそうした主張を展開した論文(『天主と名付けられた建築』日本建築学会大会学術講演梗概集/昭和51年)の中では、前述の <策彦和尚と鹿苑寺との関係> にまったく触れておられない!!わけでして、となると、本来、宮上先生が着目すべきだった「策彦和尚と金閣」の関係に焦点を当てて、アレコレと想像をめぐらせますと、私がかねてから気になっていた“ある事柄”に、もろに突き当たるのです。






ここからは、当サイトの我田引水の度がいっそう強くなりそうで恐縮ですが、以前のブログ記事で、宮上説の本来の金閣は、その外観や内部の構造がどういうわけか、静嘉堂文庫の『天守指図』(→内藤昌先生が安土城天主の復元の基本的な資料とされ、当サイトもイラスト制作の重要な資料とした図面)の高層階の状態によく似ている、と申し上げました。

で、今回は、その「よく似ている」ところを具体的にお目にかけますと…


金閣の二階平面図(上記の左イラストでは真っ黒に塗られた階)


『天守指図』五重目(上記の右イラストでは朱柱で貫かれた五重目・六重目に相当)


この『天守指図』五重目の方は、「屋根裏」に囲まれた中央の各室にご注目いただきたいのですが、この中央付近のプランが、上図の金閣の二階のプランによく似ているわけでして、これらは、両方にそれぞれ最上階の位置をダブらせてみますと、さらに類似性が際立ちます。


宮上先生の考察による本来の金閣の最上階(赤く表示)

(※注:金閣の最上階の階段の位置は宮上先生の著書からの推定です)


そして誠に手前味噌ながら、当サイト仮説の最上階(赤く表示)等々を書き加えますと…


ご覧の手前味噌の部分をご容赦いただけると仮定した場合のことですが、金閣の「東室」というのは、実質的に「階段室」同然の役目を担った部屋でしょうし、そこから「広縁」を介して、最上階の真下にあたる主室と隣り合っている、という全体のプランが“よく似ている”ように感じられて来るのです。

もちろん『天守指図』の信憑性は諸説あるものの、どういうわけか、ご覧のような類似性が見て取れるのです。

これに関しては、生前に『天守指図』と内藤昌先生の安土城天主復元案を徹底的に批判しておられた宮上先生ですから、ご自身が復元した金閣の構造と『天守指図』に似ている面がある、などとお知らせしたら、あの世でムッとされるのか、腰を抜かされるのか解りませんが、やはり前述の <策彦和尚と金閣> という新事情を踏まえますと、これはちょっと見逃せない要素になって来るのではないでしょうか。

そこで、あえて申し上げてみたいのは…




<信長の岐阜築城のインスピレーションは、城の劇的な高低差を活かして、

 山頂に「金閣」を模した天守を、

 山麓に「銀閣」にならった四階建て楼閣を配置した!!?>








ちなみに宮上先生は、山頂の天守については、関ヶ原合戦の後に加納城に移築された「御三階櫓」の前身の建物が、そのまま信長時代から在ったのだろうとした一方で、安土城天主については「この天主は、住宅建築の屋上に宗教建築を載せた構成において、金閣と共通する。」(『図説 織田信長』)とまでおっしゃったものの、両者のつながりや進化のプロセスといった事柄には言及がありませんでした。


その点、やはり私なんぞは「七重の天主」というのは、そう易々とこの世に(突然に)出現するものではないだろう、という感覚が強過ぎまして、だからこそ岐阜城では、山頂のあり方(天守)にも、山麓の御殿のあり方(立体的御殿)にも、それぞれにモデルがあって、一つは金閣、一つは銀閣という、見上げた人々が全員驚嘆する“垂直配置”を信長はもくろんだのでは…… などという妄想に囚われてしまうのです。

そしてそれらの完成を見た信長は、ひょっとするとその場で即座に、次の京の都付近の城では「この二つを合体させてやろう」と心中密かに決意したのかもしれない、と…。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年03月20日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!岐阜城の劇的な高低差こそ「立体的御殿」を一段と進化させたはず






岐阜城の劇的な高低差こそ「立体的御殿」を一段と進化させたはず


北方の百々ケ峰(どどがみね/標高417m)から撮影された金華山・岐阜城のみごとな写真

話題の「千畳敷」は右下の山すそのあたり
(※ご覧の写真はブログ「写真を楽しむ」様からの引用です)



当サイトはこれまで、岐阜城千畳敷の信長公居館をめぐる「階段式御殿説」に対して度々、疑義を申し上げ、あらがう記事ばかりを書き続けてまいりました。

それと言いますのも、以前も申し上げたとおり、かの松田毅一・川崎桃太先生が翻訳したルイス・フロイス著『日本史』全12巻を通じて、階ごとに建物の内部を描写したのは、金閣など5例だけで、そのどれもが「一階」「二階」という表現(訳語)で月並みに階層を示していて、等しく「楼閣」類だと思えてならなかったからです。

1.金閣(第一部五八章)
2.岐阜城山麓の信長公居館(第一部八九章)
3.都の聖母教会(第一部一〇五章)
4.安土の神学校(第二部二五章)
5.豊臣大坂城天守(第二部七五章)

では、それぞれの書かれ方を、ちょっとだけご覧いただくと…


【金閣の文例】

同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の塔のような建物がある。
(中略)二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。
回廊が付いた上階はすべて塗金されていた。
(中略)上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは(空白アリ)パルモ、幅は(空白アリ)パルモで、まったく滑らかで、たった一つの節もない。


【信長公居館の文例】

二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます。
三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望することができます。


(※東洋文庫版の柳谷武夫先生の翻訳文と照らし合わせますと、明らかに、文中の「そこ」「山の側」に、「それ」「茶室」にかかる言葉です。つまり二階は、山の側で水鳥が何種類も泳ぎまわる池を見渡せる構造であり、また三階の茶室の中が「人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅」なのは当然で、何も不自然なことはありません)


【聖母教会の文例】

教会の敷地は狭く、隣接の異教徒たちは、キリシタンがどのように高額を支払っても、その敷地を全然売ろうとしなかったし、司祭の修道院を別の場所に建てることはできなかったから、やむを得ず教会の上に二階(すなわち第二、第三階)を設けることに決めたが、教会はすでに一階(すなわち二階)の梁まで完成していた。


【安土の神学校の文例】

二階には、一つは市の上に展開し、他は心地よい広々とした田園の眺望に向けられた幾つかの窓を付した廊下によって三方囲まれた我らの寝室、または部屋に利用される若干の広間を作った。
(中略)この二階の上に、さらに一階を設け、そこには巡察師の意向に添って神学校として使用される長くよく設備された住居を建てた。


【豊臣大坂城天守の文例】

これら全階層と階段を登るごとに、関白の前を、非常に愛らしく敏捷で立派な衣服をまとった十三、四歳の少女が刀を肩に担いで進んで行った。
(中略)四階までおもむろに登り終えると、関白は疲れたろうから茶を飲まれよ、と言った。すると入念に茶が運ばれて来た。
最終階に登った時にもまた彼は茶を命じ、下へ降りる時にも茶が供せられた。
(中略)(天守閣の)最終階には周囲に突出した外廊がついていた。


このようにどの建物も「一階」「二階」という風に階層が紹介されていて、そういう文体の上では、岐阜城の信長公居館だけが、取り立てて、異なった構造であったというニュアンスは感じられません。

そのため私なんぞはずっと、階段式御殿説は、千畳敷の地形に合わせて、あまりに都合良く、フロイス日本史を読み過ぎていると感じて来ました。


この際、ナレーションやコピーを仕事で書いてきた者として強く申し上げたいのは、上記の引用のごとく、どの文章も、原典の文体を尊重した翻訳文であるため、どうしても日本語としてはツタナイ部分が残っていて、もっと流暢な文体に直してしまうことも出来たのでしょうが、松田先生らはそれをあえて避けた、という経緯なのです。

それはこの文献が、後々の世まで、多くの分野からの研究対象となることを見越した判断でした。


(昭和52年初版『フロイス日本史1』の訳者序文より)

「いかに重要文献であるかは、すでに翻訳された部分に対する史家の評価により十分立証されており(中略)それを簡潔にして平易な文章に変えることは、きわめて容易な業であると言いたいが、それでは原著者フロイスに礼を失することになるし、その文体の面影を損なうことになりかねず…」


ですから、よく話題になる信長公居館の「三階は山と同じ高さで」にしても、仮に階段式御殿説の考え方に基づくなら、フロイスはもっと単純に「三階は山の中にあり」とでも書けばよかったはずのものを、わざわざ「同じ高さで」という複雑な表現で書き示したわけで、そんな原著者の意図や苦心が、階段式御殿説には反映されていないと思うのです。


おそらく「山」とは千畳敷のある中腹の「丘」のことで、それと同じ高さに三階が…

(※ちなみにこれは、以前に話題となったアルカラ版等の文献でも、同じような事柄が言えるはずです)


上図は何度もお見せして来た一連の図の新バージョンですが、これらには長らく「一階」についての注釈が付いておりませんでした。

フロイス日本史によれば、一階は部屋数が二十近くもあったとしていますし、この階の説明にいちばん多くの文言を費やしていること、そしてこの建物全体を天守の原形「立体的御殿」とする立場から考えますと、岐阜城の場合、その一階には「対面所」や「御座ノ間」をふくむ諸室が並んでいたと想定しても、特段の違和感は無いはずでしょう。




これで当サイトが考える「四階建て楼閣」のアウトラインは全て申し上げたことになりますし、また前回の記事のように、千畳敷C地区の御殿は、例えて言えば“織田信長の天鏡閣”とでも申すべき、広大な山里曲輪群(千畳敷)にふさわしい二階建ての会所だったのではないかと考えております。

しかし、ですが、ここに至ってもなお、諸先生方がどうしても「階段式御殿説」にこだわる理由を想像いたしますと…

それはきっと、岐阜城の山麓全体の御殿群の「表」と「奥」の使い分けや、山頂付近の城砦を含めた「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」の空間の想定に対して、やはり四階建ての「楼閣」などはそぐわない、と先生方に思われているからではないでしょうか。


例えば、発掘調査ホームページの「地形復元図」に勝手に色づけさせていただきますと…


ご覧の図で申しますと、当サイトの「四階建て楼閣」は、足利義政の東山山荘の「銀閣」の位置にならって山麓の平地(ひらち)の部分に建てられ、それはちょうど図の「表の領域」昔御殿跡にあたるのだろうと申し上げて来ました。

ですが、一般的に「楼閣」というのは、言わば庭の“景物”の類いに含まれる建築でしたから、そんなものが「表の領域」 = 武家の公式儀礼の場である「表」の御殿群の中にまぎれて建っていたなど、もってのほかだ!! という感覚が、先生方の第一印象にはあったのかもしれません。


しかしその一方で、天守の発祥のナゾを解き明かしたい、と思ってやって来た私の立場からしますと、近年、岐阜城には「楼閣形式の居館は無かった」「山頂にも信長の時代は天守など無かった」とおっしゃる先生方がどんどん増えているようで、ならば次の安土城で、いきなり!!七重天主が出現したことを、どう説明できるのでしょうかと、今後への不安感に襲われてしまう今日この頃なのです。


やはり私なんぞの感覚としては、信長の<小牧山城−岐阜城−安土城>という三つの城は、天守の原形「立体的御殿」の発展過程における<ホップ−ステップ−ジャンプ>に違いない、という見立てが、どうにも捨てられません。

とりわけ岐阜城は、その劇的な高低差が「立体的御殿」を一段と進化させたはずだと感じられてなりませんで、そこでは「立体的御殿」でなければ出来ない“ある革新”があったものと考えています。



ハレとケの空間を垂直にまたぐ「立体的御殿」ならではの、コペルニクス的な革新……



どうでしょうか。これならば「立体的御殿」の発展過程における岐阜城の位置づけ、そして次の安土城で七重の天主が出現した経緯を説明するうえでも、かなりの整合性を見い出すことが出来るのではないでしょうか?


(※次回に続く)


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城の再発見!例えて言えば織田信長の「天鏡閣」?…岐阜城千畳敷C地区の御殿をめぐる妄想






例えて言えば織田信長の「天鏡閣」?…岐阜城千畳敷C地区の御殿をめぐる妄想





前回記事の「どう登るかも天守のうち」という話題の続きで、是非とも「岐阜城」のケースを申し上げてみたいと思ったのですが、そのためには前置きとして、かねてから懸案の岐阜城千畳敷下の「四階建て楼閣」について、いま一度、念押しをしておかねばならないという条件がつくようです。

で、このところ「YOMIURI ONLINE 中部発」で連載中の「図解 天下人の城」シリーズや、以前の「図解 信長の城」シリーズなどは、千田嘉博先生の新しい見解も踏まえていて、たいへんに面白く、毎回、興味深く拝見して来ました。

ただ一つだけ残念なのは、そんな注目のシリーズにおいても、岐阜城の千畳敷については、次のようなイラストと共に、いわゆる「階段式御殿説」がいまだに紹介されていたことでしょう。


「図解 信長の城 6回 岐阜城の麓の館は4層構造」より


ご覧のイラストは、発掘調査チームによる呼称「館の入口」奥の曲輪に「1階」、「C地区」に「2階」、そして「B地区」に「3階」「4階」という風に、階段式の御殿が信長の時代にはあって、それらの全ての御殿が、さも一体化して連続していたかのように見える角度でイラストが描かれています。

しかし、このような構造の御殿群は、当の発掘調査の成果として、C地区の東端に「巨大な石を背景とした庭園」が見つかり、そのため、1階〜4階の全てが一体化した階段式の御殿は、物理的に不可能であることが判明したばかりです。

そこでこの際、失礼は承知のうえで、あえて上記のイラストに加筆させていただきたいと思うのですが…




千田先生も著書では「1階」から「4階」まで全部の御殿がイラストのように連なっていたとはおっしゃっていませんし、ここは段々畑のような四段の曲輪のうち、下の二段(入口地区とC地区)には立体的にまたがる(二階建ての?)御殿があった可能性はあるものの、その先にはC地区の庭園があり、そこで御殿の構造的な接続が途切れていたことは千田先生も認めておられます。


(千田嘉博『信長の城』2013年より)

発掘では曲輪3a(=イラストの「1階」部分)から曲輪5a(=同「2階」部分)をつないだ階段全体が、段石垣を利用しつつ建物で覆われていた可能性が指摘されています。

曲輪5a
(「2階」部分)は破壊が激しく建物は見つかっていませんが、曲輪の端から園池をかたちづくった州浜と思われる遺構を検出しており、庭園をそなえていたとわかります。


発掘の成果から、C地区の庭の東側(奥側)には巨大な石が庭の背景として並べられていて、どう見ても、それらを、一体化した御殿群が“乗り越える”ことなど不可能な状態なのですから、もう「増築を重ねた温泉旅館のような構造」という考え方は、無理が出て来たはずだと思うのですが、いまだに上記のようなイラストが示されるのは残念でなりません。

とは言うものの、上記のイラストには注目すべき表現もありまして、それは入口地区とC地区にまたがる立体的な二階建て御殿から、橋廊下と登廊が、千畳敷下との連絡用に延びていたと描いている点でしょう。




この橋廊下と登廊は、昭和62年までの発掘調査ですでに見つかっていた礎石群に基づく復元でしょうが、これが今回、是非とも申し上げてみたい“妄想”の引き金になるのです。



2013年7月31日放送 NHK「歴史ドリームチーム 金閣の謎を解き明かせ」より

足利義満が北山第に建立した「天鏡閣」と金閣の推定復元CG



左側の見慣れない建物「天鏡閣」は、応永4年1397年の足利義満による北山第の造営時に、金閣(舎利殿)の北側に建てられた二階建ての会所であり、金閣との間が橋廊下(複道=空中廊下)でつながれていたものの、その後、義満の死後に南禅寺に移築されて(→南禅寺方丈閣)焼失した幻の建物として知られています。(『臥雲日件録抜尤』等の記録より)

ご覧のNHK番組のCGでは、島尾新教授(日本美術史)らの復元考証に基づいて、その「天鏡閣」を金閣のすぐ北側の鏡湖池の水際にあったとする状態で描いておりましたが、ここで注意すべき基本情報は、現在までに鹿苑寺の境内では「天鏡閣」のそれらしき遺構は一つも見つかっていない、という点でしょう。そこで…


【 私なんぞの妄想的!!「天鏡閣」のイメージ 】

文字どおり「天鏡閣」という雅名からのダイレクトな連想として、

「天」空に「鏡」のごとく映った楼「閣」であったのなら、

こんな風に、もっと背後の丘の上に建っていたのかも……



天鏡閣… まさに“写し鏡”のごとく… という所をポイントにした、幻想的な仕掛けを思いっきり妄想してみたのですが、どうでしょう。

この突拍子もない“妄想”の動機をもう少しだけ申し上げますと、天鏡閣の遺構は現状の境内からは見つかっていないため、ひょっとすると、ご覧の丘の上にある池「安民沢」の中に!?「金閣」同然に(もしくは高床式の水上家屋のように)建っていたのではあるまいか… という素人考えも手伝った妄想でありまして、もしそうであったなら、金閣との間は、合わせて100mを超える、長大な橋廊下と登廊でつながれていたことになります。


金閣寺(鹿苑寺)境内図 / 京都市「フィールド・ミュージアム京都」より


背後の丘の上の池に建つ、高床式の二階建ての会所…… 実は、そんな風に「天鏡閣」を想像して描いた絵もあるようでして、もちろん織田信長の時代には、すでに天鏡閣はこの世から失われていたわけですから、信長の場合にしても、それは伝承と想像力にまかせた産物にならざるをえません。

それにしても、足利義政の「銀閣」にも橋廊下が接続していた可能性が言われておりますし、そんなダイナミックな造形には、信長なら、思わず飛びついたのではなかろうかと…

したがって岐阜城千畳敷C地区の二階建て御殿からも、当サイトが申し上げて来た「四階建て楼閣」に向かって、長大な橋廊下と登廊が、ずうっと延びていたのかもしれない… などという、まことに勝手な妄想が止まらないのです。




【 余談の追記 】

上記の「安民沢」については、鹿苑寺の庭園内の調査で、池の浚渫工事をした時の池底の地形図が、京都市埋蔵文化財研究所による報告書に載っております。

報告書によれば、池の中央付近では、本来の池底の表面には何も無かったそうですが、図の等高線は高さ20cm間隔ですから、池の西半分(=図の左半分)は、けっこうガタガタした地形のようで… 何の跡なのか、念のため図を引用しておきます。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年02月21日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!名古屋城の新・旧天守における「階段」とエレベーターの使われ方






名古屋城の新・旧天守における「階段」とエレベーターの使われ方


戦災焼失前の名古屋城天守と本丸御殿(※写真は「Network2010」からの引用です)

改めて、天守と御殿は一連のもの(雁行する建築群)という印象が…



… やはり元来の姿は、本丸御殿が「表の御殿」、天守(立体的御殿)が「奥の御殿」なのか?

一方、現在の復興コンクリート天守の、吹き抜けらせん階段、土産物店、来館者用エレベーター


現状の復興天守を将来的にどうするのか(耐震改修による延命か?木造復元か?)で話題の名古屋城ですが、あるニュースでは、ご覧のエレベーターのメーカー保守期間が平成28年に終わるそうで、新しいエレベーターへの入れ替えを含めて「耐震化工事か木造復元か早急な判断が望まれる」という監査結果が、市の包括外部監査人から出たそうです。

まあ、これで即どうなるという話でもないでしょうが、思えば当ブログでは、天守の原型「立体的御殿」の階段の配置のしかたは、きっと“立体化の成り立ち”と深く関係していたはずだろう、などと申し上げて来ました。

そういう意味では、実は <どう登るかも天守のうち> だったのではないか、という気もしてなりませんで、ちょうどいい機会ですので、名古屋城天守の「階段」とエレベーターをめぐるお話を、少々付け加えさせていただきたいと思うのです。


二条城・二ノ丸御殿の平面図(抜粋)

書院造の「鉤(かぎ)座敷」の構造

鉤座敷の作法と、雁行(御殿のつながり方)には密接な関係があった


ご覧の図は以前の記事でお見せしたものですが、もしこのような御殿が縦に重なって立体化したとなれば、それらをつなぐ「階段」の位置は、やはり要注意の案件だったはずでしょう。

そこで当ブログが注目したのは、名古屋城の大天守にもあった「二系統の階段群」でした。


二系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか?

【模式図】…それならば「立体的御殿」は階段にも「表」と「奥」があったのでは??

これなら、不測の鉢合わせも起こらずに済みそう…



この模式図をお見せした時は、あまり詳しく申し上げなかったのですが、図をよくご覧いただきますと、「表の階段」が途切れた上の最上階(図では三階)が、ちょっと変なことになっているのがお分かりでしょうか。

この図のままですと「奥の階段」の導線と、最上階の「鉤座敷」の導線とが、ちゃんと噛み合っておりませんで、この点を例えば、実際の名古屋城天守はどうなっていたかと『金城温古録』で確認してみますと、実は、最上階は「鉤座敷」が逆回り! という面白い仕組みになっていたのです。


復興コンクリート天守の空撮

これに旧天守の各階の床面をダブらせ…

さらにその上に「二系統の階段群」の位置をダブらせると…


それぞれの階段は、手前の階段群が「御成階(はしご)」、奥の階段群が「段階」と呼ばれておりましたが、これは『金城温古録』によりますと、寛永11年に三代将軍・徳川家光が登閣した際に、奥の階段では地階で井戸や流しのある「御勝手」をお通りいただくことになり、それは大変に恐れ多いため、手前の階段も使ったからだろう、と記しています。

ですから、両方の名称の違いにこだわるのはあまり意味が無いのかもしれず、むしろ何故、手前の階段は“三階(天守台上の三重目)までしか”設けられなかったのか? という原因の方が、ずっと重大であるように思われてなりません。

と申しますのは、もし本当に手前の階段が「表の階段」をルーツとしたものなら、それはやはり「立体的御殿」全体の使われ方! に由来した現象だったかもしれないからです。





例えばご覧の写真のごとく、五重天守の三重目が「第二の望楼」とされた例もあったのかもしれない、などと申し上げた件を思えば、ひょっとすると原型の「立体的御殿」では、中層階までが領主本人とその家族や内々の訪問客も想定したエリアであり、そこから上は、それこそ、領主本人しか立ち入れないような領域であったのかもしれません。




そして問題の最上階ですが、名古屋城の旧天守では、入側縁に囲まれた四つの部屋は、それぞれご覧のような名称になっておりまして、つまりここでの「鉤座敷」の導線は左回りであり、天守を登った最終的な終着点は、南東側の、本丸御殿に面した側の部屋になっていたわけです。




本丸御殿では奥へ、奥へ、と進んでいた「鉤座敷」の導線が、何故か、天守の最上階になると逆に表側へとターンして来ていた…… これはいったい、どういうことなのか…。

ここで「立体的御殿」全体の使われ方を、思い切って想像してみますと、登閣の終着点が表側だったということは、その意味は「本丸御殿」の方角というより、もっと正確に申せば「大手門」の方角に出るための構造だったのではないでしょうか。

すなわち、その構造は、登る人物の側の便宜や作法のためではなくて、最終的には外の城下や城内の人々からの「視線」が最優先の事柄であり、高欄などで<領主がそこに姿を現すこと>が「立体的御殿」のセオリーになっていたのではなかろうか… という気もして来るのです。


このことは他の城においても、例えば萩城天守の場合、四代目藩主・毛利吉広が、初入国のおりに天守に登ったという記録がありますが、その時、吉広は最上階の部屋の南側に着座した、と書かれている点とも符号しそうです。

と申しますのは、ご承知のとおり萩城天守は、その南側に二の丸以下の各曲輪や城下町が広がっていた一方で、逆に本丸御殿は、天守の北側にあったからです。

(※ただし地形の問題で、城下から天守が見えにくい、という萩城の設計ミス?はご愛嬌でしょうか…)


さらに、これは後出しジャンケンのようで恐縮ですが、前出の二条城の二ノ丸御殿においても、いちばん奥に示した白書院だけが、慶長の創建時は「鉤座敷」が逆回りだった可能性が言われているのも、ご存知のとおりでして、これもまた何かの符号かもしれません。


以上のごとく、名古屋城の旧天守における「階段」の様々な意味を考えますと、現状の復興コンクリート天守は“展望台付き資料館”として実に単純でありまして、「階段」の位置など問題外で、地階から最上階まで便利にすばやく移動できることが必須条件なのですから、上下の移動は「エレベーター」かエスカレーターでなければ苦情が出てしまいます。





今回の記事は <どう登るかも天守のうち?> という観点から申し上げて来ましたが、名古屋城の旧天守の「階段」のつけ方には、「立体的御殿」の成り立ちや、天守とは何だったのか、という大仰な話をひも解くヒントが隠れていそうです。

ひるがえって、それ以降の徳川の巨大天守 = 例えば江戸城天守ですと、やはり二系統の階段群があっても、それらはもう「表」「奥」は関係なく、ただ単に左右に並列していた疑い(→江戸期の再建案の指図!)もあることと比べますと、名古屋城天守というのは、実に稀有(けう)な建築であったと言わざるをえず、それもこれも、小堀遠州と中井正清という最強コンビの手になるエポックメイキングな建築だったからでしょうか。…


江戸城天守の再建案にみる「階段」の位置(→ 内閣文庫蔵の史料をもとに作成)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!続・世界の中での「天守」…西欧の美しい城館は決して領民に見せるための建築ではなかったということ





西欧の美しい城館は決して領民に見せるための建築ではなかったということ


小和田哲男『城と秀吉』1996年 / いわゆる「見せる城」論の原点


年度リポートの完成はまだちょっとだけ時間をいただきたく、前回の<世界の中でのニッポンの「天守」>というテーマについては、是非とも付け加えたき事柄もありまして、それはおなじみの小和田哲男先生の「見せる城」論との関係です。


(上記書「あとがき」より)

秀吉の築城史と豊臣覇業史という視点で注目されるのが、「戦う城」から「見せる城」へという変化である。
少なくとも、大坂城までは「戦う城」という位置付けが可能である。事実、大坂冬の陣・夏の陣での大坂方の戦いぶりをみても、そのことは明らかである。
しかし、関白の政庁として築かれた聚楽第からは、もっぱら、豪華さを前面に出して相手を威圧する方向へと転換している。
見せる城、すなわち「見栄の城郭」の出現が“桃山文化”の極地ともいわれる豪壮華麗な城郭建築を生み出したのである。



この小和田先生の著書では、普請狂とも言われる豊臣秀吉の築城手法(戦略)について考察がなされましたが、この本で打ち出された「見せる城」論は、その後も様々な場で話題となり、日本の城に関する考え方の一つのベースとなった感があります。

一方、直近では、いわゆる「土の城」をめぐる長年の諸研究を経て、西股総生先生の「城の本質は悪あがきである」という名言も飛び出して来ていて、さながら「土の城 vs 見せる城」の相克(確執)こそ、戦国時代から安土桃山時代にかけての、我が国の城の最重要テーマであったことが浮き彫りになって来たようです。

となりますと、天守そのものを「見せる城」の重要アイテムと考える場合、それは必ずしも豊臣秀吉に始まったというより、その前の織田信長の城を含めて考えてもよいのではないでしょうか。…



姫路城大天守の修理後の真っ白い姿を、驚きをもって伝えたニュース


さて、今年は、平成の大修理を行っている姫路城大天守が姿を現し始め、そのあまりの白さから「白鷺城ならぬ白すぎ城」などと報道されました。

で、来年3月のグランドオープンを告知するポスターには「世界に見せたい白がある」というキャッチコピーがありまして、私なんぞの勝手な印象では、やや中途半端なアピールにとどまっているようにも感じられ、その理由としては <何故こんなに白かったのか> という肝心要の哲学(造形の主旨)についての言及が、少々抜け落ちているからではないでしょうか。…


思うに、そうした言及を行うには、いわゆる「西欧の美しい城館」との徹底的な比較検討(とりわけ美しさの理由や目的)が不可欠だろうと思えてなりません。



シャンボール城(フランス)


と申しますのも、「西欧の美しい城館」の代表格と言ってもいいシャンボール城やシュノンソー城などがどのように世間から見えていたかと言えば、いずれも広大な森林の中の道を延々と、延々と行った末に、ようやくご覧の城館が姿を現す形でした。

これらは全体が国王の余暇(狩猟)や国賓の接遇等のために設けられた専用の場所で、基本的に地域の領民は一帯からシャットアウトされ、城館は遠くから人々が眺められるような状態ではありませんでした。


アンボワーズ城 / ロワール川沿いの城館は町から眺めやすい位置になるが…

城と館の来歴をうかがわせる空撮写真(ウィキペディアより)



そして先のシャンボール城を含めて、絶対王政下のフランス国内では、戦略的な役目を失った城において、王侯貴族らが優雅な城館を建てることが流行し、ご覧のアンボワーズ城のごとく、新たな城館が町から眺めやすい格好の位置に建て込まれたものの、それらは言わば“超豪華な別荘”であって、領民の統治とはほぼ無関係の存在だったと言っていいようです。


さらには、有名なノイシュヴァンシュタイン城がたいへん眺めやすい“絵に描いたような城”であるのは、ご承知のとおり、近代人のバイエルン国王ルートヴィヒ2世が舞台美術家にデザインさせたロマンティック趣味の「作品」だったからで、これなどは(同様のリヒテンシュタイン城やホーエンツォレルン城等々も含めて)本来ならば、除外して考えるべきものでしょう。(!!…)

ですから、そうしますと、あとは「西欧の美しい城館」といっても、殆どがいわゆる「廃墟としての趣きや塁壁の古色が美しい」といった類いの城になってしまうのです。



先ほどのニュース画像より


その点、我が国の城の「天守」は、白壁や金箔瓦などで鮮やかに天空や城下に向けて雄姿を示すのが建築としての使命であり、同じ“美しい城”であっても、西欧の城館とは本質的に異なる存在だと言えそうでして、このことは解説書やガイドブック等でも案外、触れられていない事柄ではないでしょうか。

例えば「一度は行きたい世界の名城」といったランキング等でも、ご覧の姫路城天守と、シャンボール城と、ノイシュヴァンシュタイン城とが、仲良くトップ10に並んでいたりもしますが、「何のための美しさだったのか」という観点で申せば、実に三者三様であり、それぞれに美しさの「目的」が違っていたことを忘れるわけにはまいりません。



そこでもう一度、整理しますと、我が国の「天守」のある大名の居城は、まずは領内最大の軍事拠点であり、ときに苛烈な徴税や使役・徴兵などを強いた行政府の本庁舎でもあり、その目印たる「天守」は領民にとって、本来なら畏怖の対象であったはずです。

なのに、すべての「天守」は美しさ・華やかさ・雄渾さを競うように建造され、その高さ(山頂の立地や高層化)と色彩、破風の多用などで、ひたすら <視覚的な存在感> を極めることに努めたのです。

これはいったい、何故なのか??


今回、申し上げたいのは、このことこそ、日本の城だけに起きた「見せる城」という、世界でも稀有な出来事の賜物(たまもの)だろうという点でありまして、強力な攻城砲が出現する直前の、まことに幸運な一時期に、ちょうど織田信長や豊臣秀吉によって一気に「天守」というものが創始され、多くの日本人の目の前にズラリと出現した、という日本史のラッキーなめぐり合わせについての再確認なのです。


そしてそれほどの「天守」の急激な普及は、まったく新しい建築様式の浸透のスピードとしては、人類史上でも例の無かったもののはずでしょう。

それはおそらく、戦国時代という事実上の分裂国家を再統一するため、信長や秀吉が、奈良時代の一国一寺の国分寺や、足利兄弟による一国一寺の安国寺・利生塔の建立といった国家プロジェクトになぞらえた節も感じられ、彼らの政治手法に立脚して始まったものと考えなければ到底、理解できません。


… ひたすらに <人心をつかむ> ということ。

織豊大名という「下克上」出身の新興勢力が、日本の旧体制のあらゆる勢力や制度を押さえ込んで行くためには、戦闘や移封で得た領国支配のダメ押し的な一手として、そこの地侍や領民の目線から見て「これは仮設の陣地ではない」「恒久的かつ安定的な支配・統治のための新城である」という天守の絶大な視覚的効果が、大いに威力をふるったのかもしれません。





ということで、小和田先生の「見せる城」論は、日本が世界に向けて、是非とも力強く発信すべき理論であろうと申し上げたいのでありまして、姫路城大天守が何故あんなに白かったのかについても、もっと積極的な説明とアピールを行ってよいのではないでしょうか。


そんなこんなを考えたとき、「天守閣なんてお大名のただの見栄っ張りでしょ…」といった一般の方々の間違った認識は、一刻も早く正さなくてはならないと思いますし、また天守を「ドンジョン」donjon と翻訳する間違いも明らかでありまして、最低でも「テンシュ・タワー」tenshu tower などと訳さなくては、余計な、誤った認識を外国人に与えてしまう危険があると思います。


昨今、世界では19世紀や20世紀以来の国境が怪しくなる事態が続発しておりますが、我が国の「天守」は少なくとも、日本という国を戦国時代から中央集権を経て近世社会まで転換させる、という荒業(あらわざ)を押し進める上で、かなり重要な役目を果たした、巧みな <政治的アイデア> であったはずなのです。








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城の再発見!世界の中でのニッポンの「天守」





世界の中でのニッポンの「天守」


いよいよ昨年度から持ち越しの年度リポート(仮題:最後の「立体的御殿」としての駿府城天守)が追い込みに入っておりまして、このところは時間があると「立体的御殿」というキーワードをアレコレと考えるばかりの毎日です。

この数ヶ月のブログ記事でも、織田信長時代の小牧山城の主郭について、スペース的な制約から「御殿の立体化」が始まったのではないかと申し上げてみたり…




また岐阜城の山麓居館に四階建て楼閣を想定して、山頂天守と一体的にとらえて「七重の立体的御殿」の構想があったのでは… 等々と申し上げて来ました。




とりわけ岐阜城の構想は、足利義政の東山殿「銀閣」とその背後の山頂にあった「義政公遠見の櫓」とのセットが、直接的な参考事例のようでもあり、信長は義政ゆかりの地を思いつつ、“立体的城郭”とでも“階層城郭”とでも言うべき独自のスタイルを編み出していたのでしょうか。…




<垂直の落差を「軍事的な防御壁」とするか 「政治的な階層の表現」とするか…>




おなじみの世界遺産「万里の長城」「シーギリヤ」「開平の楼閣村」

(※写真はいずれもウィキペディアより)


さて、ご承知のとおり、アジアでは有史以来、連なる山の稜線上に「万里の長城」のような塁壁を連ねて城郭化した例や、険しい山や断崖の頂上部分を「シーギリヤ」のように城砦化(空中都市化)した例、さらには商人が自宅を高層化した「開平の楼閣村」といった例もあり、これらはいずれも、垂直の落差を軍事的な防御壁として活かしたものでした。



小牧山城 / 一つの山塊を下から上まで要塞化した“階層城郭”??

(※築城450年記念のパンフレットに使われたイメージ画より)


一方、垂直の落差を政治的な階層の表現として活用した節があるのは、小牧山城から以降の、織田信長の城だと言えるでしょう。


ご覧のように一つの山塊を下から上までカンペキに要塞化したのは、例えばフランスのモン・サン・ミシェルなど、宗教施設(山岳寺院)が真っ先に頭に思い浮かぶわけですが、それが日本の信長の手にかかると“階層城郭”とでも言うべき代物に変わってしまう…

この仮称“階層城郭”は、果たしてアジアや世界の視点から見るとどうなるのかが、たいへんに興味のあるところです。

何故かと申せば、この“階層城郭”の延長線上に「天守」が出現したとも思われるため、そうしますと天守はまさに、公家と武家が並び立って来たニッポンという国柄を踏まえて、権威(統治)と軍事の両面にまたがる「象徴」として生み出されたのかもしれない… などとも感じ取れてしまうからです。


そんな中で、世界の中でのニッポンの城(天守)を非常に考えさせる画像がありまして、今回はそれらを是非ご紹介したく存じます。



それは、おーぷん2ちゃんねるの「さよなら旧速記念」様のスレッド <世界の日本に対するイメージ画像・韓国だけがこんなにひどい件> というものでして、すでにご覧になった方も多いのかもしれません。
世界の国々の人が「日本」を画像検索した時に、どんな画像が上位にランクインしているのか?というもので、今回は特に、注目の画像にグリーンの枠を付けつつ、その他をやや暗くして見やすくさせていただきました。



アメリカ(→弘前城1画像)

タイ(→姫路城2画像、大阪城1画像、松本城1画像、弘前城1画像)

台湾(→姫路城1画像、芸者と松本城1画像)

中国(→姫路城と桜1画像)

ロシア(→姫路城2画像、大阪城1画像、名古屋城1画像、松本城1画像)

フランス(→姫路城1画像)

サウジアラビア(→姫路城1画像)

南アフリカ(→大阪城1画像、姫路城1画像)

【番外】韓国(→誰がこんな事態を招いたのか!?…この際立った異常さ)


(※検索の方法は、上記スレッドによれば「世界で大きなシェアを誇る検索エンジンGoogle、それを使いGoogle UK、Google France等々、世界の国々のGoogle検索サイトへ飛び、そこで各々の原語で「日本」という言葉を検索してみたところ、微妙に異なるそれぞれの「日本像」が生々しく浮かび上がって来た。Google Franceではフランス語で「Japon」、Google Brasilではポルトガル語で「Japao」と検索するなど、各国の公用語で「日本」を検索し、日本のイメージ画像をキャプチャ」というもの)


お察しのとおり、ご覧の画像のスレッドは、最後の韓国のひどい検索結果を伝えることを主題としたものですが、それはそれとして、私なんぞが思わず注目したのは、他の国々での「日本の城」とりわけ「天守」の画像の予想以上の多さなのです。!


そこで実際に、私も上記の方法で検索してみますと、日によって画像が変わるためか、各国ともに「日本の城」の画像はさらに多かったように感じました。

(※また意外と言っては恐縮ですが、世界では「弘前城」がずいぶんと健闘していることにも気付かされました)


この現象はもちろん、事の正確性を担保できるような話ではありませんが、例えば際立って「日本の城」が多いタイやロシアのように、もし本当に彼等にとって、日本のイメージの「数分の一」を「城」が担っているのだとしたら、これはやはり要注意の事柄であり、我々としてもそれなりの心構えが、改めて必要になるのではないでしょうか。…


タイ(→35画像のうち5画像)

ロシア(→35画像のうち5画像)


もちろんここでは、ニッポンの城の初心者である外国人の皆さんに「天守=城そのものではない」という基本情報を、まずはお伝えすべきなのでしょうが、彼等にしてみれば、とにかく検索画像に出て来た現物(→天守)を見てみたい、と思うのが人情でしょう。

それが日本の城そのものではなくて、一部分であるのなら、それはそれで、ちゃんとそうした説明(→ならば「天守」は城の何なのか?)が無ければ、まるで不親切と申しますか、最低限、日本人もまだ解明できないミステリーはミステリーとして、そのまま丁寧に伝えていくべきだと思われてならないのです。


そして出来るなら、世界の城の中での「ニッポンの天守」はどういう位置にあるのか、積極的にアピールできれば最良でしょうし、それに関しては、今年4月から奈良大学の学長!の千田嘉博先生の文章が勇気を与えてくれるようです。



(千田嘉博「“ガラパゴス”ではなかった日本の城」/『歴史発見 vol.3』2014年所収より)

日本では織田信長や豊臣秀吉の居城を手本にした織豊系城郭が、天下統一の過程にあわせて各地に広がった。そして一七世紀初めにきわめて共通性の高い近世城郭が、列島の広い範囲にわたって一斉に出現した。
日本の城がもつ鮮やかな政治史的な特徴も、世界史的に見て特筆される。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年08月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々「金頂」の御座としての最上階 …正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?





正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?


是非もう一回だけ、織田信長の「立体的御殿」の最上階に関する事柄を申し上げてみたいと存じます。

すなわち、安土城の天主には「最頂上に一の鐘あり」(『耶蘇会士日本通信』1577年の書簡より)という珍しい記録があるものの、これは『信長公記』など他の文献にまったく登場しないため、<正体不明の鐘>とされている点です。

この宣教師の書簡について内藤昌先生は…


(内藤昌『復元 安土城』1994年より)

この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので、工事中の時鐘かもしれず、正確の意味を理解しかねる。
慶長十五年十一月上棟の小倉城天守などには、最上階に鐘がつられていた(細川家文書『豊前小倉御天守記』)ので、あるいはそうした類とも思える。



という風に、内藤先生もややサジを投げた状態のまま今日に至っているわけですが、例えば朝廷に「尾張暦」の採用を求めた一件など、言わば“時の支配者”をめざした感のある信長にとって、天主の最上階に「鐘」というのは、どこかピッタリ過ぎるシチュエーションのように思えて、気になって仕方がなかったのです。

しかも上記の文章で釣鐘があったという小倉城天守は、一階が御殿風の造りになっていたあたりが「立体的御殿」との関連性を感じさせますし、また寛永四年に焼失した初代の弘前城天守では、釣鐘は四重目にあったとも云います。

しかし安土城天主の最上階というと…


(尊経閣文庫蔵『安土日記』の記述より)

上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ



当サイト仮説の最上階(七重目)



手前味噌のイラストまでお見せして恐縮ですが、諸先生方による復元を参照しましても、最上階は決して鐘突き堂のごとき構造にはなっておりませんし、天井には格天井などがあって、部屋の内外にそれらしき「一の鐘」をつり下げる余裕はどこにも無い、という状態です。

ちなみに、福山城に現存の鐘櫓(かねやぐら)は時の鐘を鳴らしたものですが、天守の鐘というのはいったい何を目的としたのか…

 神社の鐘は、願いごとをする神様への挨拶として。

 寺院の鐘は、時報の役割やその音色による功徳。

 教会の鐘は、主に礼拝の開始を知らせる時報として。


ということで、もちろん「鐘」には純然たる時報以外の役割もありますし、当時、安土城下で日常的に城や天主から鐘の音が聞こえた、という記録は特に無いようですから、ひょっとすると信長の「鐘」もまったく別の目的があったのかもしれません。

そこで考え方を少々変えまして、仮に安土城天主に「鐘」があったとしても、それは一度も鳴らなかった(=鳴らすべき時がついに来なかった)と想定してみますと、それはそれで、一つのありようが浮き彫りになるのではないでしょうか。



アメリカ独立宣言の時に鳴らされた「自由の鐘」(写真:ウィキペディアより)


これなどはご承知のように、独立宣言にちなんだ銘文が刻まれていて、それは旧約聖書の「全地上とそこに住む者すべてに自由を宣言せよ」という一文で、それを鳴らした、ということであって、鐘そのものに意味があるのではなくて、銘文の文言の方に重要な意味があったという特別なケースの鐘です。


沖縄・首里城の正殿に掲げられていた万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘


これも銘文の中身が重要でして、そこには「偉大な尚泰久王は仏法を盛んにして仏のめぐみに報いるため、この鐘を首里城の正殿前にかけた」という意味の由来が刻まれているそうです。

ところが一般には、文頭の方の「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫(しゅうしゅう=舟運)をもって万国の津梁(しんりょう=橋渡し)となし…」という部分がクローズアップされ、そのためこれは琉球の“交易立国”を宣言した鐘なのだとされていて、その微妙な政治的立場も含んだ特別なケースの鐘だと言えるでしょう。


かくして、日常的に突いた鐘ではなく、何か特別な願文を刻みつけ、念願がかなった時にそれを打ち鳴らす、という目的で造られた「鐘」もありえたのではないでしょうか。

そして信長の安土城天主の場合、そうした鐘がついに一度も鳴らなかった、となれば、それはもう言わば「天下布武の鐘」とでも言うべき代物(しろもの)が、いやおうなく想像されてならないのです。




<よもや正体不明の鐘は、天主最上階の天井裏に!?…>




そこで例えば…

スロベニアの聖マリア教会では、天井から下がる紐をつよく引くと鐘楼の鐘が鳴る


(※写真は「Yahoo!Japanトラベル」の「にゃにお」様の記事からの引用です)


「最頂上に一の鐘あり」

ご覧の写真のように、高い鐘楼の上の鐘が(下から見えないものの)ロープで鳴らせる、という形は世界各地のキリスト教会に普及したようですし、そんなものを当時、信長も日本において見聞き出来たのかもしれません。

また日本古来のものでも、四天王寺の北鐘堂(現状は昭和の再建)は天井裏に鐘をつっている例として知られます。


となれば、冒頭の内藤先生の「この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので…」という指摘は、まさに、取り付け工事中でなければ目撃できなかった鐘!…といった可能性も含むわけです。

天主が完成すればその鐘は見えず、もしも屋根裏に仕込まれたなら、説明されないかぎり存在に気付きもしないでしょうから、『安土日記』(『信長公記』)の村井貞勝らの拝見記にまったく登場しないのも無理からぬところでしょう。


そのうえ注目すべきは、問題の宣教師の書簡が「最上階」ではなく、あえて「最頂上」という訳文が当てられた報告文であったことで、そこに並々ならぬ目撃者の感慨を読み取ってしまうのは、私の行き過ぎでしょうか。




かすかに記録された「鐘」の正体は、金頂の御座の天井裏に仕込まれた「天下布武の鐘」…。

その銘文に何と書いてあったかが分かれば、生涯、説明なき言動ばかりの織田信長の本意について、いくらかでも知ることが出来ただろうに、と想像が勝手にふくらんでしまうのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年08月04日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から





続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から


往年の超大作パニック映画「タワーリング・インフェルノ」(1974年)より



こんな写真をご覧になると、やおら「タワーリング・インフェルノ」の映画音楽が口ずさめてしまう方は、私と同じ中高年世代とお見受けしますが、映画のストーリーは、実業家ジェームズ・ダンカンが世界一の超高層ビルを建てたものの、腹心の部下の手抜き工事によって、開業日に大火災をおこすというものでした。

世界一高い建物… といった話題は、どうしても“バベルの塔”的な教訓話が着いてまわるようで、映画でも消防隊長役のスティーブ・マックィーンが「今にこんなビルで1万人の死者が出るぞ」と意味深なセリフを吐きました。


ですが、そもそも旧約聖書に描かれたバベルの塔の話というのは、要するに「新しい技術で天まで届く塔を造れば、その名は上がり、そこに全人類が集住するはず」という仮定の姿であり、現実にはそうならずに、世界中にバラバラの言語を話す人々が散らばっているのは「神がそういうバベルの塔を否定したからだ」という説話(説教)になっているそうで、ちょっと驚きです。

思えば西欧の伝統ある都市の中心にも大聖堂や市庁舎があり、現在も世界各地でそういう“集客効果”をねらった高層建築が続々と出来ているわけですから、天まで届くほど階を重ねることは、単なる虚栄心とか、神への挑戦、といった観点だけでは語れない何かを、きっと含んでいるのでしょう。


前回の記事より 織田信長の岐阜城の山頂天守(最上階)についての仮説

道教の聖地・武当山(湖北省)/ その天柱峰の頂上「金頂」にある金殿


さて、前回の記事でご覧に入れた武当山については、どうしても申し添えておくべき事柄が残っていまして、それはご覧の武当山の建築群はほとんどが、かの永楽帝が特別な意図をもって大規模に修築したものだという点です。


ご存じ、先帝との闘争の末に帝位についた、明朝の第三代皇帝・永楽帝

一方、長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)




永楽帝と言えば、信長とは切っても切れない関係にあると感じられてならない人物であり、その心は過去のブログ記事でも申し上げたとおり、貴種の生まれでない武人が新機軸・新兵器で天下人(皇帝)に躍り出ると、あえて壮大な土木事業で人々を動員する古代的なパワーに熱を上げてしまうのではないか… といった共通点です。

で、まことに残念ながら、いまだに私自身は話題の武当山を訪れた経験がないため、現地の写真などはすべて中国の観光サイトから引用せざるをえませんが、とりわけ興味を引くのは、天柱峰の中腹以上の(高さ10mの城壁と四隅の天の門に囲まれた)エリアが「紫禁城」!と呼ばれていることではないでしょうか。




この武当山の「紫禁城」については、フロイスらが千畳敷から登った山中にもいつかの城門があったと記録した「岐阜城」や、そして近年、千田嘉博先生が安土山の中腹以上が厳密な意味での信長の城ではなかったかと指摘したばかりの「安土城」を、是非とも意識したうえで、次の紹介文をお読みいただけませんでしょうか。


(二階堂善弘『明清期における武神と神仙の発展』2009年より)

現在の武当山の大規模な宮観群は、明の永楽帝の命によって建てられたものである。明王朝では玄天上帝を異様とも言えるほど特別視し、そのために膨大な国費を投じて武当山の殿宇を修築した。永楽十年(1412年)に始まった工事は、ほぼ十年近く続いた。
(中略)
武当山の麓から太和宮・金殿などのある天柱峰まで登るルートは二つ存在する。一つは南岩宮から一天門・二天門・三天門から朝天宮を経て徒歩で登るルート、もう一つは、自動車などで中観まで行き、そこからロープウェイに乗って山頂まで出るルートである。
(中略)
三天門を経てさらに登ると、武当山の頂点に天柱峰があり、そこには金殿・太和宮・皇経堂・古銅殿・霊官殿などがある。
金殿は建物自体が銅で出来ているという特異な殿宇である。このような建築は、五台山などにも見られるが、膨大な費用が必要なためか、それほど多く存在するわけではない。
金殿は天柱峰の頂上に設置され、明永楽十四年(1416年)の建である。中には披髪跣足の玄天上帝像が祀られている。



これはもう私なんぞには、永楽帝のタワーリング・パレス(立体的宮殿)だろうと想像されてなりませんでして、では何故、これほど永楽帝は「玄天上帝」を特別視したのかと言えば…




上記書によれば「玄天上帝は、関帝と並んで、中国の武神を代表する神と言ってよい」「この神は四神のひとつ玄武をその源流とし」「髪はざんばら髪であり、また靴を履かずに裸足である。足の下に玄武の本体であった亀と蛇を踏みしめる場合もある」そうです。

そして永楽帝の特別な信奉については「玄天上帝の「神助」を強調することにより、自己の帝位簒奪とその挙兵を正当化すること」が重要だったろうと指摘しています。


つまり、帝位を戦で勝ち取った永楽帝にとっても、また漢民族が元朝(北の異民族)から国を奪回して築いた帝国・明にとっても、北の守護神「玄武」は特別な存在であり、それが人格神となった玄天上帝が、修行を行い昇天したという聖地「武当山」は、膨大な国費をつぎ込んでも宮観を復興すべき場所であったわけです。




さて、それはそうだとして、今回の記事で是非とも申し上げたいポイントは別にあり、それはご覧の武当山の様子と、岐阜城や安土城のグランドデザインが似ている可能性もさりながら、そのうえさらに興味深いのは <玄天上帝は六天魔王と闘った神である> という基本中の基本の伝説があることです。


第六天魔王。


!! ご承知のとおり、信長は一向宗徒らから仏敵「第六天魔王」と憎しみをもって呼ばれたものの、意外にも本人はそれを気に入っていたそうで、それは武田信玄の書状の「天台座主」という肩書きに対抗したものと解説されますが、その自虐性は信長らしからぬものです。

その点で、ひょっとしてひょっとすると信長は、自らの旗にも名を掲げた「永楽帝」が信奉した玄天上帝は「六天魔王と闘った神である」という事柄に、めざとく気づいたのではなかったでしょうか。…


いわゆる六天(欲界)の魔鬼というのは、漢民族にとっては「異民族」を意味したであろうことは間違いないでしょうから(二階堂善弘「東北の方角に出現した毒気」)、当時、衰退しつつあった明朝を突き崩しかねない実在の脅威として、六天の魔鬼はまたもや、漢民族の深層心理を寒からしめていたのかもしれません。


だとするならば、信長の「我は第六天魔王なり」(=我は異民族の大王なり?)という思い切った物言いは、武田信玄の「天台座主」に対抗したドメスティックな意味合いだけではなくて、それこそ大陸の明朝(永楽帝とその末裔)に対する挑戦状にも等しい覚悟が込められた自称であったのかもしれない… などとも思われて来るのです。

おそらく、これも信長お得意の、誰もその真意に気づかぬ“説明なき言動”であって、それは本来、信長の天主(立体的御殿)の最上階には何があったのか? という大問題ともつながるような気がして来て、なんとも落ち着きません。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年07月19日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「金頂」の御座としての最上階を想像する





「金頂」の御座としての最上階を想像する


(木戸雅寿「天主から天守へ」/『信長の城・秀吉の城』2007年より)

天守とはいったいどう言う意味で作られ、それが何なのかということを、理解できている人はなかなかいない。天守がどういう成立過程を踏んでできてきたものなのかということを、お話いただけませんかというような話になりますと、これをなかなかうまく説明できる人は少ない。
実は今の城郭研究の分野の中でも、天守の研究はある意味、混とんとしている部分があり、そのような状況が続いております。



安土城発掘の木戸雅寿先生がシンポジウムでこう発言されたのは、当ブログがスタートした前々年でしたが、その「混とん」を打破する突破口の一つは、かつて内藤昌先生が安土城天主を評した言葉であり、かつ三浦正幸先生も改めて指摘された「立体的御殿」というキーワードに他ならないでしょう。




で、当ブログはご覧のように、織田信長が構想した「立体的御殿」の各階のねらい(性格づけ)について、あえて岐阜城の四階建て楼閣と山頂天守を一体化して、安土城天主につながる「七重」として考えることから、アレコレと申し上げて来ました。

その山頂天守は、宣教師の記録に「欧州の塔の如し。此より眺望すれば美濃の過半を見る」(日本西教史)と書かれた以上は、複数階の建物であったことは間違いないのでしょうが、二階以上(最上階)の具体的な様子に関しては文献上にヒントも残されておらず、関ヶ原合戦の頃の二重天守らしき絵図や、加納城に移築された御三階櫓の図などを除くと、あとはもう信長当時のこと(特に内部について)は想像でしか語ることが出来ません。


これはおそらく、山頂天守の二階は、日常的に出入りできた信長の家族しか目撃のチャンスも無く、それ以外の者は、断じて信長が立ち入らせなかったからではないかと感じています。

余談ながら、その観点で申しますと、フロイスとロレンソに茶を運んだ信長の「次男」「十一歳くらい」の「お茶箋(ちゃせん)」は申すまでもなく後の織田信雄であり、彼が本能寺の変の直後に、安土城主郭部に火を放ったとされているわけですから、やはり彼は、信長の天主の中で何かを見ていたのかもしれません。

(※なにしろ、前回の記事のごとく、もしも六重目がアマテラスとスサノオにちなんだ階だとすれば、その上の七重目は、これはもう「天地開闢(かいびゃく)」か何かの、この世の始まりを示した階か、それとも全く別の角度からのアプローチによる階だったのか…)


いずれにしましても、岐阜城の方の最上階は想像で語るしかない、となりますと、残る有効な手立ては「逆算」ということにならざるをえないでしょう。



当サイト仮説の安土城天主の六重目・七重目(最上階)


ご覧の金づくしの七重目は、松岡利郎先生の復元模型(→関連記事)に勇気をいただいてイラスト化したものですが、思えば何故、天主(立体的御殿)の最上階だけ金でおおわれたのか? その目的や由来は? という、当たり前のようで誰も真剣に問うたことの無い疑問に、こうなるとブチ当たらざるをえないようです。

そういう中で想起されるのは、かつて宮上茂隆先生が指摘された、かの「金閣」の本来の姿でしょう。


宮上先生の考察による本来の金閣(『週刊 朝日百科』日本の歴史1986年より引用)


同じ宮上先生の著書『金閣寺・銀閣寺』1992年によれば、応永4年の創建時から昭和25年の有名な放火焼失事件まで、金閣の二階は、内外ともに黒漆塗りの状態がずっと続いたのであり、総金箔張りは常に三階の最上階だけであったはず、としています。


しかし現実には、事件後の再建のおりに、寺外に流出して花生けに加工された一木片が金箔張りのような色をしていたことを根拠として(!!…)、それは二階の隅木の古材であり、かつては二階も金箔張りであったと村田治郎博士らが考証して、そんな“過去の姿”を取りもどす名目で現状のように再建されました。

ですから、その再建方法に異論を唱えた宮上先生の指摘どおりならば、金閣もまた、本来は <金でおおわれたのは最上階だけ> であったことになります。


左写真:再建された現状の金閣                  



中国大陸の各地にある「金頂」

道教の総本山・武当山の金頂の金殿 / 峨眉山の金頂の金殿(近年の修築)


雲南省・鶏足山の金頂寺(近年の修築) / チベットのトゥルナン寺の金頂


そこで、ここでちょっと視点を変えまして、中国大陸の各地には、道教の山岳寺院を中心として、山頂の小堂だけを金でおおった銅製の建物(具体的には真武大帝の廟や観音堂など)にした「金頂」が、様々に設けられて来ました。


「金頂」というのは、厳密には山頂にある特定の場所を示す言葉のようで、本来は金色の建物や屋根だけを示す言葉ではなかったみたいですが、現実の漢字世界では例えばエルサレムの岩のドームなども「金頂」と言ってしまっていて、厳格ではありません。

またご覧の写真のうち、右下のトゥルナン寺は山頂に位置しているわけではありませんが、チベットのラサ(海抜は富士山頂とほぼ同じ)という立地を考慮すれば、どれも“極めて高い場所”であるのは間違いのないところです。


そして今回の記事の注目ポイントとしては、そうした山岳寺院の中で「金頂」が設けられた最高峰の山は、どれも「天柱峰」と呼ばれていることでしょう。


天柱峰の「天柱」には「この世を支える道義」という意味があるそうです。

ということは、言い直しますと、山岳寺院の中心に「この世」や「天」を支える「道義」のごとき「柱」である最高峰がそびえていて、その頂点に「金頂」が輝いていた、という関係になるわけです。


「金頂」と「天柱峰」はセットのような関係か…(写真は武当山の場合)


!! これはお気付きのとおり、我々の「天守」という名称とも、一脈、通じているかのような現象であって、たいへんに興味深いことだと感じます。


冒頭の文章の木戸先生によれば、我が国で当初「殿主」「殿守」「天主」と様々に表記されていた「てんしゅ」が、「天守」という表記に統一されたのは豊臣政権の時だそうです。

ですから、日本国内の再統一を成し遂げた豊臣政権にとって、「天守」という表記が、もしも天柱峰と金頂の関係にヒントを得たものだったとするなら、それは取りも直さず、豊臣政権の安泰と永続性をねがう意図が込められた表記であったのでしょう。


天柱峰と、金頂と、我々の「天守」と…

このような関係に注目して想像力を働かせますと、その結果、どうしても申し上げておくべき核心部分の仮説に行き当たりまして、それはすなわち…

<織田信長が構想した天主(立体的御殿)は基本的に最頂部を金でおおうものであった>

ということです。!!?…


ふりかえって前述の「金閣」ですが、本来、金でおおわれたのは最上階だけ、という宮上先生の指摘に寄り添えば、放火事件後の再建された姿は一見、華やかで印象がいいようでいて、その実、「なぜ金で階をおおうのか?」という、そもそもの「意味」を解らなくしてしまったのではないか… その姿を見続ける現代人に、今後どれほどの(悪)影響を残すのだろうか… という思いもしてまいります。

そこで、そんな状況に一矢を報いるため、今回の記事の最後には、こんな想像を付け加えてみても構わないのではないでしょうか。



小牧山城や、岐阜城の山頂天守も、最上階はすでに金色に輝いていたはずである

何故なら、それが信長の「立体的御殿」の構想なのだから…


(次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年07月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!六重目(五階)の「千本の矢」…スサノオを天で待ち受ける軍装のアマテラス





六重目(五階)の「千本の矢」…スサノオを天で待ち受ける軍装のアマテラス


岐阜城の山頂天守の一階(五階/六重目?)はどんな階だったのか


(『完訳フロイス日本史』より)

上の城に登ると、入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいたでありましょうか
(中略)
私たちが到着しますと、信長はただちに私たちを呼ばせ、私たち、ロレンソ修道士と私は中に入りました
彼は次男に茶を持参するように命じました。彼は私に最初の茶碗をとらせ、彼は二番目のをとり、第三のを修道士に与えさせました。
同所の前廊から彼は私たちに美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で、山と城から展望することができました。
この前廊に面し内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました。



岐阜城の山頂付近から眺めた南の濃尾平野(地平線の高層ビルが名古屋駅前)


上記の訳文は、山頂天守の一階、すなわち織田信長が岐阜城に設けた「立体的御殿」の五階についての描写と思われますが、まず「上の城」の中でも「最初の三つの広間」と、山頂天守とは、別の建物であった可能性があるのでしょう。

そしてフロイスとロレンソが呼ばれて「中に入り」茶を飲んだ座敷?があって、「同所の前廊から」南の濃尾平野が見渡せ、しかも二人がそれまで通らなかった奥の「内部に」「きわめて豪華な部屋」があったと書かれています。

したがって、おそらく二人は、山頂天守の付櫓から入ってそこで茶を飲んだのであり、付櫓は南側に高欄が走っていて濃尾平野を見渡せたのでしょうし、「内部」というのが西の城下側、つまり天守そのものの一階=立体的御殿の五階(六重目)だったのではないでしょうか。

で、今回申し上げたい話題の中心は「千本の矢」でして、訳文の中で金屏風の豪華な部屋に置いてあったという「千本あるいはそれ以上の矢」に焦点を当てますと、そこから驚くほど色々な連想が出来るのです。




まず「千本の矢」というのは防御用の実用の弓矢ではなく、神前に供えた「千入(ちのり)の靫(ゆぎ)」ではなかったかと思うのですが、どうでしょう。

もしそうだとしますと、ダイナミックな岐阜城の「立体的御殿」の五階にふさわしい仕立てであり、すなわち天(高天原/タカマガハラ)のアマテラス(天照大御神)が「背には千入の靫を負い、脇にも五百入の靭をつけ」て、眼下のスサノオ(須佐之男命)に対して何故あがってきたかと雄々しく叫んだ、という『古事記』のスサノオ伝説を想起させるからです。

ちょっと唐突に聞えるかもしれませんが、岐阜城の山頂というロケーションと、後ほど申し上げる様々な関連性から、そう思えてならないのです。



(下左:「須佐之男命」津島神社の看板より / 下右:「武装した天照大御神像」東逸子画)


【ご参考】靫型埴輪(東北歴史博物館ホームページのアーカイブスより引用)

古代の靫(ゆぎ)は矢尻を上にして背負うための入れ物/埴輪の上4分の3がそれ



古代の靫(ゆぎ)は、信長の時代にはとっくに存在しなかったでしょうから、おそらくは千本の矢と、五百本の矢を、それぞれ神前(天照大御神)に供えるような形にしてあったものと想像しているわけでして、ここではまず『古事記』のスサノオの昇天伝説をザザザッとご紹介しますと…


(※以下の口語訳は「月刊 京都史跡散策会」様の第23号「冥府の神、荒ぶる神、須佐之男命」のほぼ丸写しであることを、何とぞ、何とぞお許し下さい)

黄泉国から逃げ帰った伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、私はなんともいやな穢(けが)れた国へ行っていたものだ、ここはなんとしても、この身の禊(みそぎ)をしなければなるまい、として筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いをした際、左の目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミカミ)が生まれ、右の目を洗ったときに月読命(ツクヨミノミコト)が生まれ、鼻を洗ったときに生まれた神が建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)でした。
伊邪那岐命は三貴子(みはしらのうずのこ)を得たと歓喜して、天照大御神には「高天原を治めなさい」と、次に月読命には「夜の食国オスクニを治めなさい」と、建速須佐之男命には「海原を治めなさい」と統治を分担させました。

ところが須佐之男命は委任された国を治めず、髭が胸前に垂れるまでの大人になっても、啼きわめいているばかりです。
その様子は青々と茂る山を泣き枯らし、河海まで泣き乾らしてしまいました。そこから邪悪な神の声が、五月の蠅さながらに満ちあふれ、万物はいっせいに災いに見舞われました。
伊邪那岐命は須佐之男命に、「どうしてお前は任された国を治めずに泣き喚いているのか」と糾(ただ)すと、「私は亡き母の国、根の堅洲国カタスクニに行きたいと思って泣くのです」と。伊邪那岐命は大いに怒って、「ならばお前はこの国には住んではならない」と須佐之男命を天上界から追放してしまいます。

追い払われた須佐之男命が天照大御神に暇乞いをしようと天に上るとき、山川ことごとく鳴動して国土が揺れ動きました。
この有様に天照大御神は驚いて、須佐之男命には善心がなく国を奪おうとしていると思い込んで、男性のように髪を美豆羅ミズラに結い、千入りの靭(ゆぎ)を背負い、脇にも五百入の靭をつけ、雄々しく叫んで「なぜ上がってきたのか」と問いただしました。

すると須佐之男命は、「邪きたなき心なく、妣母の国に行きたくて泣いていたところ追放された」と事情を説明しますが、天照大御神は、清廉潔白の証を求めます。いったい須佐之男命の言い分が真実かどうかを確かめるべく宇気比ウケイ(誓約)の方法をとりました。「自分の心が清明であることを証明するために、双方で子供を作りましょう」と答えました。
その結果は、天照大御神が須佐之男命の剣をもとに3女神を得、須佐之男命が天照大御神の珠によって5男神を得ました。5男3女神の誕生により、清き心が証明されました。

しかし、須佐之男命は宇気比(誓約)に勝ったおごりから、天照大御神の営田みつくだの畦(あぜ)を壊し、溝を埋め、稲の初穂(大嘗)を召し上がる神殿を糞尿で汚します。
しかし、天照大御神は、咎(とが)めようとするどころか、逆に弁護しています。「糞のようなのは私の弟が酔って吐き散らしたもの、田を壊し溝を埋めたのは私の弟が地面が惜しいとしてやったこと」と言葉でつくろいますが、そのとりなしにも反省せず、なおも悪しき行動は止むことがありません。

さらに天照大御神が機織り屋で神に供える衣服を織っていたところの天井に穴を開け 逆剥ぎにした天斑馬アメノフチコマを投げ込んで、天衣織女アメノミソオリメは仰天して機(はた)の杼(ひ)で ほとを突いて死にいたらしめました。
須佐之男命の所業は、高天原の神聖への侵犯・冒涜であるので、おそれをなした天照大御神は、ついに大磐屋の戸を閉じて、中に籠ってしまいます。


(以下はよく知られた天岩戸の話が続く)


このように、亡き母の国に行きたいとグレていたスサノオが、登って行った先の天(アマテラスの高天原)が、岐阜の山頂天守に見立てられていた!! とするならば、信長の想像力には本当に舌を巻かざるをえません。

何故なら、織田家と縁の深かった津島神社の祭神がスサノオ「建速須佐之男命」なのですから、ひょっとして信長は岐阜築城にあたり、自らをスサノオに見立てていたのではあるまいか… などという壮大な話にもなって来るのです。

スサノオとは、子孫の大国主之神による国譲りや、その後の天皇の神器の誕生に関わったこと(ヤマタノオロチの退治)で“キングメーカーの象徴”とも解釈される存在だと言われています。






津島神社の祭文殿にかかる社紋「木瓜紋」
(※ご覧の写真はサイト「それでも明日はくる」様からの引用です)


このうえさらに、伝説の舞台が「高天原」(たかまがはら)だという点で申しますと、当ブログで再三再四、引用させていただいた『朝日百科』の、安土城天主の襖絵の画題には「日本神話がない」という重要な指摘にも、新たな要素がからんで来ることになるでしょう。


大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』1995年


(同書より)

B「日本における権力中枢のイメージ環境の歴史を振り返ってみると、意外にもというか、案の定というべきか、安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないかという気がしてくる」
A「確かに、安土城最上層の、三皇五帝をはじめとする、神話時代の聖天子や、孔子および孔門十哲の図など、ぼくのいうチャイニーズ・ロアの図像は、内裏の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)にそのままつながるものを持っている」

(中略)
B「それにしても、内裏のイメージ環境については、これまで問われるべくして問われたことのない、重大な問題が一つある。日本の政治中枢でありながら、なぜ日本の神話が描かれなかったのかということ」
(中略)
B「世の始まりは、アマテラスではなく、三皇五帝であるということよね」


このところ当ブログでは <銀閣−岐阜の四階建て楼閣−安土城天主> という連関を軸にして、信長が構想した「立体的御殿」の成り立ちを追っていますが、最終形態の安土城天主の構想(画題)に日本神話が欠落しているのは、内裏にならっただけと考えればそうでしょうが、やはりちょっと解(げ)せません。

そこで今回申し上げたように、岐阜城の山頂天守の「千本の矢」こそ、その謎を解くカギであったのかもしれず、「立体的御殿」の六重目(五階)は、岐阜城の段階までは、まさに日本神話の階(スサノオの昇天の階)であったと申し上げることが出来るのかもしれません。





軍装の大天使ミカエル(聖ミカエル)


さて、5年前の当ブログ記事で、安土城天主の外壁には、銅版包みの柱に「ばてれんの絵」が彫刻されていた可能性がある、という櫻井成廣先生の指摘をご紹介しました。

この「ばてれんの絵」とは何か?と考えた場合、まさか宣教師や聖人・聖母子像などではないでしょうし、安土山頂の天主に刻むキリスト教のモチーフとして最もふさわしいのは「大天使ミカエル(日本の守護聖人)」ではなかったか、と申し上げました。

これなども今回の話題で「軍装のアマテラス」が岐阜城の段階で登場していたとしますと、それに大いに触発された結果とも考えられ、それもこれも、信長がめざした「天下布武」の理論武装の一環として、「立体的御殿」の成り立ちに深く関わった神々なのだと言えそうです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年06月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!再吟味!「五重め(四階) 御絵ハなし」の実相





再吟味!「五重め(四階) 御絵ハなし」の実相


銀閣の二階「潮音閣」(ちょうおんかく)は、観音像を囲む壁が一面の漆黒!

これを例えば「御絵ハなし」と伝えても、不都合は無いはず!?…




ならば織田信長の「立体的御殿」の四階はいかに…


このところ、岐阜城に四階建ての楼閣があったとする当サイトの仮説を前提にしまして、信長の「立体的御殿」(萌芽期の天守)の発想のあり方を色々と申し上げてまいりました。

で、いよいよ最上階の四階はどうなのだ? となりますと、これがチョット不思議なことに(皆様よくご承知でしょうが)大した記述が無いのです。…!!


(フロイス『日本史』柳谷武夫訳より)

山と同じ高さの三階には、いくつかの茶室がある一つの回廊があります。茶室はことさらに選ばれた閑静な所で、何の物音も聞えず、人のさまたげもなく、静粛優雅です。三階と四階とからは町全体が見渡されます。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第三階及び第四階の望台及び縁より町を望見すべく、高貴なる武士及び重立ちたる人々は皆新に其家を建築したれば、宮殿を去って甚だ長き街に出づれば王の宮廷に仕ふる者以外の人の家なし。


つまり四階については、外の眺望に関する記録しか無く、四階の内部がどうなっていたかは一切、記述が無いわけでして、せっかく「立体的御殿」を重ねた上の最上階であるのに、こういう状況というのは、私なんぞには、逆に気がかりで仕方がありません。

四階内部は本当に何も記すべきことが無かったのか… いや、そもそも「無い」とはどういう部屋の状態なのか… とりわけ記録者が宣教師という特殊事情を踏まえれば、と考えた時、ふと思い当たるのが冒頭の写真です。




この銀閣の二階(潮音閣)は、実際に現場をご覧になった方の言葉を借りれば「室内を見た時の衝撃・感動が忘れられない」「漆黒の世界に、障子越しの淡い光を、にぶく金色に放つ仏像。足利義政の心をみたり」(建築家・西方里見様のブログ「家づくり西方設計」より)という感じだそうで、かなり異様な真っ黒い空間が、逆に日本人の心をつかむのかもしれません。

ちなみに、足利将軍・義政が自ら命名したという「潮音閣」は、観音像を安置した禅宗様の仏堂であり、義政の造営のときから壁は黒漆塗りであったことが判っています。


そこで、もし、フロイスらが何も記録しなかった四階とは、こういう状態のことだった、と仮定した場合、話はまるで別の方向に大きく展開せざるをえないでしょう。


と申しますのは、かの金閣の二階もまた、ご承知のとおり「潮音洞」(ちょうおんどう)と呼ばれる和様の仏堂であり、しかも内壁は同じ黒漆塗りであるため、この両者に共通した「潮音」(ちょうおん)という名称はいったい何から来たものなのか、たいへん気になるところで…

1 海の波の音。潮声。海潮音。

2 仏・菩薩(ぼさつ)の広大な慈悲を大海の波音にたとえていう語。海潮音。


などと辞書には書かれていて、したがって四階は「何も無い」どころか、宗教的な背景をもつ、一つの世界観を与えられた階であった可能性が浮上して来るからです。




ひるがえって、これまで安土城天主の五重目(四階)は単なる「屋根裏階」とも…


(岡山大学蔵『信長記』より)

五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也



(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

こうしてみると天主じたいが後の本丸御殿に見られる書院の部屋の数々を階上に配列を変えて作られたものであることがわかるであろう。なぜ信長は、平面ではなく塔にしたのか。問題は各階各部屋の画題である。
(中略)
五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。


さて、木戸先生の貴重な「無」発言を見ましても、安土城天主については『信長公記』類の「安土山御天主之次第」に各階各部屋の襖絵の画題が一々記録されているため、五重目だけが「御絵ハなし」とあっさり書かれていると、さも(評価に値しない)取るに足らない階であったかのような錯覚に、我々はいつの間にか、陥っていたのではないでしょうか。


かく申し上げる当ブログも、過去の記事(暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か)では、五重目が静嘉堂文庫蔵『天守指図』によると、ほぼ真っ暗闇になることから、それは暗闇の上方の最上階の「光」を際立たせる演出ではなかったか、などと申し上げるのが精一杯でした。


しかし今回、岐阜城の状況を踏まえて <銀閣−四階建て楼閣−安土城天主> という連関を想定してみますと、天主五重目は建物の構造として屋根裏であったとしても、ただの素朴な屋根裏階ではなくて、れっきとした性格(世界観)を与えられた階であったのかもしれません。

すなわち、一面の漆黒の階は、天下布武のあかつきの安寧(あんねい)と静謐(せいひつ)の受け皿となるべき、広大な空間の広がり(=制圧と版図)を表現していたようにも感じるのですが、いかがでしょうか。


天主(立体的御殿)の四階は、言わば潮音の階?


ということは、信長が岐阜城の段階で仕掛けた「立体的御殿」の全体構想とは…


この際、さらに申し上げておきますと、この前後の織豊政権のありようを思えば、天下布武の構想には「海の波音」が重低音のように低く鳴っていたのかもしれず、信長の「天下」観念のなかに「大海」がしっかりと組み込まれていた節も感じられて、改めて刮目(かつもく)する思いがするのです。






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2014年06月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ならば立体的御殿の三階は「茶の湯御政道」の本拠地か





ならば立体的御殿の三階は「茶の湯御政道」の本拠地か


当サイトが考える岐阜城の四階建て楼閣

二階が「王妃」の階(御上方)ならば、三階は茶の湯の階??



(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第三階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり、其巧妙完備せることは少くとも予が能力を以て之を述ぶること能はず、又之を過賞すること能はず。予は嘗て此の如き物を観たることなし。


安土城天主も二階(三重目)が実は「御台の対面所」であったなら、

三階(四重目)は「茶の湯御政道」の階だったのでは…



前回、織田信長の「立体的御殿」をめぐる発想の仕方に話題が及んだわけですが、その二階が実は「御上方」の御殿を意識していたとしますと、三階は上の二つの図のように茶の湯… 信長の有名な「茶の湯御政道」の本拠地、とでも言うべき空間(ある種の聖域)に発展していたのかもしれません。

仮にそうだとしますと、「茶の湯」は信長軍団の支配原理に関わる重要な存在でもあったわけですから、安土城天主の七重は、下層階が蔵や政庁、御上方といった実生活に使うエリアだったのに対し、四重目から上が早くも政治的モニュメントの色合いを濃くするという、みごとなグラデーションが出来上がることになります。


金閣・銀閣などの各階構成にもつながるグラデーション


しかし私なんぞは、どうも、羽柴秀吉や丹羽長秀ら信長の家臣たちが、何故あそこまで信長下げ渡しの名物茶器を有り難がったのか、感覚的に解らない部分があるのですが、もし現代風に、ゴッホの絵が一枚何十億円という中で、信長の「名物狩り」のごとく、世界中のゴッホの絵を収奪・管理したうえで、一枚ずつ、家臣に恩賞として渡したというのなら、解らないでもないでしょう。

という理解のレベルで申しますと、仮に三階が「茶の湯御政道」の階だとしても、それは必ずしも信長自身が茶の湯三昧にひたる場所ではなく、ただ“名物茶器が集中的に納めてある階”というだけでもいいのかもしれません。

とすれば、私なんぞの一番の関心事は、二階の「御上方」にしても、それらは本当に実用(=実際に奥方らの専用)を第一目的として作られた階だったのか、という観点なのです。


と申しますのも、以前、当ブログでは <安土城天主の障壁画は見栄えよりも「文字化伝達」が最大の目的だったのでは> などと申し上げたり、<天主内部は薄暗さ・明るさが階によってバラバラだったのでは> とも申し上げたりしていて、岐阜城の四階建て楼閣ならまだしも、安土城天主の場合、二階(三重目)は「御上方」の実用にはちょっと不向きな面もあったように感じるからです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』三重目の内部はかなり暗そう

逆に四重目の内部はかなり明るかったのかもしれない



大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』1995年


(同書より)

(安土城天主は)何といっても、上下七階に襖絵を配するという、ほとんど空前絶後といっていいプロジェクトであったことが、まず問題になる。
外観の壮大なスペクタクルが人の眼を奪ったであろうけれども、内部の各層に描かれていた襖絵が、またそれ自体で、さまざまなメッセージを階層的に組み立てた、一個のスペクタクルになっていたにちがいない。



といった見方を踏まえますと、結局、二階に「御上方」を配したのも、真のねらいは、あくまでも奥向きの御殿群を縦に重ねた「立体的御殿」、という建築構想の“身の証(あかし)”にあったのではないでしょうか。…

つまり個々の階に性格づけがなされていても、それぞれの階の実用性よりも、何故そういう風に積み重ねたのか?という、全体のメッセージの組み立ての方が、優先していたように感じられてならないのです。

そしてその立案者の信長にとっては、言わば“天主の情報管理”(天守とは何かという伝達情報のチェック)が、世間や家臣団の評価がそれで左右されかねないだけに、けっこうシビアであったはずだと思うのです。




<余談 / 駿府城天守の『当代記』の記録に、最上階の4間×5間の
 
 情報が無い(伏せてある?)のも、天守の情報管理の影響か…>





さて、そういう話題に関わる「余談」としまして、現在、まだまだリポートの制作途上ではありますが、駿府城天守の記録に関しても、申し上げたような“情報管理”の影を感じております。

と申しますのも、下記の重要なくだりに、最上階「物見之段」の4間×5間という規模の情報が欠けている点が、やや気になるのです。


(『当代記』此殿守模様之事)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落 椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
            懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
          懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
          懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
     破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
     鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金
  


この件については、諸書の解説などで『慶長政事録』の方に「七重目 四間に五間 物見の殿という」と書かれていて、こちらの記録で最上階の規模はちゃんと分かるのだとされています。

でも私なんぞは長いこと、『当代記』にそれが無いのは何か意味があるのでは? という勘ぐりを捨て切れませんで、悶々として来たのですが、その背景には…


最上階は伝統的な「三間四方」が当然、となれば、こういう考え方も無くはない


これは天守最上階の物見之段が「三間四方」であるのは“言わなくても判るはずだ”という姿勢を『当代記』がとっていた場合、ありうるケースだという気がして、私の悩みのタネになって来たものです。

ご覧のように六重目を完全な屋根裏階として大屋根をかけ、その上に三間四方の小さな望楼をあげれば、全体では立派に「五重七階建て」で考えることが出来ます。


そして何故「4間×5間」だけ欠けているのか、もう一つの原因として考えられる候補が、申し上げた「天守の情報管理」の影響ではなかったでしょうか。


すなわち <大御所の天守の最上階が、伝統的な三間四方=九間(ここのま)ではない> ということに、記録者がある種の“引け目”を感じてしまい、そのため4間×5間の『当代記』への記述をはばかり、遠慮してしまった、という可能性もあったのではないか… と申し上げてみたいのです。


ですが実際のところは、以前の記事で申し上げた「小さなコロンブスの卵」に気づいてからは、私もやはり最上階は「4間×5間」で正しかったのだと得心できましたし、制作中のリポートやビジュアルもこれに沿っています。


小さなコロンブスの卵


かくして、天守が「天守」として(立体的御殿が「立体的御殿」として)見られるための“身の証”には、思いのほか、当時の人々は慎重だったように感じるのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年05月25日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!立体的御殿における「御上」(おうえ)の存在感





立体的御殿における「御上」(おうえ)の存在感

【お知らせ】

完成がとてつもなく遅れています2013年度リポート(最後の「立体的御殿」駿府城天守 〜朱柱と漆黒の御殿空間をビジュアル化する〜)は依然として難工事を続行中です。
この際、全体の体裁を2013−14年度リポートとしまして、この夏頃には是非ともお目にかけたいと決意しております。



ということで、今回の記事は「立体的御殿」の話題に戻って、『匠明』当代屋敷の図などに見られる「御上」の御殿が、萌芽期の天守(立体的御殿)において、かなり大きな存在感を持っていたのでは… というお話を申し上げてみたいと思います。


※ご参考 『岩波 古語辞典』より

おうへ【御上】
1 畳の上。座敷。また、居間あるいは客間
2 良家の主婦の敬称。「いかなれば−にはかくあぢなき御顔のみにて候ふぞや」<是楽物語>

※『三省堂 大辞林』より

おうへさま【御上様】
主人や目上の人の妻の敬称。おえさま。おいえさま。おうえ




発掘された滝の庭園が話題の、岐阜城・千畳敷(NHK番組の一コマより)

(※この画像はサイト「手づくりアイスの店 マルコポーロ」様からの引用です)


さて、当サイトは織田信長の岐阜城の千畳敷に関して、「全体がいわゆる山里ではないのか」「別の場所に四階建ての楼閣があったはず」等々と、発掘調査関係者の方々の神経を逆なでするようなことばかり申し上げて来ましたが、いま話題の“二本の滝の庭園”はさすがに、一日も早く現地で拝見したいという願望をかき立てられております。


一方、発掘調査のホームページや上記の番組CG等を見るかぎり、この20年近く可能性が強調されて来た「階段状居館説」はずいぶんとトーンダウンして来たようです。

すなわち、階段状に建物が接続した「増築を重ねた温泉宿のような構造」ではなくて、言わば「階段状」の曲輪群にそれぞれ配置された複数の建物、といった解釈に落ち着いたように見受けられます。

ですが、それでもまだ、私なんぞの疑問としては、例えば松田毅一『完訳フロイス日本史』の訳文では「予の邸」は「大きい広間」とは別の建物であって、その第一階に「約二十の部屋」があり、その「前廊の外に」「四つ五つの庭園」が位置していて「三、四階の前廊からは全市を展望」できたというのですから、上記のCGでも、まだまだ苦しい解釈だと思えてなりません。

(※またご承知のとおり、それ相応の礎石類は未発見のままですし…)




発掘調査地とは別の場所にあったと考える、当サイトの「四階建て楼閣」説

『耶蘇会士日本通信』の訳文を当てはめれば日本史上最大の楼閣に…



これは4年前の記事でご覧いただいた図に若干の加筆を行ったもので、何べんも申し上げて恐縮ですが、やはり山麓の「宮殿」(「予の邸」)は四階建て楼閣であり、足利義政造営の「銀閣」とまったく同じように、現在の岐阜公園の平地部分(昔御殿跡)において山側を向いて! 建っていたと考えた図です。


これを何故またご覧いただくのか(こだわるのか)と申せば、この楼閣こそ、「立体的御殿」の進化にとって、かの小牧山城の大発見と並ぶほどの、重要で欠くべからざるマイルストーン(一里塚/節目)だと感じるからです。

それは図のごとき「地階」があったなら、実質的に五重規模の史上最大の楼閣となりますし、また各階にそれぞれ性格を持たせていた節があるなど、まさに「立体的御殿」のプロトタイプと申し上げて良いのではないでしょうか。

そうした観点から、とりわけ留意すべきは二階の描写だと思われ…



(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』より)

二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。



一階よりも美麗な二階には「王妃」=正室の濃姫(帰蝶)??の休憩室が…


ご覧の四階建て楼閣は、基本的には、建物の主目的が「銀閣」と同様の“月見のための楼閣”だったと考えるべきでしょうから、そこに「休憩室」という訳語が出て来てもなんら不思議は無いはずで、その最も美麗に仕立てられた二階は「王妃」の階だったというのです。


これは特筆すべき事柄だと思われまして、何故なら、その後の安土城天主でも、各階の障壁画の画題等は詳しく判っていても、ここまではっきりと「誰」のための階(部屋)と書かれた記録は他に無いわけで、信長の「立体的御殿」に対する発想を知るうえで、たいへんに貴重な証言だと言えるのではないでしょうか。

で、そうした発想は突然、信長の発意だけで生じたものかと言えば、そうでもないらしい… という点が、今回、強調させていただきたいポイントなのです。



『匠明』当代屋敷の図では、北西のいちばん奥に描かれた「御上方」

(その右下には「局」「台所」、左下には「御寝間」が描かれている)



皆様ご存じの平内政信の『匠明』は慶長年間の成立ですから、ご覧の図は織田信長よりやや時代が下るものの、ここにある「御上方」の御殿の位置は、どう見ても「天守」のあるべき位置と同じ?であるように見えて仕方がありません。例えば…


 左:聚楽第図屏風   右:洛中洛外図の二条城(慶長度天守か)

ともに本丸の東南に大手門、北西の奥に「天守」を配置したらしい



このように聚楽第や徳川家康の二条城、駿府城など、本丸御殿の敷地が四角い近世城郭と比べた場合、「天守」と「御上方」はほぼ同じ位置にあったと言えそうでして、これがさきほど申し上げた信長の「立体的御殿」の発想ともピタリと合致しそうで、ずっと気になって来た事柄なのです。

とりわけ気になるのが、従来、安土城天主の各階の「解釈」をめぐっては、諸先生方の間でいくつか相違があったものの、おおむね天主台上の「二階」については「対面所」という解釈で一致して来たのに、それが実は「王妃」の階=すなわち江戸城にもあった御台様の大奥対面所の先例だった… などという話は、諸書ではまったく見かけたことがありません。




ですが、ですが、今回お話し申し上げているように、信長の「立体的御殿」の進化のプロセスを推定する上では、<二階は「王妃」の階>であり、<二階の対面所は大奥対面所の先例だった> という見方は、けっこう理にかなった配置手法であると思えて来るのが、なんとも興味深いのです。


いずれにしても、ここでいちばん大事なことは、岐阜城千畳敷の場合、もはや小牧山城の山頂のようなスペース的な制約はまったく無かったわけで、それでもなお、信長が「立体的御殿」に執着したことが、次の安土城での天主誕生!! につながったのだという見立てが、当サイトの筋立ての屋台骨になっているわけなのです。



今回の話からの推論) 銀閣や金閣にもあった空中の橋廊下、史上最大の四階建て楼閣の場合は?


それは話題の滝の庭園へ…??







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月30日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方





階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方


雁行する二条城の二ノ丸御殿

内部の廊下も鉤(かぎ)折れしながら進む

(※この写真はサイト『紙ヤンの写真メモ』様からの引用です)


これは釈迦に説法と思いますが、ご覧のとおり、雁行した「書院造」建築のなかを歩く場合は、各建物の周縁部をめぐる廊下をつたって、奥へ、奥へと鉤折れしながら進むことになります。

そうすることで、それぞれに役割の異なる建物を、例えば遠侍→式台→大広間→黒書院→白書院という風に、公的な表向きの格式空間から、私的で内向きの日常的空間へと順々に入っていくことが出来ます。


二ノ丸御殿の平面図(抜粋)


これが雁行する御殿のメリットだと言われますが、ただ奥の深部へ入っていくだけなら「縦列構造」でもいいわけでして、そうではない「雁行」ならではのメリットが、書院造の「鉤(かぎ)座敷」との関係だそうです。




(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)

このL字形あるいはコの字形に屈折した座敷配列は、鉤の手に折れた部屋ないしは鉤の手につながっている部屋という意味で「鉤座敷」と呼ばれる。
(中略)
左奥に上段の間である「一の間」があって、そこから「二の間」、「三の間」、さらに「四の間」と続いて、部屋が左回りにまわっている。
これを逆にたどれば、「四の間」の下段の間から始まって、左奥にある上段の間へと右回りに段々と部屋の格式や奥行性が高まっていくことになる。

この部屋の折れ曲るつながり方は、右手前から始まって左奥へと、段階的に格式や奥行性を高めて、各棟がつながっている建物全体の雁行形のつながり方と相似である。




鉤座敷の作法と、雁行(御殿のつながり方)には密接な関係があった


ということだそうで、ご覧の二条城と、織田信長の「立体的御殿(天守)」との間には若干の時期差があるものの、(※またその時期には鉤座敷の成立が厳密にいつだったかという不確定要因もあるものの)この件はまったく無視するわけにも行かないようです。


と申しますのは、もしも「立体的御殿」で鉤座敷などを上下に重ねることになった場合、いったいどうつなげば当時の作法にかなったのか… つまり「階段」の付け方に、新たな法則を設けなければ、必ずや、とんでもない混乱が起きたことでしょう。

(例えば、招かれた者が不用意に階段を登ったら信長本人の寝間に出てしまった、とか…)


そんな刃傷沙汰になりかねない危険な構造ではダメなわけで、信長主従はきっと <御殿群をどう縦につなぐのか?> という大命題に直面したはずだと思うのです。



【ご参考】かの楼閣「銀閣」の二階の縁に見える階段口 / この異様な登り方は「金閣」もまったく同様

(※この写真はサイト「トリップアドバイザー」様よりの引用です)


【ご参考】まるで対照的な弘前城天守の階段 / 二階から三階へは建物空間の真ん中近くを占拠している


→ 江戸後期の再建で、とっくの昔に「立体的御殿」ではなくなっていた結果か…




さて、信長の「立体的御殿」は、階段の位置をさぐる手がかりも(※静嘉堂文庫の『天守指図』以外は…)まったく現存していないため、その他の天守の状態から、あれこれと逆算してみるしかありません。

そう考えた場合に、私なんぞがたいへん気になっているのは、天守内部に二系統の階段群を併用していた例です。

何故なら、そこにはちょっと意外な現象が見られるからです。


二系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか?


左の岡山城天守は付櫓(塩蔵)から入る形でしたので、まずは「手前の階段群」を登り、続いて天守本体を登る「奥の階段群」に向かうというのは、言わば順当なスタイルと申せましょう。

しかし意外なのは名古屋城天守でして、ご覧のとおり「手前の階段群」が建物の中央付近にあったにも関わらず、何故かそれらは三階までしか続いておらず、逆に、最上階まで達していたのは(地階の奥隅の井戸周辺に始まる)「奥の階段群」だったのです。!!

この意外な事実には、これといった特段の理由も思い当たりませんし、やはり何か、過去に消えてしまった手法のなごりではないのか… と思わざるをえません。


結局のところ、「手前(表)の階段」と「奥の階段」という二系統の階段群をもつことが、かつての天守(立体的御殿?)にとって有意義な形式であり、しかも「奥の階段」を使わなければ最深部(=最上階)には到達できない、といった決め事があったのではないでしょうか。


【模式図】「立体的御殿」は階段にも「表」と「奥」があったのか


これならば、不測の鉢合わせも起こらずに済みそう…


乏しい事例をもとに、これ以上、アレコレ申し上げるのは不謹慎でしょうが、こうした仮定の延長線上においては、例えばこんなことも付言できるのかもしれません。



【最後の付言】「階段室」は両刃の剣(もろはのつるぎ)だったのでは??

表紙に描かれた宮上茂隆案と佐藤大規案 / ともに「階段室」を採用した復元


宮上案の天主台上の一階 / 階段室があまりに便利すぎて…


ご覧のように宮上先生も鉤座敷を想定しておられたわけですが、同時に「階段室」を採用していたため、その効果がちょっと効きすぎると申しますか、天主に入った訪問者は、約50歩で信長本人の寝間にも到達できてしまうのです。

その後の大洲城天守など江戸初期の天守ならまだしも、黎明期の天守「立体的御殿」にとって、「階段室」は両刃の剣ではなかったかと、やや心配になるのですが。

(次回に続く)






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2013年08月18日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!戦国ショットガン!?「石落し」をめぐる空想中の空想






戦国ショットガン!?「石落し」をめぐる空想中の空想


以前から気になっていた事柄として、果たして弓矢は、上に放つとどのくらいの高さまで殺傷能力があるのか? そしてそれは <櫓や天守の高欄の高さと関係があるのか無いのか?> という関心事があって、いつか究明したいと思っていたのですが、今回はその真逆の、下方向の話題(「石落し」)について、前回記事とのつながりでチョットだけ申し上げたく存じます。


前回記事の作図から / 築城図屏風に描かれた「石落し」

実例:金沢城の石落し(出窓の下面に設けられたもの)


ご覧のような「石落し」については、近年、三浦正幸先生が“下向きの鉄砲狭間なのだ”と力説されて、大方のコンセンサスを得つつあります。


(三浦正幸『城のつくり方図典』2005年より)

石落は、本当は鉄砲を下方に向けて撃つ狭間であった。
石落が真上にないところを登ってくる敵兵に対して、石落から斜めに射撃を加える仕掛けで、一つの石落で左右数十mを守備できた。



……しかし、しかし、この三浦先生の解説文の文言のままですと、その重大な帰結点として、櫓などの「石落し」は、種子島(たねがしま)への鉄砲伝来の以前には存在しなかった(!?)ということにもなるわけでして、本当にそれでいいのか… と、ちょっと不安になったりもします。

と申しますのは、皆様ご承知のとおり、我が国の鉄砲の始まりは天文12年(1543年)の種子島だという「定説」じたいが、怪しくなって来ているからに他なりません。




例えば、三眼銃(靖国神社蔵/写真は所荘吉『図解古銃事典』より引用)

三眼銃発射の図(『神器譜』所載/写真は上記書より引用)


ご覧の古銃は、14〜15世紀に中国で製造された種々雑多な「前装滑腔銃」のうちの一種だそうですが、かの鈴木眞哉(すずき まさや)先生の『鉄砲と日本人』の方では、これと同類の古銃が文正元年(1466年)に京都で使われたことが紹介されています。

そこをやや長文のまま引用させていただきますと…


(鈴木眞哉『鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと』1997年より)

かなり早い時点から手砲の類いなどがわが国に伝来していたことを示唆する材料はいくつかあるし、当時の海外交流の状況などからみても不思議ではない。

文献史料では、文正元年(一四六六)足利将軍を訪れた琉球の官人が退出の際に「鉄放」を放って京の人を驚かせたと、季瓊真蘂(きけいしんずい)という相国寺の坊さんが記している。おそらく礼砲か祝砲の意味で空砲を放ったということだろう。

また太極(たいきょく)という五山派の僧は、応仁の乱の最中の応仁二年(一四六八)に東軍の陣営で「飛砲火槍」を見たと記している。この火槍というのは、手砲の一種ではなかったかと考えられる。

これらの「鉄放」「火槍」については、物的証拠がないということで、これまでは爆竹の類いだろうとか、単なる言葉のアヤにすぎないだろうとか解釈されてきた。

ところがヨーロッパの三銃身手砲、中国でいう三眼銃などに該当する「火矢」四点が沖縄県下に伝世されていることが最近 沖縄県立博物館の當眞嗣一(とうま しいち)氏によって報告された。
これで少なくとも一四六六年に琉球の官人が手砲を携えていてもおかしくないことがほぼ証明された。





このように「火矢」とか「石銃」と呼ばれた手砲(ハンドガン)が、種子島以前の日本でも使われた記録は色々とあるそうで、長年の「定説」が揺らいで来ています。

であるなら当然、城郭の分野においても、そうした動きに呼応する研究があっても良いはずだと思うものの、私のようなマニアの身では到底、太刀打ちできず、何を言っても野犬の遠吠えにしかなりません。

ということで、また遠吠えの一声と知りつつ…




<私なんぞの空想中の空想

 もしも「石落し」が「石火矢(いしびや) 落し」であったなら>





前述の三浦先生の「石落し」解説がもたらす、種子島以前に「石落し」は存在しなかったのか??という問題について、もしも「石落し」が実際には「石火矢 落し」であったのなら、どうなるでしょうか。

つまり「石落し」の穴から落ちて来たのは、拳大の自然石とか熱い油とか糞尿とかのモッサリした物ではなくて、最初から強烈な石弾の撃ち下ろしであり、しかもショットガンのような三眼銃の類が二、三丁まとめて放たれたら!!? という空想に、ずーっと私はとらわれ続けているのです。


ただその場合、世間でよく言われる「石火矢」という言葉は、私はてっきり種子島以前の古銃を一般的に示す用語だと思っていたところ、どうやら厳密には「石を弾丸とする旧式の大砲」という定義なのだそうです。

そうなると先程申し上げた「火矢」「石銃」と「石火矢」とはやや別物になってしまうわけで、この点、ちょっと具合が悪いのですが、こういうダジャレのような連想が私の頭の中にこびりついて離れません。




もちろん「石落し」の実態は文字どおりではなかったとして、さらに三浦先生がおっしゃる以上に、強力な武装としての「石火矢 落し」であったなら、出現の時期の問題とともに、戦闘の様相(想定)も一変し、いっそう緊迫した状況になっていたのではないでしょうか。

まことに勝手な空想ではありますが、石落しが“戦国ショットガン”のごとく機能していたら、戦国の城攻めは、そこだけは殺伐とした近代戦のようであったのかもしれず、またそのために櫓や天守だけが孤立して最後まで残存する、などという局面もあったのかもしれず、なかなか興味が尽きないのです。…





(※追記 / ご存じの方も多いかと思いますが、三眼銃を試射する動画が ブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」様 にあります)



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年06月24日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「居館」という呼称に対する戸惑い… 冷静に見れば、岐阜城千畳敷は「山里丸」ではなかったのか





※この何日間か、「のブログ」がまた閲覧しにくい状態に陥り、ご心配をおかけしましたが、現在、運営会社の方に善処を依頼しているところです。


「居館」という呼称に対する戸惑い… 冷静に見れば、岐阜城千畳敷は「山里丸」ではなかったのか


二重目に高欄を設けた駿府城天守の模型 / 犬山城二重天守の推定復元イラスト


今回は、前回に申し上げた「二重同規模 望楼型」の話題から、このところの宿題であった駿府城天守の二重目の「高欄」問題へと、大きく論点を展開させてみようと思っていたのですが、そんな矢先に、またまた気になる歴史雑誌と出会いました。

それは、せっかくの上質な仕上がりの中で、たった一語だけ、どうしても気になる用語が使われていて、こういう事は機会を逃してしまうと、なかなか言い出しにくいものですので、今回もあえて変則的な記事にさせていただきます。



『週刊 新発見!日本の歴史』創刊号/朝日新聞出版


ご覧の創刊誌は、かの『週刊朝日百科』の流れをくむ本だそうで、それにしてはずいぶんと表紙の雰囲気が違うため、思わず書店でもパスしてしまいそうでしたが、中身を拝見しますと、さすがに神経の行き届いた誌面づくりがされていると感じました。

で、この本においても、最近「金箔飾り瓦」が話題の岐阜城について紹介されていて、その書き出し部分はこうです。


(高橋方紀「考古学コラム 岐阜城を掘る」/前掲書より)

宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、岐阜城の山麓居館の庭を次のように記述している。
「庭(ニワ)と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。



決してこのコラム自体について、どうこう申し上げようというのではなくて、これはもう岐阜城の関係者の方々には慣例化した事柄なのでしょうが、文中の「山麓居館」という呼称(用語)に、私なんぞは、ずっと違和感を感じて来たのです。

と申しますのは、「信長公居館」とか「山麓居館」という呼び方に対して、おそらく一般の方々が受け取るだろうイメージは、そこにあたかも“織田信長と家族が居住していた”かのような誤解を生みかねない、危うい要素をはらんでいると思われたからです。


ご承知のとおり、<信長と家族は金華山山頂の主郭に居住していた> というのが長年の城郭研究の成果であるのに、どこか、我々は、山麓の千畳敷で出土した巨石群の強い印象に惑わされているのではないでしょうか。

それはひょっとすると、信長の思う壺に、現代人までがハマっているのかもしれず、ここは一度、冷静になって見直してみた場合、岐阜城千畳敷(巨石列から奥の曲輪群)は基本的に「山里丸」の、重要人物の接遇用の御殿と庭ではなかったか、と思われて来るのです。

と申しますのも…


防御上の必要性を超えた、“威圧感”を目的とした過大な石積み

A.肥前名護屋城の上山里丸の虎口(慶長期)


B.岐阜城千畳敷で発掘された巨石列



余人には困難な、多大な労力を費やして現出させた数寄の空間

A.肥前名護屋城の上山里丸の青竹ばかりの茶屋(引用:五島昌也復元画)


B.巨石の石組みで護岸した岐阜城千畳敷の渓流

(引用:岐阜城跡 信長公居館発掘調査デジタルアーカイブの掲載写真より)



天守(主郭)のひざ元で、周囲から半ば隔離されて築かれた曲輪の位置

A.肥前名護屋城図屏風(県立名護屋城博物館蔵)の上山里丸


B.金華山ロープウェー駅に展示された杉山祥司画「岐阜城図」


ご覧のうち、一番下の「岐阜城図」は地元の日本画家の方の創作による絵画ですから、このように並列に扱うのは問題があるかもしれませんし、これらはすべて豊臣秀吉の肥前名護屋城との比較だけですので、片手落ちと言われかねない部分もあるのかもしれません。

ただ、写真ABの両者を、全国の城にいくつもあった根小屋式の山麓居館… 例えば私の地元・八王子城の御主殿とか、備中松山城の御根小屋とか、そしてそもそも斉藤氏時代の岐阜城千畳敷!? 等と比べますと、後者はいずれも城主の主たる居館であり政庁でもあった、という点に歴然とした違いがありそうです。

その点、ABの両者は、むしろ「山里丸」としての特徴をしっかりと備えているように思えてならず、それは上記写真の他にも…


1.千畳敷一帯で、池・洲浜・石組みなど数多くの庭園遺構が確認されたこと

2.秀吉ゆかりの城も「上山里」「下山里」とヒナ壇式に山里丸が築かれたこと

3.肥前名護屋城の記録では、山里丸にも華麗な御殿群が造営されたこと

4.肥前名護屋城図屏風にも楼閣風の櫓があり、城下の遠望は重視されたこと





といった点は、ABともに共通し、なおかつ岐阜城を訪問した宣教師の記録とも合致する要素として揃っていて、これらの理由から、岐阜城の千畳敷は、曲輪の分類や用途としては「山里丸」と考えるべきではないのか、と申し上げたかったのです。




<ならば、関係者の期待を集める「階段状居館」説は??>




当ブログの過去の一連の記事をご覧になった方は、私がいまだに四段の「階段状居館」説に納得できず、むしろ岐阜公園(「千畳敷下」)の池の周辺に、将軍・足利義政の別荘・東山殿の「銀閣」にならって、四階建ての楼閣が東向きに建てられたはず、と申し上げて来たことはご存知でしょう。

この点は、話題の「金箔飾り瓦」が確認された中でも、一向に変わることはありませんで、またいつか反論をまとめて記事にしたいと思うのですが、その論点は例えば…


論点1

信長の岐阜城時代のあと、織田家の一門衆や重臣らは、誰一人として、居城に「階段状居館」を建てることは無かったようであるが、これは信長が重臣(柴田勝家ら)にも千畳敷の御殿をほとんど見せなかったことの影響なのか、それとも、彼らの側がまるで無関心だったのか。


論点2

発掘された千畳敷の地形から見て、“増築を重ねた温泉宿のような構造”とされる「階段状居館」では、いちばん下段の建物以外は、どの建物も、すぐ下段側の建物の屋根や接続部分が邪魔になって、その向こうにある城下町を、十分に見渡せる状態にならなかったのではないか。(宣教師の記録との矛盾)



等々ですが、特に論点2では、城主(領主)が櫓の高欄などから城下を見渡すのは、言わば「政治的行為」の一環であって、ちょっと覗き見えさえすればいい、などという事ではなかったはずだと思うのです。







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2012年12月04日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・世界で初めて「台」に載った城砦建築とは






続・世界で初めて「台」に載った城砦建築とは


前回に申し上げた安土城天主と「台」との関係については、全国各地で安土以前からあったはずの土塁造りの「櫓台」といったいどう違うのか!?… と憤慨された方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私が申し上げたかったのは、あくまでも<宮殿や本堂の基壇に由来する「台」>というところに一番の力点がありまして、そのように天守「台」を見直してみますと、むしろ天守の木造部分と天守台とがきれいに一体化した豊臣期〜徳川期の(層塔型などの)天守の方が、かえって進化し過ぎた“変異形”ではないのか、とさえ感じられて来るのです。…


みごとに木造部と石垣が一体化した二条城天守(寛永度)の復元イラスト例


ちょっと分かりにくい事を申し上げているのかもしれませんが、要するに、ご覧のように一体化した天守というのは、当初の「台」(基壇)に載った天守と、それまでの防御的な櫓(櫓台)とをまぜこぜにした、いわゆる「天守櫓」とも呼ばれた亜流の発展形だったのではないか…

言葉を換えてみますと、一体化とは、誕生当初の天守が、やがて櫓の類に短絡的な先祖がえりを始めた契機だったのではないか… という、やや手前勝手な推測を申し上げてみたいのです。



【私的な極論…】天守のいちばん原初的なイメージ 〜それは求心的な曲輪配置の頂点に〜

(※このような建築は当然、天守台石垣に荷重をかけてはいない)


必ずしもご覧のような総石垣造りである必要は無いのですが、申し上げたい一番のポイントは、<天守とは織豊期城郭の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に誕生した、政治的なモニュメント(施設)であったはず> という何度も申し上げて来てしまった事柄でして、これは千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭」論や、そういう城を革新した織田信長の城づくりにつながるもの、という見立てがあります。

ですから、天守にとって形態的に最も大切なことは、三重とか五重とかの重数(階数)ではなくて、「城内における位置」や「台上でひときわ高くあること」ではないのか、という思いが近年、ますます強く感じられるようになって来ました。

そこで極端なことを申しますと、そうした条件が整うのなら、たとえ木造部分が平屋建てであっても、それは天守たりえたのではないか、とも感じられて来るのです。


もしこれが原初的な形であれば、次のいずれもが派生しやすかったのでは…

 
天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説)  / 本丸石垣の一隅に建つ、天守台の無い高知城天守(現存)


これまで「天守台上の空地」や「天守台の無い天守」はどこから派生した形態なのか、その由来について特段の指摘もなかったように思いますが、私なんぞの印象では、それらは決して変り種ではなく、むしろ原初的な形態をひきずった要素であって、逆に、整然と一体化したスタイルの方がやや“進化の行き過ぎ”であったように感じられてなりません。

このことは、安土城天主が、おびただしい曲輪群の頂点に建つ「立体的御殿」として出現したこととも、決して、無縁ではない事柄のように思われ、やはり「台」上の象徴的な君主の館、というものが、天守誕生の原点にあったのだと想像できてしまうのです。


駿府城天守の復元案(模型)の一つ


ですから、進化の最終形態である(寛永度の)二条城天守や江戸城天守のようにスマートな形態ではなくて、ご覧の駿府城天守の「何故??」と言われかねないミスマッチ感の方が、じつは正統的な“天下人の天守”にふさわしい遺伝子のあらわれだと思っているのですが…





【突然ながら 2012年度リポートの内容変更について】

諸般の事情により、予告しておりました内容を、翌年度のものと入れ替えることを検討中です。その場合、新たな内容は以下のようになります。

新リポートの仮題(再び大胆仮説!…)
東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
〜「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ〜





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年08月29日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?






だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?




ご覧の図はかなり以前の記事でお見せした、当サイトの仮説による、織田信長の安土城天主の内部に組み込まれた「高サ十二間余の蔵」部分(右側)と、正倉院宝庫(左側)の断面図を並べてみたものです。

(→該当記事「正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき」及び「2009緊急リポート」ほか)


想像しますに、上の記事をご覧になった当時は「えええ?嘘だろ…」という印象しか持たれなかったことでしょうが、当方はいたって真面目に申し上げたわけで、現在ではいっそう、この仮説(推理)が確信に近いものに深まって来ております。

と申しますのは、前回までにご覧いただいたとおり、安土城天主が「立体的御殿」として構想されて完成したのに、その直後に建造された豊臣秀吉の大坂城天守が、どうしていきなり「宝物蔵」に物理的機能を限定(削減)されてしまったのか? という謎解きの道筋が見えて来たように感じるからです。



<前回までの記事の仮説> 織田信長は当初、七重天主という立体的御殿で
安土城の「奥御殿」機能を集約したかったのではないか…



一方、天主の「高サ十二間余の蔵」にはやがて正倉院宝物の唐櫃(からびつ)が…?


ならば信長の天主構想には、最初から「宝物蔵」機能が含まれていた!?


ところが、このせっかくの天主構想は(信長自身の判断で)形骸化することになったようで、正倉院宝物が根こそぎ収奪されて運び込まれることも無く、一方、天主には「奥御殿」機能が集約されたものの、周囲の曲輪にも重複した御殿群が建てられて行き、結果的に、安土城主郭部や七重天主(立体的御殿)はちょっと理解しにくい部分を含んで完成したのではなかったか…

そしてその直後、それらをスッキリと仕分けてみせたのが豊臣秀吉の大坂城であり、以後、豊臣の天守は「奥御殿(立体的御殿)」機能を順次切り離し、物理的機能は「宝物蔵」により特化していくことになった…

というストーリーがあぶり出されて来るのではないでしょうか。



豊臣大阪城天守の外観/大阪城天守閣蔵『大坂城図屏風』より



ではここで、宝物蔵(金蔵)としての天守とはどんなものだったのか、少々エピソードを拾ってみることにします。

まずは秀吉時代の姫路城天守ですが、かの有名なエピソードが『川角太閤記』等にあります。すなわち本能寺の変の後、毛利方との和睦をまとめて、遠征軍の本拠地・姫路城に急ぎ戻った秀吉は…


(『川角太閤記』より)

秀吉は風呂に入りながらも、光秀誅伐の戦略を考へてゐたが(中略)金奉行、蔵預米奉行等を召寄せ、先づ金奉行に向ひ「天守に金銀何程あるか」と問ひ、金奉行から「銀子は七百五十貫目程ござりませう、金子は千枚まではござりませぬ、八百枚の少し外ござりませう」と答へると、秀吉は「金銀一分一厘跡に残すことならぬ(中略)と言つて、その日から蔵を開き、金銀や米を残らず分配させた。


という風に「天守に金銀何程あるか」というセリフが登場していて、原書が成立した江戸初期に、これにある程度の説得力があったとしますと、なかなか見過ごせない文言でしょうし、しかも前後のニュアンスからは、天守内部に「金蔵」が建て込まれていたようでもあり、これは安土城天主の「蔵」を想起させるものです。

しかも姫路城は、次の池田輝政(いけだ てるまさ)改築の現存天守にも、軍資金として金銀が貯えられたことが知られています。大著『姫路城史』の輝政死去のくだりには…


(橋本政次『姫路城史』1952年より)

その居城姫路城には、天守附として、常に金子四百枚、銀子百十六貫百目を貯へ、一朝有事の場合に備へた。池田分限帳、履歴略記。(中略)姫路城天守附として貯へてゐた金銀も、家康からの借用金を始め、各方面の負債償却のため残らず処分した。分限帳。


とあって、まさに織田信長や豊臣秀吉と同時代に生きた輝政一代に限って、現存天守に金銀が保管されたようなのです。

ちなみに輝政の死去は慶長十八年、つまり豊臣家の滅亡や元和偃武(げんなえんぶ/…長い戦乱の終結宣言)の二年前のことでした。


今回はわずかな事例ですが、これらのエピソードから感じることは、信長が密かに安土城天主に設けたはずの「高サ十二間余の蔵」の真相を、じつは秀吉も、輝政も、しっかりと察知していたのかもしれない… という類推でしょう。

結局のところ、「天守とは何か」という事柄について、当時の大名らの側近は何もまとめて書き遺しておらず、各大名家がどう使うべきだとしていたかは、ある種の秘伝の奥義として、属人的に伝承されたり伝承されなかったりという危うい状態にあったのかもしれません。


そしてその後、徳川の天守は(意図したのか否か…)残りの「宝物蔵」機能さえも切り離し、別途、金蔵を設ける形に変わり、天守自体はいよいよ外形だけを継承するガランドウと化して、急速に<意味の脱落>の度を深めて行ったように見えるのです。


大阪城本丸にのこる金蔵と復興天守

(※天守の前の土手は明治時代に建設された貯水池をおおう土手)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年06月19日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「商人兵」…地中海ローマ帝国も常備軍で維持されていた






続「商人兵」…地中海ローマ帝国も常備軍で維持されていた


まずは冒頭にて、お陰様で累計50万アクセスを超えましたことを厚く御礼申し上げます。


(※当図は藤田達生『信長革命』2010年に掲載の図を参考に作成)

さて、前回ご覧いただいたこの地図に、その後の織田信長のすべての天守の位置をダブらせてみたら、どうなるのだろうか??…という興味は勿論あって、早速やってみたのが次の図です。



(※「内陸部」「海寄り」「海辺・湖畔」の定義は2011年度リポートの図と同様)


ただ、ここでお断りしておきますと、この類の地図(信長時代の天守を網羅した地図)は世上に殆ど存在しないようで、それは当然の如く「最初の天守はどれか?」という難題中の難題に迫らざるをえない、という事情があるからでしょう。

―――で、当ブログは、そんなデンジャラスな地雷原に足を踏み込む自信はありませんので、ご覧の地図はあくまでも、天正10年「本能寺の変」当時の様子として、少しでも可能性のある天守を(かなり積極的に)挙げてみたものです。

(※したがって当図はすでに石山本願寺が退去した後の状態で、大坂城には丹羽長秀が入り、当ブログの仮説の長秀在番天守 →記事 があったという想定です)

当図は仮説の仮説であることをご了解のうえでご覧いただきますと、天守の位置だけで申し上げれば、みごとに藤田達夫先生の持論(…信長政権は「黎明期の海洋国家」等々)のとおりに配置されて行ったように見えます。


(藤田達夫『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

信長が意識した海洋国家とは、港湾都市の流通と平和を保障することで租税を集積し、その卓越した資本力で兵農分離を遂げた強力な軍隊を組織して商圏をさらに広げてゆくことに本質をもった。まさに父祖譲りの発想なのだ。
やがては、琵琶湖に面する安土に本拠を移し、伊勢海に加えて日本海と瀬戸内海という三つの海を支配し、東アジアの外交秩序の再編を意識した本格的な改革を推進してゆくのである。いうまでもないが、この延長に秀吉の対外出兵は位置づけられる。





そしてご覧のように、細かく配置を見ますと、内陸部の天守の多くが大坂城(旧・石山本願寺)を包囲するため、東側からグルリと並べられたことも明白のようです。

つまりそれだけ、大阪湾(瀬戸内海)に出ることは信長の悲願だったことがうかがわれ、どうやら信長は日本海側の天守の建造をそっちのけにして、石山本願寺の包囲に血道をあげていたらしく、これが完成し大坂を獲得してしまうと、「もはや畿内に敵はいない」と思わず慢心したのもうなずけるような配置なのです。



お馴染みの「ラストサムライ」ならぬ「The Last Legion」のローマ兵

※コリン・ファース(左)主演/日本未公開作/時代設定は以下の話よりずっと後の時代


さて、唐突にこんな写真をお見せしたのは、前回から海辺の天守群と「兵商」の関係について申し上げて来ましたが、<版図の拡大と兵農分離>という問題は、そうとうに古い歴史のあるテーマだと言えそうだからです。

例えば地中海の一都市国家だった古代ローマは、拡大と内乱を経て、皇帝アウグストゥスの時代に約30万の「常備軍」を備えることになったそうです。


地中海を介して拡大した古代ローマ帝国/紀元前27年までの版図



(ゴールズワーシー『古代ローマ軍団大百科』池田裕ほか訳より)

領土の拡張が進むにつれ、戦闘はますますイタリアから遠く離れた地で行われるようになり、被征服地に大規模な駐屯軍を置く必要が生じた。市民軍体制ではこうした新しい状況に対応しきれなかった。


(阪本浩『ローマ帝国一五〇〇年史』2011年より)

長期的にみて大きな問題は、一都市国家の体制から、地中海世界を支配するにふさわしい体制への転換である。
第一に、遠方の海外属州を支配し防衛するためには常備軍が必要であった。市民軍、すなわち、農地に戻らなければならない中小農民の徴兵制では、これは無理だった。
第二に、新しい社会層が形成されていた。何よりも属州支配は、資本家のチャンスを拡大していた。
(中略)ローマの富裕層のなかでも、元老院議員とならずに経済活動に専念した資本家たちは「騎士」と呼ばれるようになる。


古代ローマの軍制の変化についての一節ですが、特に二番目の阪本先生の文章は、どこか織豊政権の武将らのことを言っているかのようなニュアンスを帯びていて、ちょっと驚いてしまいます。

例えば滝川一益や羽柴秀吉、蜂須賀正勝や小西行長といった武将らを思うと、彼らの出現と織豊政権の版図の急拡大(その結果の天下再統一)は、言わば“同じエネルギー”が働いていたように感じられてなりません。

―――彼らのような「常備軍」の自律的なダイナミズムを野放しにすることが、即、版図の拡大につながっていて、それを信長は(表面は高圧的でいながら)密かに欲したのだと…。


ではその起点になった、信長自身の「海洋国家」への関心はどこから来たのだろうか、という点については、前出の藤田先生は「父祖譲りの発想」なのだとおっしゃっています。


(前出『信長革命 「安土幕府」の衝撃』より)

かつて父信秀が、山科家などの京都の公家との交流をもち、朝廷や伊勢神宮へ何千貫文もの大金を献金しえたのは、津島や熱田といった有力港湾都市を掌握したことに求めることができるからである。
商人たちの保護への反対給付として、租税を銭貨で徴収したと考えられる。したがって信長の経済力も、父譲りの銭貨蓄積によるものだったとみてよい。



確かに時系列的に考えますと、この指摘のように、信長の海洋国家への関心は父・信秀の代からの織田家の環境が育んだとするのが妥当のようで、文献史料からたどれる「答え」はそれ以外に無いのかもしれません。





でも、誠に、まことに勝手な空想で恐縮なのですが、例えばルイス・フロイスら宣教師は、信長との長時間にわたる会見の中で<地中海ローマ帝国>の話はしなかったのでしょうか。

と申しますのも、古代ローマ帝国こそ、キリスト教が世界宗教に飛躍できた踏み台でもあったことはご承知のとおりで、フロイスがバチカンの法皇云々、イエズス会の発足云々の話をしていくうえで、ローマ帝国の説明は避けて通れなかったように感じるからです。

つまりフロイスらの口から出た<地中海ローマ帝国>の話が、海洋国家への熱情、そして常備軍(兵商の活用と兵農分離)や方面軍の編成という織田軍の核心部分について、信長の意を深めた「ダメ押し」になっていたのではないか…

などという空想中の空想に、私なぞは心がザワついてしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年06月06日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか






版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか



※左図は中井均先生の論考(『城と湖と近江』等)を参考に作成

2011年度リポートでは豊臣時代の<海辺の天守>群について、それらは織田信長が琵琶湖に築いた「城郭ネットワーク」を踏まえながら、広く東アジアの制海権をにぎるため、豊臣秀吉の構想に沿って諸大名が築き始めたものではなかったか… という仮説を申し上げました。

で、そうした“秀吉の構想”を育んだ舞台が、じつは琵琶湖のはるか以前の、まだ信長が尾張を統一したばかりの頃(…秀吉が織田家に仕え始めた前後)に、すでに尾張の港湾都市「津島」で芽生えていた可能性が、何人かの先生方の指摘から推測できそうなのです。

そこで今回は「兵商」(商人兵)というキーワードを軸に、信長や秀吉の版図(制海権)拡大の力学について、少々補足させていただこうと思います。



<尾張随一の河口湊をもつ、尾張第二の商工街・津島>





(小島廣次「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」/上記書1997年刊所収より)

勝幡(しょばた)系織田氏は、信長の祖父、信定の時代から津島を領土化し、同織田氏にとって津島はいわばホームグラウンドそのものだった。
(中略)
『信長公記』巻首には、永禄四年(一五六一)の西美濃墨俣(すのまた)・森部(もりべ)合戦の功績者として四人の名前があげられているが、このうち三人が津島衆で占められていた。これは偶然ではなく、信長の戦力の中核が津島衆で占められていたとみるほうが自然だろう。
(中略)
彼らは信長の家臣には違いないが、必ずしも武家というわけではなかった。津島にあっては商人であり、それでいて信長の家臣として実際にあちこちの戦場へ行っている。(中略)津島衆はこの兵農ならぬ「兵商」だったことになる。



(※上記書に掲載の図を参考に作成)


上の表紙の本をご覧になった方も多いかと思いますが、その中でも、私なぞは小島先生の論考がいちばん興味深く、と申しますのは、それまで織田兵の強さの源泉は「兵農分離(専業兵士)だ」と盛んに言われて来たことと、ちょっと話が違って来た印象があったからです。

小島先生の文章からは、津島とは、信長にとって後の「堺」にも劣らぬ存在だったように感じられて来て、その「兵商」と秀吉の関わりについては、こうも指摘されています。


(前出「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」より)

信長の多くの家臣のなかで、早い時期から津島と密接な結びつきをもっていた人物が秀吉以外に見当たらないことなどからすると、秀吉は信長家臣団のなかで、「津島担当」だったと考えられる。


なんと、秀吉はここで「兵商」(言わば「商人兵」)と深く結託できたことになり、そういう立場からは、例えば川並衆を率いていた蜂須賀小六との関係性もふくらみそうで、秀吉の躍進の原動力はここにあったか!という印象でした。

一方、信長の大戦略における津島(伊勢湾)の位置づけについては、近年、藤田達生先生がさらに広い視野から見た持論を展開しておられます。


(藤田達生『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

信長は、上洛戦の前提として永禄十一年(一五六八)二月に北伊勢に侵攻し、三男信考を河曲(かわわ)郡の神戸氏の、実弟信包を安濃郡の長野氏の養子とし、さらに一族津田一安を伊勢を代表する港湾都市・安濃津(三重県津市)に置いた。(中略)
信長にとって伊勢の掌握は、東海道をはじめとする東国と京都を結ぶ大動脈としてばかりか、関東への足がかりとなる太平洋海運を押さえることを意味した。
同国には、桑名(三重県桑名市)・安濃津・大湊(三重県伊勢市)に代表される東海−関東を結ぶ太平洋流通上の有力港湾都市があったからだ。




(※同書掲載の「環伊勢海政権ネットワーク概念図(天正3年)」を参考に作成)


藤田先生はこの本の中で、岐阜からやがて安土に居城を移す信長は、すでに天正3年頃には、上図のような広域の流通網を構想していたのだと強調されています。


(前出『信長革命 「安土幕府」の衝撃』より)

この時期に地域支配拠点となった神戸城・安濃津城・田丸城は、いずれも伊勢海を意識した沿岸部に立地した。
これは、のちに信長が安土城を中心として琵琶湖沿岸に大溝城・坂本城・佐和山城・長浜城などの城郭を配置したことの直接的な前提とみなすことができる。
(中略)
そしてこの政権は、萌芽的ではあるが、舟運に依拠した重商主義政策を中核とする海洋国家としての本質をもつものであった。筆者は、他の戦国大名との最大の相違はここにあるとにらんでいる。


以上のように、津島の「兵商」を手ごまに躍進を始めた信長と秀吉らが、同じメカニズムをフル稼働させて版図を拡大した様子が見えて来そうですが、そう言えば、あの教団も、「兵商」で隆盛を極めたのではなかったか――― という不思議なめぐり合わせ(衝突)もあったのです。



<凄惨な殺戮戦、一向一揆攻めは「商人兵」どうしの生き残り戦??>



以前の記事(→ご参考)でも申し上げたとおり、一向宗(本願寺)はたいへん富貴な教団であり、その勢力の実態も「兵商」の類だったようで、となると、信長軍と一向宗門徒の戦いは“兵商どうしのサバイバル戦”だったのかもしれない、と思われて来るのです。


(武田鏡村『本願寺と天下人の50年戦争』2011年より)

一向宗徒による一揆を一向一揆というが、その主体はこれまでいわれてきたような土地に定着する農民ではなく、交易を行う馬借(ばしゃく)や船乗り、さらに各種の職人、商人、そして本願寺につながる坊主などであった。(中略)
極端にいえば本願寺は一坪の土地も所有していないにもかかわらず、莫大な資産を持っていたが、それは門徒からの献金があったからである。


そして天正2年に迎えた長島一向一揆攻めの最終決着は、冒頭の「津島」からは目と鼻の先の、わずか10kmほどの地点で起きた惨劇でした。





(前出『本願寺と天下人の50年戦争』より)

伊勢長島の門徒は、顕如の曾祖父の蓮淳(れんじゅん)が長島御坊といわれる願証寺(がんしょうじ)を開いて以来、木曽川・長良川・揖斐(いび)川の各流域で生活する人々の信仰を集めて、一大勢力になっていた。
河川に囲まれ、伊勢湾に面する長島は、領主の介入と物品の徴発を拒み続けた「河内(かわち)」といわれた寺内町である。当然、伊勢にも勢力を伸ばそうとする信長の介入も拒絶していた。



こうした一向宗の教団としての性格と、ここまでご覧いただいた信長の大戦略とを(下図のように)突き合わせてみますと、信長は「敵対する兵商」が自らの流通網の要所要所(長島と越前!)にしっかり根をはっていることに我慢ならなかったのではないか… とも思えて来るのです。

(※一方、法主らの本拠地・石山本願寺は“和議による退去”で決着している)






<その頃、セブ島に上陸したコンキスタドール(征服者)の正体も…>




(※右写真はレガスピの銅像/ウィキペディアより)


さて、最後に余談ですが、信長が伊勢方面に進出していた永禄8年1565年に、スペイン人のコンキスタドールの一隊が、太平洋を渡ってフィリピン諸島(セブ島)に上陸しました。

わずか数百人の部隊を率いたのは、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ。

彼は広大な植民地領「ヌエバ・エスパーニャ」の首都メキシコシティの市長(!)だった人物であり、香辛料の新たな交易路を開拓するため、まもなく騙(だま)し討ちでマニラを陥落させました。

これも言うなれば「兵商」の私兵部隊が世界地図を塗り変えてしまったわけで、こうした投機的で(利潤のリターンを急ぐ)性急な勢力の拡大は、兵商の得意技だったのではないでしょうか。


そして我が国でも、徳川幕府が改めてその恐ろしさに気づいたのか、自ら兵商分離を進める形になりました。

ということで、江戸時代の有名な身分制度「士・農・工・」という序列に込められた、武家政権の“本音”がなんとも気になって仕方がないのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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