天守の発祥/岐阜城・旧二条城/織田信長の「立体的御殿」

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (265)



全エントリ記事の一覧はこちら

2017年11月
     
24 25
26 27 28 29 30    

新着エントリ
城の再発見!続『モンタヌス日本誌』→大坂城天守の記録はまさに「駿府城天守」のことか (11/17)
城の再発見!今回は『江戸始図』の補強になるか?『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的 (11/5)
城の再発見!さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング (10/18)
城の再発見!『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか?? (10/13)
城の再発見!家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点 (9/29)
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (25)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)


アクセスカウンタ
今日:3,170
昨日:2,766
累計:2,269,780


RSS/Powered by 「のブログ

2012年06月06日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか






版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか



※左図は中井均先生の論考(『城と湖と近江』等)を参考に作成

2011年度リポートでは豊臣時代の<海辺の天守>群について、それらは織田信長が琵琶湖に築いた「城郭ネットワーク」を踏まえながら、広く東アジアの制海権をにぎるため、豊臣秀吉の構想に沿って諸大名が築き始めたものではなかったか… という仮説を申し上げました。

で、そうした“秀吉の構想”を育んだ舞台が、じつは琵琶湖のはるか以前の、まだ信長が尾張を統一したばかりの頃(…秀吉が織田家に仕え始めた前後)に、すでに尾張の港湾都市「津島」で芽生えていた可能性が、何人かの先生方の指摘から推測できそうなのです。

そこで今回は「兵商」(商人兵)というキーワードを軸に、信長や秀吉の版図(制海権)拡大の力学について、少々補足させていただこうと思います。



<尾張随一の河口湊をもつ、尾張第二の商工街・津島>





(小島廣次「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」/上記書1997年刊所収より)

勝幡(しょばた)系織田氏は、信長の祖父、信定の時代から津島を領土化し、同織田氏にとって津島はいわばホームグラウンドそのものだった。
(中略)
『信長公記』巻首には、永禄四年(一五六一)の西美濃墨俣(すのまた)・森部(もりべ)合戦の功績者として四人の名前があげられているが、このうち三人が津島衆で占められていた。これは偶然ではなく、信長の戦力の中核が津島衆で占められていたとみるほうが自然だろう。
(中略)
彼らは信長の家臣には違いないが、必ずしも武家というわけではなかった。津島にあっては商人であり、それでいて信長の家臣として実際にあちこちの戦場へ行っている。(中略)津島衆はこの兵農ならぬ「兵商」だったことになる。



(※上記書に掲載の図を参考に作成)


上の表紙の本をご覧になった方も多いかと思いますが、その中でも、私なぞは小島先生の論考がいちばん興味深く、と申しますのは、それまで織田兵の強さの源泉は「兵農分離(専業兵士)だ」と盛んに言われて来たことと、ちょっと話が違って来た印象があったからです。

小島先生の文章からは、津島とは、信長にとって後の「堺」にも劣らぬ存在だったように感じられて来て、その「兵商」と秀吉の関わりについては、こうも指摘されています。


(前出「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」より)

信長の多くの家臣のなかで、早い時期から津島と密接な結びつきをもっていた人物が秀吉以外に見当たらないことなどからすると、秀吉は信長家臣団のなかで、「津島担当」だったと考えられる。


なんと、秀吉はここで「兵商」(言わば「商人兵」)と深く結託できたことになり、そういう立場からは、例えば川並衆を率いていた蜂須賀小六との関係性もふくらみそうで、秀吉の躍進の原動力はここにあったか!という印象でした。

一方、信長の大戦略における津島(伊勢湾)の位置づけについては、近年、藤田達生先生がさらに広い視野から見た持論を展開しておられます。


(藤田達生『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

信長は、上洛戦の前提として永禄十一年(一五六八)二月に北伊勢に侵攻し、三男信考を河曲(かわわ)郡の神戸氏の、実弟信包を安濃郡の長野氏の養子とし、さらに一族津田一安を伊勢を代表する港湾都市・安濃津(三重県津市)に置いた。(中略)
信長にとって伊勢の掌握は、東海道をはじめとする東国と京都を結ぶ大動脈としてばかりか、関東への足がかりとなる太平洋海運を押さえることを意味した。
同国には、桑名(三重県桑名市)・安濃津・大湊(三重県伊勢市)に代表される東海−関東を結ぶ太平洋流通上の有力港湾都市があったからだ。




(※同書掲載の「環伊勢海政権ネットワーク概念図(天正3年)」を参考に作成)


藤田先生はこの本の中で、岐阜からやがて安土に居城を移す信長は、すでに天正3年頃には、上図のような広域の流通網を構想していたのだと強調されています。


(前出『信長革命 「安土幕府」の衝撃』より)

この時期に地域支配拠点となった神戸城・安濃津城・田丸城は、いずれも伊勢海を意識した沿岸部に立地した。
これは、のちに信長が安土城を中心として琵琶湖沿岸に大溝城・坂本城・佐和山城・長浜城などの城郭を配置したことの直接的な前提とみなすことができる。
(中略)
そしてこの政権は、萌芽的ではあるが、舟運に依拠した重商主義政策を中核とする海洋国家としての本質をもつものであった。筆者は、他の戦国大名との最大の相違はここにあるとにらんでいる。


以上のように、津島の「兵商」を手ごまに躍進を始めた信長と秀吉らが、同じメカニズムをフル稼働させて版図を拡大した様子が見えて来そうですが、そう言えば、あの教団も、「兵商」で隆盛を極めたのではなかったか――― という不思議なめぐり合わせ(衝突)もあったのです。



<凄惨な殺戮戦、一向一揆攻めは「商人兵」どうしの生き残り戦??>



以前の記事(→ご参考)でも申し上げたとおり、一向宗(本願寺)はたいへん富貴な教団であり、その勢力の実態も「兵商」の類だったようで、となると、信長軍と一向宗門徒の戦いは“兵商どうしのサバイバル戦”だったのかもしれない、と思われて来るのです。


(武田鏡村『本願寺と天下人の50年戦争』2011年より)

一向宗徒による一揆を一向一揆というが、その主体はこれまでいわれてきたような土地に定着する農民ではなく、交易を行う馬借(ばしゃく)や船乗り、さらに各種の職人、商人、そして本願寺につながる坊主などであった。(中略)
極端にいえば本願寺は一坪の土地も所有していないにもかかわらず、莫大な資産を持っていたが、それは門徒からの献金があったからである。


そして天正2年に迎えた長島一向一揆攻めの最終決着は、冒頭の「津島」からは目と鼻の先の、わずか10kmほどの地点で起きた惨劇でした。





(前出『本願寺と天下人の50年戦争』より)

伊勢長島の門徒は、顕如の曾祖父の蓮淳(れんじゅん)が長島御坊といわれる願証寺(がんしょうじ)を開いて以来、木曽川・長良川・揖斐(いび)川の各流域で生活する人々の信仰を集めて、一大勢力になっていた。
河川に囲まれ、伊勢湾に面する長島は、領主の介入と物品の徴発を拒み続けた「河内(かわち)」といわれた寺内町である。当然、伊勢にも勢力を伸ばそうとする信長の介入も拒絶していた。



こうした一向宗の教団としての性格と、ここまでご覧いただいた信長の大戦略とを(下図のように)突き合わせてみますと、信長は「敵対する兵商」が自らの流通網の要所要所(長島と越前!)にしっかり根をはっていることに我慢ならなかったのではないか… とも思えて来るのです。

(※一方、法主らの本拠地・石山本願寺は“和議による退去”で決着している)






<その頃、セブ島に上陸したコンキスタドール(征服者)の正体も…>




(※右写真はレガスピの銅像/ウィキペディアより)


さて、最後に余談ですが、信長が伊勢方面に進出していた永禄8年1565年に、スペイン人のコンキスタドールの一隊が、太平洋を渡ってフィリピン諸島(セブ島)に上陸しました。

わずか数百人の部隊を率いたのは、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ。

彼は広大な植民地領「ヌエバ・エスパーニャ」の首都メキシコシティの市長(!)だった人物であり、香辛料の新たな交易路を開拓するため、まもなく騙(だま)し討ちでマニラを陥落させました。

これも言うなれば「兵商」の私兵部隊が世界地図を塗り変えてしまったわけで、こうした投機的で(利潤のリターンを急ぐ)性急な勢力の拡大は、兵商の得意技だったのではないでしょうか。


そして我が国でも、徳川幕府が改めてその恐ろしさに気づいたのか、自ら兵商分離を進める形になりました。

ということで、江戸時代の有名な身分制度「士・農・工・」という序列に込められた、武家政権の“本音”がなんとも気になって仕方がないのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2011年08月08日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!では駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか






では駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか




「穴倉」の有無をめぐる前回の表です。

このうち赤ラインで囲った駿府城(すんぷじょう)は、おそらく天守自体は五重天守に含まれ、かつ穴倉(石蔵)は無かったとハッキリ申し上げられるでしょうが、しかしその天守台の方にも「無かった」と断言できるのかどうか、チョット難しい事情を抱えています。

これは城郭ファンの方々が少なからず感じている点でもあり、そしてそこから導かれる驚愕の可能性について(今回もまた秀吉流天守台の話には戻らずに)是非この機会に触れておきたいと思います。


駿府城天守の復元模型の一例(巽櫓での展示/1994年!撮影)

(※これは様々な変遷を経てきた駿府城天守の復元案の一つで、
以下の説明には一番適当なので、あえて挙げてみました…)


さて、慶長12年から13年(1608年)にかけて、徳川家康が自らの隠居城として再築した駿府城(静岡市)には、じつに特異な形の天守がありました。

それはご覧のとおり、史上最大の天守台に“穴倉のごとき窪み”(深さ2間少々)があって、その中にスッポリ収まるように天守が建っていた、と考えられているのです。

(※ただしご覧の模型は、天守の向きが以降の復元案とは90度異なり、また天守台周縁部の石塁上にあった多聞櫓や隅櫓等々の復元がされていません)



で、前回の記事では、大型天守が「石垣に大きな荷重をかけない」ように築かれたことを申し上げましたが、この天守はそんな心配とは無縁のスタイルです。

――天守は石垣にいっさい荷重をかけず、その直下に穴倉が隠れているわけでもなく、逆に自分より広大な穴倉(?)の中に収まっているのです。

このような復元は『当代記』等の天守各階の平面規模や、大日本報徳社蔵の城絵図の描写から、まず間違いないものと言われています。


そしてこの天守台、形だけに注目しますと、なんと、前回記事の三浦正幸先生の講演にも登場した「名古屋城天守」にソックリ(!)なのです。



あの巨大な名古屋城天守が、まるで縮小コピーのよう…

(※両者は同縮尺/静岡県立中央図書館蔵『駿府城御本丸御天守之図』
および名古屋城管理事務所蔵の天守建築図をもとに作成)


両者の手法の一致は、これまでも度々指摘されて来た点です。


(駿府城の)天守台の形は名古屋城とほぼ同じ構成である。
まず大天守台の南辺に沿って石段をのぼり、左折して小天守台に入る。小天守台の中で二度右折し橋台に出る。
さらに大天守台の入口には喰い違い虎口(くいちがいこぐち)が設けられていた。

(中略)
また、天守は本丸石垣の角に位置する塁上式で大天守東側に桝形虎口(ますがたこぐち)があり、地階には井戸が設けられていた。

(解説文:大竹正芳/西ヶ谷恭弘監修『名城の「天守」総覧』1994年より)


というように駿府城の天守台は、三浦先生が「穴倉」の代表として例に挙げた名古屋城天守とソックリの手法でありながら、そのあまりの巨大さのためか、「穴倉」としての使用が完全に封殺されたような状態だったのです。




そして、この特異な天守が登場するまでには、なかなか複雑な経緯をたどったことが知られています。概略を申しますと…


慶長11年 3月 家康、旧城主の内藤信成を長浜へ移し、城の内外を巡視
慶長12年 2月 城の修築工事が始まる
      5月 天守(台)の根石を置き始める
      7月 天守台石垣と殿閣が完成し、家康が本丸の殿閣に入る
      12月 城中失火で殿舎を焼失。家康は二ノ丸に避難
慶長13年 正月 再建工事(堀と塁と殿閣)を急がせる
      2月 殿舎が上棟。大天守・小天守いっせいに作事開始
      3月 殿舎落成し、家康が新殿に移る
      8月 天守が上棟
慶長15年 半ば頃 天守落成



このように諸書の記録では、慶長12年の天守台や殿閣が完成して、わずか5ヶ月後に殿舎が焼失したとあるのですが、この時、果たして<天守木造部の工事は始まっていたのか><その工事中の天守も焼けたのか><天守台に損傷があったのか>については、意外なことに、何も記録が無い(!)ようなのです。

そして火事の2ヶ月半後には大天守・小天守の作事が開始(再開?)されていますので、天守台の焼けた(?)石垣を全面的に積み直せたかどうかも、微妙なタイミングです。


これら諸々の状況から考えられる可能性としては、火事の前に<天守木造部は実際には未着工のままで何も無かった>か、もしくは<着工の記録を何らかの理由で伏せてしまった>という別種の疑惑もありうるように思われるのです。




幻の超巨大天守!の仮想模型(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981年より)


ここで今回の記事のメインイベンター、櫻井成廣(さくらい なりひろ)先生の「超巨大天守」の登場です。

ご覧の模型は、櫻井先生が、あくまでも「駿府城大天守台の上にその広さどおりの大天守閣ができたら、どんな姿になったであろう」(写真の著書より)という、仮定の興味に基づいて自作したものです。

ですから勿論、天守台の中には“例の穴倉”が入っている想定であり、天守台上の初層の広さは24間半×21間とし、「各層の壁面の高さは大体定まっているから、自然(と)外観は七層、内部は九重に」(写真の著書)という、超巨大サイズになっています。


この模型製作の当時は、まだ大日本報徳社蔵の城絵図が知られていなかったようで、それでこんな大胆な模型を作れたのかもしれませんが、その後、城絵図が認知されますと、しだいに「超巨大天守」は半ば荒唐無稽な試みとして忘れ去られて来ました。

ところが今日、三浦先生の「穴倉」存在理由の再定義という事態が、その典型例として挙げた名古屋城天守台と、駿府城天守台との間にある“手法の一致”をどう解釈したらいいのか、新たな興味を喚起しているように思えるのです。


時期的には、よりコンパクトな方が後になって築かれた… これは何故なのか?


そして私が一番気になるのは、両者の出現の時期なのです。

すなわち、よりコンパクトな方(より着実な方?)が後になってから出現している…

この順序が物語るものは、想像力を膨らませますと、やはり問題の「超巨大天守」はいったんは計画されて、それに合わせて天守台が築かれ、もしくは天守木造部の着工もあって、それらの続行を徳川幕府が早々と「断念」していた(!)ということではないのでしょうか。

そしてその不名誉な技術的「断念」を、火事のドサクサの中に隠蔽(いんぺい)しつつ、その2年後に、名古屋城の大天守で雪辱を果たしていたのではないか――

といった勝手な空想が頭の中を飛び交うのです。


天守の技術的失敗と申しますと、例えば豊臣時代の丹波亀山城天守にはややかんばしくない評判が残っていたり、徳川将軍の江戸城でも完成したはずの天守台を削ったり積み増したりしていました。

そのように天守にも当然、試行錯誤や失敗作の類はあったはずで、駿府城の天守台はそうした秘史の存在を臭わせているように感じるのです。


歴史の裏側に、超巨大天守の「断念」と名古屋での再チャレンジが!?


(※ちなみに今回の仮説は、慶長度の江戸城天守は五重天守ではない!
という想定に基づいています。つまり当時、名古屋城天守は
あらゆる面で史上最大だったことになります)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2011年07月25日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか






鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか


前回、鎌刃城(かまはじょう)の「大櫓」跡は“天守とは別次元のもの”とアッサリ申し上げてしまい、言葉足らずの点もあったようで、今回はちゃんと当サイトの思うところを申し上げることに致します。


米原市教育委員会編『戦国の山城・近江鎌刃城』2006年


さて、鎌刃城(滋賀県米原市番場)はご覧のイラストが全国の城郭ファンの記憶にも新しいように、10年程前の発掘調査の結果、「この鎌刃城から日本の天守が始まったらしい」(前掲書)という、画期的な「大櫓」の礎石群が見つかった戦国期の山城です。

イラストの一番手前がその「大櫓」であり、ただしご覧のような櫓台の石垣は確認されておらず、推定復元のものです。(※→後半のキーポイント)

また基本情報として、鎌刃城は文献には15世紀に堀氏の城として登場し、最後は織田信長が廃城したとされています。


で、上記の本はシンポジウムの講演録をまとめたもので、村田修三先生、加藤理文先生、三浦正幸先生、木戸雅寿先生、中井均先生(奥書の順)というオールスターキャストの先生方が顔を並べていて、とりわけ何故、注目の「大櫓」が「後の天守に相当する建物」と考えられるのか―― については、三浦正幸先生の講演録が詳しく説明してくれています。



<「大櫓」が天守の発祥である理由は「穴倉」があるから…>



前掲書に掲載の測量図をもとに作成(※上が南/色づけは当ブログによる)


ご覧の図で発掘の様子は想像できると思いますが、話の発端は、北西尾根の突端にある北第六曲輪(北−Y曲輪)で、京間(六尺五寸間)できれいに並んだ5間四方の礎石群が見つかったことです。

しかも、これらの礎石群が、図のように周囲を土塁にピッチリ囲まれていて、すり鉢の底のような場所にあったことが“大問題”になったのです。


(前掲書所収/三浦正幸「鎌刃城の建物を復元する」より)

そこでどうもおかしいと思って、ひょっとしたらこれは穴倉ではないのかと考えたのです。そう考えてみますと、そのおかしな土塁の意味もわかってきます。
(中略)
つまり五間四方の建物のまわりに一間ずつ延ばすと土塁の上に乗ります。そうすると、七間四方ですから四十九坪、つまり畳百畳敷きくらいの非常に大きな建物になります。
(中略)
なおかつ、御殿というのは普通、床下に地下室がないのです。要するに穴倉はないのです。御殿の下に穴倉があるもの、これは一体何かというと、天守しかないのです。


ということで、三浦先生は、当時は「天守」という名称が存在しなかったため、これを「大櫓」と仮称しつつ、「後の天守に相当する建物である」と結論づけたのです。



<内側が土塁のままの穴倉を何に使ったのか? 単なる床下空間か>



安土城天主台の穴倉跡(右下が内部の北西角)/内側も石垣で築かれていた


ご承知のように「穴倉」とは、天守台の内部に造られた空間で、確認されている多くの事例が「倉庫」として使われたものです。

そして歴史上、穴倉のあった天守、無かった天守の割合は、小さな天守では<無い天守>の方が圧倒的に多くて、たとえ五重天守を見ても<半々>というところであり、しかも時代的にはどちらが古いとも一概に言えません。



(※当ブログでは「(徳川家を含む)織田信長の直臣であった大名家に特有の設備として、
天守台石蔵があった、という傾向は言えるかもしれない」との趣旨を述べたことがあります。)


で、このような「穴倉」の最初の出現が鎌刃城だった、ということになって来たわけですが、発掘調査時の写真なども眺めているうちに、何か引っかかるものを感じたのです。




それは前出の図にもあるように、東側(左側)の土塁を貫通して作られた入口通路には「石垣」が丁寧に張ってあるのに対して、肝心の穴倉の中はどうかと見れば、すべて「土塁」のままになっている、という点に“妙な違和感”を覚えたのです。

おそらく城郭史上、天守の穴倉の中が「土塁のまま」という例は前代未聞のことであって、そういう意味でも、鎌刃城は注目すべき過渡期の事例ということなのでしょうか?


しかもそこは当時も土間でしょうから、ひょっとすると完全な「床下扱い」だったかもしれませんが、それにしては前掲書の復元案では、床下空間の高さが2m前後はあったことになるようです。

ならばこの穴倉は、古代の竪穴住居のように土の窪みに物を保管したのか… まさか… と頭の中は堂々めぐりを始めます。

そこで前出の三浦先生は、実にコペルニクス的な(!)論理の転換をされたのです。


(前掲書所収/三浦正幸「鎌刃城の建物を復元する」より)

倉庫として使うために穴倉があった、と今まで建築の先生方は言っておられたのです。
しかし、よく考えてみますと、倉庫にするのだったら、別に天守の地下を倉庫にしなくても、曲輪はいっぱい空いていますので、そこに蔵をいくらでも造ればいいのじゃないかと思うのです。
そうすると、こうした蔵は、もっと別の意味があっただろうと考えるのが普通なのです。
実は当時の技術を考えてみますと、天守のような高層建築を、穴倉なしで建てるほど勇気が無かったと考えるのが一番かと思います。

(中略)
後の慶長十七年(一六一二)に尾張名古屋城の天守を造る時も、その時ですら問題になっており、結局どうなっているかと言うと、尾張名古屋の天守もちゃんと穴倉があるのです。そして天守の本体の重さは全部、地下の穴倉の柱で支えているのです。
(中略)
だから天守は石垣の上に建っているけれども、実は重さはほとんど地下の穴倉の礎石が支えていて、石垣は一階の外壁の重さしか支えていない。
これが天守の構造であり、尾張名古屋の大天守はそのように造られていました。



三浦先生の指摘のとおり、確かに「石垣に大きな荷重をかけない」という天守建築の技術はオーソライズされて来ました。

しかしそれにしても、三浦先生の“穴倉の第一目的は倉庫機能ではない”というコペルニクス的な論旨にとって、実は、復元イラストの櫓台の石垣(※推定復元!)が、この上なく重要な“生命線”になっていることがお分かりでしょうか。……!




しかもイラストのように櫓台の外側を石垣としますと、内側は土塁のままだったわけですから、それこそ空前絶後の手法ということになってしまい、そうした過渡的な(?)穴倉の有効性がもっと検証されるべきだと思うのですが…

ついでに申し上げますと、以前は天守台の「石蔵」と当たり前のように言っていたものの、昨今は用語が「穴倉」に統一されて来たのは、もしやこれと関係あるのでしょうか。



<城郭マニアの連想――「大櫓」周辺は松山城「隠門」の仕掛けにそっくり!?>



僭越ながら、私のような者にとっては、「穴倉」の存在理由とは、その建物が単独で持ち堪(こた)える“自己完結力”のためではないか―― と長い間、思い込んで来たわけで、それは「天守」も、鎌刃城「大櫓」も、同じじゃないかと思われるフシがあります。




と申しますのは、左のイラストにもあるとおり、問題の箇所は東(左)から城道が伸びて来ていて、直前で二股に分かれて、一方は「大櫓」の南(上)の曲輪(北−X曲輪)に達して「大手門」とされる門につながり、一方はまさに「大櫓」穴倉の入口通路につながっていた、とされているのです。

これらの配置はいったい何をねらったのでしょう。

もちろん「大櫓」が突端にあるのは防御や見栄えのためとしても、城道のプランが城外から直接、穴倉に物資を運び込むことを主眼としていたら、やはり「倉庫機能」がこの穴倉の主要目的だということになってしまいます。



伊予松山城の筒井門(右奥の陰に隠門がある)


――そこで申し上げたいのが、伊予松山城の有名な仕掛け「隠門(かくれもん)」なのです。

これは(写真の左側から)敵兵が城道を登って来てこの筒井門を攻めた時、向こうの陰の「隠門」から城兵が不意打ちをかけるもの、と言われますが、この形、そっくりではないでしょうか。


つまり「大櫓」の穴倉は、決死隊(斬り込み隊)が中に潜み、横から反撃を加えるための「武者隠し」だったのではないか? ということなのです。



ご覧のように、大手門わきの土塁(又は石垣)に開いたわずか幅1間弱の通路から突然、城兵が押し出して来たら、寄せ手は混乱することでしょう。

そして城兵が押し出すにはそれなりの人数が必要でしょうが、穴倉が5間四方(約10m四方)であれば、二、三十人の武者が潜むには十分な広さでしょうし、もちろん上階から補充兵が降りて来て、第二弾を放つこともあったでしょう。

そしてその中に臨時に“収蔵”されるのが武者であるなら、内側が土塁のままであってもまったく構わない、という点が重要です。(!)


ここに「天守」と「大櫓」の穴倉をめぐる共通項が隠れているように思うのです。



つまり城が危機的な局面を迎えても、「天守」は最後まで持ち堪える―― そして「大櫓」も敵に攻め寄せられながらも持ち堪え、起死回生の斬り込み隊を放つ、といった目的意識(自己完結力)では一致していて、それを担保する設備が「穴倉」だったのではないでしょうか??

ですから鎌刃城「大櫓」は、天守(特に大型天守)にあった方が好ましい設備「穴倉」を先取りした建築、という意味では、歴史的な意義を語りかけて来るのでしょうが、だからと言って、天守そのものの「直接の発祥」だとは到底、思えないのです。



ここは前回の繰り返しで恐縮ですが、やはり櫓と天守の間には相当な「飛躍」があったはずで、天守は戦闘用の構造物ではなかったはずです。

もし仮に、天守が「大櫓」のように敵前で他の櫓以上の戦闘能力を発揮したなら、極端な話ですが、日本中の城には、出城や陣城の類も含めて、何千基にものぼる「天守」がひしめき合ったように思います。

それこそ大坂城や江戸城あたりでは、きっと「五番天守」だの「七番天守」だの、という状態(呼ばれ方)になっていたのではないでしょうか。……








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2011年07月12日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「天守」は何に一番似ているのか…






「天守」は何に一番似ているのか…


   皇帝       vs      八幡神


どうも前々回から、当サイトの大テーマ「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」の核心に近い話題を続けておりまして、本来ならば早く「秀吉流天守台」の続きに戻りたいところですが、またまた今回だけ、織田信長や豊臣秀吉の想念にあった「天守」像について、一応のケリをつけたいと思います。

果たして彼等の想念に一番近いものは何だったのか? つまり本来の「天守」… 江戸時代に各藩の分権統治の象徴になってしまう以前の「天守」について、そのオリジンを探ってみたいという、やや大それた内容です。


江戸初期、徳川家の威光を関八州に示した江戸城天守


さて、城郭関連の本で天守の発祥を説明する場合は、近年では鎌刃城で発見された「大櫓」跡が引き合いに出されることも多いのですが、当サイトは、そうした櫓の類と「天守」との間には大きな次元の違い(飛躍)があったはず、と申し上げて来ました。


そもそも「天守」は戦闘用の建造物ではないはずで、すなわち文献上も考古学的にも、天守が戦闘時に指揮所もしくは城主の御座所として使用された証拠は、おそらく“皆無”であることがそれを物語っています。

ですから「天守」は最初に出現した時から、平時の、統治のための政治的モニュメントであったはずなのです。


例えば天守最上階の「物見ノ段」という名称にしても、ひょっとすると、これが本当に戦闘時もそういう機能だったのか定かではないように思われ、むしろ天守のような高所からの「物見」というのは、日本古来の、為政者としての振る舞い「国見(くにみ)」を踏まえた所作、であった可能性も考えるべきではないのでしょうか?

その意味では、古代に天武天皇が吉野川のほとりに建てたという、伝説の「高殿」なども、天守に至る源流の一つに位置づけられるような気はするものの、より具体的な関わりが指摘できるものとしましては…


      楼閣山水図の阿房宮    平和の塔(旧「八紘一宇の塔」/宮崎市)

(※「平和の塔」写真はサイト「PhotoMiyazaki−宮崎観光写真」様からの引用です)


まず左の阿房宮については、信長が懇望した南化玄興作の七言詩「安土山ノ記」では、安土城の主郭部が始皇帝の「阿房宮」に擬せられています。


ただし当時、阿房宮の外観が日本にどのように伝わっていたか、という点では、ご覧のような楼閣山水図の類によって“深山幽谷にそびえる高楼”として認識されていた可能性もありうるのです。(→参考記事

これがもしも信長の岐阜城本丸や安土城の主郭部という“水辺の山上の城砦”につながった一因であるのなら、そうした高楼こそ、信長が志向した「皇帝」にふさわしい住居であり、まさに「天主」の原形だったのかもしれません。



一方、右写真の平和の塔はもちろん近代の建造物ですが、旧名の「八紘一宇(はっこういちう)」は、近代日本の“怪物”の一人、宗教家の田中智學(たなか ちがく)が造語した言葉で、戦前の軍国主義の記憶と深く結びついたものです。


(ウィキペディアより)

八紘一宇とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇/八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む」から作られた言葉で、大意としては天下を一つの家のようにすること。転じて第二次世界大戦中に大東亜共栄圏の建設の標語のひとつとして用いられた。


つまり「八紘」とは「八つの方位」を意味する言葉であって、口語訳では「八紘(あめのした)」と読むものです。

これは取りも直さず、信長の安土城天主に「八角」(『信長公記』)が組み込まれたこと、また秀吉の大坂城天守も「四方八角」(『天正記』)であったこと、そして「天下」という言葉が古代中国では「四方」「四国」で代用されたこと(→参考記事を強く想起させます。

で、それら(八紘/天下)を「一つの家のようにすること」とは、まさに信長や秀吉の「天下布武」政策―― 戦国の世(分裂国家)の再統一という政治目標にピタリと合致していて、その意味では、「天守」本来の建築の企図は、400年後の「八紘一宇の塔」とまさに同一であったのかもしれません。(!…)




   皇帝        vs      八幡神
  


……ですが、上の方の二つの建造物はどちらも、この世に一つしか存在しない(!)という点が決定的に「天守」とは異なっていて、これはかなり重要な要素のように思われるのです。

天守は歴史上、日本列島周辺に100基以上が建造されたわけで、しかも一つの領国に一基という原則が、ある程度、徹底されていたことからしますと、例えばですが、奈良時代に東大寺を頂点として諸国に一寺ずつ建立された「国分寺」(とその七重塔)なども考慮に入れる必要があるのかもしれません。



<天守の解明に不可欠な、数の問題… 足利尊氏「利生塔」への注目>



その国分寺と同様に、14世紀、室町幕府を開いた足利尊氏・直義(たかうじ・ただよし)兄弟が、日本全国の六十六ヶ国と二島(壱岐、対馬)にそれぞれ「安国寺・利生塔(あんこくじ・りしょうとう)」を建立する一大事業を行いました。


 かつて「利生塔」の唯一現存例とされた、浄土寺の多宝塔(尾道市)

(※現在は同寺にあった五重塔が「利生塔」の一塔とされている/
「利生塔」の形式は五重塔・三重塔・多宝塔など様々だった)


一大事業は夢窓疎石(むそう そせき)の勧めで始まり、夢窓の法話に“元弘(後醍醐天皇の改元)以来の天下大乱の悪因縁から逃れるため”とあるそうです。

この安国寺・利生塔の研究では、辻善之助先生、今枝愛真先生、松尾剛次先生といった方々の業績があって、たいへん興味深いことに、北朝の尊氏・直義兄弟が事業を行った影響で、当初、南朝方の領国には建立されなかったそうなのです。


辻博士も強調されているように、寺院の建立はその土地領有の標章ともなるものであるから、安国寺・利生塔の存在は、その地方が室町政権の統治下にあることを示すものである。
このような意味で、寺院の設置は各国守護を通じての勢力範囲の維持に役立てられ、同時にまた、一種の軍隊屯営、前進拠点、もしくは、その他の軍略上の要衝という一面を持っていたとおもわれる。


(今枝愛真『中世禅宗史の研究』1978年復刊より)


なんと、このように安国寺・利生塔の性格は、ただの寺院や仏塔ではなくて、信長権力や秀吉政権にとっての「天守」の役割にそっくりだったのです。


例えば秀吉の天守(と城)が小田原攻めでは突貫工事で築かれ、北条方への威圧として使われた一件や、その後も政権の版図を示すかのように、豊臣大名が次々と居城に天守を建て始めたことなどは、まるで歴史のデジャブのようです。

かくして「天守」に何が一番似ているか、という点で、安国寺・利生塔は外すことの出来ない存在だと思われるのです。


そこで信長や秀吉のねらいを推測しますと、日本六十余州にわたって、一国一塔ずつを(新機軸の「天守」で)建て直してしまうことは、室町幕府の消滅や織豊政権による再統一を“視覚化”させる上で、大いに役立つものと見なしたのかもしれません。


ただし重要なポイントとして、「天守」はそれに留まらず、海を越えて朝鮮半島にも多数が築かれたことはご承知のとおりです。

それらは織豊政権の「拡張主義」の結果であり、例えば400年後の世界でレーニン像が東欧・中央アジアからベトナムにも建てられたり、近年、毛沢東像がチベットや東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)であえて新設されたりしていることと同根の出来事なのでしょう。


レーニン像(ビシュケク)  毛沢東像(カシュガル)  

(※「毛沢東像」写真はサイト「心の旅」様からの引用です)

結局のところ、「天守」は何に一番似ているのか、という問いに答えを出すには、例えば倭城の天守の実像がもう少し見えて来るようなことでもないかぎり、現状では少々難しいのかもしれません。(残念…)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年10月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!覇城・安土城の山頂にも「大奥」の原形があった!





覇城・安土城の山頂にも「大奥」の原形があった!


のっけから余談で恐縮ですが、時代劇はこんなことも出来るんですね


左は公開中の問題作(?)男女逆転『大奥』のポスターですが、一方、右は1972年の痛快爆笑時代劇、『徳川セックス禁止令 色情大名』(東映京都/鈴木則文監督)でして、これは邦画史に輝ける怪作と申せましょう。


『大奥』は未見ですので、『徳川セックス…』の方で申しますと、真面目一本槍で育った殿様が突然、性愛の悦びに目覚め、それを知らなかった悔しさからトンデモナイお触れを出してしまい… といったストーリーです。

実際に、生類憐みの令の徳川綱吉や、無理なデノミを強行した金正日など、権力者のトンチンカンに泣かされた庶民、という類のお話はあるわけで、映画(メディア)製作者はそんな連想をうまく利用しつつ、なんとか1本仕上げたいと思うわけです。


その辺、男女逆転『大奥』はどんな風になっているのか… ポスターを見る限り、女将軍役の柴咲コウのほおがゲッソリしている(!)のは、なにやら作品の裏読みも出来そうで、気になるポイントです。

いずれにしても「大奥」という存在は、好事家の絶好の話題になりがちですが、城郭論から見ても「城」の本質に関わる大テーマなのです。




千田嘉博『戦国の城を歩く』(2009年/ちくま学芸文庫版)


さてさて、この辺りで本題に入らせていただきますが、前々回から申し上げて来た「信長の作法」は、肝心かなめの安土城では、どう反映されていたのでしょうか?

つまり安土城にも「大奥」の原形はあったのか――

このことを考える時、“山麓と山上にそれぞれ御殿をもち、大名自身は山上の御殿に住んだ”という「戦国期拠点城郭」を明らかにした、千田嘉博先生の指摘はたいへん参考になります。


観音寺城では山城のなかに大名も家臣たちも横並びに屋敷をかまえており、山上の常御殿は大名の政務の場としての比重が高いだけでなく、重臣たちも日常的に訪れた場所でした。こうした御殿のようすは大名と家臣たちが拮抗した横並びの権力構造をもったことと表裏の関係でした。
それにたいして岐阜城では大名である信長だけが突出して山上の屋敷を構え、大名と家臣との隔絶した権力の大きさを示しました。


(千田嘉博『戦国の城を歩く』2009/ちくま学芸文庫版より)





こういう岐阜城のあとに築かれた安土城は、「山麓と山上に分離していた御殿群を山上で統合した城」と言われて来ました。


となると、信長があれほど岐阜城で徹底させた家臣や訪問客との接見のスタイルは、安土ではどうなったのでしょう。

信長のことですから、いっそう度を極めたはずだと考える方が自然であり、そうだとすると、安土城の山上では、どのように「ハレ」(公)と「ケ」(私)の領域が棲み分けられたのでしょうか?


このことは例の、天皇を迎える「御幸の御間」の紛糾(それら御殿の配置がいまだにハッキリしない…)という問題もあって、殆ど解明されて来ていません。



そこで今回は、日本の城郭研究にとっても重要なこのテーマに、斬り込んでみたいと思います。その問題解決へのカギは――

「御礼銭、悉(ことごと)くも信長直に御手にとらせられ、御後へ投させられ」(『信長公記』)

と伝わる、家臣らを安土城に招いたおりの、信長の奇妙な振る舞いにあり、そこには思いも寄らぬ意味合いが隠れていたのです。




安土城の御殿配置をめぐって対立する二案

(A案) 安土城郭調査研究所(藤村泉所長)案


さて、ご覧の(A案)は、この20年、発掘調査を行ってきた安土城郭調査研究所が、本丸御殿は京の御所の清涼殿に酷似した建物だった、と発表して話題になった時の御殿配置です。

(B案) 広島大学大学院教授・三浦正幸案


それに対し、(B案)は、お馴染みの三浦正幸先生らが、伝本丸の礎石列を(A案)のように清涼殿に見立てるのは恣意的すぎる、として反論した際の御殿配置で、「御幸の御間」は伝二ノ丸(ここも本丸と想定)にあったとしています。


では、この両説はハレ(公)とケ(私)の領域を、それぞれどのように棲み分けているのでしょうか?


例えば、後に徳川幕府が招請した二条城の行幸では、天皇の行幸殿は、大名が参集する二ノ丸御殿のとなりに建てられたことを思うと、同じく天皇を迎える「御幸の御間」も、明らかに「ハレ」の領域にあったでしょう。

一方、信長と家族の住居だったと言われる「天主」は、明らかに「ケ」の領域であったはずです。となると…

(A案)の棲み分け/※数字は各曲輪の標高(m)


曲輪の標高に注目いただきたいのですが、この(A案)は「ハレ」と「ケ」の棲み分けが、おおむね曲輪の高さ(標高)に逆らわずに分布しているようです。

(B案)の棲み分け


一方、(B案)は、曲輪の高さとは関係なく、ハレとケの領域が分布していることになります。

例えば近年の城郭論では、曲輪の高低と求心性は、いわゆる「織豊期城郭」の縄張りの“肝”だと言われて来ています。

その意味においては、一見しますと、(A案 安土城郭調査研究所)の方が「織豊期城郭」に、より相応しい造形のようにも見えるのですが、どうなのでしょう??




信長の奇妙な振る舞い 〜信長はどこに立っていたのか〜


さて、やがて本能寺の変が起こる天正十年の正月、信長は家臣らを安土城に招き、主郭部の御殿を拝見させました。

この時の記録が『信長記』『信長公記』類にあり、特に「御馬廻・甲賀衆など御白洲へめされ」で始まる拝見ルートがたいへん詳しいものの、具体的にどういうルートになるかは、(A案)と(B案)でかなり違った結果になります。


(A案ルート) ※安土城郭調査研究所編著『図説安土城を掘る』2004より

(B案ルート) ※三浦正幸監修『よみがえる真説安土城』2006より


ご覧のとおり両者はまるで違う結果になってしまいますが、ただ、こうして見ますと、(A案)は「ハレ」の領域だけを拝見した形であることが判ります。

そして是非とも、ご確認いただきたいのが、「御幸の御間」の拝見が終わった後の、最後のくだりの描写なのです。


御幸の御間拝見の後、初めて参り候御白洲へ罷下り候処に、御台所の口へ祗候(しこう)候へと上意にて、御厩(うまや)の口に立たせられ、十疋宛(ずつ)の御礼銭、悉(ことごと)くも信長直に御手にとらせられ、御後へ投させられ、他国衆、金銀・唐物、様々の珍奇を尽し上覧に備へられ、生便敷(おびただしき)様躰申し足らず。

(『信長公記』より)


ここで何より重要なのは、信長が見せた行動の意味です。

信長は「御馬廻・甲賀衆など」が各々差し出した「御礼銭」を、みずから手で受け取って、後へ投げた(!)というのです。


この話は信長のユニークな性格を語る時によく使われますが、では何故、背後に投げたのか? という点に言及された方はいらっしゃらないように思います。

この件は、その時、信長がどこに立っていたかを類推でき、そこが「御台所の口」に近い「御厩の口」であるとなると、(A案)も(B案)も想定が崩れる可能性があるのです。


(A案)(B案)の「ハレ」と「ケ」



記事の最初の方で(A案)(B案)のハレとケの領域を確認しましたが、いずれにせよ、家臣らは「信長の住居である天主」には一歩も足を踏み入れていません。

ということは、この日、信長は家臣らに格別の配慮を示しつつも、本当のところは、「己が住居」(ケの領域)には基本的に立ち入らせなかったのではないか(!)という疑いが浮上します。


そういう可能性を踏まえて、受け取った「御礼銭」を背後に投げた、信長のアクションの意味を想像してみていただきたいのです。


―― 礼銭をほうり投げるのは無作法なようでいて、実は、それ自体が「銭を受領した」という意味になったのではないか。

――すなわち、「後に投げれば、あとは家の者が拾うから、どんどん手渡してくれ…」と。


つまり、信長はその時、ハレとケの領域の境界線上に当たる場所に立っていて、銭を背後に投げるという行為自体で、「銭は受け取った!」という意思表示をおおげさに家臣らに見せた、ということではなかったのでしょうか??




仮説<この日の信長の行動から推理した安土城主郭部の「ハレ」と「ケ」の棲み分け>


信長の立ち位置は、ご覧のような石段の下あたりだったと考えますと、文献上に残る“奇妙な”行動も、その場にいた者ならハッキリと判った、信長の意図が隠れていたことになります。


かくして「御厩の口」が本当に図のような位置だったとなりますと、いやおうなく「御台所」や「御厩」の位置をはじめ、天主取付台や伝二ノ丸の性格についても、色々と見直しが迫られるのかもしれません。

現状のままでは(A案ルート)(B案ルート)は共に、信長が銭を投げたのは、北東斜面の伝台所跡のあたりということであり、そんな裏手で銭をほおり投げて、何になるのか、心配になって来ます。

(※次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年09月22日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!仇敵・毛利家をも制覇した“信長の作法”





仇敵・毛利家をも制覇した“信長の作法”




前回ご覧いただいた江戸城の初代(慶長度)天守が、大手から見ると、やはり詰ノ丸の「左手前の隅角」にあった一件は、もちろん江戸城にとどまらず、様々な城に新たな解釈を加えるものです。

そこで今回は、この「作法」を適用してみるとスッキリ整理できる、各地の“天守の位置問題”についてお話しましょう。




A.中津城 〜信長の「作法」からも言える本来の天守位置〜


大分県の中津城は、近年、旧藩主の奥平家の関連会社が3億2000万円で売りに出したことで話題になりましたが、今夏、中津市への売却交渉が決裂したそうで、この調子では中国人資産家にでも買われてしまいそう(でも本丸の神社が障壁か…)で、先行きはかなり不透明です。

(※10月15日補筆/このほど売却先は東京の福祉事業を営む会社に決まったとのこと)

さらに、この城、かつて築城時に天守(三重櫓とも)があったと言われる所とは別の位置に、写真の鉄筋コンクリート造の模擬天守が建てられていて、なかなかに問題が多いのです。


中津城 現在の模擬天守



この城は藤堂高虎らと並ぶ“築城名人”黒田官兵衛(孝高/如水)が、豊臣秀吉から中津16万石を与えられて築いた、自らの居城です。

官兵衛にとっては、長年の秀吉に対する奉公の恩賞として得た城であり、また築城名人という意識も既にあったように推測されますので、当然、天守の位置をおざなりに決めるはずはありません。


今では城内の案内板等にも「本来の天守位置」が示されて来ていますが、この位置は、かつて本丸が「上段」と「下段」に分かれていた当時を考えますと、ちゃんと本丸上段の「左手前の隅角」になるのです。

ですから、この本来の天守位置は「信長の作法」から見ても正しく、かつ、その三重の建物はまぎれもなく「天守」であったはずだ、ということが補強的に説明できるわけです。

やや大げさに申しますと、そうした天守の“有職故実”を踏まえることも、築城名人にとっては必須の素養だったのかもしれません。




B.弘前城 〜定石を堅く守っていた築城時の五重天守〜


青森県の弘前城は、津軽為信が、徳川家康の許しを得て計画を開始した居城で、二代目の信牧のとき、五重の天守も完成したと言います。

しかし今、私たちが見られるのは、本丸の南東隅にある江戸後期の再建天守(三階櫓)であり、本来の五重天守は、向かって左側奥(南西隅)の見えづらい所にあったと『正保城絵図』に書き込まれています。

これには異説もあるものの、では何故、そんな場所に本来の天守があったというのか、理由は殆ど説明されて来ませんでした。


弘前城 江戸後期の再建天守



ですがご覧のとおり、本来の天守位置は、本丸の大手側から見ますと、ちゃんと「本丸の左手前の隅角」にあるわけで、言わば家康と同様に、天守の「作法」に従っていたに過ぎないのです。

5万石に満たない津軽家は、分不相応の巨大な城郭と五重天守を築くにあたって、定石を踏まえることに強くこだわったのではないでしょうか。

私見ですが、二ノ丸の現存の櫓群にしても、どことなく「聚楽第図屏風」の櫓群に似ているように感じられてなりません。




C.萩城 〜仇敵・毛利家にまで及んだ信長の天守立地「作法」〜


さて、織田信長は、備中高松城で毛利勢と対峙する秀吉の援軍要請を受け、明智光秀に出陣を命じたところ、逆にその明智勢に一命を絶たれてしまいました。

思えば、信長に追われた足利義昭を迎え入れ、石山本願寺に補給を行うなど、毛利家は一貫して信長の仇敵でした。

その毛利家が、関ヶ原の敗戦後に萩に居城を移したとき、何故かご覧のとおり、天守を「本丸の左手前の隅角」に建てているのです。


萩城の本丸跡 向かって左奥がやはり天守台!



これは実に不思議な光景に見えてならないのですが、信長の怨讐が、ついに毛利家にのしかかった結果なのでしょうか……

でも、以前の郡山城の時代にも、秀吉の軍門に下った毛利輝元が、城山の山頂に本丸と天守を築いたとき、大手から見て左側に天守台を寄せている点など、すでに不可解な現象は始まっていたようです。

もしかすると、秀吉の政権下で「信長の作法」は天下の作法として定着し、それはもはや天下人の秀吉や家康に従うポーズに変容していたのかもしれません。


岐阜城 山麓居館と山頂部の城塞


いずれにしましても、信長の岐阜城から始まった同様の天守位置は、例えば洲本城や村上城など、各地の城でなぞるように踏襲され、それは思わぬ城にも及んでいたのです。


D.順天城(韓国) 〜天下布武の城・岐阜城の「作法」が援用された城〜


秀吉が軍を差し向けた文禄・慶長の役で、朝鮮半島に築かれた「倭城」群にも、それぞれ天守のあったことが記録されています。

しかし多くは、狭小な峰上に本丸を細長く縄張りしたためか、峰の方角にしばられて、天守の立地は種々雑多なものになっています。

そんな中でも比較的、余裕を持って縄張りされたように感じるのが、半島南岸に並んだ倭城群の最左翼にあった、順天城です。


順天城の城址(韓国 全羅南道/曲輪の名は仮称)


築城者は浅野家文書から宇喜多秀家と藤堂高虎(在番は小西行長)とされ、ご覧のとおり、ここにも岐阜城と同じ天守位置が繰り返されているようなのです。

ということは、信長の「作法」は朝鮮半島にも及んだのでしょうか?


ここで改めて申しますと、戦国時代を日本の国家の分裂状態と見なし、新たな武器・戦法によって中央集権的な体制に再統一すべく戦争を続けたのが、信長の「天下布武」政策であったとするなら、天守とは、その版図を示す“維新碑”であったろう、というのが当サイトの主張です。


ですから、そうした天守が、秀吉の指示で朝鮮に建てられたとき、信長が「天下布武」印を使い始めた岐阜城の景観が、あるべき姿として援用されたことは、半島南部の“切り取り戦”「慶長の役」に対する、秀家と高虎の意識を表しているかのようで、誠に興味深いのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年08月23日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?





それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?


金閣(昭和25年焼失前の様子)ウィキペディアより


紫の僧院(大徳寺)から半里、あるいはそれ以上進むと、かつてある公方様が静養するために設けた場所がある。そこは非常に古い場所なので、今なお大いに一見に値する。同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の小さい塔のような建物がある。
(中略)
二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。回廊が付いた上階はすべて塗金されていた。そこは、かつては公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池全体を眺め、気が向けば建物の中にいながら池で釣りをしていた。
上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは(空白アリ)パルモ、幅は(空白アリ)パルモで、まったく滑らかで、たった一つの節もない。


(松田毅一・川崎桃太訳 フロイス著『日本史』第一部五八章より)


ルイス・フロイスが遺した膨大な『日本史』の原稿は、ご承知のように数奇な運命をたどり、ようやく昭和50年代に松田毅一・川崎桃太両先生の翻訳で、現存する全文が日本語で読めるまでになりました。

とりわけ上記の第一部五八章、六十章、六一章などは、宣教師が京や奈良で見た建築物を精力的に描写していて、ご覧の「金閣」はむしろあっさりした部類で、三十三間堂、東福寺、興福寺、春日大社、東大寺(頼朝再建の!)は長文での紹介になっています。

注目すべきは、そんな松田・川崎訳『日本史』全12巻を通じて、金閣と同様に“階ごとに建物内部を描写した建物”は、わずかに5例だけ、という点でしょう。

1.金閣(第一部五八章)
2.岐阜城山麓の信長公居館(第一部八九章)
3.都の聖母教会(第一部一〇五章)
4.安土の修道院(第二部二五章)
5.豊臣大坂城天守(第二部七五章)



わずかに5例と申しましても、これはもちろん母数が宣教師の訪れた場所に限られますし、また記載を見送った建物も数多くあったはずで、現に、この中には意外にも安土城天主が含まれておりません。

ですが、ここで申し上げたいのは、岐阜の信長公居館が、こうして金閣や南蛮寺と同様の表記法で書かれている以上は、やはり同じく「楼閣」だったのではないか、という指摘に他なりません。


そこで今回は、ザックリとその楼閣の規模や意匠を推理し、ひょっとすると日本建築史上、複数階の楼閣として最大、かつ最も豪壮華麗な建物だったのでは? というお話を致します。



信長公居館の高さ…

当ブログはこれまでの記事で「四階建て楼閣」と申し上げて来ましたが、より厳密には、その階数について、フロイス『日本史』とほぼ同文の『耶蘇会士日本通信』に、たいへん気になる“一語”が紛れ込んでいるのです。すなわち…


第一階には十五又は二十の座敷あり。其ビオブ(黄金を以て飾りたる板戸なり)の締金及び釘は皆純金を用ひたり。座敷の周囲に地階と同平面の縁あり。甚だ良き木材を用ひたり。其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし。縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


これは一階の紹介文ですが、赤字で示した「座敷の周囲に地階と同平面の縁あり」はフロイス『日本史』には無い情報で、つまり一階の座敷と縁の下にそれと同平面(同規模)の「地階」があったと言うのです。

冒頭で申し上げたとおり、あれだけ各地で日本建築を見たフロイスが、よもや単なる床下程度のものを、わざわざ「地階」と書くとは思われません。
やはりそれなりの高さや構造の地階があったとしますと、楼閣全体は相当な規模に達していたようなのです。


それは後の五重天守を先取りするほどの規模だった!?


ご覧の模式図は、「地階」という問題の一語を踏まえつつ、さらに一階、二階、三階、四階のいずれにも「前廊」があった、と書かれている点をキッチリと反映させて、宮上茂隆先生のように三階を屋根裏階としてしまうような解釈はせずに、素直に描いてみたものです。

前々回も指摘しましたとおり、「前廊」は、『日本史』の用例から見て「縁側」か「廻縁」の類であることは充分に想像できますので、したがって全体のプロポーションは金閣・銀閣と同様の楼閣スタイルか、若干の変異形だろうと考えました。


「其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし」(前掲文より)

しかもその「前廊」は黒漆で仕上げられ、鏡のようだった、という一文は、後の安土城天主での「御座敷内外柱惣に、漆ニ而布を着せられ、其上皆黒漆也」という記録を思わせ、信長はそうとうに黒漆の仕上げが好みだったのだなと感じさせるものです。



信長公居館の意匠…

飛雲閣(二階の縁の板戸に三十六歌仙の絵が描かれている)ウィキペディアより


さて、前掲の一階の紹介文に「縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり」とある所は、思わず、後に建てられた飛雲閣の二階部分を連想させます。

では信長公居館では、こうした華麗な板絵が一階を廻っていたのでしょうか?


飛雲閣の場合、板絵は表と内側に一人ずつ描いていて、室内からも三十六歌仙が並ぶところを鑑賞できる形になっています。

思うに、紹介文の「日本及び支那の古き歴史」という画題も、どちらかと申せば、文人墨客にまつわる絵の方が、岐阜城山麓の下段(「奥」)の茶室と同居する空間にはふさわしいのかもしれません。

そうしたことから、この楼閣の一階は、会所のような広間を中心に、二十近い納戸や控えの間が連なる場所だった、と推理することも出来そうです。



ご参考:金襴(きんらん)の拝敷き(→愛知県の垂本畳店さんのサイトをご参照下さい


さて、フロイス『日本史』の二階の記述には、「市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて」という一文があるため、「金襴の幕」は何か古代王朝風の幕が御簾のかわりに廻っていたようにも言われて来ました。

ところが前述の『耶蘇会士日本通信』では、この部分の表現がやや違っていて、むしろこちらの方がずっと合理的に解釈できそうなのです。


宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


このように「座敷は金襴の布を張り」という形に「布」とされていて、しかも「座敷は」と畳敷きの間である前提で述べています。

これは結局、金襴を畳の縁に使用した、と考える方が、古代王朝風の幕よりもずっと現実的なのではないでしょうか?

つまり『日本史』の「市の側も山の側も」という部分は、『耶蘇会士日本通信』の「町の一部及び山を見るべし」という箇所の形容詞と取り違えたのかもしれません。




さて最後に、三階の「茶室」問題についても、同様に『耶蘇会士日本通信』に見逃せない一文が加わっているのです。


第三階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり、其巧妙完備せることは少くとも予が能力を以て之を述ぶること能はず、又之を過賞すること能はず。予は嘗て此の如き物を観たることなし

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)


つまり、この茶室は「予は嘗て此の如き物を観たることなし」というように、フロイスがここで初めて見たスタイルの茶室である、という重要な“ただし書き”が付いているわけです。

フロイスは大友宗麟の城も、都の将軍邸も、堺の有力商人の屋敷も訪れていて、そんな人物がこういう書きぶりを見せているだけに、信長の茶室はそうとうに奇抜なもの… 例えば、橋廊下の途中に設けた観望の茶亭だったのでは… などという妄想が思わず広がってしまうのです。


それは日本の楼閣で史上最大、かつ華麗なる意匠の集大成!?


※岐阜城の話題は今回で一旦、終了いたします。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年08月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「白い四階建て月見櫓」の立地場所をさぐる





「白い四階建て月見櫓」の立地場所をさぐる


足利義政の「白い銀閣」をイメージするうってつけの建物、見つけました

足利市の法楽寺本堂/銀閣を模して昭和58年に建立 →関連サイトはこちら



さて、どうも岐阜市や関係者の方々の間には、悲願の岐阜城「信長公居館」の復元に一歩でも二歩でも近づきたい!…との強い思惑があるのかもしれませんが、その焦りのような空気が、東京の方にまで漂って来ている感があります。

居館の痕跡が見つからなかった有力候補地(明治大帝像前)


ことに近年、関係する専門家の方々が、信長の山麓居館について、『フロイス日本史』に描かれた豪華さや破格ぶりを疑問視して、「豪華さは可能性の一つ」などと、或る種の“防御線”を張っている辺りに、それが如実に感じられてしまいます。

そうした防御線の狙いは、おそらくは、発掘調査で礎石などの直接的な物証が挙がっていない状況下でも、現地の山側奥に、簡素な信長公居館(!)を想定しうるように、今から期待値を下げておく点にあるのではないかと、城郭ファンの目には見えてしまいます。



一方、四階建て月見櫓ならば、銀閣と同様に「橋廊下」も想定できる…


一方、当ブログが執拗に(?)申し上げているのは、『フロイス日本史』の「予の邸」とは、織田信長が主殿(「大きい広間」)と別個に、庭園(山里)に設けた遊興のための楼閣ではなかったのか、という新たな視点です。

しかも前回の記事で申し上げたように、この楼閣(四階建て月見櫓)は、いわゆるアルカラ版のフロイス日本史ですと、いっそう輪郭がハッキリして来るようなのです。


アルカラ版の日本史とは、お馴染みの松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』が、フロイスの母国語ポルトガル語の写本から翻訳したのに対し、岐阜市歴史博物館が所蔵するスペイン・アルカラで印刷されたスペイン語訳フロイス書簡集から、同館の高木洋先生が翻訳したもので、通称「アルカラ版」と呼ばれています。


この両者の翻訳文には微妙な違いがあり、中にはけっこう重要な単語も含まれていて、その最たるものは「三階は山と同じ高さ」が、なんと「三階と山は平行」(!)に変わっている点でしょう。


この「平行」という表現は、当ブログが申し上げた山麓居館「上段」と楼閣の三階が、まさに同一の高さ(水平レベル)にあって、それを橋廊下が定規のようになって、歴然と見てとれる様子を描写したものではないでしょうか?

この点に関しては、高木先生ご自身も、三階と山をむすぶ渡り廊下の可能性に言及されていて、先生にも是非、白い四階建て月見櫓の方もご検討いただけましたら、恐悦至極です。





さて、ではこの下段にあたる岐阜公園の平地のどこに、四階建て月見櫓は建っていたと考えられるのでしょうか?


この部分は戦国から江戸時代まで、文献の記録が乏しく、岐阜城の歴史では定評ある村瀬茂七『稲葉山城史』(1937年)でもハッキリとしません。

第三篇の第三章「居館」には、フロイスなど宣教師関連の情報以外では、「千畳敷段々下西に南北へ桐の馬場跡あり今は畑となる」(岐陽故事)とか、「此の屋敷に用ひたりし石材は加納城築造の時全部引移され其影だになし」(金華山史)とあるのみです。


そして幕末はただの荒地になっていましたが、明治以降は一転して、公園化とともに宗教施設、物産陳列場、柔道場、動物園など、ありとあらゆる施設が建設・解体を繰り返した場所だそうです。


昭和11年「躍進日本大博覧会」の会場配置図から作成


特に戦前、昭和11年(1936年)に岐阜公園と長良川河畔で開催された「躍進日本大博覧会」では、約30棟もの展示館(パビリオン)が建ち並びました。

この時は、なんと巨石通路の上にも、明治大帝像前にも、池の際にも、各種の建物があったそうで、しかし逆を申せば、そんな試練にも巨石通路は地中で生き抜いたわけですから、これはむしろ勇気を与えてくれる一件なのかもしれません。


(※こうした岐阜公園の歴史については、岐阜市歴史博物館ボランティアガイドの後藤征夫さんのサイト「岐阜公園の移り変わり」にも詳しいのでご参照下さい。)


さて、上図で見逃せないポイントは、岐阜公園の「池」がこの時、すでにあったという事実ではないでしょうか…



この「池」が、果たしていつの時代までさかのぼれるかは、先の『稲葉山城史』にも記載がなく、『岐阜市史』でも、岐阜公園の開園からの記録の中で「池」の整備に触れた言葉は一つもありません。

しかし、ろくに記録が無い、ということは、ひょっとするとこの池は、江戸時代から藪の中に“原形”があって、その後、時代ごとに「庭の手入れ」の範ちゅうで整えられて来た、という可能性もあるように思われます。


そこで、当サイトからのご提案として、今後の発掘調査の中で、是非一度、この「池」を調査してみてはいかがでしょうか?



かの銀閣も錦鏡池のほとりに建っている


もし「池」が相当に古いものをベースにしている、という何らかの手掛かりが得られれば、それだけでも、そこが庭園(山里)であった可能性が生まれ、展望が大きく開けて来るように思うのです。

結論として、今後もなお、発掘調査の方々が作業を続行できるように予算を付けて頂き、とにかく“全部を”確認したうえで、「信長公居館」の跡地認定や復元に歩を進めるべきではないでしょうか?




追記:四階建て月見櫓の「位置」を逆算する方法

さて、この際、もっと調査範囲を限定できるイイ方法はないものか? と考えますと、次の二つが思い浮かびます。

1.銀閣と月待山の位置関係を金華山に立体的に当てはめる

2.中秋の名月が金華山の山頂天守に重なって見える地点をさがす


1の方法は手軽なようですが、月待山は割となだらかな山であるため、どの辺に月が出るのを良しとするかで、答えが変わって来ます。

また2の方法は、山を見上げる角度が、金華山は月待山よりほんの何度か高くなるため、その分の月の動きを私は計算できず、いっそ今年あたり、現地で確認してみるのが一番、確実なのかもしれません。………








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年07月26日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!





岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!


――岐阜城の山麓居館には、足利義政の「白い銀閣」に由来した、四階建て楼閣が存在したのではないか?

――しかもその場所は、岐阜公園の真っ只中ではなかったのか?

前々回から、発掘調査関係者の神経にさわるような記事を続けておりますが、これは取りも直さず…

 <本当にこのまま階段状御殿説で突っ走ってもいいのですか>

という、率直な危惧から出た声でもあります。


山麓居館跡の山側奥に「天主」を想定した宮上茂隆案

(成美堂出版『信長の城と戦略』1997より)

かつては織田信長の山麓居館に関して、ご覧のような宮上茂隆先生の「天主説」が話題になりましたが、これに対して、文献にいっそう忠実な復元を行い、信長の居館は階段状の土地に御殿が建ち並んだもの、と考えたのが「階段状御殿説」でした。

この考え方を支持された研究者には、例えば秋田裕毅先生、村田修三先生、小島道裕先生といった方々がいらっしゃったわけですが、しかしその後、発掘調査では山麓居館跡の山側(明治大帝像前やその奥)で、それらしい礎石などの“直接的な物証”は発見されませんでした。

したがって先の宮上「天主」説はもちろんのこと、階段状御殿説も、もはや階段状に見立てられる土地はロープウェー山麓駅の周辺ぐらいしか残っていないため、両説ともに難しい局面にあります。

そんな中にあって、岐阜市では、階段状御殿説に沿って、山側の最も奥まったエリアを、“直接的な物証”の無いまま「信長公居館跡」と認定していく方向のようなのです。




こうした現地の情勢に一抹の危惧を感じながら、当ブログは、まだ未発掘の範囲に「白い四階建て楼閣(月見櫓)」を考えうるのではないか、と申し上げているわけです。

そのため今回は、『フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳/今回は中公文庫版)に基づいて、階段状御殿説よりいっそう「文言どおり」に復元するとどうなるか? という試みをご覧下さい。

注目したい「文言」は次の三つで、ここから新たな突破口が見えそうです。

1.「貴殿に予の邸を見せたい」
2.「約二十の部屋」
3.「三階は山と同じ高さ」





1.「貴殿に予の邸を見せたい」

『フロイス日本史』はフロイスが語り手ですが、信長自身は問題の建物(四階建て楼閣?)を「予の邸」と呼んだ事になっています。その前後の文面は…


宮殿は非常に高いある山の麓にあり(中略)広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます。
ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」と。


(※このあと「予の邸」の見聞録が始まる)


さて、信長がフロイスらにこう語りかけた時、彼らは一体、どこに立っていたのでしょう。

翻訳文を本当にこのまま受け取るなら、信長の言う「予の邸」は、第一に、前廊と歩廊のある「大きい広間」とは、別途の建物であったことが確認できます。


第二に、「予の邸」は、ヨーロッパやインドの建築に見劣りするかもしれないが、少なくとも、フロイスらが“日本国内では見たことのない珍しい建物”である点を、信長は言外に臭わせています。


そして第三に、「予の邸」はその時点ではまだ姿が見えていない、という推測も十分に成り立ちます。
そうでなくては、信長は丸見えの「予の邸」の前で、「見せたものかどうか躊躇する」とグダグダ前置きを並べた(!)ことになってしまいます…。


当ブログが申し上げる「文言どおり」とは、こういう観点であり、ここまで忠実に考えますと、「予の邸」は石段(巨石通路)の上の「大きい広間」からは見えない範囲にあった可能性が濃厚です。






2.「約二十の部屋」

「予の邸」の規模を知るうえで、重要な手掛かりになるのが、この文言です。
次の文面からは、この建物の一階が、少なくとも「約二十」に部屋割りされていたことが確認できます。


私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語るところによれば、それらの幾つかは、内部においてはことに、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとのことです。


ところが、こうなりますと、まさに「部屋数」が問題なのです。
何故なら、城の大広間のような御殿は、意外と部屋数が少ないからです。


聚楽第大広間/かの聚楽第でも、縁をすべて除けば部屋数は10そこそこ


前出の「前廊と歩廊のついた大きい広間」の「前廊」が縁側を意味し、「歩廊」が広縁(上図「廣縁」「ひろゑん」)を意味したことは充分に想像でき、したがってフロイスはこの点をちゃんと理解していたようです。

一方、安土城天主や福知山城天守など、信長の頃までの天守はたいへん部屋数の多かったことが、文献や絵図から判明しています。


『天守指図』二重目(天主台上の初重)/この階は文献『安土日記』でも部屋数が19


以上の点から申しまして、この建物の一階に「約二十の部屋」があった、という文言がある限り、それは御殿建築ではなく、むしろ“天守に近い楼閣建築”と考える方が自然なのです。



3.「三階は山と同じ高さ」

さて、一連の文章で最も不思議な表現と言われるのが、この部分です。


三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。


金華山の山頂は比高322mですから、「三階は山と同じ高さ」はあまりに不自然で、普通では考えられない表現であるため、大方の人々がこれを真正面から取り合おうとしません。

たとえ山側の奥に階段状御殿を想定したとしても、「三階は山と同じ高さ」は少々無理を含んだ解釈にならざるをえず、「では四階の高さは?」と問われたら、それも「山と同じ高さ」と答えざるをえません。


ところが、この「三階は山と同じ高さ」を極力、文言どおりに受け取る手立ては、無いことも無いのです。




このように岐阜公園の平地のどこかに「四階建て楼閣」を想定しますと、その三階の床は地上6〜8m程の高さはあるでしょう。

それはちょうど、図の等高線のとおり、ロープウェー山麓駅の地表高とほぼ同じ高さであり、そして山麓居館の全体の地形を「上段」「下段」に分けてみますと、「山」は「上段」と同義語のようにも見えて来ます。

ましてやそこに信長の御主殿があったのなら、それを「山」と称するのは、家臣団の誰かが発した呼び名を、そのまま引用した文言のようにも想像できます。




いささか唐突ではありますが、この点に関連して、階段状御殿説を支持された小島道裕先生は、次のようにも述べられていて、この問題を整理するうえでたいへん参考になります。


岐阜城について見れば、山麓の館は、基本的に外に開かれたハレの場で、公式な面会はまず麓で行っているが、そこにも主殿相当の「表」の広間と、文字通り「奥」に相当する茶室の使い分けがあった。茶室は、本来の室町幕府の建物にはない。新しい趣向と言えよう。

(小島道裕『信長とは何か』2006より)


つまり小島先生は、山麓の館にも「表」と「奥」が存在したとおっしゃっているわけです。

ただし「表」「奥」は現代的な感覚では、手前を「表」、その向こうを「奥」と感じてしまいます。

ところが織豊政権の城郭では、地表高の低い下段が(手前であっても)茶室や山里のある「奥」であったケースは多く、それらを踏まえて小島先生の解説を当てはめますと、次のようになるのでしょう。




(前記と同じ文章)

三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。


では最後にもう一点、文中の「一種の茶室が付いた廊下」という部分です。

実は、かの銀閣は、二階から「橋廊下」が伸びていて、地上と連絡していたことが判って来ました。

となりますと、同様の「橋廊下」がこちらは三階にあって、途中に「一種の茶室」(亭)が付設された形で、「上段」まで水平移動で連絡していた、という可能性が考えられるのではないでしょうか?


そんな驚異的な構造は、アルカラ版の『フロイス日本史』ですと、いっそう明確に読み取ることが出来て、興味津々なのです。

例えば東福寺の通天橋のごとく?



(※この建物の話題は、次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年07月16日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の四階建て楼閣は「月見櫓」ではないのか





信長の四階建て楼閣は「月見櫓」ではないのか




(※今回は記事のアップが極端に遅くなってしまい、失礼しました。)

さて、前回は、岐阜城の山麓居館跡と慈照寺の現状を、試しに合成してみた図をご覧いただきました。

そしてこの図からもう一つ読み取れることは、いま山麓居館跡の発掘調査は“或る禁断の領域”をジワジワと囲い込むように進められている、という点でしょう。
と申しますのは…




ご覧のように、これまでの発掘場所が取り囲む中心に、岐阜城観光の大動脈である「金華山ロープウェー」山麓駅とその入口周辺がポッカリと残されていることは、誰の目にも明らかです。

この場所はちょうど、巨石通路と州浜の庭園跡にはさまれたエリアでもあり、当然、何かがあって然るべき場所だと申せましょう。

それは仮に、次のような「導線」を考えてみますと、ある程度の可能性はありうるように思えて来ます。


※ムラサキ色の文字等は当ブログの勝手な推定を含む


こんなふうに勝手気ままに申し上げて調査関係者の方々には恐縮ですが、これは、拙宅のある東京・八王子の八王子城の印象に強くダブるものでして、ご承知のように八王子城は、北条氏照(うじてる)が重臣を安土城の織田信長のもとへ派遣したのち、石垣造りの大規模な改修を行ったとされる城です。

城の概略を申せば、山頂に曲輪群のある深沢山の山すそに氏照の「御主殿」があるわけですが、それは手前の「引橋」を渡って入る形であり、また「御主殿」の奥の山側には氏照の「庭」が設けてあるという、岐阜城に酷似したプランを感じさせるものです。

八王子城 御主殿に至る橋(橋の脚部は現代工法による)


もし岐阜城の山麓居館にも、どこかにこうした類の橋を考えられるのならば、その先のロープウェー山麓駅と入口周辺は、まさに信長の「御主殿」があっても不思議ではないように思われるのです。


金華山ロープウェー山麓駅(写真=ウィキペディアより)この地面の下に??


地元では長年、「信長公居館」を復元したいとの計画を掲げておられますが、この場所の可能性を確認するには、金華山ロープウェーの運営会社(名鉄グループ)が、例えて言えば、姫路城天守を何年も覆い隠すような大英断(?)を出来るのかどうか、また掘ったとしても開業当時からの工事で地中に「物」があるかどうかも余談を許さず、二重三重の障壁がありそうです。

結局、この場所はアンタッチャブルなゾーンとして、永久に候補地から除外されてしまいそうで、そうなると信長公居館の「階段状御殿説」は有力な候補地の一つを失うことにもなるのでしょう。





一方、前回から申し上げているとおり、山麓居館全体のプランを、足利義政の東山山荘との関連から考えるならば、楼閣(信長の四階建て楼閣)はずっと手前の岐阜公園内にあったことになりそうです。

そもそも義政の銀閣は、月見の楼閣として、すぐ東の月待山にのぼる月をめでるために建てられたわけですから、信長の四階建て楼閣もまた、金華山を見上げて東向きに建っていたと考えることも可能でしょう。

そのためにはある程度、山すそから離れないと、金華山の山頂(天守)は見えないという物理的条件が付きます。

いずれにしましても、真相究明のキーワードは「月見」であって、そこから信長の一大構想が見えて来るようにも思われるのです。



岡山城に現存する月見櫓


ご覧の岡山城の月見櫓は、内側から眺めると三階建てに見え、城外からは二重櫓に見えるという特異な構造で知られています。最上階は月見のために、東と南が開放的な造りになっています。

こうした月見櫓を建てた例は歴史上に数多くありましたが、特殊ケースの松本城を除くと、それらの位置取りは大きく二つのパターンに分かれます。


一つは、本丸の「南東隅」の石垣上に建つスタイルで、東と南を大きく見晴らす上では合理的で、福山城や福岡城などがそうした形です。

もう一つが、写真の岡山城のスタイルで、これは逆に「北西隅」の石垣上に建っていて、つまり安全な城内側を月見の方角にして、開放的な造りを可能にしたものです。

実は、これと同じ位置取りと思われるのが、豊臣大坂城なのです。




ご覧のとおり、この月見櫓から東の空にのぼる月を見たとしますと、それは天守と重ねて(!)眺めることが出来るのです。(岡山城も同様)

「天守と月」…これはいったい何を意味するのだろうか、と考えたとき、まず頭に浮かぶのは、秀吉の黄金の大坂城天守について、宣教師が書き残した文言です。



地の太陽は殆ど天の太陽を暗くすると言へるごとく、光輝爛々たる者なり

(『日本西教史』1931年翻訳版より)



つまり秀吉の黄金天守は「太陽」に見立てられたのであり、一方、それを「月」と共に眺められる位置に月見櫓があって、もしも、その発祥が信長の四階建て楼閣、いや足利義政の「白い銀閣」だとしたら、そこにはひょっとすると、彼等の秘められた一大構想が存在したと見て取ることも出来るのではないでしょうか?

そこで、この際、信長の四階建て楼閣は「月見櫓」の発祥だったのではないか、と申し上げておきたいと思うのです。




――この山麓居館の平地には山里庭園が広がり、その池のほとりに信長の「四階建て楼閣」が建ち、金華山のはるか山頂には「天守」が輝き、日が暮れると一転して、黒いシルエットになった天守の近くに「月」が浮かぶ…

そんな空間を想像するとき、諸芸の祖・足利義政にあこがれた信長の目論見が、ようやく見えて来た感もあるのですが、いかがお感じでしょうか?



次回は、四階建て楼閣の具体像について、可能な限りお伝えしてみたいと思います。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!白い銀閣と義政公遠見の櫓が物語るもの





白い銀閣と義政公遠見の櫓が物語るもの


報道記事【秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる】
読売オンライン
読売関西発
産経関西

本当に色々なニュースが飛び込んで来るもので、大坂城についても今年度のリポート「秀吉の大坂城・後篇」の準備が気になっていた矢先でした。

思わずオンライン各紙の文面に見入ってしまいましたが、第一報では詳細が分からないものの、発見された「石組み溝」は「地表から約4メートルの深さ」「地表から約3メートル掘り下げた」とあるのが大変、気がかりです。

もし豊臣時代の山里丸(山里曲輪)が現状より3〜4メートルも深かったとなると、従来の諸先生方の復元は、曲輪の地表高に“かなりの見直し”が迫られるのかもしれません。

――それとも、これって、全焼した石山本願寺の遺構なのでは? と問い正したくもなりますが、少なくとも中井家蔵『本丸図』を参照するかぎり、石組み溝が豊臣時代のものならば、それは秀吉の茶室うんぬんといった話ではなく、下図の「井戸」関連の溝と考えるのが、最も自然な見方だと思われます。


『本丸図』山里丸の井戸(赤印:ニュースの「略図」による石組み溝の位置)


「なんだ井戸か」と気落ちする必要はなくて、むしろこの井戸の存在を証明するものなら、それこそ豊臣大坂城の解明にとって重大な、「秀吉の茶室うんぬん」をはるかに凌駕する歴史的発見であって、それが何故かは、今年度のリポートの中でとくとご説明したいと存じます。

いずれにしましても、来月からの大阪歴史博物館での展示報告が注目されます。


さて、今回の記事で予定していたのは、(三浦正幸先生の江戸城天守の件についても機会を改めて申し上げる事として)またまた別の話題なのです。



慈照寺 銀閣(足利義政の東山山荘・観音殿)


NHK『銀閣よみがえる 〜その500年の謎〜』でも話題になったように、かの「銀閣」は、かつては二層目の壁面に「白土」が塗られていて、言わば白銀色の楼閣であったことから、その名がついた可能性が言われています。

これは城郭の分野においても、様々な推論を生む発見だったように思います。

とりわけ当サイトは「安土城天主は白亜に輝いていた」「黎明期の天守はすでに白かった」等々と申し上げているため、この新発見には注目せざるをえません。


しかしその場合、織田信長がそこから何を汲み取ったか、が問題の焦点になるため、ただ単に銀閣の色彩だけを注視してはならないように思います。

――「義政公遠見之櫓」(よしまさこう とおみのやぐら)。

義政の東山山荘は決して、失意の元将軍の“引きこもり”の館であったわけではなく、東の中尾山(標高280m)山頂の櫓から、つねに都の異変を見張らせていたのであって、そうした義政の構想は、山麓と山頂をセットで考えなければ把握できないでしょう。


北西からの眺め/左が中尾山、奥が大文字と如意ケ岳


この義政公遠見の櫓と東山山荘との位置関係を確認してみますと…




ご覧のように両者は、京都東山の山すそと峰の一つを使って、大きな西向き斜面の上下の端にそれぞれ配置されていました。

では、これと同縮尺の地図で、義政の没年から約80年後、織田信長の居城・岐阜城をご覧いただきますと…




岐阜城も山麓の居館と山頂部の城塞(天守ほか)が空間的に分離していて、その配置はやはり、大きな西向き斜面の上下の端にレイアウトされています。

つまり用途は別として、形としては、義政公遠見の櫓は岐阜城の山頂天守に、また銀閣は山麓居館の「四階建て楼閣」(かつて宮上茂隆先生はこれを「天主」と主張)に対応していた、とも読み取れるのです。



足利義政と言いますと、一般的には、応仁の乱をまねいた室町将軍というレッテルがつきまといます。
しかし新時代の覇王・信長の「東山御物」への執着ぶりは有名で、茶道、華道、香道、作庭、能楽といった「諸芸の祖」義政に対する強い憧憬(あこがれ)を持っていたことは、誰もが認めるところです。

しかも正倉院宝物の香木・蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りについても、義政が行ったことは広く知られていて、信長は義政に続く天下人ならんと意図したことも明らかでしょう。


かくして足利義政と織田信長、二人の間には、一定の価値観の共有があった、と考えるならば、「銀閣」を通じて「四階建て楼閣」の問題にアプローチすることも出来るのではないでしょうか??

(※ご承知のとおり、近年、岐阜城の山麓居館跡では発掘調査が行われ、数々の発見があったものの、四階建て楼閣の痕跡は発見されず、当ブログでは楼閣説と階段状御殿説の折衷案などを記事にしましたが、なお展望は開けておりません。そこで…)


すなわち銀閣は創建以来、東山山荘の池の西側で、東を向いて建っているわけで、そうした位置取りを、岐阜城の山麓居館に当てはめてみるとどうなるでしょうか。

――下の図は、ともに同縮尺・同方位で、仮に、両者の池の滝口の位置を重ねる形で合成してみたものです。


岐阜城の山麓居館と東山山荘(赤い表示:慈照寺の現状)


なんと、こうしてみますと銀閣は、発掘調査で注目された巨石通路や明治大帝像前といった場所ではなく、ずっと手前の、岐阜公園の園内で、来園者が売店の味噌田楽などを手にブラブラ散策している真っ只中にあることになります。

ということは、ひょっとすると四階建て楼閣も、これまで発掘調査を行ってきた領域とは、まるで見当違いの範囲に建っていたことにもなりかねないのです。


岐阜公園(池の奥に巨石通路/園内広場の遠景の嶺に山頂天守)


こうした考え方には、巨石通路と『フロイス日本史』の描写と順序が違ってしまうという反論がありえますが、それに関しては、かの「銀閣寺垣」のような巨石列のアプローチが、手前の城下側にもあったのかもしれません。

また四階建て楼閣そのものが、楼閣ではなく、四段に造成された土地に建ちならぶ御殿群である、という主張も有力ではあるものの、この主張は多分に、現状の発掘調査範囲の地形を前提にした発想によるものではないのでしょうか??


以上の論点は、ひとえに「銀閣」という、境内の内側を向いて建つ建築を想定することで、初めて見えて来る「視点」だという所が肝心です。

そしてもし信長の四階建て楼閣が東を(つまり城内側を)正面にしていたなら、この先例が、のちに豊臣秀吉が大成する「天守と山里」が併設された城、すなわち「公と私」が上下の段差をもって向き合う城郭スタイル、にまで発展したようにも思われるのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年06月15日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・ドンジョンvs天守!翻訳の隠れた意図をさぐる





続・ドンジョンvs天守! 翻訳の隠れた意図をさぐる


Donjon     vs     Tenshu
ピュイヴェール城(フランス)        丸岡城(福井県)


前回も申し上げたとおり、初めて天守をDonjonと翻訳した書物は特定できておりませんが、「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、実のところ、日本の城郭研究の側からの“呼び水”があった節があります。

それは古くは、戦前から活躍した城郭研究のパイオニアの一人、大類伸(おおるいのぶる)先生の著作にもさかのぼります。



要するに天守閣は封建時代の階級的思想の表現である。少数の武士階級が、多数の民衆を圧服して、社会に立つた時代の産物に外ならぬ。これが支那思想の産物であるとは到底考へられぬ。
併し西洋の封建城郭には厳として天守閣の存するのを認めるのである。固より其の構造も名称も本邦のものとは全く別物であるが、一城の中枢たる最も壮大な建築たる点に於ては全然同一である。

(大類伸『城郭之研究』1915年/大正4年!!)




ご覧のように日本側の主要な専門家が、欧州の城の主塔(キープ/ドンジョン)を「天守閣」と呼んでしまって来た、という歴史的な経緯があるのです。

ですから、この文章がわざわざ「構造も名称も本邦のものとは全く別物である」とはっきり断ってはいても、こうした書物を参照した人が、思わず天守(天守閣)をDonjonと翻訳しても、それを責めることはできないでしょう。


また上の文章と同様のことは、近年まで城郭研究の“大御所の一人”であった井上宗和(いのうえむねかず)先生の著書にも多々見受けられることは、城郭ファンの間ではよく知られた点です。


さらに下の世代で申しますと、「戦国期拠点城郭」という(おそらく天守の発祥にとっても)たいへん重要な指摘をされている、千田嘉博(せんだよしひろ)先生もまた、著書の中でキープやドンジョンを「天守閣」とお書きになっています。
例えば下の『別冊歴史読本O』巻頭特集の序文でも…






欧州古城紀行は再現された土と木づくりの城を出発点に、各国の中世城郭の精髄をめぐり、ついで大砲戦に備えた要塞や防御都市へと進んでいく。
天守閣のなかの螺旋階段など足元の悪いところも多く、高い塔の上から身を乗り出しての写真撮影はたいへん危険をともなう。

(『日本の城 世界の城』1999所収/千田嘉博「ヨーロッパ古城紀行」)




何故、わざわざ欧州の主塔を「天守閣」と書くような筆法が、今日まで綿々と続いて来たのでしょうか?

実は、そこには「天守とは何か」をめぐる、研究者間の、かなり根深い思想の対立が横たわっているようなのです…。

例えば下の本では、ブログ冒頭の大類伸先生について、城郭研究の歴史における位置づけが試みられていて参考になります。


井上章一『南蛮幻想』(2008年)


伝統建築の意匠論など、多数の著作がある井上章一先生の本です。

この450頁余に及ぶ著書は、前半まるごとを費やして、「天守閣」についての江戸時代から今日に至る認識の変化を、数多くの引用文を挙げて追っています。


例えば江戸時代の半ばにはもう、天守が何のために建っているのか、日本人はさっぱり解らなくなっていて、禁教の「天主教(キリスト教)起源説」がまことしやかに語られるなど、アレコレと邪推がなされた経緯が分かります。

そして時代を経るごとに、研究者の考え方に“変化のうねり”が生じて、明治時代には田中義成(たなかよしなり)が「天主は梵語」だとする「仏典起源説」をとなえ、天主=須弥山の帝釈天という考え方を打ち出しました。



大類が、はじめてその城郭論をあらわしたのは、一九一〇(明治四十三)年のことである。そして、彼ははやくもその第一論文で、いままでの定説を否定した。「本邦城櫓並天守閣の発達」と題された論文が、それである。
(中略)
天守閣の具体的なルーツには、室町時代の武家屋敷にあった主殿のことを、あげている。主殿が発展をとげて、天守閣にいたったとする理解である。
(中略)
ヨーロッパにも日本にも、いわゆるフューダリズム(封建制)の時代があった。封建諸侯、大名などといった戦士階級が、それぞれの所領で、民衆を支配する。そんな時代を、日欧がともに通過してきたことへ、大類は目をむける。と同時に、文官優位の中国がそういう時代をもたなかったことも、書きそえた。
けっきょく、天守閣は、戦士階級が民衆を圧迫する封建制の産物であるという。だから、封建時代のあった日本と欧州には、それが成立した。だが、封建諸侯の割拠しにくい中国だと、その出現は「到底考へられぬ」ことになる。これが、大類伸のいだいていた基本的な見取図である。

(井上章一『南蛮幻想』2008)




この井上先生の解釈によれば、大類先生と同様に、今なお欧州のキープやドンジョンを「天守閣」と呼ぶ先生方にも、ひょっとすると、そうした思想的な背景を推察できるのかもしれません。

“封建時代を共有した日本と欧州には、両者とも自然のうちに「天守閣」が生まれたはずだ”と。

ただし『南蛮幻想』はその後、鳥羽正雄、藤岡道夫、城戸久、内藤昌、宮上茂隆といった先生方が登場し、考え方の主流が「日本起源説」からしだいに(安土城天主の)「中国起源説」に移った経緯を紹介しています。





かくして「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、思わぬ事情が起因していた可能性がありますが、正直申しまして、「それでもナントカならないものか…」という気持ちは変わりません。

すなわち、日欧が封建主義を経験したと言っても、天守が登場したのは安土桃山時代の直前のことで、それ以前の鎌倉・室町時代に天守は無かったわけですし、また建築的に見て、天守は断じてドンジョンと同じではないからです。


さらに当ブログは、織田信長の懇望によって詠まれた七言詩「安土山ノ記」において、山頂の安土城主格部が「宮」と表現され、始皇帝の「阿房宮」(あぼうきゅう)に見立てられたことを申し上げました。


七言詩「安土山ノ記」
 六十扶桑第一山   六十ノ扶桑第一ノ山
 老松積翠白雲間   老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
 宮高大似阿房殿   宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
 城険固於函谷関   城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
 …         …



これは、とりもなおさず「中国起源説」の有効性を示していますし、だからと言って、結果的に天守が「日本固有の建造物」に落ち着いたことにも、何ら問題は無いはず、と考えています。


袁耀「擬阿房宮図軸」(部分)/後世の描画の一例

(※詳細は「信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…」参照)


ご覧のように、絵画で伝わった「阿房宮」は(実際と異なり)、大河・渭水の南岸にそそりたつ岩山の楼閣であった可能性があり、やはり信長という「個人」のイマジネーションこそが、天守(ともに水辺の山頂にある岐阜城天守や安土城天主)の起源の幾十%かを、確実に担ったように思われてならないからです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年06月01日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!ドンジョンvs天守!こんなに違う翻訳語どうし





ドンジョンvs天守!こんなに違う翻訳語どうし


「死の色」「神の色」で塗りくるめた巨塔としての、姫路城天守


織田信長が初めて高層化させた天守は、特に安土城ではその「白さ」ゆえに、人々に強い違和感を与えたのではないか、と申し上げました。

では、そうした天守を外国人・宣教師らはどう見たのでしょうか?

『フロイス日本史』では、「彼ら(日本人)がテンシュと呼ぶ一種の塔」と伝え、「塔」とするだけで、それ以上に具体的な欧州の建築等になぞらえて“翻訳”してはいない点が、この上なく重要だと思われます。

その理由を探りつつ、天守とは何だったのか、「翻訳語」の観点から迫ってみましょう。




この件はいつか書かねばならないと思っていた話題であり、先日も、NHK『トラッド・ジャパン』で「城」を取り上げた回があり、この番組は日本の魅力をどう英語で表現するかが毎回のテーマですが、番組中で再三再四、天守をDonjon (ドンジョン)と翻訳していました。

近年、世間ではさすがに、天守をDonjonと訳すケースはずいぶん減ったように感じていただけに、こういう事が身近であると、どうにも気になります。


ロシュ城(フランス)のDonjonと付設の土牢内部


欧州の城郭で領主が立て篭もる主塔がある場合、ネットで海外のサイト等を見るかぎり、それは一般の人々にはDonjonと呼ばれているようです。

(※Keepと書くのは専門書だけではないでしょうか?)


Donjon(やKeep)は、領主が人質や罪人を押し込めるため、塔の地階に土牢を造るケースが多かったことから、Dungeon(ダンジョン/土牢)という派生語を生じたと言われています。

Dungeonはたいがい、小さな扉を閉じると真っ暗闇になり、囚人は鎖につながれたまま、斜めの石敷きに横たわり、排泄物はたれ流しで、食糧が入れられる瞬間以外は、真っ暗闇でただ月日の経過を耐えるしかない、という地獄のような閉所でした。


したがって元々のDonjon自体にも、そうした暗いニュアンスがつきまとい、またDonjonにはそれなりに期待される機能や構造的な特徴がちゃんとありました。


ですから、遠目に日本の天守Tenshuに似ているとしても、実際は全くの別物であり、同じ「城の主塔」であっても、建物としての特性がまるで違うのです。

もちろん天守台の石蔵(穴倉)が「土牢」として使われた例など、聞いたこともなく、文献上でも一件も確認されていないと思います。



(※当ブログ「天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする」より)


石蔵(穴倉)の用途は、以前の記事に書きましたように、安土城天主では「硝石蔵」であったと考えられ、その後の天守でも「焔硝蔵」か「保存食庫」であって、そのために湿気を防ぐような丁寧な石敷きを施した例もあります。

逆を申しますと、殆どの天守台の穴倉は「土間」もしくは「板の間」ですから、もしそこに囚人を押し込めたなら、その者が中でどんな“破壊活動”を企てるか、心配になって仕方がないでしょう。


これほどまでに違うのに、何故、いつから、天守をDonjonと翻訳するようになったのか…

不覚にも私は、そうした書物などを具体的につかめておりませんで、そこで現状のままでも出来る作業として、Donjon vs Tenshuという比較を、とりわけ「地階」の構造と役割を中心に行ってみます。



Donjon     vs     Tenshu
ロチェスター城         姫路城      
 
 


イギリスのロチェスター城は、建物中心部の木造の床や屋根が失われていますが、その部分を見下ろすと、一番下の地階が密閉された空間だったことが分かります。

一方の姫路城天守の地階は、南東側(表側)だけが石垣に隠れた構造であって、この階全体に板敷きの床があり、そこから上階へと階段で登れるようになっていて、とても「人質」を押し込めるような機能は想定されていないのです。



Donjon     vs     Tenshu
ロンドン塔           小田原城
 


ロンドン塔のホワイトタワーも、ロチェスター城と同じ四角いサイコロ形の「スクエアキープ」に分類される主塔ですが、やはり地階が密閉された構造のため、人々は2階から入る形になっています。

これはもちろん緊急時に階段をはずして、敵の侵入を防ぎ、領主一族(王家)が立て篭もるための工夫でしょうが、一方、小田原城天守は、往時も現状の復興天守と同じく、長大な石段で天守台を登りつめ、そのまま建物に入るだけの構造でした。

つまり「天守台」とは、立て篭もるための「かさ上げ」ではないのであって、なにより中国古来の建築的な格式を示すための「台」である、という根本的な違いがあります。

しかもこの小田原城の天守台は、石蔵(穴倉)の無いタイプで、いかに使おうとも土牢Dungeonには不向きな構造なのです。



Donjon     vs     Tenshu
ヴァンセンヌ城         宇和島城     
 


そしてDonjon vs Tenshuは、そもそも領主の避難所なのか否か、という点でも決定的に違っています。

フランスのヴァンセンヌ城は、シャトーと書かれる場合があるにも関わらず、城の一部に専用の堀と回廊を廻らし、その中にDonjonがそびえています。

やはり地階は密閉された空間で、その上に橋を渡って入る1階、王の居室がある2階、見張り役が詰める3階、という厳重すぎるほどの構えです。


一方、宇和島城の天守Tenshuは、ご覧のように開放的な玄関を備え、天守自体は本丸内にポツンと孤立して建っています。

これが完成した頃、すでに城主の居所は本丸にさえ無く、城主は一生のうちに幾度か、儀式のおりにしか天守に登りませんでした。

つまり主の使用頻度を挙げれば、DonjonTenshuは比べようも無いほど差があるのです。



こうなりますと、Donjonという建物の由来も考慮して比較すべきでしょう。

例えば「キープ」KeepのウィキペディアWikipedia英語版を見ますと、KeepDonjonの関係が示されています。


A keep is a strong central tower which is used as a dungeon or a fortress. Often, the keep is the most defended area of a castle, and as such may form the main habitation area, or contain important stores such as the armoury, food, and the main water well, which would ensure survival during a siege.
An earlier word for a keep, still used for some medieval monuments, especially in France, is donjon; a derivative word is dungeon. In Germany, this type of structure commonly is referred to as Bergfried, and in Spanish as torre del homenaje.


(翻訳)
キープは土牢や要塞として使われる堅固な中央の塔である。多くの場合、キープは居住空間をはじめ、篭城戦に備えた武器庫、食糧庫、井戸から成る、城内で最も防御されたエリアである。キープは中世において、フランスではドンジョンと呼ばれ、ここからダンジョンという派生語が生じた。同様のものがドイツではベルクフリート、スペインではトーレ・デル・オメナヘと呼ばれた。


こうした書き方に沿って「天守」を独自に英文で説明するならば…



Tenshu is a unique Japanese-style castle tower, was not used as a dungeon. It was built by samurai warrior, who succeeded in the reunification of Japan in the second half of the Age of Discovery.

Ten written with kanji, means firmament and reign. So if you read literally, Tenshu is a tower, which protects firmament and reign.



(翻訳)
天守は、日本固有の様式の主塔で、土牢としては使われなかった。それは大航海時代の後半、日本の再統一に成功したサムライの居城に建てられた。

漢字の「天」は天空や治世を意味する。したがって文字どおりに読めば、「天守」とは天空や治世を守る塔なのである。



とでもなるはすで、こう説明されれば、欧米人の誰もが「それはdonjonではない! そんな大事なことを、どうして説明して来なかったのか」と問い掛けて来るでしょう。

この場合、天守が「天主」「殿守」「殿主」とも書かれたことをネグっていますので、厳密には正しい紹介文ではありませんが、天守の建造物としての特色は簡潔に言い表していると思います。


要は、天守が日本固有の建造物であることを、どうアピールすべきかが喫緊の課題であって、断じてdonjonと同じ物ではありえない、という主張がまず不可欠でしょう。

日本は今後、観光立国を目指すのだそうですが、その中でいやおうなく観光地の目玉の一つになる「天守」が、現状のような理解(翻訳)のされ方のままで、より多くの外国人に紹介されるのは実に情けない限りです。


我々がいま目指すべき方向は、卑屈な翻訳で自己規制してしまうのではなく、天守Tenshuが少なくとも日本固有の意味を持ったキープkeepとして、ドンジョンdonjonやベルクフリートBergfried、トーレ・デル・オメナヘtorre del homenajeと同列か、それ以上の扱いで、世界で語られる状況を作ることにあるはずです。

違うでしょうか?







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年02月26日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!どの戦で天守が「司令塔」だったのか??





どの戦で天守が「司令塔」だったのか??




ご覧の新刊雑誌『週間 江戸』第2号(2月9日発行)で、天守の役割について、チョットこれはどうか… と思う説明文が、さりげなく載っていました。

一見、説得力のある誤情報が伝わるのは、マスコミ批判の厳しい最中、どうも気になるため、今回だけ(安土城シリーズの)番外記事とさせて下さい。


天守の役割
司令塔からシンボルへ
当初は城が攻められた場合に、高い位置から戦況を把握し、兵の移動などを命令する軍事的な指令所であった。やがて泰平の世になると公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合いが大きくなっていった。



それはこんな囲み記事だったのですが、もしこの説明のとおり、「天守の役割」が当初は「軍事的な指令所」であったのなら、初期の天守は、平安末期から続いた侍たちの篭城戦で、何か新しい効果を発揮するために考案された建築、ということになります。

そして「高い位置から戦況を把握する」のは一見、良さそうに感じられますが、鉄砲が戦の主役となった時代に、「高い位置から」見ることにどれほどの効果があったのでしょう。

むしろ様々な文献では、天守が“砲撃のうってつけの標的”になった話が、わんさかと出て来ます。


もし仮に、天守が篭城戦にめざましい効果をもたらしたのなら、天守は国境の砦の類も含めて、一つの国に何十基と建てられても良かったはずです。

ところが現実は、一つの国(大名領)に天守は一つ、という形が常に原則であったわけで、その点だけを取っても、天守がいかなる建造物であったのかを厳然と規定しています。


――ではそもそも、どの戦で、天守は「司令塔」だったのか?

その検証は、幸いにも天守があった時代の篭城戦は比較的、事例が少なく、主な戦の経緯は文献に記されているため、天守の状況もある程度、推測が可能です。



事例1:関ヶ原合戦の前哨戦での大津城

史上、篭城戦を耐え抜いた天守として有名な、大津城の天守。

その「高い位置」を活かしていかに活躍したか、と思えば、実際のところ、大津城は琵琶湖のほとりに秀吉の別業(遊興地)として、また港をおさえる城として築かれたため、周辺の地形で一番低い所にあり、敵の集中砲火をあびました。

その惨状を『慶長記』は、「大津の城三之丸のへいは鉄砲にてうちつくし、こまい計なり。二之丸に松丸殿御家あり。火矢の用心にやねをまくり 鉄砲のおとに女房衆おとろき日夜かなしみ候事おひたゝし」と伝えています。

時の城主・京極高次の陣は本丸のどこにあったか定かでありませんが、天守の二重目に命中した砲弾によって、中にいた松丸殿(まつのまるどの/秀吉の側室で高次の姉)の侍女二人が死に、松丸殿自身は気絶したとも云います。

そうして三之丸や二之丸が陥落し、本丸も陥落寸前という時、高次が降伏を受け入れたことで、天守は焼失をまぬがれたに過ぎないのです。



大坂城天守の窓の女性たち



事例2:大坂夏の陣での豊臣大坂城

城主の豊臣秀頼は、夏の陣の開戦後も本丸の御座間を居所としつつ、戦功のあった家臣に千畳敷で褒賞を与えるなど、必要に応じて城内を移動しています。

そして落城の日、秀頼は最期の出馬のため桜御門まで出張ったものの、味方の総崩れで適わぬとなると、「さて御生害は何方にて遊ばさるべき候や」と家臣に問われ、「殿守を用意仕り候へ」と答えたことが『浅井一政自記』にあります。

一政は「火縄に火を付け持ち参仕り 殿守へ御供致し参候」とも書いていて、御座間に戻っていた秀頼とともに、天守に登ったことが分かります。



会津若松城の鉄門(くろがねもん)と天守(ともに復興)



事例3:幕末の会津若松城

白虎隊(びゃっこたい)の逸話など、悲劇的な篭城城で知られる会津若松城では、藩主・松平容保(かたもり)は戦の間、本丸中心部の櫓門「鉄門」の階上を「御座所」と定め、そこで自軍を指揮しました。

官軍の激しい砲撃を受け、無残な姿をさらした天守の写真が現存していますが、そうした結果を城方はちゃんと予期していたわけです。



これらの記録から判ることは、「天守は司令塔」という言葉が、単なる物見の塔として、使い番の兵が危険をかえりみず登っては眼下の情勢を確認し、再び降りてきて城主に報告する、という使用方法を言うのなら、充分ありえたでしょう。


しかしそんな危険な場所が、文字どおり「戦の司令塔」――城主の御座所(本陣)とされた例は、残念ながら、文献上から見つけ出すことは難しいのです。

むしろ「落城」が決定的になった時点でしか、城主(主将)は天守に登らない、という不文律さえ見えて来ます。



しかも上の事例1〜3でもお感じのとおり、篭城戦での天守は(決して安全な場所ではないにも関わらず)“城の女性たちがこもる場所”とされた可能性が濃厚なのです。

それは天守の位置が、例えば『匠明』屋敷図に照らしてみますと、ちょうど夫人の生活空間と言われる「御上方」の位置に当たるため、かなり興味深い現象です。

そうした天守に、合戦の当事者の中心であり、一族の家父長である「城主」が登るということは、その行為自体が、ひょっとすると「敗北の自認」「落城の覚悟」を城内に知らしめる効果も含んでいたのではないでしょうか?





以上の結論として、天守は、基本的に「平時のための」建築である、という理解が不可欠のように思われます。


より具体的に申しますと、織豊政権においては統一戦争の版図を領民に示すための「政治的モニュメント」であり、徳川幕藩体制下では(分権国家としての)各藩の統治の中心を示す「政治的モニュメント」であったわけです。


そうした天守の理解は、冒頭の『週間 江戸』の説明文では、後半の「公儀(幕府)や藩主の権威を示す、シンボル的な意味合い」という部分は正しく、しかもそれは戦国末期(天守の発生当初)から一貫して続いた観念だと申せましょう。

つまり北ノ庄城や豊臣大坂城で、落城が確実になったとき、それぞれの城主(柴田勝家や豊臣秀頼)が天守に登った動機は、まさに統治者の「権威」を示す天守とともに、滅びる覚悟を決めたからに他ならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2009年04月06日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長





岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長


岐阜城での「空中庭園」の可能性を申し上げた前回を受けて、やはりもう一回だけ、余談を続けさせて下さい。

と申しますのは、この話、場合によっては途方もない(世界史的な)広がりをもつことが予想されるからです。


バビロンの空中庭園の想像画



まず世界史で「空中庭園」と言えば、原点は古代世界の七不思議のひとつ、バビロンの空中庭園にさかのぼります。

現在、その空中庭園の実像については、バビロン遺跡(バグダッド南方90km)の中の43m×30mの遺構や文献史料から、れんが造りの“角錐型の段状建築物に設けられた庭園”ではなかったかという説が有力です。


“段状”という言葉を聞くと、岐阜城の「四階建て楼閣」もまた段状の土台(草創期の天守台)を利用していた可能性を申し上げたばかりです。

時空を超えた、思わぬ符合に、早速、頭がクラクラし始めます。



しかも信長の岐阜城は、山頂に天守、山麓に空中庭園をもつ楼閣を備えていたとすれば、その景観は宣教師らキリスト教徒の目から見れば、まるでバベルの塔と空中庭園という、伝説どおりのバビロンを見たような印象だったとも思われます。


どれも偶然の一致だったとは言え、そうした“符合”をもたらしたのは、やはり織田信長という人物の「天」に対する格別な思いと、建造物のスペクタクル性(高石垣や蛇石など)を好んだ独特の気質だったと申せましょう。



そこで今回の記事のメインは、岐阜城は、時空を超えた偶然の一致が、さらにもう一つあったかもしれないというお話です。



岐阜城(金華山)山頂の岩



話の中心になるのは、ご覧のように山頂に突き出た“岩”です。


金華山は険しい岩山として知られる山ですが、この岩、当時の城絵図にも描かれたもので、天守はこの岩の脇に天守台を築いて建てられています。

つまり厳密に申せば、天守は金華山の「最頂点」にあったわけではなく、わざわざこの岩を避けて建てたことになるのです。



そこで先程の空中庭園のように、世界史的な観点から「岩山の最頂点」を見ていくと、例えば、各地の岩山の聖堂に掲げられた「大天使ミカエル」の像がまず想起されます。


サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂(フランス)

大天使ミカエル(聖ミカエル)



旧約聖書に登場するミカエルは、キリスト教においてはラファエル、ガブリエルと並ぶ大天使の一人とされました。

特に、サタンと闘った軍装の守護天使というイメージが強く、そのため山頂や建物の屋根に像が掲げられたと云います。


しかも、来日したフランシスコ・ザビエルがミカエルに日本の守護を祈願したことから、当時、ミカエルは日本の守護聖人ともされたのです。



「でも、それが織田信長とどう関係するのか」とお感じになられるかもしれませんが、櫻井成廣先生はかつて信長の最後の城・安土城天主に関して、こんな指摘をしたことがあります。


その壁面装飾については珍しくかつ重要な史料がある。それは井上宗和氏が「銅」という業界誌に発表されたもので、安土城天主を建築した岡部又右衛門以言(これとき)の「安土御城御普請覚え書」である。
子孫の以之(これゆき)という人が持っていて、名古屋空襲で焼失したが、記憶によって原本どおりに書いて井上氏に贈られたものだということであって、その古い写本の世に出ることが切望される。
それによると安土城天主木部は防禦のため後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、「赤銅、青銅にて被われたる柱のばてれんの絵など刻みたるに、塗師首(ぬしかしら)のうるしなどにてととのえ、そのさま新奇なれば信長公大いに喜ばれ、一同に小袖など拝領さる」という文句もあるという。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981)


※( )内は当サイトの補足


安土城天主の外壁が「赤」「青」など色とりどりであった話は『フロイス日本史』で知られて来ましたが、上の文章によれば、それらは赤銅や青銅に透漆(すきうるし/半透明の漆)を施した珍しい意匠であって、しかもそこには「ばてれんの絵」が銅板彫刻されていた、というのです。


これが真実だとすると、従来の数々の復元画はその点の修正を迫られかねない話ですが、それにしても「ばてれんの絵」とはいったい何を描いた絵だったのでしょう。


まさか宣教師そのものを描くことはなかったでしょうから、それは聖母子像だったのでしょうか? それとも聖人たちの姿でしょうか?


おそらくはそうではなく、統一戦争を進めた織田信長が、安土山の山頂の天主に描くキリスト教のモチーフとして最もふさわしいのは、「大天使ミカエル」ではなかったかと思われるのです。


と申しますのは、軍装の大天使ミカエルが「日本の守護聖人」になったという話を聞いたなら、信長は大いに納得して、その像を自らの天主の柱に刻むことも大いにありうるものと想像されるからです。



そうしてみますと、岐阜城の山頂の“岩”もまた、大天使ミカエルが天から降臨する場として実にふさわしく、ここでもまた、時空をまたいだ偶然の一致が起きたことになりそうです。


安土城 伝本丸北虎口(15年程前の調査以前の様子)



思えば、『信長公記』に記された巨石「蛇石(じゃいし)」は、なぜ安土山(安土城)に運び上げる必要があったのでしょう?


一万余の人数で昼夜三日がかりで運び上げたとありますが、その狙いを信長は語らなかったようで、『信長公記』は何も伝えていません。

ひょっとすると、信長は、安土山の山頂に“岩”が無いことに不興を示し、それを見た津田信澄が配下を動員して運搬し、信長に献上したのかもしれません。



ところが肝心の蛇石そのものは、現在のところ、滋賀県が続けてきた発掘調査においても、城内のどこからも(天主台の地中からも)発見されず、真相は闇の中です。

ただ岐阜城の例からすると、蛇石は天主台とは別の所に屹立して据えられ、その後に崩落した可能性もあるのではないでしょうか??





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



2009年03月29日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!織田信長の「空中庭園」は実在した?





織田信長の「空中庭園」は実在した?


前回、前々回と、岐阜城をめぐる織田信長の革新的な試みについてご紹介しました。

特に前回は、山麓の「四階建て楼閣」について、やや否定的な記事を書いてしまったため、言いっぱなしではいけないと思い、今回は私なりの“代案”をお話します。

(※これをご覧になっている豊臣大坂城ファンの方、次回からまた話を大坂城に戻しますので何とぞご容赦を!)



さて最初に、前回の引用をもう一度だけご覧いただきたいのですが…


問題は、この建物が多層、つまり四階建の建物であったかどうかである。というのは、三階の茶室は、「甚だ閑静なる處」にあり、庭を備えていたと、フロイスはのべているからである。
多層の建物ならば、二階から三階に上がったからといって、急に閑静な場になることはない。
まして空中に庭をつくることなど、いかに信長でも不可能である。

(秋田裕毅『神になった織田信長』1992)


これは「四階建て楼閣」が楼閣ではなく、階段状の敷地に平屋の御殿が四段に連なったもの、という解釈に立った発言です。


ご注目をいただきたいのは最後の赤文字にした部分、この部分が、実は織田信長以降の(特に豊臣秀吉とその家臣団の)望楼型天守においては、必ずしも“不可能ではなかった”というお話なのです。



豊臣秀吉の大坂城天守台(模式図)



以前にもご覧いただいた図ですが、今回の話題の焦点となるのは、図の明るくなった部分です。

ここは天守台上の北東隅にある“空き地”であって、北側の山里丸からは高さ9間余(約18m)の高所にあり、史料等では、何のために設けられたスペースなのか定かでありません。


一説には、ここが鬼門の方角(北東)にあたるため、いわゆる“鬼門除け”として建物を窪ませた部分だとも説明されて来ました。


ですが、例えば上の模式図では、この場所は本丸の奥御殿から(天守内の)階段を一つ上がった位置にあり、すなわち“天守の二階の奥”にあることになります。


こうした“空き地”が織豊期天守の天守台上によく存在することは、以前から、西ヶ谷恭弘先生が盛んに主張されてきた点でもありますが、それが実際に、どういう状態で維持されていたのかが問題なのです。


高知城 本丸御殿の奥の庭(左写真の中央は天守の壁)


ご覧の写真は、豊臣秀吉の家臣で(大河ドラマ『功名が辻』でもご存知の)山内一豊が築いた高知城の、天守と本丸御殿の奥の小さな庭です。


この庭は面積が本丸全体の八分の一ほどになり、本丸御殿の南から東側にかけて三角形に広がっていて、塀の向こうは高さ数m以上の石垣による断崖です。


ここは本丸中央の表側からは天守と本丸御殿によって遮られ、一旦、御殿にあがって奥に進まないと見ることの出来ない、隔絶した空間です。

これらの天守や御殿は江戸中期に火災で焼失し、その後、創建時と同じ配置で再建されたものであることが分かっています。



さて、今回申し上げたい結論はすでにご想像のとおりであり、例えば、大坂城天守の問題の“空き地”が、高知城のように、庭としてのしつらえがあったならば、それはもう、フロイスらの宣教師にとっては、立派な「空中庭園」に見えたのではないでしょうか??


こうした考え方を岐阜城山麓の「四階建て楼閣」に当てはめるならば、発掘調査が行われた居館跡のいずれかに、階段状の適当な敷地の痕跡があれば、そこに“空中庭園をもつ楼閣”を想定することは、十分に可能だと申し上げたいのです。


つまり、一見対立しているかに思える「楼閣説」と「階段状の御殿説」は“折衷案”がありうる、ということなのです。

そしてその信長の「空中庭園」は、のちに豊臣秀吉と家臣団の望楼型「天守」において、天守台上のスペースとして受け継がれたとも考えられるのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



2009年03月22日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!四階建て楼閣が「天主」だった物証は無い





四階建て楼閣が「天主」だった物証は無い


前回、草創期の天守について、岐阜城などを例に挙げてお話しました。

ご存知の方も多いと思いますが、岐阜城は近年、ふもとの居館跡の発掘調査を続けてきたところで、色々と成果が上がったようであり、最終的にどんな報告書が出るのか楽しみです。

(※調査の概要はブログ「信長居館発掘調査」をご覧下さい)


岐阜城 山麓の石列



さて、前回の記事では、その岐阜城のふもとに織田信長が建てた「四階建て楼閣」について、あえて詳しくは触れなかったので、今回はそれについてチョット書きます。

実はこの「四階建て楼閣」こそ、天守の発達のプロセスを説明するうえで、かなり話を複雑にしてしまった“元凶”でもあるのです。



と申しますのは、(前回のように)岐阜城は山頂に草創期の天守があったことは、「欧州の塔の如し。此より眺望すれば美濃の過半を見る(『日本西教史』)」という記述からほぼ確実と言えます。

にも関わらず、ふもとの四階建て楼閣も「天主」と命名されたという説を、30年ほど前に、宮上茂隆先生が主張されたからです。

それ以来、岐阜城は、山頂とふもとに二つの天守があったような話が一般化してしまい、どちらが天守の源流に近いのか分かりづらく、やや混乱した状況が続いています。



例えば、宮上先生が主張した前後の、他の研究者の発言を拾ってみますと、まず大御所の一人・城戸久先生は、『日本西教史』『フロイス日本史』をもとに、まるで“御殿群が広がるなかの一部が四階建てだった”ようなニュアンスの解釈をされています。

「すなわち山麓居館の建物として、まず大広間の存在が知られ、『西教史』記載の評議所がこれに相当するもので(中略)
さらに一段高所に書院が連続するもので、一部が四階建てであることは明瞭である。平面は一階に一五または二〇の座敷を有する点、ならびに望台、縁の存在から、おそらく中門廊・広縁・濡縁を有する園城寺光浄院、同勧学院客殿のような武家造風書院造が数棟連続したものと思われる。」

(城戸久『名古屋城と天守建築』1981)



さらに「四階建て楼閣」は楼閣でもなく、階段状の敷地に平屋の御殿が四段に連なったもの、という解釈に賛同した研究者が少なくありません。

「問題は、この建物が多層、つまり四階建の建物であったかどうかである。というのは、三階の茶室は、「甚だ閑静なる處」にあり、庭を備えていたと、フロイスはのべているからである。多層の建物ならば、二階から三階に上がったからといって、急に閑静な場になることはない。」
(秋田裕毅『神になった織田信長』1992)



結局、現在に至るまで、山麓の四階建ては「天主」と命名された楼閣だった、とまで言い切った研究者は、宮上先生のほかには無く、その主張はまさにエポックメイキングな出来事だったのです。

そこで今日は、宮上先生の主張の“論拠”はどういうものだったのか、発表時の講演の一部をご覧頂きたいと思います。


(宮上茂隆『天主と名付けられた建築』日本建築学会大会学術講演梗概集/昭和51年)

…さらにいま一つ注目すべきは周知の史料である『匠明』殿屋集の次の記載である(。)「武家ニ高ク作ル事ハ永禄ノ比南都多門山ニ矢倉ヲ五重ニ松永弾正始テ立ル、其後江州安土山ニ七重ニ亭ヲ信長公立給フ、是ニ名ヲ可付ト上意ヲ以嵯峨ノ策彦殿守ト名付ル也」。これは天守という名の建築の始まりを明確に述べた唯一のものであるが…
(中略)
…策彦の命名にしては『匠明』に記す「殿守」はいかにも俗っぽく、坂本城の「天主」や『信長公記』の「安土山御天主之次第」の「天主」こそ彼の撰んだ文字であった(に)違いない。それは「天帝」「上帝」などとともに、中国思想の根本をなす「天」の思想における天の主宰者を意味する。…


※( )内は当サイトの補足


エッ?とお感じになりませんでしたでしょうか。


「いかにも俗っぽく」「彼の撰んだ文字であった(に)違いない」という言葉でお分かりのように、宮上先生の主張は、推理というか、洞察というか、諸々の状況を総括して打ち出された「説」であって、例えば策彦(さくげん/臨済宗の禅僧)の遺稿など、何らかの“物証”にもとづく指摘ではなかったのです。


ですから場合によっては、策彦が命名したのは本当に「殿守」だった可能性もあるわけで、また岐阜城については“命名さえしなかった”可能性も残されているのです。

さらには、仮に「天主」と命名したとしても、それは“山頂の天守”であった可能性もありうるわけです。



岐阜城天守(復興)


天守の発祥を中国古来の思想に求めた宮上先生の問題意識は、当シリーズもまったく同じスタンスではありますが、ただいまご紹介した一件だけは、その後の天守の発展プロセスを考えるうえで、看過できない重大な事柄なのです。


いまは改めて宮上先生の影響力の大きさを思うばかりで、上記の全文は、論文情報ナビゲータで公開中です。

PDFで2ページの短文ですので、ぜひ一度ご覧になってみてはいかがでしょうか?
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004098864/

(※開いたページ右上のPDFボタンをクリック)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



2009年03月15日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!この世の頂に住まうための高殿





この世の頂(いただき)に住まうための高殿


備中松山城天守(岡山県高梁市)


現存十二天守のひとつ、備中松山城天守は、海抜430mの臥牛山(がぎゅうさん)の頂にあるものの、建物の全高はわずかに11m弱という、小ぶりな二重の天守です。

それでも初めて訪れたとき、ふもとの備中高梁駅の陸橋から、山頂にはっきりと遠望できたことが忘れられません。


当シリーズのホームページ(http://castles.petit.cc/)の冒頭で「武士がなぜ安土桃山時代になって突然、天守のような高層建築を必要としたのか…」などと書いておりますが、備中松山城天守のように、必ずしも建物の大小が「天守であるか否か」の決定的な条件ではないため、その辺の混乱をまねかないようにチョット書きます。

まず結論から先に申し上げますと、「高層建築」という最大の特色も、実は、天守が誕生したのちに、あとから“必要に迫られて”追加された要素かもしれない、というお話です。



では、いったい天守とは何なのか?? 各地の城を見たなかで「これぞ天守」という、原初的なイメージを感じた景色がこれです。


金華山の山頂に建つ岐阜城天守(復興)



岐阜城はご承知のとおり、鎌倉時代からの来歴を経て、かの斎藤道三が居城として拡充を図った城ですが、それを後に織田信長が奪取すると、ふもとに四階建ての楼閣などを建てて、山頂には「主城(フロイス日本史の翻訳より)」を築いたと伝わります。

写真は岐阜城の南6kmほどの地点から眺めた様子で、つまりは信長の軍勢が長年、攻め続けたときに見ていた景観に近く、信長は“あの山にわが城を”と心に誓い、それを実現して山頂に「主城」を建てたことになります。


「宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。」
「同所の前廊から彼は私たちに美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で、山と城から展望することができました。」

(『フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳より)


岐阜城天守から展望した名古屋方面(遠くのツインタワーが名古屋駅前)



フロイス日本史で「主城」と表現された山頂の天守は、普段は信長の家族しか立ち入れない私的な空間であり、信長は毎日、馬でふもとの御殿まで往復したとも云います。

存在が確実な草創期の天守のひとつですが、どんな建築であったかを伝える史料は乏しく、例えば城戸久先生の三重四階の復元案が貴重な試み(定説)になっています。


このように草創期の天守は、いきなり五重や七重が構想されたわけではなく、おそらく最初の天守は二重から四重ほどの規模ではなかったかと言われています。

では、それを建てた時点で、施主(織田信長)の意識としては、何をもって天守と判別していたのでしょうか?


フロイス日本史の文面からは、少なくとも次の二点が抽出できると思われます。
1.それは山頂にあった
2.そこから美濃と尾張の大部分が見えた


この1と2から、逆を想像してみますと、信長の新たな版図(美濃と尾張の大部分)からも「主城」がよく見えたことは確実だと思われます。


どうやら以前の記事でも話題の「四方正面」と関係のありそうな話になってきましたが、そうした1と2のイメージを、信長の脳裏に浮かび上がらせた「原典」のようなものは、どこかに存在しなかったのでしょうか?


そう考えた場合に、最も有力な候補として浮上してくるのが、中国古来の祭祀儀礼「封禅(ほうぜん)」ではないかと思われるのです。


泰山(山東省泰安市)


「封禅」とは、例えば映画『ラストエンペラー』で主人公の溥儀が満州国皇帝に即位するシーンで、清朝皇帝の衣服を着て土壇のうえで祈った儀式がそれなのですが、古代王朝の王(天子)や歴代皇帝の多くは、霊峰「泰山(たいざん)」の山頂に登り、天下の統一と太平を天に告げる「封禅」の儀式を行いました。


「封」は山上に土を盛って壇を築き、以って天を祀るの儀であり、「禅」は山下の土を削って墠(せん)を造り、以って地を祭るの儀である。
(中略)
自ら天に近く三元(天・地・人)の中間に立ってこれを如実に直結し、上は天下の統一と太平とを天帝に申告し、下は受命の天子たることを普(あまね)く天下に宣布せんとする構想の下に行われた(後略)

(石橋丑雄『天壇』1957より)


これだけを聞かれると、なんだか信長自身が帝位につこうとしたかのように聞こえてしまいますが、信長が封禅を行ったという事実はありません。

あくまで信長の想像力の“材料”として、それまで武家屋敷には皆無だった「天守と天守台」が突如、出現するための「原典」のイメージとなるには、最も有力ではないか、と申し上げたいのです。



例えば、信長はこの城を改修すると地名を「岐阜」に改め、その年から、かの「天下布武」の印判を使い始めています。

ご承知のように岐阜の「岐」は、古代中国の王朝、周の文王・武王が「岐山」を拠点にして天下統一を成し遂げたことにちなみ、「阜」は孔子が生まれた儒教の聖地「曲阜(きょくふ)」に由来すると言われます。

その孔子が生まれた時代は、まさに周が衰退して戦乱の世(春秋時代)を迎えたころで、そうした国家の分裂をなげく心から、儒教は生まれたとも申せましょう。



ですから「天下布武」をかかげた信長の意識には、応仁の乱から続く戦国の世を国家の分裂と解し、場合によっては足利幕府に代わってでも、再統一を果たす勢力になりたいという願望があって、それを万民に示すため、主城(天守)を「封禅」の場に擬した山頂に築いたのではないでしょうか??



フロイス日本史では、信長は「ヨーロッパやインドにはこのような城があるか」と度々フロイスに問いかけています。

我々はこの質問に「明(中国)にあるか」という言葉がなかったことに、もっと注意すべきではないかと思われます。


つまり信長自身の意識のなかに、山頂の「主城」(天守)と同じ類のものは、ひょっとすると明(中国)にもあるかもしれない、という危惧があって、それを暗に認めてしまった発言であるかもしれないからです。


織田信長像



幸いにして、天守は、我が国固有の建造物となったわけですが、それがいつ「高層建築」に変貌したかと言えば、それもまた、信長がみずから行ったことでした。


重臣・柴田勝家が守備した北ノ庄城(福井市)は、築城のおりに、信長が直々に縄張りを行ったと云われ、辺りは現在の福井市街で、平野のど真ん中でした。

ここで信長は、天守をなんとしても天に近づけるため、実に「九重」とも伝わる超高層化した天守を、初めて建造させたのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ



1 2    全48件