城の再発見!幻の「安土山図屏風」はここにある


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2009年08月24日(Mon)
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城の再発見!幻の「安土山図屏風」はここにある





幻の「安土山図屏風」はここにある


ウィンゲの木版画       シャルヴォア『日本史』掲載の銅版画  


前回、左側のウィンゲの木版画は、原書のキャプションでは「temple(寺院)」であり、右のシャルヴォアの絵に比べますと、「西の城下町から眺めた天主」としては不合理(宙に浮く小舟!)である点をお伝えしました。

では、木版画の建物はいったい何なのか? そして幻の「安土山図屏風」とはどういう関係にあったのか? 前回に引き続いて、“ウィンゲの怪”の真相にググ―ッと迫ることにしましょう。


それには第一のステップとして、「安土山図屏風」について、明らかになっている点を確認しておく必要がありそうですが、その辺りは内藤昌先生の著書『復元・安土城』が一番詳しいようです。



それは、一五八五年(天正十三年)三月二十三日発行の『羅馬報知』(Avisi di Roma:ヴァチカン図書館蔵)に、「極大きくて誠に薄い木の皮に、日本の主要なる一都会(安土)の絵を描いて、それには沢山の大きな建築が描いてある」とか、『ベナツキの談話(Dalla Relatione del Benacci)』に「信長(安土カ)と称する日本の首都を描いた高二ブラチヤ(約六尺)長四・五ブラチヤ(一二〜一五尺)の画」とあるに相応する。
また一六六〇年フィレンツェにて発行されたバルトーリ著『耶蘇会史・日本の部(Bartoli ; Storia della Compagna di Gesu.U Giappone.)』でも使節らが献上した日本特産品について、「そのうち最も善きものは、屏風(beobi)とよばれる装飾家具の二つ(一双)であった。其の一には新しい都市と、他の一には安土山(Anzuciama)の不落の城を筆を以て描いたものであって、それは信長がヴァリニヤノ師へ、其の愛情の記念として贈ったものと同物である」と述べている。
この二曲一双の屏風は、グレゴリオ一三世によってヴァチカン内の世界各地の地図や都市図で飾られた「地誌廊」に展示されていたらしいが、その後の行方はまったく不明である。


(内藤昌『復元・安土城』1994)



この文章によりますと、屏風は高さが約六尺(2m弱)、幅十二〜十五尺(4m前後)の「二曲一双」で、左右の両隻に「新しい都市」と「安土山の不落の城」を分けて描いていたことになります。



洛中洛外図屏風/六曲一双の左隻(させき)と右隻(うせき)


織田信長といえば、かの上杉本「洛中洛外図屏風」を上杉謙信に贈ったほどの人物ですから、彼の「安土山図屏風」も(安土を都になぞらえる意味で)洛中洛外図を踏まえて制作された、と考えてもいいように思われます。

しかも絵師は「日本の最も著名なる画工」(イエズス会日本年報)と伝わり、狩野永徳であった可能性もあるのですから、その描き方に共通の手法があったとしても何ら不思議ではありません。


そこでまず「洛中洛外図屏風」の手法として想起されるのは、景観の独特の切り取り方でしょう。

どういう切り取り方かと申しますと、屏風の左隻には、上京(かみぎょう)を東から眺めた景色を描き、一方の右隻には、下京(しもぎょう)を西から眺めた景色を描く、という基本的なパターンがあったとされています。

(※その結果、二条城など「城」は左隻に多く描かれることになりました。)


これを試しに「安土」に当てはめてみると、どうなるでしょう?





たぶん、こんなことになるのではないかと思うのですが、こうしてみると安土山や城は順当に「左隻」に描かれ、一方の右隻は港を手前に、信長が築いた城下町(新市街地)を中心にしていたことになります。


で、この場合、出来上がった「絵」には意外な点が想像されるのです。


―― 左隻の安土山は東から眺めた状態のため、山頂の主郭部は、天主より東側の「伝本丸」が手前に見え、(近年、御所の清涼殿と同じプランと解釈されて話題になった)御幸の御間(みゆきのおんま)?が強調された絵だったのかもしれないのです。

東南の方角から見た主郭部のイメージ


つまり主郭部はこんな角度からの描写であり、天主の手前に、石塁で囲まれた御幸の御間?が見えたとも思われるのですが、さて、この構図、どこかで見覚えありませんでしょうか…

右写真はシャルヴォア『日本史』掲載の銅版画(主郭部の拡大)


この思わぬ一致を、どうお感じでしょうか?

そしてさらに驚愕を覚えるのは右の図中「A」「B」の注釈文であって、注釈文の拡大画像もご覧いただきながら話を続けましょう。




まず全体のタイトルは「アンヅチアマの城と町の図」で、問題はこの2行目と3行目にあります。

2行目に「信長の天国」le Paradis de Nobunagaとあり、3行目「A」は「皇帝の宮殿」le Palais de l’Empereurであり、「信長」と「皇帝」は二行の間で“別人格”として表記されているのです。

もし信長と皇帝が同一人格であるなら、「皇帝の宮殿」は「彼の宮殿」などと表記されても良いはずなのに、わずか二行の間で“言葉を変えて”いるのです。

(※これは別のケースでは、『モンタヌス日本史』のように晩年の徳川家康を「皇帝」と誤解して伝えた例もあるわけですが、この絵の場合は、やはり2〜3行の中で言葉を変えた点は要注意と言わざるをえないでしょう。)

そして3行目「B」天主は「チタデル/要塞」la Citadelleであり、山の中腹「C」は「諸侯の屋敷」Maisons des Seigneursです。


このように、シャルヴォアの絵は、なんと、御所の清涼殿と同じプランとされた「御幸の御間」?と思しき“行幸殿”を、はっきりそれと意識して、手前に大きく(東から)描いた節があるのです。


これは近年、滋賀県の調査を経て主張された安土城と一致する認識が、すでに18世紀のフランスで共有されていた可能性を示していて、大いに驚かざるをえません。

特に主郭部については、昨今、天皇を迎える行幸殿(行宮)を守るような「天守構え」(天守と櫓と石塁で囲んだ領域)であった可能性が言われていて、そうした中で、天主を「チタデル」と伝えた“ある種の正確さ”にも舌を巻く思いがします。

その嗅覚の鋭敏さは、「皇帝の宮殿」と「チタデル」をセットにした上で、それらを「信長の天国」le Paradis de Nobunagaと銘打った政治的感性にも現れていて、この銅版画は「ただならぬ逸品」として再評価されるべきではないでしょうか。


(※これは当サイトが主張する「天守は公武合体の新たな統一権力の樹立と版図を示す革命記念碑(維新碑)」という考え方とも、しっかり一致します。)



さて、こうなるとシャルヴォアの銅版画は、上半分(安土山)が「東」からの描写なのに、下半分(新市街地)は「西」から描いていることになります。

この妙な混乱を招いた元凶は、ひょっとすると、新市街地の遠景にあったはずの繖山(きぬがさやま)ではないのでしょうか?





この際、思い切った仮説を申し上げますと、「安土山図屏風」は当初、左右が「安土山の不落の城」「新しい都市」という別々の画題であることが認識されていたにも関わらず、その後どこかの時代で、スケッチが重なる過程で、両者が誤って一つの風景に再構成されてしまったのではないでしょうか??

例えば右隻の繖山が、左隻の安土山と同じ山(の遠景)に誤解されたとすると、上下の再構成の結果は、シャルヴォアの絵と同じ一枚になるでしょう。

つまり幻の「安土山図屏風」は、姿を変えてここにある、とも思われるのです。




安土山と繖山



右の繖山は、信長が攻め落とした観音寺城の曲輪や城道が山全体にあって、もし屏風にそうした描写があったなら、それはもう安土山と混同されても不思議ではありません。


さて次回こそ「ウィンゲの木版画」の正体に迫ります!!







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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