安土城天主

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2017年02月14日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…





伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…




前回は加藤理文先生の『織田信長の城』からインスパイアされた仮説を色々と申しましたが、すでにご覧のこの図のうち、天主台下の不思議な礎石列が「階(きざはし)」か「懸け造り」だったかという問題では、そもそも、出どころの『信長公記』の語句がやや気になっております。


と申しますのは、『信長公記』に書かれている語句は、よくよく見れば「階」ではなくて「階道」という二文字になっておりまして、古文の用例として「階」と「階道」はどう違ったのか、まったく同じ意味と受け取っていいのか、その実情について、残念ながら私には知識がありません。

(『信長公記』より)

… 其次、他国衆。各階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候なり。

ですから、この「階道」という語句には、まことに素人っぽい印象しか持ちえないわけですが、この語句を「階(きざはし)状の道」だと受け取るならば、冒頭の図のごとき「懸け造りの柱の間を登っていく階段」とイメージするのも、そう無理な話ではないように感じるのですが、どうなのでしょうか。


ちなみにもう一点、補足させていただきますと、そうした「階道」と立体交差する形で、従来から言われて来た伝本丸への通路もあったはずだと思われますので、念のため、図に書き加えておきたく存じます。



※        ※        ※


さて、ことほど左様に、安土城の実像はたいへんに謎が多く、前回の記事では『完訳フロイス日本史』の「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」という記述について、ひょっとすると、千田嘉博先生の御殿配置の考え方ならば、伝二ノ丸の「奥御殿」にそういう「広大な庭」を想定する余裕も生まれるのでは… などと勝手な推測を申し上げました。




と言いますのも、研究者の方々は「広大な庭」がどこに当たるのか、発掘調査でそれらしき遺構が見つからないため、例えば未調査の「八角平」や「馬場平」ではないのか? といった声が過去にあがったものの、同じく未調査の「伝二ノ丸」を想定した声は、なかなか主流になれず仕舞いでした。

その理由としては、やはり伝二ノ丸にはそれ相応の「奥御殿」や「本丸表御殿」を想定した先生方の復元案や、その壮観なコンピュータグラフィックスが世間をうならせていて、とても「庭」ごときが割り込める“余地”は、論理的にも、空気感としても、無かったということでしょう。


そのような中でも、私なんぞは、ある“別の観点”から、伝二ノ丸には「庭」のような大きな空間スペースがあってしかるべきでは… という思いを抱き続けておりまして、その原因は、当サイトで散々ご覧いただいたイラストの、手前に黒くカットした、きわどい「地形」にあります。





(※この説明図は、冒頭のルート図に比べると、南北=上下がひっくり返った状態です)


安土山北西の湖上から見上げた視点で描いた上記イラストは、手前の黒い部分が伝二ノ丸の地面をカットした状態でありまして、その理由(動機)は、こんな風にしませんと、角度的に、伝二ノ丸の「地形」やそこに想定される「建物」群によって、イラストで見せたい天主周辺がずいぶんと隠れてしまうからでした。

――― では“どのくらい隠れるのか?”をご覧いただくため、手前の地面をカットしない、フルサイズのイラストを今回、初めてお見せいたしましょう。




ご覧のとおり、伝二ノ丸の地形は、山麓の湖上から見上げますと、けっこう天主台の足下を隠してしまうことになり、例えば伝二ノ丸の中に描いた建物は、二階建てを想定して描いたのですが、それでも、ご覧の程度まで隠れてしまいます。

したがって、これまでの諸先生方による伝二ノ丸の復元案というのは、曲輪いっぱいに屋根の高い大型の御殿が並んだり、曲輪の周縁(=最前列)に二重櫓や多聞櫓がめぐっていたりしたのですが、そのような状態で考えますと、おそらく天主の下層階からは、城下や琵琶湖もろくに見えなくなってしまう!! 危険が生じたのではないか、と心配して来たのです。

で、そのことは現地で撮影した写真でも…



(※画面クリックで拡大できます)

やや分かりにくい合成写真で恐縮ですが、これは現状の天主台上の南西の隅に立った状態で、伝二ノ丸の方を180度近くグルッと見回しながら撮影した写真でありまして、ざっくりと合成しただけなので、厳密さに欠ける点はご容赦下さい。

で、何を申し上げたいかと言うと、伝二ノ丸の周囲はご覧のとおりの木々が繁茂しておりまして、例えば城下の信長自慢の武家屋敷や常楽寺港などの範囲の風景は、残念ながら、天主台の上からでも、まったく見えない状態にあります。


ですから、このことは、伝二ノ丸の周縁に「二重櫓」や「多聞櫓」がめぐっていたり、そしてさらに屋根の高い「奥御殿」までがひしめいていたりしたなら、繁茂する木々と“まるで同じ効果”を果たしてしまうのではないか!!?… という心配を感じて来たのです。


ということは、いまさら申すまでもなく、天主こそが「見せる城」の白眉(はくび)であるとして、そうした天主と城下との関係において、こちらから見えにくい、ということは、イコール(すなわち)向こうからも見えにくい、という事に他なりません。

そのような状態では、せっかくの画期的な建造物「天主」が台無しになりかねず、もしも安土城において、城下から見上げた時、天主はちょこんと頭が出ていただけ、というのでは、いったい <何のための天主建造(創造)だったのか?> という気がしてならないのです。…




(『完訳フロイス日本史』より)

(天主の説明があって…)これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲をつくかのように何里も離れたところから望見できた。

それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。

信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。

我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。




さて、以上の結論として、最後に私なりの手前勝手な推測を加えて申し添えますと、伝二ノ丸というのは「奥御殿」の範疇(はんちゅう)ではあっても、そこにあった建物は、例えば「湯殿」や「御休息」といった類いの建物だけであり、それらを「広大な庭」が取り囲むという、言わば信長個人の“くつろぎの場”だったのではないか… そしてその分、「天主」が信長と家族の奥御殿として具体的に機能したのではなかったでしょうか。

そんなレイアウトは例えば、西本願寺・飛雲閣の奥にある二階建ての浴室「黄鶴台」などにつながる構想だったのでは、という風にも勝手に思い描いております。


で、さらに申し添えるなら、広大な庭というのは「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で…」とあえて修飾して伝えたのですから、ひょっとすると、全部が「枯山水」の庭!! という、龍安寺の石庭などを拡大・充実させて、琵琶湖を背景に、安土山の山頂で再現した“白砂と石組みの空中庭園”――― とも想像してしまうのですが、いかがなものでしょうか。



(※写真はウィキペディアより)

フロイスの別の報告文では、その庭には「新鮮な緑」があり、「魚」や「水鳥」が泳ぐ池があったとも伝わりますが、もし龍安寺の石庭のような「庭」が、安土山の山頂で、琵琶湖を背景として広がっていたら、そうした信長個人の精神世界に多聞櫓などは邪魔(じゃま)になったはず… との妄想がふくらむ一方なのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした





加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした




ご覧の表紙の帯イラストは、背景に描かれた安土城天主が、おなじみの三浦正幸先生の監修ではあっても、これまで各誌に登場した「佐藤大規復元版」ではなくて、新しい「中村泰朗復元版」(→同書141頁に立面図あり/昨年末にリニューアル発売のペーパークラフトもあり)のようです。

ですが、それが炎上前の白煙があがった演出なのか、ちょっと分かりにくいイラストになってしまったのは何故なんだろうと、ページを開く前から読み手の関心を誘ったのが、加藤理文先生の新刊本『織田信長の城』でした。


【ご参考】講談社の同書PRサイトからの引用(→上記の表紙の原画でしょうか?)


この「中村泰朗復元版」は同書の立面図などをご覧いただくと、さらによく分かるのですが、天主の建物の構造に、当サイトがずっと主張して来ました「十字形八角平面」(→関連記事<安土城天主に「八角円堂」は無かった!>)を部分的に採り入れたもののように見える辺りが、私なんぞには、実に興味津々の復元案なのです。


――― が、そんな前置きはさておき、加藤先生の新刊本は、織田信長が生まれた城・勝幡城から最後の安土城までを網羅しつつ、表紙の帯キャッチどおりに、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに注力した、かなりの意欲作だと感じ入りました。

しかも、またもや加藤先生の本らしく? 別の考え方もあれこれとインスパイアさせてくれる部分が多々あり、今回は例えば安土城の章から、そういう印象的なくだりの一部を、私なりの独善的チョイスで恐縮ですが、是非ともご紹介してみたく存じます。




<その1.一瞬、思わずノケゾッた、

     安土城「大手道」は山から下りるための“退出用の道”!!?>





安土山の南斜面にある「大手道」/ 次の写真の図では番号1の道

同書に掲載された城内通路の図 / 番号3が百々橋口(どどばしぐち)道


(加藤理文『織田信長の城』より)

『信長公記』(天正一〇年正月一日)には、<隣国の大名・小名御連枝の御衆、各(おのおの)在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ>と、近隣諸国の大名や小名、織田家一門の人々が、百々橋口から登って来たことが記されている。

年頭の挨拶の出仕であるため、正式な通路を使用することが当然で、百々橋口→ハ見寺→伝黒金門→本丸御殿対面の間というのが正式ルートと判明する。

(中略)
『信長公記』の記載から、百々橋口道(番号3)はハ見寺参拝ルートとして、町衆の往来可能な道だったことが判明する。
では、百々橋口から上がった町衆は、どこに下りたのであろう。

「死人が出るほどの混雑」と記されている以上、道は一方通行であったとするのが当然で、町衆は百々橋と接続する大手道を下るのがもっともわかりやすい。

つまり、大手道は町衆の往来も可能な道だったことになる。大手門は、見つからないのではなく存在せず、常に開口していたのである。



!―― 安土城の「大手道」と言えば、発掘調査で姿をあらわした当時はセンセーショナルな報道もなされ、安土城で織田信長が計画したと伝わる幻の天皇行幸では、この大規模な石段こそが、天皇の乗る鳳輦(ほうれん)がしずしずと登る「行幸道」になったはず、などと言われたものでした。

しかし、数々の城郭踏査の経験から“理詰め”で迫る加藤先生は、そんな可能性を全否定しておられ、大手道とは家臣や町衆も通る「往来」であって(※千田嘉博先生は一族や重臣の屋敷地をつらぬく連絡用の道としましたが…)城内の「正式ルート」としては、なんと!山から下りるための“退出用の道”だと解釈されたのです。




思わず私なんぞはイスからずり落ちそうになりましたが、すぐさま、それならば、小牧山城にある「大手道」もまた、正式ルートでは“下りるための退出用の道”なのか!?? と、にわかには納得しがたい気持ちでいっぱいになったものの…

しかし、そこで、いや待てよ… と考えてしまうのが私の悪いクセでありまして、これは信長自身の大手道の使い方としても、ひょっとすると、ひょっとするな、と。



登場したトップスターが先頭で降りて来る、タカラヅカの大階段

(※写真は織田信長役でも知られる月組・龍真咲の「Fantastic Energy!」より)

さて、どうでしょう。

「大手道」の機能としては、どうしても「登る」方に関心が行きがちであったわけですが、加藤先生の解釈はその呪縛(じゅばく)をとくきっかけになるかもしれず、上記の天正10年の正月参賀の件は特殊な用例だとしても、それ以外の普段の機能を考えれば、山頂の“聖域”に住まう天下人の信長が、山麓に居並ぶ兵たちの前に姿をあらわす時に、その姿が見えやすい直線道の部分が(言わば花道として)とりわけ大規模に整備されたのだ… と考えられなくもなさそうです。

これは逆転の発想として実に面白いものの、一方では、城のなかの「直線的な城道」の機能については、過去に当ブログでも一、二度申し上げたように、例えば近江八幡城や犬山城などにある直線道との比較(→重臣屋敷の二ノ丸・三ノ丸の類いを経由しないバイパス道の効果 →専制的な領主の位置づけ)も必要ではないかと感じておりまして、果たしてどうなのでしょうか??


【ご参考】大手道を下りる時の目線で見た南側山麓の風景

→ 木々が繁茂していなければ、向こうからも良く見えたはず!!!







<その2.伝二ノ丸を奥御殿のうちと解釈しつつも、

     三浦正幸先生風の階段(きざはし)を採用したため、

     その奥御殿に天皇の御座所「御幸の御間」があったことに……>





これからご紹介する部分の面白さを伝えるためには、当ブログを昔からお読みのような方々は百も承知の事柄でしょうが、安土城・主郭部の御殿の配置をめぐる研究者間(分野間?学界間?)のケンケンガクガクの大論争をもう一度、思い出していただく必要があります。


はじめに―― 通称「伝本丸」「伝二ノ丸」「伝三ノ丸」などの位置

A【考古学】発掘調査を担当した安土城郭調査研究所の御殿配置案

B【建築史】三浦正幸先生による御殿配置案(『よみがえる真説安土城』を参照)

C【城郭考古学】千田嘉博先生による御殿配置案(『信長の城』の文意から作成)


ご覧のとおり、それぞれの配置案をまずは「表」(公・ハレ)と「奥」(私・ケ)の領域の違いで確認しておきますと、結果的には、奇しくも、A案(安土城郭調査研究所/藤村泉・木戸雅寿両先生ら)とC案(千田嘉博先生)がともに、伝本丸や伝三ノ丸の御殿が「表」にあたり、天主や伝二ノ丸の御殿が「奥」になるという解釈で一致しておられます。

しかもC案の千田先生は、天主台西側の足下にピッタリ寄り添った不思議な礎石列は「外観上、天主と接合しているように見えた「懸(か)け造(づく)り建物」であった」(歴史発見vol.2)と推定され、その点ではA案の木戸雅寿先生も「天主の張出しも考えられる」(よみがえる安土城)と同様の発想で一致していて、手前味噌ながら当サイトもまた「懸け造り舞台」を想定してイラストに描いた経緯があります。


画面右下隅が「懸け造り舞台」→銅板包みを想定して青く描いた

(※なお、手前に降りて来る連絡橋の足下の石垣面には「寄せ掛け柱」も描いた)



そこで注目の加藤先生のお立場なのですが、奇しくも、7年前の当ブログ記事で『信長公記』天正10年の正月参賀のルートを話題にしたおりに、三浦正幸先生監修『よみがえる真説安土城』掲載のルート案をトレースして例示したのが下記の図なのですが、このルート案じたいを作成したのが、他ならぬ加藤先生だったのです。


このルート案では、表(ハレ)と奥(ケ)を横断して、天主以外はくまなく巡ったことに…

(※お馬廻衆・甲賀衆の見学ルートの場合)



ですから加藤先生は当然、三浦先生(B案)がその本で主張された、例の不思議な礎石列の上には「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)があり」とする説を大前提として、このルート案を作成した経緯をお持ちであったわけで、そうした経験などから自説を導き出され、今回の新刊本にも反映しておられます。


(加藤理文『織田信長の城』より)

前掲の『信長公記』の記載で、中枢部の建物配置を考える際、もっとも重要な手掛かりは、<階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候>である。

御幸の御間へは階段を上がって行ったことが判明する。

この記述から、「御幸の御間」は伝二ノ丸南虎口の存在する平坦面から階段を上がった場所に位置していたことになる。



という風に、加藤先生は階(きざはし)案を支持しつつ、一門衆・大小名の見学ルートで言えば、その階(きざはし)で北側の石垣を乗り越えた先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があった、と説明されるのですが、何故そこまで階(きざはし)案を支持するかと言うと…


(上記書より)

(不思議な礎石列のうちの)東側の礎石列Aに沿って天主台に柱が焼けた黒色の痕が残されていたため、ここに斜めの柱があったとの説もあるが、石垣に押し当てて設置してある柱が焼けた場合、通常黒色ラインが残るのではなく、焼け残って柱部分のみ白く残るはずである。

ここで見られた黒色ラインは、焼けた柱組みが東側に倒れ、石垣に寄り添って燃えたための事象と理解される。



という理由で、天主台石垣に残った黒い柱状の焼け焦げは、懸け造りのための寄せ掛け柱ではなくて、階(きざはし)が燃えて倒れかかった結果だと説明されるのですが、そのようにして天主台にピッタリ寄りそう階(きざはし)があり、その先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があったとする一方で、加藤先生は、伝二ノ丸は(天主を含めて)信長の居所の「奥御殿」だとも説明するのです。

(※そして伝本丸が正式な対面を行なう政庁=南殿の「表御殿」、伝三ノ丸が行事等を行なう紅雲寺御殿の「会所」に相当する、と。つまり「表」と「奥」の領域の解釈はA案やC案と同じになるのですが…)

――― ということで、この新刊本では、信長自身と家族の居所の「奥御殿」に、天皇の御座所「御幸の御間」があったとしていて、それで具体的にどう使ったのだろうか?… と、やはり心配になってしまいますし、『信長公記』の階(きざはし)の先に「御幸の御間」を含む「御座敷」があった、との記述を重視する考え方も分からないではありませんので、どう受け取ったものか、頭をかかえていますと、例の不思議な礎石列について…



(同書より)

礎石列A、Bの南端で若干位置がずれる二個の礎石(22、23)も確認されている。(中略)南側一間分の軸のずれは、南側の櫓と通路との取り合いの関係が推定される。




ふと見れば、加藤先生の礎石列の説明文には、上記の一文がさり気なく加えられていて、すなわち、例の礎石列は南端の一間のうちに、すでにわずかながら“角度を変えている”とおっしゃるのです。!…

これは実に些細(ささい)な現象でありながら、城郭踏査を重ねた加藤先生ならではの注意力(ある種の違和感の察知)ではないかと感じまして、このこと(※三浦案では無視)を注視して行きますと、礎石列は逆に、南側の櫓との関係性(接続!?)がクローズアップされて来て…


【またもやインスパイアされた仮説】

もしも「懸け造り」の柱の間を登る階(きざはし)が、真逆の南側!!へと登る形で櫓内に至り、

さらに多聞櫓を通じて、伝本丸の御殿群の各所に至る複数のルートがあった、とすると…




→ フロイスが記した「この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿」

の「一つの側」とは??

「一つの側」は普通に読めば、主郭部の東半分という意味であろう、とこれまで多くの方々が受け取って来たものの、ご覧のようにしてみますと、「一つの側」が原文ではどこにかかる“修飾語”だったのか、分からなくなる感じもしてまいりまして、こんなことまで加藤先生の観察眼からインスパイアされてしまうところが、この本の不思議な魅力なのです。

(→もちろん本の全体の論旨は、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに、最大限の力が注がれております)


ちなみにご覧の配置図は、千田先生のC案をベースにさせていただきまして、それと言いますのも、千田先生の配置案には言外の大きなメリットが隠れているからです。

そのメリットとは、このように文献上に名前のある御殿がすべて、主郭部の東半分で“処理”できるなら、西側の伝二ノ丸は「奥御殿」ではあっても、そこには、これまたフロイスが記録した「広大な庭」の懸案の居所(いどころ)も推定できる、という多大なメリットに他なりません。


… 最後に、例の礎石列の西列で焼け残った壁材が見つかったという件がやや気になるものの、加藤先生は「壁材(厚さ約三〇センチ)は、礎石16上の炭化柱材の前後、南北方向で立ったままの状態で検出。」「北側西面(13〜16の間)に片開きの戸が設置されていたと考えれば、検出遺構と矛盾なく解釈が可能である」とも説明していて、南向き!の内部階段への「入口」はきちんとクリアできそうです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年04月12日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!高精度VR安土城“コンペ落ち企画書”より もう時効でしょうから記事にいたしますと…





高精度VR安土城“コンペ落ち企画書”より もう時効でしょうから記事にいたしますと…


3月30日 VR安土城プロジェクト「高精度シアター型」完成報告会

(※これらの写真は 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)様よりの引用で、他にも多数あり)





かねてから話題のVR安土城(近江八幡市制作)は「高精度シアター型」が完成したそうで、ご覧の内藤昌先生の復元に基づく天主をはじめ、安土城下の高精度の再現映像が、先月末に公開試写されました。


実を申せば、かく申す私なんぞも、滋賀県のITコンサル企業・株式会社ナユタの北居様からお声をかけていただきまして、微力ながら、この映像制作のコンペに参画した経緯があったものの、結局は大手の凸版印刷さんが受注されました。

私はまだ完成映像そのものを観てはおりませんが、上記ブログの写真を拝見しますと、これまでにない角度からの迫力映像があるようで、出来栄えが期待できそうです。


で、完全に負け犬の遠吠えですが、コンペ落ちした企画書の私の元原稿には、完成映像には無い観点(アイデア)もあって、それがこのまま埋もれてしまうのはどうにももったいなく、そこで今回の記事は「立体的御殿」の話題を中断して、ちょっとだけ申し上げてみたいと思うのです。

例えば…


有名な盂蘭盆会(うらぼんえ)のシーン / 完成映像は「軒先に」提灯をつっているようですが…


さて、私がナユタ版の企画書のために送付した元原稿でも、当然、織田信長が安土で行った盂蘭盆会はラストシーンとして盛り込みましたが、では、いったいどういう風にして、強風吹きすさぶ可能性のある(琵琶湖畔の安土山頂の)天主外側に提灯(ちょうちん)を固定できたのか?… という点に、かなりの疑問を感じました。

(※私の乏しい経験の中でも、佐和山城の山頂でけっこうな「突風」を浴びた記憶があります…)

完成映像は『信長公記』のごく短い文言を優先させた結果と思われますが、一方、当日の現場を目撃した宣教師らの『フロイス日本史』を読みますと、私の疑問を解くヒントがちゃんと書かれていて、その記述に基づいて、私の元原稿はこんな書き方で、もっともっと派手に光り輝いたのではないかと考えたのです。




【元原稿からの抜粋】

そしてVR映像のラスト、幻想的な盂蘭盆会のシーンですが、実はここにもちょっとした安土城の謎があります。

記録では色とりどりの豪華な提灯で天主を飾った、とあるのですが、天主の窓は堅格子が入った武者窓であり、いったいどこに提灯をつったのか?
フロイスは「七階層を取り巻く縁側」に飾ったと記しています。

しかも信長はこの日のために10日間以上も一行を足止めして待たせました。

ということは、この時、天主は臨時の縁側(足場)でぐるりと取り巻かれていたのかもしれません。





ご参考) 内藤先生の復元による安土城天主の模型 / 各階層の外側に(通常は)縁側の類いは無い


ご参考) 織田信長も楽しんだという尾張の津島天王祭 / 現在の様子と歌川広重の浮世絵(ウィキペディアより)



※各々の船に半円形に飾り付ける提灯は365個!!(1年をあらわす)




【松田毅一『完訳フロイス日本史』の該当部分】

例年ならば家臣たちはすべて各自の家の前で火を焚き、信長の城では何も焚かない習わしであったが、同夜はまったく反対のことが行われた。

すなわち信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提燈で上の天守閣を飾らせた。

七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。





この「七階層を取り巻く縁側」というのは、安土城天主の全階層に「縁側」があったとはどうにも思えませんので、やはり“臨時の足場”を、十日間で組み付けたと考えるのが自然ではないでしょうか。


そこに提灯を設置したならば、強風の件も、また当日の点火の件も、すんなりと解決の目途がつくはずです。

(※完成映像の場合、点火はどうなるのか?? 電灯スイッチの提灯ではないし、窓には堅格子も!)


そしていっそう重要なポイントとして、盂蘭盆会(お盆)に提灯となれば、それらは当然のこと、年に一度、先祖の霊を迎え入れるために焚く「迎え火」を意味したのでしょう。

ですから、ご承知のとおり「暦(こよみ)」の問題と信長は、色々と取りざたされている関係にありますので、ひょっとしてひょっとすると、安土城天主は太陽暦(=グレゴリオ暦)の日数 365個の提灯で! 完ぺきに取り巻かれていたのではあるまいか…


こんな仮説の部分は自治体制作の映像には盛り込めませんが、こういう妄想をたくましくしますと、安土のこの年の盂蘭盆会が、はるかヨーロッパのキリスト教国に(※グレゴリオ暦の普及が進むさなかに)伝えられたことは、これまた信長の、説明なき快挙であったようにも感じられてしまうわけなのです。



安土城天主が夜空にまばゆく光り輝いた姿は、信長が、地球の裏側に打ち返したシグナルだったのか







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年05月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!気になる懸造(かけづく)りの意図、「羅城門」級の大手門の景観






気になる懸造(かけづく)りの意図、「羅城門」級の大手門の景観


さてさて、北京の方からまた突飛な「歴史認識」が出ましたが、そんなことを言うなら、100年前の中国大陸には中国共産党なんぞ影も形も無かったわけで、いよいよ実験国家の悲鳴が聞えて来たと受けとめるべきでしょうか。…

で、そんなことはともかく、前回は城郭史学会の大会セミナーを中心に 安土城天主について書きましたが、その中では、やはり書きっぱなしのままでは済まされない部分もあり、今回はそちらを、ちょっとだけ補足させて下さい。


「京間」で計測された場合の、20間×17間の範囲(グリーン)


上図は、千田嘉博先生が著書『信長の城』で示された安土城天主の新復元案について、前回のブログで申し上げた感想の、補足図です。

先生の著書によりますと、新復元案では、天主台石蔵内の七尺間の礎石群と、天主台下で発見された七尺間の礎石列を、一体のものとして扱っておられます。

しかし著書の文面には、『信長公記』類にある天主二重目の20間×17間という数値もまた「七尺間」であったかどうかは明記してなく、この数値が「京間」などで計測された可能性も含んでいるようです。


そこで上の補足図なのですが、京間(六尺五寸間)で計測されていた場合は、若干、規模が小さくなります。(グリーンの範囲に)


その結果、懸造りの天主二重目は、図の程度に天主台北側(図の下側)に張り出していたなら、もう南側には張り出す余地が無く、逆に、南側に全体が3間ズレて張り出していたなら、もう北側には張り出す部分がほとんど無い、という微妙なサイズになりそうです。

それならば何故、わざわざそんな懸造り構造にしたのか…

京間の20間×17間が不可欠な“部屋の条件”でもあったのか…

しかもそれは、後の江戸城天守の初重にも匹敵する規模(!!)なのに…

といった点が気がかりなものの、先生が著書で懸念したとおり、南側にズレるのは技術的にちょっと複雑(天主台南西角での寄せ掛け柱の処理)になるため、やはり天主台北側において <懸造りの礎石が見つかるかどうか> が新復元案の評価を左右していくのではないでしょうか。


史上最大の江戸城天守の初重(天守台)と並べてみる

そんな新復元案から思わず連想してしまう、笠森寺の観音堂(千葉県)


(※ご覧の四方懸造りの中心は岩 / 昔、この岩上に観音菩薩像が安置された由来あり)

(→ということは、当然ながら「懸造り」自体が建築の目的ではない)





<大手門がもしも「羅城門」級であったなら、どんな景観になるのか>






さて、もう一つ補足すべき話題は、通称「大手門」が幅約30mの「羅城門」級であったかもしれない、というお話でしょう。

これはもちろん、左右の石塁の真ん中が30mほど空いているというだけで、門の礎石などの物証は一切無いわけですから、ひょっとすると計画だけで(石塁が完成した時点で)沙汰やみになった可能性もあろうかと感じております。

でも、そこは城郭マニアの悲しさで、もしそんな巨大な門が建ったなら、いったいどういう景観になっていたのだろうか… という興味本位の空想をめぐらせずにはいられません。


徳川家の菩提寺・増上寺の三解脱門が、ほぼ同じ規模(幅29m/元和8年建立)


!! 例えば、こんな門があの場所にあった場合を想像しますと、もう第一印象からして「城」ではなく、かと言って「都城」という連想も(背後が山だけに)難しく、いちばん順当なのは、安土山が「聖地」のように祭られた形と申しますか、近づく者(参拝者?)に威厳を示す効果が際立っていたのではないでしょうか。

かくして、たとえそれが「羅城門」級であっても、私なんぞは、ますます <信長廟の門構え> に見えてしまって仕方が無いのでして、仮にそうした場合、写真のような規模の二重門が建つと、安土山の南面はどういう姿になっていたのか、思い切ってイラスト化してみました。


本能寺の変(織田信長の死)後の安土山の仮想イラスト

これは城や都城でしょうか? こうなると私には陵墓や神宮(寺)にしか見えません…


ご覧の仮想イラストは、「大手門」前の広場や水堀については、かつて木戸雅寿先生が書かれた論考「安土城の大手道は無かった」(PDF/滋賀県文化財保護協会『紀要 第20号』2007年所収)の掲載図を参考にしながら描いたものです。

論考の「大手道は無かった」という刺激的なタイトルは、安土において「大手道」という名称が現れたのは江戸時代からであり、しかも城郭用語として実態に合わない(城内にある!)ため、もはや大手道という名称は使うべきでなく、「行幸道」か「御成道」に変えるべきだ、という木戸先生のお考えによります。


で、木戸先生は、通称「大手門」前の広場は、天皇行幸の際の儀式空間として造成されたのだろうとしていますが、上の仮想イラストを見れば、私なんぞは、なおさらのこと、これらは <建設途上で放棄された信長廟の表門と神橋(しんきょう)> ではなかったか、という疑いを深めてしまうのです。

しかも、民衆にとってこれらは「下街道」から眺めるだけの廟所として、さながら天皇陵が水濠に囲まれて、近づきがたい雰囲気を漂わせる様子にもソックリではないでしょうか。

ですから、ひょっとして名称の件では、大手道はいっそのこと表参道(!?) にでもすべきかと思ってしまうわけで、かく申し上げる私の念頭にあるのは、山頂に信長廟が建立された安土山と、のちに徳川家康の遺骸が葬られた久能山東照宮との、地形的な類似性なのです。


久能山東照宮の地形

鳥居を過ぎて石畳のあたりから見上げた様子



(※次回に続く/未解明の三法師(織田秀信)邸、駿府城天守との関係など)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年04月25日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!まことに興味が尽きなかった城郭史学会の大会から






まことに興味が尽きなかった城郭史学会の大会から


駿府城天守の周囲を前代未聞の「露台」がめぐっていた可能性についてのお話の続きは、申し訳ございませんが、また一回先送りしまして、先週末のセミナーの感想を是非ともお伝えしたく思います。

4月20日開催の、西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)先生の日本城郭史学会の大会は、テーマが「安土城天主」でした。

私は以前、まったく個人的な理由から史学会に迷惑をおかけしてしまい、以来、カンペキに敷居が高くなっていたものの、テーマがテーマだけに、矢も盾もたまらず参加させていただいたという次第です。


会場の江戸東京博物館にて

(※西ヶ谷先生が内藤昌先生から寄贈されたというイラスト)


大会テーマの発端になったのは…

千田嘉博著『信長の城』(岩波新書) / 池上裕子著『織田信長』(吉川弘文館 人物叢書)

  


大会の冒頭、司会の伊藤一美先生が言われるには、昨年に出た「衝撃的な二冊」、ご覧の千田嘉博先生と池上裕子先生の本が企画の発端だったそうです。

不覚にも自分は『織田信長』の方をまるでフォローしてなかったため、セミナー終了後に本屋に飛んで行ったのですが、二冊の安土城のとらえ方は、織田信長の城の「求心性」では一致するものの、「階層性」という概念をめぐっては、異なる見解が対立しているように見えました。


千田先生の著書はご承知のとおり(前年末に出た『天下人の城』と共に)安土城等について、かなり思い切った論調で自説を展開された注目作でした。

私なんぞは『天下人の城』の段階で、例の『信長公記』類にある天主台の広さについて「文字史料の誤り?」と書かれていたのを見つけた時、ついに来るか、と大きな期待を感じました。

そして次作『信長の城』での「天守」の解釈、天守と織豊系城郭(求心性)との関係などは最大級の賛辞を心中で発したものの、具体的な安土城天主の復元案には「あ…」と複雑な感想を抱いてしまいました。(※今回の文末にその感想を図解付きで申し上げています)


一方、池上先生の著書は、信長が奉行人制や評定衆などの政治機構を設けず、また百姓と向き合う農政や民政も無く、絶対服従する家臣への直接的な命令だけで“すべて”を動かそうとした点(=ワンマン独裁者?)に注目されました。

ですから、そうであるなら織豊系城郭の「求心性」とは何だったのか、「階層性」の実態はどういうものだったのか、という疑問が大会企画の発端になったのかもしれません。


で、セミナーの講師には、千田先生の著書で痛烈な批判をあびた(!!)滋賀県文化財保護課の松下浩(まつした ひろし)先生や、宮上茂隆復元案の生き証人・竹林舎建築研究所長の木岡敬雄(きおか たけお)先生をお迎えするなど、意欲的なラインナップでした。


とりわけ自分にとっては、当サイトで申し上げて来た「大胆仮説」に関連しうる発言がいくつも、発表や質疑応答の中にちりばめられていて、まったく興味の尽きない1日だったのです。

ということで、今回お伝えしますのは、決して当大会の公平かつ妥当な報告文ではなくて、あくまでも私の勝手な我田引水ばかりの印象記であることをお断りしたうえで、順次申し上げて参りましょう。





<山が動いた!! / 私にとって最大の福音になった西ヶ谷恭弘先生の「八角」発言>






西ヶ谷先生の発表「安土城天主復元諸説をめぐって」は、話題になった天主崩壊説(大雨で一度倒壊した)を含む復元諸説の紹介があったわけですが、その最後の <十、「六重目八角四間程」をめぐって> での発言は、これまでの安土城天主の復元の歩みを転換させる契機になって行くのではないでしょうか。

先生は大村由己の『秀吉事記』(『天正記』)が豊臣秀吉の大坂城天守について「四方八角」と表現したことを踏まえて、安土城天主の六重目も「本当に八角形だったのだろうか」と発言されたのです。


その直前には先生ご自身の(もちろん八角円堂による)復元案の紹介もあったので、よもやそんな展開になるとは思っていなかったため、私は会場の最後列に座ったまま感極まり、思わず目頭が熱くなったことを白状いたします。


八角円堂ではない「十字型八角平面」による六重目/当サイト仮説イラスト


で、決して他意は無いのですが、かつて八角円堂による六重目を含む斬新(ざんしん)な復元案で一世を風靡した内藤昌先生が、昨年の秋に亡くなられたことも含めますと、なにか時代がまた動き始めているような気がいたします。

そして何より、八角円堂による自説の復元案もあるのに、ああいう発言をされた西ヶ谷先生の深意は何だったのか… 非常に重いものを受け取ったように、私なんぞは勝手な感慨にふけってしまうのです。





<宮上茂隆案はいまも変化し続けていた / 木岡敬雄先生の「二段目の石垣」発言>






木岡先生は宮上茂隆先生のもとで宮上案の図面を引いたという方で、まさに宮上復元の生き証人と申し上げてよいのでしょうが、そんな木岡先生の発言の中にも、ハッとさせられる事柄がありました。

と申しますのは、宮上案に対する三浦正幸先生の批判のホコ先になっているのが、天主台上に復元された複雑な形状の「二段目の石垣」であり、宮上先生は生前にこれの高さを五尺として図面化するように指示したそうです。


以前のブログ記事の作図より/二段目(濃いグリーン)は外観上はすっきり見えても…


木岡先生は指示どおりにこれを高さ五尺で図面化し、それをもとに何枚かのイラストが描かれ、世間に認知されて来たのですが、その一方で、宮上先生は『国華』で次のようにも書いておられました。


(宮上茂隆『国華』第998号/1977年より)

不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。


つまり宮上先生は、二段目が無かったケースにも、ちゃんと目配りしていたのです。

そんな遺志を継いでか、いま竹林舎建築研究所から発表する図面は、木岡先生の新たな復元図として、二段目石垣を高さ1〜2尺の低いものにしているそうで、言わば、宮上案はいまも生き続けていた(変化し続けていた)わけです。

私なんぞは、これは素晴らしいことだと思いますし、今後は宮上案の復元図などを見かけた時、それが「宮上図」なのか「木岡図」なのか、見極める楽しみが増えたように感じています。





<『信長の城』への反論の機会がありがたいと… / 松下浩先生の「大手門のズレ」発言>






ご承知のとおり、20年に及ぶ発掘調査の中で(旧)安土城郭調査研究所が発表した「清涼殿に酷似した本丸御殿」説は、三浦正幸先生や川本重雄先生から強い批判を受け、それに続いて千田先生は、小牧山城にも大手道があることから、安土城「大手道」を天皇の行幸道とした先の発表を、重ねて批判しました。

そんな渦中にある松下先生は、セミナー冒頭で「岩波新書(『信長の城』)の力は恐ろしい」とボヤきながらも、話題の伝信忠邸跡の石垣跡の正しい読み方を力説して、千田説に反論するなど、けっこう涙ぐましい様子に(私には)見えました。


かく申し上げる当ブログも、これまでに「清涼殿〜」説への対案(→記事)をアップしたり、「大手道」や大手門の四つの門は、ひょっとすると信長廟の門構えなのでは?(→記事)などという勝手な推論を申し上げて、批判の後追いをして来た立場にあります。


対案(雁行する御殿群と「儲(もうけ)の御所」説)のイラスト

「大手道」の直線部分は信長廟に向かっている!?


そんな私が思わず身をのり出したのは、発表後の質疑応答で、史学会評議員の坂井尚登さんが問いかけた「大手門の位置」に関する質問でした。

それは上図(やブログ記事)にも小さく描きましたように、大手道の登り口である「大手門」が、安土城郭研究所の発表では右側に微妙にズレているのは何故なのか、という疑問点であり、これに対する松下先生の答え(答え方)がたいへんに興味深かったのです。


ご承知のように研究所の発表では、四つの門は、内裏や中国の周王城などにならった都城の形式だとしていて、それは松下先生自身が「思いついた」ものだそうですが、先生は先の質問を受けると、ちょっと困ったようなニガ笑いをされて、発表内容に至った経緯について説明されたのです。


ひょっとすると、大手門は幅30m超の「羅城門」級の巨大な門だった!?

(※滋賀県安土城郭研究所『図説 安土城を掘る』掲載の図をもとに作成)


松下先生のお答えによれば、図のように「推定大手門」の左側の石塁もまた推定のものであって、出土した石塁跡のままであれば、その門幅は約30mもあり、「これでは羅城門のようになってしまう」と先生自身が懸念して、一、二の出土礎石をもとに左側の石塁を“推定した”のだそうです。!!

この回答に対して、質問者の坂井さんが「羅城門でもいいんじゃないですか」と応じていたのは、これもまた城郭研究の一つの転機になりうる質疑応答だったのではないでしょうか。







<では最後に、千田復元案に対する当サイトの感想を申し上げますと…>



まずは当サイト仮説の図から/『信長公記』類の数値は、南北と東西が逆だったのではないか


当サイトでは、天主台上(二重目)の空地を含む広さは、『信長公記』類に書かれた「二重 石くらの上 廣さ北南へ廿間 東西へ十七間」という数値が逆であったと考えますと、現地の遺構にスンナリ当てはまることを申し上げて来ました。

しかし千田先生が『信長の城』で提起された新復元案は、文献どおりの数値を実現すべく、天主二重目の木造部が天主台から大きくはみ出して建つように、大規模な懸造り(かけづくり)を想定したものです。


千田復元案の根幹を成すのは、ご覧のような「20間×17間」の想定方法



(千田嘉博『信長の城』2013年より)

別言すると懸け造りで天主台から天主が張り出したと考えないと、『安土日記』や『信長公記』の記述と遺跡でわかる実際の天主の規模を合致させることはできないのです。
同様に北側もしくは南側でも天主が懸け造りになっていたと考えれば、南北二〇間の記述とも合致します。
(中略)
天主台石垣の高さによって石垣天端まで伸びた柱がどこまでだったかには解釈の余地がありますが、石垣直下の東列礎石では北から七石目、西側礎石では北から四石目までが、少なくとも天主の懸け造りに関わった礎石と推定しておきたいと思います。


このように千田復元案とは、天主台の南西側の「二の丸東溜り」で発見された礎石列に立脚したもので、そこを南西端として天主台を取り巻くように懸造りが築かれ、それで文献の「20間×17間」が建物二重目として建てられたとするものです。

(※ただし礎石列は、間隔は2.1mと天主台石蔵のものと同じですが、その軸線・石列の向きは上図のようにずいぶん異なっています…)


ということは、今後、天主台跡の北側において、限定的な発掘調査を行いさえすれば、この千田復元案の評価はかなりハッキリするのではないでしょうか。

仮に先生の著書にあるように、懸造りや天主の全体が南へ(図では上へ)3間ズレていたとしても何かしら「出る」はずでしょうし、出なかった時は、それはそれで興味深い状況になると思われるのです。









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年11月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!世界で初めて「台」に載った城砦建築か 安土城天主






世界で初めて「台」に載った城砦建築か 安土城天主


張芸謀(チャン・イーモウ)の過剰演出? 映画『王妃の紋章』の王宮の台

※主人公の王族一家が中央の丸い台上で会食するのが一見、奇異に見えたものの…


当サイトはスタート時から、天守を建てることを漢字二文字で言う場合は、「造営」などという言葉は絶対に使わずに、極力、「建造」という言葉を使うように努めて参りました。

それは本来、天守にとって「天守台」がかなり重要な部分を占めていて、その原点は「台」と木造の建物を合わせて構想されたのであり、天守は強いて言えば、建物と言うよりも、ピラミッドやジッグラトと同類の「建造物」に近いのではないか、という印象が強かったからです。


で、前々回の記事あたりから、安土城天主の最上階が「三皇五帝」など古代中国の事物との関わりが深いことをお伝えしましたが、一番下の天主台もまた、古代中国との関連性がたいへんに深そうなのです。

そしてそれは「立体的御殿」の成立にも、「権威」と「防備」という、二重の意味で貢献していたのかもしれない… というお話を、今回は申し上げてみたいと思います。




(蕭紅顔「台の解釈」/玉井哲雄編『日中比較建築文化史の構築』2008年より)

(『穆天子伝』巻5に)「天子は台に居り、以って天下に之を聴く」とある。天子が台を作ってそこに居て、天下の政治を執ったということである。
(中略)
台を築くことは戦国時代になって隆盛を迎え、その後衰退したことによって、漢代以後では伝承はあるものの、二度と重要な位置をしめることはなく、曹魏の鄴都の三台はすでに追いやられて城郭の隅に位置したことは言うまでもないことであろう。
(中略)
宮が台という字で名づけられたことは偶然では全くなく、宮殿の基壇として築台という方法を採用したことと一緒に脈々と続いてきたことなのであり、台という名称はその造営方法と密接にして不可分なものなのである。



私なんぞは「台」と言えば、思わず曹操の「銅雀台」や、呂布が董卓を討った未央宮の台榭建築などを連想してしまうわけですが、この南京大学建築研究所の蕭先生の論考によりますと、有名な曹操の三台…銅雀台・金虎台・氷井台が、実際には鄴(ぎょう)の北西の城壁付近に「追いやられて」設けられた経緯が、ぼんやりと分かって来ます。

蕭先生の指摘によれば、「台」とは最も古い時代にはまさに台だけであって、そこが帝王の居所であり、そこに飾りや建物・楼閣が載ったのは後の時代のことで、歴史的には「台」が最も重要だった、という意外な内実を教えてくれます。


そういう意味では、冒頭の映画の異様な「台」は、いやはや、古代中国の王宮における、帝王の居所としての本来の姿を踏まえた独創的演出…(?)と申し上げるべきだったのかもしれません。



安土城天主台跡/南東側の「いしくら」入口


さて、そうなりますと、我が国の天守の「天守台」はいつ頃、どこで、何のために出現したのでしょうか?

このような疑問も、天守じたいの発祥が定説化されない現状では、かなり漠然と、城の総石垣づくりの普及がもたらした一現象、という風にしか語られにくく(厳密には土塁のみの織豊期の天守台遺構もあるようですが)、ましてや宮殿や本堂の「基壇」と天守台とを結びつけるような議論は殆ど無いようです。


ですが、ここであえて、あえて設問させていただくと…

<我らの安土城天主は、実は、アジアで初めて、ひょっとすると世界で初めて、専用の立派な「台」に載った城砦建築だったのではないか??>

という、ちょっと意外な定義が成り立つのかどうか、ずっと気になって来たのです。



ちなみにここで「専用の立派な」と申し上げたのは、例えば城壁の一部とか、城門との共用とかを除いて、まさに宮殿の基壇に由来するような専用の「台」を築いたもの、という意味になります。

また「城砦建築」としたのは、もし城郭建築の「郭」という文字を使いますと、中国の漢字文化の中では城壁都市も含まれてしまうそうで、前述の銅雀台などと区別がつかなくなるからです。


つまり、城や砦の軍事施設として建設されながらも、宮殿の基壇に由来する「台」に載った世界初の建造物は、もしかすると安土城天主であり、そんな例は中国大陸にもどこにも例がなかったのではないかと…


そしてこのことは、我が国固有の建造物「天守」の定義にも関わる問題であり、しかも天下布武を掲げた織田信長ならではの“創意”であった可能性も秘めているように思われ、ずっと、ずっと気になって来た事柄なのです。


小牧山城/山頂部西側の石垣

※※なおこの件については、信長時代の岐阜城の山頂天主(フロイス日本史「主城」)や、同じく山頂に大ぶりな石垣(よもや天主台?)がのこる小牧山城、はたまた柴田勝家の北ノ庄城なども可能性がありそうですが、いずれも天主台の様子がよく分からないため、今回の話題からは除外しております。



<安土城の天主「台」は、権威と防備の一挙両得をねらっていた…>



先程の「世界初か」という疑問は、正直申しまして、私なんぞが正確な答えを出せる状態ではありませんので、ここは無責任な言いっぱなしのまま話題を次に進めさせていただきますと、この件に関連して、天主「台」を導入した信長の工夫が垣間見えるようです。


『天守指図』新解釈による天主台の形状(赤ライン)※以前の記事より


ご覧の図は滋賀県の調査資料をもとに、天主台跡を東西方向に切って見た状態でして、断面は天主台上の“一箇所だけ礎石の無い”中心地点を通るラインで切ったものです。

そしてこの図を、前回記事でご覧に入れた『天守指図』の各重色分け図に差し替えてみます。


天主の木造部分を色分け図に差し替えたもの



そして当サイト仮説の七重分の各階高を、分かりやすく7色の縦ライン(計16間半)で表示してみますと…



(※7色の縦ラインは七重目屋根の棟の中心点から垂直に下ろしたもの)
(※その位置は『天守指図』の北側「本柱」から東に半間、北に半間ずれている)


これらの図を勘案して合体させますと、当サイト仮説の復元案を、北側から眺めた立面の模式図にすることが出来ます。




で、この図をもっと広い範囲で眺めますと、天主「台」が思いのほか、防備にも役立っていた節が見えて来るのです。


天主「台」による二重目カサ上げの効果


ご覧のとおり、敵方の鉄砲隊は、伝二ノ丸の敷地内をどんなに移動しても、天主二重目(天主台上の初層)に銃弾を撃ち込むことは出来なかったことになります。

したがって天主「台」の導入は、建物の基壇としての権威づけとともに、天主二重目を(当ブログ仮説のような)開放的な御殿とするためにも不可欠な措置だった、と言うことが出来そうです。


以上の結論としまして、天主台とは、一見、地味な存在でありながら、実は権威と防備、二重の意味で「立体的御殿」の具体化に貢献した、信長会心のアイデアであったように思われてならないのですが…。




(※追記 / ちょっとマニアックな視点から申し添えますと、この場合、天主木造部は天主台の石垣に“荷重をかけていない”点にもご留意いただきたく、今回申し上げた「台」は、あくまでも宮殿等の基壇に由来するものです。 ご参考→石垣への荷重に関する過去の記事 …話題になった鎌刃城の大櫓に穴倉があっても、それは「台」ではないはず、という意味です)



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2012年11月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か






障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か


(岡山大学蔵『信長記』より)
五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也


(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)
五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。


このところ <安土城天主内部の薄暗さと障壁画との矛盾> をテーマに申し上げてまいりましたが、その観点では、ちょっと素通りしがちな「五重目」が、実はかなり重要な意味を持っていたのではないか… という気がしております。

と申しますのは、冒頭の引用のとおり、この階は“障壁画が無い”と『信長公記』類にアッサリと書かれていて、それは天主の構造面から見れば、おそらく屋根裏階になるのだから当然でしょう、という解釈が目白押しでした。


ですが『天守指図』とその新解釈に基づく場合は、ちょっと別の理由から、五重目に絵が無いのは当たり前でして、その最大かつ当然の理由は“ほぼ真っ暗闇だったから”です。

したがって当時、必ずしも“屋根裏階だから粗略でいい”という判断が下されたとは言い切れないのではないでしょうか。


ここも極端に薄暗い松江城天守の四階(望楼部分の直下の階!)


思えば、大型の現存天守のうち、松江城天守などでは中層階に極端に薄暗い階がありまして、そこから階段を登ると一気に見晴らしのよい最上階に出られる、というスタイルが共通しています。

従来、このことには特段の注目も無かったわけですが、これもまた、安土城天主に由来する一種の作法!…だったのではないか、という気がしてなりません。


何故かと申しますと、後々の層塔型天守(すなわち徳川幕府の治世下)では、中層階の暗闇というものが、構造的に巧妙に“打ち消されていた”ようにも感じるからです。

(※復元された層塔型の大洲城天守などがその最たるもので、下から上まで明るさに殆ど変化が無く、姫路城天守もそんな感じがあって、それは移行期の天守ならではの要素かもしれません)

(※追記/ただし姫路城天守はこの度の大修理で、創建時の最上階は四周にフルに窓があった可能性が判明しましたので、初代藩主の池田輝政はまだ織豊期の天守がイメージに残っていたのかもしれません!)


で、こうした層塔型の構造的な条件(しばり)を逃れるためには、例えば幕末再建の松山城天守のように、最上階にあえて復古調の高欄廻縁を設けなければ、あれほどの明暗のコントラストは再現できなかったと思われるからです。


以上の事柄を踏まえますと、望楼部分とその直下の暗闇という配置は、取りも直さず、(前回も申し上げた)天主最上階の政治的かつ建築的な意味合いの強調、という問題に深く関わっていたのではないでしょうか。



静嘉堂文庫蔵『天守指図』五重目より/ご覧のとおり自然光は殆ど入らない!


先程“ほぼ真っ暗闇”と申し上げたのも、ご覧の図で納得いただけるように思われますが、この五重目の中心部について言えば、図の上下(南北)端にある一段高い茶室の華頭窓から差し込む光の他に、自然光は無かったことになります。

しかもここは(特に初めて入った者には)かなりの迷路でもあった、と言えそうです。

図の左上(南東)の階段は四重目から、中央の階段は例の「高サ十二間余の蔵」を上がってくる最後の階段であり、例えばこれらが交わるルートを、こんな暗闇の中で見つけるのはチョット難しかったのではないでしょうか。

(※そこはひょっとすると、六重目への階段の下で、隠し戸か何かが間をはばんでいたのかもしれません)


したがって『天守指図』に基づく限り、これらの状態は、信長が意図的に造ったもの! と言わざるを得ないでしょう。

そして、このような場所に障壁画を並べるはずもなく、ならば、天主七重の途中にこういう階をあえてはさんだ信長の意図は何だったのでしょうか?


冒頭の木戸雅寿先生の「無」という考え方はたいへんに興味深く、私なんぞはもう一歩踏み込んで、この階は「闇夜」「混乱」「乱世」を表現していたのではなかろうか… などと空想してしまうわけなのです。



ぐるりと階段を登って、まばゆい外光が差し込む六重目へ


当サイトの『天守指図』新解釈では、ご覧のような階段を登った先に、面積4坪の回廊のごとき「六重目」があり、そこからさらに七重目に上がれる構造になっていた、と想定しております。

この六重目のすぐ外側には幅広の縁がめぐっていたはずで、間の板戸などを開けば、一気に外光が差し込む、という強烈なコントラストが生まれ、これがひょっとすると、他の織豊期の天守の“ある種の原型”になったのではないでしょうか。


ちなみに、上図の南北(上下)の張出し部分の戸を開けば、そこから階下の五重目にも光がもれて、吹き抜けの格天井や階段部分を多少、明るくした可能性もあったのではないかと想像しております。


いずれにしましても、天主七重の中層階に真っ暗闇の「無」の空間を設けたことは、<この暗闇を突き抜けた先に光が見えるはず> という覚悟や決意を造型化したかのようでもあり、ここに信長の心意気のようなものを感じてしまうのは、私の買いかぶりの考え過ぎでしょうか??








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2012年10月23日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の本心…障壁画は見栄えよりも「文字化伝達」が最大の目的だったか






信長の本心…障壁画は見栄えよりも「文字化伝達」が最大の目的だったか


このところ申し上げてきた安土城天主の内部の薄暗さと、その各階が狩野永徳らの障壁画で埋め尽くされたことの「矛盾」は、安土城の未解決の研究課題の一つです。

前々回、当サイトの仮説では、各階の薄暗さ(明るさ)はかなり違っていて、「そういう各階を埋め尽くした障壁画は、じつは実際の鑑賞(見栄え)は二の次であって、別の主たる目的が先行した結果ではないのか」と申し上げました。


今回はこの「別の主たる目的」のお話でして、思えば、織田信長が命じた襖絵の記録のおかげで、21世紀の我々までそれらの画題を(天主全体の復元案は諸説あるのに…)正確に把握できるというのは、チョット不思議な感じがします。

そこで強く思うのは、信長はじつは(後世への記念などではなく)同時代の人物に向けて画題の「文字化」を行ったのではあるまいか!?… という疑惑でして、つまり各部屋の襖絵が詳しく記録されたのは、その記録が<特定の人物らに読まれることを大前提にしていた>のではないのか?

ひいては、それこそが、信長の天主建造の目的の一つでもあったのではあるまいか? という、「立体的御殿」誕生の深層に関わるお話なのです。



大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』1995年


安土城天主の障壁画と言えば、今なおこの本が多くの示唆を与えてくれるようで、今回のブログ記事の主旨をインスパイアしてくれたのも、この本です。

で、A氏とB氏の対話形式で書かれた本文から、興味深い部分を何箇所か、順に抜き書きさせていただきますと…



A「ぼくが感じるいちばん大きなジレンマは、肝腎の襖絵は何も残っていないにもかかわらず、一方の文字史料の方、とくに太田牛一の書き残した『信長公記』の記述からは、地上六階の各階のすべての主題が、じつに細々と、部屋ごとの一々の画題から、全体構成のシステムにいたるまで、驚くほどはっきりとつかめるということなんだ」
(中略)
B「私はここでも、「書き手の眼」ということが大事だと思う。面白いのは、『信長公記』諸本のうちでも、テキストがいちばんオリジナルに近いとされる『安土日記』では(中略)記述の順番がまったく逆になっていることね。天守の最上階からはじめて、段々と下に降りてゆくという順になっている。上から下へというのは、これ、どう考えても案内コースとは思えない」



と最初に挙げましたように、やはり襖絵の画題(つまり部屋の格式)が一々正確に把握できて、しかもそれらが元々は最上階から記録された、という点が検討の出発点にもなっています。


ご承知のように『安土日記』の問題の部分は、描写の仕方が相阿弥(そうあみ)の座敷飾りの秘伝書『御飾書』(おかざりしょ)にならったもの、という指摘がかつて宮上茂隆先生からありました。

でもそれらが何故、最上階から始まっていたかについては、「信長の安土城天主の構想の中心が最上階にあったことを反映したものだろう」(『安土城天主の復原とその史料に就いて』)といった言及にとどまっています。


確かにその『安土日記』によれば、狩野永徳が独力で障壁画を描いたのは最上階だけであって、(それ以外は子の光信らとの分業で)最上階が極めて重要だったことがうかがえます。

その辺りを再び、前掲書『安土城の中の「天下」』から抜き書きしますと…



B「日本における権力中枢のイメージ環境の歴史を振り返ってみると、意外にもというか、案の定というべきか、安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないかという気がしてくる」

A「確かに、安土城最上層の、三皇五帝をはじめとする、神話時代の聖天子や、孔子および孔門十哲の図など、ぼくのいうチャイニーズ・ロアの図像は、内裏の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)にそのままつながるものを持っている」






ご存知、賢聖障子は、紫宸殿の天皇御座の後ろに立てられた、中国古代の名臣ら32名の立像!の肖像画(→ご参考:京都御所紫宸殿賢聖障子絵画綴/東京都立図書館)等を描いた9枚の幅広の襖で、漢の成帝が行った同様の事績に基いているそうです。

で、それが安土城天主の最上階の画題につながる… のだとしたら、信長のねらいは明々白々ということにもなるでしょう。


問題の村井貞勝らの天主拝見は「天正七年正月二十五日すなわち天主作事完了直後にしていまだ信長正式移徒(いし)のおこなわれない時期の間隙をぬって特別に許可された」(内藤昌『復元・安土城』)そうですから、画題の文字化は、天主の建造と一連の、重要プロジェクトであったのかもしれません。

そして何が何でも最上階の七重目(『安土日記』では「上一重」)を真っ先に語らせたい、一階から始める普通の見聞録のような書き方は許さない、という信長の強い意思が、貞勝の筆に作用したことも間違いなさそうです。

そこで気になるのが前掲書『安土城の中の「天下」』の次の部分でして…



B「それにしても、内裏のイメージ環境については、これまで問われるべくして問われたことのない、重大な問題が一つある。日本の政治中枢でありながら、なぜ日本の神話が描かれなかったのかということ」
(中略)
B「世の始まりは、アマテラスではなく、三皇五帝であるということよね。いかにも神話よろしく、人びとは、その三皇五帝を、二重、三重のイメージをもって捉えていた。まさに禅僧らの漢詩を通して、あるいは『太平記』を通して。そして謡曲では、「三皇五帝の昔より……」などというのが、決まり文句にさえなっていたのよね」

A「戦国武将たちが、『太平記』を通して、三皇五帝を語るときには、しかし、さらにもう一つの側面があったのではないだろうか。謡曲の決まり文句のように、太平の世の枕詞として出てくるのとは裏腹に、『太平記』の中では、今の世の、乱世に対する批判として、三皇五帝の世を称揚するといった感が強い」




ああやはり… という感想でして、信長もまた「乱世に対する批判として、三皇五帝の世を称揚」していた、となれば、信長の天主の創造をめぐる様々な事柄が一気に焦点を結ぶような思いがいたします。

近年よく言われるとおり、戦国大名の中で信長たった一人だけが、戦国の世の統一(分裂国家の再統一)という遠大な目標をスローガンに掲げた(「天下布武」)わけで、そうした覚悟と「立体的御殿」も深く結びついていた可能性があったことになるからです。


すなわち皇帝の館に見立てた安土城天主の障壁画、とりわけ最上階に掲げた三皇五帝らの絵とその「文字化」は、それらを伝達されてもなお織田の軍門に降ろうとしない戦国大名(特に足利義昭を担ぐ地域勢力)は、いずれ「朝敵」として討ち果たす、首を洗って待っていろ、という恫喝を(絵画と建築という芸術を通じて!)行ったものではなかったのでしょうか。


信長という人の特異性をつくづく感じるのはこんな所でして、現に信長最後の武田勝頼の討伐戦は「朝敵」として行ったとも言われますし、信長は本当に大事なことは全部言わずじまいで死んだ武将、という思いがしてなりません。

そこで以上の結論として、たとえ安土城天主に「彩色豊かな障壁画」があったとしても、それらは「文字」で画題の上下関係(体制転換の指針)を伝えることが第一の役割であり、そのための「立体的御殿」でもあり、実際の各部屋は防備優先のままで、書院造のような明るさは求められていなかった! という結論になりそうなのです。



豊臣秀吉の場合は…/大阪城天守閣蔵『大坂城図屏風』と当サイトのイラストより


さて、そうなりますと、信長の後継者・秀吉は、<そんな安土城天主の内と外をひっくり返せば「見せる天守」を造れるではないか>という、これまた大変に分かり易いアイデアを思いつき、それを大坂築城で実行した、という言い方も、ひょっとすると出来るのかもしれません。


当サイトでは、上写真の屏風に描かれた天守の紋章群はおそらく八幡神の神紋であり、神功皇后の三韓征伐伝説を世情に喚起したい秀吉政権の思惑が込められたもの、という仮説を申し上げて来ました。

信長と秀吉、二人の天主建造に対するスタンスの違いは、安土城と豊臣大坂城それぞれの歴史的な立場も影響したはずで、大坂の築城では盛時に5万人にも達したという大動員がかなり影響を及ぼしたのではないでしょうか。


と申しますのは、ともに政治的モニュメントとして効果の極大化をねらったものの、当面「文字化伝達」をねらうしかなかった安土城天主と、建造前から「見せる天守」をねらえた豊臣大坂城天守、という条件の違いが、天守の造型にもろに表れたことは大変に面白く感じられるからです。








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2012年10月09日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続イラスト解説 なんと三重目に「開かずの祭壇」が?…






続イラスト解説 なんと三重目に「開かずの祭壇」が?…


前回、当サイト仮説の安土城天主においては、各階ごとに薄暗さ(明るさ)がまったく異なり、「そういう各階を埋め尽くした彩色豊かな障壁画とは、じつは実際の鑑賞(見栄え)は二の次であって、別の主たる目的が先行した結果ではないのか」などと申し上げました。

本来ならば、今回はこの話のケリをつけるべきなのでしょうが、その前にもう一つ、この機会に是非ともお伝えしたい、ちょっと不思議な事柄がありまして、今回はそちらの方をご紹介させていただくことにします。



天主の三重目を色づけ/二重目「北之方御土蔵」の真上に部屋がある(左の張出し部分)


かねてから気になっていたのが『天守指図』で三重目(天主台上の二層目)の北端、すなわち二重目「北之方御土蔵(『安土日記』より)」の真上にある部屋でして、これをイラストで見ますと、グリーンに色付けしたうちの左端の張出し部分になります。

何故、ここが気になるかと申しますと…


『天守指図』三重目より/ここだけ『信長公記』等に該当する部屋の記録が無い



よく見ますと、北(下)壁の中央に幅2間の段? その壁外に破風


拡大して見ますと、ご覧のとおり下階の土蔵とは内部で連絡していたようにも見えず、したがってここは“土蔵の二階部分”ということではなさそうです。

そして(※当サイトは池上右平の文字の書き込みをすべて疑問視しておりますが…)部屋の真ん中に「御くらノ上さしき」と書かれ、北壁に張り付いた幅2間の段(階段付き)には「たん」「さか」と書き込まれています。


この段らしきものは、思わず姫路城天守にある「石打棚」という、高い窓と床の高低差をおぎなう狙撃手用の段を連想させますが、安土城『天守指図』の場合、どうしてこの位置にそういうものが必要なのか、まったく分かりません。


それは内藤昌先生の復元案においても、この部分の張出しの壁面には(仕方なく)窓を設けず、わざわざすぐ上の(高い位置の)破風内に小窓を設ける、というチョット苦しい復元にならざるをえなくなったほどです。

そして内藤先生はこの部屋について、著書ではごく簡単にしか触れておられません。



(内藤昌『復元・安土城』1994年より)

「御くらノ上さしき」(東西四間×南北三間)がある。T・U・V類本にまったく記述がないのは、祖本の記録者貞勝が、特殊な場所ゆえ拝見しなかった結果と思われる。



「特殊な」というのは、この文章に特段の補足説明がないことから「御殿のうちに入らない別種の」という意味のようですが、その一方で、『信長記』『信長公記』類の分類(「T・U・V類本」)の中に「まったく記述がない」こと、また天主を拝見した村井「貞勝」が「拝見しなかった結果と思われる」と指摘された辺りは、さすがだと思われます。

何故なら、織田信長は村井貞勝らに<この部屋も意図的に見せなかった>(!!)という可能性が生まれるわけで、このことに私なんぞはビンビンと過剰反応してしまうからです。


当イラストでは問題の「段」の下に小窓、上に華頭窓を想定して描いてみた


はからずも『天守指図』が示唆する、信長が秘して見せなかった部屋… しかもその部屋の北壁(つまり部屋に入って正面に見える壁)に謎の段が設けられている…



左:サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会の祭壇(ローマ/ウィキペディアより)
右:大天后宮・媽祖廟の祭壇(台湾/台湾旅行クチコミガイド様より引用)


ひょっとして、問題の2間幅の段は「祭壇」ではなかったのか… などと申し上げれば、まーたトンデモない事を! とおしかりを受けそうで心配ですが、現に安土城内にハ見寺を建立したり、天主内に盆山を置いたりした信長のことですから、まんざらでもなかったように感じられてなりません。


まさか内側にステンドグラス!?信長が秘した「開かずの祭壇」か


よもや、かの「第六天魔王」の祭壇ということでもないでしょうが、これはずっと私の好奇心を誘って来た事柄です。

と申しますのも、当サイトの仮説ではこの階だけが<極端に薄暗かった>三重目において、その最も奥まったところに“開かずの祭壇が隠されていた”などというふうに想像しますと、矢も楯もたまらず、かく申し上げてしまった次第なのです。







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2012年09月24日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!イラスト解説…「安土城天主の内部は薄暗かった?」の重大な意味






イラスト解説…「安土城天主の内部は薄暗かった?」の重大な意味



※画面クリックで壁紙サイズ1280×800(横長8:5用)もご覧になれます!


ご覧のとおり、当サイト仮説の安土城天主は、かつて内藤昌(ないとう あきら)先生が復元に用いられた静嘉堂文庫蔵『天守指図』のうち、じつは二重目・三重目・五重目だけが本来の指図(原資料)に由来するものではないか、という仮定に基づいて復元イラストを描きました。(→詳細は2009緊急リポート他)

しかも二重目(天主台上の初層)は、江戸時代に池上右平による原資料の線の読み違えがあったと仮定しますと、なんと豊臣大坂城天守との相似形が浮き彫りになるため、実際は、下図の左側のような平面形(グリーンの色づけ部分)ではなかったか… と考えております。




この結果、安土城天主の「窓」の配置については、『天守指図』で特徴的な華頭窓(かとうまど)は、二重目の壁面には一つも無く、その外側の天主台南側の塀にだけ設けられていた〔…つまりここは透塀(すきべい)の類か?〕という考え方も出来そうなのです。




透塀の実例(日光 大猷院)


これらのことは、従来から指摘されて来た<安土城天主の内部の暗さ>問題に関して、思わぬ実相を示唆しているようにも感じられ、今回は是非ともこの件について申し上げたく思います。





さて、歴代の諸先生方による安土城天主の復元案はいずれも、『信長公記』等に狭間戸が「数六十余」とあるため、基本的に櫓と同様の防御的な壁面と考えられ、その内部は寝殿造や書院造などの御殿に比べれば、そうとうに薄暗かったとされました。

しかしそれでは、同じく『信長公記』等にある金壁や墨絵の障壁画による“立体的御殿”が台無しではないか? という指摘も度々なされ、例えば、当ブログで引用させていただいた『信長革命』でも…


(藤田達生『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

天主の内部空間に描かれた彩色豊かな障壁画は、効果的な採光によってこそ映えるものである。
なによりも暑さ寒さともに厳しい近江の気候を考慮すれば、窓や戸を大きく採らねば居住は不可能だ。

(中略)
安土城天主の主殿部分にあたる一階から三階までは、窓や戸を多用したかなりオープンな外観だったのではなかろうか。
あえて平易に表現するならば、書院造りの御殿を三層重ねたような構造だったと想定する。
中国の宮殿ときわめて類似した相貌を想定したほうがよいのである。



この藤田先生の文章は典型的でして、確かに天主内部の薄暗さと障壁画との矛盾に対する疑問は当然でしょうが、この文章ほどに開放的な構造では、一方で、明らかに銃撃戦を意識したはずの「鉄」の「狭間戸」が「数六十余」もあったと『信長公記』等に記されたことと、これまた完全に矛盾してしまうのです。


現存天守の内部の様子(犬山城天守では昼間も絶えず補助の照明が…)


そこで、当サイト仮説の安土城天主の「薄暗さ」を、二重目から四重目まで、階ごとに確認してみますと…




【二重目】拍子抜けするほど開放的? 実務や日常生活に適したのはこの階だけだった!?


冒頭から申し上げているように、当サイトの『天守指図』新解釈に基づきますと、二重目の南側(上)や西側(右)には「縁」がめぐらされ、板戸や障子、場合によっては蔀戸(しとみど)が入るなど、かなり開放的な造りであった可能性が出て来ます。

そして図の南東端(左上)や北西端(右下)には実線の無い部分が含まれますが、この位置まで二重目があったことは三重目との兼ね合いで妥当でしょうから、この場所はひょっとすると「素抜け」のような構造だったのではないか… とさえ想像することも可能です。


かくして、二重目は拍子抜けするほど開放的だった(!)という意外な見方も出来るわけでして、これは例えば、後の駿府城天守の独特な下層階の構造を連想させるもので、そうしたスタイルの先駆けだったのかもしれません。


そんな二重目に「薄暗い」という心配は無用で、結局、日中の実務や日常生活に適していた階はここだけだった?…という大胆な推測も許されるのではないでしょうか。
  
先生方の解釈では、この階は信長の政庁とも、生活空間とも言われましたが、いずれにしてもこれ以上ないほど最適な「明るさ」があった、というのが当サイトの復元案です。



【三重目】一転してこの階では薄暗い中での「対面」が演出された??


この階は『天守指図』によれば華頭窓が計十四あり、ご覧の図はそれらから入る光を模擬的に描いてみたものですが、南側(上)の武者走だけは多少、明るくなっていたことが想像できます。

しかしご承知のとおり『信長公記』等には、座敷の内外の柱はすべて「黒漆」が塗られたとあり、室内はそれだけ光を反射するものが無く、余計に暗く沈んだ雰囲気になっていたのではないでしょうか。


そんな三重目に進み出た訪問者はおそらく「十二畳」で信長の出御を待ち、やがて階下や階上から、もしくは奥の「口に八畳」から(つまりは階段橋から)信長が姿を現して、対面が行われたのでしょう。

この階では薄暗さ(暗さ)が、かえって信長の威厳を示すことに一役買ったのではないかと思うのです。



【四重目】先生方の解釈が分かれるこの階は「薄暗さ」も不明


当サイトの『天守指図』新解釈では、指図中の「四重目」はまるごと池上右平の加筆(創作)ではなかったかと疑問視しております。

そのため、実際の四重目は、五重目との兼ね合いから、三重目から一間ずつ逓減(ていげん)した形ではないかと考えておりまして、部屋や窓・階段等の詳細はハッキリしないものの、図のとおり『信長公記』等の各部屋はほぼ問題なく納まることが分かります。


ただ一点、この階は武者走(廊下)が無かったことになるため、部屋から部屋へと渡り歩くしかなく、したがってこの階は一連の「広間」として使うか、もしくは「納戸」が連なった空間として奥向き専用で使うしかなかったのではないかと思われます。


で、もしもこれで階全体が薄暗かったとなると、ちょっと何をするための空間か分からなくなりそうで、その場合は強いて言うなら、夜間の灯明のもとで何か(松の間=次十二間で幸若舞を舞うとか)するなど、信長一人の特殊な空間だったということにもなりかねません。


そこで、問題の多い『天守指図』四重目ですが…


申し上げたようにご覧の四重目は右平の加筆(創作)に他ならないと思うものの、ただし、東西の壁外に描かれた破風と特大の華頭窓(?)はあまりにも特徴的で、こんなものまで創作したのかと、やや気がかりです。

しかも、西側のは太い墨線で黒々と書かれているのに対して、東側のは極細の墨線で、さも自信が無さそうに書いているあたり、ひょっとして何か事情を含んでいるのでは… と好奇心が誘われます。


で例えば、これは実際の天主西面の「目撃談」か何かの別情報をもとに、右平が加筆した部分ではなかったか? と想像力をふくらませますと、先ほどの四重目の“問題点”をきっぱりと解消できる道が開けて来るのではないでしょうか。


そう仮定した場合、少なくとも西側の部屋はかなり明るかったことに?


以上のような仮定は、先生方の間で解釈が分かれて来た「四重目」について、一つ補足できる要素をもたらすのかもしれません。


今回の結論として、当サイトの『天守指図』新解釈のもとでは、安土城天主の内部は、信長が命じたのか否か、薄暗さ(明るさ)が階によってバラバラだった? という思わぬ方向性が示されることになります。

ということは、そういう各階を埋め尽くした「彩色豊かな障壁画」とは、じつは実際の鑑賞(見栄え)は二の次であって、別の主たる目的が先行した結果ではないのか、という邪推が芽生えるのです。


(※次回に続く)



(※イラストの訂正について : 一昨年の「上層部分のみ」のイラストでは、ご覧の切妻破風の真下には何も窓が無かったかのように描いており、今回、ここには五重目屋根裏階の採光用の小窓があったはず、と考えを改めて、描き加えております)








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城の再発見!速報!全景の安土城天主イラストが完成






速報!全景の安土城天主イラストが完成




2009緊急リポートから本当に長い間、積み残し課題のままだった<白壁の天主イラスト全景>を、ようやくお見せ出来る事になりました。


イラストは下図右下(北西)山麓の湖上からの視点で描画


冒頭のイラストは、ご覧のように天主西側の伝二ノ丸の地面をカットした状態であり、こんな風にしませんと、角度的に、伝二ノ丸に想定される建物群で天主周辺がかなり隠れてしまうためです。

で、この全景イラストの補足説明や、“どのくらい隠れてしまうのか?”という実演イラスト、そして壁紙サイズの同イラストなど、まことに申し訳ありませんが次回の記事でご紹介… ということで、今日のところは疲労困ぱいで何卒ご容赦下さい。!!








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城の再発見!本丸に馬場??織田信長の天主構想の解明に向けて






本丸に馬場??織田信長の天主構想の解明に向けて


【8月20日 緊急追記】
昨日まで2日間、尖閣問題で予定外の文面を掲示しておりましたが、事実は小説より奇なり、ということなのでしょうか。
驚きました。
→尖閣諸島上陸の中国人活動家が中国国旗を燃やしていたことが判明/中国人「えっ?」




仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/前々回の記事より


さてさて、前々回の仮説のイラストで、ご覧の伝本丸に「馬場など」と書き込みました点について、若干の疑問をお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

城の本丸に「馬場」などあったのか、と。

ですが、この「馬場など」はそれなりの根拠もあって書き込んだものでして、今回はこの点のご説明を手始めに、このところ進めて来ました“信長の安土城主郭部や天主をめぐる当初の構想”について、さらに探ってみたいと思います。



会津若松城の本丸周辺


「馬場など」と書きました第一の動機(根拠)は、ご覧の会津若松城の本丸に「御馬場」があったと『会津鶴ヶ城御本丸之図』に記されていることです。

「御馬場」=図の赤いエリアは、本丸御殿のうちでも最も公的な建物群である「表御殿」(大書院や小書院など→赤エリアのすぐ左側の建物)の庭先にあたる場所で、こんな場所で馬に乗れる人物は城主以外にはありえない、という位置になります。


これが果たしてどこまで日常的に使われたかは、歴代の城主(蒲生、上杉、加藤、保科・松平)によっても色々だったでしょうから、「御馬場」は単なる伝承地に過ぎなくなっていた時期もあるかと思われます。

しかし、この城の本丸御殿が南(上図の右側)から「表御殿」「中御殿」「奥御殿」と並んでいて、各々の御殿の配置や平面形をつぶさに見ますと、どこか豊臣大坂城の表御殿と奥御殿をギュッとこの場所に詰め込んだような印象があるために、なかなか興味深いのです。


秀吉の築城当初の豊臣大坂城/2010年度リポートの仮説より


どういうことかと申しますと、例えばご覧のイラストの表御殿を、まるごと向きを90度(時計方向に)変えて、奥御殿の西側(図では右側)にギュギュッと強引に押し込みつつ、その全体を奥御殿のスペースに納まるように縮小・削減したかのような印象があるのです。

これは当サイトでかねがね申し上げてきた“豊臣大坂城と会津若松城の類似性”をいっそう補強するものでして、この観点から前述の「御馬場」を考えた場合、またひとつ疑問がわいて来ます。




この「馬屋?」と記した長屋は、これまでの諸先生方の著書ではただ「長屋」とだけ記されて来たもので、かの中井家蔵『本丸図』や『城塞繹史』『諸国古城図』の図中には何も書き込みが無く、詳しい使い方が特定できていない長屋です。

ですから、もしこの長屋を秀吉自身の愛馬を入れた馬屋だと仮定しますと、上記の会津若松城の「御馬場」ともつながる可能性が浮上して来て、なおかつこの長屋の手前の「御上台所」との間の細長いスペースは、面積的に「御馬場」とほぼ同じであり、秀吉一人がちょっと馬をせめる程度のことなら、じゅうぶんな広さだとも言えそうなのです。



<天主=立体的御殿の、最初の動機はいったい何だったのか>




仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/「馬場など」は後世の城に受け継がれていた?


さて、以上のように冒頭イラストの「馬場など」は、安土城と後世の城…すなわち蒲生氏郷(がもう うじさと/信長旧臣)ゆかりの会津若松城や、秀吉の豊臣大坂城との関連性から、あえて想像力をふくらませて書き込んだものでして、こうしてみますと、安土城天主とその周囲の曲輪の構想がいくぶんハッキリして来るのではないでしょうか。


つまり豊臣大坂城では、この「馬屋など」の場所におびただしい規模の「奥御殿」が入ってきて、曲輪の面積が大幅に拡張された、とも言えるでしょう。

で、それと同時に、秀吉の天守は物理的機能が“宝物蔵”に限定(削減)されたわけなのです。


このような天守の変遷(諸機能の移転)を、ここで試しに逆算して、より原初的な姿を想像してみますと、信長が安土城天主にこめた最初の構想をボンヤリと思い描くことが出来るのではないでしょうか。



<以上の逆算による仮説> 信長は当初、七重天主という立体的御殿で
 安土城の「奥御殿」機能を集約したかったのではないか…




…当サイトは4年前のスタート時から、天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)ではなかったかという仮説を申し上げ、その天守が高層化したのも、中国古来の易姓革命にもとづく天命(天道)を聞くためには(→参考記事)当然の成り行きであったろうという考え方で一貫してまいりました。

ただ、そうだとはしても、天守が単なる「塔」ではなく、また詰ノ丸御殿の屋根上の単なる「物見櫓」でもなく、その内部を「立体的御殿」としたことには、何らかの契機や意図があったはずだという感があります。

その意味で、上図のような安土城天主と周囲の曲輪との、機能上の関係性(代替や集約)に注目してみるのも面白いのではないかと思うのです。


で、歴史的に見ますと、信長の後継者の秀吉は、大坂築城で早くもその信長の天主構想をねじ曲げていたわけで、そこにも何らかの経緯(いきさつ)があったはずだと思われてならないのです。



安土城の完成までに、自らの天主構想をあえて崩したのは、信長その人だった!?

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年07月31日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「階段橋」から安土城天主の階ごとの性格は推理できるか






「階段橋」から安土城天主の階ごとの性格は推理できるか




前回イラストにもちょっと描き込みましたように、安土城天主と伝本丸や伝二ノ丸などの間には、廊下橋の類がタコ足のように伸びていただろうと、かねてから当ブログで申し上げて来ました。

ただ、その「仮称」については、記事の中で色々と混乱がありました。

と申しますのも、ずっと以前の記事では、伝二ノ丸を「表御殿」跡地とする先生方の指摘に準じておりまして、その後、伝二ノ丸はむしろ「奥」にあたる後宮や庭園があった曲輪ではないのか… と考えを改めて、記事づくりや作図を行って来た経緯があるからです。


図右側の伝二ノ丸を「表御殿」跡地としていた頃の作図

(※当図は上が南/→該当記事1 記事2 記事3

織田信長が銭を投げた話から推理した、主郭部の使い分け/伝二ノ丸は「奥」にあたる

※当図は上が北/御殿の配置は当時の諸説を勘案したもの/→該当記事


このような試行錯誤を経て来たため、このあたりで、「廊下橋」の混乱した仮称だけでも整理して訂正させていただこうと思うのです。



先ほどご覧いただいた図

↓    ↓    ↓
今回の訂正版



まず用語についてですが、ご覧のような廊下橋の類は、一般に渡廊(わたろう)とか登廊(のぼりろう)、登渡廊、廊橋、また名古屋城では引橋、盛岡城では百足橋(むかでばし)、御所では長橋廊など、細かな違いや場所によって様々な呼び方があるようです。

以前の作図ではそれらの違いが整理されておらず、例えば冒頭の伝二ノ丸「表御殿」説を取り入れながらも、その一方で、伝本丸との廊下橋を「長橋廊」としていて、こちらは滋賀県安土城郭調査研究所が発表した「伝本丸の建物≒清涼殿」説に寄りかかっている、という調子でした。

そこで今回、これらの矛盾点を猛反省しまして、上の2図のごとく、ごく単純に「階段橋」(または屋根付き階段橋)という呼び方で統一させていただくことに致します。



<階段橋から推理する安土城天主――二重目は「政庁」か「常御所」か>



この仮説の階段橋には、それぞれに役割があったはずで、それらは天主の階ごとの性格に大きく関わっていたことにもなるでしょう。

ところが現在、「天主は信長が創案した立体的御殿」(三浦正幸監修『すぐわかる日本の城』2009年)と言われるものの、それを安土城天主について1975年の時点で「居住空間の垂直構成」(『国華』)と書いた内藤昌先生と、その翌々年に猛烈な反論を行った宮上茂隆先生の間で、すでに階ごとの解釈がそうとうに違っていて、以来、結論めいた解釈はいまだに現れていない様子です。


内藤vs宮上 両先生の解釈(階ごとの主な使用目的)


このような状況ですと、例えば当ブログ仮説の「階段橋」が設けられた階と、各々につながる先(曲輪)との関係を追究して行きますと、ひょっとして新たな参考点が見えて来るのかもしれません。

で、早速、二重目からご覧いただきますと…


以前の作図(静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目をもとに作成)

(※白字は『安土日記』にある部屋の記述から/→以前の記事
↓    ↓    ↓
階段橋を描き加えた今回の訂正版



ご覧の両図の違い(訂正点)はかなり見づらくて恐縮ですので、「階段橋」以外の訂正を箇条書きしますと…

【訂正点1】
六畳敷の「食器部屋」が中二階の形で二部屋、八畳敷の「御膳をこしらえ申す所」二部屋の真上に設けられていて、そこには二部屋の中間の階段で廊下側から上がる形であったと考えた点です。
これは以前の作図で八畳敷二部屋の納まりが悪かった欠点を解消しつつ、天主東階段橋の意味(図左下/台所との接続)を重視したものです。

【訂正点2】
その天主東階段橋は「台所との接続」「馬屋との接続」「石蔵入口から北の土蔵への搬入路の確保」という三つの機能を、立体的にこなす巧みな構造だったと考えた点です。

これはより広い図でご覧いただきますと…




このように天主二重目には、『天守指図』の描線から考えて、伝本丸の建物とつなぐ南階段橋(言わば正面口)と、天主取付台とつなぐ東階段橋(台所口もしくは馬屋口)の二つが設けられたのではないでしょうか?


そして「台所」の位置は、前々回の「内玄関」仮説と、前回の「主郭部の時期差」仮説を踏まえますと、主郭部の完成時期には(伝承の場所ではなくて)新たに伝三ノ丸の北半分、つまり「内玄関」の奥の遠侍等の北側に移されたと考えるのが、<雁行する城郭御殿>の他の事例から見て、ごくごく順当な配置だろうという想定に基づいています。

この場合、台所でつくられた料理は、伝三ノ丸と天主取付台の間の廊下橋(櫓門)を渡り、天主取付台を行く廊下が馬屋の上に階段状に上がって、やがて天主側に直角に向きを変えて天主二重目に入ると、前述の八畳二間「御膳を拵え申す所」で最終的に膳をととのえ、毒見をした上で、奥の信長らの前に並んだのでしょう。


台所の位置は? 前々回の図との合成で見ますと…(※当図は上が南になっています!)

(※ちなみにこの話は「時期差」の当初の状態では、「馬屋」は図の位置ではなく、逆に「台所」は伝承どおりの場所にあって、東階段橋は料理の運搬専用だった可能性も含んでおります)


さて、こうした天主二重目の性格については、先程の表のとおり「(遠侍・式台など)内・外臣の控えの間および政庁であった」(内藤)という政庁説と、「南西部の六間×七間の区画は明らかに信長の常御所に当たる」(宮上)という常御所(居住空間)説が真っ向から対立して、結論の出ない状況がずっと続いて来ています。


そこで、この階段橋の仮説から申し上げられそうなことは、少なくとも「台所」は天主の外にアウトソーシングされていたはずだろうという点でして、その結果、宮上説の地階(一重目)の「台所と蔵」という考え方には、ちょっと賛同できそうにないのです。

なお二重目については、まだどちらとも申し上げにくい印象です。





<性格がガラリと変わる、三重目と伝二ノ丸をつなぐ西階段橋>



今回の訂正版(『天守指図』三重目をもとに作成/訂正は階段橋の仮称のみ

(※白字は『信長記』『信長公記』類の部屋の記述から/→以前の記事


もう一つの階段橋、西階段橋があったと思われる三重目は、運良く(?)内藤先生や宮上先生をはじめ、諸先生方がほぼ一致して「対面所」の機能と考えて来られた階です。


そして西階段橋のつながる伝二ノ丸が、冒頭で申し上げたように「表御殿」ではなく、「奥」の後宮や庭園であったとしますと、この階段橋はちょうど、後の江戸城の中奥御座所から(御休息の間を経て)大奥に向かう「御鈴廊下(おすずろうか)」のようにも感じられます。

(※ちなみに「中奥御座所」は将軍の謁見所としては最高位の部屋だそうで、狩野探幽の描いた聖賢の図などがあり、天主三重目の機能を「対面所」とする見方とも合致しそうです…)


したがって以前の記事(仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か)では、この階段橋を、信長が居住空間の天主から伝二ノ丸「表御殿」に姿をあらわす“花道?”と想像したのに対して、まるで逆の方向になってしまうわけで、信長はこれを使って「対面所」と「奥」を行き来していたことになります。





こうなりますと俄然、その上の四重目を「信長常住の部屋」と見るか「会所」と見るかが、最大の難所になって来るのでしょう。

例えば、あの『朝日百科 安土城の中の「天下」 襖絵を読む』(執筆:大西廣 太田昌子)は「会所」説に軍配を上げておられ、その一方で、千田嘉博先生は「山上御殿での会所機能は、岐阜城ではいちじるしく低下して」(『戦国の城を歩く』)いたと指摘されていて、そういう意味では、むしろ「会所」機能の否定こそが、安土城天主にとっては必須の条件だったようにも思われてなりません。

(=安土城天主で貴賎同座の宴会など、もってのほか、という意味で…)


やはり四重目は超難解、という印象でして、それにしても、このようにして階段橋を考えることで、いきおい天主と周囲の曲輪との“関係性”に関心が向くわけです。

―――で、ここで見逃せない重大なポイントは、前述の内藤先生も宮上先生も、建築史家としての領分のせいか、天主以外の主郭部の曲輪の使われ方については、ほとんど何も発言して来られなかった、という意外な側面でしょう。




これは特に当サイトの立場としましては、天守の発祥について <天守は織豊系城郭の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に誕生したはず> と何度も申し上げて来た基本的な考え方からしますと、本当に見逃せないポイントです。


ですから、今後さらに安土城天主の階ごとの解釈を進めるためには、天主と周囲との連動や齟齬(そご)に目を向けていく必要があるのではないか―――

いえ、もっとストレートに申し上げるならば、天主に込めた信長の構想と、実際の安土城天主の使われ方の間にも、例の「時期差」問題が影を落としていたのではあるまいか… という疑念がここで生じるのです。


構想段階と完成後で、もし天主の側が不変のままだったら、そこには当然「齟齬」が…








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2012年07月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城の「時期差」問題!それは主郭部にもあった?






安土城の「時期差」問題!それは主郭部にもあった?


白丸内が話題の中心「本丸西虎口」の位置


前回、安土城の主郭部の南東端に「内玄関」を想定してみますと、意外な発見があることをお知らせしました。

ただ、その中では図の虎口2「本丸西虎口」の位置づけ(役割)について、ちょっと疑問をお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか?

と申しますのも、この状態で本丸西虎口から伝本丸に入りますと、いきなり儲(もうけ)の御所(=御幸の御間か)の真ん前に出てしまうことになるからです。


そこで当ブログがもう一点、是非とも付け加えて申し上げたいのは、この主郭部もまた、部分部分で「完成に時期差があった」のではないか―――

という、多少ズウズウしい印象の仮説なのです。

それは決して本能寺の変の後の、信長廟の建立などを申し上げているのではありませんで、果たして信ずるに足るものか否か、どうぞ厳しい目でご一読いただきたくお願い申し上げます。



<前提1.まことに奇妙な状態の「本丸西虎口」が示唆する経緯>





ご覧の本丸西虎口のすぐ奥には、四角い桝形(ますがた)のようなスペースがありますが、これはいわゆる「桝形虎口(ますがたこぐち)」でしょうか? 答えはNOでしょう。

桝形虎口とは、ご承知のように外側により簡便な高麗門など、内側に頑強な櫓門を建てて、その間の枡形内に敵勢を囲い込んで弓矢・鉄砲を打ち掛けるためのもので、そういう形でなくては効果を発揮しないとされています。

たとえ初期の、高麗門などが無いケースであっても、とにかく桝形の内側に櫓門を建てるのが鉄則ですが、この本丸西虎口は、発掘調査でなんと、桝形らしきスペースの外側に櫓門があった(!)という可能性が報告されています。


つまり(上右イラストの)石段を登りきった所に櫓門があったわけで、この一帯はまるで桝形虎口としての機能を“放棄してしまった”ような、妙な状態で遺されているわけです。

果たしてそこにどういう経緯があったのか、ひとつの謎になっています。


桝形虎口の例(丸亀城/小田原城)




<前提2.「安土城の設計変更」…初めは西の城下町を向いて築かれた可能性>



かつて加藤理文先生が「『信長公記』の記載では百々橋口が正面なのである」とおっしゃったように、安土城は初め、城下町のある西を正面にして、山の西側斜面から築城が始められた可能性も言われています。

そこでひとつ指摘させていただきたいのは…
<同じ西向きの岐阜城では、山頂の天主は背後の東側から建物に入る形式だった>
という点なのです。


で、いつ岐阜城の山頂に天主が存在したか、その時期については諸説があるものの、当サイトは一貫して、例えば『フロイス日本史』に「その山頂に彼(織田信長)の主城があり」と伝えられた「主城」こそ、本来の天主なのだと申し上げて来ました。

それがたとえ二重〜三重ほどの規模であったとしても、その立地点(古代中国の故事「岐山」に見立てた山の頂)がもたらす視覚効果から言って、信長の「天主」であったことは微動だにしないはず、と確信しております。


南から眺めた岐阜城/山頂に復興天守


そして岐阜城は西側(写真左の稜線の向こう側)のふもとに当時の城下町があり、城は西向きで、山の西側斜面を主体に曲輪や城道が築かれました。

そうした中でも、天主は城下からの見栄えを考えてか、いったん城下町と反対の東側に回り込んでから建物に入る形だったという点が、安土城との関連で重要であったように思われるのです。



以上の<前提1><前提2>を踏まえて、以下のイラストのように安土城の主郭部にも、完成までの変遷や「時期差」があったのではないか、と申し上げてみたいのです。

(※イラストは標高170mの等高線から上だけを画像化しました)



仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/この時点では本丸西虎口が第一の門だった

仮説:完成した安土城の主郭部/本丸西虎口はその役割が不明確に!








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2012年07月04日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!「内玄関」が安土城主郭部の復元のカギを握っている?






「内玄関」が安土城主郭部の復元のカギを握っている?


前々回から藤田達夫先生の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』から多くを引用させていただきましたが、この本には、その「安土幕府」の舞台である安土城についても、かなり大胆な持論が展開されています。

その辺りの内容は、当サイトの仮説とは必ずしも一致するものではありませんので、誤解の無いよう申し上げておきたいのですが、ただ、藤田先生がこの本の中で「安土城の設計変更」とおっしゃった点はそのとおりだと思われ、今ある安土城跡は部分部分で <完成にかなり時期差がある> ように感じられてなりません。
(※改築や再建ではなく時期差)

その時期差は場所によっては、本能寺の変さえも跨いでしまうのではないか(!?)という観点から、以前の記事で「城として異様な南側山麓の三つの(四つの)門は信長廟の門構えではないのか」( →記事1 記事2)などと申し上げたわけです。

(※ちなみにこの件では、小牧山城にもいわゆる「大手道」はあったのですから、そちらの登り口付近を発掘調査してみれば何か参考になりそうですが、ただ、現地は幹線道路のアスファルトの下で、まだ調査はされていないかと…)




さて、そうしますと、2011年度リポートで、ご覧の安土城の伝本丸と肥前名護屋城の遊撃丸がたいへん良く似ていることから、遊撃丸は本来、後陽成天皇の“北京行幸”のための行幸殿として築かれた場所かもしれない、と申し上げた仮説が気がかりになって来ます。


遊撃丸に「儲(もうけ)の御所」を想定して描いたイラスト




リポート後のブログ記事(→記事3)では、遊撃丸の具体的な建物として、聚楽第と同様の「儲の御所」を想定した場合、面積的にじつに納まりがいいことを申し上げました。

で、その勝手ついでに、試しに「儲の御所」を安土城の伝本丸に当てはめてみますと、かの「御幸の御間」問題に関わる、ちょっと面白いシミュレーションが出来ることをご紹介したいと思います。



<安土城主郭部の御殿群はどこまで一体化していたか? 木戸雅寿先生の指摘から>






(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

(「天主取付台」と「伝二の丸跡」「伝三の丸跡」)これらの敷地は天主に次いで高い同一平面上にある。
これらをひとつの面的空間として考えるなら、ここに天主を取り巻くような付属施設としてかなり大規模な建物群があったと想定できる。

このうち、天主の東側にある長いL字の郭が天主取付台である。発掘調査では多聞櫓(たもんやぐら)と考えられる長い建物の存在が確認されている。
さらに伝三の丸跡にも大きな建物の存在が確認されている。天主取付台と伝三の丸跡とは本丸東門である櫓門を廊下橋として繋げる櫓門も発見されている。これらは廊下で行き来できる一体型の建物だったようである。

取付台の建物と伝本丸御殿とは建物軸を違えているが、伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったりと一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。



この木戸先生の指摘を踏まえて、安土城主郭部の調査報告書の平面図を使って、シミュレーションというか、遊びのような作業を行ってみます。それは…


かなり思い切って“乱暴に”図上の礎石どおしを直線で結んでみる


平面図に示された礎石群を、とりあえず石の大小や状態に構わず、2、3個以上が「直線」で結べるものをドンドン結んでみるのです。

こんなことは調査の専門家でも何でもない自分がやっても、まったく意味が無い… などと躊躇(ちゅうちょ)せずに、やってしまいます。

すると、意外なほど、あれもこれも直線で結べてしまうことが分かります。




やはり木戸先生の指摘のとおりだ、ということが実感できる遊び、否、ある種のシミュレーションでして、安土城主郭部の秘密をのぞいたような気分になれます。


で、こんな考え方はありえないでしょうか?? 図の「内玄関」を起点にすれば――


平面図の右下、主郭部の南東端は、これまでの諸先生方の復元では「江雲寺御殿の一部」や「厩(うまや)」などとされていた場所ですが、ここにあえて「内玄関」を想定してみます。

これは本丸南虎口(図の虎口1)がいわゆる「くらがり御門」であったようにも思われますので、それを一度くぐって到達するため、「内玄関」と仮称したのですが、こうしてみますと、御殿は雁行(がんこう)して連なっていた、という想像も出来そうなのです。

そしてそれらの南西側、伝本丸には「儲の御所」(室町時代の行幸では桁行7間!)が南面して、面積的にもすんなり納まる形になります。


突拍子も無いことを言い出すようで恐縮ですが、このような遊び(シミュレーション)の結果は、何故か、駿府城や二条城など、のちの徳川の城の御殿配置に良く似ているのです。



復元工事中の名古屋城本丸御殿がまさにそっくり!!

(※ホログラム展示の完成予想図から作成)


ご覧のように、名古屋城の本丸から御深井丸(おふけまる)にかけての御殿や天守の配置は、シミュレーションと同じく「雁行」しています。

しかも名古屋城の当初の計画では、大天守と御深井丸は付櫓を介して通り抜けられる可能性があった点や、御深井丸は本丸同様に多聞櫓でがっちり囲む計画があった点(つまり御深井丸とは本来、何だったのか?)を考えますと、さらに似て来るようです。


そして、いわゆる「上洛殿」(将軍家光の上洛時の宿所「御成書院」)がシミュレーションの「儲の御所」とまったく同じ位置で南面していることもあり、決して偶然とは思えない一致点が揃うのです。


―――ということは、なぜ安土城と徳川の城が直接に似ているのか、詳しい経緯は分からないものの、やはり安土城の伝本丸の御殿は、<上位の人物>を迎えるための建物(=御幸の御間?)だったのではないか、という疑念がムクムクと頭をもたげて来ます。

これらはひとえに、安土城の「内玄関」の想定位置がカギを握っているわけなのです。



(※調査の専門家の皆さんから見れば、まことに乱暴な話で、失礼しました。)







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2012年01月04日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>






お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>


まず初めに、昨年と同様、2011年度リポートの完成も年をまたぐことになりまして、現在も鋭意、作業を続行中ですので、何とぞご容赦のほどをお願い申し上げます。

安土城 伝二ノ丸の信長廟


さて、前回の記事では、ご覧の伝二ノ丸が、織田信長の時代はどんな使われ方をしていたのか? という件をお話しましたが、そこで出た「後宮や空中庭園」という仮説と、有名な“信長廟の謎の石”は何か関連があるのか… という点について、少々補足させていただきたく思います。


信長廟を西側(上写真の左側)から接近して見ると…/奥に見えるのは天主台跡


墓所の最上部にある丸い石が、ひょっとすると、信長が自らの化身とした「盆山(ぼんさん)」かもしれない… と歴史ファンの間で噂されて来た謎の石です。

ただしご覧のとおり、見た印象は(こう横から見ると尚更のこと)ありふれた自然石でしかないため、どの研究者の方々も判断を留保されて来たものです。

その点では、伝二ノ丸に「空中庭園」があったという前回の仮説ならば、この石はもしかすると、庭園のポイントになった“信長遺愛の庭石”だったのでは? などという考え方も成り立つのかもしれません。……


例えば、豊臣秀吉遺愛の藤戸石(ふじといし/醍醐寺三宝院)


しかし事はそう簡単ではないようでして、その辺りの事情を『織田信長と安土城』の秋田裕毅先生はこう紹介しておられます。



(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

信長の廟所の築造について、『蒲生郡志』は、これを秀吉の築造であるとしている。

 天正十一年二月、信長の骨片並に佩用(はいよう)の太刀烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)等を安土山中に護送し、二の丸城跡に之を埋蔵し 一個の石を表とし信長の霊を鎮め宮を造り 六月二日正當一周年祭を修す。

しかし、この記述のように、安土城二の丸の信長廟が秀吉によって築造されたとする史料は、管見の知る限りどこにも見当らず、どこからこのような結論を導き出してきたのかは、現時点では明らかでない。




つまり秋田先生は、信長廟じたいが謎に覆われた存在であり、しかも墓所の形は「当時の一般的な武将の墓である五輪石塔(ごりんせきとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)とはまったく様相の異なるきわめて特異な形態」だとおっしゃったのです。

確かに墓所の形は異様にも見えますが、ああいう基壇がヤケに大きい墓と言えば、私などの記憶では、例えば平戸城の近くにある松浦鎮信(まつら しげのぶ)の墓も似たような印象がありました。


松浦鎮信の墓(最教寺)

(※自前の写真が見当らず「平戸・生月島旅行クチコミガイド」様より引用)


このように基壇(一段目)のサイズは信長廟と殆ど変わらないもので、要するに問題は、信長廟の二段目から上の違いにあることが判ります。

そこで大変に興味深いのは、江戸時代の安土山ハ見寺(そうけんじ)を描いた「近江名所図会」では、「信長公墓」がなんと、ごく普通の五輪石塔のように描かれていることなのです。


近江名所図会 「信長公墓」の部分


そして特にご注目いただきたいのは、基壇(一段目)だけは現状と同じ形かもしれない… という点です。

これは一体どういうことなのか、と申しますと、また秋田先生の著書が答えのヒントを与えてくれるようで、やや長文ですがご一読下さい。



(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

現在の廟所は、二の丸入口に建てられている「護国駄都塔(ごこくだととう)」の裏面に記されている天保十三年四月一日の銘文から、天保年間に改修されたものと考えられる。
それは、石塀や墓石に切石が使用され、その切石を隙間なく合わせるといった構築法からも推測される。
この改修が、どの程度の規模で行われたのかは明らかでないが、この改修より百年ほど前の享保十八年(一七三三)四月十六日に、織田下野守信方が、安土山に登山し信長廟に参拝した折の『織田下野守殿登山記』には、

 御廟前(おんびょうのまえ)花花 水鉢前机香炉(みずばちのまえにつくえとこうろ) 拝席
 石橋之際(きわ) 手水桶(てみずおけ) 手拭(てぬぐい)手拭ハ箱ニ入(いれ)手水桶蓋ノ上ニ置

と、現在と同じく廟の前に花筒が左右に二本しつらえられ、その前に水鉢が置かれ、さらに入口の空堀には石橋がかけられていたことが知られるので、石塀や石塁・墓石などの石を積み替えただけで、基本的な形態までは変えなかったと考えてもよいであろう。





秋田先生の結論は「基本的な形態までは変えなかった」というものですが、文中の史料でも、その百年後の天保年間の改修において、二段目から上だけその時に造り変えた(!)可能性は残されているのではないでしょうか?

そして、もしこの異様な墓所が、幕末に改変された結果だ、ということになりますと、改めて最上部の「石」は何なのか、新たな視点から謎解きできるようにも思われるのです。




高千穂神社の「鎮石(しずめいし)」…御神霊を鎮め祭った石

(※写真は「高千穂周辺旅行クチコミガイド」様より引用)


写真は宮崎県の高千穂神社にある「鎮め石」で、これは神社の説明によりますと、第十一代 垂仁天皇の勅命で伊勢神宮と高千穂宮が創建された際に、御神霊をこの地に鎮めるために用いられたそうです。

一方、信長廟の石は“盆山”か否かと世情にぎやかですが、その丸い形からして、私などはこうした「鎮め石」の類に違いないと感じて来ました。


つまり信長廟の石は、ひょっとすると二段目の石櫃(いしびつ)状の部分に、何か相当に重要なものが納められ、それを鎮め祭るために“据え直された”石のようにも思われるのです。

―――その様子は奇しくも、秋田先生の「神になった信長」がここに鎮められたかのように。




そして今回の記事のとおり、このように石が据え直されたのは幕末だ、と仮定した場合、そこには新たな問題も浮上して来そうです。


すなわち、信長を神として奉る社会風潮、という現代的な問題であり、今さら申すまでもなく、明治・大正・昭和(戦前)にかけて信長は勤皇家(天皇中心主義者)とも見られて来ました。

それは戦後の自由闊達な“体制破壊者”としての信長観とはまるで別人で、(そのことに司馬遼太郎の『国盗り物語』が少なからず影響を与えたそうですが…)いずれにしても、この石は、たとえ盆山ではなかったとしても、すでに相当な秘史を背負っているように思われてならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年12月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城とモン・サン・ミシェル <うみ>を背景にした「空中庭園」






安土城とモン・サン・ミシェル <うみ>を背景にした「空中庭園」


<織田信長が家臣らから受け取った礼銭を、自らの背後に投げた>という
『信長公記』の逸話から推理した、安土城主郭部の使い分け



ご覧の図は1年ほど前の記事(ご参考)でお見せしたものです。

ご承知のように、信長は岐阜城の頃から、山頂に私的な屋敷(城砦)を構え、山麓に公的な御殿を造営して、厳格にハレ(公)とケ(私)の領域を使い分けたと言われます。

上図はそうした信長の規範は安土城ではどうなったのか? という疑問からスタートして、『信長公記』の<礼銭を背後に投げた>という逸話をもとに、主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域を仮定してみたものです。


―――で、何故、再びこれをお目にかけたかと申しますと、現在、2011年度リポートの準備を進めるなかで、その前提として、安土城の件がかなり重要であるように思われ、昨年の記事のままではやや尻切れトンボの状態で、ここでもう一歩、お話を進めておきたいと感じたからです。


なおリポートは予告どおりに…

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
〜豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか〜


というタイトルで作業中です。

このタイトルの中身がどうして安土城に関わるのか、想像がつきにくいとは思いますが、その辺りは是非、リポートの完成をお待ちいただくとして、今回はその「伏線」とも言うべきお話を申し上げたく思います。



<昨年、信長廟が建つ安土城「伝二ノ丸」を再見して深まった疑念>



さて、周囲の木々が切り払われて、様相が一変したという天主台跡を、是非とも見ておきたいと出掛けたおりに、見晴らしの良くなった台上から、下の写真のような角度で見下ろしたとき、以前から感じていた疑念が(確信に近いものに)強まりました。

それは、信長廟の手前の四角いスペース(「伝二ノ丸東溜り」)から、伝二ノ丸に直接上がることは、やはり出来なかったのではないか(!)という強い疑念なのです。






上の図や写真にある信長廟への「石段」は、調査の結果、本能寺の変の後に新設された部分とされています。

したがって問題の四角いスペースは、本来の石垣の形だけで考えれば、そこから伝二ノ丸に上がることは出来ない構造のはずです。

しかしそれでは不便だったろう、ということからか、歴代の先生方の考証においては、何らかの方法で上がれたはずだとして、特段の指摘もない状態がずっと続き、ようやく三浦正幸先生が「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)」があったという復元を提示されて、今日に至っています。


ただしこの「階」については、まことに僭越ながら、何故わざわざ天主台にもたれ掛かるような構造(「寄掛け柱」)で密着させなければならなかったのか、私などにはよく理解できません。

(※そこで当ブログは、問題となっている礎石列を、逆に天主側から張り出した「懸造り舞台」のものではなかったか、と申し上げています。→ご参考


そして昨年、見通しの良い現地を再訪して強く感じたのは、やはり「ここから伝二ノ丸には上がれなかったのだ」(!)という、吹っ切れたような印象だったのです。




ご覧のとおり、図の「ケ」の領域には「虎口が二ヶ所」しか無かった、という意外な姿は、昨年の仮説「信長が礼銭を投げた二ヶ所」にぴたりと一致します。

そして問題の四角いスペースは、狭間塀や櫓門、懸造り舞台(当サイト仮説)に取り囲まれて、さながら桝形(ますがた)虎口の内部のようであったのかもしれません。




ただしこの場合、櫓門が桝形の外側にあって、通常の桝形虎口とは正反対の位置になるため、本来とは違った機能を考える必要がありそうです。

ひょっとしますと、ここは「御白洲」だという見方もあるようですから、例えば登城者や随行の者がここで控えたり、また家来や伝令の者に、はるか舞台の上から信長本人が命令を下したり、といったシチュエーションも考えられるのではないでしょうか。……

いずれにしても、今回の仮説でいちばん影響がでるのは、まるで奥ノ院のような位置付けに変わってしまった「伝二ノ丸」の実像だと思うのです。



<伝二ノ丸には「後宮」と琵琶湖を背景にした「空中庭園」が!?>



信長廟(冒頭の写真@と同じ位置から見た様子)


ここは一説に「表御殿」の跡とも言われましたが…


ここまで申し上げて来たように、伝二ノ丸が、自前の虎口を持たない、「ケ」の領域の最も奥まった曲輪だったとしますと、それに相応しい用途は、まず「後宮」(大奥の原形)と考えるのが自然な見方ではないでしょうか。


もしくは、数寄の空間(山里の原形)と考えるのも、安土城の場合は天主じたいが信長の住居だったようですから、一つの考え方かもしれませんが、いずれにしても「表御殿」などの“接見の場”ではありえなかったように思われるのです。


例えばフロイスは、天主の間近に「多種の潅木がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、魚のため、また鳥のための池」があったように書き残しているものの、今日までの調査で、安土城の主郭部から(伝二ノ丸を除いて)そうした庭園の跡は見つかっていません。

「魚」「鳥(水鳥)」というのですから、枯山水ではなく、本物の池と庭石と草木を配した庭園だったはずですが、それには相応の面積が必要でしょう。

それほどの面積が残るのは、もはや、信長廟のため調査対象外であった伝二ノ丸のほかに、候補地は見当たらない状況です。


そしてもしここに本物の池を備えた庭園があったとしたら、それは背後の琵琶湖とダブルイメージになって、まさに「空中庭園」に見えたのではないか… と思われてならないのです。



モン・サン・ミシェル(フランス/ノルマンディー地方)


中層階の屋上に回廊に囲まれた庭があって、その奥の窓が…


右の赤い人物が見える窓であり、さながら空中庭園のようである


日本でもその後、信長の後継者・豊臣秀吉が築いた伏見城に、「月見の機械(からくり)」と呼ばれた仕掛けが造られて、水面に浮かぶ名月のダブルイメージを秀吉らが楽しんだことはよく知られています。

このように勝手気ままな仮説ながらも、もし本当に、安土城の伝二ノ丸が本格的な「ケ」の領域だったとすると、残った「伝本丸」はやはり…………

ということで、2011年度リポートの中身につながっていくわけです。









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2010年12月07日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!古代中国で「天下」を意味した十字形八角平面





古代中国で「天下」を意味した十字形八角平面


白い安土城天主イラストの解説の最終回として、やはり、天主六重目の檜皮葺き(ひわだぶき)屋根についてお話しせざるをえません。

何故なら、その形状には、織田信長による東洋の歴史的な“洞察”が秘められているかもしれないからです。



論点5.それはまず、後の天守群の「板葺き四重目屋根」の原形であったのかもしれない

ウィンゲの木版画(安土城天主を描いたと言われる一枚)


以前の記事「ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…」でも申し上げたように、ご覧の木版画の色づけした部分について、織豊期城郭研究会の加藤理文先生がこんな指摘をされました。


最下部の渡廊下のような表現は、天主と本丸御殿を結ぶ渡廊下、もしくは御殿同士を結ぶ渡廊下が想定される。(中略)天主本体と異なる表現方法であるため、渡廊下が瓦屋根でないのは確実で、檜皮葺き(檜の皮で屋根を葺くこと)と理解される。

(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「文献にみる安土城の姿」)


当ブログの天主イラストは、加藤先生のこの解釈にインスピレーションを得たものでして、以前の記事のとおり、ウィンゲの木版画は(実は!)天主でないと思われるものの、ひょっとすると「檜皮葺き」は天主六重目の屋根にも採用されたのではないか… という想定で描きました。

そう考えた動機は、安土城の後の天守において、上から二重目の屋根だけをあえて「板葺き」にした例がいくつか(津山城や福山城に)存在したことにあります。



城郭ファンには懐かしい 西ヶ谷恭弘 監修『名城の「天守」総覧』1994年

(※左の上から二つ目が津山城天守、右下が瓦葺きに改装後の福山城天守


ご覧のイラストのような「板葺き四重目屋根」が登場した理由として、一般には、幕府の追及をのがれるため五重を一夜にして四重に変えて見せた苦肉の策、という奇術的な伝説が紹介されます。

しかし、それにしては「板葺き四重目屋根」は前例のない画期的な意匠であって、むしろ余計な世評の広まる危険の方が大きかったようにも思えます…。


そこで、仮に、この屋根の先駆例が安土城天主だったとしますと、それは「五重を四重に見せるため」といった消極的な意図ではなく、反対に、天守の創始者・織田信長にならうための積極的な道具立てだった、ということにもなるでしょう。


それぞれの天守を建造した城主を確認しますと、津山城は、代々織田家に仕えた森家の世継ぎで、本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸の弟であり、自身はまさに安土城にいて凶報を聞いた武将、森忠政(もりただまさ)でした。

一方の福山城は、やはり父が織田家の家臣であり、また徳川家康の母の実家としても知られる水野家の嫡男で、自身は主君を家康・織田信長・豊臣秀吉・再び家康と変えた豪傑、水野勝成(みずのかつなり)でした。


ですから、板葺き四重目屋根がこのように安土城ゆかりの意匠だとすると、これらの城主たちにとっては、自らの“出自や来歴”を家臣団に見せつける道具として、格好のステイタス・シンボルであったのかもしれません。


(※ちなみに、津山城などのいわゆる“無破風”の天守は、その発想そのもの…発案者の細川忠興らの真意…は、必ずしも「幕府をはばかるため」では無かったのではないか、と考えておりまして、この件はいずれ年度リポート等でまとめてご紹介する予定です。)



で、次の論点は、この屋根の東西南北にあったと思われる「唐破風」をめぐるお話です。


論点6.江戸幕府の大棟梁・甲良家の祖、甲良宗広(こうらむねひろ)は幼少期に、この安土城天主を見ていた?


今年はNPO法人による江戸城天守の復元プロジェクトが話題になりましたが、その天守(寛永度天守)の復元のベースになったのは、江戸幕府の作事方大棟梁・甲良家に伝わった「江府御天守図」(都立中央図書館蔵)です。


NPO法人発行『江戸城かわら版』第21号


そしてご覧の復元が三浦正幸先生によって提示されたわけですが、では、この天守の大工頭は誰だったか?と申しますと、かの宮上茂隆先生はこんな見方を示しました。


(江府御天守図は)左下に「大棟梁 甲良豊前扣(ひかえ)」とあるが、寛永度天守を手がけたのは甲良豊後宗広とみられるから、この図は造営後の控えとみられる。焼失後再建を検討した際に提出した資料かもしれない。

(宮上茂隆/歴史群像 名城シリーズ『江戸城』1995)


他方で、大工頭は徳川譜代の木原家(木原義久)という見方もありながら、宮上先生は「甲良豊後宗広」とおっしゃっていて、もしこれが本当だとすると、興味深い歴史の秘話があったように想像できるのです。

それは甲良家が、近江の甲良庄の出だったからです…


甲良家は近江国甲良庄の出身である。始祖は佐々木三郎左衛門尉光広で、建仁寺工匠として技術をみがき、丹羽長秀の建築家であったという。(中略)その子甲良宗広は慶長元年(一五九六)伏見で家康につかえた。

(内藤昌『SD選書 江戸と江戸城』1966)


丹羽長秀は言わずと知れた安土城の普請奉行ですし、宗広(1574−1646)はその後、日光東照宮を絢爛豪華な社殿に大改築した棟梁であって、その宗広が寛永度天守も手がけていて、甲良庄の生れ(幼名小左衛門)だったとなると…

甲良庄はいまも滋賀県犬上郡甲良町で、安土までわずか10kmですから、宗広は十歳に満たない頃、父親に連れられて安土城を眺めたことも充分ありえたのではないか、と。


―――実はこの話は『大人の修学旅行』という旅行ガイド本の記事が元ネタであり、当ブログの天主イラストを描いた時も、得がたい示唆を含んだ話として頭から離れませんでした。


何故なら、ご承知のように寛永度天守のデザインの特徴は、上から二重目の四方に「唐破風」が設けられている点であり、これはひょっとして、宗広少年の眼に焼きついた安土城天主の印象から生まれたものでは…… といった空想が思わず膨らんだからです。


前出『名城の「天守」総覧』表紙の寛永度天守(左上)


かねてから当サイトでは、天守の「唐破風」は、高欄の戸口や玄関など建物正面の、城主が姿を現す場所を示す意匠ではなかったか、と申し上げて来ました。

したがってそれは城主の「目線」を表していたようにも考えられ、それが東西南北の四方を向いている、ということは、或る東洋の歴史観に基づく工夫が施されていたかもしれないのです。



論点7.古代「周」王朝の衰退期に叫ばれた「天下」という言葉がもつ、国家分裂への焦燥感


「宗広少年」云々の話の真偽はさておき、当サイトが申し上げている「十字形八角平面」→詳細記事という形状に、中国由来の観念がからみついていることは確かなようです。

それは「天下」という言葉の発生にかかわる問題のようで、この話は、まことに古典的な文献で気恥ずかしいのですが、安部健夫先生の論考「中国人の天下観念」(『元代史の研究』1972所収)に基づいています。


では中国における「天下」とは何だったか、と申しますと、例えば「王道的天下観念には領土なる観念を指示せず」(田崎仁義)などと評されたように、ここで勝手に意訳すれば、“中華思想のもとでは国境ははっきりしなくても良い”“対等な他国民など存在しないのだから”といった強圧的、かつ拡張主義的な観念をはらんだ言葉だったようです。


安部先生はそんな「天下」という言葉が、いつから中国の古典に頻繁に登場し始めたのかを分析しています。

その結果、伝説的な古代王朝「周」の時代は、まだ「天下」が殆ど無く、かわりに「四方」や「四国」という言葉が使われていたそうです。



少なくとも周代にいわゆる四方・四国が、どちらも「よものくにぐに」の義であったことは問題のないところであろう。(中略)
したがって「四方」とは元来、中国とそれを取りかこむ四周の国々との総称であったわけなのである。(中略)

「四方」がその後、周室の衰えと大諸侯の強力化とのために次第に分裂と混乱の兆しを示してくる。いわゆる「義を失い」「政を異にする」という状態である。その極まるところ世は戦国となった。

しかも周室――「天に厭かれて」再起不能の窮境にあった周室に代わるべきだれか最適任者によって、この「戦国」の状態を克服・そこから離脱し、再度むかしの「四方」的な結合体を回復してもらいたいと言うところにこそ在ったからである。
つまり、少なくともこの場合の「天下」は、求心的な擬集的な力概念であった。


(安部健夫「中国人の天下観念」より)


そのはるか後の日本の戦国時代、足利将軍が都落ちする政情下で、信長が「天下布武」を掲げて武力平定に乗りだし、「四方」に唐破風を向けた天主を築いたのも、どこかで中国仕込みの強圧的な天下観念を学んだからではなかったのか…
と、さらに空想は膨らむのです。








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2010年11月24日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の行幸御殿か?壮大な「懸造り舞台」を夢想する





信長の行幸御殿か?壮大な「懸造り舞台」を夢想する


先月の記事より/安土城の御殿配置をめぐって対立する二案


天主イラストご紹介の前週の記事で、やや“言いっぱなし”のままの話題がありましたので、今回はそれを含めたお話をしたいと思います。

――話の核心はズバリ、混迷の度を深めている安土城の「行幸御殿」問題です。



(天正4年の山科言継の娘・阿茶の書状より)

ミやうねんハ あつちへ 大りさま きやうこう申され候ハんよし、あらあら めてたき御候事や
(明年は安土へ 内裏様 行幸申され候わん由、あらあら目出度き御候事や)


天正4年、まさに安土築城が始まった年に、公家の山科言継の周辺でこうした書状が書かれたことから、天皇の安土城への行幸が計画された可能性が言われて来ました。

そして滋賀県による城址の発掘調査の結果、大胆な仮説が発表されて、大きなニュースになりました。


滋賀県安土城郭調査研究所 編著『図説 安土城を掘る』2004年


それはご覧のように、伝本丸の礎石群は、織田信長が天皇を迎える「行幸御殿」として造営した、御所の「清涼殿」に酷似した建物だった、という画期的な復元案でした。

ところがその後、お馴染みの三浦正幸先生や、京都女子大の川本重雄先生が反論を開始したことから、清涼殿風の行幸御殿は、とたんに雲行きが怪しくなったのです。



高志書院『都市と城館の中世』2010年(価格8000円!!…図書館でどうぞ)


今年出版された千田嘉博・矢田俊文 編著の『都市と城館の中世』に、その川本先生の論考「行幸御殿と安土城本丸御殿」が載っていて、私もたいへん遅まきながら、川本先生の理路整然とした反論を拝読しました。

(※今ごろ拝読するのは、京都女子大でのシンポジウム「安土城本丸御殿をめぐる諸問題」に参加できなかったツケでしょう…)


で、この論考で最も注目すべきポイントは、実は、同じ反論であっても、三浦先生と川本先生の論拠は、まるで違う(!)という点にあったのです。


行幸御殿(「御幸の御間」)をめぐる三者三様



この中で、川本先生はいちばん厳格な解釈を下されているようで、安土城に「行幸御殿」と言えるような建物は実現不可能だった、とおっしゃるのです。

論考では、室町将軍邸や二条城での行幸の例から、「行幸御殿」に必要な間取りや設備を明らかにし、特に、天皇の輿(こし)を寄せる南の階段や、舞を行う広い南の庭が不可欠だったとして、「天主周辺に行幸御殿が建つ余地はない」(!)と結論づけているのです。



本来の行幸御殿に求められる平面は、内裏の建物で言えば天皇の居所を含む御常御殿であり、清涼殿では決してない。
(中略)
行幸御殿とその南に必要な庭を考慮すると、安土城の二の丸以外に行幸御殿が建てられる空間はないが、その二の丸も行幸御殿に中門や風呂・便所などの付属屋までを考えると、建物が二の丸からはみ出してしまう。

また、南庭も二条城と比較すると六割程度の奥行きしか確保できない。
以上のことから、安土城の天主周辺に行幸御殿が建つ余地はないと断ぜざるを得ない。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収)



正直申しまして、この川本先生の反論は、かなり決定的な響きを放っているように感じました。

でも意固地な私としては、行幸御殿がたとえ「清涼殿」風の建物ではなかったとしても、やはり安土城への行幸そのものは行われようとしていたのであり、そこは信長らしい破天荒なやり口で、“別の形の”行幸殿が計画されたのではないか??…と思われてならないのです。

そこで、やや荒唐無稽なシミュレーションですが、川本先生の反論を踏まえた「第四の可能性」をさぐってみたいと思います。




二条城の行幸御殿(中井家蔵「二條御城中絵図」より/その南庭は南北約30m)


安土城の天主台と伝本丸(上の図と同縮尺・同方位)


では、この二つの図を、行幸御殿と天主台の位置を合わせてダブらせますと…



ご覧のように、行幸御殿の南庭の範囲は、ちょうど伝本丸の南の石塁を越えた南斜面の、石垣で囲われた(意味不明の)デッドスペースまでを覆うような形になるのです。

このことは、以前に申し上げた、ある仮説を思い起こさせます。





(※記事「安土城の天主台に「清水の舞台」が!?」の作図/この図は上が南)


これらは、礎石列の発掘成果をもとに、ひょっとすると、天主台の南西側には清水の舞台のような「懸造り(かけづくり)」が張り出していたのではないか? という仮説を申し上げた時のものです。

この図では、懸造り舞台の広さを、出土の礎石列に応じた規模で描きました。


ですが、例えば先の図のように、懸造りを大きく南に張り出すことが出来たなら、その広大な舞台の上で、行幸の「舞御覧」等を挙行するという“壮大なページェント”も考えられたのではないか――と。




かなり荒唐無稽な話になって来たのかもしれませんが、いずれにしましても、冒頭の書状が書かれた天正4年は、まだ安土城の天主が影も形もない頃だった、という点がたいへん重要だと思われるのです。

つまり、申し上げた懸造り舞台は、天主の建造以前の秘史(別計画)として考え、天主台上に天皇の御在所が計画されたと想像しますと、川本先生が論考で指摘された、室町将軍邸での行幸のやり方とも符合するようなのです。



寝殿(しんでん)が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所(かいしょ)は義教(よしのり)の御殿という認識があったものと考えられる(当時の室町殿には常御所と呼ばれる建物もあるので、義教は常御所で起居したのだろう)。

(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収)



つまり室町将軍邸の行幸では、将軍・義教は、言わば主屋である「寝殿」を天皇に明け渡して御在所とし、自分は「会所」や「常御所」を御殿としていたのです。

ならば信長は、己が住居になる「天主」予定地(天主台上の特設御殿)を天皇に明け渡して、その前の懸造り舞台をふくむ一帯で、行幸の諸儀式を繰り広げようと考えたとしても、不思議は無いのではないでしょうか??






こんな推理(妄想?)から感じる事柄は…

 天正4年当時、一旦進みかけた行幸計画をあえて否定することから、
 (「皇帝」イメージにあふれた)天主の建造は始まったのではないか―――


という信長の政治的判断です。

そしてその後に残ったのは、やはり川本先生がおっしゃるような、形式上の行幸殿としての部屋(「上々段」)であったのかもしれません。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年11月09日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由





中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由


宣教師がスケッチしたと伝わる織田信長像(三宝寺蔵)/絵をボカすと眼差しが浮きたつ…


前回は“信長の九龍壁”とも言うべき、安土城天主壁面の飛龍の絵(それが意味する歴史的メッセージ)についてお話しました。

しかしこの建物の上層部分には、やはり信長!と舌を巻くような、大胆な宗教的メッセージも隠されているように思われるのです。




論点3.青い銅板に刻まれたバテレンの絵とは…


(フロイス『日本史』東洋文庫版/柳谷武夫訳より)

(安土城天主は)七階建で、彼の時代までに日本で建てられたうち最も威容を誇る豪華な建築であったという。(中略)屋形の富裕、座敷、窓の美しさ、座敷の内部に輝く金、赤い漆を塗った木柱と全部金色に塗った柱の数…


当サイトは、安土城天主は白い天守だった、と申し上げておりますが、種々の文献では金・青・赤・黒などの色も使われたことになっていて、「赤」は上記のとおり「赤い漆を塗った木柱」とハッキリ翻訳した文献があります。


――では「青」は何だったか?

と言いますと、これまでの諸先生方の復元はまちまちで、とても集約を図れる状態ではないため、当イラストでは、「青」は緑青のまわった銅板の色であり、柱や高欄や破風が「銅板包み」で被われていたものと想定してみました。


後世の施工例ながら、松前城の本丸御門に見られる銅板包み


「青」をこのように考えた場合、そのメリットとして、たとえ「赤」と「青」が同じ階にあっても目がチカチカするような配色にはならず、「赤」と「青」を別々の階と考える必要は無くなります。

そのため、例えば文献の「赤く、あるいは青く塗られており」(フロイス『日本史』)という記述は、間の句読点をはずして読む、という解釈も十分にありうることでしょう。

したがって天主の外壁は、フロイス『日本史』の表現を借りますと、上から「すべて金色」の階、「赤くあるいは青く塗られて」いる階、「黒い漆を塗った窓を配した白壁」の階、という3パターンに整理して考えることも可能になるのです。





さて、その「銅板包み」に関しては、かつて城郭研究のパイオニアの一人、櫻井成廣(さくらいなりひろ)先生がこんな指摘をしました。

(→詳細は記事「岩山の頂の大天使ミカエルと織田信長」参照)


その壁面装飾については珍しくかつ重要な史料がある。それは井上宗和氏が「銅」という業界誌に発表されたもので、安土城天主を建築した岡部又右衛門以言(これとき)の「安土御城御普請覚え書」である。(中略)
それによると安土城天主木部は防禦のため後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、「赤銅、青銅にて被われたる柱のばてれんの絵など刻みたるに、塗師首(ぬしかしら)のうるしなどにてととのえ、そのさま新奇なれば信長公大いに喜ばれ、一同に小袖など拝領さる」という文句もあるという。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981/上記の( )内は当サイトの補足)


この文章によりますと、赤銅や青銅に透漆(すきうるし/半透明の漆)を施した珍しい意匠が採用され、しかもそこには「ばてれんの絵」が銅板彫刻されていた、というのです。

大天使ミカエル


ここで言われる「ばてれんの絵」とは、おそらくは、当時、フランシスコ・ザビエルの祈願によって、日本の守護聖人とされた「大天使ミカエル」ではないかと想像できます。

しかしそうすると、安土城天主には、キリスト教のイメージと、前回の記事の中国皇帝のイメージが、ごった煮のように混在していることになってしまいます。



論点4.中心は中国皇帝の儒教なのか?キリスト教なのか?

    天主の意匠に二つの主題が同居できた理由



世間一般の認識でも、信長はキリスト教に肩入れする一方で、仏教徒(延暦寺僧や本願寺門徒)の殺戮(さつりく)を繰り返したことは有名です。

そのうえ、かの立花京子先生が著書『信長と十字架』で、信長とは、「ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった」武将である、と定義した時には、目の醒めるような思いがしたものです。


「イエズス会のための仏教への鞭(むち)」であり、「イエズス会のために立ち上がった」武将であった信長は、イエズス会からの援助によって全国制覇を遂行していたからこそ、同会の布教状況を視察するヴァリニャーノに、全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのである。
京都馬揃えは、ヴァリニャーノへの全国制覇の事業報告の一つであった。それゆえに、ヴァリニャーノが訪れた天正九年(一五八一)にのみ行われたのである。


(立花京子『信長と十字架』2004)


かく言う私も、世界史の中での信長や豊臣秀吉をもっと語るべきだ、という点では大賛成なのですが、しかし安土城天主の最上階には、中華世界の支配原理と結びついた「儒教」画が描かれていて、中国皇帝のイメージにあふれています。

いったい信長の頭の中では、儒教が中心だったのか、キリスト教が中心だったのか、そのいずれでもなく本当に宗教心が無かったのか、とんと解らなくなります。

この問題は、天守とは何かを解明するうえでも重要な課題ですが、実は、そんな大きなナゾを一発で「氷解」させてしまいそうな本が、これなのです。



岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008年


この本の主たる研究対象は、表紙に描かれた宣教師マテオ・リッチと明朝官人の徐光啓という二人の人物です。

リッチは(言わば中国版フロイスのごとく)中国布教の切り札として送り込まれた語学堪能な宣教師であり、一方の徐は(言わば信長のようなヒラメキで)富国強兵のためにイエズス会の科学技術に目をつけた大臣でした。


この二人を中心に、なんと儒教と天主教(キリスト教)は、言わば同根の宗教であり、矛盾しない(!)とされたのだそうです。

それはちょうど日本で、信長が本能寺の変で横死して間もない時期に(!)。




儒家でないと中国知識人の信頼と協力をえられないことがわかり、リッチは教皇の許可をえて服装も儒服にした。キリスト教のデウスを中国語で天主と呼び、キリスト教を天主教とすることも決めた。(中略)

同時にリッチは、古代中国の儒学はキリスト教と一致すると認め、古典に出てくる上帝はキリスト教の天主と同一である、と教理問答『天主実義』に書いた。(中略)

(徐光啓などの高官や名士である)彼らはリッチが「中華を慕って泰西から九万里を航海」してきた外国人とみなして、その説教である天主教は儒教聖賢の言葉に背かないし、彼の世界知識は仏教や道教よりもしっかりしていると認めて、耶蘇(イエズス)会の活動を容認するようになる。

(岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008)



当時、儒教とキリスト教にこんな“親和性”がありえたことを、いったい日本人の誰が見抜いたでしょうか。

日本国内では仏教とキリスト教が衝突するばかりで、儒教とキリスト教の関係性に思いをめぐらせた者など、皆無だったかもしれません。

日本人でただ一人、それに気づいた人物、織田信長を除いては……









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年10月25日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!解説!イラスト「白い安土城天主」上層部分





解説!イラスト「白い安土城天主」上層部分


このほど、当ブログは累計アクセス数が20万件を越えまして、望外のご支持を頂戴しておりますこと、心より御礼申し上げます。

さて、前回は不本意な形でお見せしたイラストについて、今回は解説文を加えてご覧いただきたく存じます。


『天守指図』新解釈による復元イラスト(北西の湖上から見上げた角度)


論点1.やはり安土城天主に正八角形の「八角円堂」は無かった!

    〜仮称「十字形八角平面」の六重目の具体像〜



まず、安土城天主の構造に、正八角形の「八角円堂」が無かったと考えられる“理由”につきましては、上のバナーの「2009緊急リポート」やブログ記事「安土城天主に「八角円堂」は無かった!」 「図解!安土城天主に「八角円堂」は無かった」等をご参照いただきたく、ここではイラスト化を進めた過程で判った事柄をお話いたします。

(※最上階の七重目については、記事「七重目が「純金の冠」だったワケ」もご参照下さい)



静嘉堂文庫蔵『天守指図』の五重目


当サイトはご覧の『天守指図』五重目の中央部分、十字形の八つ角のある範囲が高く建ち上がり、六重目を構成したのではないか、と考えております。

正直申しまして、その具体像を考える上で最も迷ったポイントは、五重目の南北に突き出した「一段たかし」と書き込みのある部屋(張り出し)の真上の部屋は、どうなっていたのか? という点でした。


何故なら、その上にも何らかの部屋が無くては、六重目が「八角(八つ角のある平面形)」になりませんし、指図に描かれた「華頭窓」等は当然、五重目についての表現であって、その上の部屋については情報が“皆無”だからです。

「張り出し」真上の六重目は開放的な「眺望」室??



そこで当サイトが申し上げている仮称「十字形八角平面」の論拠に立ち返りますと、古来、中国大陸の各地に建てられた楼閣建築において、特徴的な構造物として「抱廈(ほうか)」があり、それは眺望のためのバルコニー的な用途のあるものでした。

岳陽楼図(原在照筆/江戸時代)


こうした見晴らしの良い「抱廈(ほうか)」こそ、中国の楼閣にとって必須のものであり、これが「十字形八角平面」を形づくったわけです。


したがって『天守指図』の「張り出し」の真上にも、そうした「眺望」を第一の目的とする部屋があっても良いのではないか、と考えた場合、それは例えば、のちの松本城天守の月見櫓に見られるような、戸や縁がぐるりと廻った開放的な空間が想像されます。


その場合、縁は当然のごとく、六重目(回廊)の西側に張り出した高欄廻縁が回り込んできたものと思われ、それによって接続路は十分に確保され、外観的には「八角」がいっそう強調される効果もありそうで、今回のイラスト化に“是非モノ”で盛り込んだ次第です。

『天守指図』五重目の解釈案(今回の訂正版)


そのため以前の記事中の作図に、いくつか“訂正”があります。

例えばご覧の上の作図で、赤い矢印線は、五重目の内部から階段を登り、六重目(回廊)を経て、吹き抜けの真上の「七重目」に向かう場合や、一旦、高欄廻縁に出てから南北の「眺望」室に向かう場合の導線を表しています。


ちなみに別の立体的な図では、その縁はご覧のように表現されます。


この「十字形八角平面の六重目」という考え方は、次の「論点2」の内容にも深く関わって来ることになります。



論点2.『信長記』『信長公記』類で知られる天主壁面の「飛龍」の絵が、実は、宣教師の見聞録では一語も書かれていないのは何故なのか??


(『信長記』岡山大学蔵より)

六重め八角四間程有。外柱は朱也、内柱は皆金也。
釈門十代御弟子等、尺尊成道御説法之次第。
御縁輪にハ餓鬼共鬼共かゝせられ、御縁輪はた板にハ、
しやちほこひれうをかゝせられ、
高欄擬法珠ほり物あり。



このような六重目の記録をもとに、諸先生方の復元では、多くの場合、八角の縁下の「はた板」(端板)に「ひれう」(飛龍)の絵を描いて来ました。


ご存知ですか? それは海外の出版物でも踏襲されてます…

(Stephen Turnbull『Japanese Castles 1540−1640』)


こんな壁面の飛龍はイラストから想像するに、遠くからでも目立ったことでしょうが、不思議なことに、フロイス『日本史』など宣教師の見聞録では、この飛龍について書かれた部分が一箇所も無い(!)のです。

例えば外壁に関するくだりでも…


外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。

(『完訳フロイス日本史』松田毅一/川崎桃太訳)


宣教師の目にも「ドラゴン(龍)」と判るような絵が、はっきりと天主の壁面にあったのなら、少しは記録があっても良さそうです。

ところが一言も無い、ということは、何かそこに理由があったからではないのでしょうか?


織田信長が安土時代に使用した龍の朱印


この印判は「天下布武」の文字の両側を、二匹の降り龍が囲んだデザインで、信長が安土への移転を契機に使い始めたものと言われています。

それにしても、このデザイン。パッと見た目で、すぐに「龍」とお分かりになるでしょうか。
――このことから、或る可能性が思い浮かぶのです。


仮に、分かり易く作ってみた印判状の飛龍の図案


つまりここで申し上げたいのは、問題の「飛龍の絵」とは、特に宣教師らの西洋人にとっては、遠目ではとても判別のできなかった、複雑な印判状の図柄(!)という可能性は無かったか? ということです。


日本人ならば、“何かが円形にトグロを巻いている”という絵を見た場合、遅かれ早かれ「龍だ」と連想できるわけですが、宣教師にはそれが唐草模様とも何とも判断がつかず、結局、見聞録に記しきれなかった、という特殊なケースが起きたのではなかったでしょうか。


そして、そういう可能性について考えをめぐらせますと、そこから信長の壮大な意図が見え隠れし始めるのです。


『天守指図』五重目/六本の朱柱?は幅9間にわたって並ぶ


前記『信長記』に「外柱は朱也」とあったとおり、『天守指図』にもその「朱柱」と思われる存在が示されています。

それらは幅9間にわたって並んでいて、全体で六重目の高欄廻縁や屋根庇(ひさし)の軒先を支えていた可能性が想定できます。

(※詳しくは「天空と一体化する安土城天主の上層階」参照)


で、実は、この「幅9間」というのがミソであり、すなわち1間に一匹ずつ「龍」の図柄があったのなら、合計で「九匹の龍」が壁面に並んだことになるからです。

それらは、城下町の広がる西側に向かって。さらには、都や、海のかなたの大帝国に向かって…




九龍壁(紫禁城/太和殿の前門「皇極門」に付設のもの)


九龍壁は、中国の明・清代に正門の目隠しの壁として建てられたものです。

龍が表と裏に九匹ずつ、それぞれ五対に見えるように配置され、縁起のいい「九」と「五」で「九五之尊」を表し、宮殿外から姿の見えない皇帝(天子)の存在を表現したと言います。

(※写真の龍は2匹ずつ波形でくくって「五対」に見せています)


この「九五之尊」という意味では、まさに『天守指図』の朱柱も、九匹の龍を五対に見えるように(!)配置してあることが判ります。




こうして見ますと、文献に伝えられた「飛龍の絵」とは、さながら「信長の九龍壁」とも言うべき確信的な意匠であったことになり、当時の中国の流儀にのっとった、或る政治的なメッセージを発信するための設備だったことになります。


竜のデザインは中国の皇帝につながります。そして安土城の天主は唐様、つまり中国風デザインにつくるよう命じていました。これも皇帝イメージに直結します。小島道裕さんもいうように、信長は天皇を凌駕する皇帝を意図していた可能性がきわめて高いのです。

(千田嘉博『戦国の城を歩く』2009年 ちくま学芸文庫版)


かくして「飛龍の絵」を各々1間幅の図柄と考える時、信長の歴史的なメッセージが天主の壁面に掲げられたことは、いっそう明確になるわけです。


(※次回に続く)







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2010年10月20日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!イラスト「白い安土城天主」作画の経過報告!





イラスト「白い安土城天主」作画の経過報告!


昨年の大晦日の2009年緊急リポートで、ラストにお見せするはずだった「白い安土城天主」の全景イラストは、日曜大工作業の悲しさで、なかなか完成に至りません。

しかし2010年もすでに紅葉の季節となり、せめて“出来た分だけ”でもご覧に入れようと思い立ち、急遽、作業ピッチを上げたのですが、天主の上層部分の作画だけで、とうに息が上がっております。


このままでは記事のアップがどんどん遅れそうなので、ひとまず作画の途中段階と記事のアウトラインだけをご覧に入れつつ、二、三日中に詳しい解説記事を載せますので、本日のところは何とぞご容赦のほどを!



『天守指図』新解釈による復元イラスト(上層部分)


論点1.やはり安土城天主に正八角形の「八角円堂」は無かった!
    〜仮称「十字形八角平面」の六重目の具体像〜













『天守指図』新解釈による復元イラスト(上層部分)


論点2.『信長公記』類で知られる天主壁面の「飛龍」の絵が、実は、宣教師の見聞録では一語も書かれていないのは何故なのか??












『天守指図』新解釈による復元イラスト(上層部分)


論点3.安土城天主は、津山城天守や福山城天守などの「板葺き四重目屋根」の原点であったのかもしれない




申し訳ゴサイマセヌ…。二、三日中に詳しい解説文をアップします!







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2010年05月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!白い「七重ノ塔」の異様さ





白い「七重ノ塔」の異様さ


上のバナーからご覧頂ける『2009緊急リポート』は、織田信長の安土城天主が、白亜に光り輝く外観であった可能性を論述しております。

ただし、当時、信長が「白い天主」を建てたことは、後の江戸時代の白い天守群とは、かなり意味が違っていたようにも思われ、今回は是非その辺りを補足してみたいと存じます。

先に一言だけ結論めいたことを申しますと、その頃、「白」は城郭建築にとって必ずしも普通の色ではなかったという、当時の感覚に立ち戻らなくては、信長の意図を受け止められないように感じるのです。



さて、安土城天主が、諸先生方の復元のごとく黒漆の下見板張りではなく、白漆喰の塗り込めだったという主張には、当サイトよりはるかに先行した「森俊弘案」があることは、城郭マニアの方ならすでにご承知のとおりです。


『城郭史研究』21号(2001年)に掲載された森俊弘案


この復元は文献『安土日記』に基づきながら、外観については、内藤昌先生の史料やデータの読み方(『復元 安土城』等)を批判する形で、白壁の可能性を打ち出しています。


内藤氏も天主復元に関する検討過程で、宣教師による報告書簡等から天主外観に関するデータを抽出、紹介しているが、報告文自体には「悉く外部甚だ白く」「或は白色で、日本風に黒漆を塗った窓を備へ」「黒い漆を塗った窓を配した白壁」とあり、「壁は白い」としているのである。但し宣教師の観察に対して内藤氏は何故か否定的である。

(森俊弘「再読 安土日記」/『城郭史研究』21号所収)



という形で内藤先生との解釈の違いを述べつつ、当時(天守成立の黎明期)の、記録に残る主要な天守が「意外に」白かったことを挙げています。


文献史料では、安土城建設以前の永禄八年(一五六五)、大和多聞山城に「甚だ白く光沢ある壁」を塗った「塔」があったと宣教師は記している。また絵画史料でも聚楽第天守を挙げることができる。

(前述書より)



こうした論点は、当サイトの『2009緊急リポート』も賛同していて、どうか両方の文脈を読み比べて頂けますと、誠に幸いです。



伊勢・安土桃山文化村(旧伊勢戦国時代村)の安土城模擬天主

ウッディジョーの木製模型「1/150 安土城 天守閣」


これまで諸先生方の復元は黒い下見板ばかりでしたが、ご覧のような“外野席”には、すでに幾つか「白い安土城天主」が存在していて、我々のイメージづくりの参考になりそうです。


では、なぜ天守は最初から白壁だったのか、白い旗印の「源氏」とは縁もゆかりもない信長がなぜ白い天主を望んだのか…
『2009緊急リポート』は「中世寺院の技術」に着目し、安土城が城として初めて総石垣や(金箔)瓦を導入したのと同様に、天主も「中世寺院の白壁」を導入したものと考えました。


つまり、それまで「白」という色は、城主の屋形の一部分を除けば、およそ城郭には「縁の無い色であった」点を是非、確認しておきたいのです。

ましてや城郭内で、何かをまっ白に塗り込める、などということは、それまでは考えようも無い、特殊な行為だったはずです。


……古来、日本では「白」は神を示す色であり、「あの世」を想起させる色でもありました。

江戸時代、切腹にのぞむ武士がまっ白な死装束を着たことや、その源流であるのか、中国の農村で葬儀の列が白い喪服姿であったことも、やはり何か関連しているのでしょうか。


洋の東西を問わず、白は神の色として畏敬されてきました。古代ギリシャやエジプトでは、白は神を彩る色でした。キリスト教では、神は全ての色に染まらない白い光の色として表現されています。イスラム教でも白は、唯一絶対の神の色です。白は日本の神道における禊(みそぎ)の色とされ、古代から祭祀には欠かせない特別な色です。白い動物は中国や韓国でも吉兆とされています。また、タイやスリランカなどの仏教国では白象は神の使者として神聖視されおり、白鳩は西洋では平和の象徴です。

(武川カオリ『色彩力』2007)



武士の死装束/薩摩藩家老 平田靱負(ひらたゆきえ)の切腹(治水神社蔵)





さて、建築史家として日本で一番顔の知られた藤森照信先生が、城(天守)とその白色について、面白いことを書いておられます。


 読者の皆さんにも、姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本の物ではないような。国籍不明というか来歴不詳というか、世界のどの国のどの建築にもルーツがないような、それでいてイジケたりせずに威風堂々、威はあたりを払い、白く明るく輝いたりして。
 天守閣がなんかヘンに見えるにはちゃんと視覚的理由があるはずで、それを今、思いついたのだが、
“高くそびえるくせに白く塗られている”
せいではあるまいか。屋根が層をなしてそびえるだけなら五重塔と同じで、法隆寺や薬師寺の塔と同じにしっくりくるのだが、漆喰で白く塗りくるめられているのがいけない。自分のイメージのなかで、法隆寺の五重塔をまっ白く仕上げてみたら、このことは納得できるだろう。白く塗っていいのは低い建物だけで、天に向って高くそびえてもらっては困る。

(藤森照信『建築史的モンダイ』2008)



この指摘はたいへん貴重であるように思われます。この文章は、信長が安土城天主の外壁の「色彩」に込めた日本史上初の試みを、みごとに言い当てているのではないでしょうか。


当サイトは、安土桃山時代の直前に突如現れた「天守」は、日本の伝統建築とは断絶した性格を併せ持ち、その原初的な信長や豊臣秀吉の天守は、殆どが「白い」天守だった可能性を申し上げて来ました。


そうした白い巨塔「天守」を目撃した者にとって、第一印象は、藤森先生が言われるとおり、「なんかヘンな存在」「国籍不明というか来歴不詳」の建造物が出現したように感じられたに違いありません。


おそらくは、それこそが「白」を選んだ信長の狙いであって、白い七重塔が琵琶湖畔の山頂にぬおっと建ち上がる、という異様さ・おぞましさ・戦慄感(現代の新興宗教のモニュメントのような存在感)を、当時の人々の心に、強く刻み込んだように思われてならないのです。


「死の色」「神の色」で塗りくるめた巨塔としての、姫路城天守






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年04月05日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?





内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?


前回、安土城天主の歴代復元案の中から、特に宮上茂隆案と佐藤大規案を対比させて、天主台遺構と復元建築とのマッチングの具合にスポットを当てました。

そして今回は、別の復元案による対戦を“立体的に”観戦してみましょう。



『天守指図』新解釈による天主台の形状(南北/赤ライン)



まずご覧の図は、手前味噌ながら、かなり以前の記事(歴史の証言者「池上右平」の功罪)で作成した、当サイトの『天守指図』新解釈による天主台です。

このように、滋賀県による実測図(断面図)と『天守指図』二重目を素直(すなお)に重ねるだけでも、天主台の高さや形状(赤ライン)を割り出すことが出来ます。

その結果、天主台の南側と北側は、高さが1間ほど違うことが分かり、これがすなわち『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」ではないのか? と申し上げたわけです。


上図は天主台を「南北に」切って見た形状ですが、ちなみに「東西に」切った場合は下図のようになります。

(※これらの断面はいずれも、天主台上の“一箇所だけ礎石の無い”中心地点を通る線で切った断面)


『天守指図』新解釈による天主台の形状(東西/赤ライン)


この断面は、南北二段のうち南側の低い場所に当たるため、天主台は赤ラインのように想定でき、石垣遺構と天主台平面は特に問題もなく、きれいに整合します。

このように“立体的に”見ることで、歴代復元案の中でも、似たように感じられる二案が、実は相当に違うものであることが鮮明になるのです。



内藤昌案 vs 佐藤大規案 (左右はともに同じ方角からの比較)



この両者は、ともに八角形(七角形)の天主台いっぱいに天主が建てられた、とする復元案ですが、その平面形の複雑さからか、両者がどう違うのか、詳しくは比較検討されたことのない二案です。そこでまずは…


内藤昌案による天主台の形状(南北/濃紺ライン)


内藤案はご覧のように、先生ご自身が“発掘”した『天守指図』がそのまま(「安土ノ殿主ハ二重石垣」を考慮せずに)段差なく天主台に載る形になっています。

そして指図と石垣遺構をマッチングさせるため、天主台南側の石垣だけに曲面(いわゆる扇の勾配/青矢印の部分)を導入せざるをえなくなり、これが前回登場の宮上茂隆先生の批判を招くことになった箇所です。



佐藤大規案による天主台の形状(南北/赤紫ライン)


一方、同様にして佐藤案を南北の断面図に重ねますと、これは殆ど問題なく整合することが分かり、試しに内藤案と佐藤案をダブらせてご覧いただきますと…




このとおり内藤案の天主台は、歴代復元案の中でもひときわ高いもので、石蔵(穴倉)の階高は佐藤案の倍ほどもあります。

安土城天主の高さは『信長記』『信長公記』類に「16間半」と伝わるものの、内藤先生は著書で「ふつう天守高さは、石垣上端より最上層大棟衾瓦上端まで」(『復元 安土城』1994)と発言し、それは一重目(石蔵)からではなく、二重目から「16間半」あったのだという、全体的に背の高い復元を行いました。




しかも、長さ8間と伝わる「本柱」(通し柱)が貫いたのは、『天守指図』そのままに下から三重目までとしたため、一重目(石蔵)の高さも相応の規模にならざるをえなかったのです。

しかし今回、是非とも注目いただきたいポイントは、佐藤案も総高では意外に背が高い、という点であり、内藤案と張り合う(!)ほどの総高に達しています。これはいったい何故なのでしょうか?


実のところ、佐藤案も、説明文には「高さが一六間半」とあるものの、他の多くの復元案と同じ方法で、石蔵内部の地面から最上階の屋根の棟までを測りますと、ゆうに19間近く(約18.7間)もあることが効いているのです。


これは、天守の高さについて、例えば広島城天守の伝来(「十七間六尺」)や岡山城天守の実測値(「六十尺九寸」)が、いずれも“最上階の桁の上端まで”を測った値であることを踏まえた手法です。

この手法ならば、計測に含まれない最上階の屋根部分の高さだけ、実際の天主は高くなるわけで、佐藤案の場合、これで2間以上高く復元できたことになります。


すなわち内藤案と佐藤案という、底辺のだだっ広い「多角形」天主が、どちらも総高を高く復元することに苦心した“舞台裏”が透けて見えて来るわけです。





さて、内藤案vs佐藤案の勝負の行方は、天主台を「東西に」切った断面図を見た瞬間に、突如として幕切れを迎えます。


内藤昌案による天主台の形状(東西/濃紺ライン)


内藤案はやはり石蔵の高さを保つため、西側の石垣に扇の勾配が含まれ、また東側は入口のための複雑な構造が設けられています。

一方、佐藤案は、石蔵の深さを、発表されている図面類のとおりとしますと…


佐藤大規案による天主台の形状(東西/赤紫ライン)


ご覧のように、天主の東側と西側に、天主台石垣との間に幅半間〜1間ほどの“空き地”が出来てしまい、しかも東側は(内側の石垣遺構の角度がかなりユルイため)天主壁面が石垣の内側にズリ落ちてしまいかねない、ぎりぎりの位置になるのです。

各誌に掲載された佐藤案の図面類には、何故か、こうした“空き地”は示されておらず、また佐藤案を紹介したイラストやCGにも見られず、もちろんデアゴスティーニの模型にもこうしたディティールは存在しません。



思えば佐藤案は、『信長記』『信長公記』類にある「東西17間 南北20間」という規模を実現しようと、南北に細長い形状を志向して復元されたようですが、だからと言って、現存する石垣遺構との整合性を無視するわけには参りません。

またまた佐藤案には、「説明」をお願いしたい状況が出現してしまったのです。


内藤昌案 vs 佐藤大規案 (ともに南東の方角から)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年03月20日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!宮上案vs佐藤案は勝負がつかない





宮上案vs佐藤案は勝負がつかない




前回ご紹介した『歴史スペシャル』2010年2月号は、安土城天主の歴代復元案の“公平性”云々という観点だけでなく、各論の“相違点”を見ても、実に面白いポイントが見つかります。

そこで今回は、特に<宮上茂隆案vs佐藤大規案>の比較において、天主台石垣の上に天主がいかに載っていたかをめぐる攻防を“観戦”してみましょう。


宮上茂隆案 vs 佐藤大規案


お馴染みの表紙イラストでご覧のとおり、左の宮上案は天主台石垣が二段式になっていて、これは『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」という記述を具体化させたものですが、それに対して…


(宮上案は)低い堤防状の穴蔵石垣を天主台の内側に引き込めて設け、整然とした四角形平面の天主に復元しているが、そうであれば、低い穴蔵石垣に合わせて礎石列を並べられたはずで、現存する遺構との整合性がない。

(三浦正幸/『歴史スペシャル』2010年2月号より)


このように、佐藤案を紹介する三浦正幸先生の文章には、宮上案への批判が含まれています。三浦先生の論点は、文章が短いために分かりにくいので、図示して解説しますと…


宮上茂隆案の天主台と天主


この案を批判する三浦先生の論点は、天主台全体の八角形(七角形とも)に沿った形で、石蔵(穴蔵)の内側にも石垣が築かれているのに、なぜこの宮上案は、二段目の外側の石垣がいきなり四角形になるのか… それならば、内側の石垣も四角形になったうえで、その「低い穴蔵石垣に合わせて礎石列」が縦横に並ぶはずではないか、という点にあるのでしょう。


確かに宮上案の二段目の石垣は、イラストのように外観上は自然に見えますが、天主を取り払った状態で見ますと複雑きわまりないものであり、三浦先生の指摘も大いにうなずけます。

しかし、宮上先生は、生前に『国華』誌上でこのようにも発言しているのです。


不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。

(宮上茂隆『国華』第998号「安土城天主の復原とその史料に就いて(上)」より)


つまり宮上先生は“二段目が無かった”ケースも目配せしていて、つまり宮上案の重心は「二段式」天主台にあったわけではなく、天主木造部と天主台石垣の間の「広い空地」にあったのだと言えます。

そうなりますと、佐藤案も『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」をまったく考慮していないわけですから、この勝負、本当は両者痛み分け、というか、場外乱闘の末に両者リングアウト、という判定が妥当のようにも感じられるのです。……



いずれにしましても、三浦先生の文章には次のような一文もあって、これは当代一の権威者とされる三浦先生にしては、実に恐れ多いことながら、「質疑応答」の類が必要であるようにも思われます。


(佐藤案は)『信長公記』に記載されている東西17間、南北20間の規模や、各階のすべての部屋割りはもとより、一階の柱数204本をはじめ各階の柱数まで完全に一致させた、初めての復元案である。

(三浦正幸/『歴史スペシャル』2010年2月号より)


現存する天主台の遺構が、『信長記』『信長公記』類が伝える「東西17間・南北20間」になかなか当てはまらないことは、城郭マニアの間では常識の範ちゅうにあります。

ですから、この三浦先生の文章には思わず“本当か!?”と身を乗りだしてしまうわけですが、ならば今回は、発表されている佐藤案の二重目(天主台いっぱいに建つ「一階」)について、キッチリと吟味してみることにしましょう。


佐藤大規案/天主台いっぱいに建てられた天主


まずは佐藤案の二重目を、滋賀県の調査による実測図にダブらせてみますと、なんとご覧のとおり、ほぼ当てはまってしまいます…

つまり「東西17間・南北20間では無かった」はずの遺構に、ほぼ当てはまってしまうわけですから、この時点で早くも一抹の不安がよぎります。


宮上案と佐藤案/天主台の南北の規模はほとんど変わらない


―― 右側の佐藤案は、本当に「東西17間・南北20間」を実現しているのか??

そんな初歩的な疑問を感じつつ、試しに佐藤案の図面類を“定規で測って”みますと、もう何か、こちらのリアクションに困るような事態に至るのです。




皆さんも是非お試しいただきたいのですが、この作業を一番やり易いのは『よみがえる 真説 安土城』(2006年)でして、14ページにある大きめの図に定規を当ててみて下さい。

その二重目の図(この本では「一階復元平面図」と表記)は、ちょうど1間(七尺間)が1cmに当たるので定規で測りやすく、佐藤案の東西・南北の寸法がすぐに分かります。そうして測った定規の値は…

 東西15.6cm/南北17.6cm(ともに側柱の芯心間)

ですからこの数値のまま、復元の寸法も…

 東西15.6間/南北17.6間(ともに七尺間)

となり、佐藤案は少なくとも七尺間では「東西17間・南北20間」に程遠いことが分かります。



それでも京間(6尺5寸間)や田舎間(6尺間)で測った場合、そうなるのかもしれない、と気を取り直して、計算の便宜上すべて「尺」に直すため7を掛けますと…

 東西109.2尺/南北123.2尺

で、この値を6.5(京間)や6(田舎間)で割れば答えが出るわけですが、どうも様子が変なのです……


 東西 109.2÷6.5(京間)=16.8間
 南北 123.2÷6.5(京間)≒18.95間



このように京間で測った場合、東西はみごと16.8間で文献の「17間」の近似値になるものの、南北は約19間であり、これを「約20間」と言い切るのは厳しいでしょう。そこで田舎間も試してみますと…


 東西 109.2÷6(田舎間)=18.2間
 南北 123.2÷6(田舎間)≒20.53間



今度は南北がどうにか「20間」の近似値になるものの、東西は1間以上違ってしまいます。これはいったい、どうしたこと…… と言うより、こんなことは予想された通りの事態でしょう。



そこで、まさか?!と思いつつ、松江城天守などで使われている6尺3寸間(松江城での実測は6.37尺)で計算してみます。すると…


 東西 109.2÷6.3≒17.33間
 南北 123.2÷6.3≒19.55間



なんと、佐藤案の数値は、“四捨五入”すれば東西17間・南北20間に納まる値だったのです。


このように安土桃山時代に四捨五入が使われたのか、私は不覚にも存じません。

また、天主台礎石の7尺間に対して、あえて6尺3寸間で計測することを、どう理屈づけられるのか…。

それとも、もっと別のロジック(論理/解釈)が佐藤案にはあるのか…


佐藤案がそのあたりの「ロジック」を誌上で説明してくれないかぎり、この試合は、とても観客(読者)が判定を下せない“無効試合”になりそうなのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2010年03月08日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ろくろ首のプロポーションは何故なのか





ろくろ首のプロポーションは何故なのか


「やりだすとドウニモ止まらない」というのは、人間の悪い性癖の一つで、こんな感情は押さえ込んだ方が、世の中を穏便に渡って行くうえで大切な「肝要」と思われるのですが、今回もまたヤッてしまうことに致します…。

と申しますのも、今度は「安土城天主」に関わる事柄で、どうも“気になって仕方の無い新刊雑誌”がもう一つ、出現したからです。



松山城天守の破風の鉄砲狭間


…ですが、その前に、前回の記事で「天守は基本的に平時のための建築ではないか」というお話をしたものの、それにしては、天守にも写真のような鉄砲狭間があるのは可笑しいではないか? というご意見があるのかもしれません。


この松山城天守の場合、破風の内側に二人分の座れるスペースがあって、その前に鉄砲狭間が二つあり、そこから敵兵を狙撃できる形になっています。こうした備えを見る限り、天守も、それなりの戦闘能力があったように感じられます。

特筆すべき例としては、織田信長の重臣・柴田勝家の北ノ庄城天守は、それ自体にも相当な防御力(鉄砲の火力)を備えていたという指摘が、過去に某誌上であったように記憶しております。

また松江城天守では、敵兵が天守入口を突破した後も、なお天守内部の奥から銃撃できる仕掛けがあったりもします。


――それにしても、上記の例は、いずれも“最後の抵抗を試みる”ための工夫であって、歴史上、敵勢が本丸になだれ込み、天守だけが孤立したような状況で、そこから大逆転で勝利できたという、奇蹟のような事例は存在しません。

やはり天守だけで殺到する敵勢をはね返すのは不可能であって、上記の様々な工夫は、せいぜい城主一族が自刃するまでの「時間稼ぎ」が目的であったとしか考えられないのです。





さて、冒頭で申し上げた、気になって仕方の無い新刊雑誌とは、ご覧の『歴史スペシャル』2010年2月号(世界文化社)です。

創刊号だけに、かなり力のこもった印象でまとめられ、そうした中の特集の一つとして、安土城天主の歴代の復元案がフカンされています。


記事の執筆者は、内藤昌案については女流時代劇研究家のペリー荻野さん、宮上茂隆案については竹林舎建築研究所を継いだ木岡敬雄さん、西ヶ谷恭弘案は先生ご自身が筆を取られ、佐藤大規案は広島大学大学院の三浦正幸先生が筆を取られる、という豪華なラインナップです。


内藤案・宮上案は先生ご本人の執筆がかなわぬのは致し方無いとしても、全体の印象として、佐藤案が時系列的に一番後になるため、これだけが他案からの批判・検証を受けずに済んでいる、というイメージが否めません。

「後から走る者の優位性」と言えばそれまでですが、このままでは、どこかフェアでないようにも感じられ、例えばこの後に、執筆者たちの対談(トークバトル)のコーナーでもあれば、緊張感が走り、さぞや盛り上がった事だろうと感じました。



まさに安土城天主をめぐる現下の状況は、各々がリングコーナーに引き篭もって、シャドーボクシングに明け暮れているかのようです。

もっとマスコミ側の仕掛けが必要か?と自問自答する前に、当ブログで出来る事を、まずヤッてしまおう、と思います。

そこで――「どこかフェアでない」部分の解消のため、手前勝手に(内藤先生や宮上先生に成り代わって)佐藤案に対する印象を挙げてみることにします。


とは申しても、色々と挙げても恐縮ですので、ここは一点だけ、各地で天守を見慣れた方ならば誰もが感じている…

<あの「ろくろ首」のようなプロポーションは何故なのか?>

という一点を指摘してみたいと思います。



佐藤大規案の天主東西面のシルエット


デアゴスティーニの模型が完成しますと如実に分かるとおり、この天主は、東西から眺めた時、望楼部が急に細長く立ち上がっています。

何故このようなプロポーションになったのか? …まずは復元の説明文で触れられている「岡山城天守」を検討してみる必要がありそうです。


岡山城天守と佐藤案のシルエット


ご覧のとおり、これは何か、佐藤案の復元の秘密をのぞいてしまっているような感もありますが、(両者の縮尺を無視して)天守台とその上の初重・二重目をピッタリと重ねてみますと、岡山城天守の二重目の大屋根(入母屋屋根)は、佐藤案の大屋根とほぼ同じ位置に来ます。


しかしその上はまるで別物のようで、岡山城天守はさらに四重目の入母屋屋根が載ったうえに、五重目(最上階)があるのに対し、佐藤案はそうした二段目の入母屋屋根の替わりに「八角円堂」の屋根と構造体があるため、急激に細くならざるをえません。

また余談ながら、その「八角円堂」の屋根が、岡山城天守の唐破風のある葺き降し屋根とほぼ同じ位置にあるのは、何かのご愛嬌なのでしょうか?



松江城天守と佐藤案のシルエット


次いで、三浦先生が別の著作で注目されている「松江城天守」と比べても、同じような現象が見て取れます。

松江城天守は二重目の大屋根の上に、それと直交する大ぶりな「張り出し」があって、佐藤案も同じ位置に、直交する三層目の屋根(張り出し)を設けています。

しかしその上はやはり別物で、松江城天守が規則的な逓減(ていげん)を保って四重目・五重目を重ねているのに対し、佐藤案はいきなり「八角円堂」になり、その上にほぼ同じ規模の最上階を載せています。



こうして見ますと、佐藤案は、せっかく岡山城天守や松江城天守という参考例を挙げていたのですから、そのデザイン上の奥義を“もう少し素直(すなお)に”受け入れても良かったのではないでしょうか…。

仮に「八角円堂」を採用するとしても、例えばその南北に“二段目の入母屋屋根”を付設する等の工夫をしていたら、あの「ろくろ首」のようなプロポーションは避けられたように思われるのです。







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2010年02月17日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする





天主地階の金灯爐と弾薬庫の矛盾をどうする


昨年六月から続けて来ました「安土城天主」のシリーズ記事も、いよいよ最終盤と考えております。(※その最終回は、シリーズ中でも最大級の仰天仮説を準備中です。)

ということで、今回は、これまで殆ど触れて来なかった一重目(地階/天主台石蔵)の“或る矛盾”についてご紹介しましょう。



お馴染みの『信長記』『信長公記』類は、二重目(『安土日記』では六重目)の記述のなかで、
「御なんとの数七ツ 此下に金灯爐つらせられ候」
「御南戸之数七ツ有 此下に金灯爐をかせられ候」

という、二種類の「金灯爐」についての説明があります。


両者は、釣ったのか、置いたのか、という形状は異なるものの、それらの位置を説明どおりに配置してみますと…


新解釈『天守指図』二重目の七つの納戸


仮に、七つの納戸の真下に配置してみた「金灯爐」


このように「金灯爐」は暗い石蔵内を照らすものですから、配置としてはややアンバランスですが、入口から遠い北側に並べたのは合理的な配置と言えるのかもしれません。


一方、他の文献にはたいへん気になる記述があり、それは石蔵内部が「弾薬庫」だったという宣教師の報告です。


中央に一種の塔がある。塔は七層楼で、内外ともに驚くべき構造である。
(中略)建物は悉く木造であるにも拘らず、内外共に石及び石灰を用いて造ったものの如く見える。要するにこの建築は、欧州の最も壮麗なる建築と比することができる。
我々は、更にこの城が鉄砲と云う新兵器に対応して鉄の狭間戸を有し、地下には弾薬庫をもつ最近の設備をそなえていたことに一驚する。


(耶蘇会士 日本通信)


この証言は、織田信長の後継者・豊臣秀吉の大坂城天守も、天守台石蔵は弾薬庫だったという伝承があり、あながち否定できるものではありません。

となりますと、安土城の場合、天主台石蔵の中に「弾薬」と「金灯爐」が同居していたことになり、そんな危険極まりない“矛盾”をいったいどのように解釈すればいいのでしょうか?


大阪城に現存する焰硝蔵(えんしょうぐら)


弾薬庫と申しますと、例えば江戸時代に建てられた「焰硝蔵」が大阪に現存しています。

これは調合済みの黒色火薬を保管した火薬庫であり、以前のものが落雷による爆発事故を起こしたため、より頑丈に建て直されたと伝わっています。


ここで気になるのは、本来、「焰硝」とは、黒色火薬の原料「木炭」「硫黄」「硝石」のうちの「硝石」(硝酸カリウム)だけを意味した言葉と思われるものの、上記の例は黒色火薬と同義語で使われています。

ひょっとすると、この言葉のあやが、安土城の“矛盾”を解くヒントではないのでしょうか?

鞄結梔サ学同人が発行した『化学辞典』(1994年)にはこうあります。


硝酸カリウム[potassium nitrate] KNO3,式量101.10.
天然には硝石(saltpeter, niter)として産する。無色の結晶または結晶性粉末。
(中略)酸化力を有し、有機物、硫黄、炭素など還元性の物質を混合したものは爆発性がある。火工品製造、金属熱処理剤、食品添加物などの用途がある。


なんと硝酸カリウムは食品添加物として、肉の赤み付けや、舌でなめると冷ヤッとする効果があるそうですが、何よりこれ自体は燃えず「爆発性も無い」という点が見逃せません。


「長篠合戦図屏風」の信長(大阪城天守閣蔵)


そうした「硝石」は当時、大半が南蛮貿易で輸入され、信長・秀吉らが推進する統一戦争において重大な役割を占めた物資でした。


となると、信長の大戦略に欠かせない「硝石」だけを、天主の一重目に貯蔵したとしても、そのことには特段の不思議さは感じられません。

むしろ「硝石」が燃えないことを知っていた信長は、その貴重な舶来品を納める階として「天主台石蔵」を発明した(?)のかもしれません。





このことは、もしかすると「天守台石蔵」がどのように成立したのか、という発生起源を解き明かすヒントになるのではないでしょうか?


全国の天守台には、「石蔵」の有るものと、無いものの両パターンがあって、いったい何を基準に選択されたかと申しますと、小規模な天守台に無いのは当たり前としても、それ以外を分ける決定的な判断基準は見当たりません。

かろうじて有り得るのは、(徳川氏宗家を含む)織田家臣団だった大名家に特有の設備として、天守台石蔵があった、という傾向は言えるのかもしれないのです。


つまり天守台石蔵とは、鉄砲による“国家間の地図の書き換え”という軍事的な誘惑に則した城郭設備の一つであって、それにのめりこんだ織田家臣団のぬぐえぬ習慣として、その後に(用途が変わっても)形が踏襲され続けたものではないのでしょうか??



京都の本能寺跡で発見された瓦


さて、ここからは全くの余談ですが、“信長と地下の弾薬庫”と言いますと、いわゆる「八切意外史」の一冊『信長殺し、明智光秀ではない』の仰天ストーリーが思い出されてなりません。


ご存知の方も多いと思いますが、要点だけ申しますと、実は本能寺の地下にも焰硝蔵があった、という設定をいちはやく打ち出した小説です。

そしてその夜、正体不明の軍勢が本能寺の周辺に整列した数時間後、突然、寺の建物が爆発し、中にいた者は「髪の毛一筋残さず」吹き飛ばされ、信長も落命した、という筋立てなのです。


すなわち、本能寺の変とは何だったのか? という意外性で読ませる小説であって、一方、最近の発掘調査では、信長がいた本能寺の居所は、実にこじんまりとした建物を堀がめぐっていただけの“戦の陣所のような仮御殿”だった可能性が浮上しています。

となると、そんな無用心な居所を、夜明け前に軍勢が静かに囲むというのは、あたかも信長の出陣を待つ準備のようでもあり、ならば「髪の毛一筋残さず」と伝えられた爆発的炎上は何なのか、まことに意味深長なストーリーなのです。








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2010年02月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!織田信長の「隠し部屋」を発見!?





織田信長の「隠し部屋」を発見!?


まるで動物園? 居並ぶ十二支の木像と鳥の画


前回、安土城天主の十二支の木像をご紹介するなかで、『天守指図』二重目の部屋の配置にも話が及んだため、いっそこの機会に、他の各部屋がどのように配置されるのかも、ご覧いただこうと思います。

その過程で、織田信長の重要な「隠し部屋」の存在が浮上するのです。



新解釈『天主指図』二重目/当てはめた文献上の各部屋


『信長記』『信長公記』類はそれぞれ微妙な差異がありますが、天主二重目の主な相違点は、「雉(きじ)の子を愛する」絵がある四畳敷と、「御棚に鳩」の絵がある四畳敷は、同じ部屋なのかどうか、という点になります。

上の図は、その点について、同じ部屋のこととする『安土日記』に基づきながら、ただし「十七てう敷」は他の『信長記』類のように「十畳敷」が正しい、という方針に沿って各部屋を当てはめてみたものです。



尊経閣文庫蔵『安土日記』(二重目の記述/この文献では六重目と表記)
… 六重目
  十二畳敷 墨絵ニ梅之御絵を被遊候
  同間内御書院有 是ニ遠寺晩鐘景気被書 まへに盆山被置也
  次四てう敷 雉の子を愛する所
  御棚ニ鳩計かゝせられ

  又十二てう敷ニ鵞をかゝせられ鵞の間と申也
  又其次八畳敷唐之儒者達をかゝせられ
  南又十二てう敷
  又八てう敷
  東十二畳敷
  御縁六てう敷
  次三てう敷
  其次八てう敷御膳を拵申所
  又其次八畳敷御膳拵申所
  六てう敷御納戸
  又六畳敷 何も御絵所金也
  北之方御土蔵有
  其次御座敷廿六畳敷御なんと也
  西六てう敷
  次十七てう敷
  又其次十畳敷
  同十二畳敷
  御なんとの数七ツ
  此下ニ金灯爐つらせられ候 …






このなかで文献と『天守指図』の描写が合わない部屋が一つあり、それは天主本体の東寄り(図で左寄り)の階段に接したカギ型の六畳間三つのうち、一番南側(図では上)の部屋は階段の上になり、実際は文献どおりの八畳間(「次八畳」)だったと思われる点です。(図は修正済み)

そもそも二部屋にまたがる階段スペースというのは、他の天守や櫓にも例の無い形ですし、これはやはり池上右平の“加筆”ではないかと疑われる部分です。

また北東隅(図では左下)の階段も同様でしょう。(修正済み)


さて、このように当てはめてみて、妙な形で残ってしまった(つまり村井貞勝らが拝見しなかった疑いのある)部分が、南西奥(右上)の角に小さく突き出た部屋であり、ここはいったい何なのか… という疑問が浮上します。



信長の「隠し部屋」が二重目の最奥に??


この場所は、信長の御座と思われる「雉の子を愛する」絵の四畳敷の、さらに奥に位置していて、その間が柱と間仕切りで画されているため、普段はまさに「雉と子」の板絵等で隠されていた可能性がありそうなのです。

そしてそれは、全体の配置から見ますと「上段」「上々段」であった疑いが濃厚です。

昔主殿の図(『匠明』)と仙台城大広間


ご覧のように、この場所は「上段」「上々段」が相応しく、「上々段」は言うまでもなく天皇の御座を意味した場合も考えられます。

そんな「上段」「上々段」が、安土城天主のなかで普段は隠され、信長はそれを重臣の村井貞勝らに見せなかった可能性がある、ということは、いったい何を物語っているのでしょうか。





ご覧のように、この一帯は、梅の間の「御書院」「まへに盆山」(信長の化身とされた石)がごく間近にあった可能性と合わせて、安土城天主のなかでもトップシークレットに位置づけられた空間のようなのです。








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2010年01月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!まるで動物園!?安土城天主の木像群





まるで動物園!?安土城天主の木像群


『2009緊急リポート』で“黒漆で塗られた柱や床、金色の障壁画で居室空間が統一された”云々と申し上げましたが、安土城天主の内部については、もう一つ、特徴的なポイントがあるため、今回はその件をチョットお話いたします。


七階を有し、其室数甚だ多ければ、先頃信長も此家の中にては迷ふべしと言へり、其道を知るべき標識は多種の木像なり。

『耶蘇会士 日本通信』(村上直次郎訳)


安土城天主の内部について、宣教師が報告した「多種の木像」とは、果たしてどういうものだったのでしょう?


数多くの部屋の中から、目指す部屋に迷わずに行けるように、例えば、それらは“方角”を示したものではないのか…

というふうに、極めて常識的に考えますと、それらは「十二支の木像」だったとするのが、自然な解釈ではないでしょうか??



十二支と方位


十二支はご承知のとおり、当時の人々にとって、年や時刻だけでなく、方位を示す記号としても日常的に馴染みのあったものです。

そしてその木像が、天主内部にどのように設置されたかを想像してみますと、まず「木像」と書かれている点で、類似例として、神社仏閣の軒下に彫刻された獅子や獏(ばく)などの彩色像が思い当たります。




これらは木鼻を彫刻・彩色したもので、もとより頭の上の位置にありますから、例えば、こうした類が建物内で廊下の長押上(柱)に突出して取り付けられたとしても、特に通行の邪魔にはなりませんし、遠くからも良く見えたことでしょう。

ではその状況を、仮に『天守指図』二重目で考えてみますと…




このように南側(図では上)の二重目入口付近から、東側を通って北側に回り込む廊下に沿って、巳(蛇/へび)辰(龍/りゅう)卯(兎/うさぎ)寅(虎/とら)丑(牛/うし)子(鼠/ねずみ)亥(猪/いのしし)と、計7種の木像が、柱の上部に並んでいた可能性が考えられるのです。

それらは見るからに壮観で、忘れられない印象を残したのではないでしょうか。また、これならば黒漆で統一された居室空間も、迷わずに歩くことが出来たのかもしれません。


さて、大胆な木像群が並んでいた上に、各部屋の障壁画には、様々な生き物も描かれていたわけで、図にそれらを加えてみますと…




信長自身の御座を含む南西奥の各部屋には、金地の襖絵に鵞鳥(がちょう)や雉(きじ)の親子が描かれ、棚には鳩(はと)の絵があって、このような空間にもし現代人が足を踏み入れたなら、「ここはバーチャルな動物園か」とつぶやきかねない状況です。

これも織田信長という人物と、安土城天主という建物の、ユニークな一面を物語る特徴であるように思われます。








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2010年01月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝二ノ丸の正体を姫路城からさぐると…





伝二ノ丸の正体を姫路城からさぐると…


年末年始の『2009緊急リポート』で話が途切れてしまった、安土城天主から周囲に伸びていた“タコ足状の階段橋(登渡廊)”の話題に戻りたいと思います。




ご覧のように天主の三重目と伝二ノ丸の御殿とをつなぐ仮称「表御殿連絡橋」の可能性を申し上げました。

しかしその伝二ノ丸が、どんな曲輪であったのかは、「信長廟」のために発掘調査が行えず、これまでに例えば、広島大学大学院の三浦正幸先生の画期的な復元考察を筆頭として、二、三の考察があったに過ぎないようです。




三浦先生の復元考察は、ご覧の本の中でCG画像つきで紹介されたように、伝二ノ丸は「本丸の表側である西方を占めていた」曲輪であり、そこには「表御殿」が建てられたはず、というもので、まさにその通りではないかと思われるエポックメイキングな考察でした。


その表御殿は、伝二ノ丸の中央付近にあったとされているのですが、その点では、やや気になる一件があります。

と申しますのは、現在、当サイトは“白亜の安土城天主”の全景をイラスト化している最中で、その画面に伝二ノ丸の一部も含まれるため、曲輪の形状を上から横から色んな角度から見ているうちに、かねてから感じていた“疑念”がますます強くなって来たのです。

それは、伝二ノ丸は、姫路城の備前丸と、形状や位置付けがほぼ同じ構想で築かれたのではないか? という疑念なのです。



同縮尺の安土城(上が東)と姫路城(上が北)


右の姫路城の「備前丸」は、ご承知のように、雄大な大小連立天守をはじめ現状の姫路城を築いた大名・池田輝政(てるまさ)が、自らの居館を置いていた、という伝承のある曲輪です。

図のように並べますと、伝二ノ丸も備前丸も、天主(天守)に面して半円形の曲輪が設けられ、その両端から出入りする形になっていて、一方は主に城外への連絡口、一方は主に天主(天守)側への連絡口、というプランも同じです。

しかもご丁寧に、半円形の弧の先には、三角形の似たような曲輪を設けている点はご愛嬌であり、しかし、そうした基本構想が、織田信長の家臣であった頃の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって実現した可能性を思うと、笑ってばかりもいられません。


ひょっとすると、秀吉も、信長にならってここに「表御殿」を構え、さらにそれにちなんで、織田・豊臣・徳川の政権下で有力大名であり続けた池田家が、当主・輝政の居館をここに構えた、とも想像できるからです。


そうなりますと、安土城の伝二ノ丸の正体をあばく上では、姫路城の備前丸が、かなり重要なカギを握っているのかもしれません。


「播州姫路城図」にある備前丸の建築群を重ねてみると…


十数年前に発見された「播州姫路城図」によって、それまでは明確でなかった備前丸の建築群も、ある程度はっきりして来ました。

例えば備前丸の東半分(図では右側)に大きく示された建物は「御台所」「上台所」であり、曲輪の周辺部は「渡御櫓」や「長局」がグルリと取り巻いています。

そうした建築群の中で最も注目すべきは、周辺部の西側、見晴らしのよい石垣上に建てられた「御対面所」でしょう。



備前丸の建物のうち、特色あるのは御対面所である。
その位置は西側の前方に張り出した高石垣の上にあり、渡櫓ながら梁行が四間半で他より大きく、御対面所と称するからには内部に接客対面のための座敷を備えていたと思われる。
現存する帯の櫓・西ノ丸化粧櫓と同じように押板(床ノ間)や棚をしつらえていたかどうか定かでないものの、備前丸が池田輝政の居館とされた伝承および近くに御台所・上台所・雪隠も存在したことと考え合わせると興味深い。


(松岡利郎「失われた姫路城の建築」/『歴史群像 名城シリーズ10 姫路城』1996所収)



仙台城の断崖上の「本丸懸造(掛作家/かけづくりや)」/復元:三浦正幸



他の城で、これと似た例は久保田城本丸の「御出書院」や仙台城本丸の「掛作家」、小諸城二之丸の「御矢倉御座敷」、熊本城本丸の「小広間」・同数奇屋丸の「二階御広間」、鳥取城二之丸の「走櫓」などがある。
いずれも桁行長く梁間の大きい建物で、室内に床ノ間・上段をしつらえており、本丸において眺望がよくきく位置を占めていた。


(松岡先生の前記論考より)


この論考の直後に発見された「播州姫路城図」をよく見ますと、御対面所の北半分にも、やはり上段と床ノ間があったように描かれています。


こうして「曲輪の形状」を主眼にして考えた場合、安土城の伝二ノ丸においても、中央付近ではなく、むしろ石垣上の琵琶湖を見晴らす絶好の位置に、最も重要な建物があったように思われてならないのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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