安土城「大手道」

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2013年09月16日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!真四角な「御三階」と「層塔型天守」誕生の因果関係






真四角な「御三階」と「層塔型天守」誕生の因果関係


前回の妄想的仮説を受けて… 「本能寺の変」後の安土城


ご覧のイラストは様々な仮定を含んだものになりますが、ここで申し上げたいのは、現状の安土城は思った以上に「時期差」を多く含んでいる遺跡…それは勿論、織田信長が生きた時期の中でも変遷があり、死後にもかなりの拡充があった場所ではないのか、という疑いです。

その点で私なんぞが密かに注目しているのは、イラストの青白い輪で囲んだ部分でして、現状では「伝江藤邸跡」「江藤(えふじ)の丘」と呼ばれますが、もしも安土城が一貫して「南」を大手としていたならば、ここはその突端の出丸(防御陣地)と言うべき位置になります。

ところが何故か、ご覧のように、肝心の南側部分が「土塁」のまま!! 遺されているようなのです。

(※県の石垣調査はあったものの、発掘は行われていない模様)


決して私はここで土塁の防御力を軽んじるつもりはありませんが、この状況には、前回記事の「三法師邸」の新設を含めた、安土城南側の大きな拡充工事の進め方が絡んでいるように感じられてなりません。

すなわち「三法師邸」を核とする山の凹部が、その中心部から整備されたか何かの影響で、この部分だけが最後に取り残されてしまったのでは… という疑いが頭をよぎるのです。




思えば4年前の当ブログ記事(異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?)において、安土城の南山麓の四つの門跡を、都の内裏の三門に見立てようとする説に違和感を感じて、むしろ「それらは信長廟の門構えではないのか」などと申し上げ、安土城の「時期差」問題に触れて来たことが、ようやくご覧のイラストに集約されたような感もあります。

で、今回の記事は、イラストの真ん中あたりに書き込んだ「御三階(ごさんがい)か」という、これまたとんでもない仮説について、その詳細と、それが示唆する重大なテーマ… 私のかねてからの疑問「層塔型天守はどこで生まれたか」について、少々申し上げたく思うのです。



伝羽柴秀吉邸/発表された建物の推定図に色付けして作成/上が真北


ご覧の図は、伝羽柴秀吉邸の推定図を冒頭イラストと同じ色で塗ってみたものですが、このうちあえて「御三階か」とした建物は、「主殿」の敷地よりも一段下がった所にあり、これを旧滋賀県安土城郭調査研究所は「隅櫓」と推定し、三浦正幸先生は「台所」と推定しておられます。(※三浦先生は主殿の玄関を反対側の南西側と想定)


その位置は「伝豊臣秀吉邸址」(!…)の古い標柱のすぐ奥のスペース


(※発掘調査報告Tに掲載の測量図をもとに作成)


(発掘調査報告Tより)

「不整形の敷地いっぱいに建つ、一辺5間の方形の建物である。」

「礎石は建物1(主殿)同様で、一辺50cm前後の自然石を整地土上に直接据え、基本的に1間=6尺3寸の格子目上に配している。その礎石配列および立地状況等から隅櫓等の防御機能を持つ建物と推定される。」


と報告書にあって、建物の平面形は「真四角」とされています。

また、この建物の位置については、「山腹の主要な曲輪の左端付近」という意味では鳥取城の三階櫓(下写真)などを連想させ、「御殿から一段下がった場所」という意味では徳島城の三階櫓(山之古てんしゅ)などを、そして「御殿近くの石垣上の見晴らしのよい所」という意味では、先の鳥取城のほか、肥前名護屋城の上山里丸の二重櫓なども連想させるでしょう。




<なんと「御三階」の半数が真四角の平面形だった

 本当に天守の「代用」か!? 本来は「別用途」の建物ではなかったのか…>





鳥取城の古写真/二ノ丸の向かって左端に「三階櫓(さんかいやぐら)」

(※7月に行われた鳥取城フォーラム2013 シンポジウム「史跡整備の現状と課題
〜近世城郭を中心に」の告知で、ネット上に盛んに登場した古写真)


ご覧の三階櫓は、史料によれば一階が8間四方、二階が6間四方、三階が4間四方だったそうで、江戸中期に山頂の天守が失われると、その後は焼失や再建を経て「天守の代用」と見なされたそうです。

そして、そして、周囲の曲輪の構成を見ますと、これが私なんぞには、どう見ても冒頭で申し上げた「本能寺の変」後の安土城に酷似しているように見えてなりません。(※左図の鳥取城は上が真北)



!! 「本能寺の変」後の安土城が、ある種のスタンダードを生んでいた可能性はないのか…


鳥取城をご覧の近世城郭の姿に大改修したのは池田長吉(いけだ ながよし/輝政の弟)と言われ、古写真の三階櫓はその江戸中期の再建ではありますが、これも典型的な「御三階」の一つでしょう。


そもそも「御三階」と言いますと、この鳥取城のように、江戸時代に天守の代用とされた三重櫓という認識が支配的である一方で、中には会津若松城のように天守と並存し続けた御三階もあって、やや不審な点があります。

また「御三階」は建物の種類としても、鳥取城のような石垣上の「櫓」と、会津若松城や水戸城のように御殿と同じ敷地に建つ「楼閣」とがあったのに、いずれもが「御三階」のうちに数えられて来たのは、やはりどこか不審です。

そういう大きな振れ幅を含みつつ、どういうわけか、建物自体は真四角の平面形のものが多かった… という点に、私なんぞは思わず“歴史の口裏合わせ”のような臭いを嗅ぎ取ってしまうのです。


【真四角な平面形の御三階】 鳥取城/(会津若松城)/白河小峰城/金沢城/徳島城/盛岡城/(新発田城)/水戸城/岡城

【その他の平面形の御三階】 加納城/高崎城/佐倉城/古河城/丸亀城/米沢城/忍城/弘前城/白石城/松前城



この他には平面形が不明のものなど、若干の事例があっただけですから、まさに半数が真四角だったわけで、何故これほど多くの「真四角」が長期にわたって踏襲されたのでしょうか。

この事の裏側には、ひょっとすると「御三階」本来の“出自”が隠されていたりするのかもしれません。



【謎解きのための着眼点】一部の御三階は「外見」を度外視していたような印象がある

会津若松城と水戸城の御三階(楼閣の部類)


(※左CGは会津若松市による復元計画のイメージ図を引用しました)


さて、ご覧の二つのうち、左の会津若松城のものは、有名な阿弥陀寺に移築された建物を参考にした復元のためか、実にアッサリとした外観になっています。

また右の水戸城も、江戸時代に「以前ハ至極廉相なりしを新らたに造り営み」という記録があるとおり、初めは写真よりもさらに素朴な外観だったことが知られています。

ということは、二つはともに楼閣の部類に入る「御三階」ですが、御殿のより近くにあったにも関わらず、どこか「外見」を度外視していたような印象があるのです。


これはいったい何故なのか?… と想像力を働かせますと、特に会津若松城の方が天守と共存し続けたこと、そして江戸時代にはご承知のとおり、城主といえども天守にめったに登れなかったこと等々を踏まえれば、その裏側の事情を推測できるのではないでしょうか。


すなわち、これらの御三階は、元々は、城主がてっとりばやく城外を見晴らすため、御殿の屋根を上回る「三階の高さ」に上がることのみを唯一の目的とした建物であって、したがってその建物が、家臣や領民から「見られる」可能性は皆無だったのではないか…… 

だからこそ、そういう建物(本来の御三階)は外見を度外視しても、まったく構わなかったのではないか……

といった裏側の事情が思い浮かぶのです。




【超!大胆仮説】

 外見を度外視することから「層塔型」は誕生したのではないのか





ここで是非とも、想像してみていただきたいのですが、山頂の領主の館に望楼を載せたスタイルが「天守の原形」であったとしたら、そういう支配の象徴は、新たな領地の家臣や領民からの視線に耐えるためにも、破風やら何やらの装飾は欠かせなかったことでしょう。




しかし、そうした天守とは別途に、城主一人がてっとりばやく城外を見渡す設備として、御殿のすぐ脇などに「御三階」を新開発していたとすれば、「見られる」可能性のある最上階の屋根や欄干さえそれらしくあれば、あとの一階や二階の構造体は、至極、単純で良かったのではないでしょうか。


しかも、そういう最上階ありきの建物には「真四角」が好都合であったのかもしれません。

何故なら、仮に最上階を天守と同様の「三間四方」とした場合は、そのまま可能な限り単純 かつ最小のスペースで階を重ねれば、おのずと逓減(ていげん)率は少なめで、二階や一階も真四角にならざるをえないからです。


つまり今回の記事で申し上げたいのは <層塔型の誕生の発端だけはそういうことだったのかもしれない> という可能性でして、層塔型の誕生と、御三階やその本来の目的、真四角という平面形は、すべてリンクした事柄だったのではないでしょうか。


で、それはいつ発生したのか? と申しますと、冒頭イラストの安土城「三法師邸」の建物が5間四方であり、主殿のすぐ脇にあって、山麓を見渡すに絶好の位置に建ち、なおかつ、失われた七重天守の「代用」と人々に見られかねない歴史的立場を兼ね備えていたことに、どうにも注目せざるをえないのです。…


かくして、まったく意図せざる過程の中から誕生した「層塔型」が、江戸時代になると逆に、いくつかの政治的な理由から、天守の形態として積極的に好まれるようになった、という可能性については今更申し上げるまでもないでしょう。

そこにはおそらく、徳川家康の好みも反映したでしょうし、また諸大名の側の政治的な都合もあったことでしょう。

そこであえて一つだけ申し上げるなら、大名らは、平面を真四角にして「御三階」と名付けておけば“政治的に角が立たない”という半ば確信犯的な意図のもとに、本来は別用途のはずの「御三階」という名称を、実質的な天守に援用(悪用?)し始めたのではなかったか… という疑いさえ、私なんぞは感じております。



本来の御三階が外見を度外視したものなら、これは「半分正直」ということか…

弘前城の御三階櫓(明治以後に「天守」と呼ばれる)


(※南西側から見たところ/左が本丸内部を向いた壁面、右が二ノ丸側の壁面)





【では最後に、内容が未定だった2013年度リポートのお知らせ】

さて、今回の記事で申し上げた超!大胆仮説をさらに発展させまして、現在、以下のような内容を2013年度リポートの候補として検討中です。

《仮題》 領国統治の城(聚楽第チルドレン)と層塔型天守の完成へ

     〜聚楽第「御三階」を考える〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年09月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「本能寺の変」後の安土城には初の「御三階」が?






「本能寺の変」後の安土城には初の「御三階」が?


劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日(8月31日公開/配給:ギャガ)

「本能寺の変」後も2年以上存続した安土城の仮想イラスト


前々回の記事で「駿府城天守」の話題がやや一段落したところで、この隙間のチャンスに、これまで掲載できなかった話題を是非ともご紹介したく存じます。

上の仮想イラストは、安土城の大手道をめぐる5月の記事でご覧いただいたものですが、これは「本能寺の変」後に、もしも安土山麓に“羅城門級”の巨大な大手門があったらどういう風に見えたか… という仮定の様子を描いたものでした。




<大手道の左右の曲輪は、「本能寺の変」後には
 三法師(さんぼうし)邸になったのかもしれない、という千田嘉博先生の指摘>







さて、ご存じのとおり安土城は「本能寺の変」後も、山頂の主郭部がナゾの炎上をとげたものの、それから2年以上、織田家の本城として使われたことが判っています。

その間には、かの清須会議で織田家の家督を継いだ三法師(さんぼうし/織田秀信)の屋敷が、城内に新設されたということが文献にあるものの、それがいったいどこに当たるのか、滋賀県の発掘調査報告では全く特定されませんでした。

しかしこれは「灯台もと暗し」と申しますか、あまりにも近く、目の前にあり過ぎて見えなかった… ということではないのか、という指摘もあります。


(千田嘉博『信長の城』2013年より)

ところで山腹−山麓武家屋敷は、信長の安土城時代の重臣屋敷とだけ捉えてよいのでしょうか。
わたくしは「伝羽柴秀吉邸」「伝前田利家邸」などは、一五八二年(天正一〇)の安土城落城から同年一二月までに整備した三法師(織田秀信)と織田信雄の御殿の一部となって、信長時代の重臣屋敷とは異なった使い方をしていたと考えています。
(中略)
たとえば「伝羽柴秀吉邸」下段曲輪の豪壮な櫓門は、発掘の結果、下層の建物を埋めたのちに新たに建てた門と判明しています。
突出して立派な門は、三法師・信雄御殿造営にともなって改修新築されたものとすれば、上段と下段曲輪をひとつの武家屋敷と無理につなげて考える必要もないのです。



よく見れば三者三様… 伝羽柴秀吉邸の復元図とその「豪壮な櫓門」(一番下やや左)

(左図:現地の説明板イラストから / 中央:旧滋賀県安土城郭調査研究所のCG /
 右図:三浦正幸復元・株式会社エス制作のCG をそれぞれ引用しました)


千田先生がおっしゃった「豪壮な櫓門」の新設のことや、これまで「伝羽柴秀吉邸」と一括りに言われていた場所が、実は直接に行き来できない二つの別個の曲輪であったこと、さらには、この一帯が「三法師(織田秀信)と織田信雄の御殿の一部」になったのかもしれない、という千田先生の指摘はたいへん興味深く、多くのイマジネーションを生むものです。

(※ですからご覧の「豪壮な櫓門」は、織田信長の存命中は、違う状態であった可能性もあるわけです)

そこで私なんぞが何か申し上げますと、“まーた余計なことを”と舌打ちされそうですが、やはりどうしても気になって仕方のない大手道の“ある構造”と、そこから導かれる「三法師邸」の驚くべき可能性について、今回もまた、あえて申し上げてみたいのです。



なぜか「大手道」両側の門(赤丸)は、左右が対になって、ピタリと向き合っている…

(※オレンジ色=発掘調査で想定された主な建物、ただし一番右上は現ハ見寺の建物をとりあえず描画)


このように左右の門が決まって必ず向き合う、という曲輪の造り方は、他の城郭や山岳寺院でもポピュラーな手法だったのかどうか、たいへん気になって来ました。

そこで例えば、安土城と同じく、直線的な城道の左右に曲輪が並ぶ犬山城はどうだったか?と確認してみますと、下図の曲輪群のうち、「桐の丸」と「樅の丸」は向き合う入口が近かったものの、伝来の城絵図では門の位置ははっきりとズレて描かれていて、安土城ほどにピタリと向き合う手法ではなかったようです。




そして遺構が崩れている小牧山城や近江八幡城では、左右の曲輪の門がピタリと向き合う可能性は、ひょっとすると一、二箇所はあるのかもしれませんが、とても断定はできない状態ですから、安土城大手道の門の位置は、そうとうに意図的であるように感じられてなりません。



【妄想的仮説】もしも、赤丸の位置に前代未聞の「コの字形 渡櫓門」があったならば…




「まさか…」というご感想はもっともでしょうが、ご覧のように左右の櫓門を、幅1〜2間・長さ5間ほどの渡り廊下(もしくは太鼓橋)で空中をつないで、「伝羽柴秀吉邸」と「伝前田利家邸」を自由に行き来できる形になっていたとすれば、この一帯の使い方には、劇的な変化があったのではないでしょうか。

つまり <大手道左右の曲輪は一体化して使われた> という可能性を、ピタリと向き合った門の位置が、物語っているのではないか… と申し上げてみたいのです。

そしてこれは、「豪壮な櫓門」の向かい側の、「伝前田利家邸」の門の遺構が完全に失われていて、復元は不可能、という悪条件にも支えられた仮説であることを白状しますが、この仮説を推し進めた場合、一帯は、全体がひな壇状に下段(表)〜上段(奥)になっていたようにも思えて来ます。


【妄想的仮説その2】大手道左右の曲輪は一体化されて<下段・中段・上段>に??

(※これならば「伝羽柴秀吉邸」が二つに分離されていた積極的な理由にもなるのではないか)

妄想的仮説の「コの字形 渡櫓門」の位置は、現在の拝観料受付処のすぐ目の前になる…

(※この写真はサイト「Yahoo!トラベル」様からの引用です)





<で、最後にもう一言…
 各復元図で隅櫓とか台所とされている建物の位置は、当サイトが申し上げた来た
 「詰ノ丸(奥)の左手前隅角」という、天守の位置に当たるのかもしれない>








(※位置が「左手前隅角」じゃない! とのご批判は承知の上でご覧いただいております)

(※「御三階」以外の建物は旧安土城郭調査研究所の推定などを参照しました。その中でも
特に、中段と上段の間に「懸造り」があった点は要注意ではないでしょうか?)


(次回に続く)




劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日(8月31日公開/配給:ギャガ)


余談)さて、映画の『タイムスクープハンター』ですが、封切り日に映画を観るなど生涯初ではないかと思いつつ、誘惑にあらがえませんでした。

簡単にネタばらしになるような論評は避けまして、観終わった瞬間にヒラメいたのは、問題のナゾの炎上は、山頂の主郭部が“すべて”焼け落ちた点にこそ、本当の、事の真相が隠されているのではないかと、改めて感じた次第です。

と申しますのも、伏見城にしても、大坂城にしても、城内に寝返る者などが出て「落城」という形に陥ると、本丸周辺がまるごと全焼したりしたわけですが、一方では寛永度の二条城天守のように、落雷で焼失しても本丸御殿が延焼しなかったケースもあったわけで、両者のメカニズムの違いがもっと解明されるといいのではないでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年06月09日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!イラスト犬山城二重天守に見る、原初的な姿は「天守≠高層建築」






イラスト犬山城二重天守に見る、原初的な姿は「天守≠高層建築」


犬山城の直線的城道「岩坂」


前回の犬山城からたどった独自仮説は、一つの拠り所として、針綱神社の遷座(現本丸にあった針綱神社が築城のために遷座した年)が天文6年であると、神社側が由緒を表明している点を重視したものです。

と申しますのは、織田信康時代の犬山城は三光寺山(後の三ノ丸)にあったという考え方も強いのですが、仮にその場合であっても、幕末まで「直線的城道」の史実をたどれる城としては、犬山城の他には検討材料が無く、この観点からの犬山城の貴重さに変わりはないはず、という点をまず申し添えたいと思います。


さて、その犬山城の天守と申しますと、例の「金山越え」の件など、現存十二天守の中でもいちばん謎の多い天守ではないでしょうか。


ご承知のとおり、様々な古文書に、美濃金山城(兼山城)から天守などが犬山城に移築されたという話(金山越え)が記されていますが、現にブツがのこる天守については、昭和の解体修理のおりの調査で、その話は否定されました。

ですが、それにしても、現在見られる天守の三重目(3階4階)が無かった状態(最短でも慶長期の約20年間)というのは、いったいどんな姿をしていたのか… これは城郭ファンの興味の的の一つと申し上げていいでしょう。


現状の犬山城天守


この件について、先の調査報告書は、二重目の屋根上に「果して望楼の如きものがあったかどうかも判明しない」としていて、より小さな望楼が載っていた場合の柱位置(小屋束穴)を検討してはいるものの、結局、それらは単に屋根を支える小屋束であった(つまり二重目の屋根上には何も無かった)可能性もあって、確たることは言えないと結論づけています。

ところが今回、こうして犬山城の資料をいくつか見直しているうちに、ふと、アレレッ…と思い当たる事柄がありまして、しだいに作画意欲が沸いて来て、またまた妄想的なイラストを描いてしまったのです。




<文献にある「天守上一重は…御再興」という文言に対するインスピレーション>




(『視聴随筆』1848年より)

天守上一重は宗心公御再興、欄干と御好にて成就す、夫れ故に二重目より下は皆鑓かんな削りにて兼山より移所なり、尤も御風呂、下水堀も宗心公御再興となり


これは幕末に書かれた『視聴随筆』の注目される部分の文言でして、これによって犬山城天守は、「宗心公」成瀬家の初代城主・正成が、江戸初期の元和4年から寛永2年の間に「天守上一重」すなわち望楼を増築したとされています。

で、ご覧のように文中では「御再興」と表現されていて、この「御再興」という言葉は、普通に考えますと、かつても望楼があったという意味になるでしょう。

しかし今回、ふと気づいたのは、昭和の解体修理で判明した、天守の旧観に関する知見を改めて突き合わせますと、「御再興」とは、通常の意味ではなくて、ちょっと特殊な使い方であった可能性もあるように感じられたのです。



旧観1)破風内は木連格子だった / 現状は三重目が木連格子、二重目が漆喰塗込


二重目の屋根の破風は、現状は白漆喰の塗込めになっていますが、この漆喰を解体修理の時にはがしたところ、中から墨塗りの黒い木連格子(きづれごうし)が姿を現したそうです。

ということは、現状では黒い木連格子の破風は三重目の屋根にありますので、要するに、かつての二重目の破風の様式が、望楼の増築とともに三重目に移され、その代償であるかのように、二重目はわざと漆喰で塗込められて隠された、という風にも言えそうなのです。



旧観2)軒裏は素木(しらき)だった / 現状は三重目が素木、初重・二重目が漆喰塗込


また屋根の軒裏についても、同じような事が起きていて、現状の軒裏は三重目が写真のとおり素木であり、一方、初重と二重目は漆喰塗込になっています。

ところがこれも、漆喰をはがしたところ、当初は素木であったことが判明し、つまり軒裏についても、望楼の増築に合わせて、かつての様式を望楼の方に移して、その代償のごとく初重・二重目の素木は塗込めて隠してしまった、とも言えそうなのです。



旧観3)黒い下見板の無い時代があった! / 現状は三重目だけ柱を見せた真壁


そして驚くべきことに、この天守の特徴の一つでもある「黒い下見板」が、無かった時代もあるというのです。


(『国宝犬山城天守修理報告書』1965年より)

外部の腰下見張りも後世修理の際施されたものであり、当初は縁切目長押上まで壁であったことが判明した。
何時頃下見張りに変更されたか判明しないが柱の風蝕状況その他からみて江戸末期の附加とするのが妥当と考えられる。

(中略)
修理前のものは明治震災の復旧になるもので、今回修理の際それ以前の下見板が発見されたが、それが当初のものであるかどうかは判明しない。


この結果は城郭ファンにとってまことに意外で、文中の「縁切目長押」とは、壁面のいちばん下の、縁などとの間に入れる長押ですから、かつては初重が全面「壁であった」時代があると判ったのです。

そして報告文のとおり「それ以前の下見板」も見つかったものの、「柱の風蝕状況」がある以上は、下見板は長い間、それが無い時代が続いたことの証拠であり、その間、初重や二重目はどうなっていたかと言えば、またもや三重目と同様の(否、三重目だけに遺された?)柱を見せた「真壁」であった可能性があるわけです。



以上のとおり、調査の知見を改めて突き合わせますと、文献の「御再興」という文言は、例えば <二重目の主な意匠を三重目に移して再現した> という意味で「御再興」としたのではないのか… という風にも思えて来たのです。

すなわち、それまでの状態は、二重目屋根の上にはやはり何も無かったのであり、逆を申しますと、当初の二重目は、それだけですでに特殊な位置づけ(※初重と同規模でありながら立派に望楼!?)だったのではないのか、と。


もしこの見方が正しいならば、かつての犬山城天守は、絵画史料にある越前大野城の二重天守と似たようなプロポーションであり、報告書の他の知見によりますと、屋根は柿(こけら)葺きなど板張りであった可能性が強く、また東西の妻破風はそれぞれ半間ずつ中央に寄っていた、等とありますので、それらを踏まえてイラスト化してみました。


慶長期の、三重目が無かった「犬山城二重天守」を推定復元!!

(※木曽川の対岸、北西側から見上げた状態)


現状とまったく印象が違うので驚かれたことでしょう。

でも、犬山城の別名「白帝城」は、元来は地形的な連想から云われたのでしょうが、外壁の色としてはこの方がずっと相応しいのかもしれません。


で、おそらく、ここで申し上げるべき事は、天守の要件とは何だったのか、という問題ではないでしょうか。


これまで当サイトは、天守の「形」の要件は「重数」では全くなく、つまり規模や床面積に関わらず、ひとえに、織豊系城郭の求心的な曲輪配置の頂点に位置し、基壇にちなむ台などを伴い、織豊権力の出現を領内(新領地)に視覚的に示すため、どこからも見えるように天高く、山頂などの「しかるべき位置」に築かれた、主君の館の表現(政治的モニュメント)だったのだろうと申し上げて来ました。

ですから、とりわけ原初的な姿は「天守≠(ノットイコール)高層建築」と思われ、ご覧のような二重天守はもちろん、場合によっては平屋建ての天守も充分にありえたのではないでしょうか。



(※注/手前の小さな櫓台上の千貫櫓は、描写を省略しております)


しかしそうなりますと、よく言われる <望楼型天守が天守の「型」の始まり> ということでもなかったことになってしまい、このままですと、望楼型に先行した型、例えば「二重同規模 望楼型」とでも言うべき型があった… などという超過激な話になりかねず、まったくもって冷汗モノです。


でも、よくよく考えますと、「二重同規模 望楼型」というのは、その後の天守の二重目までの構造(例えば岡山城天守〜広島城天守〜名古屋城天守など)を見た場合、それらの原型としては、案外、ひょっとすると…



ご覧の松江城天守も、(手前の付櫓を除く)本体の初重と二重目が同規模

これらの形の由来は未解明のまま









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年05月26日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説






大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説


“天皇の行幸道”に疑義が投げかけられた安土城「大手道」

(※画面左側が伝羽柴秀吉邸跡の入口、右側が伝前田利家邸跡の入口)


前回末に予告しました「駿府城天守」などの話題に、出来るだけ早く戻りたいとは思うものの、この機会に申し上げないとチャンスを逸してしまう「大手道」の独自仮説を、この際、紹介させていただくことにします。


上写真でご覧のとおり、千田嘉博著『信長の城』が巻き起こしたホットな論争として、安土城「大手道」の直線部分は、これまでどおりに城内と考えていいのか? いやそうではなく、織田信長自身の城は、厳密には「大手道」が屈曲し始める地点から上の山腹以上であり、直線部分はいわば側近屋敷群をつらぬく城道(≒城下の大手道)なのだ、という大きな見解の相違があります。

確かに千田先生の「戦国期拠点城郭」論や、同じく直線的な城道をもつ近江八幡城などの例を踏まえますと、後者の、重臣屋敷をつらぬく中心街路の一種と考えた方が合理的と言えそうでして、そうした類似例をもとに、千田先生は「天皇の行幸道」説に強く反対されているわけです。


ですが、この論争については、そのどちらとも言えない中間説といいますか、ある特殊な考え方も可能なのではないでしょうか。


と申しますのも、当サイトは千田先生の「天主の意味」等には最大級の賛辞をおくる立場ですが、その反面、おそらく『信長の城』読者の多くの方々と同様に、 <アレ? では何故、岐阜城だけは「大手道」を造らずじまいなのか…> という率直な疑問を感じております。

ひょっとすると岐阜城にも、どっこい岐阜公園の平場や市街地の地中に「大手道」がまだ埋まっているのかもしれませんが、改めて類似例の城と比べますと、こんなことも言えそうです。


直線的城道( 小牧山城 / 近江八幡城 / 犬山城 )は、どれもおおむね南向き

しかし岐阜城は、千畳敷や城下が大きな金華山の西側のふもとで…


というように「大手道」にはまだ何か、不確定の要素が隠れていそうな気もしますし、岐阜城じたいの位置づけにも懸念(…案外、小牧山城の方が信長の意中の城であり、岐阜城は予想外に早く手に入ってしまった城、という千田先生の指摘)が生じるのかもしれません。

で、今回の記事は、ホットな論争の真っ只中に、またまた妄言?を差しはさむことになるのか、戦々恐々の思いで独自仮説を申し上げます。




<大手道の正体!!…犬山城からたどる「直線的城道の作法」という仮説。
 それはやはり、城主より上位の人物を、曲輪群をスルーパスして迎えるための
 御成(おなり)道ではなかったか>





犬山城の天守内に展示された版画


類似例として挙げた三つの城のうち、小牧山城と近江八幡城は織豊期に廃城になってしまったため、もはや「直線的城道」の具体的な使われ方を確認する手立てはありません。

ところが、幕末まで現役の城であった犬山城ですと、「直線的城道」に関する史実を、多少、ひろうことが可能なのです。


上写真の版画で申しますと、画面中央の「岩坂」と呼ばれた直線的な城道が、天守のある本丸に向かっていて、それを「杉の丸」「桐の丸」「樅(もみ)の丸」という三つの曲輪が、直進する敵を左右から挟み撃ちにするかのように並んでいます。

こうした曲輪の配置は、安土城や近江八幡城ともよく似ていますが、ご覧の構造が出来上がったのは、天文6年の織田信康(織田信長の叔父)の築城時とも考えられるでしょうから、類似例の中ではいちばん古い事例になりそうです。


そして重要なポイントは、築城者・織田信康という武将の人物像だと思われ、ご承知のとおり信康は、信長の父・織田信秀のすぐ下の弟であり、弾正忠家の家中での役回りも兄信秀に従って軍功をあげるなど、補佐の役回りに徹した人であったようです。

しかも犬山城は、その後も、めまぐるしく替わった城主のほとんどが“そんな立場の”武将たちであり、江戸時代においても、9代続いた城主の成瀬家が、明治維新の直前まで尾張徳川家の付家老であったことはよく知られています。




そして上の版画でもう一点、是非ともご注目いただきたいのは、直線的城道「岩坂」の本丸のちょうど反対側になる曲輪「松ノ丸」の御殿なのです。

この御殿の由来について、例えば柴田貞一著『犬山城物語』では…


(柴田貞一『犬山城物語』より/『犬山市資料』第三集1987年所収)

雑話旧事記に依ると、天守閣前の広場、現成瀬正肥記念碑のある辺に、「秀吉が大阪政所を引移し、其の御殿の荘厳古今無双なり」とある。
僅か三里を隔つ小牧山の強敵家康を前にして、超栄華な生活に秀吉の余裕綽々
(しゃくしゃく)たることが偲ばれる。
この御殿は後世成瀬三代正親の時に、下段の現針綱神社参道のある広場へ移され、松之丸御成之御殿と称せられた。
(おし)い哉(かな)、天保十三年余坂町よりの出火に焼失した。


とあるように、幕末まで松ノ丸にあった御殿は、じつは小牧長久手戦で羽柴(豊臣)秀吉が犬山城を本陣とした時の建物で、その頃は本丸にあったものを、江戸初期に城主の成瀬正親が松ノ丸に移築したと言うのです。

その様子を別の城絵図(上記書掲載)で確認しますと…




念のため繰り返しますが、小牧長久手戦の緒戦で羽柴勢の池田恒興が犬山城を攻略したのち、そこに入城した秀吉が御座所とした建物が(直線的城道「岩坂」の突き当たりの)本丸に長らくあったものの、それを江戸時代に、岩坂より手前の松ノ丸に移築したというのです。

ただ、この移築には色々と意味があったようで、何故なら江戸時代には「松ノ丸御殿」をはじめとする御殿群が、あたかもビリヤードの玉突きのごとく、外側の曲輪へと移築されたからです。その経緯について上記書では…


(上記書より)

天守閣前にあった、豊公由緒(記述)の松之丸御殿を下段に移し、下段に在りし居館を毀(こぼ)ちて三光寺地域内に移した(現犬山神社、公民館等の在る所)。これを西御殿と称した。
松之丸御殿は尾張公を迎える時の専用御殿となり、西御殿は藩主が、家臣を接見したり公式行事を行わるる所となる。
別に此の西(三光寺山下)に三光寺御殿を造って居館とせられた。



どういうことかを先程の城絵図で改めて図示しますと、文中の「西御殿」になった建物(「下段に在りし居館」)は、成瀬家の前の城主・平岩親吉(毒まんじゅう伝説のあの家康近臣)の屋敷でもあったと伝わりますので…




これをご覧になりますと、お察しのとおり、要するに、直線的城道「岩坂」の周囲の御殿群が、ビリヤードの玉突きのように移動しただけだということが想像できるでしょう。

ということは、これらを逆算しますと、御殿群の元々の配置や、その全体の構想を知ることも出来るはずです。


以上から推測できる結論


ご覧のように、史実がつかめる犬山城の場合、直線的城道の突き当たりの曲輪にあった建物は、その後もずっと、城主よりも上位の主君を迎える「御成(おなり)御殿」であり続けたわけです。

一方、城主の居館や藩の政庁は、直線的城道の手前の曲輪にあるのが本来の姿だったわけです。


したがって、今回申し上げたい独自仮説というのは、「直線的城道(大手道)」は元来、城主よりも上位の人物を、本丸の御成御殿に最短距離で迎え入れるための御成道ではなかったか、ということなのです。


言うなれば、織豊系城郭の「求心性」「階層性」をつきぬける(飛び越える)アクセス手段として「直線的城道」という作法が(山岳寺院などを参考に)編み出された、と考えることは出来ないでしょうか。

そしてそれが織田家の築城に始まったとすれば、まことに興味深いことでしょう。


安土城での信長の動機としては、自分よりも上位の人物(天皇)に、いちいち側近屋敷の曲輪の門をくぐらせたくない、という心理が働いたことが想像できるでしょうし、つまり信長は自身が造り出した城の「求心的構造」のデメリットに気づき、そこで織田家伝来の作法によって、安土山南面で対策を講じた、ということではなかったかと思われるのです。




<この独自仮説は、いま話題の小牧山城の「大手道」にも当てはまるのか!?
 もしそうだとするなら、そこを通るはずだった「上位の人物」とは…>





主郭を囲む巨石の石垣が確認されて以来、鼻息が荒い小牧市のホームページより


小牧山城は、信長が一からデザインできた城と城下町として、<小牧山城−安土城> という二つを同列にとらえる考え方が、千田先生の著書などで提起され、あたかも、信長は小牧山から天下に覇をとなえる可能性もあったかのような論調が誌上をにぎわせています。

では両城に共通の「大手道」はどうなるのか、と言えば、当ブログは過去に中嶋隆先生の「南麓の城下から見上げたときの印象」や視覚効果という解釈を引用させていただいたものの、今回申し上げた仮説では、小牧山城もまた、誰かを迎えるための大手道であったことになります。


それは誰なのか… と想像をめぐらせますと、信長は築城の4年前(永禄2年)、尾張をほぼ統一したことの報告のために上洛し、時の将軍・足利義輝(あしかが よしてる)への謁見を果たしました。

そして翌年、桶狭間の戦いに勝った信長は、永禄6年の小牧山築城へと歩を進めたことになります。


室町幕府十三代将軍・足利義輝

永禄6年頃は将軍権威を高めて絶頂期に。が、永禄8年に二条御所で戦死


(※画像はウィキペディアより/国立歴史民俗博物館蔵)


信長がその後、新たに攻略した岐阜城で「天下布武」印を使い始めたのは、この義輝の戦死からわずか2年、永禄10年のことと言われます。

ならば冒頭で申し上げたように、何故、岐阜城だけ大手道が無いのか… そこには信長の巨大な失意と、怒りが、無言のうちに隠されているのではないでしょうか。








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2009年09月20日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか





安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか


今回から天主の話題に戻ると予告しましたが、安土城「大手道」が何故あれほど大規模なものになったか?という話を忘れていたため、今回だけ、どうかご容赦下さい。

で、その「大手道」ですが、以前の小牧山城の倍近く、約9mもの道幅で築かれています。

発掘調査関係者の報告ではこれを「天皇のための大手道」と考証していて、そうなりますと、実際に天皇の安土行幸があった場合、いかにしてあの石段を登るように想定していたのでしょうか?

そこでポイントになるのは、やはり“天皇の乗り物”でしょう。


例えば、京都・時代祭の名物の一つ、桓武天皇の御鳳輦(ほうれん)


行幸の記録によりますと、織田信長の頃の前後では、室町時代に北山第などへの行幸に使われた乗り物は「御こし」「御輿」と記され、すぐあとの聚楽第や二条城への行幸では「鳳輦」と記されています。

でも『聚楽行幸記』には「鳳輦・牛車、そのほかの諸役以下、事も久しくすたれることなれば、おぼつかなしといへども、民部卿法印玄以奉行として、諸家のふるき記録・故実など尋ねさぐり、相勤めらる」とあって、すでに室町時代の詳細が分からず、豊臣秀吉の周囲があわてた様子もうかがわれます。


当時の鳳輦を描いた絵画としては、例えば国立国会図書館の貴重書画像データベースにある「寛永行幸記」や松平定信の「輿車図考」などが参考になるでしょうし、寸法のデータとしては、静岡市文化財資料館にこんな鳳輦が展示されているそうです。

御鳳輦 1基 方輿125.0 高さ72.0 屋根114.0 柄長394.0
徳川家光公寄進 浅間神社収蔵品



いずれにしましても、鳳輦の柄の長さは4m前後、それに片側5人ほどの仕丁が取り付き、左右と中央の前後、そして周囲にも配置して、総勢20人ほどで担いでいく、という形が一般的だったようです。


もちろん行幸は群集が見守る盛事ですから、安土城に到着して「大手道」の石段にさしかかったとしても、そのまま、鳳輦を担いで登ったはずでしょう。

おそらくは鳳輦を横向きにして、仕丁らが左右に並ぶ形で、ゆっくりと登るつもりだったのではないでしょうか。


そうした姿を想像するとき、初めて、壮大な規模の「大手道」が安土城にとって不可欠の舞台装置であった、と理解できるように感じられます。


二条城 東大手門


さて、城郭への行幸と言えば、ご覧の二条城の東大手門は、寛永行幸の際に後水尾天皇の鳳輦が通過した門ですが、ただ当時は、このような姿ではなかったことが知られています。

門の上の櫓部分がまったく無く、門の柱や冠木の上に直接、屋根がかけられた「高麗門」などの単層の門だったのを、行幸ののちに櫓部分を増築して、現在のような櫓門になったのです。

東大手門は二条城の第一の門であるにも関わらず、何故、単層の門にしていたのか… それは、櫓門では、天皇の頭の上に床(つまり侍の足!)を置く形になってしまうから、と言われています。


このように、幕藩体制の確立に向けて、朝廷に抑圧的な政策を取り続けた徳川幕府でさえ、鳳輦の通過する門の形には配慮していたわけです。


となりますと、例の安土城の「大手門」についても、織田信長が“本気で”天皇を迎えようとしていたなら、それを櫓門にするという選択肢は無かったのではないでしょうか??

仮に、前回の「信長廟の門構え説」から百歩譲って、信長の存命中から「大手門」があったとしても、それが櫓門であった可能性は、極めて低い、と言わざるをえないようです。






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2009年09月13日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?





続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?


安土城・伝二の丸の上段にある「信長廟」


写真は織田信長の一周忌のために(羽柴)秀吉が建立したものと云われ、一説には、一番上の丸い石がいわゆる「盆山」ではないかともされています。

ここで、本能寺の変から後の、安土城の主な出来事を挙げてみますと…


天正10年6月  本能寺の変の直後、謎の出火で主郭部が全焼
天正10年同月  山崎の戦いに勝利した秀吉、織田信孝と共に入城
天正10年8月  秀吉、丹羽長秀に城の修復を催促。秋ごろ完成
天正10年12月 織田家の跡目を継いだ三法師(さんぼうし)が入城
天正11年正月  三法師の後見人・織田信雄が城下町に掟を発する
天正11年2月  秀吉、「信長廟」を建立
天正12年12月 秀吉、三法師を坂本城に移し、廃城となる



このように安土城は、信長亡き後も、なお2年半にわたって織田家当主の居城として使い続けられました。

その間、主郭部は「信長廟」が建立された他は(神聖な領域として)手付かずだったものの、年表の「三法師の御殿」がどこに建てられたかは今も不明で、この時期の造営が城内のどこまで及んだのかも、明らかになっていません。

あえて極論しますと、話題の「大手道」でさえ、次のようにチョット不思議な要素を抱えているのです。


「大手道」は途中から信長廟に向かっている…


巨大な天主が山頂にあった頃(つまり信長の存命中)、登り始めの南側はその天主を目指して登っていた「大手道」が、途中からやや左にそれてしまいます。

しかもその方向がちょうど「信長廟」に向かっていて、さながら廟所の参道のようにして、例えば豊臣秀吉の阿弥陀ケ峰、徳川家康の紅葉山東照宮、伊達政宗の経ケ峰など、各地で神格化された武将らの“廟所の長い石段”にも似た趣を見せてしまうのは、何故なのか…

阿弥陀ケ峰の石段(京都市/明治以後の整備による現状)



まぁいくらなんでも、あの大規模な「大手道」が、本能寺の変のあとの修復箇所であるとは申しませんが、こうした不思議な一面も現にあるのです。


一方、前回申し上げた大手門の「四つの門が一列に並ぶ」発掘成果は、城郭としていかにも異様であり、城を見慣れた感覚からしますと、「ここは城ではありません」というシグナルを当時の人々にも与えたことでしょう。



安土山の南側にはハス池もあり、辺りは静寂な空気に包まれていた?


想像してみていただきたいのですが、入口が沢山ある、というのは、それだけで“来訪者を迎え入れる”空気を漂わせますし、やはり何か「城郭」とは別種の構想が無いことには成立しえないものです。

そこで前回、これはひょっとして、本能寺の変の後に整備された「信長廟の門構え」の可能性はないのですか?? と申し上げたわけです。


最近の発掘調査では、四つの門は城外との境界線にあるのではなく、城の範囲はもっと南側の水堀まであったことが判明しています。

したがって四つの門と石塁は、城内に設けられた“第二の境界線”であって、城の防禦面から見ても、ある時期までこれが存在しなかったか、より簡便な土塁であった可能性は、否定できないように思われます。


そして冒頭の年表のように、本能寺の変後の安土城は、すべからく秀吉の影響下にあったことが明らかで、この点から、正対した門が三つ横に並んだ理由も説明できそうです。

すなわち、これらの門は、本能寺の変で落命した、織田家の人々を示したのではないでしょうか。

彼らの犠牲をそういう形で強調することが、仇敵の明智光秀を討った秀吉の立場を不動のものにするうえで、「信長廟」の建立とともに必要とされたのではないか、と申し上げたいのです。


写真は石清水八幡宮の楼門、手前に唐破風の屋根庇が突出している


まず中央の大手門は、文句無く、山頂の「信長廟」を意識した、信長自身の廟所の門であったように思われます。

発見された礎石から、間口11mの門が“半ば表に突き出る形で”建っていたようですが、そんな形は城の櫓門ではありえないため、やはり突出した屋根庇のある楼門などを考えざるをえないでしょう。

また老婆心ながら、発掘調査で浮上した大手門の推定位置が「大手道」より少し東にズレているのは、ひょっとすると、「大手門」と「大手道の主要部分」と「山頂の信長廟」とが一直線上になるように“調整”した結果ではないかとも思われ、門をくぐった時にそうした場所に立てる工夫がなされたのかもしれません。


そして東側の門は、信長の後を追って戦死した嫡子、信忠(のぶただ)の廟所の門とされたように思われます。

ご承知のように信忠は三法師の父親であり、本能寺の変の戦場からあえて離脱しなかった姿勢が、信長とともに祀る対象として欠かせなかったのかもしれません。


さらに枡形門の脇にある西の門が、信忠とともに二条御所で戦死した一族衆、信長の末弟・長利(ながとし)や信長の五男・勝長(かつなが)を祀る廟所の門とされたのではないでしょうか。



これが四つの門を「信長廟の門構え」とした想定の概略ですが、重要なことは「内裏の三門に見立てた」という解釈にしても、これらの門の内側には、何もそれらしき関連の遺構は無い、という事実です。

四つの門は互いにすぐ内側の通路でつながっていて、その奥の敷地は、後世の撹乱のためか、もともと完成していなかったのか、何も発見されなかったのです。

その意味において付け加えますと、この「廟所の門構え」説では、廃城までの時間的な制約があったため、例えば“石塁と門が完成した時点で時間切れとなり、そのまま沙汰止みになってしまった”という皮肉なケースも考えうるのです。



では次回から再び、天主の立面を明らかにしていく話題に戻ります!!


【2013年4月25日補筆】
ここで申し上げた件については、新たなブログ記事で、安土城郭研究所の松下浩先生の注目発言をご紹介していますので、是非こちらもご参照下さい。






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2009年09月07日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?





異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?


前回、幻の「安土山図屏風」について、絵の概略のイメージを作ってみましたが、その左隻の方をシャルヴォア『日本史』の銅版画と比べてみますと、いくつかの発見があります。


上:安土山図屏風(左隻)イメージ / 下:シャルヴォア『日本史』銅版画


ご覧のとおり、双方の描写には共通する点が多々あるように思われ、中でも今回、特にご注目いただきたいのは“城道”です。

と申しますのは、銅版画で主郭部につながる城道は、現地のその周辺の道とおおよそ一致するように見えるからです。

例えば、銅版画の主郭部の虎口(本丸南虎口?)から出た城道が、山の斜面を西へ斜めに下ってハ見寺につながるところなど、良く似ています。




そして注目すべきはその下、両側に屋敷(曲輪)群が多数連なった「大手道(おおてみち)」と思しき城道も描かれている点です。

(※銅版画は道がややクネクネと曲がっていて、一見、西斜面の「七曲道」のようにも見えますが、急峻な「七曲道」の両側に屋敷群が連なることは無く、やはり「大手道」と見る方が自然でしょう。)


発掘調査後の「大手道」現状


「大手道」は平成元年から行われた滋賀県の発掘調査で姿を現し、御所の清涼殿と同じプランの礎石列とともに、歴史ファンの話題をさらった大発見です。

山の南斜面に長さ約180m、幅9mもの直線的な石段が続き、両側に石垣造りの曲輪跡が並んでいて、その上は左右に道が屈曲しながら主郭部に達しています。


発掘調査関係者の報告では、これは「天皇のための大手道」(滋賀県安土城郭調査研究所『安土城・信長の夢』2004)とされていますが、ただ、これほど大掛かりな城道でありながら、『信長記』類などの文献にはまったく登場せず、「大手道」の名称も当時のものではないという、やや留意すべき点もあります。



小牧山城にも「大手道」が…


そして、ここで指摘せざるをえないポイントが、「大手道」は織田信長の以前の城・小牧山城にも、ちゃんとある、という事実でしょう。


小牧山城は信長が美濃攻略以前の永禄6年、居城として築いた城で、山の南斜面に(道幅は安土城の半分ほどですが)約150mの直線的な「大手道」が築かれています。

小牧市教育委員会の中嶋隆先生は、発掘調査の結果から、「大手道」は一部の改修を除く大部分が信長時代のままと考えられるとし、そのねらいを推測しています。


「南麓の城下から見上げたときの印象や大手道を通って主郭へ至る途中での視覚を重視して、新しい装いを施した城を造り出そうとしたのではないかと思われる。」
(『信長の城下町』2008所収/中嶋隆「小牧城下町」より)


こうなりますと、「大手道」とは、信長の築城術において、どういう目的を与えられた城道なのか?という疑問が改めて浮上し、少なくとも“安土城だけの検討では解明しきれない”ように思えて来ます。



近江八幡城/直線的な城道の脇に並ぶ曲輪跡の石垣


(※例えばその他にも「両側に屋敷(曲輪)群をともなった直線的な城道」という点では、近江八幡城や犬山城などの例も思い浮かびます。)

(※このうち近江八幡城のケースでは、それは、城下町と、山の南斜面の中腹にあった城主・豊臣秀次の屋敷とを「最短」で結ぶための直線的な城道であり、一見すると「領国内の大名権力の集中」というテーマに深く関わる形態のようにも感じられます。)


その点では、小牧山城も似たようなもので、信長の築いた城下町が山の南麓約1km四方に広がっていたとされ、「大手道」は視覚的な効果はもちろんのこと、実際は、信長自身が城下町から山の鞍部まで馬で一気に駆け上がるための設備だったのかもしれません。


その意味でたいへん気になるのは、安土城「大手道」の石段が、踏み面(づら)を広くして築かれている点です。

これは各地の神社などでも見られる手法で、馬(神馬)がそこを駆け上がれるように、馬の歩幅に合わせて造られる石段です。


この石段の件は、信長の「大手道」とは本来、何だったのか? という命題に解明の光を当てる“物証”の一つとも思われるのですが、そうした中で、「大手道」の南端で思いもよらぬ発見があり、逆に“謎”が深まってしまいました。


それは日本国内のどの城郭にも例のない「大手門を中心に建ち並ぶ四つの門」です。


「大手道」南端の大手門跡周辺/この左右に門が一列に並んでいた


こうした門構えは、安土城の以前も、以後も、城郭では類似例がありません。

この謎の状況について、滋賀県の報告書類では「天皇を迎え入れるにあたり城そのものを内裏に見立てて玄関を内裏と同じ三門にした」(滋賀県安土城郭調査研究所『図説 安土城を掘る』2004)という解釈を行い、それに通用口の枡形門が加わって、四つの門が建ち並んだとしています。



しかしこれは、正直申しまして、やや無理のある拙速、のように感じられてなりません。


むしろ、もっと視野を広くして、あらゆる状況のバリエーションを想定して、解釈を下しても良かったのでは、と思われるのです。


そこで大胆な問いを申し上げますと、例えば、この「四つの門」は本当に、信長の存命中から、現状のような遺構が出来上がっていたのでしょうか??



例えば、江戸城内の紅葉山東照宮… 歴代将軍の廟所の門が並んでいる

(次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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