城の再発見!層塔型よもやま話 その1・その2


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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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城の再発見!層塔型よもやま話 その1・その2





層塔型よもやま話


このところ申し上げて来た「層塔型天守」に関わる複数の記事で、その行きがかり上、補足しておくべき話題が溜まって来てしまったため、今回はそれらをまとめて「層塔型よもやま話」とさせていただこうかと思います。



<話題その1 丹波亀山城天守もまた「過渡的」層塔型プロポーションであったということ>





ご覧のイラストと写真は、今年正月の記事でお見せした会津若松城の幻の七重天守を推定してみたイラストと、それがやや変則的な形の層塔型であるため、まるで古代エジプトの屈折ピラミッドのようだと申し上げた時の写真です。

両者の似た点は、ご覧のとおりの「見た目の勾配(こうばい)の屈折」でして、その後の最盛期の層塔型天守はこういう明らかな「屈折」は無くなる傾向になり、より一貫した逓減(ていげん)率で整ったプロポーションに変化しました。

そういう点で言えば、「屈折」というのは層塔型天守の過渡的な現象と言えそうですが、実は話題の丹波亀山城天守もまた、イラストの会津若松城に似た(…むしろ屈折ピラミッドの方に近い?)形状だったのです。



城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図

(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写


この件はかつて、我が国の城郭研究のパイオニア・城戸久先生が、論文の中で強調されていた事柄(ご参考→論文PDF/現在は有料)でありまして、近年よく諸書で見られる三浦正幸先生監修の復元立面図も同じ考え方であるものの、その解説文などでは殆ど触れられていない特徴なのです。


城戸先生は、『高山公実録』に採録された馬渕八十兵衛蔵書の中の数値に基づいて、上の略図を書かれ、「その各重の規模が明瞭である。しかして蓬佐文庫所蔵古図の11間とあるは天守石塁下方の寸尺とすれば妥当であり」という風に、初重の規模についても馬渕八十兵衛蔵書の「九間四尺四方」が正しいとされました。

となれば当然、この天守は層塔型でありながらも、ずいぶんと特異なプロポーションになるわけです。


【 推定 】見た目の角度の印象を補助線で強調してみれば…


城戸先生は同論文の中でさらに、「江戸期天守に至る過渡的形態を如実に示すものと言わねばならず、天守平面漸減の方法の発展を知る上に最も重視すべきものである」とまでおっしゃっていて、まさに、これを言わずして丹波亀山城天守は語れないだろうと感じる次第なのです。




<話題その2 猪瀬直樹(いのせ なおき)東京都知事の「まったくナンセンス」発言に触発されて作った合成写真をご覧下さい>



さて先日、猪瀬知事が都庁での記者会見で、話題の江戸城天守の再建問題について記者に問われて、「まったくナンセンス」とばっさり切り捨てたところは、私もたまたまTOKYO MXの放送で見かけました。

知事の考え方は「超高層ビルが林立する現在の東京で、高さではるかに及ばない江戸城天守を再建したら、おごそかな皇居の雰囲気を壊してしまう」というもので、知事はこの会見で明暦の大火の年号までスラスラと答えていて、発言は熟慮の上の結論という印象でした。

かく申す私なんぞも、当ブログで申し上げたとおり、結論は知事とほとんど同じであるものの、「高さではるかに及ばない」という部分はそうでもないだろうと思い立ちまして、こんな合成写真を作ってみました。



江戸城の寛永度天守は、現代の都市でも、そうとうに目立つ大建築だった!!

名古屋城天守・大阪城天守閣と本丸の地表面でそろえて並べると…



真ん中の江戸城天守は、江戸中期の再建計画用とも言われる都立中央図書館蔵の立面図を仮に使って、寛永度の規模のまま、見慣れた左右の天守と縮尺をそろえて合成してみたものです。


まあ、そもそも大阪城天守閣を「小せえ」とおっしゃる方々には何も申し上げられないのですが、この合成写真を作ってみて感じますのは、猪瀬知事の心配とは裏腹に、こんな大建築が皇居のド真ん中に出現すれば、むしろ <徳川が皇居を奪還したのか!?> と人々に感じさせるほどのインパクト(=まるで皇居を占拠したかのような感じ?)が出て来るのかもしれません。


しかもこれが「木造である」という点に日本人自身や外国人が驚嘆する可能性は大でありまして、老婆心ながら再建運動の方々に申し上げたいのは、少なくとも、この建物のアピールポイントは「江戸文化」などとおっしゃらずに、主眼を「木造技術の到達点」に変えるべきではなかったのかと。

と申しますのは、当時も中はガランドウであって、また地震国・日本が歴史的に生み出した大建築のあり方を示すものとしては、格好の事例かもしれないと思うからです。

(※ということでは、結局のところ、天守とはなんぞや、という命題も最後に強く問われるのかもしれません…)


そして完成予想CGについては、見せ方として、やはり大多数の日本人にとって見慣れた大阪城や名古屋城などと比べなければ、大きさがよく伝わらず、そうした点でさすがの猪瀬知事も多少の誤解をされたのではないでしょうか。




……でありますが、この意外に大きな視覚的インパクトを考えた場合は、なおさらのこと再建問題で気がかりになるのが、今上天皇の即位の礼において、もっとも重要な祭儀(神事)が旧本丸で行われたという経緯でしょう。


旧本丸に設けられた大嘗祭(だいじょうさい)の祭宮 / その上が現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)



いわゆる大嘗祭のハイライトは、ご承知のとおり、即位した天皇が深夜、一人で宮にこもり、神々と一体化するための秘儀と言われます。

その大嘗祭が今上天皇から東京(皇居内)で行われ始め、この先の開催地もまた旧本丸になっていく可能性があるわけで、それと再建天守との調和をいったいどう図れるのか、またそういう場所に大集団の見学者(外国人観光客)がズカズカとやって来る事態を許せるのか、という件は、これまた重大きわまりない問題でしょう。

ですから今後、日本の企業や皆様方に再建の寄付をつのる際は、そういう事情の説明が、絶対に欠かせないはずだと思うのです。…








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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