江戸城

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (260)



全エントリ記事の一覧はこちら

2017年9月
         
23
24 25 26 27 28 29 30

新着エントリ
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か (9/16)
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと… (9/1)
城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない (8/17)
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか (8/3)
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?… (7/20)
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している (7/8)
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか (6/25)
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か (6/12)
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧 (5/29)
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」 (5/19)
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応 (5/4)
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (20)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)


アクセスカウンタ
今日:1,296
昨日:1,742
累計:2,145,705


RSS/Powered by 「のブログ

2015年11月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!議論があった<江戸城の表門は半蔵門>説との関連で申せば…






議論があった<江戸城の表門は半蔵門>説との関連で申せば…


武州豊嶋郡江戸庄図(都立中央図書館蔵)をもとに作成


近年、<江戸城の表門は半蔵門>だという新説が話題になりましたが、これは竹村公太郎著『土地の文明』2005年や、同じくPHP文庫『日本史の謎は「地形」で解ける』2013年の刊行で幅広い層に知れわたったものでした。

しかしこの新説は、歴史好きやお城好きの人ほど、賛同者は多くなかったようで、それはご覧の寛永年間の江戸図のごとく、海側の大手門を城の正面とする根強い見方があり、それをくつがえすほどの説得力は無かったからでしょうか。

これに関しては私なんぞは、江戸の成り立ちと言うと、かつて鈴木理生先生が指摘した <寛永頃までの江戸は、オランダ流の手法に似た、海を埋め立てて造成した港湾都市であり、そのためオランダ東インド会社の本拠地・バタビアと非常によく似ている> という話の方をまず思い出してしまいます。


【ご参考】江戸にも、バタビアにもあった「八丁堀舟入り」

図19B(バタビアの絵図/鈴木理生『幻の江戸百年』より引用)



(鈴木理生『幻の江戸百年』1991年より)

図19Bはモンタヌス著『日本遣使紀行』(アムステルダム版、一六六九年=寛文九年刊)中にあるバタビア港である。
この一六一九年(元和五年)に建設された、オランダ東インド会社の本拠地の都市プランは、江戸と非常に似ている。

海岸に突出した「八丁堀」。そのつけ根の部分に、幕末に函館に築かれた五稜郭に似た、四稜の砲台があり、市内に縦横にめぐらされた水路と街郭は、江戸の河岸地帯を想起させる。

「八丁堀」の下に激しく砲煙をあげている帆船がみられるが、「八丁堀」の効果は、その砲撃が市街地を直撃するのを防いでいる。

(中略)
わざわざ江戸と赤道直下のバタビアの比較をしたのは、この時代の港湾都市には非常に共通する事柄が多いことを、この機会に再確認しておきたかったためである。

なお、バタビアとは現在のインドネシア共和国の首都ジャカルタの古名である。



鈴木先生の指摘はお読みのとおりでして、海と江戸城と言えば、当ブログでも、太田道灌の江戸築城の頃にさかのぼれば、海寄りの平川に架かる「高橋」のあたりが、舟運の荷揚げ地として城下の中心であったことに触れましたし、また徳川家康の江戸城についても、豊臣政権下では、東アジア制海権「城郭ネットワーク」の一翼をになう城であったはず、などという仮説を年度リポートで申し上げたりもしました。

やはり江戸にとって「海」は城の生命線をにぎる重要な存在であり、そのため海側が主要な城下であり、東海道も通りますし、そちら側に城の「表門」が無ければ、色々と不都合が多かったことでしょう。


ですから冒頭の<江戸城の表門は半蔵門>という新説は、とても言葉どおりに納得できるものではありません。

とは言うものの、大手門と半蔵門でどちらが表門か?と問うよりも、それぞれに“別次元の目的を持った正面口”だった、という風にでも考えますと、このところ申し上げている「元和度天守」と、思わぬ関係性が見えて来るのです。…




<名古屋城、八代城、元和度の江戸城…「連結式天守」の正面はどちらなのか?>




小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

※注:冒頭の武州豊嶋郡江戸庄図とは上下(=東西)を逆にして見た状態です。


さて、当ブログでは「元和度天守」はご覧のような連結式天守ではなかったか、との仮説を申し上げて来ました。

その賛否はひとまず脇に置くとしまして、そもそも連結式天守……大天守と小天守が一基ずつの連結式天守は、いったいどの面が「正面」になるのでしょうか??


おそらく名古屋城天守の場合がどなたにも想起しやすいと思いますので、例に挙げますと、大天守の入口は南の小天守と向き合う側にあり、そちらを「正面」とするのが順当でしょうが、見た目では小天守が重なってしまい、いま一つという感がぬぐえません。

ちなみに“天守が層塔型であれば「正面」は関係ない”とのお考えもありましょうが、例に挙げました名古屋城や八代城は、立地が本丸の北西隅!!であり、防御上の力点が東西南北でかなり差のある状態になっていて、そういう意味では単純に“四方正面”とは言い難い状態です。


ですから、そうした連結式天守には、一応の「正面」が想定できるはずだと思うのです。



望楼型天守(犬山城)にみる「内正面」と「外正面」


そこで、ご覧に入れた図は6年前の記事でお見せしたものですが、これは望楼型天守には明らかに「正面」があり、その中でも、天守の立地場所に応じて「内正面」(=味方、本丸や城内側)と「外正面」(=仮想敵、他国との境界側)とでも言うべき二つの正面があったはず、という仮説を図示したものです。


織田信長時代の岐阜城の推定


さらにご覧に入れたこの図も5年前の記事でお見せしたものですが、当サイトでは『日本西教史』に「欧州の塔の如し。此より眺望すれば美濃の過半を見る」!!と記されたとおりに、稲葉山の山頂には、直前までの居城・小牧山城に続く、原初的な「天守」があったはずだと確信しておりまして、それは図のように、山麓から見上げれば山頂部の“左端”に見えたはずでしょう。

これが天守の位置をめぐる<織田信長の作法>になったのだろうと申し上げてまいりましたが、現にこれ以降、織豊政権下の天守は、大手門から見た時、かなりの確率で、本丸か詰ノ丸の左手前の隅角に建てられることになりました。


では、その状況で、あえて天守の「内正面」「外正面」を問うとしますと、信長の岐阜城は畿内をにらんだ“西向きの城”であった点からも、おそらくは西の山麓側が「外正面」になり、山頂の天守の背後が「内正面」であったのでしょう。

で、そうした形は後の豊臣秀吉の大坂城天守にも…


豊臣大坂城の場合の推定


ご覧の豊臣大坂城では、左側に「天守」、その右側に「月見櫓」が見える、という並びになったと思われますが、その時、手前が「外正面」で奥が「内正面」としますと、連結式天守における「小天守」の役割の一つが見えて来るのではないでしょうか。

それはすなわち、小天守が右側に並んだ状態では、おのずと手前側が「外正面」(=仮想敵)を示すことになる、という不文律だと思うのです。

で、それは徳川の時代になっても…


名古屋城の場合の推定


このことが江戸において、生まれながらの将軍・徳川家光の就任に備えた「元和度天守」にも適用されたのではないか… と申し上げてみたいわけなのです。


元和度天守の場合の推定



※             ※



さて、以上のように申し上げたことは、徳川による一連の巨大天守の「唐破風」の配置方法にも、ちゃんと影響が及んでいて、造形的な配慮(統一的なデザイン)が施されたようです。



ご覧の「唐破風は天守正面の目印の代用物」という当サイトの仮説の先には…


このように、名古屋城の大天守も、江戸城の元和度天守も、徳川による妻入りの巨大な層塔型天守というのは、決まって上から二重目に「唐破風」が据えられておりまして、それは取りも直さず、直前まで徳川家で主流だった仮称「唐破風天守」を凌駕する一種の「格式」として、意図的に造形されたものだろうと思えてならないのです。…

で、そのような上から二重目の唐破風は(仮称「唐破風天守」と同じく)「正面」を指し示した目印であり、先ほどまで申し上げていた「右側に並ぶ小天守」が指し示した「外正面・内正面」の方角とも、みごとに合致していた!! ことになるのです。







そして最後に、江戸城の元和度天守には、こんな配慮もなされていたことを…



私なんぞが思いますに、「元和度天守」はこのあたりが大変に意識的で、周到に計画された天守であったと思えてならないのです。!!!…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年11月01日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…






宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…




現在の定説では、江戸城「元和度天守」は、元和8年に拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そういう見方の直接の根拠となっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。

このうち第一の根拠というのは、かの“駿河大納言”徳川忠長が、工事開始に先立つ正月十日、梅林坂辺の自らの屋敷をあけわたし、一旦、榊原忠次の屋敷に移り、その後に北ノ丸の新邸に入ったのですが、その件について、当事者の榊原忠次が編纂した『御当家紀年録』に、以下のように記されたことによります。


(『御当家紀年録』より)

甲斐参議忠長卿営作の間、松平式部大輔忠次の宅に移らる。
忠長卿の住所、本丸の東北梅林坂辺にあり。今度その所殿主台を築くに碍
(さまたげ)あり。ゆえにかの住所を毀(こぼ)つによりてなり。


【ご参考】武州豊嶋郡江戸庄図をもとに作成


上記の『御当家紀年録』の文面をそのまま受け取りますと、元和度の新天守台は「梅林坂」の辺りに出来なければおかしな話になるわけですが、では「梅林坂」の位置とは、江戸城の本丸御殿との関係ではどういう場所になるのか? という観点から考えますと、ご覧の「武州豊嶋郡江戸庄図」は元和度に該当する時期の史料ではあるものの、これでは本丸御殿の様子はまるで判りません。

そこで他を当たりますと、元和8年の工事の時に完成した本丸御殿は、図面の類いがまったく現存しないそうで、現存するのは、その前の慶長11年の徳川家康の天下普請による江戸城の絵図(「慶長十三年江戸図」)か、ずっと後の寛永17年の三代将軍・徳川家光による再建時の図面(大熊家蔵「御本丸惣絵図」)になってしまい、以前か以後の様子しか判らない、という状態だそうです。

そのせいで「元和度天守」の位置は、御殿の配置を含めて、ハッキリしない状況が続いているわけですが、ならば、ということで、以前と以後の様子をじっくり見比べますと…


以前(慶長)から以後(寛永)まで、江戸城の御殿配置の大枠のプランは一貫していた??



ご覧のうち上の方の図は、これまでお見せして来た図に、上記の「慶長十三年江戸図」の本丸御殿だけを新たにダブらせたもので、一方、下の方の図は前回と同じ小松和博先生の復元図を使ったものです。


かくして「以前」と「以後」の本丸御殿の様子と、それぞれの天守の位置を見比べますと、やはり、江戸城の御殿配置の大枠のプランはずっと一貫していたと思えてなりません。

おそらくはその中で、天守の位置がしだいに「中奥」と切り離され、大奥のスペース増大とともに、北へ、北へと押し出された、という風に私なんぞには見えてならないのです。


ですから、この間にはさまる「元和度」だけが、これらとは打って変わった“別物のプラン”であったとは全く思えませんし、現に、元和度の御殿も「小広間(=遠侍?)」「大広間」「白書院」「黒書院」「御座之間」という各殿舎が並んでいたと伝わります。

―――そうなりますと、記録の「梅林坂辺」という天守の位置は、どう見ても問題が大きいようなのです。…


小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)


前回もご覧いただいた図ですが、これを天守と本丸御殿との「接続」(=使い方)という観点から見直しますと、ご覧の当サイト仮説の元和度天守の位置ではなくて、もしも「梅林坂」の辺りに元和度天守があった場合、徳川将軍は「中奥」の御座之間などから天守に向かう時、多聞櫓づたいにグルッと迂回するのはあまりに遠いため、やむなく「御広敷」か「長局」の中を突っ切って行かねばならない(!…)という事態が予想されます。


……これはハッキリ申しまして“すっとんきょうな天守の位置”と言わざるをえず、当時の城中ではありえない、手打ちか切腹ものの大失態に当たるのではなかったでしょうか。

このため私なんぞには、そもそも「梅林坂」説というのは、論外の話であろうと感じられてならないのです。


では何故、そんな論外の天守位置が文献上に残ったのでしょうか?

ここで私なりの考えをアッサリ申し上げるなら、それは新将軍と張り合う弟君・徳川忠長を、本丸同然の梅林坂辺の屋敷から“本丸外へ”一気に追い出すための「口実」!だったのではないかと……


そういう事を持ちかける時は、やはり「天守うんぬん…」という理由づけの方が説得力を持っていたでしょうし、とりわけ二代将軍・徳川秀忠が造替を願っている新天守のため――― という所がミソであり、そう言われてしまえば、さすがの“駿河大納言”も自らの屋敷を明け渡さざるをえなかった、と想像するのですが、いかがでしょう。


で、それに加担した榊原忠次は、自ら編纂した『御当家紀年録』には、その経緯を淡々と記すにとどめ、実際にその後、梅林坂の辺りがどうなったか(→新天守はまるで別の場所!)は忠長の末路のこともあり、詳しく記すことが出来なかったのではないかと。

(※ちなみに『御当家紀年録』は忠次の遺志で他見が禁じられ、死後120年たってようやく幕府に献上されたそうです…)




さて、続いて「第二の根拠」に話を進めますと、元和8年から18年後の寛永14年、三代将軍・家光による寛永度天守の造替があったわけですが、この時、また新たな天守台を築くように命じられたのが黒田忠之(福岡藩)であり、これについて『黒田続家譜』が次のごとく記録していることによります。


(『黒田続家譜』より)

江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年加藤肥後守清正・浅野紀伊守幸長に命じ築かしめらる。
今春其
(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき由、忠之及浅野安芸守光晟に命を下し給ひ、両人是を奉て経営せらる。


という風に記された中の「舊(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき」という部分から当時を推測した場合、元和度天守と寛永度天守はおそらく“同じ位置”にあって長短の方向を変えて築き直しただけであり、やはり元和度天守は本丸北部にあったのだ、という説がとなえられました。


しかしこの記録は一見してお判りのとおり、旧天守台を築いたのは加藤清正!!と浅野幸長!!だという初歩的な間違いから始まっていて、実際は前々々回の記事から申し上げているとおり、清正の子の加藤忠広と、幸長の弟の浅野長晟による築造でありまして、その程度の公然の事実を『黒田続家譜』は認識していなかったことになります。


しかも文頭の「江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年…」とあるのもまた怪しい点でありまして、元和度天守台は寛永14年の時点でも“昔の築造当時のまま”と誤解していた節がありそうです。

と申しますのは、例えば内藤昌先生の著書『城の日本史』の江戸城の紹介ページに、こんな指摘もあるからです。


(内藤昌『ビジュアル版 城の日本史』より)

…寛永十三年、溜池から市ヶ谷を経て小石川に至る城の西北での濠の開削が決行され、これによって、江戸城の右渦巻状の全容が明確となる。
また同年酒井忠勝を総奉行として、本丸御殿と小天守台を付設する天守台の修築もあった。



!―― 寛永度天守の造替が始まる寛永14年の前年の「寛永十三年」にも、天守台をめぐる何らかの修築があった、ということでして、それは新たな小天守台によって本丸御殿との「接続」をはかるものであったのかもしれません。

そしてその総奉行を務めたのが酒井忠勝(→将軍家光の腹心中の腹心!)となれば、ちょうどこの時期に建造された、忠勝の居城・小浜城の天守(台)が、俄然、気になって来るのです。


小浜城天守台と小天守台

小浜城の絵図をもとに作成


小浜城の天守台はご覧のとおり、天守台の東側(ご覧の絵図では左側)に、細かく石段と石垣を屈曲させて守りをかためた「登閣路」の類いが設けてあるにも関わらず、その90度反対側(方角では北側)に「小天守台」が付設されている、というちょっと変わった形式になっています。

これはいったい何を手本にしたのだろうか… と想像力を働かせますと、ひょっとして、徳川家康が創建した二条城天守の「南の廊下」にならったのでは? という考えが頭に浮かびました。


この「南の廊下」については、最近出版された別冊宝島『蘇る城』に松岡利郎先生の慶長度二条城の推定図が載っていて参考になるのですが、これなどをご覧になりますと、家康の二条城天守も、やはり小天守の90度反対側に、別途、取付櫓や南の廊下が付設される、という似た形式だったようです。

これらはすなわち、大天守との連絡方法は、90度違う二方向から可能であり、その二つはそれぞれ違う形の建物や構造物、という特徴的な影響力の強いデザインだったのでしょう。


で、そうした形式の天守(台)を、三代将軍家光の腹心中の腹心・酒井忠勝が、寛永13年〜15年に居城の小浜城に築いていた――― となりますと、思わず、こんな仮説も付け加えさせていただきたくなるのです。





かくのごとき新たな小天守台の目的としては、本丸御殿との接続の便をいっそうはかるための措置… もしくは“大権現様・家康公の天守”に近づけるための酒井忠勝のご注進!? などなど、色々と想像できそうですが、申し上げたいのは、これによって元和度天守台の長短の方向が違って見えたのではないか、という点なのです。

これこそ、元和度天守台は「昔年」のままと思い込む『黒田続家譜』の筆者に、“旧基を改め縦横の長短を変えて”と書かせるに至った原因なのでは… と考えるのですが、いかがでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年10月18日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!名古屋城や八代城とまるで同じ形式?… 江戸城「元和度天守」も本丸の北西隅の連結式天守だったか






江戸城「元和度天守」も本丸の北西隅の連結式天守だったか


中井家蔵「江戸御天守」建地割 / 同封された2枚の図面

→ 両図面ともに裏側から小さく「江戸御天守」と墨書されている

 

ちなみに左の図面の方が大きく! 132.2mm×84.4mmで、右が117.0mm×59.2mm


江戸東京博物館で9月末まで行われた「徳川の城」展において、一番びっくりしたのは、実は、展示されていた上記の左側の図面が、予想外に大きかったことでありまして、これまで私は現物を見たことがなかったため「え、こんなにデカいの…」と、思わず立ちすくんでしまいました。

前回の記事のラストでは、この図面こそ、元和度天守の「小天守」ではないのか、などと申し上げたのも、この図面の大きさのインパクトが多少、影響していたのかもしれませんが、とにかくこれは長い間、正体不明の図面として諸先生方の判断を迷わせ続けて来たものです。

そのせいか「徳川の城」展の図録の解説文を見ましても、いちおうは現在の解釈の主流である「天守の上層部分の計画変更用」という見方を踏襲しつつも、けっこう“苦しい”解説がなされています。



(特別展「徳川の城」図録の解説文より引用)

(問題の図面は)江戸城天守の最上層および四層目の妻側の立面図。妻側に唐破風が、平側に千鳥破風が描かれ、建築的に装飾豊かな天守であったことがうかがえる。

また最上層の平面図も加えられる。平面図によれば、千鳥破風および唐破風はそれぞれ一方向のみに飾られていたことになる

本図は中井家文書のもう一つの江戸城天守図面
(※上記の右側図面)との関連が考えられるが、詳細はわからない。

同図に描かれる側面が破風のない側の断面であるため、補完として作成されたのであろうか。あるいは当初の計画から変更があったため、この部分の図が起こされたことなどが考えられる。




…正体不明の図面だけに無理からぬ点はあるものの、この短い解説文にも、私なんぞはいくつも違和感を感じる方でして、それはまず第一に、図面に描かれたのは「千鳥破風」ではなくて「切妻破風」だという点でしょう。

「切妻破風」とは、例えば下記の御書院二重櫓の図面では、初重の張り出し(出窓)にある破風が切妻ですから、この建物の妻側の描き方(右図)をご覧いただければ、冒頭の“問題の図面”においても、図の左端にあるのは「切妻破風」であって、決して千鳥破風ではない、ということは明白でしょう。



【ご参考】江戸城本丸の御書院二重櫓の正面と妻側(都立中央図書館蔵)

 → 右下に見える「切妻破風」の断面(横から見た状態)の描き方にご注目




切妻破風の断面の描き方は、ご覧の図面のように、いちばん外側の端面が“垂直な線で”表現されるのが当然のことでありまして、この他の立面図の描き方を参照しましても、もし千鳥破風であれば、いちばん外側はこのような垂直な線ではなく、ちゃんと千鳥破風だと理解できる、それなりの形状で描くものです。

ですから、これは明らかに「切妻破風」であると申し上げざるをえませんし、問題の図面の左上に添えられた小さな平面図から“千鳥破風”と判断するのは拙速(せっそく)と申し上げるほかなさそうです。


表側の二面だけに二種類の破風(+出窓)がある典型例 → 江戸城の富士見櫓


かくして「切妻破風」と「唐破風」という、城郭ファンなら即座にビビッ!と来る組み合わせが、問題の図面上には登場しているわけです。


ご覧の富士見櫓の初重の破風は、まさに“問題の図面”と同じ組み合わせ(しかも櫓の長短の向きとの組み合わせも同じ)になっていて、そのうえ、この裏側の二面には破風の張り出し(出窓)が一切無い、という点まで、両者は完全に一致しています。




したがって前出の解説文にある「(天守最上層の)平面図によれば、千鳥破風および唐破風はそれぞれ一方向のみに飾られていたことになる」という部分も、そうとうに“苦しい”分析であることに同情するわけでして、五重天守の上層部分にこんな風に「切妻破風」と「唐破風」が一方向のみに設けられた例は、日本の城郭史上で“皆無のこと”であろうと感じるのは、当然ながら、私だけではないでしょう。

と、あえて言い切りますのも、名古屋城の大天守(や駿府城天守・彦根城天守)の頃から「四方正面」の破風の配置を意識的に行っていたはずの徳川幕府が、こともあろうに、本拠地の江戸城の大切な天守で、そんなことをするだろうか… という率直な疑問は、そう簡単には解けそうにないからです。


かくして、ここまでの結論として、問題の図面は残念ながら「江戸城天守の最上層および四層目の妻側の立面図」ではないでしょうし、「補完として作成された」図面でもなく、「当初の計画から変更があったため」の図面でもなくて、大天守とは別途の、前回に申し上げた「小天守」のものであろう、という私なんぞの勝手な見立ては、ますます深まるばかりなのです。…






さて、これは前回にご覧いただいた図ですが、赤くダブらせた本丸御殿は、同じく赤い寛永度天守よりもやや後の時代の配置図を使ってしまいまして、少々正確さを欠いたため、今回はその点を反省して、下記の小松和博先生の本から引用した“寛永度天守が完成した直後の寛永17年当時の復元図”を使って、改めて仮説の「元和度天守」の位置をダブり直してみたいのです。

そうしますと…

小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」

※図の下部の( )内の表記は
(『御本丸惣絵図』大蔵家蔵、『二之丸御指図』国立博物館蔵、
参謀本部陸軍部測量局の『5000分1東京図』による復元図)


→ 仮説の「元和度天守」のあたりは、何故か、広いスペースが空いていた… !!


(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)


ご覧のとおり、寛永度天守が完成した直後の本丸御殿の配置は、何故か、申し上げている「元和度天守」のスペースが大きく空いておりまして、あたかも“それ”が撤去されたばかりのようにも邪推できます。

この後、ここには有名な「蔦の間」(=将軍の大奥での寝所)などが建てられ、しだいにスペースが埋まって行った場所ですが、ここにかつて「元和度天守」があったとしますと、本丸の「中奥」から程近く、いざという時に、将軍が天守に向かうにも便利な位置であり、また、そもそも天守の位置は「御上方」(おうえかた=正室のための奥御殿)と密接な関連性がありそう、などと申し上げて来た観点からも、ますますふさわしい立地と思えてならないのです。…


そして今回、是非とも申し上げたいポイントは、小松先生の図は上が北で、仮説の大天守のすぐ北側の足下には「西桔(はね)橋門」の虎口があるため、その位置は慶長度天守とさほど変わらないものの、城外からの見た目では“本丸の北西隅に出現した連結式天守”と見えたのではなかったでしょうか??


焼失前の名古屋城の連結式天守 / 現地案内板に描かれた八代城の連結式天守


本丸北西隅の連結式天守と言えば、即座に、ご覧の二つが頭に浮かびますし、ここから、ウリふたつ(否、ウリ三つ)とも言えそうな関係性が、元和度天守を含めて考えられそうで、現に、たいへん興味深いことに、これらの連結式の天守台は、いずれも「加藤家」が築造に関与したことになるのです。!!…


名古屋城天守と、その天下普請で天守台の築造を一手に担った加藤清正

八代城天守と、その築城を命じた熊本藩二代藩主・加藤忠広


名古屋城の天守台は、言わずと知れた加藤清正(熊本藩)が独力で普請を担ったことで有名ですし、一方の八代城は、清正の子・加藤忠広の家臣で、麦島城の城代だった加藤正方(まさかた)が築城したものでした。

ですから、両天守台の形や位置に共通した点があるのは当然でしょうが、そしてまた、江戸城の「元和度天守」もまるで同じ形式としますと…




前々回から申し上げて来たように、加藤忠広は二代将軍・徳川秀忠の「上意」のもとに、元和度天守の小天守台の普請を(八代城が完成した直後の)元和8年に行ったものの、その後、忠広の運命は暗転し、大御所となった秀忠が死んだ直後に、突然の改易(領地没収)となります。

―――ということは、三代将軍・徳川家光による江戸城天守の“謎の造替”も、どこか、加藤家の関与が影を落としたように見えてしまい……。





そこで最後に、前回に予告した、従来の「本丸北部説」に対する検証(反論)を申し添え… ようかと思いましたが、すでにかなりの長文になっておりますし、これはまた次回にさせていただきたく存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年10月02日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!拡張された江戸城本丸の北部に「元和度天守」はあった、という定説に対する疑問を少々






拡張された江戸城本丸の北部に「元和度天守」はあった、という定説に対する疑問を少々


まずは前回の「元和度天守」をめぐる主な出来事の時系列ですが…


元和8年  正月10日、弟・徳川忠長が梅林坂辺の屋敷をあけわたす

      (一旦、榊原忠次の屋敷に移り、3月には北ノ丸の新邸に入る)

      2月18日、慶長度天守の解体と本丸拡張の工事が始まる

      4月22日、家光が西ノ丸を出て本多忠政の屋敷に移る

      5月19日、上記の工事が完了か

      その同日に、秀忠は本丸から西ノ丸に移り、本丸御殿の増改築が始まる

      9月9日、浅野長晟、加藤忠広に新天守台の築造が命じられる(奉行:阿部正之)

      
(→『御当家紀年録』「江城の殿主台の石壁を改築す」)

      11月10日、本丸御殿が完成。秀忠は本丸に戻り、家光は西ノ丸に戻る


元和9年  3月18日、元和度の新天守台が完成する

            …      …

      〜同年中に中井正侶の設計による元和度天守が完成か〜



などと申し上げたなかでも、特に赤文字で示した項目は、最近では野中和夫著『江戸城 −築城と造営の全貌−』等の、江戸城を解説した大著の見解にならう期日で書いたのですが、その一方で、この工事の関係者らは、そうした期日よりもかなり“前倒しで”動いていた節があります。

例を挙げますと、上記の元和8年9月に元和度天守台の普請を命ぜられた浅野長晟(ながあきら)は、その事跡を広島藩が編纂した『自得公済美録』によれば、その年の正月! には早くも、大天守台・小天守台の分担を(加藤忠広との間で)どうするかを内々に通達されています。


(『自得公済美録』より)

正月廿九日亀田大隅守(=浅野家家臣)へ被下御書
一 御殿主之台方切之事、上意ニて北之方ノ大殿主之方、我等手前へ被仰付、
  南小殿主ニ付申候方、肥後殿
(加藤忠広)へ被仰付、
  役儀高ニ付被仰出候由、得其意候



浅野家が大天守台の方を任され、それを「その意を得て候(そうろう)」としめくくっているのですから、さらに以前から幕府関係者と水面下の交渉をしていたようで、この後も加藤家との分担をめぐっては一悶着(ひともんちゃく)あったらしいのです。

そしてご覧の文面からは、元和度天守は <北に大天守台・南に小天守台> という形式であった可能性がうかがえますし、同じ『自得公済美録』には、五月に早々と天守台の縄張りが済み、根石をすえる作業が始まった、とさえ書かれています。

しかも浅野家の普請場だけが、地盤に予想外の問題を生じたらしく…


(『自得公済美録』5月28日付の若林孫右衛門の書状より)

一 長晟(ながあきら)様御普請場、地心悪敷所ニ御座候て、下へ五間堀入候ても未堅土ニ成申候、
  長晟様外聞實儀、御機嫌も悪敷御座候

  (中略)
  肥後殿(加藤忠広)帳場ハ、壹(一)間餘(余)堀こみ、ね土ニ成申候


長晟(ながあきら)の普請場は「五間」≒10mを掘り返しても、根石をすえる堅い地盤が現れなかったというのに、加藤忠広の普請場(南の小天守台)は、一間あまりを掘り込んだだけで堅い地盤に達したというのですから、ほんのわずかな距離で“天国と地獄”のごとき条件の違いがあったことになります。

かくして、どの文献に基づくかで当時の様相はかなり違って見える状態だったわけですが、それにしても、この『自得公済美録』等に着目しますと、私なんぞがずっと気になって来た“ある心配”が、ドッとぶり返しそうです。




【私なんぞの根本的な疑問】

 盛土でそうとうな高さに造成したばかりの本丸北部に、

 すぐさま史上最大級の重い天守台を築くことが出来たのか??…

 (→沈下の問題!)






(※松江城管理事務所蔵『極秘諸国城図』の江戸城を現在の地図に重ねて作成)


前回から申し上げている元和8年の江戸城本丸の拡張工事とは、ご覧の図の中央の本丸を、その北側(左側)の細長い曲輪や堀をすべて盛土で埋めつつ、本丸と同じ高さにして敷地を広げた工事でした。

現在の定説では「元和度天守」は、拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そうした見方の根拠になっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という趣旨の記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。

この二つを文字どおりに受け取れば、確かに「元和度天守」は本丸北部になければならないのですが、しかし…


元和度天守(元和9年1623年〜寛永13年1636年)は果たしてどこに

→ 梅林坂の辺り? それとも寛永度天守と同じ位置?



上記の図の上に、三代目の寛永度の天守台とその後の本丸御殿の位置を赤くダブらせてみましたが、先ほどの定説の根拠によれば、元和度天守はこの中の「梅林坂」の辺りか、「寛永度天守」と同じ場所のどちらか(=いずれにしても本丸北部)ということになります。




ところがこの辺りは、かの太田道灌が江戸城を築城したおり(長禄元年/1457年)に、わざわざ本丸台地と地続きだった田安台(北ノ丸台)との間を大規模に掘り切った部分とも言われ、それを元和8年の工事で再び埋め戻した形です。

で、かくのごとく図をダブらせますと、なんと、寛永度天守台の真下は堀!…を埋め立てた場所であったのかもしれません。

そこで試しに、天守台の真下の「盛土」の厚みはどれほどかと推定してみますと、現在、蓮池濠の水面は海抜2m程度ですし、一方、本丸内の地表は海抜20mですから、単純計算では、天守台の真下には、厚さ20m近い大量の盛土がなされたことになります。…


では、そこに築かれた史上最大級の寛永度天守台の重さは? と申しますと、非常にざっくりした推定として、一般的に言われる「石の重さ1立方m=2.6トン」「土の重さ1立方m=1.8トン」をもとに単純に見積れば、寛永度天守台の重さは、小天守台を含めて数万トン!! に達したのではなかったでしょうか。

……20mもの盛土の直後に、数万トンの(元和度の!)天守台が載った、と仮定しますと、これはどうしても“構造物の沈下”が心配になります。


ひょっとして20mのかさ上げはすべて「版築」で突き固められた、というのでしたら、話はやや違うのかもしれませんが、そんな膨大な量の版築が可能だったのか分かりませんし、先ほどの記録で浅野長晟(ながあきら)が大変な苦労をしていることからも、本丸北部の埋め立てはかなりの突貫工事だったのではないでしょうか。

これはそもそも、土木の専門家でない私なんぞが口をはさめる事柄ではない、と言われてしまえばそれまでですが、「元和度天守」の位置をめぐる現在の定説は、地盤沈下の件をちゃんと織り込んでいるのだろうか… という疑問を引きずるばかりで、どうもすっきりしないのです。



『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた元和度天守の一例

(国会図書館デジタルコレクションより引用)


さて、そんな中では、前回もご覧いただいた『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた元和度天守の様子が、一つのヒントを与えてくれるようです。

―――ご覧の天守台からは、南の方角へ、まるで名古屋城の大天守と小天守との間をつなぐ「橋台」にも似た構造物が伸びています。


現在のところ、文献の中にある元和度天守の「小天守台」というのは、おそらく三代目の寛永度天守と同じ形式の、建物の「小天守」はともなわない「台」だけの構造物だろうと言われておりますが、どの文献や図面にも、それが寛永度と完全に同じ形式だという「証拠」の類いは一切ありません。

であるならば… と、この謎を頭の中で追いかけるうちに、ついに、こんな仮説に行き着いたのです。


またまた妄想仮説を! 問題の元和度天守台(元和9年〜寛永13年)はここにあったのでは!?


どうでしょうか。ご覧の位置であれば、まず、ここまで申し上げて来た“地盤沈下の心配”が大天守台には当てはまり、小天守台はまぬがれる、という絶妙な配置になりますし、本丸御殿の増改築にもさほど支障はなさそうでいて、その後の寛永度の天守造替においても、工事の不都合は起こりにくいように思われます。

そしてこの配置を“傍証”しているのではないか、と思われる記録も存在します。

前出の『自得公済美録』の書状の翌日に書かれた書状では、大天守台の普請場は、とりわけ北側と西側の地盤が悪かった、と報告しているのです。


(『自得公済美録』5月29日付の竹本外記の書状より)

一 廿四日まで、御殿主根切仕候、同廿六日まで根石すへ候様ニと被仰出候へ共、
  北・西之方地心悪候、然共、地心能所之分ハ、両方根石すへ申候






今回もまた手前勝手な妄想を申し上げておりますが、ご覧の仮説は、前述の本丸北部説とは完全にバッティングしておりまして、「梅林坂辺の徳川忠長邸が天守台築造の邪魔になった」とか「寛永度天守台は元和度とは縦横の長短を変えた」という記録についての検証(反論)は、次回の記事で改めて申し上げたく存じます。

私なんぞとしては、この妄想仮説の“鍵”をにぎるのは、中井家蔵『江戸御天守』建地割に同封されたもう一枚の天守の図面(→下図の左側/もしや前述の「小天守」!!?)をどう解釈するか、にあるのではないかと、にらんでいるのですが…。


  






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年09月18日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!元和度「五重天守」の建造と同時進行で、西ノ丸に隠居した二代将軍・徳川秀忠






元和度「五重天守」の建造と同時進行で、西ノ丸に隠居した二代将軍・徳川秀忠


以前の記事より / 五重以上と言われる天守


※この中には足利義昭の二条城・南之矢蔵や、豊臣秀吉の聚楽第天守、

徳川家康による江戸城の初代「慶長度(四重)天守」は含まれない…


前回、江戸城の三代目の寛永度天守は、天守の歴史において、関白や将軍など日本古来の伝統的な地位を得た者の本拠地の城に「五重天守」をもろに上げたのはこれだけ? などと申しましたが、それは前の二代目の「元和度天守」が、そういう立場を回避した形跡が感じられるからです。

元和8年の江戸城本丸の拡張工事において、本丸にいた二代将軍の徳川秀忠、西ノ丸にいた将軍家世継ぎの徳川家光、そして梅林坂辺の屋敷にいた家光の弟・徳川忠長という、三人の人物の動きからそれが分かるように思います。


【ご参考】『武州豊嶋郡江戸庄図』をもとに作成


元和8年  正月10日、弟・徳川忠長が梅林坂辺の屋敷をあけわたす

      (一旦、榊原忠次の屋敷に移り、3月には北ノ丸の新邸に入る)

      2月18日、慶長度天守の解体と本丸拡張の工事が始まる

      4月22日、家光が西ノ丸を出て本多忠政の屋敷に移る

      5月19日、上記の工事が完了か

      その同日に、秀忠は本丸から西ノ丸に移り、本丸御殿の増改築が始まる

      9月9日、浅野長晟、加藤忠広に新天守台の築造が命じられる(奉行:阿部正之)

      (→『御当家紀年録』「江城の殿主台の石壁を改築す」)


      11月10日、本丸御殿が完成。秀忠は本丸に戻り、家光は西ノ丸に戻る


元和9年  3月18日、元和度の新天守台が完成する

      5月、秀忠は家光に先立って江戸を発ち、上洛する

      7月、伏見城で家光が新将軍の宣下を受ける

      9月、秀忠、家光に続いて江戸に帰着し、本丸に入る


        (新将軍の家光は依然として西ノ丸を居所とする)

      12月、鷹司孝子が家光の正室として輿入れする

       〜同年中に中井正侶の設計による元和度天守が完成か〜


寛永元年  1月、秀忠から家光に大馬印(=軍事指揮権)が譲渡される

      6月、家光、一旦、徳川頼房の屋敷に移る(→『本光国師日記』)

      7月、弟・忠長が駿河・遠江・甲州の計55万石を領有する

      同月、秀忠は自らの隠居所を駿府から小田原に変える方針を固める

      9月、しかし家光側からの引き止め工作で、秀忠は西ノ丸に隠居する

      11月、家光、ようやく本丸に入る



という風に、元和度天守が新たに建つ江戸城本丸の「主」が定まるまでには、細かな紆余曲折(うよきょくせつ)があったわけですが、一貫して感じるのは、秀忠の“新天守は新将軍のためのもの”という姿勢であり、結局、建造を命じた秀忠本人が、元和度の「五重天守」が建つ本丸御殿で暮らしたのは、一年にも満たない期間か、もっと短かった可能性も濃厚です。


徳川秀忠像(松平西福寺蔵/ウィキペディアより)


この秀忠という人物は、事実上の天下人ではあり続けたものの、当初は、新将軍の就任後は自分は完全な隠居の身になって、忠長のいる「駿府」で余生をおくることを願った節もあったそうですから(→細川家史料「内々ハ駿河御隠居所と御座候処」)、もはや新将軍にすべてを託したいとの思いが「五重天守」の用意に込められていたのではなかったでしょうか。

したがって新将軍の家光の側では、「五重天守」は言わば“前将軍からの就任祝いの品”であり、引き続き“自らが望んで上げた五重天守ではない”という形で扱うことも出来たはずでしょう。


しかも秀忠の側の目論見(もくろみ)としても、これだけの工夫をこらしたのですから、おそらくは元和度天守を、家光がその後も長く使い続けることを期待していたはず… と思えて来るわけでして、となると、一般に言われる「江戸城の代替わりごとの天守造替」というのは、

 初代の慶長度天守 → 実際は二代将軍の秀忠のための天守

 二代目の元和度天守 → 三代将軍となる家光のための天守


という風に考えてしかるべきなのでしょう。


ところが家光はその後、自ら天守を造替して「寛永度天守」を建てたのですから、“その天守って、いったい何??…”という疑問が広がるばかりです。


この点で、私なんぞの勝手な勘ぐりを申し添えるなら、おそらく三代目の寛永度天守は「代替わりごとの天守造替」といった既定路線から発したものではなくて、むしろ家光個人の、非常に内面的な動機が発端になっていたのではないか…

―――例えば、近年、福田千鶴先生が改めて指摘している「江は家光の生母ではない」「江と秀忠との間に生まれたのは、千・初の二女と忠長(だけ)である」(『江の生涯』)という“例の問題”に関する大胆な提示が、けっこう気になって仕方がないのです。

と申しますのも、それが「江の貴種としての役割」「江が秀忠と織田・豊臣氏、皇室・公家、大名たちとの絆をむすぶ結節点にいた」(福田千鶴『徳川秀忠』)といった見方にも展開されていて、ならば、それらを失ったあとの家光の精神はどうだったのか? という興味と「寛永度天守」とは、かなり深い所で結びつく、大きな探求テーマのようにも思えて来るからです。…


これは是非いつか、年度リポートなどで取り上げてみたい事柄ではありますが、今回の記事はあくまで「元和度天守」の方に焦点を当てて、その謎めいた実像に、少しでも迫っておきたいと思います。

ということで…



元和度天守の図面として最有力と言われる『江戸御天守』建地割(中井家蔵)



(内藤昌『城の日本史』1979年より)

(この図面によると元和度天守は)とくに五層大屋根の軒出少なく、しかもこの軒高が四層以下の逓減(ていげん)率からすると高く、概して安定感にとぼしいところに特質がある。


…!? 内藤先生のこの説明はどういうことなのか、上記の図面を見るだけではちょっと分かりにくいと思いますので、今回の記事では、この図面と、三代目の寛永度天守の図面として確実視される『江府御天守図百分之一』建地割(都立中央図書館蔵)との違いを、より分かり易くビジュアル化してみようと思うのです。

ただし今回はプロポーションの違いを確認するだけに留めるため、両者の縮尺を厳密に合わせるのではなくて、単に建物の木造部分の全高をぴたりと合わせる形で左右に並べてみますと…



(※元和度の方の図面は左右を反転させています)


ご覧のとおり、まず両者は最上階の軒高がかなり違っていて、これを見ますと元和度天守は確かに「五層大屋根の」「軒高が」「高く」て、けっこう頭デッカチな構造(印象)であったと分かりますし、これほどの違いがあれば(ちょうど四層目の屋根に破風が無いことも手伝って)最上階は人々の目にそうとうに大きく、印象的に見えたのではなかったでしょうか。

さらに元和度の特徴としては、どういうわけか、初重だけに長押がまわっていない、という相違点がありまして、これの意図はあまりハッキリしないものの、地上から見上げた時にはいちばん目立つ壁面なのですから、その差は誰の目にも明らかだったことでしょう。


で、こうした元和度天守の特徴を“いちばん意識的に描いた”絵画史料としては、一見、大ざっぱな描写でありながらも、実は『武州豊嶋郡江戸庄図』(ぶしゅうとしまごおりえどのしょうず)の天守の描写が、最も重要ではないかと思うのです。


『武州豊嶋郡江戸庄図』(寛永9年/=まさに元和度天守が存在していた時期)


いずれの版も、天守の最上階と初重に、人々の目を引きつける特徴があったことを伝えている!!!

A.都立中央図書館蔵より引用の天守周辺


B.国会図書館デジタルコレクションより引用の天守周辺

C.東京大学蔵より引用の天守周辺


かくのごとく、どの版を見ましても、そろって最上階と初重に人の目を引きつける特徴があったことを伝えていて、これが先の図面(『江戸御天守』建地割)とシッカリと呼応している点は、他の絵画史料をはるかにしのぐ貴重な情報であると思えてならないのです。

世間では、どうも破風の配置にばかり目が行くようですが、たとえその点で申しましても、上記のAやBは決して遜色(そんしょく)のあるものではないでしょう。


では最後に、これほどまでに最上階と初重が目立って見えた原因について、もう一歩、想像力を働かせてみますと、前述のプロポーションだけでなく、ひょっとすると「外装」にも、何か原因の一端があったような気もしますし、それは、ごくごく単純に考えれば、元和度天守の壁面が、実は、柱を見せた真壁づくり!?であって、そういう中でも、破風の影響を受けない(軒高の高い)最上階と初重は、とりわけ、真壁の柱がもろに目立って見えたのではないか――― という風にも思えて来るわけなのです。!!










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年09月04日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!歴史的発言にまつわる疑惑 …保科正之の「天守はただ観望に備うるのみ」の「観望」は古語には存在しない語句!!?






保科正之の「天守はただ観望に備うるのみ」の「観望」は古語には存在しない語句!!?




当ブログの最近の記事は、言わば天守本来の「見せる天守」と「見せることは二の次の御三階櫓」との、時代をわける大転換が、話の背景にあったのだと申し上げていいのでしょう。

そうした大転換を語るうえで外せないのは、徳川三代将軍・家光があえて造替した江戸城の寛永度天守が、図らずも果たした役割だと思うのです。


江戸城の寛永度天守 / 歴博ギャラリー「江戸図屏風・左隻第1扇中上」より引用

(※破風の配置は元和度と混同していますが、その他は寛永度として描いたように思われます)




ご覧の寛永度天守は、天守の歴史においては、大変に特殊なカテゴリーをこの一基だけで生み出し、そこを独占していた天守(→関白や将軍など日本古来の伝統的な地位を得た者の本拠地の城に「五重天守」をもろに上げたのはこれだけ?…)ではないかと思うのですが、この天守は歴史上、もう一つ重要な意味をおびています。

それはご承知のとおり、明暦の大火による焼失が、天守の時代の終焉(えん)宣言を出させるきっかけになったことでしょう。

すなわち、将軍家光の異母弟・保科正之(ほしな まさゆき)が、幕府老中に対して、以下のように天守の再建を取りやめるよう献言したことで、江戸城はその後、天守のない府城となりました。


「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(寛政重修諸家譜)


これは例えば『続々群書類従 第三』にも正之の言行録があり、万治2年9月1日、明暦大火の被災から江戸城の再建が成功した旨の記述があって、その中にも同様の発言が載っています。


『続々群書類従 第三』の「土津霊神言行録 上」より


(※宮崎十三八編『保科正之のすべて』1992年での意訳)

「天守閣は織田信長公以来のものであり、ただ観望するには便利であるが、城の要害として必要なものではない。今はこのようなことに財を投じるときではなく、また、そのために公儀の普請が長びけば府下の士民が迷惑することになる」



しかし、この正之の歴史的献言の語句には“ある疑惑”が…

(※写真はサイト「西野神社 社務日誌」様からの引用です)


ところが、正之がそこで挙げた「理由」(現代語での意味)については、私はかねがね強い疑問を感じて来ておりまして、何故かと申しますと、天守が「軍用に役なく」とか「要害として必要でない」というのは当然だと思うものの、「唯観望に備ふるのみ」という理由づけは、当時の人の言葉として、ちょっと解(げ)せない、という印象があったからです。


と申しますのも、天守は、例えば籠城戦では真っ先に敵方の砲撃の的となり、戦闘が激化すればするほど「物見櫓」として役に立たなかっただろうことは、大津城の籠城戦の記録などを例に度々申し上げて来ました。

やはり天守はあくまで、平時の統治のための政治的モニュメントだったと思うのですが、それを言葉で表現するのに、正之の「城主の観望に備えるのみ」という言い方に限定してしまうのは、当事者としてちょっと言い過ぎ(おとしめ過ぎ)じゃないか… と感じていたところ、なんと、正之が言いたかった「観望」は、もっと別の漢字であらわすべき「かんぼう」だったのでは? という疑いが浮上したのです。!




<どの古語辞典で探してみても「観望」という二文字は見当たらず、

 明治以来の国語辞典に「観望」は登場する、というミステリー>






明治24年に初版の、大槻文彦著『大言海』1982年の新編版より


ご覧の国語辞典は、日本初の近代的な国語辞典『言海』がもとになって、版が重ねられて現在に至っている辞典ですが、ご覧のように「観望」という語句が(『史記』にも用例のある語として)ちゃんと載っています。


その一方で、実は、江戸時代までの「古語」を扱った古語辞典においては、どの出版社の、どの辞典を見ても、「観望」という二文字は、まるで見当たらない…!! という意外な事実があります。

つまり、古代から江戸時代までの人々は「観望」という二文字は日常的には使っていなかった?にも関わらず、保科正之は「観望に備ふるのみ」と語ったことになっている、という一種のミステリーがあるわけで、お疑いであれば是非とも、古語辞典をいくつかご覧になってみていただきたいのです。


そして上記の『大言海』に書かれた用例、特に最後の「形勢ヲ観望ス」などを見ますと、これはひょっとすると、「観望」という二文字は、日本では明治の帝国陸軍あたりの軍隊用語として生まれて、世間に普及したのでは…… とも邪推したくなるのですが、そんな中で、ふと、次の辞典を見つけてしまったのです。


江戸の住民が使っていた言葉を集めた、前田勇編『江戸語大辞典』1974年より


!!… かんぼうは「観望」ではなく「幹貌」だったのか??

これを発見してから、私の疑いはググググッと深まったわけでして、この本では「かんぼう(幹貌)やつす」という熟語で紹介されてはいるものの、前述のとおり「観望」は古語になく、一方、この「幹貌=姿かたち」ならば江戸時代にちゃんと使われた可能性がある、となれば、もはやこの件を、まったく無視することは出来ないのではないでしょうか?


かくして、正之が語った「かんぼう」は「幹貌=姿かたち」であった、ということだとしますと、そのあとの「備ふる」はどういうことになるのか、たいへん気になるところで、古語辞典では「備ふ」は「欠けるところなくそろえる、整える」という意味であり、現代語のような「予期される事柄に準備する」といった意味は無いようです。

―――となれば「備ふるのみ」というのは、正確には、非常時にそなえて観望の機能を「準備する」のではなくて、常日頃から幹貌=姿かたちを「全部きれいに整えておくだけだ」と、正之は言いたかったのではないでしょうか。



【以上の結論として…】

 天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯「幹貌」に備ふるのみなり。



このような解釈に立った場合、保科正之の献言の真意は、天守とは「ただ城の姿かたちを整えるだけのものだ」と言いたかったのであり、城主の眺望とか、物見櫓としての機能とは無関係な話であったことになります。

それがどうして「観望」の二文字で現代に伝わったのかは、私には究明する能力も資格もありませんが、ここまで申し上げた事柄が妥当であるなら、正之の関心事は、まさに、火災焼失を機に「見せる天守」を否定しておきたい、という政治的な大局観であったことになり、歴史的な意味合いに重大な違いが生じるでしょう。

そして、そのためには“征夷大将軍の府城の巨大五重天守”という、まことに抑圧的な建築(=社会的・軍事的に固定化しつつある格差をなおも見せつける天守)を否定することこそ、いちばん効果的だろうと、正之は気づいたのではなかったでしょうか。




これは私の突飛な仮説を前提にした話ではありますが、革命記念碑というのは、体制を奪取する側のスローガンを体現するうちは人々の熱狂や狂気をかき立てるものの、やがて新体制が固定化するにつれて、人々から怨嗟(えんさ)の声があがり始めるのでしょう。

その点、「天守」というのは、我が国の社会において、必ずしも怨嗟の対象とはならなかったようで、そのあたりに、保科正之の深謀遠慮が効いたのではないかと勝手に思っているのですが。…


で、もちろんその正之が、自らの領国においては、分権統治の中心をなすシンボルとして、また徳川将軍家を支える松平一族の勢威を示すためにも、会津若松城「天守」をちゃんと保持し続けたのですから、正之は「天守」自体を否定したかったのではないと思うのです。

それはひとえに、新たな天下人の版図を示す「見せる」革命記念碑は、もういらない、という時代認識から出たことではないのか、と。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年08月11日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝説の「静勝軒」と同じ景勝を…… 関東の「御三階櫓」の建築的条件は富士山や筑波山の眺望のみ?






関東の「御三階櫓」の建築的条件は富士山や筑波山の眺望のみ?


「古河市立古河第七小学校」様の公式ブログから引用した綺麗な写真…

校舎の屋上から撮影したそうで、もちろん上が富士山、下が筑波山




当ブログではこのところ、何故ああも徳川の譜代大名は関東一円に「御三階櫓」を建て並べたのか?という話題を中心にお送りしていますが、ご覧の写真でお分かりのとおり、関東平野では、ビル群の無い開けた場所なら、どこでも似たような眺望を得ることが出来ます。


関東周辺にあった天守と御三階櫓(明暦4年1658年/明暦大火の翌年の時点)


これら古河城をはじめとする城のうち、地形図ではちょっと微妙に思える高崎や水戸でも、空気が特別に澄んだ日であれば富士山と筑波山の両方をのぞむことが出来ますし、このあとの江戸中期に建造された館林城や忍城の御三階櫓からも、同様の眺望が得られたであろうことは申すまでもありません。

ということは、やはり以前に申し上げたごとく、江戸時代、関東の譜代大名の意識の中では、天守の理想像が「太田道灌の富士見櫓や静勝軒」に変わる大転換があり、彼らにとっての天守とは、もはや外観の見事さを競うものではなく、道灌の江戸城をうたい上げた詩文のごとくに、そこから見晴らす四周の「風景」の方が、天守の理想像を形づくる重要な観点になっていたのでは… という疑いがぬぐえないのです。


そこで問題になるのは、京都五山と鎌倉五山の長老たちが、太田道灌に乞われて詠んだ数々の詩文(漢詩)の中身でしょう。


ただ、漢文にうとい私なんぞは、どれを例に挙げればいちばん適当なのか解りませんので、見た目のわかり易さで、まずは鈴木理生先生が著書で例示した口語訳を引用させていただきますと…



希世霊彦『村庵稿』より「静勝軒の詩の後題」(部分)

頃(このごろ)聞けり、太田左金吾源公は関左の豪英なり。武州の江戸城を守りて国に功ありと。蓋(けだ)し武の州たるや、武を用うるを以て名と為す。
甲兵四十万、応卒響くが如し、乃ち山東の名邦なり。江戸の城是に於てか在りて其の要に雄拠し、而して堅くその塁を備う。一人険に当れば万虜も進まざる所以なり。

亦乃ち武州の名城なり。矧(いわん)や此城最も景勝を鍾(あつ)むることを。寔(まこと)に天下の稀(まれ)とする所なり。睥睨(へいげい)の隙は地の形勢に随い、彼に棲観あれば、此に台榭(だいしゃ/高台式建築)あり。

特に一軒を置いて、扁して静勝の軒という。是を其の甲と為すなり。亭を泊船と曰ふ。斎を含雪と曰ふ。各々其の附庸(ふよう/支配を受けるもの)なり。
若しそれ軒に憑りて燕座し、四面を回瞻(せん)すれば、則ち西北に富士山あり、武蔵野あり、東南に隅田河あり、筑波山あり。此れ則ち四方の観の一城に在るものなり。一城の勝、又此の一軒に在り。…




という風に、歴史上に名高い「静勝軒」といっても、唯一の手がかりである詩文の上では、建築の外観について、その意匠や見事さを歌い上げるような表現は一つも無いわけです。!…

詩の中心的なテーマは、もっぱら道灌の江戸城が「景勝をあつめた」「天下に稀」なる城であることで、富士山が見え、武蔵野や隅田川、その先に江戸湾や高橋のたもとの港のにぎわいが見え、さらには筑波山ものぞめる、という「眺望」こそが、名城かつ名建築の由来とされています。

ただし文中の方角(「西北に富士山」「東南に隅田河」)は『五百年前の東京』の菊池山哉先生もつっ込んでいた部分で、実際には、南西に富士山、北東に隅田川や筑波山であり、これは作者の希世霊彦らが江戸を訪れずに詩を詠んで贈ったことによる間違いだそうで、本当に江戸に滞在して詩を詠んだ僧侶は、漆桶万里(万里集九)と蕭庵竜統の二人だけだそうです。



釈 蕭庵竜統『江戸城静勝軒に題する詩に寄する序』より(部分)

西望すれば則ち原野を逾(こえ)て雪嶺天と界(まかい)し、三万丈の白玉の屏風の如きもの(=富士山)あり。
東視すれば則ち壚落(=宇宙)を阻んで、瀛海(=大海)天を蘸(ひた)し、三万頃の碧瑠璃の田の如きものあり。
南嚮すれば則ち浩々呼たる原野、寛に舒(の)び広く衍がる。

平蕪(=草原)菌布し一目千里、野海と接し、海天と連なるものは、是れ皆、公(=道灌)が几案の間の(=机上でもてあそぶ)一物のみ。
故を以て、軒の南を静勝と名づけ、東を泊船と名づけ、西を含雪と名づく。

(中略)
含雪、泊船の如きは、浣花老人(=唐の詩人・杜甫)が蜀中倦遊の境なり。題扁の及ぶ所にして此の地の此の景と同じきを以て、摘(とり)て以て名と為すなり。



竜統のうたい上げもすごいですが、なんと道灌自身は、江戸の風景が伝説の「蜀」の国に似ていると感じていたようで、そこから「含雪」「泊船」という扁名を選んだという経緯もあったようです。

とにかく、ここまで「眺望」「景勝」にこだわって江戸城を詠んだ詩文が、これでもかっ!というほどに存在していたのですから、江戸時代、それらが関東の譜代大名の心理に与えたインパクトは、よほど大きかったのではないでしょうか。

築城にのぞんだ彼らの関心事が「伝説の静勝軒と同じ景勝が得られるか」に傾いたとしても不思議では無かったでしょうし、そんな状況から、まるで外観にこだわない「御三階櫓」が続出したとは考えられないでしょうか。(とりわけ関東平野の中心部の諸城において…)








<一つの疑問 /「静勝軒」と「富士見櫓」に歴史的な“混同”は無かったのか…>




さて、話題の「静勝軒」ですが、どうやら太田道灌の死後も、江戸城が後北条氏の時代になっても、シンボル的な存在の静勝軒(という建物)は残っていたらしく、それは「富士見の亭」とも呼ばれていたそうです。

ということは、ここで思いっきり邪推した場合、この後北条氏の時代に「静勝軒」と「富士見櫓」との混同が起きた、という可能性は無かったのでしょうか??


と申しますのも、諸先生方の復元の考え方には大きく二種類あって、一つは「静勝軒」は平屋建ての御殿建築であり、その奥に詩文で「閣」と称された櫓が別途あったという考え方であり、もう一つは「静勝軒」じたいが楼閣建築であり、屋根上に望楼を載せていて、「静勝」「泊船」「含雪」は、竜統の詩のごとく楼閣の南面・東面・西面を名づけたものだという考え方です。

特に後者の楼閣説では、「静勝軒」は「富士見櫓」と同一の建物だということになり、天守の原形の一つとしてふさわしい形になるのですが、これまで申し上げて来たように、江戸城において、天守建造の理屈の180度近い大転換が起き、そこから「眺望」第一の、外観にこだわらない特有の「御三階櫓」が関東に広まったのだとしますと、やはり「静勝軒」と「富士見櫓」は別々の建築でないと理屈が通りません。


……で、もし仮にそうだとしますと、混同された建物はそのまま後の時代まで長く残り、やがて江戸初期に、かの土井利勝が拝領して佐倉城に移築した「静勝軒(=銅櫓)」というのは、ひょっとすると、実際には「静勝軒」ではなくて「富士見櫓(含雪斎)」だった!? ということにもなりかねません。


そうした中で、やや細かい点で恐縮ですが、下記の「銅櫓」の古写真と、谷文晁の絵の「富士見櫓」は、最上階の屋根がそれぞれ形式は違うものの、ともに「錣葺き(しころぶき)」になっている点が、どうも気になって仕方がないのです。…


左:明治初めの佐倉城「銅櫓」解体工事中の古写真                 


これは「静勝軒」? 「富士見櫓」?





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2015年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!譜代大名があこがれた「富士見櫓」は太田道灌の江戸城の「高台」だったとすると…






譜代大名があこがれた「富士見櫓」は太田道灌の江戸城の「高台」だったとすると…


(『金城温古録』第十二之冊「天守の始」より)

武備の為に高台を建て威を示し、内に文を修て治道を専らとせしは
太田道灌の江戸城に権輿
(けんよ/事が始まる)す。
是、天守の起源とも謂ふべし。



そして天守のごとく描かれた谷文晁「道灌江戸築城の図」(個人蔵)の富士見櫓


……いったい何故、関東の譜代大名らは(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」をああも関東一円に建て並べたのだろうか? という疑問について、従来は「徳川将軍の江戸城天守をはばかり(ランクを一段下げた?)富士見櫓にならったのだ」というような説明がされて来ましたが、前回の記事では、そこで私なんぞが申し上げてみたい疑問として〈その富士見櫓とは、いつの時代の富士見櫓なのか〉という点を挙げました。

その過程でご覧いただいた谷文晁(たに ぶんちょう)の絵は、制作が弘化3年(1846年)で幕末のものだそうですが、但し書きには「江戸築城古図により」との墨書があるそうで、思わずグググッと仔細に眺めてみますと、色々と面白い点も見えて来まして、今回はその辺をちょっとだけ補足させていただこうかと思うのです。





ご覧の絵には随所に墨書(書き込み)がありまして、それらのいくつかを、墨書の表記を基本に赤文字で大きく表示し直しますと…


絵の左側部分(遠景は富士山)…「子(ね)城」が城のいちばん北側の最高所に!?

絵の右側部分(遠景は筑波山/つくばさん)


ということでして、後の江戸時代の城とも共通した名称が並んでおり、おおよその所は理解できそうなのですが、よくよく見ますと、どうやらこの絵は(左に南西の富士山、右に北東の筑波山が見えることからも)左右で別々の「視点」と「方角」による景観が二つ(または三つ)合体して!出来上がっているようなのです。


左右の絵は、景観の視点の位置や方角・画角がずいぶんと違っているのかも…


で、こうなりますと、絵の上部に示したごとく、中央の「富士見櫓」は、ひょっとして、左側の絵の「子城」の櫓と“同一の建物”ではないのか? という疑いが頭に浮かんでまいりまして、それは絵の「汐(見)坂門」と「吉祥門」の位置関係や、そして何より絵の「富士見櫓」の真下には「三日月堀」(=すなわち北桔橋門と西桔橋門の間の「乾堀」!!)と墨書されていることから、そのように思えて来るわけです。


ですからこの絵は、富士山と筑波山が両側に見えたという江戸城(静勝軒)のベーシックな情報に忠実な(工夫を施した)構図なのだ、ということが分かって来るのですが、それにも増して、この絵の描写=「子城」は城内でいちばん高い北側の部分という描写も本当のことだとしますと、これはかなり貴重な絵画史料(の写し)なのかもしれません。

何故ならば…


【ご参考】赤い表示→小松和博先生が想定した道灌時代の江戸城


太田道灌の江戸城の構造については、諸先生方が各々の考え方を提示して来られましたが、焦点の一つは、例えば道灌と親交があった僧・万里集九の詩文「静勝軒銘并序」に次の有名なくだりがあって…

「其の塁営の形たるや、曰く子(ね)城、曰く中城、曰く外(と)城と云ふ、凡そ三重なり、二十又(ゆう)五の石門ありて、各々飛橋(とびばし)を掛けたり」

という中の「子城」「中城」「外城」が、それぞれ後の江戸城のどこに当たるか?という観点から、いくつもの解釈が登場しました。


上の図や赤い表示はその一例で、小松和博先生の『江戸城』1985年から引用させていただいた形のものですが、ここで留意すべきは、小松先生をはじめ、ほとんどの先生方が「子城」については、それは「根城」「第一の曲輪」「詰の城」といった意味であり、場所としては江戸時代に「富士見櫓」があった本丸南端を含む部分だろう、という点だけは完全に一致している点でしょう。

…ところが、どういうわけか、谷文晁の絵では「子城」の位置が城のいちばん北側の奥で、しかも城内の最高所とおぼしき地点になっているのです。




このような「子城」の位置に関しては、例えば『五百年前の東京』の著者・菊池山哉先生も同様のお考えの持ち主であり、著書に掲載の見取り図では「子城」をいちばん北側にしておられていて、いくぶん勇気づけられるわけですが、このように「子城」は城の北部にあったという形で考えを推し進めますと、これまた、かなり意外な“符号”に出くわすことになります。…


以前の記事から/『極秘諸国城図』江戸城(=家康時代)の本丸部分をダブらせた地図

それをさらに小松先生の図ともダブらせていただくと…


ご覧のとおり、このままでは「子城」は江戸時代の富士見櫓を含むエリアですが、ここで試しに、「子城」は谷文晁の絵のごとく本丸の北側部分にあった、という風に想定を変えてみた場合、その結果は、次のような驚くべき状態になると思うのです。




!! やはり、と申しますか、太田道灌の「子城」と、その後に徳川家康が天下普請で築造した慶長度天守の天守台や天守曲輪(詰ノ丸)は、ほぼ同じ小丘を!!利用していた可能性が生じて来るのです。

これはまさに、前回ご紹介の『金城温古録』の「慶長十一年 御改築 の江戸城御天守」という記述は、本当のことだったのか!?…と絶句してしまいそうな事態を意味していて、この場所に道灌の子城の櫓(富士見櫓)があって、家康はそれを承知の上でその故地に慶長度天守を上げた、という陶然(とうぜん)となりそうなストーリーが浮かび上がって来ます。


かくして、谷文晁の絵のとおりに考えた場合、この絵の中央にある「富士見櫓」とは、おそらくは、数々の詩文にうたわれた「含雪斎」(=静勝軒の西側にあって富士山をのぞむことが出来、丸窓ごしに富士山の雪が見える様子から“含雪”斎と名付けられた…)と同じ建築物だと想定することは、位置的に見ても、城内の最高所という点でも、ほとんど違和感が無いのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2014年02月02日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態





いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態


先日の日刊建設工業新聞オンライン(2014年1月28日号)にも載っていた「江戸城天守完成イメージモデル」


ご覧の写真は、おそらく認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」が、建設工業新聞の記者に推薦・提供したものと推察して引用させていただきますが、模型そのものは東京国際フォーラムの会場等にも展示された、1/100縮尺の岡本正之様制作の模型かと拝察いたします。



より複雑な構造をしていた寛永度天守台と、簡素化された現存天守台


上記の下の方の2図は前回の繰り返しですが、これらを合わせて見ますと、模型は石垣の色も含めて、明らかに、現存天守台の上に寛永度天守の木造部分を載せようとしているものだと解ります。

したがって「再建する会」がめざす建物は、なかなかに複雑な事情を抱えて(※模型の段階から問題化しそうな石垣の南端部はカットしつつ!…)完成をめざしていることが想像できるわけで、今回の記事は前回に続き、「再建する会」がどのような建物を建てようとしているのか、より具体的に検証してみたいと思います。




【検証点】

 「幕府はこの台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だった」

 という三浦正幸先生の主張が、「再建する会」の唯一の後ろ盾(だて)





前回に申し上げたとおり、寛永度天守台と現存天守台はまったくの「別物」

(※注:図の天守は石垣部分をデフォルメした描き方です)

さて、もれ伝わる情報によれば、おなじみの寛永度天守CGを監修された三浦正幸先生は、「再建する会」のシンポジウムにおいて、「現在のこっている天守閣の台座は寛永の天守の台座ではありません」と前置きしつつも、現存天守台の「面積は寛永天守と全く同じです」と強調されたそうです。

そして高さが低いのは「台座の石垣が外から見えるのは下品だ」という徳川三代将軍家光の生前の言葉にしたがって施工したものであり、「ですから幕府はこの台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だったのです。しかし当時、財政難がひどくなり再建ができなかったのです」という説明を行ったそうです。


ということは、すでにお察しのとおり、「この台座の上に寛永天守と全く同じものを造る予定だった」というのは、何よりも現存天守台と将軍家光との関係性に重きをおいた、三浦先生の<見解・分析・主張>であるという点を、まず確認しておく必要があるでしょう。


さらに、そうしたお考えに影響を及ぼしたのは、江戸時代に浮上した再建計画ではないか…という辺りも、城郭ファンならすぐに思い当たる点ではないでしょうか。

と申しますのは、三浦先生は「再建する天守の台座は4階(のビルに相当する)12メートルです」ともおっしゃったそうで、12メートル=6間ですから、きっと現状の高さ5間半の石垣の上に「狭間石(さまいし)」を増設して6間にすることを意味していて、それは江戸時代の再建案とまったく同じ手法だからです。





再建案なのか、寛永度天守そのものか、諸先生方の見解が分かれて来た図面

(左:内閣文庫蔵 / 右:都立中央図書館蔵)



ご承知のとおり、江戸時代の再建計画というのは、例えば正徳年間、六代将軍家宣(いえのぶ)が関心を示して推進されたものの、家宣の死去とともにあっけなく沙汰止みになったというものがあります。

江戸時代の再建案をめぐっては、いくつかのそれらしき図面が伝わって来ていて、特に上の右側の図面は、斜めから見下ろした(「軸側投影図」という絵巻物の建物描写のような)珍しい描き方の図面として知られています。

で、私なんぞは前々から気になっていたのですが、これらをよくよく見ますと、破風(特に千鳥破風/ちどりはふ)や降り棟(くだりむね)の描き方において、どうも腑(ふ)に落ちない点があるのです。


ひょっとすると、再建計画では「破風」も簡略化された疑いがあるのでは…









1.千鳥破風の勾配がゆるい

2.降り棟が千鳥破風には描かれていない


この二点は、諸先生方の見解が分かれて来た二種類の図面で、何故か、共通している現象でして、昔の建物の立面図などで降り棟を省略してしまうのはよくある描法でしたが、前述の、斜めから見下ろした珍しい図面においても、それが共通しているのは、やはりただ事ではないと感じられてならなかったのです。…




やや勝手なことも申し上げましたが、いずれにしましても、「再建する会」がめざす建物というのは、ひとえに、三浦先生の<見解・分析・主張>を唯一の後ろ盾にしたものであり、本当に「寛永天守と全く同じものを造る予定だった」のかどうか、これから真剣な検証がなされるべきだと思うのです。



現段階では、これは「復元」ではなくて「仮想再建」と説明すべきもの






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2014年01月19日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!ひと目でわかる、江戸城の寛永度天守台と現存天守台はまったくの別物





ひと目でわかる、江戸城の寛永度天守台と現存天守台はまったくの別物




前回記事の「宝くじ」計画やその前の「家光上洛時の天守」と同じく、今回もまたまた昨年12月の小田原城シンポジウムで痛感した事から申し上げてみたく、何点かの図解付きでご紹介しましょう。



<NPO「江戸城天守を再建する会」の事実無根の説明に

 なぜ城郭専門家は口をつぐむのか? これはいつか来た道??>




シンポジウムの会場には、その4日前に行われた認定NPO法人「江戸城天守を再建する会」の発足記念集会に参加された方々もいて、会場内では「皇居には天守閣の石垣が残っているんだと」「だからその上に木造で再建しよう、ていう江戸城のデカいこと!」といった談笑がちらほらと聞えてきて、江戸城NPOの説明やCG映像の効果がかなり浸透していました。


私は会場のいちばん後ろの席に座ったのですが、その直後に、なんと、当日のパネリストの一人で「江戸城天守を再建する会」の小竹直隆(おだけ なおたか)理事長が偶然、私のとなりの席に座ったのです。!!

(※お顔を私が勝手に存じ上げていただけで、いわゆる「面識」はありませんでした)

が即座に、小田原NPOの古川理事が小竹理事長を最前列のパネリスト席に招いたため、事なきを得たのですが、もしもあのままいくばくかの時間があれば、おそらく私は我慢しきれずに、あの場でご挨拶を申し上げ、二言三言、私の疑問をぶつけて、いきなり険悪な空気を作り出していたのかもしれません。


そんなニアミスの後に始まったシンポジウムでは、小竹理事長は「命がけで」「何が何でも」「石にかじりついても」と繰り返すばかりの、まったくもって、昭和のモーレツ企業戦士がそのまま今日に至っているような方だとお見受けしましたが、それだけにかえって、私の危機感が深まりました。

これはまさに、いつか来た道、ではないかと。



皇居(旧江戸城)の現存天守台

明暦の大火で焼けた寛永度天守台とは、石の色や大きさ、全体の高さや形状も異なる「別物」



問題の根本は、当ブログで再三再四、申し上げて来たとおり、江戸城の寛永度天守台と現存天守台は <まったくの別物である> という歴史上の基本的な事実を「再建する会」が無視(軽視)し続けている、という一点に起因します。

しかも、その真逆に、さも同一物であるかのような <事実無根の説明> を続けていて、そうした説明の上にプロジェクト全体が立脚している、という重大な欠陥を、一般向けには隠し続けているのです。例えば…



(「江戸城天守を再建する会」ホームページ/小竹理事長の「ご挨拶」より引用)

「江戸城寛永度天守」は、徳川3代将軍家光公が1638年につくった城ですが、その僅か19年後、1657年の明暦の大火で焼失し、その後今日まで350年余り、遂に再建されることなく、台座だけが皇居東御苑に遺されています
しかし、この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ…




ご覧の挨拶文が典型的でして、一般の人々にとっては、まるで寛永度天守の天守台(文中では「台座」)がそのまま遺されて現存しているかのような説明になっていますが、これがとんでもない間違い(よもや意図的…)であることは、城郭専門家や城郭ファンの方ならすぐにお判りでしょう。

すなわち、明暦の大火の翌々年、焼け残った寛永度天守台は、加賀藩前田家の手伝い普請によって「色も」「高さも」「形状も」異なる新規の天守台(現存天守台)として築き直されたことは、城郭研究の世界では常識の類いだからです。


しかも、その現存天守台は、かの保科正之(ほしな まさゆき/将軍家光の異母弟)の有名な「もはや天守の再建は無用」という歴史的な献言の結果、台のみで、その後の355年を経て今日に伝わる貴重な遺産である点に、小竹理事長はまったく無関心だということを露呈しているわけです。(よもや本人は歴史嫌い?…)





(平井聖監修『よみがえる江戸城』2005年より)

天守は再建されなかったものの、天守台は築き直されており、見学者は巨大な天守台に登って、東京の風景を一望することができる。


(西ヶ谷恭弘著『江戸城−その全容と歴史−』2009年より)

今日、天守台石垣の東南側に激しく炎が当たり焼き爛れた石積をみるが、この火災のあとは、明暦の大火ではなく、文久三年(一八六三)の大火によるものだ。
というのは、今日の天守台の表石垣は、明暦大火の二年後にぼろぼろになった天守台石垣を次に述べるように積み直したからである




それでは、西ヶ谷先生の「次に述べるように」の指摘を参照しつつ、寛永度天守台と現存天守台との違いを列挙してみますと…



1.石が異なるため石垣の「色」や印象がまるで違う


寛永度天守台の「伊豆石」(罹災後に城内で転用された様子) / 現存天守台の「御影石」


ご覧のとおり、寛永度天守台には暗い灰色の安山岩の「伊豆石」が使われたことは、明暦の大火の一部始終を伝えた文献『後見草』の記述から確実視されています。

一方、現存天守台は明るい肌色の大ぶりな「御影石(みかげいし)」で積まれているのですから、両者の印象は、小さな子供でもわかるほどの歴然たる違いがあったことになります。



2.全体の「高さ」には約3mの違いがある




寛永度天守の復元において最も重要とされる図面史料(都立中央図書館蔵『江府御天守図 百分之一』)には、天守台の部分に「石垣高 直立 京間七間」とはっきり書き込まれています。

そして一方、現存天守台の高さは5間半しかなく、もしもこの上に再建天守を載せるとしても、ご覧の約3mの落差をどうするというのでしょうか?


よもや宮内庁所管の皇居東御苑のなかで、テキトーな改築(かさ上げ!?)をするつもりなのか、それとも、知らぬふりでそのまま建ててしまうのか…

はたまた奥の手の“新学説”などで強行突破するのか… いずれにしても我が国の「城」の歴史をないがしろにする、言語道断の所業ではないでしょうか。



3.簡素化された現存天守台は「形状」もかなり違っている





両者は形状についても、ご覧のとおり、構造や機能の面で一目瞭然(りょうぜん)たる違いがあり、今日まで様々な変遷をへて現状に至っている現存天守台を、これからいったい、どうするというのでしょうか。

ハッキリ申しまして、今日現在での再建天守というのは、誰がどうやっても、チクハグさから完全に逃れることは不可能なのだと申し上げざるをえません。



4.そもそも歴史的な経緯が異なる「別物」である


言わば「天守の時代の終焉(しゅうえん)」を宣言した保科正之(会津松平家の初代藩主)

(※写真はサイト「西野神社 社務日誌」様からの引用です)


前述の保科正之の献言(「もはや天守の再建は無用」)は、まさに天守の歴史を画する代表的な文言の一つであり、その文言によって成り立ってきた現存天守台は、「天守」そのものを研究する上でも、まことに重要な遺産(歴史の証人)であるわけです。

ですから、こともあろうに、それを損壊しようという者は、そもそも「城」や「天守」を語る資格は塵(ちり)ほども無い!!… というのが私の本音です。


以上の論点を踏まえますと、小竹理事長の「台座が遺されているから」というアピールで、どれだけ多くの賛同者が集まったかという点を考えれば、小竹理事長の説明には、もはや素人(しろうと)の間違いでは済まされない、一種の“悪質さ”を感じます。


(※なお今回申し上げている問題は、例えば、徳川再築の天守台上に豊臣風のコンクリート天守を建てた「大阪城天守閣」よりマシだろう、とのご意見もあるかもしれません。しかし当時の設計者・古川重春先生の『日本城郭考』等を読みますと、乏しい史料の中で、手探り状態の設計を行っていたことが判ります。
 そのように間違いを知りえずに犯した間違いと、間違いを隠蔽(いんぺい)して強行突破する間違いとは、本質的に別次元の問題だと思われてなりません)



ですから、このような事実無根の説明のもとに、これから先、巨額の寄付金や公的な財政支援を引き出そうという「江戸城天守を再建する会」は、ひょっとすると、認定NPOとしての法人格に問題があるのではないか?…という疑義(金銭上の詐欺的行為の可能性)も感じられてしまいます。

もしも今後、このままいつまでも改善が見られない場合は、最終的には「告発」の必要性もあろうかと、本気で思ってしまうのですが、いかがでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2013年11月24日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!【緊急提言】日本の千年の計として、大嘗祭を現存天守台の上で行われんことを提言申し上げます





日本の千年の計として、大嘗祭を現存天守台の上で行われんことを提言申し上げます


偶然か、誰かの作為か、旧本丸に並び立った大嘗(だいじょう)宮と現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)


前回の記事をアップしてから、今上天皇の即位の礼では、どうして写真のような状況が出来(しゅったい)したのだろうか? という疑問がむくむくと頭の中にわき上がりまして、その後、「即位の礼」関連の本を何冊か読むことになりました。


と申しますのも、「天守台」と言えば、当サイトが注目して来たとおり、中国古来の「台」の慣習を踏まえながら、16世紀、我が国が事実上の分裂国家に陥りかけた時、その再統一をねらう織田信長が、易姓革命の考え方(封禅や岐山の故事)にならって創始した「天守」の基壇として採用したものと申せましょう。

一方、「大嘗宮」の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿と言えば、我が国で古代から、新天皇が即位の際に行う一世一度の収穫祭(新嘗祭)である「大嘗祭」で、天照大神にささげた神饌(しんせん)を自らも食し、霊力をさずかる場として、その都度、建てられて来たものです。


ですから「天守台」と「大嘗宮」は、唐様か和様か、王朝の交代(下克上)を意図したか否か、という大きな対立軸は抱えているものの、ともに両者は、新帝が天と祖先に五穀豊穣をいのる、最も重要な祭祀の場としての歴史をふまえた存在どうしである、とも言えそうだからです。



皇居(旧江戸城)の旧本丸は、いまなお重層的な歴史の現場であり続けている


ご覧のように旧本丸を見直しますと、この場所は図らずも、我が国の歴史の重層性を語れる貴重なエリアの一つになっているのでは… という思いを強く抱きます。

果たして偶然なのか、誰かの作為があったのか分かりませんが、このせっかくの状況に対して、現代人はこれをただの“歴史の寄り合い所帯”で終わらせてしまうのか、逆に、何かしらの歴史的な解釈を真剣に加えてもよいのではないか、という感慨にとらわれるのです。


北京の天壇(圜丘壇)と、皇居の現存天守台




さて、急きょ読んでみました「即位の礼」関連の本というのは、思ったとおり、右派と左派の学者先生がそれぞれの政治的立場を巧妙に織り交ぜながら解説文を書いておられ、読むのに難渋してしまうのですが、そこからなんとか読み取った範囲で申しますと…


『大嘗宮悠紀主基敷設図』に描かれた江戸中期の悠紀殿と主基殿(元文3年の儀式)


まず「大嘗宮」というのは基本的に、ご覧のとおり、悠紀殿・主基殿とそれらを取り巻く柴垣や鳥居だけ、という形が古代から明治維新までずっと続いたそうで、その設置場所は、古代には大極殿の真ん前に、ご覧の仮設の建物と、その手前に参列者用の幄(あく/とばり)などが並んだそうです。

ちなみに悠紀殿・主基殿には、それぞれ東国と西国の米などが神饌とされたことから、大嘗祭は新天皇による日本全国の統治と、地方の服属を意味した、という指摘もありました。


上記文献には、悠紀殿・主基殿の、屋根や壁を取り去った状態の図解もある



そして大極殿が失われて以降の時代は、上図のように紫宸殿の前となり、この状態が明治天皇の時まで(断続的に)続きました。

ところが1909年の「登極令」以後は、即位の礼と大嘗祭が数日の間しか空けずに行われることになったため、仮設の建物とは言え、造営に日数がかかる関係で、大嘗宮は別の場所に設けざるをえなくなったようなのです。!

そこで大正天皇・昭和天皇の時は大嘗宮だけが仙洞御所などに設けられ、そして今上天皇の時には即位の礼も含めて初めて東京(皇居)で行われることになり、前二代と同様に、皇居正殿の前ではない“別の場所”として、旧本丸に設けられた、という経緯だったようです。


かくして、即位の礼が東京に移った理由も、海外からの参列者(VIP)対応のため、と言われているように、大嘗祭の開催地がめまぐるしく変わったのは、要するに、近・現代の日本の対外関係において、天皇の代替わりの儀式が、もはや御所やその周辺だけでは済まされない、国際的なお披露目の場を兼ねていくための“代償”であった… と言うことが出来るのかもしれません。


ですから平成2年(1990年)に、大嘗宮が現存天守台と並び立ったのは、本当に、意図せざる事柄だったようなのです。


軍服姿の明治天皇(写真:ウィキペディアより)


そもそも明治維新の結果、ご承知のとおり、江戸城は和洋折衷の明治宮殿を中心とした宮城(皇居)に変貌し、明治天皇は陸海軍を統帥し、近代の“武家の棟梁”を兼ねるような形にもなりました。

そうした様子はとりも直さず、朝廷と幕府が社会の両輪として成り立ってきた我が国において、ようやくその両輪が皇居で一元化したのかもしれず、このことをマイナス思考ばかりでとらえずに、いっそ我が国の千年の計として、未来に向けて果敢に踏み出してもいいのではないでしょうか。


そこで、現存天守台の上に、悠紀殿と主基殿を… と申し上げてみたいわけなのです。


ただ、冒頭でもご覧いただいた下図のとおり、大嘗宮は、古代から大極殿や紫宸殿の前(南側)に建てられた理由などから、建物全体が真北を向いていて、その点では、決して真北を向いているわけではない現存天守台との取り合わせは難しいのかもしれません。


※当図は左が真北


ですが、だからと言って、このまま旧本丸を“歴史の寄り合い所帯”のようにしておくのは、現代に生きる日本人として、ちょっと能が無いのではないか、という気もしてならないのです。…



と、ここまで申し上げて来て、最後に一つ付け加えたいのが、大嘗祭は、応仁の乱から江戸初期まで200年以上の中断があった、という一件でしょう。

室町時代、大嘗祭の費用は幕府が負担する形になっていたため、寛正7年1466年の開催を最後に、応仁の乱で幕府財政が窮乏すると中断してしまい、それから江戸初期の1687年まで、221年間、9代にわたる天皇が、即位の儀は行えても大嘗祭(大嘗会/だいじょうえ)は全く行えなかったというのです。

この件に関して、左派の先生方がまとめた本の中で(特に冒頭の“大嘗宮と現存天守台”の写真を思うと)冷や水を浴びせられたように、ハッとする指摘がありました。



(近藤成一「中世における即位儀礼の変容」/『「即位の礼」と大嘗祭 歴史家はこう考える』1990年所収より)

秀吉や家康が大嘗会を必要であると考えれば、これをおこなうことはたやすかったはずです。しかし彼らは即位の儀をおこなうことには熱心でしたが、大嘗会をおこなおうとはしなかった。
秀吉や家康は天皇の権威を確立するために大嘗会が不可欠であるとは考えなかったのです。




この本の(大嘗祭に国民の税金が使われることに批判的な)文脈とは別に、指摘された事実は事実として、ひょっとすると、新天皇が東国や西国の収穫物を天照大神とともに食すという大嘗祭の「秘儀」について、天下人の豊臣秀吉や徳川家康が、それを政治的にきらった、という可能性は無きにしもあらずでしょう。


そしてようやく大嘗祭が復活したのは、時の霊元上皇が徳川幕府に強く働きかけた結果だったそうで、それは上記のとおり1687年(貞享4年/五代将軍綱吉の時代)のことで、ちょうど、明暦の大火で江戸城天守が失われて30年めの年に当たりました。


!… やはり、日本再統一の記念碑とおぼしき「天守」と、「大嘗宮」の間には、何かしらの、見えない力学が働いているのかもしれません。

という風に考えたとき、現存天守台の上で大嘗祭を、という私なんぞの破天荒な妄言に対して、先人達も、最終的には「否」と言わないのではないか? と思えてならないのですが。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2013年11月10日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!層塔型よもやま話 その1・その2





層塔型よもやま話


このところ申し上げて来た「層塔型天守」に関わる複数の記事で、その行きがかり上、補足しておくべき話題が溜まって来てしまったため、今回はそれらをまとめて「層塔型よもやま話」とさせていただこうかと思います。



<話題その1 丹波亀山城天守もまた「過渡的」層塔型プロポーションであったということ>





ご覧のイラストと写真は、今年正月の記事でお見せした会津若松城の幻の七重天守を推定してみたイラストと、それがやや変則的な形の層塔型であるため、まるで古代エジプトの屈折ピラミッドのようだと申し上げた時の写真です。

両者の似た点は、ご覧のとおりの「見た目の勾配(こうばい)の屈折」でして、その後の最盛期の層塔型天守はこういう明らかな「屈折」は無くなる傾向になり、より一貫した逓減(ていげん)率で整ったプロポーションに変化しました。

そういう点で言えば、「屈折」というのは層塔型天守の過渡的な現象と言えそうですが、実は話題の丹波亀山城天守もまた、イラストの会津若松城に似た(…むしろ屈折ピラミッドの方に近い?)形状だったのです。



城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図

(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写


この件はかつて、我が国の城郭研究のパイオニア・城戸久先生が、論文の中で強調されていた事柄(ご参考→論文PDF/現在は有料)でありまして、近年よく諸書で見られる三浦正幸先生監修の復元立面図も同じ考え方であるものの、その解説文などでは殆ど触れられていない特徴なのです。


城戸先生は、『高山公実録』に採録された馬渕八十兵衛蔵書の中の数値に基づいて、上の略図を書かれ、「その各重の規模が明瞭である。しかして蓬佐文庫所蔵古図の11間とあるは天守石塁下方の寸尺とすれば妥当であり」という風に、初重の規模についても馬渕八十兵衛蔵書の「九間四尺四方」が正しいとされました。

となれば当然、この天守は層塔型でありながらも、ずいぶんと特異なプロポーションになるわけです。


【 推定 】見た目の角度の印象を補助線で強調してみれば…


城戸先生は同論文の中でさらに、「江戸期天守に至る過渡的形態を如実に示すものと言わねばならず、天守平面漸減の方法の発展を知る上に最も重視すべきものである」とまでおっしゃっていて、まさに、これを言わずして丹波亀山城天守は語れないだろうと感じる次第なのです。




<話題その2 猪瀬直樹(いのせ なおき)東京都知事の「まったくナンセンス」発言に触発されて作った合成写真をご覧下さい>



さて先日、猪瀬知事が都庁での記者会見で、話題の江戸城天守の再建問題について記者に問われて、「まったくナンセンス」とばっさり切り捨てたところは、私もたまたまTOKYO MXの放送で見かけました。

知事の考え方は「超高層ビルが林立する現在の東京で、高さではるかに及ばない江戸城天守を再建したら、おごそかな皇居の雰囲気を壊してしまう」というもので、知事はこの会見で明暦の大火の年号までスラスラと答えていて、発言は熟慮の上の結論という印象でした。

かく申す私なんぞも、当ブログで申し上げたとおり、結論は知事とほとんど同じであるものの、「高さではるかに及ばない」という部分はそうでもないだろうと思い立ちまして、こんな合成写真を作ってみました。



江戸城の寛永度天守は、現代の都市でも、そうとうに目立つ大建築だった!!

名古屋城天守・大阪城天守閣と本丸の地表面でそろえて並べると…



真ん中の江戸城天守は、江戸中期の再建計画用とも言われる都立中央図書館蔵の立面図を仮に使って、寛永度の規模のまま、見慣れた左右の天守と縮尺をそろえて合成してみたものです。


まあ、そもそも大阪城天守閣を「小せえ」とおっしゃる方々には何も申し上げられないのですが、この合成写真を作ってみて感じますのは、猪瀬知事の心配とは裏腹に、こんな大建築が皇居のド真ん中に出現すれば、むしろ <徳川が皇居を奪還したのか!?> と人々に感じさせるほどのインパクト(=まるで皇居を占拠したかのような感じ?)が出て来るのかもしれません。


しかもこれが「木造である」という点に日本人自身や外国人が驚嘆する可能性は大でありまして、老婆心ながら再建運動の方々に申し上げたいのは、少なくとも、この建物のアピールポイントは「江戸文化」などとおっしゃらずに、主眼を「木造技術の到達点」に変えるべきではなかったのかと。

と申しますのは、当時も中はガランドウであって、また地震国・日本が歴史的に生み出した大建築のあり方を示すものとしては、格好の事例かもしれないと思うからです。

(※ということでは、結局のところ、天守とはなんぞや、という命題も最後に強く問われるのかもしれません…)


そして完成予想CGについては、見せ方として、やはり大多数の日本人にとって見慣れた大阪城や名古屋城などと比べなければ、大きさがよく伝わらず、そうした点でさすがの猪瀬知事も多少の誤解をされたのではないでしょうか。




……でありますが、この意外に大きな視覚的インパクトを考えた場合は、なおさらのこと再建問題で気がかりになるのが、今上天皇の即位の礼において、もっとも重要な祭儀(神事)が旧本丸で行われたという経緯でしょう。


旧本丸に設けられた大嘗祭(だいじょうさい)の祭宮 / その上が現存天守台

(※上写真はサイト「称徳天皇大嘗宮跡説明会」様からの引用です)



いわゆる大嘗祭のハイライトは、ご承知のとおり、即位した天皇が深夜、一人で宮にこもり、神々と一体化するための秘儀と言われます。

その大嘗祭が今上天皇から東京(皇居内)で行われ始め、この先の開催地もまた旧本丸になっていく可能性があるわけで、それと再建天守との調和をいったいどう図れるのか、またそういう場所に大集団の見学者(外国人観光客)がズカズカとやって来る事態を許せるのか、という件は、これまた重大きわまりない問題でしょう。

ですから今後、日本の企業や皆様方に再建の寄付をつのる際は、そういう事情の説明が、絶対に欠かせないはずだと思うのです。…








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2013年10月28日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらに深かった?籐堂高虎の超秘策 …その重大さに徳川家康も思わず気付かぬふりを?





さらに深かった? 籐堂高虎の超秘策


前回は、天下普請の江戸城で「二十間四方」天守台を築いた家康と高虎の深意について、色々と想像をめぐらせてみましたが、実はその時、高虎が仕掛けた企(くわだ)ては、それだけではなかったようです。

この件をお話するためには、その企ての前提となる天守曲輪(天守丸/天守構え)の状態について、『当代記』にもとづく独自の解釈案をご覧いただきましょう。



【 独自解釈 】「殿守台は二十間四方也」の文脈をあえて図示すると…


(『当代記』巻四より)

去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、
此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、
惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、
殿守台は二十間四方也



上の図と『当代記』の記述を合わせてご説明しますと、記述の一、二行目については、これまでの諸先生方の見解では、「去年之石垣」を改築して合計の高さが10間の天守台(「十間殿守」)になった、という解釈でほぼ一致して来ました。

しかし三行目の「惣土井も二間あけられ」がどこの土居の話なのかは諸説があって、それについては例えば西ヶ谷恭弘先生は、高さ10間の天守台と読むか、土居のかさ上げの影響で「二間の土壇上に八間の天守台石垣が築かれたと読むか」は不明であると解説しておられます。(『江戸城』2009年)

つまり「土井(土居)」がどこにあたるかで、最終的な天守台の高さが変わってしまう可能性が残るわけで、そのために当サイトは、ご覧のような独自解釈を申し上げてみたいのです。




このように「土井(土居)」を天守曲輪の内部の敷地と解釈するのは、たいへんに異例な考え方だとは思うものの、これならば、問題の三行目が文中のそこにある意味がはっきりして来ますし、記述全体の“足し算・引き算”をきれいに納めることも出来ます。

すなわち、天守台の本丸側(図の上側)は石垣高が10間に達したものの、天守曲輪の内部を2間かさ上げしたため、内側の石垣高は8間になった… という経緯を『当代記』は伝えていたのだと解釈できるわけです。


ではいったい何故、ここを2間かさ上げする必要があったのか?? と考えますと、築城名人・高虎の「本丸を意図的に狭くして多聞櫓で囲む」という築城テクニックがそこに関わっていたのかもしれません。

現に、他の文献では、江戸城本丸の「狭さ」をめぐる高虎と家康のやりとりが伝わっています。


(『慶長日記』より)

(家康)高虎に本丸狭ければ広げられんと仰ければ、高虎云(いう)、本城は狭きに利多し、広きに小勢籠りたるは利少しと、申し上る…


【 参考図 】高虎が改修した江戸時代の津城 / 本丸の狭さ、内堀の広さが特長的!!


上の『慶長日記』の部分は、一般的には、家康が高虎に対して「江戸城の本丸が狭くないか」と問いかけたところ、高虎が「本城は狭い方が守るに好都合」と答えた話として扱われますが、文中の「本丸」「本城」がそれぞれどこを意味したかは諸説あり、それによって話の結論は様々です。


ですが、そもそも慶長の江戸城「本丸」は、結果的に狭くもなんともなく、すでに広大な敷地を占めていたのは確実のようですから、それが狭いか、狭くないかと、押し問答をしたこと自体が不自然でなりません。

したがって、私なんぞは文句無く「天守曲輪」のことだろうと思うのですが、もしそうだとしますと、この話には、もっと別の、驚愕の真相が隠されているかもしれないと疑っているのです。




<築城名人がくわだてた超秘策…

 そこの本来の目的は天守曲輪(詰ノ丸)などではなく、あろうことか、

 天皇の「江戸行幸」のための行幸御殿が意識されていた!?>







これは2011年度リポートでお見せした図ですが、その説明文も是非もう一度、目を通していただけますでしょうか。


(2011年度リポートより)

遊撃丸伝本丸は、敷地の形やおおよその広さ、天守との位置関係、全体が石塁や石垣で厳重に囲まれていること、しかし石塁上に上がれば良い眺めが得られること、そして第一の門が南から入る形であることなど、あらゆる点が、驚くほど似ているのです。
(中略)
冒頭で申し上げた秀吉の大陸経略構想では、計画の目玉として、後陽成天皇の北京行幸が掲げられています。
一方、安土城の伝本丸も、正親町天皇(もしくは誠仁親王)の安土行幸に備えた「御幸の御間」があったのではないかと論争になった場所です。

この状況が示す可能性を直裁に申し上げるなら、遊撃丸も、元来は「天皇の行幸殿」として築かれた場所だったのではないか……
あの城内でもひときわ堅牢な石塁の囲みは、そのためだったかと思えば、じつに納得のいくものです。




そしてなんと、慶長の江戸城も!!?(ご覧の3図はもちろん同縮尺。方角は方位記号のとおり)


ご覧のように、敷地の形や広さ、天守との位置関係が、またまた良く似ているわけでして、その他の要素も、南から入る表口と搦手口(からめてぐち)というように、それぞれに三つ巴の関係で踏襲し合っているようです。






例えば最後の「主な眺望」では、いずれも天守の反対側から、安土城下や玄界灘や富士山が眺められる形になっていて、これらは一つのスタイルとして、高虎が再び江戸城で採り入れたものと感じられてなりません。

すなわち、ここに、問題の「土居」をわざわざ2間かさ上げした深意が隠されていて、はっきりと申し上げるなら、高虎は「いずれ天皇の江戸行幸あるべし」と密かに考え、それを改修の絵図に盛り込み、家康に提示したのではなかったのかと。

それだけ高虎は、新しい天下の覇城・江戸の築城に、強い思い入れを込めて縄張りを行ったとも考えられ、たとえ実際に江戸行幸が無くとも、“そういう備え”を施してあることが、幕府の「本城」として肝要なのであると考えたのではないでしょうか。




ところが、家康は、『慶長日記』の一般的な解釈のままでは、絵図の深意などにはまったく気付かなかったことになります。

ですが、ひょっとすると、家康はうすうす気付いたものの、事のあまりの重大さのために、わざと気付かぬふりで「本丸(!)が狭くないか」とカマをかけて高虎の顔色を見た… ということであったのかもしれません。

そうだとすれば、家康の「本丸」というカマかけに対して、とっさに持論の戦術云々の話で答えた高虎もまた、そうとうな“タヌキ親父”だったのではないでしょうか。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2013年10月13日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「人」が登らない天守への画策か 〜徳川家康と藤堂高虎の密議〜





「人」が登らない天守への画策か 〜徳川家康と藤堂高虎の密議〜


徳川家康と藤堂高虎



家康時代の江戸城を推定してみますと、天守台は『当代記』に「殿守台は二十間四方也」とあるうえに、意外にも、ご覧のように20間四方がピタリと伝来の城絵図に当てはまる、という現象があることを前回お知らせしました。


したがって文献の「二十間四方」というのは、天守台の“台上の広さ”を伝えた文言であろうことは、もうさほど異論の出ない状況なのではないでしょうか。

となれば、家康時代はかなり複雑な形状の天守曲輪(天守構え)があったにも関わらず、天守台そのものは、実に整然とした「真四角」の広大な台が築かれたことになります。


築城名人・籐堂高虎の伝記『高山公実録』では、高虎が仕上げて差し出した江戸城本丸改修の絵図を見た家康は、「此所はかく、其所はかやうにと、御手づから度々御朱引御墨引遊ばし」たそうで、そのように二人で決めた絵図に二代将軍秀忠も異論なく、そのまま「隍(ほり)池 石崖 悉(ことごとく)成就しぬ」とあります。

この文中に「石崖」=石垣と書かれている点から、天守曲輪や天守台も当然、家康と高虎の合作であったのでしょう。


ということは、おそらく徳川氏の居城としては初めての、そして高虎の居城では経験のある「真四角な」天守(台)を、二人はあえて選択した可能性があるわけでして、今回はその狙いについてちょっと考えてみたいのです。




丹波亀山城天守(各階の平面が真四角 / 初の層塔型天守とも言われる)

窓の配置はやや不規則で、最上階はおそらく見せかけの欄干であり、内部はかなり暗かった??


(※写真:ウィキペディアより)


籐堂高虎と言いますと、近年は三浦正幸先生が、ご覧の丹波亀山城天守の前身(移築前の天守)と伝わる高虎の今治城天守の方を「初の層塔型天守」と主張されていますが、ただし、この移築については三浦先生ご自身が…


(三浦正幸 監修・編集・執筆『よみがえる天守』2001年より)

高虎は今治城主であったが、慶長十三年に伊賀、伊勢の城主として転封しており、(丹波)亀山城普請を命じられた時は転封の直後であった。
大名の転封の際に居城の天守を持ち去ることは異例であるので、今治城天守を移建したとする点は信じ難い。
しかし、今治城天守新築の用材を準備中に転封となり、その材を新しい持ち城である伊賀上野城天守に利用する予定にしたところ、(丹波)亀山城天守に急に転用したと解すれば合理的であろう。



という風に、この本では、従来の今治城天守の否定論(遺構が見つからない)に目配せした考え方も示しておられて、かなり複雑な経緯も考えられたわけですが、この時の三浦先生の想定を時系列で整理しつつ、そこに江戸城「天守台」の件を加えますと、まるで違った状況も見えて来るのです。



慶長5年  籐堂高虎、関ヶ原の戦功により伊予国で20万石に加増される

慶長6年  高虎、伏見城(再建)や膳所城の天下普請で普請奉行を務める

慶長7年  高虎、今治で居城の築城を開始し、慶長9年に一応の完成をみる

      (※注:三浦先生はこの後の慶長9〜13年に今治城天守が新築
          されたという形に、現在では自説を改めておられます)

慶長11年 (前述の)高虎が縄張りした江戸城本丸改修の天下普請が始まる

慶長12年 「二十間四方」の江戸城天守台が築かれる

慶長13年 高虎、伊勢・伊賀に加増転封され、居城の津城を改修し始める。

      今治城天守の用材は大坂屋敷に保管する

慶長14年 高虎、篠山城や丹波亀山城の天下普請で縄張りを担当し、

      天守用材を家康に献上する

慶長15年 高虎、名古屋城の天下普請で縄張りを担当。丹波亀山城が竣工

慶長16年 高虎、支城の伊賀上野城を改修し、13間×11間の天守台を築く




こういう経緯の中で丹波亀山城天守が完成したとなりますと、ここには高虎の「石高の加増」と「縄張り担当」「普請助役の免除」「重要地・伊勢への転封」そして「天守用材の献上」とが、まことに巧妙にカラミ合っていることに気付かざるをえません。


その上で、問題の天守用材と、江戸城「二十間四方」天守台との、時系列的なカンケイを思い切って邪推してみた場合は、ちょうど、今治城天守が建てられたか 建てられなかったか 分からない時期に、話題の「二十間四方」天守台が築かれているわけなのです。!!


……もちろん私は、ここでいきなり、今治城天守と、江戸城「天守台」との間に直接的なカンケイがあった、などという暴論を申し上げるつもりはありません。

ただし、両者ともに「真四角」を大前提にしていた節があり、そして完成した丹波亀山城天守の窓がやや不規則な配置(=建物の規模縮小?)になった点を考慮しますと、ある種の、疑念が頭に浮かんで来ます。




つまり、問題の天守用材というのは、本当に所伝どおりの、今治城や伊賀上野城などの“高虎の天守”として利用が可能な「用材」だったのでしょうか??


と申しますのは、高虎は、豊臣時代の宇和島城は別として、関ヶ原後の今治城や津城では、ハッキリと天守を建造したことが確認できない一方で、問題の天守用材を家康に献上したあとの伊賀上野城では、堂々と、五重天守(13間×11間)を新規に建て始めたことが判っているからです。


つまり問題の天守用材とは、実は、高虎にとって“家康に対する遠慮のため、処置に困り、手に余ってしまった天守用材”だったのではないか、という観点が必要になっているように感じられてなりません。(→なぜ大坂屋敷に保管?)

言葉を変えますと、問題の用材のことは、すでに家康に知られていて、「二十間四方」天守台とも、まったく無関係とは言えない存在ではなかったのか…と。


宇和島城天守

藤堂高虎の創建時(大竹正芳先生の復元案に基く)と、伊達宗利が再建した現存天守



さて、そういう「真四角」な天守(台)と高虎との関係は、豊臣時代の宇和島城に始まったことが知られています。

その頃から山頂の本丸内にポツンと建つ独立式(創建時は複合式)の天守であり、創建天守はそこにあった岩盤の台上に建てられたようです。


この天守の位置は、高虎の旧主・豊臣秀長の大和郡山城に似ている感じがあるもの、所詮、その位置と標高からして、すでに城の防御機能への貢献は完全に放棄されていた、という点に着目すべきではないでしょうか。

そして創建天守が各階とも真四角を基本にしていた点を合わせて考えますと、高虎はすでに、櫓とは別個の建築物として「天守」を造型していた節があります。




<家康と高虎の 真四角な天守台は「立体的御殿」との決別宣言だったか>





真四角な平面の建築と言えば… 大雁塔(中国) / 興福寺五重塔 / 法住寺捌相殿(韓国)


そして意外なことに、日本の代表的な「楼閣」の一階は真四角ではなかった

金閣は5間半×4間 / 銀閣は4間×3間 / しかし両者とも最上階は真四角



以前の記事で「金閣」を取り上げた際に、宮上茂隆先生の著書から「釣殿(つりどの)である住宅建築の上に、仏堂(二階は和様、三階は唐様)を載せる構成になっている」(『金閣寺・銀閣寺』1992年)という解説文を引用いたしました。


私のごとき古建築の素人があまり勝手なことは申せませんが、こうして見ますと、真四角(正方形)の建物というのは、同じく幾何学的な「六角堂」や「八角円堂」と同じ部類に含まれた、祭祀的な色合いを帯びた、人々の住宅とは別次元の建物を意味していた、ということはなかったのでしょうか。


不勉強を棚に上げてさらに申し上げるなら、そうした事柄の延長線上には、初期の望楼型天守の望楼に「三間四方」がポピュラーだったのは何故なのか、果たして「九間」との関連だけで説明しきれるのか、という問題もあるのかもしれません。

であるなら、天守の一階や、天守台そのものから「真四角」を強いる行為は、日本建築の伝統に照らして、明確な意図やメッセージを含んでいたようにも思えます。





そこで今回、あえて申し上げたいのは、家康と高虎の密議の中では、幕藩体制の中心・江戸の天下普請では、天守はもう <下克上を起こす「人」が登れる建築ではないものにしてしまおう> というような、大変に大きな歴史的判断が下されていたのかもしれない… と想像できてしまうことです。


そのような判断は、言わば、織田信長が創始した天主(「立体的御殿」)との決別宣言であったのかもしれません。

この時、徳川幕府がすでに歩みを始めた慶長12年には、荒々しい天守の時代にいかに幕引きするかが、築城名人としての懸案であったのかもしれず、高虎はそのアイデアを江戸城改修の絵図に描き込み、家康に言上したのではなかったでしょうか。


ところがその後、現実の江戸城では、やはり家康や秀忠の天守への登閣が求められるなどして、工事の過程で計画変更が行われてしまい、(※同時に高虎が計画していた今治城天守も足をすくわれてしまい!!)結果的に、江戸では2012年度リポートのような特注の四重天守が出現したのではあるまいか、と思っているのですが…。


その時の、家康と高虎の密議とは



天守における真四角な平面の選択


最上階から廻縁高欄を無くすこと


織田信長流の「立体的御殿」との決別


「人」が登らない天守への画策・誘導


天守(天主)本来の凶暴なる本質の換骨奪胎


徳川幕藩体制の要諦(ようてい)

<領国統治の中心は「人」であってはならない>

<公儀と忠義が両立した社会体制へ>


???







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2013年09月29日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論。家康と高虎が決めた「真四角な」初代天守台を踏まえて考える






またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論


現存天守台の“破壊”無くして正確な復元は無理。なにしろ「石」が違うのだから

江戸城天守台


(※明暦大火で天守焼失後に、御影石の切石で修築。表面の焦げは幕末の火災時のもの。修築以来355年存続)



まず、石なんかどうでもいいだろ… などと言う方は、我が国の城郭やサムライの伝統文化を愛する方々には、一人として、いらっしゃらないはず、と信じて今回の記事を始めさせていただきます。


もしも、はなから<正確さは二の次でいい>というなら、出来上がった建物は紛れもない時代錯誤のハリボテであって、たとえ木造で、伝統的工法で築かれても、それはハリボテの変形に過ぎないでしょう。

ところが、それでも構わないからこのチャンスに造ってしまえ!! というごく少数の“確信犯”が、今回の東京オリンピック決定に呼応した、江戸城天守の再建運動の活発化の中にはひそんでいる気配が感じられて、その辺が実に、心穏やかでないのです。…




(『週刊朝日』2013年9月27日号より)

再建費用は、総木造で忠実に復元すると400億〜500億円かかる。12年に約500億円をかけて復元された東京駅と同じ規模だ。費用は協賛企業や個人から寄付金を募る。

巨費を投じることに批判もある。だが、年間151万人が訪れる観光スポットとなった大阪城も、1931年に復元されたもの。年間来場者147万人の名古屋城も戦後に復元されている。江戸城は、これをはるかに上回る効果が期待される。

作家で『江戸城を歩く』などの著書のある黒田涼さんはこう語る。
「経済面だけではなく、精神面での効果もあります。各地のお城は、全国で郷土の誇りになっています。首都・東京の江戸城天守は、日本人の誇りと精神性のシンボルとなりえます」
江戸城で外国人をおもてなし。2020年、それは現実になるかもしれない。




当ブログで申し上げて来たとおり、私は小田原城や名古屋城などのコンクリート天守の「木造化」には大賛成!!の立場ですが、それは戦後の日本人がうっかり犯してしまった間違いをもう見たくない、という思いが基本にあります。

しかも、ただ木造であればいい、という話でもなくて、歴史的に脱落して来た「天守という建築の意味」を、どうにか日本人の意識の上に取り戻すことは出来ないものか、という願望を含んでおります。しかし…



(認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 のHP/小竹直隆理事長の挨拶文より)

首都と言われる世界の大都市には、ロンドンの時計台、バッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神など、悉くその国の歴史と伝統、文化の象徴ともいうべき偉大なモニュメントがあります。

しかし、日本の首都・東京には、何があるのでしょう。スカイツリー? 浅草寺?・・そうですね。それは、数少ない東京の目玉であることは事実ですが、この国の長い歴史が育んだ香り豊かな伝統と文化の、日本を代表とする“シンボル”とは、云えないのではないでしょうか。




かつてJTBの経営陣であったという理事長さんは、日経ビジネスオンラインでは「城マニアでも何でもありません。もともと皇居に残された江戸城の天守台のことは知っていましたが、それほど関心はありませんでした」ともおっしゃっています。

その発言からして、とにかく、国際的に見映えのする巨大モニュメントが東京に欲しい、という動機から出発しておられることは間違いなさそうで、雷門や仲見世通りがダメというのは「凱旋門より小粒…」だからなのか、スカイツリーがダメというのは「エッフェル塔に劣る」と考えておられるからなのか、その価値観の物差しが、さすがにJTB仕込みと感じられてなりません。


ですから、現状の悪い予感としては、「国際的に見映えのする巨大モニュメント」という動機から再建された天守は、その先、またたく間に、大阪万博跡地の太陽の塔(それだけポツンと!)になりかねないことが予想され、そんなことのために、現存天守台がどうにかされてしまうのは、日本の歴史ファンとして、まことに慙愧(ざんき)に耐えないのです。


(※追記/これには、天守台のある旧本丸等が宮内庁の管轄である、という要素が大きく作用するでしょう。

  つまり、もし一旦出来てしまったら、もうほとんど誰も手を出せない存在になる、ということを意味しています。

  また皇居側の窓は開けさせない、という案も「テロリスト対策」で未来永劫、完璧に遂行されるのでしょう…)


(※そして宮内庁の管轄である以上、完成した天守を宮内庁=政府に寄付する形になるのか、それとも協賛企業などの

  100億単位の寄付金が、上記のNPO法人を通じた節税対策として消化されるのか分かりませんが、いずれにしても、

  完成後は入場料の徴収もままならないのではないでしょうか。ご参考:皇居東御苑公開要領




(前出の挨拶文より)

この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ、日本一の壮大で、美しい城であり、且つ、栄華を極めた江戸時代文化のヴィンテージ(最高傑作)一つと言われています。



ここではもう詳しく申しませんが、言わば荒々しい「天守の時代」が終わった時から、「江戸文化」の熟成は始まったはずだと思うわけでして、両者は本来、別次元の物、ということだけは自信を持って申し上げておきたいと思います。

事ここに至っては、再建する会の3200名の会員の皆様には、<江戸城寛永度天守とは何だったのか><何を再建することになるのか> をさらにもう一歩、突き詰めて考えていただきたいと、ただ、ただ願うばかりです。


強烈なヘゲモニー(覇権)の表現としての、NY摩天楼や人民大会堂

〜私なんぞが思う、江戸城寛永度天守にいちばん似たもの〜



さて、話はガラリと変わりまして…




<真四角は「立体的御殿」との決別宣言だったか …徳川家康と藤堂高虎の選択>




前回の記事では「層塔型天守はどこで生まれたか?」という私自身の近年の探求テーマに関連して、真四角な平面形の「御三階」が、その解明の突破口の一つになるのではなかろうか… などという手前勝手な印象を申し上げました。

で、仮にその方向性のまま、御三階からさらに、天守の全般と「真四角」との関わりをもう一度点検してみますと、そこにはちょっと意外な存在として、江戸城の初代(慶長度)の天守台が含まれて来るのです。



2012年度リポートでもご覧いただいた家康時代の江戸城の推定



ご覧の「20間四方」はご推察のとおり、『当代記』の慶長度天守の天守台を築いた時の記録の「殿守台は二十間四方也」を踏まえたものですが、この数値はこれまで殆ど注視されて来ませんでした。


ところが、図のように伝来の城絵図を現在の地図上に重ねてみた場合、20間四方はほぼピタリと当てはまることが分かり、測量図とは異なる城絵図ではあるものの、『当代記』の文言はあながち嘘ではなかったのかもしれません。

となると、徳川家康と、築城名人・藤堂高虎が、顔を突き合わせて図面に手を入れたと伝わる、慶長の江戸城においても、天守台は「真四角」が選択されたのかもしれず、そこには二人の密かな構想が盛り込まれたようにも感じられるのです。


……ということで、今回の記事は前置きがやや長くなってしまったため、やはりこの続きは、次回にじっくりと申し上げたく存じます。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2013年02月05日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!先行派生記事…家康の江戸城天守の復元をめぐる紆余曲折(うよきょくせつ)を解く






家康の江戸城天守の復元をめぐる紆余曲折を解く


今回は、完成間近の2012年度リポートに関連した話題を、一部分、先行してお話してみたいと思います。

ご承知のとおり、江戸城では、三代にわたる天守(慶長度・元和度・寛永度)が順次建て替えられたわけですが、初代の慶長度天守=徳川家康の時代に建てられた天守と、二代目の元和度天守は、残された史料が乏しく、実像がよく判っておりません。

そのため、家康の江戸城天守については、これまでに諸先生方が様々な復元案を提示して来られた、という経緯があります。


その一例:表紙は大竹正芳先生の「慶長期江戸城天守復原図」


それらの復元の方向性を分けたポイントは、大工棟梁は誰なのか? 望楼型か層塔型なのか? 等々、いくつかあった中でも、とどのつまりは、下図の中井家蔵「江戸御城御天守絵図」をどのように扱うかで決まった、と申し上げても構わないのでしょう。


問題の絵図/中井家蔵「江戸御城御天守絵図」


そこで、この問題の絵図をめぐる、代表的な復元案のスタンスを表にしてみますと…




このように中井家蔵「江戸御城御天守絵図」を初代(慶長度天守)の復元用資料として採用したのは、宮上茂隆先生だけであり、その復元案(全身真っ白な層塔型天守!)が強いインパクトを放ったことから、その後の議論は宮上案への賛否に終始して来たような感があります。

そして現在は、どうも、新たな決め手を欠いたままの状態が続いているようで、これに対して何か手立てはないものか… と強く感じられてなりません。

で、誠に僭越(せんえつ)ながら、従来あまり言われて来なかった視点から、少々申し上げてみたいと思うのです。




<『当代記』が伝える天守台石垣の積み直しは何のためだったか>




(『当代記』より)

去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、殿守臺は二十間四方也


ご覧の文章は、初代(慶長度天守)が建造されるにあたって、天守台の工事がいったん完了していたにも関わらず、また石垣の工事(積み直しと積み増し)がなされたことを伝えています。

文面だけですと、その理由は定かでなく、ただ天守台の高さを2間かさ上げしたかっただけ、という風にも受け取れます。


しかし私なんぞの勝手な印象では、すでに高さ8間という規模がありながら、そこからわずか2間(!)のかさ上げのために大名衆を動員するとは、彼等の財力を少しでもそぐためのイヤガラセか、そうでなければ、やはり何らかの理由があったのだと思われてなりません。

―――そしてそれは、ひょっとすると <天守台の形式変更> だったのではないか、という気もするのです。


つまり、最初の工事で完成した天守台に対して、例えば大御所家康の周辺などから、何か特別な「注文」がついて、急遽、天守台の形式を変える必要に迫られてしまった… というようなことではなかったのでしょうか。

そしてそれは勿論、台上に建てる天守の設計変更(!!…)という事情も、大いにありえたように思われるのです。


天守と天守台の設計変更だったとすると、いったい何が起きたのか…


ここでもう一歩、手前勝手な推量をさせていただくならば、それは「穴倉の変更」ではなかったのかと。

例えば、例えばですが、当サイト仮説の豊臣大坂城天守のごとくに、最初は「半地下式の穴倉」で完成したものを、新たに半地下式では実行できない機能が「注文」されて、やむなく積み直し&積み増しで「地下一階分の穴倉」として改築・かさ上げされたのでは… といった経緯も想像しうるわけなのです。

ただしこの場合、新規工事分の高さは足して4間ですので、他の天守に比べれば、桁違いに巨大な穴倉(ほとんど体育館!?…)になってしまいますが、江戸城天守は他の階も桁違いに巨大ですし、また何よりも穴倉の構造的な不都合の解消が優先されたのだとすれば、可能性はあると思われるのです。



中井家は慶長度・元和度の両方の天守建造に関わっていた(『中井家支配棟梁由緒書』より)


と、ここまで申し上げたところで、再び冒頭の絵図をめぐる紆余曲折を振り返れば、一つ、新たな視点が加わったのではないでしょうか。

つまり問題の絵図と、天守台石垣の積み直し(設計変更)との間には“関連性”があったという視点に立ちますと、この絵図は慶長度天守にも、元和度天守にも、両方に関係した絵図と考えることが出来そうです。

その辺をいっそう無責任なあてずっぽうで申せば、この絵図は慶長度の設計変更によってキャンセルされた設計であり、その後、大御所家康の死後に、二代将軍秀忠によって再び取り出され、元和度天守としてリベンジを果たした絵図ではなかったのかと…。



※その他の詳細、特に家康の「注文」については2012年度リポートにて。

 東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
 〜「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年09月06日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!江戸城天守の立地に隠された“信長の作法”





江戸城天守の立地に隠された“信長の作法”


モンタヌス『日本史』挿絵の江戸城/何故か三基の巨大天守が建ち並ぶ


6月にNPO法人「江戸城再建を目指す会」が発表した江戸城天守の再建プロジェクトは、テレビのニュース番組にも取り上げられ、ご覧になった方も多いかと存じます。


当ブログは発表の前に、城内(皇居東御苑)の現存天守台が危ない、という記事を書きましたが、その点がNPO幹部の方々の“眼中に無い”ことは明らかなようで、その意味でも、プロジェクト自体は、予算的に考えても、遺跡保存の点でも、まだまだ実現性の遠いものでした。

ただ、ひょっとすると、それでも構わないのだ!!…という確信犯的な(失礼)運動だとするなら、三浦正幸先生の監修を仰いだ復元CG等がテレビで流れ、世間の耳目を集めただけでも、NPO活動としては上々の成果を得たのかもしれません。


(※なお当日の三浦先生の発表講演は、現存の天守台について「当時の石垣の高さは、現在残っている石垣よりも2メートル高かった」と、たった一言触れるだけに留まっています)




さて、その江戸城は、江戸時代の初めに「慶長度」「元和度」「寛永度」という三代の天守が矢継ぎ早に建て替えられ、したがって上の絵のように、三基の天守が同時に建っていたことは無い、とされています…

絵はあえて三代の天守をいっぺんに描いたのかもしれませんが、それらの天守の建つ位置は、ちょうど絵のように、本丸の中央部から北部へ動いたことが判っています。

実は、その立地には「或る法則」(信長好みの作法?)が隠れている、という本邦初の指摘を今回はしてみたいと思います。




岐阜城の復興天守/織豊政権の天守は、多くが詰ノ丸(本丸)の左手前の隅角にある…


ここでちょっとだけ岐阜城の話に戻るのをお許しいただくと、フロイス『日本史』は、山頂部の城塞について、はっきりとその性格付けをしています。


城へ登ると、入口の最初の三つの広間には、諸国のおもだった殿たちの息で、信長に仕えている十二歳から十七歳になる若侍がおそらく百人以上もいました。いろいろの知らせを上下に達するためです。そこからは誰もそれ以上中へはいることができません。なぜかというと、中では、信長は侍女たちと彼の息子である公子たちとだけに用をさせていたからです。すなわち、〔息子たちは〕奇妙とお茶筅で、兄は十三歳、弟は十一歳くらいでした。

(東洋文庫版『日本史 キリシタン伝来のころ』より)


これはもう、要するに、山頂部の城塞は「大奥」の原形なのだと申し上げても、いささかも問題は無いのではないでしょうか?


ご覧の東洋文庫版『日本史』は、ドイツ人のザビエル研究者G.シュールハンメルが翻訳したドイツ語版を、柳谷武夫氏が日本語に翻訳し直したもので、二重の翻訳がかえって文体のあいまいさを整理した感もあり、特に山頂部は「その山頂に彼の根城があります」と、「根城」という訳語を使った点は注目に値するでしょう。

つまり山頂部の(天守を含む)城塞こそ信長と家族の「根城」であり、それが「大奥」の原形だったとするなら、そうした岐阜城の使い方は、織豊政権以降の城郭プランに多大な影響を残したと思われます。すなわち…




このところの記事で申し上げたように、山麓居館の表と山頂部の城塞が、それぞれハレ(公)の空間とケ(私)の空間に使い分けられるなかで、山頂部は「大奥」と同じ役割を持ち始めたようです。

そして注目すべきは、天守の位置でしょう。

信長以降、織豊政権下の天守は、かなりの確率で「本丸・詰ノ丸の左手前の隅角」に建てられているのです。

ダマサレたと思って数えて戴ければ、あの天守も、この天守も、と思わぬ天守が次々と当てはまることがお判りになるでしょう。


膳所城の絵図(滋賀県立図書館蔵)/やはり本丸の左手前の隅角に天守


大変に分かり易い例が、琵琶湖畔の膳所(ぜぜ)城です。

城としてはややマイナーな印象の膳所城は、豊臣政権が崩壊した関ヶ原合戦の直後に、徳川家康がいちはやく実質的な天下普請を発令して築いた城です。


そしてそんな時期に完成したにも関わらず、天守は岐阜城と同様に、本丸の左手前の隅角にあるのです。(※縄張りは築城の名人とされる藤堂高虎)

何故こんなところに天守が? と一般の人々はまるで意味が分からず、首をひねることでしょうが、実はここに、信長以来の「天守建造の作法」がしっかりと脈打っているのです。


もう一例、これはどうでしょうか? かの名城、伏見城です(広島市立中央図書館蔵)




そして江戸城の寛永度(三代目)天守=赤印/これはやや「作法」が崩れている?


ここでようやく江戸城の話題に戻ります。

冒頭の再建プロジェクトの対象でもある寛永度天守は、いわゆる単立型の天守として、「大奥」の真ん中にどっぷり漬かって建っています

これはどうやら「その作法」が効いてないようにも見えますが、では時期をさかのぼって、初代の慶長度天守はどうだったのかを確認しますと…




大手から見て天守は詰ノ丸の左手前の隅角!



ご覧のとおり、もはや織田信長とは何の関係も無いはずの江戸城も、「信長の作法」が踏襲されていたのです。

そして縄張り(設計)は、やはり“名人”藤堂高虎でした。


(次回に続く)









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年05月03日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「腹案アリ」江戸城の現存天守台が危ない!





「腹案アリ」江戸城の現存天守台が危ない!


「江戸城の貴重な現存天守台を守るべき」と申し上げましたが、それはその通りとしても、やはり東京は都市の目玉になる建造物が無い…という感想をお持ちの方は、日本人の間に多いようです。

外国人はけっこう、欧米人が浅草や築地、アジア人がお台場や秋葉原で「日本的なもの」を充分に味わい、満足しているようですから、妙な現象です。

そこで今回は、是が非でも都心(皇居周辺)に東京の目玉が欲しい!という方々のために、特別に当サイトからの「腹案」を提示いたしましょう。



腹案その1「明治宮殿の再建」(写真は明治宮殿千草の間/ウィキペディアより)




現在の皇居宮殿(新宮殿)はすでに築40年を越えていて、近い将来、建て替えを迫られることは必定です。

そしてその時にこそ、「東京とは何ぞや」という問いにダイレクトに答えられる、和洋折衷の木造の大宮殿「明治宮殿」を再建してはどうでしょうか?


そもそも「なぜ皇居が江戸城にあるのか」という根本命題もあいまいなまま、東京の人々は毎日を暮らしています。

そんな中で、もし東京に「明治宮殿」が復活したなら、明治天皇とは、近代日本の「武家の棟梁」を兼ねた人物だったことを、改めて認識でき、日本史の大きな流れを感じられる場にもなるのではないでしょうか?


でも、この案は「城」サイトとしては、やや不本意かもしれませんので…


腹案その2「江戸に開府した徳川家康の初代天守の発掘」




ご覧の図は『極秘諸国城図』(松江城管理事務所蔵)に描かれた江戸城で、本丸に黒々と四角く見えるのが家康時代の初代天守、いわゆる「慶長度天守」です。


ご承知のとおり、江戸城は慶長12年(1607年)頃に完成した慶長度天守から、二代目の元和度天守、三代目の寛永度天守という、三つの天守が江戸初期に矢継ぎ早に建て替えられました。

それらは位置を変えて建造されたため、家康の天守の痕跡は、おそらく今も皇居東御苑の芝生の下に眠っているのです。


『極秘諸国城図』の本丸周辺を地図にダブらせると…

江戸城と慶長度天守の基本構想が浮かび上がる

いまは全てがこの皇居東御苑の芝生の下に…

では具体的に、どの辺りに慶長度天守は眠っているのか?


このように慶長度天守の位置は、皇居東御苑を周回する苑路と重なっていて、この苑路や芝生をはいで発掘調査を行えば、きっと地中から巨大な天守台の痕跡が姿を現すことでしょう。


前述の明治宮殿と同じく、この初代の天守跡こそ、江戸が都市として発展を始めた時代を物語る「遺物」そのものであり、これを現代の東京人が目の当たりにできる意義は大きいと申せます。

ましてや現存天守台に復元天守を(時代考証をゴマかして)載せる!などの愚挙に比べれば、どれほど価値が高いか、比べることさえ恥ずかしくなります。


そんな貴重な「江戸城創建時の遺物」が姿を現したなら、巨大なガラス屋根で覆い、いつでも見学できる施設(「家康の天守館」?「江戸タイムマシン」??)を整備すれば良いのではないでしょうか?


(※ただし、ご推察のとおり皇居東御苑は宮内庁の所管であり、その頑迷きわまる「障壁」はあまりに強固で、復元天守とて同じことですが、実現にどれほどの時間と手間を要するかは見当もつきません…)



では、ちなみに慶長度天守とは、どんな天守だったかと申しますと、文献では『愚子見記』『当代記』等が参考になります。



一、江戸御殿守 七尺間 十八間 十六間 物見 七間五尺 五間五尺 高石ヨリ棟迄廿二間半 是権現様御好也

一、尾張御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 八間 六間 下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故物見大キ也

(『愚子見記』より)




『愚子見記』は家康の江戸城天守について、建屋のサイズと高さ(約44mで三代目より50cmほど低いだけ)、そして尾張御殿守(名古屋城天守)は初重と二重目が同じサイズで建ち上がるのに対し、江戸城天守は初重から逓減(ていげん)が始まっていたことを暗に伝えています。


また、よく引用される「是権現様御好也」(これ、ごんげんさまのおこのみなり)は、この文面で見るかぎり、「是」(これ)の直前にある「高石ヨリ棟迄廿二間半」が家康の「御好也」というふうにしか読み取れず、世間で言われる「鉛瓦で雪山のように見えた」云々を指しているとは、到底、読めない点が要注意です。

つまり、家康は「とにかく高く造れ」と指示したに過ぎなかった可能性が、この文面からは濃厚に漂ってくるのです。



去年之石垣高さ八間也、六間は常の石、二間は切石也、此切石をのけ、又二間築上、其上に右之切石を積、合十間殿守也、惣土井も二間あけられ、合八間の石垣也、殿守台は二十間四方也

(『当代記』より)




『当代記』も天守台が何らかの方針変更を受けて、より高く積み直された経過を伝えていて、広さについては「二十間四方」と明記しています。


こうした慶長度天守については、さまざまな研究者による復元案があり、その状況は、例えば安土城天主よりも「触れ幅が大きい」と言えるのかもしれません。

そこで先生方への非礼も省みず、それらの案を“思い切った言い方”で総括してみますと、いずれも一長一短でありながら、どれもが示唆に富んだ「注目点」を含んでいるようです。

どういうことかと申しますと…


★連立式天守による天守構え(天守曲輪)を想定した内藤昌案

★『愚子見記』どおりに初重からの逓減(ていげん)を想定した宮上茂隆案

★切石と自然石による二段式天守台を想定した大竹正芳案

★二代目や三代目ほどの巨大天守ではないと想定した金澤雄記案



こうして各個バラバラに見える復元案は、例えば中井家所蔵の「江戸御天守指図」を採用するか否かという決定的な差異も含んだままですが、そんな中でも、それぞれの「注目点」と、『愚子見記』『当代記』の内容をうまく統合することは、十分に可能だと思われるのです。

すなわち…




このような仮想プランを出発点に、どこまでディティールを具体化できるかと申しますと、実は、この復元にピッタリの「或る史料」が現存しています。

その復元プロセスと驚きの大胆仮説は、いずれ当サイトの201X年リポートでお伝えしたいと考えていて、当ブログの「腹案」は決してガセネタではございません。



(※次回は再び、安土城天主に話題を戻してまいります。)


(※2013年2月追記 / 上記の図は、2012年度リポートにおいて、大幅に修正したものを掲載しております。ご参照下さい。)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2010年04月19日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!江戸城の現存天守台が危ない!!





江戸城の現存天守台が危ない!!




昨年あたりから、出版業界で「城」関連は比較的売れる、というデータが一人歩きしたせいなのか、「城」を扱う単行本・雑誌・ムック類の発行が大盛況です。

そのあおりで、なかには城郭ファンの頭に血がのぼるような、噴飯モノの記事も見受けられ、当ブログも対応に追われています。

そして、またまた現れました!―――

“隠れコンクリート教”の使徒による謀(はかりごと)を、いつの間にか既成事実化しかねない記事が…





小学館の意欲的な情報誌『SAPIO』の4月21日号に、ご覧のような江戸城天守の再建プロジェクトを伝える記事があるのですが、つくづく、門外漢のスタッフによるマスコミ報道ほど、危なっかしいものはない(!…)と自戒を込めつつ、紹介せざるをえません。


と申しますのは、おそらく記事の執筆者をはじめ、ここに寄稿している日本財団の笹川陽平会長や「江戸城再建を目指す会」の会員の方々も、ほとんど自覚しておられないのでしょうが、この記事が示すプロジェクトは、結果的に、いま江戸城に現存している天守台を「破壊」もしくは「大規模改変」してしまう(!)可能性を含んでいるからです。


そのことは記事の中で「スーパーゼネコン関係者」なる人物が「石垣の石材なども含め資材の確保だけで予算をオーバー」云々と語っている点からも明白でしょう。

考えてみれば、江戸時代初期の大火で焼失した天守を、厳密に復元しようとすればするほど、現存天守台は「解体」「撤去」して、復元考証どおりの新しい石材(伊豆石)や木材を使って建設せざるをえないのです。


将軍の実弟・保科正之の「歴史的な献策」を受けて築かれた現存天守台


御影石の「切石」積みは加賀藩前田家の手伝普請によるもの


罹災した天守台に使われていた伊豆石/江戸城内で転用された様子



ご覧のような写真は城郭ファンなら常識のうちでしょうが、いまある天守台は、明暦の大火で寛永度の江戸城天守が焼失したあと、先代将軍の実弟・保科正之(ほしなまさゆき)が次のように献策したことから、天守台だけの修築に終わったとされています。


「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)


そしてこの時、修築された現存天守台は、高さが罹災前の7間から5間半に抑えられ、石材は伊豆石から御影石に変わり、より精緻な「切石」で積まれました。

保科正之のこの歴史的な献策によって、天守の進化は断ち切られたかのようにも言われますが、正之の言はただそれだけの意味だったのか、かなり疑問を感じています。


何故なら、ご覧のように各地の城にも、天守台を築きながら、結局、その上に天守を建てなかった例がいくつもあって…

赤穂城天守台        篠山城天守台


これらは「城持ち大名が徳川幕府に遠慮したため」などと説明されますが、そうであるならば、「遠慮」された側の徳川将軍の江戸城が、なぜ、巨大天守の尾張徳川家や紀州徳川家にも劣るような形を選んで、天守を再建しなかったのか、どうにも合点が行かないからです。


この不合理をうまく説明するためには、発想を転換して、保科正之は、泰平の世にふさわしく、天守を建てない(領民に見せない)治世のあり方を、諸大名の前で範を示すため、江戸城で果断に「天守台だけ築く」スタイルを定番化させようとした、と解釈しても良いのではないでしょうか?

つまり天守台だけの築造は、「天守の進化における最終形態を示していた」という、積極果敢な評価を下しても良いようにさえ思われるのです。





そうした意味において、たいへん示唆に富んだ文章があるのでご紹介しましょう。

ご覧の本は、江戸の都市建設を進めた人々の願望を検証した著作ですが、その前書きの中で…



江戸市中において、将軍関係の施設は大きな割合を占めていたのだが、その存在感は意外にも希薄なこともしばしばだった。将軍家には図像学的抑制とでも呼ばれるべきものが顕著に見られた。そしてそのような状態であることが好まれたのである。

このよい例は、江戸城の天守閣が焼け落ちた一六五七年にさかのぼる。その後天守閣は再建されなかったのである。幕府が困窮していたとか、太平の世にあって必要としなかったともいわれるが、筆者が思うに、これは図像学上不必要だったからではなかろうか。戦国時代には高くそびえる天守閣が必要不可欠だった。しかし、これは城主が人民を見下ろすことを可能にすると同時に、人民が城主を下から見上げることも可能にしてしまった。

しかし、古来東アジア全域で統治者は見られるということを嫌ったのである。これはヨーロッパとはまったく逆だった。ヨーロッパでは、古代ローマから、統治者はあらゆる物に自分の肖像を刻印することに心を砕き、自らの肖像画や彫像を要所要所に配置した。これに対して、徳川幕府は、自らの姿を隠したのである。


(タイモン・スクリーチ『江戸の大普請』2007)






例えば昨年の日本の政権交代後、いわゆる「姿を見せない旧来型権力」として、検察や記者クラブ制度などが批判のやり玉にあげられています。

それと似たような権力のスタイルが、江戸時代の天守の建て方においても適用されたのではないか?

そして天守は、織田信長や豊臣秀吉が得意としたヨーロッパ的な「見せる」天守から、ついに「姿を見せない」究極の方法論に到達していたのではないか? という考え方が成り立つのかもしれません。


そうだとしますと、江戸城の現存天守台こそ、天守の進化と終着点を体現した「生き証人」であって、他に替えがたい重大な価値を秘めていることが解ります。


そうした貴重な文化遺産を、ただの石積みじゃないか、と安易に考え、「破壊」や「改変」に手を貸すような者は、もはや「城」の奥義を語る資格は無いはず、とここで申し上げておきたいのです。



さて、冒頭の『SAPIO』の記事によれば、「江戸城再建を目指す会」が広島大学大学院の三浦正幸先生に作成を依頼した復元図が、6月17日に江戸東京博物館で発表される予定だそうで、どのような復元を想定しているのか、注目されます。


天守の進化の「最終形態」がここに現存しています――





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

人気ブログランキングへ

※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。