秀吉流天守台

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2011年10月06日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる






坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる




このところ、ご覧の付櫓(つけやぐら/続櫓)に特徴のある「秀吉流天守台」の話題を続けておりますが、この辺で一旦、中締めをさせて戴くため、今回は、その形状の由来について、(以前に触れた「中央櫓」よりも)ずっと直接的な原形が、琵琶湖畔のいわゆる「浮城」群に出現していたのではないか… というお話を申し上げたいと思います。


大津城天守の移築とされる、彦根城天守

同天守の初重平面

(『国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書』1960年に掲載の図より作成)


ご承知のとおり彦根城天守は、かつては琵琶湖対岸の大津城にあった天守を移築(部材転用)したものとされ、図の「多聞櫓」はやや後世の増築らしいものの、天守本体と「附櫓(つけやぐら)」は築城後まもなく揃って完成(慶長11年頃)したことが判っています。

何より興味深いのは、その天守と附櫓に転用された部材から、前身の建物(大津城天守)の概要が推定されていることで、その初重の平面は、下図のように、四角形と台形が組み合わさった形をしていたそうです。

何故そのように言えるのか、工事の報告書によれば…


前掲報告書に掲載の図(「前身建物推定平面図」)


(報告書の説明文より)

幸い各部材には旧の位置を示す番付や符合が陰刻されていて、この番付や部材寸法等により前身建物の規模を推定することが出来た。
(中略)
「一ノ一」の隅柱を調査してみると、柱への貫穴が矩の手にあけられているわけであるが之が直交せず片方の穴は斜にあけられていた。これはこの隅で建物が直角に組まれていなかったことを示す。
更に「一ノ四」の柱を見た所、貫穴はまともであったが、梁の仕口が直角でなく、斜に穴をあけられていることが認められた。
なお同種の柱が外に二丁あり、挿図の右端の柱通りである「一通り」が、桁行とは直角でなく斜になっていたものと考えざるを得なかった。
この傾きの角度は柱間六間につき一間だけ傾いているとの結果が得られた。


(※報告書には工事関係者として「滋賀県文化財係長(工事監督)大森健二、同技師(工事主任)清水栄四郎…」等とあります)


このようにして判明した傾きのため、大津城天守の一隅は約100度という鈍角(どんかく)であったとされるのですが、この角度、他の天守や天守台(例えば豊臣大坂城や犬山城)にも似たような角度がついていたことは、城郭ファンに良く知られています。


豊臣大坂城天守            犬山城天守


  大津城天守            (彦根城天守)


各天守の平面図を並べてみますと、ご覧のように「付櫓」と「鈍角」の位置関係もまた、秀吉流天守台の成り立ちに関係しているように感じられます。

―――で、ここで最も肝心なことは、<では何故、その一隅だけが鈍角なのか?>という素朴な疑問でしょう。

報告書はそうした疑問に答えていませんが、ごく常識的な連想として、少なくとも彦根城(大津城)の場合は、前身の天守が本丸石垣の鈍角の一隅に建っていたことを示唆しているのではないでしょうか?



<大津城と同じ琵琶湖“浮城”群の一つ、膳所城(ぜぜじょう)の場合は…>



本丸の左手前「隅角」に天守!/滋賀県立図書館蔵の膳所城絵図より作成


話題の大津城が関ヶ原合戦時の砲撃戦の惨状で廃城となり、その後継として至近に天下普請されたのが膳所城(現在も同じ大津市内)でしたが、以前の記事(→ご参考)で申し上げたとおり、その天守は「本丸の左手前隅角」という織田信長の天守位置を踏襲していたように思われます。

その詳しい位置や規模は発掘調査で判明していて、鈍角というよりも、やや鋭角の隅角に建っていたそうです。

そこで試しに、冒頭の彦根城天守をその位置に重ねてみますと…


膳所城天守(図の赤い天守)の位置に


彦根城天守(青い天守)を重ねてみると…

(※『膳所城本丸跡発掘調査報告書』1990年に掲載の測量図より作成)


決して二つの天守に直接の関係はないものの、ご覧のとおり、ともに直角でない隅角に対応できる形をしていて、例えば何か別の天守(言わばミッシングリンク…)を介した関連性が感じられるようです。

また、このようにして初めて合点がいくことは、彦根城天守とは、まず附櫓で「鈍角」にも対応でき、次いで多聞櫓とその石垣で「鋭角」に切り返すデザインになっていた、ということでしょう。


一方、膳所城天守にはいっそう長大な多聞櫓がめぐっていて、その石垣の屈曲の具合を見ますと、それらはなんと、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿の石塁にたいへん良く似た形状になっているのです。

膳所城の石垣             豊臣大坂城の石塁



このように一連の城郭群(豊臣大坂城…大津城…彦根城…膳所城…)は、天守周辺のデザインに関して、それぞれに影響を及ぼし合った痕跡を残しているようです。



<ならば秀吉自身の居城・長浜城や、明智光秀の坂本城はどうなのか?>



やはり大津城の天守も、本丸の左手前隅角の「鈍角」にあった!?

(※『新修大津市史』1980年に掲載の図より作成)


ここまで申し上げた内容から、諸書に掲載中の大津城の推定復元図を踏まえて、その本丸の南西隅の「鈍角」部分(現状はマンションのパークシティ大津)に天守はあったのではないか、と想定してみました。


なお、諸書の推定復元図の中には、この隅角に「橋」を復元したものもありますが、やはりこの位置が最有力だと思われます。

反面、ここから特段の発掘報告が無かったのは、廃城後の変転で天守台が失われたか、または(チョット矛盾するように聞こえるかもしれませんが…)むしろここは初めから「台」そのものが無い形式であり、あくまでも石垣の隅角の形に合わせて天守や附櫓・多聞櫓が配置されたことを、まさに「鈍角」が物語っているように思うのです。


さて、それならば「秀吉流天守台」の源流はどこまでさかのぼれるのか? という興味については、羽柴秀吉時代の長浜城や、琵琶湖“浮城”群の祖形とも言うべき明智光秀の坂本城も、当然、その射程内に入るでしょう。

おそらくは膳所城と同様に、それらの天守は「本丸の左手前隅角」が有力だと思われ、その場合、坂本城には大・小天守があった、という伝承は興味深く、きっと本丸の左手前に大天守、右手前に小天守(月見櫓?)という、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿とそっくりの形だったのではないでしょうか。


―――したがって「秀吉流天守台」は、ひょっとするとライバル・明智光秀の坂本城に産声をあげ、秀吉自身の長浜城、大津城、膳所城と続いた、琵琶湖中に突出した「浮城」群に共通の手法で築かれたのかもしれません。


そう思いますと、面白いことに、冒頭の彦根城天守は、彦根山の山頂に移築されているものの、その「附櫓」はやはり湖の方角に張り出して設けられている(!)ことに気付かされ、これも歴史に埋もれた伝承形態なのかと、ハッとさせられるのです。……



しかも「附櫓」の反対側、つまり写真の手前側が、ちゃんと城の「表」大手方面になっています。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年09月20日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・秀吉の“闘う天守”とシャチホコ池






続・秀吉の“闘う天守”とシャチホコ池


前回は、山崎城天守に始まったと思われる豊臣秀吉の“闘う天守”のお話をしましたが、そんな秀吉の天守との位置関係において、チョット興味深い間柄にあるのが、通称「鯱鉾池」(しゃちほこいけ)です。


『肥前名護屋城図屏風』(佐賀県立名護屋城博物館蔵/部分より作成)


この屏風絵は北側(玄海灘の方)から、朝鮮出兵の“大本営”肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)を描いたもので、天守は本丸塁上の北西角に(朝鮮半島および中国大陸の方に向けて)屹立していて、これも秀吉の“闘う天守”の典型でしょう。

そしてこの絵の中で、シャチホコ池は山里曲輪の手前にくっきりと描かれています。

確かに形はシャチホコの尾のようですが、実はこれが、秀吉のほかの城… 少なくとも豊臣大坂城や伏見城にも、同じ形で、ちゃんと設けられていた(!)可能性がありまして、今回は、少々余談っぽくなるかもしれませんが、このシャチホコ池と“闘う天守”の関係をお話してみたいと思います。



中世都市研究10『港湾都市と対外交易』2004年


(上記書所収/宮武正登「基地の都市「肥前名護屋」の空間構成」より)

秀吉渡海までの「御座所」として築かれた名護屋城は、標高約九〇メートルの「勝雄岳」の最高所に五層の天守を建て、その周囲に本丸以下の大小九箇所の曲輪を配した「総石垣造り」の本格的城郭であった。

これら山上の曲輪群の北麓には秀吉のプライベートルームに相当する上・下山里曲輪が置かれているが、その外濠としての機能を担う通称「鯱鉾池」に対面した低丘陵一帯は、秀吉直属軍の駐屯地区に比定されている。



肥前名護屋城の中心部分(上記書に掲載の図より作成)


ご覧のように、この城は北東にシャチホコ池をはさんで城下町(直属軍の駐屯地区+町場)と港が連なり、その反対側の南西を中心にぐるりと諸大名の陣地が広がっていました。

この点について、上記書の佐賀県教育庁社会教育・文化財課の宮武正登先生は、さらにこう指摘しています。


(宮武正登「基地の都市「肥前名護屋」の空間構成」より)

名護屋城のグランド・プランを検討するに城郭としての防御方向は明らかに南側の山間部を向いており、城下の展開方向とは背中合わせの状態にあるといえる。
(中略)
すなわち、城は南方の丘陵地帯に林立する大名陣地群との連携(ことに加藤清正、福島正則、片桐且元、木下勝俊、堀秀治など譜代・親族系大名の陣所の密集地区に面する点は重要である)、および唐津・博多への主要往還(近世期の唐津街道)との直結を眼目としており、対するに町場は諸国からの物資の輸送起着点である軍港を拠り所として独自に発達を遂げたものと推測できる。


これまで当サイトでは、織田信長や秀吉の時代は、例えば岐阜城や安土城でも明らかなように、城の片側にしか城下町(町場)が無いケースは、むしろ当たり前の形だった、と度々申し上げて来ました。

その点、肥前名護屋城も、北東の港側に城下町、その反対側に(言わば堀切か石塁のごとくに)諸大名の陣地を置いていたことが分かり、築城プランの面白さが感じられます。

そうした中で、シャチホコ池は、秀吉の“闘う天守”の膝元近くにありながらも、城の奥向きや裏方(秀吉のプライベートな領域、城の経済・物資調達をまかなう領域)の真ん中で、ひょう然と、穏やかな風情を漂わせていた感があります。





<じつは伏見城にも?豊臣大坂城にも?あった シャチホコ池>


伏見城跡に隠されたシャチホコ池の痕跡は…

(※加藤次郎『伏見桃山の文化史』に掲載の図より作成)

で、ここからは当サイトの仮説なのですが、ご覧のように、伏見城本丸の北面の直下に設けられたブルーの「空堀」部分は(…以前に私が目た時は少々水が溜まっていましたが)かつての形は、何故かシャチホコ池にそっくりであり、なおかつ周囲の曲輪の関係性も肥前名護屋城に似ているようなのです。

例えばグリーンの部分、肥前名護屋城では「秀吉のプライベートルームに相当する上・下山里曲輪」ですが、伏見城でも「松ノ丸」になっていて、これは『宗湛日記』に<木幡の関の松原を活かした茶庭と茶室があった>と伝わる曲輪であり、秀吉の側室・松の丸殿の御殿が建てられた場所です。

しかもこの松ノ丸は、慶長地震後に伏見城が再建された時、本丸とともに真っ先に完成した曲輪とも言われ(櫻井成廣『豊臣秀吉の居城』)、秀吉の居住のためには最優先される場所(=プライベートルーム?)であったのかもしれません。

肥前名護屋城             伏 見 城          

(※両図の縮尺は異なります)


さて、このようなシャチホコ池は、はるか以前の豊臣大坂城にも、その痕跡があった可能性をご覧いただきましょう。


(※両図は『僊台武鑑』大坂冬の陣配陣図、『大坂築城丁場割図』より作成)

このとおり豊臣大坂城にも、先ほどの肥前名護屋城や伏見城とまったく同じ位置(ブルーの部分)に、シャチホコ池の形を見いだすことが出来ます。


この水掘は左図の『僊台武鑑』の描写によりますと、大川(淀川)から舟で直接に侵入することが出来ますので、これこそ豊臣大坂城の物資調達の要を成す地点だったのかもしれません。

ですから、これが本当にシャチホコ池の元祖としますと、その機能は、やがて肥前名護屋城の例の「港」に引き継がれたことにもなります。


シャチホコ池とは、そうした“大坂城の隆盛の記憶”を引きずる存在として、肥前名護屋城にも、伏見城にも、大坂城と同じ位置にシンボリックに設けられたのではないか… などと考えることも出来るのではないでしょうか。


そして豊臣大坂城のグリーンの部分について申しますと、秀吉が死んで、関ヶ原合戦後には片桐且元の屋敷になったとされますが、それ以前はどういう風に使われたのか、よく判っていないようです。

ひょっとして、千利休か誰かの茶頭屋敷があったのなら、まことにお似合いではないかと思うのですが…


秀吉の城はほんとうに同じ手法が繰り返されていて、シャチホコ池も、常に各城で“闘う天守”の脇にあって静かに水を湛えていたのかもしれません。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年09月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!秀吉の“闘う天守”が出現した天王山






秀吉の“闘う天守”が出現した天王山



天王山山頂の山崎城(二ノ丸)の井戸跡/でも現地では「天王山城」と…


山崎城(京都市)は羽柴秀吉が天下取りに名乗りをあげた城であり、秀吉の城を語る上でかなり重要な存在だと思うのですが、世間的にはどうも名称の定まらない城でして、諸先生方もバラバラの名で呼んで来られました。

「山崎城」(平井聖ほか編『日本城郭大系』) 「天王山宝寺城」(村田修三編『中世城郭辞典』) 「山崎宝寺城」(西ヶ谷恭弘編『秀吉の城』)…

さらには「宝寺城」「宝積寺城」「鳥取尾山城」とも呼ばれたそうで、そもそも天王山は全国的に有名な山なのですから、冒頭の写真のとおり「天王山城」でいいのではないかと思うものの、やっかいなことに、京都府内にはもう一つ「天王山城」(綾部市)があるそうで、本当にツイてない城です。

(※ただし綾部市は昔の丹波国ですから「丹波天王山城」としてもらう手もあるのかもしれませんが…)



秀吉の天守は“次の攻略目標”を指し示していた!?

山崎城の天守の外正面 → 北向き → 次は北ノ庄城の柴田勝家が攻略目標!


さて、本題に入りますと、当ブログは以前の記事(→ご参考)で、秀吉の天守群はある時期から“次の攻略目標”を指し示していた、という仮説を申し上げました。

その最初の事例が、山崎城の天守でした。

このことから申しまして、山崎城天守とは、それまでの織田信長の天主には無かった、秀吉独自の解釈が加わった天守のように感じられ、それは言わば“闘う天守”という性格付けではなかったかと思うのです。


これまで当サイトは一貫して「天守は戦闘を主目的とした建造物ではない」「戦の司令塔(城主の御座所)でもなかった」と主張してまいりましたが、秀吉の天守群は「本丸の塁線の一角に設ける」という鉄則があり、そのような点から「天守の軍事性」を指摘される先生方(例えば城郭談話会の高田徹先生など)もいらっしゃいます。

そこでこの機会に、当ブログの秀吉流天守台の話題も兼ねて、この“闘う天守”についてお話してみたいと思います。



<はじめに 天守台の規模をめぐる疑問>

…山崎城の天守台は諸書の縄張図の想定よりずっと小さく、天守はほぼ天守台いっぱいに建っていたのではないか?




石垣の痕跡から類推できるのは、約10m四方?の天守本体と付櫓か


(※写真は拡大してご覧になれます)


これまでに公表された縄張図をもとに、天守台の規模は「東西35m南北20m」などと言われますが、現地にのこる石垣の痕跡を見ますと、それよりもずっと小さなもののようで、天守はその小さな台上いっぱいに建てられた印象があります。

この城跡はこれまで発掘調査が無かったらしく、はやく専門家の方々の調査をお願いしたいところですが、少なくとも現状の天守跡からは、前回記事の秀吉時代の姫路城と同じく、方丈建築の影響を感じ取れそうです。






初重の規模が10m四方と聞いて“ずいぶん小さい…”とお感じになった方のために挙げてみたのが、ご覧の絵でして、これは大坂冬の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城の本丸の櫓です。

(※当サイトはこれが実際には奥御殿北西の「月見櫓」だと考えています)

『兼見卿記』によりますと、山崎城天守は大坂築城が佳境に入った頃に解体撤去されていて、その規模はまさにこの櫓と同程度と言えそうなのです。……



<山崎城から始まった 秀吉とその家臣団の天守周辺デザイン>



で、前出の高田先生は、例えばご覧の「天守は城内のどこに築かれたか」という論考において、会津若松城などを例に挙げながら、次のように指摘されました。

(※なお当サイトでは、会津若松城の基本構想は、豊臣大坂城と瓜二つであることを度々申し上げています)


別冊歴史読本『天守再現』1997年


(高田徹「天守は城内のどこに築かれたか」/別冊歴史読本『天守再現』より)

会津若松城では中心部分を天守台を含んだ石塁(上部に走長屋と呼ばれる多聞をのせる)で二分し、内側を本丸として本丸御殿や茶室などを設けている。
(中略)
北出丸、西出丸から土橋を渡り、虎口を通過して帯曲輪内部に進むと、眼前に天守と天守台がその進行を阻むように立ちはだかる。

会津若松城の本丸(論考に掲載の図)

(引用文の続き)

会津若松城の天守が飾りものに過ぎなければ、あえてこのような位置に築かなくとも、本丸の奥まった位置に築くことですむ。
それがなされていないのは、この天守が侵入者を余さず監視し、また侵入者に対して視覚的な威圧感を与える役割をもっていたからと考えられる。



という風にして「天守の軍事性」が指摘されたわけですが、これに関して二点だけ申し上げたいのは、まず<「侵入者」と言うより「来城者」への威圧感の方がずっと頻度は高かっただろうこと>と、また万が一、侵入者(敵兵)の場合は、<そこまで敵勢に踏み込まれて、この城が最終的に落城をまぬがれることは100%近く有り得ないのではないか…>という厳しい戦況判断です。

それならば何故、築城者の蒲生氏郷(がもう うじさと)(…そして秀吉)は、あえてそのような位置に天守を築いたのでしょうか?


――それはきっと、本丸の最期の防衛は、天守が一手に引き受ける、という役割分担の明確化であり、かつ、その天守脇を敵勢に突破された時こそ、落城の瞬間であるという、戦闘者特有の“見切り”だったのではないでしょうか。


そんな戦闘者の“覚悟”のようなものは、おそらく織田信長の天主には存在せず、秀吉のころに与えられた性格付けであって、それがあまたの大名家の天守に影響し続けたと思われます。

で、そうした天守周辺のデザインが、山崎城に始まったようなのです。


会津若松城/天正18年(1590年)築城

山崎城/天正10年(1582年)築城


ご覧のとおり、二つの天守の位置は、ともに本丸の一角を占めながら、その反対側に天守を被うような曲輪(帯曲輪)を伴っています。

そしてこの曲輪は、例えば豊臣大坂城では「山里曲輪」(旧表御殿!)に、石垣山城では「西曲輪」に、そして肥前名護屋城では「遊撃丸」や「二ノ丸」に、という風に、しだいに変容しながら常に秀吉の城に設けられたものでした。


豊臣大坂城の場合/天守は詰ノ丸の左手前隅角


そしてこれらの天守は、かねてから申し上げている「詰ノ丸の左手前隅角」という信長の作法を応用しつつ、“闘う天守”として、うまく塁線の一角にはめ込むことに成功した、と言うことが出来そうです。

しかもそのためには「秀吉流天守台」の形状が、この上なく合致していることに、ご留意いただきたいのです。



―――では、秀吉はこのアイデアを、いつごろ、どこで、誰から得たのでしょうか?

そのヒントは、ひょっとすると(近年は殆ど聞かれなくなった用語ですが)戦国期の畿内でいくつかの城に見られた「中央櫓(ちゅうおうやぐら)」にあるのでは… と感じておりまして、これはまた回を改めてお話したいと思います。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2011年08月25日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!「殿守(てんしゅ)を上げる」若き秀吉のやり方






「殿守(てんしゅ)を上げる」若き秀吉のやり方


(※今回は画像用レンタルサーバーにメンテナンスと仕様変更があり、やむなく記事のアップが遅れ、失礼しました)


さて、当サイト「天守が建てられた本当の理由」は名称の中に「建てる」という一般的な言葉を使って参りましたが、この間にも、諸先生方の著書では「当時は天守を“上げる”と言った」との指摘が度々ありました。

私があえて「建てる」という言葉を選びましたのは、やはり番組制作でのトラウマがあって、一般の方々により広くアピールするためには、いきなり専門用語を使ってはならないという、やや四角四面な強迫観念も働いてのことでした。


ですが、今回、<秀吉流天守台>のお話を再開するうえで、この天守/殿守(てんしゅ)を「上げる」という言い方の語源的なイメージが、たいへん重要なカギを握っているようでして、この機会に是非、そうした一連の懸案をまとめてお話してみたいと思います。

(※なお、ご承知のように天守は「天主」「殿守」「殿主」と様々な漢字が当てられて来ました)



<秀吉流天守台と「方丈建築」(ほうじょうけんちく)との深い縁… その1>



姫路城天守台の土中で発見された羽柴秀吉時代の礎石と石垣

(※加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の図をもとに作成)


朝鮮出兵の本拠地・肥前名護屋城の天守台跡で発見された礎石

(※佐賀県立名護屋城博物館『名護屋城跡』1998年に掲載の図をもとに作成)


当サイトが申し上げている<秀吉流天守台>の特徴の一つが、ご覧のような礎石の配置、つまり独特な天守の柱割り(はしらわり)にあると申せましょう。

秀吉は織田家の家臣のころ(姫路城天守の築造は天正9年頃)から、天下人になってからも(肥前名護屋の築城開始は天正18〜19年)この手法を踏襲し続けたようで、その間の、豊臣大坂城もまったく同じだったと言えそうです。




かの中井家蔵『本丸図』の書き込み(図の黒字「十一間」「十二間」)によって、豊臣大坂城天守の初層のサイズは明確です。

で、その数字(黒字)は京間(六尺五寸間)での測量値と言われ、しかも当サイトが申し上げている「天下人・秀吉の天守は十尺間で建てられた」という仮説に沿って柱割りをしますと、まことに綺麗に、中央の柱間だけ基準柱間の1間半(天守本体は桁行7間半、梁間6間+張出1間)で割り付けることが可能なのです。(!)


このように中央の柱間だけを幅広にして初層を築いた天守は、おそらく秀吉の居城だけでしか見られない特異な現象でしょう。





では、これら<秀吉流天守台>に一貫した手法は何に由来したのだろうか? と想像しますと、真っ先に思い当たるのは、やはり「方丈建築」ではないかと思われるのです。

方丈建築の一例:大仙院本堂/永正10年(1513年)造営


(※平面図は『日本建築史基礎資料集成 十六』に掲載の図をもとに作成)


方丈建築と言いますのは、禅宗の寺院建築群のなかで僧侶(長老や住持)の住居として建てられたものです。

縁で囲われた室内は六室に分かれ、正面中央には儀式のための広い部屋「室中(しっちゅう)」があるものの、その他はおおむね居住用の部屋になっていました。

そしてこの「室中」に入る正面中央の柱間だけが幅広で、ご覧の大仙院本堂は「1間半」になっているのです。


(※しかも方丈建築は、正面の向かって右側に、細長い「玄関」が手前側に突き出していて、これは豊臣大坂城をはじめとする天守群の正面右側の付櫓―― 例えば彦根城や犬山城などの例を想わせ、いっそう縁浅からぬものを感じさせます)


では、この仮説のとおりならば、いったいなぜ秀吉は自らの天守に、禅宗の方丈建築の手法を採り入れることになったのでしょうか?

その経緯や人物の関与等はなかなか把握できませんが、ひょっとして、主君・織田信長の安土城天主に触発されて、秀吉もまた、姫路城天守を“住居”として築こうとした(!?)可能性は無かったのでしょうか。



<じつは戦国期から代々、姫路城天守の台上には礎石建物が載っていた…>



現存の姫路城天守


いま姫路城天守は平成の大修理の真っ只中ですが、55年前の昭和31年(1956年)にも「昭和の大修理」が行われていて、大小天守の全面的な解体修理の過程で、前出の羽柴秀吉時代の天守台跡が発見されました。

工事を主導した加藤得二技官(当時)が、発見の様子を詳しく著書に記しています。

出土した秀吉時代の天守台石垣の上端(北西から見た様子)

(※加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の写真をもとに作成)


加藤技官の著書によれば、ご覧の秀吉時代の石垣や礎石は、現天守の礎石上端から地下に0.396m〜1.965mの範囲で(深さ約5尺の浅い穴倉を伴いながら)埋まっていたそうです。

そして留意すべき点は、さらにその下からも、いっそう古い時代の礎石や瓦片が発見されたことです。


(加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年より/文中「三層閣」は天守のこと)

【赤松氏時代の礎石?の出土と貝塚跡】
秀吉の三層閣の礎石を配列する地盤から、さらに〇.七五メートル(二.五尺)、現在天守の地盤から二.六四メートル(八.八尺)下方に秀吉以前の城?の礎石三個が出土した。

(中略)
礎石はちょうど建物の東南隅石にあたるもので、これより西北方に連続するであろうとする礎石の配列は憶測の域を出ないことをお断りしておく。

姫路城の沿革によると、応仁二年(一四六八)赤松政則(則村より五代の孫)が父祖の旧領を回復した際、城地を拡張して東峰に城を築いたと伝え、くだって永禄四年(一五六一)小寺重隆(黒田姓)が旧城の近くに新城を築いた(『姫路城史』)と伝えるなどのことから考察して、この新城の東南隅に擬せられるものとされた。

(中略)
東辺に出土した旧石垣から黒田新城?の出土礎石までの距離は一九メートルある。
このことは天正八〜九年の秀吉の築城にあたって、在来構居の敷地が東へ一九メートル、南へ七〜八メートル拡張されたことを示すものであった。




つまりは姫路城天守台の土中を透視すると、こんな状態かと…


したがって、秀吉が姫路で我が天守を建てようと意気込んだ時、その場所にはすでに、別の礎石建物(黒田新城の詰ノ丸御殿?)が建っていた、という点がたいへん重要なポイントのように思われるのです。


そこで秀吉は自らの天守の初層に、僧侶の住居である「方丈建築」の手法を採り入れつつ、その上に望楼を載せて「殿守(てんしゅ)を上げた」――

という風に想像をめぐらせますと、「殿守を上げる」という言い方の最初のニュアンスはおそらく、既存の御殿の上に、さらに望楼が天高く現れた驚き(屋上屋を重ねる執拗さへの恐れ)に、最大の力点を置いた表現だったように思われるのです。

しかもご承知のとおり、近年の城郭研究では、戦国期の後半にはもう、高い山城の山頂本丸にも礎石建物(御殿)のあったことが明確になって来ています。


加藤技官の考証に基づいて描かれた秀吉時代の天守(裏表紙イラスト)

(学研『歴史群像 名城シリーズI 姫路城』1996年より)


結局のところ、「天守を上げる」という語源的イメージの背景には、中井均先生らの織豊期城郭論や千田嘉博先生の戦国期拠点城郭論に見られるような、当時の最先端の城の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に、あえて必要以上の望楼を上げることから、天守は誕生した… というストーリーが見えて来るようです。









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2011年06月01日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・秀吉流天守台 〜消えた「六十一雁木」と鶴岡八幡宮〜






続・秀吉流天守台 〜消えた「六十一雁木」と鶴岡八幡宮〜


最初に、お陰様をもちまして、当ブログが累計30万アクセスを超えましたこと、厚く御礼申し上げます。

※また先日、「のブログ」全体の緊急メンテナンスがありましたが、依然として接続しづらい状況が続いております。そのため「のブログ」では、6月13日(月)午前1時〜午後9時に第2弾のメンテナンス(20時間)を行うそうです。


さて、前回ご紹介した「秀吉流天守台」の件ですが、豊臣大坂城の方については、或る別の解釈もありうることをここで申し添えたいと思います。


二つの天守台はさらにソックリだった可能性も…


上の図のように、もしも豊臣大坂城の付壇の書き込み「石垣高サ六間」がいちばん天守に近い位置にあったならば、この付壇じたいが「幅広の石段だった」という考え方も可能になるわけでして、それは結果的に、小田原城(や肥前名護屋城)にいっそう酷似した天守台になりうる、という点です。



これは大変に魅力的な解釈であり、これによって、問題の「小さな石段」がたった五段しか中井家蔵『本丸図』に描かれていないことも、物理的に説明しやすくなります。



と申しますのは、付壇の方はどの先生方の復元においても、少なくとも詰ノ丸奥御殿の地表から3〜4間(6〜8m)の高さがあったように復元されているからです。
そんな高さを「たった五段」で登りきれるはずもなく、そこで、いずれの先生方の復元も「小さな石段」をやむなく“二十段前後の石段”としているのが実情なのです。

その点で、もしも「付壇」じたいが実は「石段」であって、高さ3〜4間の殆どをそこで登り降りできてしまうのなら、「小さな石段」の方は残りの何尺か(南に続く石塁の高さだけ)を「五段で」カバーすれば、無事に着地できるというわけです。



……これは本当に、ほんとうに魅力的な解釈なのですが、ここはやはり、『本丸図』の書き込みを尊重しまして、ひとまずこれ以上は追究しないことにしておきます。

で、今回は「秀吉流天守台」のまた別の側面――《天守の上手(かみて)に虎口あり》という、豊臣秀吉の天守群に由来するはずの法則と、その法則が“消えてしまった”天守群についてお話をしてまいります。



岡山城天守(昭和41年再建)


ご覧の岡山城天守については、以前から「安土城を模した」という『備前軍記』等の言い伝えがよく引用されましたが、正直申しまして、織田信長の安土城天主よりは、よっぽど豊臣秀吉の天守群に似ているはず(!…)と、私は信じて疑わない者の一人です。

建物じたいは比較検討が出来ないとしても、立地の場所、天守台やその周辺のプランは、どう見ても秀吉の天守群に似かよっているとしか思えないからです。


その特徴的な構造のひとつに「六十一雁木(がんぎ)」という石段があります。


岡山城「六十一雁木」の位置(当図は上が北)


城主の奥御殿にあたる「本段」の、天守に向かって右側(上手/かみて…演劇用語の“客席から見て右側”)に「六十一雁木」とその門があります。

一方、本段の南西(図では左下)の櫓門は、江戸時代には「不明門」(あかずのもん)でしたから、「六十一雁木」は奥御殿の“勝手口”として主要な出入口になっていました。


名称の「六十一雁木」はもちろん六十一段の石段という意味ですが、現状は二十五段ほどしか無く、かつては旭川の船着場までさらに石段が続いていて、全部で六十一段あったことから、その名が残ったと言われます。

しかしそれは江戸初期の「正保城絵図」において、すでに現状と同じ程度の石段しか描かれていませんので、六十一段のすべてが盛んに実用されたのは、築城者の宇喜多秀家や小早川秀秋の時代(つまり秀吉の影響がまだ色濃いころ)までなのかもしれません。


それにしては何故、「六十一」という数字が、徳川の世になっても(さもアリガタそうに)継承されたのか、ちょっと疑問に感じていたのですが、なんと…



あの鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の大石段も六十一段だった!


岡山城の築城の約500年前、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、関東の武家政権の精神的支柱として、現在の地に遷宮したのが鶴岡八幡宮です。

ご覧の表紙の写真で、大石段の上に見えるのが上宮の楼門で、左側に写っている大木が源実朝(さねとも)暗殺で有名だった「隠れ銀杏」です。




で、前回に申し上げた「小田原攻め」を終えた秀吉も、帰路にこの鶴岡八幡宮を参詣したわけですが、その時、秀吉が社殿の修理を命じた「修営目論見図」を見るかぎり、石段などの基本的な構造は当時から変わっていないようです。

どの解説本を見ましても、大石段は「六十一段」とされて来ていて(※現状は改修の結果、六十段になってしまったそうですが)武家が「六十一」という石段の数に特別な感情をいだいた理由も、ここから推察できそうです。


そこで思うのは、天守の上手の「六十一雁木」は、たんに岡山城だけの現象なのだろうか? という疑問です。


西ヶ谷恭弘責任編集『秀吉の城』1996年


秀吉と家臣団の城の“何らかの傾向”を調べたい場合、どの城を選ぶかは人によって違いが出ることもありえますので、私の好みが出ないように、例えばご覧の西ヶ谷恭弘先生の本で取り上げた城を見ますと…


秀吉直臣の城に見られる《天守の上手に虎口あり》という法則?


それは秀吉自身の天下取りの城(山崎宝寺城)に始まっていた?


まず上図の城はいずれも、天守との位置関係において、まったく同じ場所に主要な虎口(正門か、もしくはより実用的な第二の門)が必ず設けられています。

同じプランの城を西ヶ谷先生の本で数えますと、本の「秀吉の城12」「秀吉直臣の城18」のうち、天守の位置がおおよそ確定している城を計19としますと、その中の姫路城、山崎宝寺城、肥前名護屋城、伏見城、会津若松城、甲府城、和歌山城、大和郡山城、岡山城、但馬竹田城、鹿野城、洲本城、熊本城と、13の城が同じプランを採用しています。


こうした傾向は一方で、おそらくは秀吉の聚楽第を経て、徳川家の駿府城や名古屋城、福井城といった、一連の矩形の城にも引き継がれたのだろうと思われるのです。

名古屋城天守の直下の不明御門(あかずのごもん…城主らの緊急脱出用)を外から見た様子

※現在の再建天守は非常階段も見えてご愛嬌です



以上の結論としまして、実は、豊臣大坂城にも「六十一雁木」があったのではないか、そしてそれは当サイトが申し上げている秀吉晩年の本丸大改造(中井家蔵『本丸図』)で“消えてしまった”のではないか… と私は感じております。


かなり荒唐無稽な印象を持たれるかもしれませんが、でも前回の小田原城天守の長大な石段はどこから生まれたのか? 秀吉は天守に至る参道を設けていたのではないか? という疑問に対する回答が、この豊臣大坂城の“消えた六十一雁木”にあるように思われてならないのです。


それは空想の域を出ないものの、さぞや壮観であったろうと…

そして秀吉は自らの天守を、鶴岡八幡宮と対照させたのではないか、とも…








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2011年05月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!天下人の基壇「秀吉流天守台」が存在した!?






天下人の基壇「秀吉流天守台」が存在した!?


2010年度リポートの「工程の推理」の話題が一段落したところで、豊臣秀吉が「天守」の歴史にいかに貢献したかを確認するため、今回から、秀吉の天守をめぐる大胆仮説を幾つか申し上げてまいります。……


小田原城天守(昭和35年復興)


さて、お馴染みの小田原城天守は、最初の天守がいつごろ建てられたのかハッキリしないものの、江戸時代の初めの「正保城絵図」には、現状とほとんど変わらないような三重天守が描かれています。





そして現状の天守台石垣は、関東大震災での崩壊後に修築されたものですが、これもほぼ旧態(江戸時代の初め)に近い形の石垣であることは、「正保城絵図」や大震災前の古写真で確認できます。

で、この天守台の形、一見しますと徳川将軍の城(江戸城や駿府城など)に類似したプランのように感じられるかもしれませんが、よくよく見ますと、実は中井家蔵『本丸図』の豊臣大坂城の天守台と、非常に似かよった構想で築かれているのです。


なんと小田原城と豊臣大坂城が… 天守台の平面の比較(ともに左が南)



ご覧の色分けのように、双方の天守台の部分部分は、その形や高さ・面積の比率がやや異なってはいるものの、それぞれに対応する部分の配置はまったく同じです。

ただし何故か天守台と本丸(詰ノ丸)御殿の位置関係が逆になるのですが、天守台それ自体は、おそらく同一のプランから生まれたと申し上げてもいいほど似ています。

具体的に申せば、双方とも、天守台南側の石段から登ると、同じような形で張り出した続櫓(付櫓)を経て天守本体に入ること。
そして双方とも天守台は二段式であり、中段に武者走りがめぐっていること。
しかもその武者走りは、ともに天守台の二辺だけをめぐっていて、先程の続櫓(付櫓)との位置関係もそっくりであること、などです。




このようにして見ますと、小田原城天守台は必ずしも徳川将軍の天守台に一番似ている、とは言いきれない事情がお分かりいただけるでしょう。

では何故、こんなことが起きてしまったのでしょうか?

小田原城と豊臣大坂城という、意外な二つの城をつなぐ“ミッシングリンク”として考えられるのは、やはり、すぐ間近にあった、豊臣秀吉の小田原攻めの御座所「石垣山城」以外にはないのかもしれません。


小田原城天守から見た石垣山(笠懸山)…笠を伏せたような山の頂が城跡


天正18年1590年、関白秀吉が率いる約20万の軍勢の包囲によって、北条氏の本拠地・小田原城が降伏、開城しました。

御座所の石垣山城を含む小田原の地は、徳川家康の領内となり、家康の重臣による統治や、無城主の城番時代が続くうちに、江戸時代を迎えました。


その過程でいつごろ石垣山城が破却されたのかは、これまた定かでなく、一方の小田原城がようやく近世城郭として面目を一新したのは、寛永10年(1633年)、三代将軍・徳川家光の上洛にそなえた作事のおりでした。

冒頭の「正保城絵図」はその完成した状態を描いたものですから、天守台の“酷似”の原因を想像してみますと、石垣山城を管轄した小田原城主の学習なのか、もしくは伏見城の手伝い普請等による徳川家の学習と考える以外はなさそうです。


そしてさらに興味深いのが、小田原城天守台の最大の特徴である、長大な登閣石段なのです。

小田原城天守台の石段(現状)


これほど長い石段をもつ天守台は、他の城にはなかなか類例がありません。

唯一、意外な所にヒントがあって、秀吉が小田原攻めと相前後して築城を命じた、九州の肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)の屏風絵に、意外なモノがあったのです。

『肥前名護屋城図屏風』(佐賀県立名護屋城博物館蔵)の本丸周辺


ご覧のとおり、天守の手前に、小田原城の石段にも似たスロープが(!)描かれているのです。

屏風絵のこの程度の描写にこだわるのはセンシティブに過ぎるのかもしれませんが、この絵の妙に石垣を傾斜させた描写には、はっきりと意図してこの線を引いた、という感じが見て取れます。


では実際の城跡はどうなっているのか?と申しますと、残念ながら江戸時代の城破り(しろわり)のためか、該当する辺りの崩壊は激しく、一部に残る石垣を含めて三次元的な解析が必要のようです。


肥前名護屋城址/該当する周辺を天守台跡から見おろすと…


で、他に何か手がかりがないかと考えた場合、真っ先に思い当たるのは、中井家蔵『本丸図』の黄堀図に描かれた、小さな石段です。




この石段、別史料(青堀図)では省略されてしまうほどに存在感が薄く、これまでは城郭研究者の関心を殆ど呼ばなかったものです。

ですが、この石段はまさに小田原城(や肥前名護屋城)との共通性を物語る大事な存在です。

しかもこの石段を上がると、長さ「十二間」という細長い付壇があった点がかなり重要のように思われ、何故なら、この付壇は言わば「天守に至る参道」の役割を果たしていたようにも思われるからです。




となると、やはり豊臣大坂城の石段も、相当に重要な位置付けにあったはずで、これら各城に共通する手法を「秀吉流天守台」と呼ぶべきではないかと思われるのです。


と申しますのは、この手法が、やがて徳川将軍の天守台 ――つまり天守台(天守本体)の手前に小天守台が設けられ、その右側から幅広い(三間幅の)石段で登閣する形―― に発達したと考えることも出来そうだからです。

そしてその場合、秀吉の天守台は“天下人の基壇”とされたのかもしれません。

(※詳細はまた回を改めてお話し致します)



二代目・豊臣秀頼の再建天守を仮定したイラスト


さて、かなり以前にご紹介したこのイラストも、そうした秀吉流天守台の長大な石段を描いた絵であり、この頃は石段が屋根で被われていて、これが「大坂夏の陣図屏風」の天守周辺の描写につながったのだろうと考えたものです。

あれから2年越しで、ようやくこの絵の種明かしをすることが出来ました。

(※次回に続く)


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