城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
カテゴリ
城の再発見!天守が建てられた本当の理由
城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧 (249)



全エントリ記事の一覧はこちら

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

新着エントリ
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。 (4/22)
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から (4/10)
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる (3/24)
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると… (3/11)
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい (2/28)
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば… (2/14)
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした (1/30)
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば… (1/17)
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (1/3)
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い (12/21)
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること (12/7)
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から (11/23)
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も? (11/6)
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか (10/26)
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた (10/12)
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説 (9/27)
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる? (9/14)
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか (8/29)
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問” (8/15)
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する (8/2)
城の再発見!後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと?? (7/15)
城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体 (7/4)
城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない… (6/20)
城の再発見!驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか… (6/9)
城の再発見!話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった? (5/25)
城の再発見!続々・信長の「天下」――安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響 (5/10)
城の再発見!続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか? (4/25)
城の再発見!信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から (4/11)
城の再発見!続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると… (3/29)

新着トラックバック/コメント

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

アーカイブ
2008年 (9)
10月 (4)
11月 (2)
12月 (3)
2009年 (52)
1月 (4)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
10月 (4)
11月 (5)
12月 (5)
2010年 (28)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (3)
11月 (2)
12月 (2)
2011年 (24)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2012年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (3)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2013年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (3)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (24)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2015年 (26)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (2)
2016年 (25)
1月 (2)
2月 (1)
3月 (3)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (2)
8月 (3)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (2)
2017年 (9)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)


アクセスカウンタ
今日:471
昨日:1,138
累計:1,906,451


RSS/Powered by 「のブログ

2017年04月22日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。





「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、

 死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。





以前の当ブログ記事でも申し上げたとおり、現存する織田信長の「天下布武」朱印状のうち、いちばん最後のものは、下記の天正10年5月7日付け(奥野高廣著『織田信長文書の研究』より)だそうで、その一ヵ月後にはもう本能寺の変が起きるという時期に、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てた書状でした。


【神戸信孝宛朱印状】

  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、

右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿



という風に、信長は死ぬまぎわまで「天下布武」印を使い続けたわけでして、しかもこれから四国を攻め取ろうというこの書状にまで、神田千里先生や金子拓先生らが近年主張される「天下布武」の意味(→それは五畿内に足利将軍の治世を確立させることであり、足利義昭が将軍に就任した永禄11年に達成されたこと)のままの印判を押したというのは、やっぱり、おかしいだろ…… という素朴(そぼく)な疑問が、私なんぞは、どうにもぬぐえないことを申し上げました。


そして皆様すでにご承知のとおり、問題の「天下布武」の本当の意味については、もう一つの新説として、ある画期的な【アマチュアの指摘】がネット上をにぎわせております。

――― すなわち「天下布武」とは、『礼記』の皇宮を歩く時のマナー用語「堂上接武,堂下布武」の「堂下布武」をもじったものであり、この「武」には軍事的な意味合いはまるで無く、「歩く」と同義語であるため、その結果、信長がねらった「天下布武」を意訳すれば、<天皇や神仏等の既成の権威に捕らわれず、天意に沿ってわが道を普通に歩く> または <天下を闊歩(かっぽ)する> という意味になる、との驚くべき新説です。


とりわけこの新説は、二つのサイト(「平成談林」様と「Dagaya Blog」様)がほぼ同時期に言い出したところが面白く、しかも、かつて立花京子先生が「天下布武」を解釈した際の「武を布(し)く」という読み方に対して、そのような読み方は中国の古典には存在せず(!…)、言わば“和製漢語の読み方”なのだと批判している点は、まことに捨て置けない印象があります。




<言われてみれば、だれも「布武」の原典を確認してなかった?… 想定外の落とし穴>




では、諸先生方の「布武」の読み方を、ザッとふり返りますと…


(神田千里『織田信長』2014年 98頁より)

「布武」とは「武力が行きわたる」と解釈できるから、彼は「天下に武力が行きわたる」という標語を旗印にしたと考えざるを得ない。


(小島道裕『信長とは何か』2006年 38頁より)

もっとも、この時代の「天下」は、日本全国という使い方もあるが、むしろ京都を中心とする中央、畿内の意味であり、フロイスなど宣教師が用いる天下tencaの語も主にそのように用いられている。したがって、この「天下布武」の宣言も、中央を平定するという意味になるが、……


(立花京子『信長と十字架』2004年 37頁より)

まず初めに考えたことは、中国の古典に「天下に武を布き静謐と為す」というような語句があるのではないか、であった。
それをどうにかして見つけたいと願い、『論語』などをパラパラとめくってみたが、膨大な漢字の海から、そのような語句が簡単に見つけられるはずがない。

思いあまって、古典に詳しい友人の津田勇氏にこの悩みを話したら、氏はあっさりと「ありますよ」というではないか。
そして、私は、津田氏から、孔子があらわした『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』のことを教えていただいた。
『春秋左氏伝』の魯(ろ)の宣公帝の条に、「七徳(しちとく)の武」という語は存在した。



(朝尾直弘「天下人と京都」/『天下人の時代』2003年所収より)

信長は永禄十年(一五六七)ごろから「天下布武」の朱印をもちいていました。天下を武家の力で統一しようという戦略目標であり、スローガンでもあります。


ご覧のとおり、並みいる諸先生方の中で(かの朝尾直弘先生でさえも)「布武」の読み方について、中国の古典などに用例をあたってみた上で解説をされた先生は、おそらく一人もいらっしゃらなかったのではないか… そして先生方はもっぱら「天下」の意味(地理的な範囲)の方に100%の関心を向けてしまった、という、ちょっと恐ろしい状況が見えて来たのではないでしょうか。


もちろん「天下布武」は、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の第一座もつとめた禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とひっくり返した(『政秀寺古記』)と伝わるものです。

ですから、沢彦の知識が反映されたはずの「布武天下」に対して、「堂下布武」を連想した信長のシャレっ気が加えられて出来たのか、もしくは、ひょっとするとその時、沢彦の側から「堂上接武,堂下布武」の話が冗談まじりに伝えられたのか!??… そんな話を“面白い”と感じた信長の表情が、アリアリと、私の頭の中にふくらんで来て仕方がないのです。




で、かくのごとき新説が飛び出した背景には、パワフルな「検索」機能を使ってネット民が専門家の問題点をあぶりだした、2020東京オリンピックの「エンブレム騒動」を思わせる面もありそうなのです。…


(サイト「平成談林」様より引用)

自分は仏典と中国古典を徹底して調べようと、そのデータベースをチェックした。すると唖然としたほど意外に、簡単にその語源にたどり着けたのだった。

宋本廣韻:で「武」を調べると色々な例があるが、曲禮曰 堂上接武 と出ている。「天下布武」の語源となった、「堂下布武」は禮記(らいき)上の28にある。

(中略)
念のため、「武を布く」という言葉自体が中国の他の古典には在るのだろうか。結論としては 否である。諸子百家・雑家のどの書にも、全くその意味で使われた言葉は無いのだ。


(サイト「Dagaya Blog」様より引用)

布武とは「大股に歩く」の意であることが分かる。兵の行軍のように大股で歩くさまから「武」の文字を用いるらしいが意味するところは軍事とは全く無関係である。

さて、これをかの有名な「天下布武」に適用すれば「天下を大股に歩く」、意訳して「天下を闊歩する」と解することができる。



かくして「天下布武」とは「天意に沿って我が道を歩む」との意味であったのならば、そんな印判を信長が死ぬまぎわまで使い続けたことにも納得できましょうし、そうした姿に私なんぞは思わず(心の中で)拍手を送ってしまうのです。

そして私の最大の驚きは、「天下布武」にもこんな“シャレっ気”が込められていたのか、という点でありまして、思えば、自らの旗印に「永楽通宝」なんかを堂々と掲げた人ですし、自らを「第六天魔王」などと呼び、大事な跡継ぎの子らにも奇妙キテレツな命名をしたことを踏まえますと、自らの印判に“そんなことを”したとしても、何ら不思議ではなかったのかもしれません。




さて、以上のごとく、今回は【アマチュアの指摘】が「天下布武」に新たな光をあてた意義についてお話してみましたが、次回は、話題の【プロの著書】を通して「天下布武」をさぐってみたいと思うのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年04月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から





中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から





天皇を迎えに御所へと向かう関白の牛車(『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より)

前回まで三たび「聚楽第」の話題を続けてしまい、その中では故・足利健亮先生の「外郭」ラインに説得力が感じられ、そこに当てはめた『諸国古城之図』の「せまい本丸」が豊臣秀吉の築城時の本丸かもしれず、その後に二代目の豊臣秀次が、京大防災研究所が探査した「外掘」と一連のものとして、南北に縦長の本丸(内堀)を築き直したのではなかったか… などという勝手な推測を申し上げました。

これ以上、ここで勝手なことを申すつもりはありませんが、豊臣家による聚楽第の盛事というのは、いわゆる貴種の生まれでない織豊大名らが、戦国の世の勝ち抜きレースに勝った“祝祭”であったことは間違いないでしょうし、その一回目の聚楽第行幸は天正16年(1588年)の4月14日に始まりました。


映画「七人の侍」1954年公開より


で、突然ですが、日本映画の最高峰とも言われた「七人の侍」は、ご覧の菊千代の偽(にせ)系図をめぐるシーンから、この映画が<天正14年>を舞台にしていたことが分かります。

―――天正14年と言えば、秀吉が小牧長久手で戦った徳川家康をようやく臣従させ、翌年の九州遠征に向けて準備を進めていた頃であり、全国規模での勝ち組・負け組が決しようという状況が、映画の時代設定として選ばれたのでしょう。


映画はご存じのとおり、主家の滅亡で牢人となった初老の島田勘兵衛をはじめ、仕官や恩賞にもならず、ただ白い飯が腹いっぱい食える、という条件だけで六人(菊千代を入れて七人)の牢人たちが村人に雇われ、山奥の村を野武士から守るべく臨時の防備をほどこして戦い、一人また一人と死んでいく姿を描きました。

現在では私たち城郭ファンは「村の城」や島原の乱で籠城した牢人たちの存在をよく知っているわけですが、黒澤明監督がこの映画を準備していた当時は、こんな話は夢のような“ありえない”歴史的現象として監督や脚本家の目にうつったそうで、思わずこのネタ(設定)に飛びついたと言います。


時代の負け組として行き場を無くしたサムライが、おのれの技量に熱中できる場を与えられれば、そこが山奥の人知れぬ農村であっても、命がけでのめり込んでいくという「七人の侍」の特異な人物設定には、日本人として妙な説得力を感じてしまいます。

かく申し上げる私は、我が国の歴史上にサムライの価値観や行動規範があったからこそ、日本が日本たりえたのだと確信している一人でもあります。




その一方で、かの中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史がある、という興味深い新刊本を読み終えたばかりでして、その本によりますと、中国の有名なコトワザ「良い鉄は釘(くぎ)にはならない、まっとうな人は兵にならない」(好鉄不打釘,好男不当兵)は、中華人民共和国の建国(1949年)の頃までは日常的によく使われたそうです。…


澁谷由理『<軍>の中国史』2017年



全体を読み終えた感想としましては、出版社からの執筆依頼の意図(→ご覧の帯のキャッチフレーズ)のせいか、昨今の南シナ海の問題など、中国共産党の「私兵」である人民解放軍について、北京政府が完全にコントロールしきれない状態の“言い訳さがし”を、歴史的にふり返ったようにも見えてしまう点が、やや損なところのある本だなと感じました。


ですが、それにもまして、著者の澁谷由理(しぶたに ゆり)先生が指摘された、中国の歴代王朝は正規の「国軍」を編成し切れなかった歴史の繰り返しであり、そこでは常に「軍閥(ぐんばつ)」のごとき私兵集団が皇帝の直属軍を補完する立場にあって、時に犯罪者や流民・生活困窮者の収容先としての「軍」も機能していて、そんな素性の悪さから「まっとうな人は兵にならない」というコトワザが社会に定着していた、との論述は印象的でした。


(澁谷由理『<軍>の中国史』より引用)

儒学でもっとも重要なのは、家族の結合を基礎においた社会秩序の維持と、それを尊重する為政者の「仁徳」である。家族とは、生計と先祖祭祀を一にする共同体であるから、その永続こそが為政者に課せられた最大の義務である。
(中略)
収穫物をねらう外敵の侵入と農耕地の防衛は、つねにさけられない問題であり、じゅうぶんに安全を確保するためには兵力を増強しつづけるしかない。

兵力増強のためには、兵役従事期間をながくしなければならず、そうすると農地は十全には維持できない――王朝が農耕民からの徴兵にこだわりつづけるかぎり、解決策のない問題のようにおもわれる。

ところが皮肉なことにこの問題は、王朝(ないしは皇帝)が、最終責任を負わなければ解決するのである。つまり、王朝(皇帝)直属の兵にこだわらなければよい。…



ということで、農耕民を兵役につかせる「兵農一致」は古代の前漢時代に早くもほころび、その後は国防を「豪民」など様々な私兵集団に補完させる政治が繰り返されたそうで、そんな中では、かの曹操(そうそう)が、画期的でありながらも皮肉な結果をまねく政策を打ち出したようです。




(『<軍>の中国史』より引用)

「兵農一致」を維持しようとすれば財政破綻の危機があり、それを回避するために皇帝直属軍を削減すれば内乱をふせぎえないという、古代中国におけるジレンマは、かの『三国志』で有名な、曹操(一五五〜二二〇)のとった「兵農分離」政策により、出口を見いだすことになる。
(中略)
曹操は自軍を安定させるために、兵士とその家族を「兵戸(へいこ)」として、一般民(「編戸」)とは別のあつかいにした(独身の兵士にはむりやり妻帯させてまで「兵戸」をつくった)。

彼らに生活保障をあたえ徴税を免除するかわりに、永代(父子ないしは兄弟間でかならず欠員をうめる)の兵役義務を課し、兵士が逃亡した場合、あるいは反乱をおこしたさいには家族全体に重罰をくだすことにした。

(中略)
しかし特別な待遇をあたえられた「兵戸」も、けっして特権層にはなっていかなかった。一般人とは戸籍が区別され、生まれながらに家族もふくめて戦闘要員として拘束され、農耕定住民になれないかれらは、特殊な境遇ゆえにかえって蔑視(べっし)されるようになる。


という風に、曹操の政策は、兵の安定供給には役立ったものの、兵士を一般の農耕社会から遠い存在に追いやってしまったようです。

ちなみに「兵農分離」と言えば、それを日本で最初に断行したのか?していないのか? と議論の的になっているのが織田信長ですが、本日の話題から申せば、少なくとも信長の家臣団は、恐れられたとしても“蔑視された”形跡は無いようですから、日中間の「兵」をめぐる環境は(実は…)天と地ほども差があったのかもしれません。


ならば、それはいったい何故?? という疑問が、日本人としては当然、気になるわけです。


我が国も古代の律令制下では国軍を編成できたものの、土地の私的所有が進んで律令制が崩れ始めるとそれも難しくなり、やはり私兵集団の「武士」が、各地で軍事的な要求に応えて跋扈(ばっこ)し始めました。


ご承知のとおり「武士」の厳密な起源や定義については、学問的にはいまだ議論のただなかにあるようで、そんな中では、山本博文先生の「政争に平氏や源氏の武士団が私兵として使われるようになると、最初は利用したつもりだったのでしょうが、次第に武士団の軍事力が天皇や上皇の権力を圧倒するようになります」(『歴史をつかむ技法』)という解説が解りやすかった記憶があります。

すなわち、平安時代の王朝国家において、皇位の継承をめぐる「皇統」のあらそいという、日本社会ではそれを上や横から仲裁できない“雲の上の紛争”が起きてしまった時、それを軍事的に“決着させる手立て”として「武士」団(→具体的には保元の乱の平清盛ら)が日本社会にとって欠かせない立場を得たのだ、という山本先生の解説でした。


そのうえ「蔑視」云々では、ざっくばらんに言って、マニュアルどおりに軍務に従事すればいい国軍兵士と、プロフェッショナルな家業の技で敵方と闘う武士(場合によってどちらの味方にもなりうる存在)との違いだろう、という感触が私なんぞにはありまして、では、どちらが尊敬の念を得られるかと言えば、やはり武士の方が、例えば那須与一(なすのよいち)のごとき、あっぱれな武芸で、人々の共感を得やすいというアドバンテージがあったのではないでしょうか。


那須与一像(渡辺美術館蔵/ウィキペディアより)


―――であるならば、例の織田信長が掲げた「天下布武」という謎の文言のうち、「天下」の語意については近年の議論があるものの、一方の「布武」はどうなのかが気になります。

基本的に儒教の体系のなかにある『春秋左氏伝』の「七徳の武」を使って、かつて立花京子先生は「布武」を解説されましたが、本当にそういう中国流の「武」だけで「天下布武」を解釈して大丈夫なのでしょうか?

これには信長自身が「武士」社会に対してどういう態度を取っていたのか、という基本的な事柄を含めて、今回申し上げた話題のとおり、単純な中国語の引用だけで「布武」を考えますと(→日中間の「武」の違い?/「武士」はすでに天下の裁定者?) けっこう大きな間違いをおかす危険があるようにも思えて来たのです。…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年03月24日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる





せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる




前々回ブログの「一回だけ」がまったくのウソになってしまって恐縮しごくですが、前回に申し上げた「本丸が縦長になったのは二代目・豊臣秀次の改造なのでは?」との手前勝手な推測は、そもそも、こんなに「せまい本丸」で、豊臣秀吉による一回目の聚楽第行幸は可能だったのか、という問題がクリアされなければ話にもなりません。

そこで今回は、この一点だけにしぼって、せまい本丸でも行幸は可能だったのかを図上演習で試してみようと思うのですが、まずは、ご覧の『諸国古城之図』のままの本丸を、より詳細な地図とともに拡大してみますと…





この図はあくまでも、仮定(足利健亮先生の外郭ライン)の上にもう一つの仮定(『諸国古城之図』のせまい本丸)を重ねて出来たものであり、内掘の北側三分の二や天守台の位置が京大防災研究所の地中探査に即しただけですから、あまり細かい事を申し上げてもなんですが、ご覧の本丸の中は190m四方ほどになります。

で、こうしてみますと、ここでも伝承地名がいくつも目につき、例えば馬出し曲輪(旧南二ノ丸?)に「須浜町」「須浜東町」があったり、そのまわりに「下山里町」「亀木町」「高台院堅町」「天秤丸町」等があったりするものの、これらはすべて縦長の本丸に由来した町名と考えなければ説明がつきません。

――― といった中でも、ご覧の本丸の内側にある「山里町」「多門町」だけは、ひょっとしますと、この「せまい本丸」の時点まで由来が遡(さかのぼ)れる地名なのでは… という風に考えられなくもなさそうです。

(※ちなみに、図らずも「中立売通」など幾つかの通りが、内掘の形と微妙な感じで合致してしまうのも不思議です)


そんな「本丸」のど真ん中、中立売通に面した ライフコーポレーション西陣店

この地でかつて、天皇を迎えた世紀の饗宴が行なわれたのですが……



(※休館中の上越市立総合博物館蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻より)


さて、ではここで「聚楽第行幸」とは、そもそも何が行なわれたのか? を確認しておく必要がありましょうが、大村由己が秀吉の命令で書いた『聚楽行幸記』によれば、おおよそ次のような日程でした。

初日:行列による聚楽第入り/歓迎の宴/夕方から天皇公家自らの管弦 

二日目:天皇公家への洛中地子献上と諸大名の誓紙提出/引出物の披露と酒宴

三日目:清華成り大名もまじえた和歌の会

四日目:十番におよぶ舞楽の上覧

最終日:行列による還幸



そして行幸の実施に必要な“面積”を考える場合、大切な要素になるのが、行列に加わり五日間の催しに参集した公家衆というのは、夜もふければ各々の屋敷に引きあげ、翌朝はやくに再び出仕する、という内裏での行動パターンが聚楽第でも踏襲されたことでしょう。(もちろん武家衆も同様)

それは『聚楽行幸記』の「次の日は、公卿とくまいり給ひて 早朝し給ひしとなり」という部分にも表れていて、したがって聚楽第の本丸に宿泊したのは「今上皇帝(後陽成天皇)」「准后(新上東門院)」「女御(近衛前子)」とその側に近侍した人々だけということになりそうです。


そうした中で注目すべきは、秀吉自身の動き方と言えそうで、下記の引用文には「まうのぼる」という言葉が何度か登場するため、あらかじめその意味をご覧いただいたうえで、『聚楽行幸記』の注目の部分をご覧いただけますでしょうか。

(Weblio古語辞典より)
まう−のぼ・る 【参上る】
貴人のもとにうかがう。参上する。▽「上る」の謙譲語。
出典源氏物語 桐壺
「まうのぼり給(たま)ふにも、あまりうちしきる折々は」
[訳] (桐壺(きりつぼ)の更衣が帝(みかど)のもとに)参上なさる場合にも、あまりたび重なる折々には。



(『聚楽行幸記』より/赤文字が秀吉の移動を示した部分)

【初日の行列で、天皇公家が聚楽第に先に着き、秀吉の到着を待つときに】

上達部、殿上人、便宜の所にやすらひ給ふに、殿下(=秀吉)御車四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、まうのぼりたまふてより、御座につかせ給ふ時、殿下(天皇の)裾(すそ)をうしろにたたみ、御前に畏(かしこ)まりて、御気色を取り、しばし候はせ給ひて、罷(まか)りしりぞき給へば、御殿の御装束もあらためらる。
ややありて、殿下又まいり給て、おのおの着座の規式あり。



【二日目の諸大名の誓紙提出が終わって】

さて、今日は和歌の御会とさだめられつれども、御逗留の間、翌日までさしのべ給ふ。殿上も、ゆるゆるとして、なにとなきうらうらの御すさみ計なり。
殿下(=秀吉)も、何かの事取まぜ沙汰し給ふとて、申刻(さるのこく=午後4時)ばかりに、まうのぼり給ひぬ。献々の内に御進上物。
一つ、御手本。則之が筆千字文。金の打枝につくる。…

(中略/各々への引出物に領地献上の折紙がそえられて配られ)
各(おのおの)歓喜し給ひあかず。なを、ふけ過ぐるまで御酒宴。
殿下たち給ひて後、いよいよ御かはらけかさなりて、みな酔をつくし給ふなり。




ごく一部分ですが、この文面からお感じになれたでしょうか、秀吉自身は形のうえでは“まねいた側の屋敷の主人(あるじ)然”とは全くしていなくて、あたかも迎賓館の支配人? か何かのごとくに、賓客の気分をはかりながら、いちいち時間はかかるものの最小頻度で、かつ的確に、天皇の前に姿を見せていた点が、私なんぞはものすごく意外に感じられてならないのです。

しかもこれが、天下人・秀吉が命令して書かせた『聚楽行幸記』でこの調子なのですから、これは何かあるぞ、という興味がわいてきて、秀吉の「まうのぼる」とはどういうことなのか、単なる謙譲語に過ぎなかったのか、それとも何か特有の行動パターンを示した言葉なのか、確認してみたくなったのです。

そこで、明確な絵図のある二条城(御水尾天皇の行幸があった寛永再築の「二條御城中絵図」)を使って何か分からないかと思い、ためしに冒頭の「せまい本丸」の「山里町」に、二条城絵図の「二ノ丸庭園」をちょうど重ねる形で(もちろん同縮尺で、方位は若干調整して)ダブらせたところ…




ご覧のとおり、二条城二ノ丸の主要な殿舎は「せまい本丸」に収まったものの、肝心の御水尾天皇を迎えた行幸殿などは、「山里町」にダブリつつ「せまい本丸」からはみ出てしまう形になりました。

つまり、このままでは二条城の行幸のように、二ノ丸に時の将軍・徳川家光がいて、本丸に大御所・徳川秀忠がいて、そのうえで行幸殿に御水尾天皇を迎えるという、三人の主要人物がそろって城内に居並ぶ形は、とても無理だということが判ります。

そこで話題の、秀吉の「まうのぼる」とはどんな動きなのか、という事柄になるわけですが、例えば…




思い切って、大御所・徳川秀忠がいた二条城本丸をグ――ッと西側に切り離して、ちょうど「加賀筑前守」邸がある辺りまで移動させてみた図です。

こうしてみますと、「せまい本丸」とその「加賀筑前守」邸の間にあるのは、現在「多門町」と呼ばれる場所と、旧南二ノ丸よりずっと簡略な「馬出し」がありまして、その延長線上に「加賀筑前守」邸の門が位置していたようにも感じられます。


! と、ここで気づくのが、二条城本丸の門と言えば、現在は解体されたままで復元計画の話もある二階建ての「橋廊下」があって、それで本丸と二ノ丸の御殿と行幸殿とが互いにつながっていた(=地上に下りずに行き来できた)ことが思い出されます。

ということで、例えば、例えばですが…




秀吉の「まうのぼる」とは、こういうことではなかったのか―――

またまたトンデモない仮説を申し上げて恐縮ですが、この間の秀吉の居所は「加賀筑前守」邸の御成り御殿にあったのだと仮定して、そのぶん、本丸はほぼすべて天皇に明け渡すかたちが取られたとしますと、臨時の橋廊下を使った「まうのぼる」動きは、いやがおうにも諸大名の目に印象的に見えた(見せられた)のではないでしょうか?

で、かくのごとき行幸のあり方は、過去の室町将軍邸の行幸においても似たような形が取られておりまして、例えば永享9年、将軍・足利義教の邸では、主屋である「寝殿」を後花園天皇に明け渡して御在所とし、義教自身は「会所」や「常御所」を自らの御殿としたそうです。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収より)

天皇の御在所となる寝殿において、着御・還御の儀や晴の御膳、和歌御会、舞御覧、贈り物の儀など多くの行事が行なわれたこと、その一方で室町将軍邸や中世住宅で注目されている会所では、釣殿になぞらえて使用した詩歌披講を除くと、最終日の一連の一献の儀しか行なわれていないことがわかる。
最終日の一連の会所における一献の儀に際しては、たくさんの献上品が義教から天皇に贈られているので、寝殿が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所は義教の御殿という認識があったものと考えられる。



という風に見てまいりますと、むしろ二条城の徳川による行幸の方が“異様な御殿配置”がなされていて、本来ならば、大御所・秀忠の本丸にこそ後水尾天皇を迎えるべきところを、あえて二ノ丸の“門の脇に”行幸殿を押し込めたのだという、徳川の姿勢(レジームチェンジの視覚化)が如実に分かって来ます。

そこでこの際、秀吉の「まうのぼる」姿をもう少し具体的に想像しますと、前出の『聚楽行幸記』の引用部分で、天皇公家に遅れて聚楽第に着いた秀吉が牛車でくぐった「四足の門」とは、「加賀筑前守」邸の御成り御殿の「門」だということになり、そこから「まうのぼる」臨時の橋廊下の形は、二条城とは若干異なって、あえて秀吉の行き来(=政治的デモンストレーション)が丸見えになる開放的な箇所もあったのでは… などと想えて来るのです。


殿下御車 四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、

まうのぼりたまふてより、(天皇を)御座につかせ給ふ時、……






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年03月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…





大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…


前回、この一回だけ、と申し上げておきながら、記事のラストでお見せした「合体図」が、あのままほおってはおけない代物(しろもの)であったようで、下記のごとく見づらく、判然としない状態では、何が問題なのか、ご説明することもままなりません。






そこで今回は、ご覧の『諸国古城之図』(山城 聚楽)は大名の名の当て字が多く、なおかつ屋敷地の場所も違うのでは?と指摘される部分があるものの、それらはひとまずこのままにして、明らかな書き間違いと思われる「細川中越守」「有馬法印」「牧野民部」の三箇所だけ、それぞれ「細川越中守」「前田法印」「牧村民部」と訂正して清書してみますと…





ご覧の図は、前回の説明どおりに、足利健亮先生の思い切った聚楽第「外郭」ラインに沿う形で、堀川と天守台の位置を合わせつつ『諸国古城之図』をはめ込んだものであり、本丸の周辺は『諸国古城之図』のままにしてあります。

このように清書してみて、一見して気になる問題は、大名屋敷の面積が、どれも本丸に比べてけっこう大きいのではないか? という点でしょう。

とりわけ「三好孫七郎(後の豊臣秀次)」「大和大納言(豊臣秀長)」「(徳川)家康公」の三つの屋敷地は、面積で本丸を上回ってしまい、不自然さがいなめません。


文献の記録に照らせば、徳川家康邸は『小牧陣始末記』に「浮田ガ屋敷向カハ三軒ヲ一ツニシテ可進トアリテ是ヲ被進。何レ二町余有リシトナリ」という風に、豊臣秀吉が特別に「二町余」の広さを与えたことが書かれていて、さらに豊臣秀長邸と同じ広さにせよ、と命じたとも伝わっています。

「二町余」と言えば、六尺間の場合、二町(216m)×一町(108m)と少々という意味ですから、図の左下の250mスケールを参照いただくと、家康邸も秀長邸も明らかに大きすぎるようです。


そこで、そこでなのですが、前回に申し上げた「鉄(くろがね)門」は、当図では黒門通と下長者町通の交差点の東側になり、ほぼ正確な位置に来ているようですから、ここで思い切って、当図の下長者町通から下の部分を、縦に(南北に)半分強ほどのサイズに縮めてみることにいたします。





!! 図の下の方がガバッと空いてしまいましたが、これならば、家康邸や秀長邸は文献どおりの広さになりますし、さらに大名屋敷街の中央の通りを広くとれば、黄色く下地を塗った「浮田宰相」「脇坂中務」「加藤左馬助」の三大名(宇喜多秀家・脇坂安治・加藤嘉明)の屋敷がちょうど、かつての浮田町・中書町・左馬殿町の位置に、うまく三つ並んで合致することになります。

したがって、前回に申し上げた「家康公」邸と二条城の位置は離れてしまうものの、この方が大名屋敷の面積と伝承地名をふまえるなら、より正しい姿であろうと言わざるをえないのです。…

そしてこの場合、「金吾中納言(後の小早川秀秋)」ただ一人が、面積で本丸に匹敵する形になり、これは聚楽行幸の際、諸大名の起請文の差出し先が「金吾中納言」宛てであって、この時点では秀吉の後継者と見なされていたことと符合するようでもあります。





さて、そもそもこの図は『諸国古城之図』どおりに、本丸と南二ノ丸(馬出し曲輪)の南側に広大な空地がありますが、これについては『川角太閤記』に、秀吉が小田原攻めの凱旋の祝賀として、あの「金配り」を「三の丸の大庭」で行なったとありまして、櫻井成廣先生は「広い空地が描かれているがこれこそ有名な金配が行なわれた二町の白洲と思われる」(『豊臣秀吉の居城』)と解釈しました。

しかも面白いことに、林羅山の『豊臣秀吉譜』では「金配り」のやり方として、二町の範囲に金銀を台に積み上げ、秀吉自身はその「門戸(本丸虎口?)」の側に座り、秀長はその「東」側に座って!! 金銀の配布を受けたと書いてあり、どうやら秀長は、自らの屋敷の前に陣取っていたようなのです。

かくして文献ではこの場が「三の丸」と伝わっているため、当ブログは『諸国古城之図』の問題の黒い太線を、仮に「三ノ丸築地塀」と呼ばせていただくことにしたいと思うのですが、あえて築地塀としたのは、二代目の豊臣秀次がこの太線の内側にわざわざ「外掘」を掘ったのは、それが防御面ではやや弱い築地塀だったからに他ならないと感じるからです。


さて、この図でもう一つ申し上げたいのが、有名な「日暮(ひぐらし)門」の正体です。




これまで「日暮門」と言えば、その美しさが聚楽第の門で第一と言われ、「聚楽城の巳(み)の方に有て南にむかへる門也。其(その)工(たく)み美々しく、見る人立さらで日をくらす故、名付たり。今の日暮通は其門ありし筋とかや」(『菟芸泥赴(つぎねふ)』)といった具合に、現在の日暮通の名の由来になり、おそらくは聚楽第の内城の南門(正門)であろう、などと言われて来ました。

しかし私なんぞは、上記の文献の「聚楽城の巳(み)の方に有て」という部分が、どうも引っかかるのです。 と申しますのも、もう一度、図をご覧いただくと…




ご覧のとおり、今やどう頑張っても、現在の日暮通を、聚楽城(地中探査で判明した本丸)の位置の巳(み=南南東かそれよりやや東)の方角に持って来ることは出来そうにありませんし、また日暮通そのものが本丸や南二ノ丸の「門」にぶち当たるとも思えませんから、ここはむしろ、あっさりと、日暮門とは、本丸の南南東にあった「大和大納言」邸の御成り門!! と考えた方が、解決が早いのではないでしょうか?

そう考えますと、図のごとくに、現在の日暮通が鍵の手にまがる位置で御成り門=日暮門を想定できそうですし、秀長は天正15年8月にすでに大納言に昇進していましたから、ここに華麗な四脚の唐門があっても不思議ではありません。

しかも上記文献の「南にむかへる門也」という書き方は、ひょっとすると、その意味は、南に向かって入る門、つまり北側が門の表であった、とすれば、まさに本丸からやって来る兄・秀吉を迎えるために、秀長は諸大名の模範となるべく、日本初の?豪華絢爛な「御成り門」をここに構えたのだとも思えて来るのです。




それでは、この図の最初の疑問点 → 南側のガラッと空いてしまった範囲は、いったい何だったのか?というお話ですが、ここは決して空地ではなく、大名屋敷か、町家か、何かがぎっしりと詰まっていたことは間違いなさそうです。

そう考えるヒントとして、前出の櫻井先生は「南方二条城の南隣には最上町がある。そして伊達家の古文書によると最上邸は伊達邸の次であったことが分かるから、伊達政宗邸の位置は今の二条城の東部に当ったのであろう」(『豊臣秀吉の居城』)と推理しておられ、したがって最上義光は、残念なことに「外郭」の外に押し出されていたと言うのです。


ならば、伊達邸のほかは何だったかと言うと、同書の「脇坂、加藤左馬、長宗我部、早川等は皆水軍の将であったから聚楽南部は水軍諸将の邸が集っていたことになる」という指摘は、何らかのヒントになるのかもしれません。…

では、そんな櫻井先生の著書の指摘をすべて加味し、また同書に掲載の『聚楽第分間図』(『諸国古城之図』と同種でありながら若干異なる)もふまえて、もう一度、図を修正しますと…


櫻井先生の著書にしたがって、名前や境界線を修正すると…(黄緑色が修正箇所)



きっと、これでも詳しい方がご覧になれば、色々と問題があるのでしょうが、今回、最後に申し上げておきたいのは、この後、天正19年の「京中屋敷替え」による大名屋敷の大規模な移転と、文禄2年の「北ノ丸」新造についてであり、どちらも二代目・豊臣秀次の関白就任(聚楽第の城主)や二度目の天皇行幸と同時期のことで、無関係の事柄ではないでしょう。

それはとりわけ「北ノ丸」新造が、以上の築城プランの全体像に、少なからぬ変更を強いたように感じるからでして、ただ単に本丸北側の屋敷を“どかせばいい”では済まなかった事情(→慢性的な屋敷地の不足)を想像すると、より大きな改造計画に付随した普請であったようにも感じるからです。


【ここで最終の修正図】

森島康雄先生が想定する「京中屋敷替え」後の大名屋敷地区(青枠)を加えてみれば…


(※京大防災研究所による内堀・外掘も図示しました)




ご覧の大名屋敷の移転例を示した「矢印」のごとく、天正19年「京中屋敷替え」の結果、おそらく秀吉時代の大名屋敷街は、スカスカに抜けて、空地だらけになったことが想像されますし、そんな築地塀の内側はやがて、ことごとくが二代目・秀次の「外掘」でつぶされたことになります。

ですから昨年、京大防災研究所チームが明らかにした「外掘」と、ご覧のように縦長の本丸を囲った「内堀」というのは、そもそもが一連の、秀次時代の“聚楽第改造プラン”による城構えだったのでは… という気もして来るわけです。


で、森島康雄先生の研究(『豊臣秀吉と京都』他)によれば、新たな大名屋敷地区が軒瓦までキンキラキンになったのも天正19年以後、つまりは秀次時代のことだった!! という再認識が不可欠のようで、以上の結論として、聚楽第とその周辺は、二代目の秀次のときに、本丸を縦長に拡張しつつ、二重の堀で城構えをギュッと凝縮(ぎょうしゅく)させ、そのかわりに、内裏(だいり)とつながる街路の方へ大名屋敷を追いやり、そこを大量の金箔瓦でまばゆく変貌させたようなのです。


――― つまり、ある意味、秀次は関白の「城」兼「政庁」として、聚楽第が本来やるべきことをやっただけ、という風にも見えるものの、そんな果敢(かかん)な秀次の行動は、結局、裏目に出てしまったのかもしれません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい





言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい


< 昨年の外堀跡の地中探査によって、聚楽第は
 「面積が従来の推定より約6割も大きかった」
  との報道がありましたが、そういう言い方は正しかったのか。

  むしろ逆に、築城当初よりも“小さくなっていた”!? のでは… >



またか、と思わずに、是非ともこの一回だけお読みいただきたいのですが、下記のような報道における「約6割も大きかった」という言い方(→比較のしかた)に対する疑問についてです。


日本経済新聞 電子版(2016/3/12)
「聚楽第に大規模な外堀 京大など、表面波探査で確認」より

豊臣秀吉が京都に築いた城郭兼邸宅「聚楽第」跡で大規模な外堀の跡が確認され、面積が従来の推定より約6割も大きかったことが分かったと、京都大防災研究所や京都府教育委員会などの研究チームが12日までに発表した。


たびたび引用した当図も、同じ報道発表を扱った京都新聞のもの


ご覧の京都新聞産経ニュースなど、同じ報道発表を扱った記事でも「従来の約1.6倍に広がり」という風に、聚楽第の「面積」が変わったことを伝えておりまして、これはおそらく、京大防災研究所チームが発表した内容を、そのまま直裁に(細かい付帯情報をネグった形で)報道したからなのでしょうが、きっと城郭ファンの皆様は、この点で「アレッ?」とお感じになったことでしょう。

と言いますのも、ご承知のとおり、江戸時代に描かれた聚楽第の内堀の痕跡(京都図屏風/洛中洛外地図屏風)に比べれば、そこに外掘が加われば「6割も大きい」ということにもなるのでしょうが、そもそも、それ以前の豊臣秀吉の築城当時は、下記の絵図のごとき “さらなる広がり” があったことは、城郭ファンの間では、常識の事柄だからです。


広島市立中央図書館蔵『諸国古城之図』山城 聚楽


ですから「6割も大きかった」という言い方は、こうした予備知識がまったく無い一般の方々に対しては、間違った情報伝達(ミスリード)をしてしまったのかもしれません。

歴史の真相としては、豊臣秀次による「外掘」の築造(今回の発見)で聚楽第は「6割も大きかった」かどうかは、極めて疑わしく、むしろやや“小さくなった”のではなかったか―――という気さえ、私なんぞはしてならないのです。


ここで基礎的な確認事項とすべきは、秀吉時代の「外郭」と秀次時代の「外堀」はもちろん別次元のものであり、なおかつ、秀吉時代の「外郭」と上記絵図の黒い太線(石垣をともなった築地塀の類いか?)もまた別のものであった可能性を考慮しなければならず、その場合、我々が「外郭」と呼んで来たのは、上記絵図で申せば、徳川「家康公」屋敷なども含んだ武家屋敷街の全体を指していたのかもしれない、という点でしょう。




そんな「外郭」の広さ(面積)については、聚楽第をずっと研究して来られた森島康雄先生でさえ、「考定作業は極めて困難である」(『豊臣秀吉と京都』)という風に、ザックリとした推定もおっしゃってはいない状態です。

そんな中で、かつて『地理から見た信長・秀吉・家康の戦略』等で話題になった人文地理学者の故・足利健亮(あしかが けんりょう)先生は、著書に思い切った想定図をのせておりまして、それを見た当時は、私なんぞは「本当かなぁ…」と首をかしげたものですが、現在に至ってみると、足利先生が想定した広大な外郭が、かえって説得力を持って来たようにも感じられるのです。…


足利健亮編『京都歴史アトラス』1994年(\6500…図書館でどうぞ)

(同書より)

聚楽第の広さについては、「中四方千間」、つまり、周囲1000間(1800メートル)と記す史料(『兼見卿記』)と、「四方三千歩の石のついがき山のごとし」、つまり、周囲3000間(5400メートル)と記す史料(『聚楽行幸記』)の2つがあり、これによって内郭と外郭、すなわち文字通り大規模な「城郭」構造であったことがわかる。
(中略)
内城の外は有力大名の屋敷地区で、それが外郭をなしていたと考えられる。外郭の広がりは、東を堀川、西を千本、北を元誓願寺、南を押小路で囲まれる5400メートルの外周長をもつものであったと推定される。


こんな足利先生のきっぷのいい?見立てと同書掲載の想定図を参照しつつ、そこに京大防災研究所による内堀・外堀を合わせて地図上に示しますと、なんと、なんと…




!! 後の二条城までもがすっぽりと収まる範囲が「外郭」(=武家屋敷街の全体?)であったのだとしていて、一方の小さい方(『兼見卿記』)の外周1800メートルというのは、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸だけをぐるっと囲んだ範囲が1800メートル強にあたるのだと、足利先生は解説していました。

したがって、聚楽第の面積をその小さい方で考えた場合は、秀次時代の「外掘」を加えた範囲がやや広くなりますから、報道のとおりに、外堀の出現で聚楽第は以前より「大きかった」(大きくなった)ことになります。


ですが、その小さい方では、とても有力大名の屋敷街を囲い込むことは出来ませんので、やはり大きい方(『聚楽行幸記』)を考えざるをえなくなり、その場合は、上記の図のごとく、秀次ら主従は、外郭(二ノ丸)北部の大名屋敷を“食いつぶす”形で、「外堀」をせっせと掘って巡らせたことになるわけです。!!

――― となれば、報道の「6割も大きかった」という言い方じたいが、本当に意味があったのか?…という気がして来ませんでしょうか。

むしろ実態に合った言い方としては、“城をスリムに凝縮(ぎょうしゅく)した”とか“大名屋敷を切り捨てて、二重の掘を実現したのだ”といった言い方のほうが、まだ正しいように思えてしまうのです。




では最後に、少々乱暴なやり方ですが、上記の足利先生の「外郭」を示した図と、右側に並べた『諸国古城之図』山城 聚楽とを“合体”させると、果たしてどうなるでしょう。

基本方針は「本丸北西隅の天守台の付け根」と「堀川」をうまく合致させるようにして、そのため『諸国古城之図』の右側はやや幅をせばめ、左側はやや幅を広めるなどしつつ、見た目の違和感が無いようにダブらせますと…




これの左側は、地図や絵図を3枚も重ねた状態ですので、見づらいことこの上なくて恐縮ですが、じっと目をこらしてご覧いただきますと、色んな“符号点”が見えてまいります。

例えば、何故か、築城当初の状態と言われる『諸国古城之図』の本丸とその南側の馬出し曲輪が、実際の探査で判明してきた縦長の本丸の範囲に、ピッタリと収まってしまうこと。(→下図も参照。改築の疑い?)

しかも、黒門通は、この通りの下長者町付近に聚楽第の「くろがね門」があったことが由来と言われますが、ご覧の合体図では、まさに黒門通と下長者町通の交差点の東側(=外側/猪熊通にも近い地点)で、例の黒い太線上の東門がしっかりとダブって来ること。

(※そのうえ、秀次時代の「外掘」の一部が、その東側すぐの場所を遮断!!している点は、何かゆゆしき事態を示唆しているのか… それともこれは秀吉時代から在る、『探幽縮図』にも描かれた「橋」の証拠なのでしょうか?)



そしてこの場合、前出の徳川「家康公」屋敷と、後に家康自身が築いた二条城とは、ほとんど同じ位置(二条通の北側ないしは突き当たった場所)にあたり、しかも外郭ラインの南東隅を利用して築城を行なった可能性がうかがえる(→まことに家康らしい、二条城の選地の動機か)という、思わぬ結果まで見えて来るのですが…。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年02月14日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…





伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…




前回は加藤理文先生の『織田信長の城』からインスパイアされた仮説を色々と申しましたが、すでにご覧のこの図のうち、天主台下の不思議な礎石列が「階(きざはし)」か「懸け造り」だったかという問題では、そもそも、出どころの『信長公記』の語句がやや気になっております。


と申しますのは、『信長公記』に書かれている語句は、よくよく見れば「階」ではなくて「階道」という二文字になっておりまして、古文の用例として「階」と「階道」はどう違ったのか、まったく同じ意味と受け取っていいのか、その実情について、残念ながら私には知識がありません。

(『信長公記』より)

… 其次、他国衆。各階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候なり。

ですから、この「階道」という語句には、まことに素人っぽい印象しか持ちえないわけですが、この語句を「階(きざはし)状の道」だと受け取るならば、冒頭の図のごとき「懸け造りの柱の間を登っていく階段」とイメージするのも、そう無理な話ではないように感じるのですが、どうなのでしょうか。


ちなみにもう一点、補足させていただきますと、そうした「階道」と立体交差する形で、従来から言われて来た伝本丸への通路もあったはずだと思われますので、念のため、図に書き加えておきたく存じます。



※        ※        ※


さて、ことほど左様に、安土城の実像はたいへんに謎が多く、前回の記事では『完訳フロイス日本史』の「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」という記述について、ひょっとすると、千田嘉博先生の御殿配置の考え方ならば、伝二ノ丸の「奥御殿」にそういう「広大な庭」を想定する余裕も生まれるのでは… などと勝手な推測を申し上げました。




と言いますのも、研究者の方々は「広大な庭」がどこに当たるのか、発掘調査でそれらしき遺構が見つからないため、例えば未調査の「八角平」や「馬場平」ではないのか? といった声が過去にあがったものの、同じく未調査の「伝二ノ丸」を想定した声は、なかなか主流になれず仕舞いでした。

その理由としては、やはり伝二ノ丸にはそれ相応の「奥御殿」や「本丸表御殿」を想定した先生方の復元案や、その壮観なコンピュータグラフィックスが世間をうならせていて、とても「庭」ごときが割り込める“余地”は、論理的にも、空気感としても、無かったということでしょう。


そのような中でも、私なんぞは、ある“別の観点”から、伝二ノ丸には「庭」のような大きな空間スペースがあってしかるべきでは… という思いを抱き続けておりまして、その原因は、当サイトで散々ご覧いただいたイラストの、手前に黒くカットした、きわどい「地形」にあります。





(※この説明図は、冒頭のルート図に比べると、南北=上下がひっくり返った状態です)


安土山北西の湖上から見上げた視点で描いた上記イラストは、手前の黒い部分が伝二ノ丸の地面をカットした状態でありまして、その理由(動機)は、こんな風にしませんと、角度的に、伝二ノ丸の「地形」やそこに想定される「建物」群によって、イラストで見せたい天主周辺がずいぶんと隠れてしまうからでした。

――― では“どのくらい隠れるのか?”をご覧いただくため、手前の地面をカットしない、フルサイズのイラストを今回、初めてお見せいたしましょう。




ご覧のとおり、伝二ノ丸の地形は、山麓の湖上から見上げますと、けっこう天主台の足下を隠してしまうことになり、例えば伝二ノ丸の中に描いた建物は、二階建てを想定して描いたのですが、それでも、ご覧の程度まで隠れてしまいます。

したがって、これまでの諸先生方による伝二ノ丸の復元案というのは、曲輪いっぱいに屋根の高い大型の御殿が並んだり、曲輪の周縁(=最前列)に二重櫓や多聞櫓がめぐっていたりしたのですが、そのような状態で考えますと、おそらく天主の下層階からは、城下や琵琶湖もろくに見えなくなってしまう!! 危険が生じたのではないか、と心配して来たのです。

で、そのことは現地で撮影した写真でも…



(※画面クリックで拡大できます)

やや分かりにくい合成写真で恐縮ですが、これは現状の天主台上の南西の隅に立った状態で、伝二ノ丸の方を180度近くグルッと見回しながら撮影した写真でありまして、ざっくりと合成しただけなので、厳密さに欠ける点はご容赦下さい。

で、何を申し上げたいかと言うと、伝二ノ丸の周囲はご覧のとおりの木々が繁茂しておりまして、例えば城下の信長自慢の武家屋敷や常楽寺港などの範囲の風景は、残念ながら、天主台の上からでも、まったく見えない状態にあります。


ですから、このことは、伝二ノ丸の周縁に「二重櫓」や「多聞櫓」がめぐっていたり、そしてさらに屋根の高い「奥御殿」までがひしめいていたりしたなら、繁茂する木々と“まるで同じ効果”を果たしてしまうのではないか!!?… という心配を感じて来たのです。


ということは、いまさら申すまでもなく、天主こそが「見せる城」の白眉(はくび)であるとして、そうした天主と城下との関係において、こちらから見えにくい、ということは、イコール(すなわち)向こうからも見えにくい、という事に他なりません。

そのような状態では、せっかくの画期的な建造物「天主」が台無しになりかねず、もしも安土城において、城下から見上げた時、天主はちょこんと頭が出ていただけ、というのでは、いったい <何のための天主建造(創造)だったのか?> という気がしてならないのです。…




(『完訳フロイス日本史』より)

(天主の説明があって…)これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲をつくかのように何里も離れたところから望見できた。

それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。

信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。

我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。




さて、以上の結論として、最後に私なりの手前勝手な推測を加えて申し添えますと、伝二ノ丸というのは「奥御殿」の範疇(はんちゅう)ではあっても、そこにあった建物は、例えば「湯殿」や「御休息」といった類いの建物だけであり、それらを「広大な庭」が取り囲むという、言わば信長個人の“くつろぎの場”だったのではないか… そしてその分、「天主」が信長と家族の奥御殿として具体的に機能したのではなかったでしょうか。

そんなレイアウトは例えば、西本願寺・飛雲閣の奥にある二階建ての浴室「黄鶴台」などにつながる構想だったのでは、という風にも勝手に思い描いております。


で、さらに申し添えるなら、広大な庭というのは「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で…」とあえて修飾して伝えたのですから、ひょっとすると、全部が「枯山水」の庭!! という、龍安寺の石庭などを拡大・充実させて、琵琶湖を背景に、安土山の山頂で再現した“白砂と石組みの空中庭園”――― とも想像してしまうのですが、いかがなものでしょうか。



(※写真はウィキペディアより)

フロイスの別の報告文では、その庭には「新鮮な緑」があり、「魚」や「水鳥」が泳ぐ池があったとも伝わりますが、もし龍安寺の石庭のような「庭」が、安土山の山頂で、琵琶湖を背景として広がっていたら、そうした信長個人の精神世界に多聞櫓などは邪魔(じゃま)になったはず… との妄想がふくらむ一方なのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした





加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした




ご覧の表紙の帯イラストは、背景に描かれた安土城天主が、おなじみの三浦正幸先生の監修ではあっても、これまで各誌に登場した「佐藤大規復元版」ではなくて、新しい「中村泰朗復元版」(→同書141頁に立面図あり/昨年末にリニューアル発売のペーパークラフトもあり)のようです。

ですが、それが炎上前の白煙があがった演出なのか、ちょっと分かりにくいイラストになってしまったのは何故なんだろうと、ページを開く前から読み手の関心を誘ったのが、加藤理文先生の新刊本『織田信長の城』でした。


【ご参考】講談社の同書PRサイトからの引用(→上記の表紙の原画でしょうか?)


この「中村泰朗復元版」は同書の立面図などをご覧いただくと、さらによく分かるのですが、天主の建物の構造に、当サイトがずっと主張して来ました「十字形八角平面」(→関連記事<安土城天主に「八角円堂」は無かった!>)を部分的に採り入れたもののように見える辺りが、私なんぞには、実に興味津々の復元案なのです。


――― が、そんな前置きはさておき、加藤先生の新刊本は、織田信長が生まれた城・勝幡城から最後の安土城までを網羅しつつ、表紙の帯キャッチどおりに、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに注力した、かなりの意欲作だと感じ入りました。

しかも、またもや加藤先生の本らしく? 別の考え方もあれこれとインスパイアさせてくれる部分が多々あり、今回は例えば安土城の章から、そういう印象的なくだりの一部を、私なりの独善的チョイスで恐縮ですが、是非ともご紹介してみたく存じます。




<その1.一瞬、思わずノケゾッた、

     安土城「大手道」は山から下りるための“退出用の道”!!?>





安土山の南斜面にある「大手道」/ 次の写真の図では番号1の道

同書に掲載された城内通路の図 / 番号3が百々橋口(どどばしぐち)道


(加藤理文『織田信長の城』より)

『信長公記』(天正一〇年正月一日)には、<隣国の大名・小名御連枝の御衆、各(おのおの)在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ>と、近隣諸国の大名や小名、織田家一門の人々が、百々橋口から登って来たことが記されている。

年頭の挨拶の出仕であるため、正式な通路を使用することが当然で、百々橋口→ハ見寺→伝黒金門→本丸御殿対面の間というのが正式ルートと判明する。

(中略)
『信長公記』の記載から、百々橋口道(番号3)はハ見寺参拝ルートとして、町衆の往来可能な道だったことが判明する。
では、百々橋口から上がった町衆は、どこに下りたのであろう。

「死人が出るほどの混雑」と記されている以上、道は一方通行であったとするのが当然で、町衆は百々橋と接続する大手道を下るのがもっともわかりやすい。

つまり、大手道は町衆の往来も可能な道だったことになる。大手門は、見つからないのではなく存在せず、常に開口していたのである。



!―― 安土城の「大手道」と言えば、発掘調査で姿をあらわした当時はセンセーショナルな報道もなされ、安土城で織田信長が計画したと伝わる幻の天皇行幸では、この大規模な石段こそが、天皇の乗る鳳輦(ほうれん)がしずしずと登る「行幸道」になったはず、などと言われたものでした。

しかし、数々の城郭踏査の経験から“理詰め”で迫る加藤先生は、そんな可能性を全否定しておられ、大手道とは家臣や町衆も通る「往来」であって(※千田嘉博先生は一族や重臣の屋敷地をつらぬく連絡用の道としましたが…)城内の「正式ルート」としては、なんと!山から下りるための“退出用の道”だと解釈されたのです。




思わず私なんぞはイスからずり落ちそうになりましたが、すぐさま、それならば、小牧山城にある「大手道」もまた、正式ルートでは“下りるための退出用の道”なのか!?? と、にわかには納得しがたい気持ちでいっぱいになったものの…

しかし、そこで、いや待てよ… と考えてしまうのが私の悪いクセでありまして、これは信長自身の大手道の使い方としても、ひょっとすると、ひょっとするな、と。



登場したトップスターが先頭で降りて来る、タカラヅカの大階段

(※写真は織田信長役でも知られる月組・龍真咲の「Fantastic Energy!」より)

さて、どうでしょう。

「大手道」の機能としては、どうしても「登る」方に関心が行きがちであったわけですが、加藤先生の解釈はその呪縛(じゅばく)をとくきっかけになるかもしれず、上記の天正10年の正月参賀の件は特殊な用例だとしても、それ以外の普段の機能を考えれば、山頂の“聖域”に住まう天下人の信長が、山麓に居並ぶ兵たちの前に姿をあらわす時に、その姿が見えやすい直線道の部分が(言わば花道として)とりわけ大規模に整備されたのだ… と考えられなくもなさそうです。

これは逆転の発想として実に面白いものの、一方では、城のなかの「直線的な城道」の機能については、過去に当ブログでも一、二度申し上げたように、例えば近江八幡城や犬山城などにある直線道との比較(→重臣屋敷の二ノ丸・三ノ丸の類いを経由しないバイパス道の効果 →専制的な領主の位置づけ)も必要ではないかと感じておりまして、果たしてどうなのでしょうか??


【ご参考】大手道を下りる時の目線で見た南側山麓の風景

→ 木々が繁茂していなければ、向こうからも良く見えたはず!!!







<その2.伝二ノ丸を奥御殿のうちと解釈しつつも、

     三浦正幸先生風の階段(きざはし)を採用したため、

     その奥御殿に天皇の御座所「御幸の御間」があったことに……>





これからご紹介する部分の面白さを伝えるためには、当ブログを昔からお読みのような方々は百も承知の事柄でしょうが、安土城・主郭部の御殿の配置をめぐる研究者間(分野間?学界間?)のケンケンガクガクの大論争をもう一度、思い出していただく必要があります。


はじめに―― 通称「伝本丸」「伝二ノ丸」「伝三ノ丸」などの位置

A【考古学】発掘調査を担当した安土城郭調査研究所の御殿配置案

B【建築史】三浦正幸先生による御殿配置案(『よみがえる真説安土城』を参照)

C【城郭考古学】千田嘉博先生による御殿配置案(『信長の城』の文意から作成)


ご覧のとおり、それぞれの配置案をまずは「表」(公・ハレ)と「奥」(私・ケ)の領域の違いで確認しておきますと、結果的には、奇しくも、A案(安土城郭調査研究所/藤村泉・木戸雅寿両先生ら)とC案(千田嘉博先生)がともに、伝本丸や伝三ノ丸の御殿が「表」にあたり、天主や伝二ノ丸の御殿が「奥」になるという解釈で一致しておられます。

しかもC案の千田先生は、天主台西側の足下にピッタリ寄り添った不思議な礎石列は「外観上、天主と接合しているように見えた「懸(か)け造(づく)り建物」であった」(歴史発見vol.2)と推定され、その点ではA案の木戸雅寿先生も「天主の張出しも考えられる」(よみがえる安土城)と同様の発想で一致していて、手前味噌ながら当サイトもまた「懸け造り舞台」を想定してイラストに描いた経緯があります。


画面右下隅が「懸け造り舞台」→銅板包みを想定して青く描いた

(※なお、手前に降りて来る連絡橋の足下の石垣面には「寄せ掛け柱」も描いた)



そこで注目の加藤先生のお立場なのですが、奇しくも、7年前の当ブログ記事で『信長公記』天正10年の正月参賀のルートを話題にしたおりに、三浦正幸先生監修『よみがえる真説安土城』掲載のルート案をトレースして例示したのが下記の図なのですが、このルート案じたいを作成したのが、他ならぬ加藤先生だったのです。


このルート案では、表(ハレ)と奥(ケ)を横断して、天主以外はくまなく巡ったことに…

(※お馬廻衆・甲賀衆の見学ルートの場合)



ですから加藤先生は当然、三浦先生(B案)がその本で主張された、例の不思議な礎石列の上には「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)があり」とする説を大前提として、このルート案を作成した経緯をお持ちであったわけで、そうした経験などから自説を導き出され、今回の新刊本にも反映しておられます。


(加藤理文『織田信長の城』より)

前掲の『信長公記』の記載で、中枢部の建物配置を考える際、もっとも重要な手掛かりは、<階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候>である。

御幸の御間へは階段を上がって行ったことが判明する。

この記述から、「御幸の御間」は伝二ノ丸南虎口の存在する平坦面から階段を上がった場所に位置していたことになる。



という風に、加藤先生は階(きざはし)案を支持しつつ、一門衆・大小名の見学ルートで言えば、その階(きざはし)で北側の石垣を乗り越えた先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があった、と説明されるのですが、何故そこまで階(きざはし)案を支持するかと言うと…


(上記書より)

(不思議な礎石列のうちの)東側の礎石列Aに沿って天主台に柱が焼けた黒色の痕が残されていたため、ここに斜めの柱があったとの説もあるが、石垣に押し当てて設置してある柱が焼けた場合、通常黒色ラインが残るのではなく、焼け残って柱部分のみ白く残るはずである。

ここで見られた黒色ラインは、焼けた柱組みが東側に倒れ、石垣に寄り添って燃えたための事象と理解される。



という理由で、天主台石垣に残った黒い柱状の焼け焦げは、懸け造りのための寄せ掛け柱ではなくて、階(きざはし)が燃えて倒れかかった結果だと説明されるのですが、そのようにして天主台にピッタリ寄りそう階(きざはし)があり、その先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があったとする一方で、加藤先生は、伝二ノ丸は(天主を含めて)信長の居所の「奥御殿」だとも説明するのです。

(※そして伝本丸が正式な対面を行なう政庁=南殿の「表御殿」、伝三ノ丸が行事等を行なう紅雲寺御殿の「会所」に相当する、と。つまり「表」と「奥」の領域の解釈はA案やC案と同じになるのですが…)

――― ということで、この新刊本では、信長自身と家族の居所の「奥御殿」に、天皇の御座所「御幸の御間」があったとしていて、それで具体的にどう使ったのだろうか?… と、やはり心配になってしまいますし、『信長公記』の階(きざはし)の先に「御幸の御間」を含む「御座敷」があった、との記述を重視する考え方も分からないではありませんので、どう受け取ったものか、頭をかかえていますと、例の不思議な礎石列について…



(同書より)

礎石列A、Bの南端で若干位置がずれる二個の礎石(22、23)も確認されている。(中略)南側一間分の軸のずれは、南側の櫓と通路との取り合いの関係が推定される。




ふと見れば、加藤先生の礎石列の説明文には、上記の一文がさり気なく加えられていて、すなわち、例の礎石列は南端の一間のうちに、すでにわずかながら“角度を変えている”とおっしゃるのです。!…

これは実に些細(ささい)な現象でありながら、城郭踏査を重ねた加藤先生ならではの注意力(ある種の違和感の察知)ではないかと感じまして、このこと(※三浦案では無視)を注視して行きますと、礎石列は逆に、南側の櫓との関係性(接続!?)がクローズアップされて来て…


【またもやインスパイアされた仮説】

もしも「懸け造り」の柱の間を登る階(きざはし)が、真逆の南側!!へと登る形で櫓内に至り、

さらに多聞櫓を通じて、伝本丸の御殿群の各所に至る複数のルートがあった、とすると…




→ フロイスが記した「この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿」

の「一つの側」とは??

「一つの側」は普通に読めば、主郭部の東半分という意味であろう、とこれまで多くの方々が受け取って来たものの、ご覧のようにしてみますと、「一つの側」が原文ではどこにかかる“修飾語”だったのか、分からなくなる感じもしてまいりまして、こんなことまで加藤先生の観察眼からインスパイアされてしまうところが、この本の不思議な魅力なのです。

(→もちろん本の全体の論旨は、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに、最大限の力が注がれております)


ちなみにご覧の配置図は、千田先生のC案をベースにさせていただきまして、それと言いますのも、千田先生の配置案には言外の大きなメリットが隠れているからです。

そのメリットとは、このように文献上に名前のある御殿がすべて、主郭部の東半分で“処理”できるなら、西側の伝二ノ丸は「奥御殿」ではあっても、そこには、これまたフロイスが記録した「広大な庭」の懸案の居所(いどころ)も推定できる、という多大なメリットに他なりません。


… 最後に、例の礎石列の西列で焼け残った壁材が見つかったという件がやや気になるものの、加藤先生は「壁材(厚さ約三〇センチ)は、礎石16上の炭化柱材の前後、南北方向で立ったままの状態で検出。」「北側西面(13〜16の間)に片開きの戸が設置されていたと考えれば、検出遺構と矛盾なく解釈が可能である」とも説明していて、南向き!の内部階段への「入口」はきちんとクリアできそうです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年01月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…





探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…




もう一回だけ、聚楽第の話題を続けさせていただきたいのですが、前回、絵画史料に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、ひょっとすると本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を(コンバートして)描き込んでしまったのではないか… などと申し上げました。

では、どこの景観なのか? とお感じになった方もいらっしゃるかと思いますので、今回は私なりの腹案を申し上げてみたいと思います。その場合、気をつけたい事柄としては…


話題になった聚楽第の「外堀」は、まだ未完の状態??

例えば、南東側の浅い凹みは「その時まさに掘を掘っていた途中」のようで…




(※ご覧の図は京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」に掲載の図を引用)



二番目の明暗をつけた図は、当ブログの記事ですでにご覧いただいたとおり、外堀全体の配置をよくよく見ますと、南面(=太閤・豊臣秀吉のいた伏見城の側)の工事が後回しになっていて、これは外堀がまさに“造成途中”であったことを感じさせるものです。


ということは、当然、これら外堀の堀際に「櫓」の類いは、どこまで完成していたのだろうか? という疑問も出てこざるをえないのではないでしょうか。

そういう観点から、さらにご覧いただきたいのは…


個人蔵『京都図屏風(洛中洛外地図屏風)』に描かれた聚楽第の痕跡 → 内堀だけ!!



これも有名な絵画史料の一つであり、上記の探査結果がでる以前は、これによって聚楽第のおおよその形を、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸から成るものだと想定していたわけですが、今日、改めてこの屏風絵を見ますと、「どうして、きれいに内堀だけが残ったのか…」という新たな疑問を感じてしまいます。

この屏風は元和6、7年(1621、1622年)か寛永元年(1624年)の制作と考えられるそうですから、聚楽第の取り壊しが始まった文禄4年から数えて、20数年でここまで変わってしまったことになります。




ためしに探査結果の図を、東西・南北の比率をやや変えてぴったりとダブらせますと、問題の「外堀」があっという間に埋められて、市街地に変貌して行った様子が、ありありと想像できます。

破却開始から20数年で、どうして外堀だけが、跡形もなく消えて、いちはやく市街地化したのか? という風に改めて考えてみれば、やはりそれが“造成中”だったから、埋めやすかった(※残土も土塁用にちゃんと残っていた)のではないか、という想像をたくましくしてしまうのです。


……ならば『探幽縮図』の原画は、いったいどこの景観を描いたのか



さて、以上の事柄を踏まえた場合には、ご覧のように石垣の堀際に櫓群を連ねた曲輪というのは、どうしても、本丸か南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸のいずれかを想定せざるをえなくなってしまいます。

そこで、一つの参考事例としてご覧いただきますのが…


前田育徳会蔵『聚楽城古図』より

本丸の北側部分を拡大してみれば…


! これは城の描写が非常に簡略化されていて、なおかつ、そこにある人物名を見ますと、やはり参考資料にとどめなければならないものなのでしょうが、そんな側面をあえて差し引けば、「山口玄蕃頭」という人物の位置づけ―――すなわち、増田長盛や石田三成と並ぶほどの豊臣政権の幹部として、当時の人々に認知されていた可能性をうかがわせるようにも見えます。


そして、その名前がある部分(二ノ丸?の北西部分)を見ますと、そこは文禄2年に「北ノ丸」が新造された範囲に含まれるのか否か、微妙なところでしょう。

北ノ丸と言えば、かつて櫻井成廣先生は「北の丸は『駒井日記』文禄四年四月十二日の条に「北丸御袋様に八木(米の事)千石」の文字が見出されるから、当時関白秀次の母智子(後の瑞竜院日秀)の邸が此の郭に存在したに相違なく、従って彼女の来住以前には秀吉の母大政所が居たのではあるまいかと類推出来る」(『豊臣秀吉の居城』)とまで指摘していて、そこに山口玄蕃頭の屋敷があったとは、ちょっと考えにくい場所ではあります。


それでは、同じく「北ノ丸」がまだ無い状態を描いた、もう一つの資料では…


幕末の画家・名倉希言が書き上げた『豊公築所聚楽城跡形勝』より


なんと、こちらの有名な資料では、同じあたりが加賀少将(前田利家)邸とされていて、こんなチクハグな状態に至った背景を私なりに想像しますと、前々回から申し上げて来た <『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響> がまたここでも“悪さ”を働いて、混乱を助長させたのではなかったのか… と思わず邪推してしまうのです。




かくして、ここでも金雲を使った強引な押し寄せがあり、加賀少将邸の本来の位置はずいぶんと違っていた可能性を含めまして、以上の事柄のすべてを勘案した【仮説】を、この際、お目にかけたいと思うのです。


【本日の結論】 絵画史料に共通した<櫓群>というのは、実は、「北ノ丸」の景観なのでは!!?


(※内堀・外堀の状態は京都大学防災研究所の復元図に基づいて作成)


仮説としてここで申し上げたいのは、山口玄蕃頭の屋敷が本当に「北ノ丸」にあったと言うのではなくて、あくまでも絵図や伝承に基づいた絵師の「見立て」として、このような視点が設定されつつ「北ノ丸」を前景とした景観が(聚楽第を代表して)描かれたのだと仮定しますと、その他の絵画史料との共通性や間違いの伝播(伝染)についても、ある程度、合理的に解釈して行くことが可能なのではないでしょうか。

では、どの絵画史料が一番先で、どれが一番正確なのか、と言われますと、こうした仮説の上に立つなら、『探幽縮図』で本丸からポツンと離れて天守らしき建物が描かれたのも、当ブログ仮説の「加賀少将邸四重櫓」ならば、前田邸の伝承が残る福本町か加賀屋町のいずれであっても、まさにそのように見えた!! ことでしょうから、(※この屏風絵全体は聚楽第の東西南北と行幸の行列との方角が合わなくなるものの…)『探幽縮図』原画の聚楽第の描写じたいは、かなり有力な候補に思えて来てならないのです。




おそらくは、こうした視点から描く『探幽縮図』の原画などが最初に現れ、続いて本丸御殿を強調するためのコラージュ画として『聚楽第図屏風』が作られ、その後に、それらの櫓群(実は北ノ丸)と本丸御殿を踏襲して、城絵図を加味した『聚楽第鳥瞰図』の類いが制作されたのでは… と勝手に想像しているのですが、果たしてどうなのでしょう。??






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年01月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してきた…




前回の年末の記事では、注目の『探幽縮図』と、三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比から見えた「疑惑」について申し上げました。




ご覧のような、金雲を巧妙に使ったギュウギュウの寄せ集め(コラージュ)の可能性を申し上げたわけですが、この『聚楽第図屏風』そのものは、本丸?を囲んだ屋敷に「加賀少将」「松嶋侍従」との貼札があることから、景観の想定としては聚楽第完成の頃(天正15〜16年)と見て矛盾は無く、屏風の制作時期についても、日本美術史の辻惟雄(つじ のぶお)先生が「様式的に見ても、その当時の制作と見て差支えないと思う」と鑑定したものでした。


ということは、その他の聚楽第を描いた絵画史料と比べても、おそらくいちばん早い時期に!…こういう(城郭の主要部分がコラージュされた)描き方の『聚楽第図屏風』が登場したことになりそうです。

ですから、そのことが、もしかすると、幻の聚楽第の描写をめぐる混乱に“いっそう拍車をかけた”元凶ではなかったかとも思えますし、現に、下記のごとき一連の絵画史料の存在が知られています。

個人蔵『聚楽第鳥瞰図』

(これには長谷川等伯が所蔵した屏風絵の「縮本」であるとの裏書きあり)



ご承知のとおり、これと同様の鳥瞰(ちょうかん)図が、大阪城天守閣蔵のものなど何点か伝わっておりまして、これらは一見したところ、堀の配置の様子は伝来の城絵図を踏まえたらしく、ある程度の説得力はあるものの、その一方で、城の中心をなす大型の御殿群が、手前の櫓群のすぐ裏にまで迫って来ています。

思わず私なんぞは、これらが『聚楽第図屏風』のコラージュの(悪)影響ではないのか!?… と叫びたくなってしまいます。


そのうえ、こちらの鳥瞰図はどれも「天守」とおぼしき建物が見当たらない、という別の要素が一貫していて、それはそれで見逃せないものがあり、ならば長谷川等伯(慶長15年没)が所蔵したとか、海北友松(慶長20年没)が描いたとかいう原本の絵図はどう位置づけたらいいのか?… ここは一度、聚楽第の絵画史料の“全体”を見回した整理が必要だと思えて来てなりません。


そこで今回は、注目の『探幽縮図』の方に似た描き方の史料は他にないのか? という観点で見回しますと、有名な堺市博物館蔵の屏風絵が、ほぼ同じ構図であることに気がつきます。



【年初の大胆仮説】聚楽第の構造により忠実な描写は、下の二点なのでは!?

堺市博物館蔵『聚楽第行幸図屏風』との対比 → 構図的には、ずっと近い関係に見える



こちらの二つを並べますと、一見して、ともに左上に本丸御殿があり、両図に共通した<櫓群>は、その本丸御殿とは別郭にあったもののように見えて来ます。

このことはやはり、申し上げた『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響が、いかに(当時の絵師らも含めた)大勢の日本人に、間違った聚楽第のイメージをすり込んできたのか??… という疑念を増幅させるものでしょう。

で、そうした疑念に、追い打ちをかけるような墨書(書き込み)があるのです。


謎解きのヒントは「山口玄蕃屋敷」!!?…



そしてなんと『探幽縮図』には、山口玄蕃頭(げんばのかみ)宗永という、思いもよらぬ名前が書き込まれております。

私なんぞもほとんど知識のなかった武将ですが、玄蕃頭は天文14年(1545年)の生まれと言われ、ちょうど浅野長政らと同世代の豊臣秀吉の家臣でした。


例えば、江戸後期の加賀藩士(富田景周)が加賀・越中・能登の地理歴史をまとめた『三州志』には、山口玄蕃頭について「山口本姓ハ多々良也。周防大内介ノ族ニシテ防州ニアリ。義隆滅亡ノ後秀吉公ニ仕ヘ秀秋ノ後見トナル」とあるそうです。

大内義隆が陶隆房の謀反で死んだのは天文20年ですから、それは玄蕃頭がまだ幼い頃のことであり、それからどのようにして秀吉に仕えたのか、46年も後の慶長2年に小早川秀秋の付家老となって大聖寺城(大正持城)の城主になるまで、その間の経緯があまり分からない、ナゾ多き人物と言っていいでしょう。


玄蕃頭が関ヶ原戦の西軍方として戦死した大聖寺城址 / 天守台かと見まごう本丸の櫓台跡


ただ、その『三州志』には「賦斂(ふれん/税の取り立て)ヲ重クシ金銀ヲ貪(むさぼ)リタレバ領民窮スト云」ともあって、ここからはおのずと、玄蕃頭とは「検地」に巧みな豊臣政権の官僚だったのでは?… という想像力がわいて来ます。(→秀吉の直轄領での検地に活躍した、との話もあるそうですので。)

そして結果的に、玄蕃頭は金銀を大聖寺城に溜め込んだことがあちこちの文献にあるそうで、「家族が城を落ちのびるとき、多量の金銀を持ちきれず、大聖寺川に棄てたという巷説がある。その場所が、今の新橋のあたりだと、幼いころ父から聞いたことを想い出す」と、『聖藩文庫蔵 山口記』を発行した加賀市立図書館の東本進館長が同書で解説しておられます。

ならば、そんな山口玄蕃頭が、もしも『探幽縮図』のとおりに、聚楽第の中に屋敷を与えられていたとすれば、どのあたりが相応しいのでしょうか。



そして、謎解きのもう一つのヒントが「前乃(野)但馬屋敷」??



正直申しまして、こちらの部分に何と書いてあるのか、ちょっと自信が持てないのですが、ひょっとすると「前乃但馬屋敷」と走り書きしたようにも見えまして、正確にはどうなのでしょうか?

―――が、いずれにしましても、上記の玄蕃頭の件と考え合わせれば、これはもう聚楽第の本丸の内であるはずがなく、やはり「別郭」を想定して描いたのだと思わざるをえません。


ということは、結果的に、前回からご覧いただいた『探幽縮図』『聚楽第図屏風』『聚楽第行幸図屏風』『聚楽第鳥瞰図』に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、実際のところは、本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を“コンバートして”描き込んでしまった疑いが出て来るのではないでしょうか。…




(※次回に続く)

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年12月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


今年の6月以来、さんざん話題にして来た「聚楽第」ですが、幻の姿を描いた現存の絵画史料は数が限られていて、その中には、あの狩野探幽(かのう たんゆう)が自らの画業の向上のために書写(スケッチ)し続けた、膨大な量の『探幽縮図』の中にも、聚楽第行幸の屏風絵を書き写したものがあります。

東京芸術大学蔵の『探幽縮図』より / 左端の聚楽第や、門をくぐる天皇の鳳輦(ほうれん)など


(ちなみに、聚楽第の上方に描かれた「天守」らしき建物の拡大)

上記部分のさらに右側 / 天皇の鳳輦から、それを追う関白・豊臣秀吉の牛車まで

上記部分のさらに右側 / 関白の牛車に続く騎馬武者などの行列


さすがに書写(スケッチ)だけに、ちょっと分かりにくい感はあるものの、私なんぞは、聚楽第の御殿の上方にポツンと離れて(!!)描かれた「天守」らしき建物に、まず目を奪われてしまいます。

ですが、それは後ほど詳しく触れるとしまして、この絵の全体を見て(私のごとき素人でも)驚嘆してしまうのは、行列の登場人物がいちいち「名前」を記されている点でしょう。


探幽は原画を手早くスケッチしただけですから、当然、これの原画の屏風絵にも「名前」は書き込まれていたはずであり、そんなところは他の聚楽第の絵画史料には見られない特徴ですから、今回のブログ記事では、ためしに、絵を部分的に拡大しながら、有名な『聚楽第行幸記』にある行列の公家や武将の「名前」と照らし合わせてみたいと思うのです。…


【拡大A】

鳳輦に続くのは、近衛信尹(信輔)、織田信雄、豊臣秀長、豊臣秀次、徳川家康、宇喜多秀家ら…




(『聚楽第行幸記』の行列の記録より / 赤文字が【拡大A】に描かれた公家や武将)


鳳輦。 前後駕輿丁。
 次六位史以下役人。
 此次。
左大臣信輔公。諸大夫。布衣侍。烏帽子着。随身。雑色。かさもち。
内大臣信雄公。随身。  日野烏丸大納言光宣卿
日野新大納言輝資卿。  久我大納言敦通卿。随身。諸大夫。
駿河大納言家(康)卿。随身。諸大夫。
大和大納言秀長卿。随身。諸大夫。


(〜この間の9名の公家は省略〜)

吉田左衛門督兼見卿。  藤右衛門督永孝卿。
備前宰相秀家卿。随身。
関白殿。  前駆。乗馬。



【拡大B】そして「関白殿」の牛車に続くのは…



(『聚楽第行幸記』の続き / 赤文字が【拡大B】に描かれた武将)


関白殿。  前駆。乗馬。
左。
増田右衛門尉。雑色。馬副。此以下同前。 福原右馬助
長谷河右兵衛尉。 古田兵部少輔
加藤左馬助。   糟谷内膳正。
早川主馬首。   池田備中守。


(〜この間の左列26名の武将は省略〜)

稲葉兵庫守。   富田左近将監。
前野但馬守
右。
石田治部少輔。  大谷刑部少輔
山崎右京進。   片桐主膳正
脇坂中務少輔。  佐藤隠岐守。
片桐東市正。   生駒修理亮。


(〜この間の右列26名の武将も省略〜)

松岡右京進。   津田隼人正。
木村常陸介
 雑色左右三十人。
随身。左。
森民部大輔。 野村肥後守。 木下左京亮。
右。
蒔田主水正。 中嶋左兵衛尉。 速水甲斐守。
布衣。
一柳右近大夫。 小出信濃守。 石田木工頭。
三行烏帽子暇衣也。



【拡大C】

さらに続くのは、前田利家、織田信包、豊臣秀勝、小早川秀秋、結城秀康、織田秀信ら…




この【拡大C】に相当する『聚楽第行幸記』の記録は割愛させていただきますが、もうお分かりのとおり、行幸記に記録された「名前」に比べますと、絵の方は、各行列の真ん中あたりの人々を大胆にハショリながら、とりわけ豊臣家に関わる有名どころを“選りすぐって”並べたことが分かります。

そしてここで一つ、大きな“疑問”として申し上げなければならないのは、【拡大B】の騎馬武者の位置が、実際の行幸とは大きく違っているかもしれない、という点でしょう。


もう一度【拡大B】を…


どういうことかと申しますと、ご覧の石田三成から木村重成(重茲)・古田重勝までの左右二列の騎馬武者は、関白の牛車の「前駆」とされた人々であって、実際は牛車の“直前”を進んでいたはずなのに、ご覧の絵では(まさに『聚楽第行幸記』の書き順どおりに!…)牛車の“直後”に描かれている点がおかしい、と言わざるをえないようです。


これは例えば、かつて池享(いけ すすむ)先生が、足利義満や義教による室町第行幸との対比から指摘されたように、「義満・義教の場合、前を行く「太刀帯」「帯刀」は、赤松・伊勢・長・松田・佐々木・土肥・土岐・小早川といった「足利家臣団」=奉公衆クラスで構成されている。私は、これとの対比で、「前駆、乗馬」は増田・石田以下の「秀吉家臣団」を指していると考えたい」(『戦国・織豊期の武家と天皇』)と考証されたとおりだと思うのです。

(→もしそのとおりであれば、関白秀吉の牛車は【拡大B】の木村重成(重茲)の直後を進み、随身らを引き連れつつ、【拡大C】の前田利家がそのすぐ後を続いた、というカンペキな!…位置取りであったことになります)


ですから、これの原画の屏風絵というのは、探幽自身はそれを「永徳かと弟子ノ画」と推定しましたが、以上の事柄から申せば、謎の絵師は少なくとも『聚楽第行幸記』そのものや、その他の聚楽第(行列?等)を描いた絵画史料をしっかりと集めたうえで、それらに基づいて(ある意味で)精緻に、工夫をこらして制作した作品であった、と言って良いのではないでしょうか。




<では肝心の「聚楽第」の描き方はどうなのか?…>





【左端の拡大】→「大ひろ間」などの大型の建物群が、屏風絵の左側に(はみ出して)続いている…



さて、聚楽第行幸は天正16年と20年の2回にわたって行なわれましたが、ここまで申し上げた『聚楽第行幸記』との照合から、ご覧の『探幽縮図』の行列は、まさに天正16年の“1回目”の行幸を想定して描いたことになります。

(※ちなみに、2回目の豊臣秀次による聚楽第行幸では、行列に諸大名の大多数が参加しなかったと言われます)

では、そうした想定を踏まえて『探幽縮図』の聚楽第の描き方に注目しますと、まず本丸御殿の大型の建物群が、屏風絵の左側に大きくはみ出していることが分かります。

そして絵の上端には、ずいぶんと離れた位置に「天守」らしき建物がある、というのは、いったいどういうことなのか? という疑問がふくらむのですが、これの答えになりそうなのが、何度もご紹介してきた三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比です。




左右を比べてよくご覧になればお分かりでしょうが、両者は、堀際の櫓の様子に似たところが何箇所もある一方で、内部の敷地の御殿については、『探幽縮図』の方がずっと広々と、余裕を持って配置されております。

では、この違いは何に起因したのか? と考えますと、結論は、『探幽縮図』の方に原因があるのではなく、むしろ有名な『聚楽第図屏風』の方に大きな原因(描き方の欠陥!?)があるのだと分かって来ます。


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してくる…



いかがでしょう。ご覧のように、両者の対比では、『聚楽第図屏風』は本丸御殿が異様なまでに手前に“押し寄せて”来たことが分かります。!

それを可能にしたのが、赤く変色させた「金雲」でしょう。実に巧妙であり、誰かがこう言わなければ、表面的には何の不自然さも感じさせないほどでした。


……これまでの長い間、聚楽第を描いた絵画史料としては最も「精緻だ」と言われて来た『聚楽第図屏風』ですが、このように見直しますと、かなりの変形や省略、合体などが数多くなされていて、そうした点を踏まえれば、ポツンと離れた「天守」らしき建物も、同様に、本丸側へ、異様なまでに“押し寄せて”来たのでは?… という疑念が生じてまいります。

ですから、これはもう、例えが悪くてたいへんに恐縮ですが、『聚楽第図屏風』の聚楽第というのは、城郭の主要な部分が(金雲を巧妙に使って)ギュウギュウの寄せ集めにされていて、それはあたかも、交通事故でペシャンコになった自動車のような??描き方になっているのではないか… とさえ感じられるのです。


(※次回に続く)




【2016年末の年越しにあたって】

ご承知のとおり、この2年ほどは、恒例の年度リポートをまとめることが出来ないまま、また年越しになりますが、テーマは依然として「聚楽第」を考えておりまして、来たる2017年には、次回の年度リポートを(出来れば聚楽第「御三階」のビジュアル化などを含めて)お届けしたいと思っております。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年12月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること





問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること




このところ申し上げて来た「築城当初の聚楽第には天守が無かった可能性」に関しては、これまでずっと『聚楽第図屏風』等には「天守」が描かれている、と言われ続けて来たわけですから、もし天守が無いとなれば、ご覧の天守らしき建物(四重櫓?/間近の貼紙には「加賀少将」と墨書あり)はいったい何なのか? という一件が、最後に残された問題と言えるでしょう。

かく申し上げて来た私も、この件については、ややおぼつかない状態ですが、ただ、今年発表された聚楽第跡地の地中探査の結果が出る以前から、屏風絵の建物については、ある“印象”を持ち続けて来ました。

――― それは、この建物が、毛利輝元が建造した「萩城天守」と、構造的によく似ているなぁ… という印象でした。


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』をもとに(色味と明るさを変えて)見やすく作成

萩城天守の有名な古写真


などと申しますのは、試しに、ご覧の萩城天守の古写真を、その左右を反転させたうえで、『聚楽第図屏風』の描写と並べて見てみますと…


!!―― 両者ともに、背後に <大型の付け櫓> が付く構造が共通していたのでは?



ご覧のとおり、両者は背後に大型の付け櫓が付属している点が共通しておりまして、それを除く本体部分も規模・構造ともに似たような所があり、そのため右側写真の『聚楽第図屏風』の方は“四重櫓”と言いつつも、その内部は五階か六階建てであったように見えて来ます。


そして、いっそう重要な事柄は、以前のブログ記事でも申し上げたごとく、萩城天守とは、本丸や指月山山頂の詰丸を背後に背負う形であって、そうした姿はどこか <豊臣大坂城の西ノ丸天守> へのオマージュとして(関ヶ原合戦の際にはそこを拠点として天下をうかがった)毛利輝元の“思い”が込められた天守ではなかったのか? という点でしょう。


豊臣大坂城の西ノ丸天守の位置→惣構(そうがまえ)の中心点でもあった※関連記事


萩城天守の位置→絵図の中央やや下(毛利家文庫蔵『萩絵図』より)


すなわち、豊臣秀頼のいた本丸を背後に背負いつつ、西向きに建っていた西ノ丸天守。

そして同じく、指月山の詰丸や本丸を背負いつつ、南向きに建っていた萩城天守。

この萩城天守の方は、天守背後の北面に「大型の付け櫓」を付属させて、本丸との連絡の機能を持たせていた…

となれば、それとよく似た『聚楽第図屏風』の四重櫓もまた、「大型の付け櫓」のある方向に、必ずや「本丸」があったはず!!…




ということで、両者を「大型の付け櫓」を重視しながら見比べますと、このような考え方にならざるをえないわけでして、そうなると、おのずと『聚楽第図屏風』の方の描写は(これが仮に本丸の北西隅の「天守」であったとしても…)そもそも“建物の向きがおかしい”と言わざるを得ないのです。


問題の建物は、構造面から言えば、実際は <真逆> を向いていたはず…




そこで、当ブログなりの想定をさらなる我田引水で申し上げますと、この『聚楽第図屏風』の四重櫓は、聚楽第本丸を取り囲んでいた大名屋敷(広義の二ノ丸)のいずれかで、本丸を背後に背負いつつ、城外を向いて建っていたと考えた場合は、実は、それとよく似た姿の城が一つ、思い当たります。


【ご参考】山形城の古絵図より


豊臣政権下で外様の大大名であった最上義光の山形城は、慶長年間に拡充して修築され、ご覧のとおり(奇しくも聚楽第と同じく?)本丸に天守が無かったかわりに、二の丸の西側の中程に「御三階櫓」を設けていました。


この三重櫓、城内で最大の櫓でありながら、防御的な観点から申せば、どこか中途半端な位置に築かれておりまして、その点では意図がよく分かりません。

ひょっとして、この櫓は豊臣家の「西ノ丸天守」と何か関連性があったのでしょうか?…


では、ここまでご覧いただいたところで、大変に遅ればせながら、聚楽第での「加賀少将邸」の位置を確認しますと…


広島市立中央図書館蔵『諸国古城之図』山城 聚楽



――― 前田利家(加賀筑前守・左近衛権少将)邸は、ご覧の『諸国古城之図』の「山城 聚楽」では、本丸のちょうど西側の!! 二ノ丸にあったとされるのです。


一説には、前田利家邸は、後に築造された「北ノ丸」の位置であったとも伝わりますが、ご覧の有名な絵図では西側の二ノ丸に描かれていて、もしもこの位置に、かの四重櫓(=西ノ丸天守!?)が背後に大型の付け櫓を備えつつ、城外の西を向いて建っていたと仮定しますと、

それは背後の本丸を守る以上に、大陸遠征をひかえたこの時期、より東側の「御所」も守護すべく、ひときわ象徴的に、そこ(王城警護の最前列)に在ったのだとさえ思えて来ます。…

(→この建物は朝鮮出兵では国内残留組の前田利家の預かり、という形か?)


実に、この辺りに、問題の「加賀少将邸」四重櫓の謎を解く、大きなヒントがひそんでいるように感じるのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から





聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から



(※TV報道画面からの切抜き)

(中井均『城館調査の手引き』2016年より)

現在復元が進められている名古屋城(愛知県名古屋市)の本丸御殿は慶長十五年(一六一〇)に造営された慶長期を代表する御殿であったが、表部分が手狭となったため、元和六年(一六二〇)には二の丸に広大な御殿が造営され、藩主御殿は二の丸に移った。

空となった本丸御殿はその後、徳川将軍の上洛用の御殿となるものの、ほとんど使用されることはなかった。






このように江戸時代においては、各地の譜代大名の城などで、本丸が天下人(徳川将軍)の宿所や御成りの場にあてられ、大名自身は二ノ丸に自らの御殿を構えた例がかなりの数に登りました。

そうした慣習に従うならば、城内の各御殿の順位というのは当然、【本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】という順位になるのでしょう。

で、この点について申しますと、そんな慣習(本丸を天下人の宿所にあてること)は必ずしも、江戸時代に入ってから突然始まったとも思えない節がありまして、例えば織田信長の頃に、坂本城を築いた明智光秀が、客人の吉田兼見を小天守でもてなした(→つまり大天守を外した)との記録があったり、または前々回も挙げた小早川隆景の三原城本丸御殿の件(→実は豊臣秀吉の御成り御殿?)があったり、さらには倭城の順天城では在番の小西行長が本丸を使わなかった、等々の事例があるからで、城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想は、江戸時代よりいくぶん前からあったように感じるのです。


そうした中で、どうも不思議だなぁ… と私なんぞが感じて来たのが「高知城」であり、現存する本丸御殿(わずか二例)の一つである高知城の本丸御殿が、築城当初は城主の山内一豊自身の御殿であったという点に、違和感を感じたのです。そこには何か、特殊な事情や仕掛けがあったのではないのかと。

(※ちなみに現存例のもう一方、川越城については、本丸御殿の奥の「天神曲輪」が、実は旧来の本丸(詰ノ丸)ではなかったか? という疑問も残るため、ここでは除外させていただきます)


高知城の航空写真より

本丸周辺の現状の略図


かように申し上げましたのは、今ある本丸御殿は江戸中期の火災後に再建されたもので、天守もほぼ同時期に再建されたのですが、ご覧のごとく天守と本丸御殿が寄り添って建つスタイルは、一豊の築城の頃からの伝統的な姿だとされていて、ならば当時の様子を、改めて想像してみますと…




一豊はこの時、徳川幕府のもとで外様大名の立場(→すなわち徳川将軍の「宿所」の可能性はゼロ)ではあったものの、冒頭から申し上げた“大天守や本丸は天下人のもの”という発想からしますと、ご覧の様子は、どこか僭越(せんえつ)と見られかねない“危険”を私なんぞは感じてしまうのです。

思えば、この時期、同様の立場にあった外様大名(旧織田・豊臣の配下で関ヶ原合戦の東軍諸将)を考えますと、例えば福島正則の広島城は、本丸内に“平然と”自らの御殿と(新築の?)大天守をセットで設けていましたが、その逆に、細川忠興の小倉城や浅野幸長の和歌山城などは、本丸(天守曲輪)を天守や多聞櫓で囲うだけに留めて、自らの御殿は天守とは別の曲輪に設けていた(言わば江戸時代を先取りした?)スタイルであったとも言えるでしょう。

(※追記:ちなみに加藤清正の頃の熊本城も、慶長16年に萩藩の密偵が描いたという「肥後熊本城略図」によれば、やはり後者!の城なのかもしれません。天守は大天守のみの独立式で、本丸に大広間はまだありません!!…)



ですから問題は前者の広島城の方であり、高知城と同じく、それは天下人の豊臣秀吉や徳川家康から「僭越」と見られかねない危険をおかしていたことになりそうですが、しかし、しかし、そこには一つ、ある特殊な事情(仕掛け)があったのではないかと、あえて今回は申し上げてみたいのです。

すなわち…




いかがでしょうか?

そもそも天守の原形は何であったか、それは織田信長の安土城天主のごとき「立体的御殿」であったという事情を知っていた(はずの)旧織豊大名らにしてみれば、本丸内にそうした天守と自らの御殿を並べるという行為は、すでに一つの「方便」として、天下人に対する一応の体裁を整えたことになっていたのではないでしょうか。!!…


…などと申しますのも、一豊が高知城を築き始めた慶長6年には、もはや天守の実態は「立体的御殿」ではなくなっていたのでしょうが、そんな「方便」がまだ通用したのだと仮定しますと、冒頭から申し上げた「城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想」は、実に 織田→豊臣→徳川 と一貫して、諸大名の間の不文律として受け継がれたことになります。

それこそ、藤田達生先生のおっしゃる「預治思想」がこんな部分に影響したのかもしれませんし、その間においては、城内の各御殿の順位が玉突き状にスライドしたのかもしれず、本来の順位は、

【立体的御殿(天守)―本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】

という順位であったのかもしれません。


(※追記:このところ申し上げた記事との関連で整理しますと、豊臣政権下の「外様の大大名」たち=徳川・毛利・織田信雄らに限っては、このような「方便」さえも辞退して、以下の聚楽第の風景にならいつつ、自らの城を「小天守」にとどめたのではなかったでしょうか?)




<築城当初の聚楽第には「天守」がまだ無く、せっかくの天守台上が

 ガラ空きであった可能性の「原因」「理由」としても…>








さて、当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉による築城当初は、まだそこに天守が(少なくとも望楼型の天守は)無かったのではないか?? との疑問を申し上げてまいりました。

例えば徳川家康の二条城においても、築城準備を始めた慶長6年に対して、初代の天守(=大和郡山城天守の移築か)を建てた年は慶長6年説から7年説・8年説・11年説と様々に言われていますから、聚楽第でも、最初は天守が無くても不思議ではないのかもしれませんが、ただ、聚楽第の場合は天守台の独特の形状(本丸の北西隅にかなり飛び出た構造)が原因と思われますので、やはり異様な事態… かなり特殊な事情によるレアケースが持ち上がっていたとも想像できます。


そこで、その「原因」「理由」を大胆に推理しますと、今回申し上げた「どこが天下人の宿所か」という問題が、とりわけ聚楽第は天皇の行幸を大前提として築かれただけに、天守という新種の建築物の使い方をめぐって、足利義教以来の150年ぶりの行幸をおこなう上で、政権内部に思わぬ“混乱”を引き起こしていたとは考えられないでしょうか。


聚楽第に向かう後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



すなわち、聚楽第は豊臣政権の政庁と言われますから、そこに天守があがれば、それは当然、天下人の秀吉を示す旗印であり、秀吉の存在(居住や宿泊)を京都盆地一帯の人々に見せつける強烈なランドマークになったはずでしょう。(→現に妙顕寺城の天守はその可能性も…)

しかし、そんな聚楽第に天皇の行幸をあおいだ最大の眼目は何か、と言えば、諸大名がずらりと居並ぶ大広間において、その最上段に天皇が着座しつつ、それを補佐する形の(天下人)秀吉に対して、すべての大名らが臣従を誓うセレモニーを成功させることであり、それが豊臣政権の命運をにぎっていました。

で、そのために迎えた後陽成天皇の「宿所」はどこか、となると、後の二条城と同様に、城内に行幸殿の「儲(もうけ)の御所」を造営したことが『聚楽第行幸記』に書かれています。


――― ならば、そんな城内の風景の中で、天下人の「宿所」をも意味する(なおかつ公家社会とは無縁の)新機軸の「立体的御殿」(=天守)を、ヌオッと御殿全体を見おろすように建ててしまっても、大丈夫なのか?

――― それが政権の意図とは逆効果になって、重要なセレモニーを進めるうえで、差しさわりが生じるのではないか?…

そんな、日本史上、初めての経験を前にした心配が、相手は天皇や公家らも含むため予断を許さず、ここは緊急避難的に、天守台だけ雄大に(→掘の対岸から見えやすい形状を特別に工夫しつつ!!)築いてみせるものの、そこに天守そのものは建てずにおこう、という超レアケースの対応を、秀吉本人らが決断したのでは? と想像するのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?






加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?




ご覧の加藤理文先生の著書『日本から城が消える』はこの夏に出版されたものですが、刺激的なタイトルに示された懸念については、これまでに当ブログもそれに近い話題(「コンクリート天守」云々…)を記事にして来たため、まことに遅ればせながら、この本についての感想を手短かに申し上げてみたく存じます。


この本は表紙の黄色い帯で「名古屋城、江戸城の再建はほんとうに可能なのか?」という話題のテーマをキャッチコピーにしながらも、内容的には、明治時代から最近までの城郭再建の歩みを網羅(もうら)的にまとめておられます。

とりわけ全国の「コンクリート天守」の耐用年数が終わりつつある問題や、掛川城・大洲城・金沢城などの木造復元の実情(いくつもの妥協があったこと)を紹介しつつ、いま話題の天守の木造再建が「費用や材料の問題以前に、じつは法律の問題が大きく横たわっているにもかかわらず、報道ではまったくふれられていない」ことに焦点を当てたものです。



(同書「はじめに」より)

戦後、城が復興されたときの法律と、今の法律はまったく異なってしまった。

より安全性や利便性が優先された法改正は、「文化」を置き去りにしてしまったのである。

城は、文化財保護法だけではなく、建築基準法や消防法等、一般住宅のために制定された法律の対象となったのである。




つまり、城やその中の天守というのは、本来ならば法隆寺の夢殿や平等院の鳳凰堂などと同類の、我が国の歴史・文化的な「遺産」のはずなのに、高度経済成長期の観光開発として「コンクリート天守」などが重宝(ちょうほう)された結果、今ではそこに消防法!!! までが適用される実態を、加藤先生はこの本でつまびらかにしておられます。

そうした環境の下では、本家本元のはずの現存十二天守は、言わば現行法の規制の対象外として、仕方なく認められたクラシックカーのごとき存在だと分かるのです。!!

ですから話題の名古屋城など、これから木造で天守を再建しようにも、またはコンクリートのまま建て替えようにも、実は「法律」の強力な壁で建て替えられない(→解体したら、もうそのまま消えるしかない)というケースが、全国でいくつも出現する可能性があり、そのため <消える城の危険度> を検証したくだりは、この本の最大の見どころでしょう。


加藤先生が、消滅の時期が最も早い存在、と予想した洲本城の模擬天守



さらに加藤先生は、中世城郭の土の城を含めて、多くの城跡が“公園”と見なされてバリアフリー化していく大きな矛盾についても指摘し、それらが相まって、『日本から城が消える』というタイトルどおりの懸念が現実化する実態に警鐘を鳴らしています。

新刊書ですから、これ以上、“ネタばれ”になる感想は申し上げられませんが、先生ご自身の懸念に対する「結論」とは別に、私なんぞはもう一つ、別の「結論」もありうるような気がいたしました。

…          …

と申しますのは、「コンクリート天守」を抱えた県庁所在地などの自治体は、住民の根強い願望(やはり天守閣は欲しい…)と法律との板ばさみになったあげく、やむなく、苦肉の策に突き進むのかもしれない、という悪い予感です。

――― すなわち、現状の「コンクリート天守」の延命化を、何が何でも、どんな手を使ってでも、新しい建築技術や法の網の目をかいくぐる裏の手段を使ってでも、永久に、頑(かたく)なに続けるだけではないのか… という、ゾッとするような「結論」が頭に浮かんだのです。

勝手な妄想で申しますと、例えば、寿命が近づいた「コンクリート天守」を部分的・計画的・段階的に改修して行って、いつの間にか、それが新築同然!の別のコンクリート天守に“すり替わっている”などという画期的な新工法が開発されるのは、そう難しい話でもないように感じるのは、私だけでしょうか。…


【ご参考】旧川崎銀行の外壁だけ残して近代化された日本興亜損保横浜ビル

これほどの技術なら「昭和のコンクリート天守」を未来永劫、残すことも可能なのでは?…




おきて欲しくない、実に悪い予感ですが、こうした技術を応用して、あくまでも「改修だ」と言い張れば、加藤先生が指摘された法律上の様々な制約には引っかからずに済むのではないかと思われますし、あとは予算と住民願望との折り合いだけで、その結果は、史跡のど真ん中に「昭和のコンクリート天守」が日本の城郭建築として固定化するという、おぞましい未来像が頭に浮かんで来て、それはひとえに現行の「法律」がそうさせるのだ、という点を叫びたくなりました。

ひょっとすると、文化財保護法や建築基準法は、城の分野においては、かつての徳川幕府の「一国一城令」に勝るとも劣らない! 歴史的にいちばん“強固な法令”になって行くのかもしれません。


で、さらに問題なのは、そんな状態が悪いこととは感じない人々が日本社会の多数派かもしれない… とりわけ「天守閣」などは、それでいいじゃないか、と言う人が多いのかもしれない、という絶望的な気分もぶり返して来たのです。


思えば、今年春に耐震改修を終えた小田原城天守閣も、ちょっとそんな印象を感じさせるもので…


(※写真は産経ニュース様より引用させていただきました)

この際、極端な言い方でたいへんに恐縮ですが、おそらく「コンクリート天守」というものは、薬物などと同じで、一度やったら止められない、という類いの強い“魔力”を持っているのではないかと、常々、私なんぞは感じております。

つまるところ、戦後の日本的な民主主義のもとでは、<コンクリート天守の木造再建> などという社会や時代のスケールを超えた難問は、きっと名古屋市の河村たかし市長のような独善的な政治リーダーがいなければ進まないし、解決の道筋も付けられない政治案件なのかもしれません。

――― そこで、さもなくば私なりの一案として、現状維持を旨とした「文化財保護法」に加えて、学術的に間違った現状を、より正しい旧態に戻すことに強力なインセンティブを与える「文化財<保全>法」とでも言うような新法が必要かと思うのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年10月26日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか






信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか


天正20年以前に毛利輝元が広島城で創建した天守(=小天守)か?

天正17年に徳川家康が駿府城で創建した「小傳主」か?


当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉が築いた頃の聚楽第というのは、巨大な天守台が本丸の北西隅にかなり飛び出た形であった可能性が浮上したため、そうした構造は望楼型の天守にそぐわないことから、そこにはまだ天守の類いが建っていなかったのではないか?(天守台だけ)との推測を申し上げました。

で、そのように考えますと、妙なことに、豊臣政権下の“外様の大大名たち”の城も… 例えば上記の広島城や駿府城も、ひょっとすると、当初は聚楽第と同じく本丸北西隅は天守台だけの状態であり、それに代わる「小天守」を別の一隅に建てて、本丸の威厳を保ったように思えることも申し上げました。そこで…


清洲城の模擬天守

『ビッグマンスペシャル 秀吉の城』1994年より


そんな中でさらに申し上げるなら、ご覧の豊臣政権下の清須城(清洲城)も―――すなわち“もう一人の外様の大大名”として名前を挙げざるをえない織田信雄(おだ のぶかつ)以降の清須城もまた、有名な「清洲越し」の伝承において「小天守を名古屋城に移築した」との記録はあるものの、肝心の天守については何も伝えられていない!(それは何故か)という不思議な一面があります。

そこで従来は、上記イラストのような“天守の”推定復元が我々の興味をかき立てるばかりでしたが、冒頭の聚楽第の状況が判明した現在は、ここで一度立ち止まって、50年ほど前の名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)の解体修理で発見された転用材の“意味”を、もう一度、とらえ直してみるのも良いのではないでしょうか。

その場合、50年前の転用材の発見を踏まえた城戸久先生の“視点”が、いまなお大切なキーポイントであると私なんぞには感じられてなりません。


転用材が使われた名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)


(城戸久「付・清洲城の建築」/『名古屋城と天守建築』所収より)

『聞惟筆乗』によると、

 清須櫓と云ふは御城乾角の櫓をいふ。清須の小天守よし

とあって、古くから清洲城小天守を移築したものと伝えられているが、その構造、材料について見ても、他櫓と相違するところが多くあって、所伝は信じるに足るものである。

(中略)
……名古屋城造営にあたって、清洲城の櫓を移築することはこの城の造営事情から見て、清洲城の伝統と由緒をこれに受けつがせる意図があったに相違ないのである。

移築には少なくとも清洲城の代表的城櫓が選ばれたであろうし、古伝には小天守とも北櫓ともいわれているが、それは天守に相当するか、さもなければそれに代わるところの建築物であったと考えてさしつかえはなかろう。



古伝の「清須の小天守よし」の真意は、解体修理の結果から、部材の転用という形であったことになりそうですが、それにしても、城戸先生の言う「意図」を重んじるなら、なぜ天守ではなく「小天守」だったのか? という疑問が、これまでずっとつきまとって来たわけです。

ところが今夏、聚楽第の意外な実態が判明してみれば、まさにコロンブスの卵であり、そもそも織田信雄らの清須城には“「小天守」しか無かった”のならば、全くもって「清須の小天守よし」で問題は無かったことになります。


織田信雄像(総見寺蔵/ウィキペディアより)


そしてさらに気になるのは、西北隅櫓の転用材のうち、床の根太は(旧建物の)手すり勾欄の地覆材であり、それらには飾り金具の跡があったという点でして、したがって問題の清須城「小天守」は(小天守なのに…)きらびやかな高欄・廻り縁のある望楼型の天守建築だという点でしょう。

と申しますのは、歴史上の大小連立天守などで、小天守にそれだけの“華麗さ”を施した例は現状では一つも確認できないように思いますので、これだけをとっても、豊臣政権下の織田信雄→豊臣秀次→福島正則らが城主の清須城には、城内唯一の天守建築として「小天守」しか無かったのだ(→本来の天守台上には何も無かった)という可能性が濃厚に感じられるのですが、いかがでしょうか。



清洲城の本丸跡の天守台らしき台上 / 現状は織田信長を祀る小社

江戸時代の「春日井郡清須村古城絵図」をもとに勝手に推定すれば…





<ならば小早川隆景の三原城など、他の大大名たちの居城はどうなのか?>




正保城絵図「備後国之内 三原城所絵図」(国立公文書館蔵)より


さて、ご覧の三原城は、毛利元就の三男で豊臣五大老の一人・小早川隆景(所領37万石)の居城でしたが、ここも本丸北端(三角形の北西隅)は巨大な「殿主台」だけの状態で、天守が無かった城として知られています。

が、天守は無くとも本丸御殿は壮大なものだそうで、松岡利郎先生によれば…

「その大広間の規模施設や金一の間の座敷飾りは、広島藩家老級のものにしては格式の高すぎる建物である。したがって、建立年代は小早川隆景の築城当初にさかのぼる可能性が高い。

 ちなみに、豊臣秀吉は天正十五年九州遠征や文禄元年(一五九二)名護屋城往還の途中に三原城へ寄って宿泊しており、その御成りを迎えるために設けたと考えられ、きわだった特色が認められる」
(『毛利の城と戦略』1997年より)

というほどの城であったのに、何故そこに天守が必要なかったのか、理由はよく分かっておりません。


かくして、豊臣政権下の“外様の大大名たち”の城は、意外にも、天守らしい天守の無い城がいくつもあり、冒頭の徳川家康の駿府城や江戸城(255万石)、伊達政宗の岩出山城(58万石)、島津義久の富隈城(56万石)、佐竹義宣の水戸城(54万石)、最上義光の山形城(24万石)など、どれも豊臣期の大大名の居城としてはかなり控えめな景観でした。


―――そもそも「天守」とは、おそらくは、貴種の生まれでない天下人(→氏素性の怪しい天下人、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら…)のために考案された政治的モニュメントであろう、というのが当サイトの一貫した考え方でして、その意味では、島津氏などは領国統治のために「天守」など必要なかったと言えましょうが、問題は、下克上で急成長した(もしくは豊臣政権下で移封された)大名たちです。

ですから、徳川家康や伊達政宗らは、本来ならば“天守の力”も借りて豊臣政権下の領国経営を行ないたかったはずだと思うのですが、彼らは外様の諸侯に過ぎなかったためか、聚楽第の景観に一つのアイデア(模範!)を得て、天守台には天守の無い、小天守のみの <聚楽第チルドレンの城> というカテゴリーを産み出していたかのようにも見えるのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年10月12日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた






大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた




前回は「予談の予談」ということで、私なんぞが感じている石田三成の人物像(いま盛んに言われる「義」の武将ではなくて「預治思想」の権化となった成り上がり高級官僚だったのでは?)を思い切って申し上げましたが、その最後には、ご覧の「武断派」七将と徳川家康との“壮大な共犯関係”についても、勝手な見方を申し上げました。

そうした見方の出発点になったのは、豊臣秀長(とよとみのひでなが)が「武断派」諸将を「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」と呼び、「それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」とまで兄の豊臣秀吉に迫ったと伝える『前野家文書』であり、それに着目した白川亨先生の『歴史群像』の記事でした。


 豊臣秀長像(永観堂蔵)


その『前野家文書』の記述や白川先生の指摘が正しいのなら、秀長は「武断派」に対してかなりの危惧を感じていたことになり、彼等の要求は、豊臣政権の行く末にいつまでも不安定感をもたらす(→もし朝鮮出兵が無かったとしても、そのハケグチは国内でどう処理できるのか?)という前途多難なイメージを持っていたのではないでしょうか。

以前のブログ記事では、秀長が「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語ったとおりに、「公儀」を代行した秀長と千利休という巨頭コンビが政権初期を支えたものの、やがて石田三成・安国寺恵瓊らの「吏僚派」が諸大名との取次役として実力をつけ、秀長や利休を圧倒するようになった(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)との指摘を引用しました。


……となりますと、<秀長・利休コンビ―武断派―吏僚派―関白の豊臣秀次> という豊臣内部の各派閥の関係はどうなっていたのか? それぞれが四つ巴の対立だったのか、そうとも言えないのか、頭の中がこんがらがりそうで、整理が必要です。

そもそも「武断派」と石田三成との対立が言われるのは、およそ朝鮮出兵が始まってからのことと断言していいのでしょうから、それは前回も若干触れたように、「武断派」七将は朝鮮出兵の困難と失敗(=高禄への期待外れと徒労感)が原因で、秀吉亡き豊臣政権には期待が持てない(→番頭役の三成が「預治思想」の権化ではまったく救いが無い!!…)と見限って、外様の大大名・徳川家康との“共謀”に走ったのだと見ていいのでしょう。


ですから、ここで一つ確認しておきたいのは、そういう権力闘争の対立軸として、石田三成や加藤清正など秀吉子飼いの武将を <吏僚派と武断派> の二派にわけて論じる言い方はおなじみですが、その一方で、かなり早い時期から、外様の諸大名も含めた形の<「集権派」と「分権派」>という大きな色分けで論じることも可能だとされて来た点です。!


この件は、当サイトが天守の形態(望楼型と層塔型)には建造目的の本質的な差があり、それは結局、城主が「集権」「分権」のいずれを志向したかとも関わる、という独自の主張をして来たこともあって、たいへんに興味のある事柄です。

それと申しますのは、近世史の大御所・朝尾直弘先生の「豊臣政権論」という、いまや古典的な論文(1963年!)なのですが、この論文の中で先生は、天正末期(小田原攻め以前)の豊臣政権の<東国政策>のなかに「集権派」と「分権派」が分かれるシチュエーションが生まれ、やがてそれが豊臣政権を崩壊させる「構造的な矛盾」につながったのだとしていて、私なんぞには、まことに印象的だったのです。…




(朝尾直弘「豊臣政権論」/『岩波講座 日本歴史9 近世1』より)

がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。

一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
ここに、増田・石田―上杉―佐竹・宇都宮・結城―蘆名の系列が形成されていたことがわかる。

これに、比較的この派に近い南部・秋田氏を入れると、その背後に北国海運の商業資本の存在まで予測することも可能であるが、それより大きなこの系統の特徴は、いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。

つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。




朝尾先生が指摘した「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…

小田原攻め直前の、東国大名の領国と支配地(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)


(さらに「豊臣政権論」より)

同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。徳川・北条・伊達 三氏である。

豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。

徳川服従の後は宥和(ゆうわ)路線は家康を通じておこなわれ、富田知信・津田信勝らがこれにからんで動いており、さらに施薬院全宗・和久宗是といった秀吉側近の名が浮かんでいる。

豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。




朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・豊臣秀次…


――― !! という風に、こうして見直しますと、朝尾先生が分類した<「集権派」と「分権派」>の色分けは、この直後の小田原攻め(戦国大名・後北条氏の滅亡)から、秀長の病没(毒殺?)と千利休切腹、関白・豊臣秀次の切腹、と続いた豊臣政権の重大事と深くリンクしているようで、なおかつ!後々の関ヶ原合戦の東西両軍の色分けとも大きく重なっていて、驚きなのです。




<豊臣秀長は外様の「分権派」大大名の取りまとめ役を自任していたか>






さて、そうした中での秀長の役回りが、大きく問われることになると思うのですが、秀長が天正19年に亡くなる3年前に、豊臣に臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

前述のとおり「公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語っていた秀長の心は、外様の大大名との融和に重きがあって、「秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている」(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)という風に、小早川隆景や徳川家康らに対して、兄・秀吉になりかわる格別なもてなしを行いました。

そうした秀長の厚遇に返礼するため郡山を訪れた家康は、そこで秀長の天守を目撃したはずであり、当ブログでは、近年の大和郡山城天守台の調査結果から、かつて宮上茂隆先生らが主張された「大和郡山城→二条城→淀城への天守移築説」の信ぴょう性が高まった件を申し上げ、松岡利郎先生の淀城天守の復原案も踏まえた推定シミュレーション(イラスト)を作ってご覧に入れました。


松岡利郎先生の淀城天守復原案(赤線の図)が、天守台の礎石列に合致!!

松岡利郎先生の淀城天守復原案(立面図)

当サイトの大和郡山城天守の推定復元シミュレーション

(付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現)



で、ご覧のように秀長の大和郡山城天守は、大きな改築をともなわずに、そっくりそのまま、家康によって二条城に移築されたと思わざるをえない“状況証拠”が出て来ております。

この、天守の歴史において、まことに稀有(けう)な出来事は、それ相応の“意図”が無ければ実現しえないことであり、必ずしも秀長自身は「史上初の四方正面天守」という意識は無かったのかもしれませんが、それを見た家康の心には、この天守に対する強い“思い入れ”が生じていたのでしょう。


かくして誕生した家康の二条城「移築」天守というのは、天下分け目の関ヶ原合戦から三成・安国寺恵瓊・小西行長の“斬首”という決着を経て、かつて秀長が擁護(ようご)した「分権派」の最終的勝利を天下に見せつけた、文字どおりの「金字塔」と見えて来てならないのです。


…      …


政権初期を支えた「名補佐役」秀長の尽力によって、豊臣政権は早い時期から「集権」と「分権」の両方をかかえ込んでいたようで、そこにからんだ「武断派」七将の思惑の行方は、朝尾先生の先の論文のしめくくりにある“哲学的な文面”にもあらわされていて、本当に私なんぞは恐れ入ってしまうわけでして、最後は是非とも、その部分をご覧いただきますと…



(朝尾直弘「豊臣政権論」1963年より)

集権体制が強化されながら、それが豊臣政権として終わりを全うしえなかったのはなぜか。

政権が(豊臣)秀次を抹殺し、関白職を頂点とする支配体制を脱皮した瞬間、「天下をきりしたかゆへき」実力が新しい体制原理として上下に貫徹した。

新しく形成された「公儀」は、もはや関白という伝統的権威においてでなく、実力と実力のぶつけあい、その均衡において成立しており、実力の階層序列の新しい編成をめざして 公然たる運動が開始される場として成立していた。

(中略)
その意味では、秀吉が死にさいして家康らを「五人のしゆ(衆)」と呼び、三成らを「五人の物(者)」と私的なニュアンスの強い呼称で区別したのは(『毛利家文書』九六〇)、豊臣政権末期における政権内部の構造的な矛盾がどこにあったかを明確に示すものであったといえよう。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年09月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説






「革命」は 織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった?


天下人の偉業の継承者・石田三成が完成させられなかった「革命」を、

268年後に実現したのが 大久保利通だったのでは… というお話。



!!
<<石田三成は本当に、豊臣家への「義」のために、決起したのだろうか?…>>


全国の三成ファンの方々が聞いたら、今なら一気にフクロ叩きになってしまいそうな、こんな疑問を、実は、私は長いこと胸の内に抱えて来ておりまして、なかなか自信を持てずにいたのですが、最近ようやく藤田達生先生の中公新書『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(2014年刊)を読んだことで、いささか気分が軽くなった思いがしています。




と申しましても、藤田先生の本に、決してそんなことがズバリと書いてあるわけではないのですが、この中の先生の指摘や各分野の学説の動向を読み進むうちに、「やはり、そうだな…」と、けっこうな手応えを感じるに至りました。

すなわち、石田三成は豊臣家に対する「義」のために決起したのではなくて、もっと別の「ある大望」を完成させるには、何としても、それに逆行していた徳川家康という巨魁(きょかい)は排除せざるをえない、というイデオロギッシュな!闘争のために決起したのだ、と。

ご承知のごとく当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という手前勝手な仮説を申し上げておりますので、そういう立場からも、今回はひとつ、余談の余談として、「城」とは関係のないお話をちょっとだけさせていただこうかと思うのです。



<石田三成は「義」に生きた武将? …どこからそういう話が出て来たのか>



昨今ちまたで流行の石田三成の人物像というのは、ゲームの影響がそうとうに大きいのではないかと想像され、試しに、書籍で「義」という文字をタイトルに使っている三池純正著『義に生きたもう一人の武将 石田三成』や、おなじみの『歴史人』9月号(なぜ石田三成は豊臣に殉じたのか?)を例に、本当に三成は豊臣家に対する「義」や「忠誠心」から家康打倒の大軍勢を組織したのか? という観点で確認してみますと、けっこう怪しい結果になるのです。…

例えば『歴史人』の方から申せば、巻頭の特集記事で作家の童門冬二先生は「石田三成の忠誠心は「豊臣秀吉個人」に対する、三成個人の至誠心の表明だ。豊臣政権という組織、あるいは秀吉の後継者秀頼への忠誠心という要素はあまりない。その意味では三成の忠誠心は、「限定された忠誠心」といっていいだろう。」とまで言い切っておられます。


そして一方の『義に生きたもう一人の武将 石田三成』では、三成の動機をさぐる手がかりとして、三成が家康の前で頭巾を取らなかったという『寛元聞書』の逸話や、三成が落とした杖(つえ)を家康が拾って返しても、三成は礼も言わなかったという『淡海落穂草』のエピソードを挙げたうえで…


「これらのエピソードは一面 三成が普段から家康を警戒し、露骨に敵意を表していたことを示しているともいえる。これは、家康は虫が好かないとか、家康とは性格が合わないとか、そんな感情的な次元の話ではなかろう。
(中略)
三成が家康に敵意をむき出しにしていたとすれば、それは、三成は家康が将来 豊臣家の敵となる存在であると早くから見抜いていたということであろう」


という風に“推理する”論述にとどまっていて、具体的に徳川家康の“何が”豊臣家や豊臣秀頼の命運にさしさわるのか、この段階(三成の存命中)では殆ど明確になっておらず、ただ、ただ、家康の豊臣政権内での“増長ぶりが目にあまる”という三成ら奉行からの糾弾が、有名な「内府ちがひの条々」に書き連ねられたことしか、動機の判断材料は無かったのだということが分かります。


したがって、こんな状態で、三成は本当に、豊臣に対する「義」や「忠誠心」のために家康打倒の軍を起こしたのだと判断していいのでしょうか?

そこで冒頭の藤田先生の本に戻りますと、三成が天下人・秀吉のもとで常に意識させられたはずの「大義」と、三成個人の運命?のようなものが見えて来ます。




<藤田先生の著書から読み取れる、天下人による「革命」の最重要ポイント。

 ツルの一声で国替えができる「鉢植え大名」化で、強力な中央集権国家へ>





(藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』より)

時は、スペインやポルトガルが植民地を求めて東アジアに跋扈(ばっこ)した大航海時代だった。東アジア社会の動揺のなかで信長のめざした天下統一とは、預治思想にもとづき領地・領民・城郭を収公して国家のものと位置づける上からの「革命」だった。

秀吉や光秀をはじめとする麾下(きか)の大名たちは、天下人信長からこれらを預かったのであり、政治状況の変化に応じて知行替(転封)が繰り返されることも覚悟せねばならなかった。

鉢植大名となった彼らは、預かった領地で城割・検地などの仕置を強行していった。天下統一に向けて、預治思想にもとづく大名の官僚化と 石高制導入にもとづく軍役負担制度とが一体になった 近世知行制の導入という方向性が示された。…




藤田先生はこの本において、各分野でひるがえりつつある学説の動向をにらみながら、代表作の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』などで示した天下人の戦争のあり方(…若き日には室町幕府に理解を示したはずの信長が、なぜ「天下人」をめざしたのか?)との決着点を見い出されたと感じるのですが、そのキーワードはやはり「預治思想」による「鉢植え大名」化でした。


先生の言う「預治思想」では、領地も、領民も、城郭も天下人のものであり、臣下の大名はそれらを預かりながら全国の統治を分担するだけであって、時に天下人の意のままに“鉢植え”のごとく国替えもせねばならず、そうなると家柄や地縁はほとんど通用せず、ひたすら大名個人や家臣団の能力を限界以上に使って、天下人が思いついた無理難題に必死に応えて行くことになります。

ですから、明智光秀などは“そこで脱落して”反逆したのでしょうし、反対に石田三成は、近江の没落した地侍と言われる一族の中から、「才器の我れに異ならない者は三成のみ」と秀吉に言わしめたほどの才覚を持って現れ、名だたる大々名からも畏怖される存在にまでのし上がりました。


ところが、それほどの権勢にも関わらず、ご承知のとおり(関ヶ原合戦後に落城した)三成の居城・佐和山城には、豪華な財宝類や意匠は一切無かった、という有名な話があり、現に『老人雑話』には三成が「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったと伝えられていて、これらの事柄は単なる“美談の類い”と片付けてよかったのでしょうか。


<<主君より戴いた物は(主君のために使うもので、断じて私の蓄財などに)残してはならない>>

なんと、これって「預治思想」そのもの!!?…… ということは、もしや石田三成という人は、実は、信長と秀吉・二人の天下人が実行した「預治思想」を受け継ぎ、たちまち預治思想の“権化(ごんげ)”と化していった、地侍出身の、成り上がり高級官僚だったのでは―――

そんな、思わぬ人物像が、藤田先生の本からインスパイアされて浮かび上がって見えたのです。


で、もしそうだとすると、そんな三成にしてみれば、徳川家康とは、主君(天下人の秀吉)から戴いた形のものを大量に溜め込んで残す、盗人(ぬすっと)同然の大悪党、と見えて仕方がなかったのだ… とも思えて来てしまいます。

また、とかく印象の悪かった三成の言動も、個人の性格というより、ことごとくが革命家の情念のなせるワザであったと考えれば、納得のいくことばかりではなかったでしょうか。


そして三成は当然ながら「中央」志向が強かったようで、三成の働きぶりを見た秀吉が、九州に33万石の領地を与えようとすると、三成は「私が九州の一大名におさまっては中央の政治に支障が出るので」との理由で加増を断ったという話もあります。

そんな姿に、私なんぞが連想するのは、明治維新を主導して「廃藩置県」などの“革命”を断行した<大久保利通>でありまして、次のことは司馬遼太郎の受け売りなのですが、下級藩士の出の大久保らは、さらに「国民皆兵」という形の革命(=究極の下克上/平民が武士に成り変わる国民国家への道/フランス革命が発祥)も成し遂げたとされ、もしも三成があと10年か15年、豊臣政権を思うままに主導していたなら、何をしでかしただろうか… とまったく余計な夢想をしてしまうのです。



例えば、三成の「大一大万大吉」の紋章。これは由来や意味がはっきりせず、

一説に「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」

などと解釈されていますが、これなどは、まさに… !?






<「革命」は織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった??

 それを押し戻したのが徳川家康、という歴史的な構図も描けるのでは…>








さて、三成渾身の「闘争」が関ヶ原合戦でついえたのち、三成を排撃していた豊臣「武断派」七将の領地は、合戦前は各地にバラバラに細かく散っていたのが、合戦後はそろって大幅に加増され、あたかも集団で西日本を占拠したかのような勢いになっています。

一般にこの状態は、徳川家康によって彼らが東日本から“遠ざけられた結果”だと言われ、さらには笠谷和比古先生が持論の「豊臣・徳川の二重公儀体制」論との兼ね合いから、西日本で“豊臣の”勢力基盤が維持されたようにも言われましたが、今回の石田三成の闘争や「預治思想」を踏まえますと、また違った印象があるのではないでしょうか?

―――ズバリ申し上げるなら、この状態は、壮大な「共犯関係」の収穫物!!(獲物の山分け状態)ではなかったのか、と。

そんな風に私が感じたのは、かつて「三成研究家」を自称しておられた白川亨先生が、「武断派」の面々について、こう書いたことがあったからです。



(『歴史群像シリーズ55 石田三成』所収「関ヶ原決戦の虚実」より)

天正十八年(一五九〇)、病床を見舞った前野長康に対し、(豊臣)秀長は兄・秀吉に朝鮮侵略の無謀なることを諌(いさ)めたことを語っている(『前野家文書』)。

秀長はその言葉の中で「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」として「武断派」の存在を苦々しく語っている。

さらに秀長は、なおも秀吉に対して「(彼らが)それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」と迫り、朝鮮侵略計画の中止と、交易による隣善友好を求めている。

すなわち、秀長の言葉は「武断派」の存在を示唆すると同時に、その武断派が秀長にとって、嫌悪すべき存在であったことも匂わせている。

(中略)
彼らが東軍として家康に味方したのも、彼らなりの豊臣政権以後を睨(にら)んだ処世的行動と結論すべきである。

「武断派」七将が三成を襲撃し、佐和山退隠(たいいん)に追い込んだ日、当時の心ある人は、苦々しく、
「若き大名共、内府(家康)の気に入りたく体にて……云々」
と、家康に迎合する「武断派」七将の動きを冷静に見ていたのである。




こうした『前野家文書』に基づいた理解が正しいのなら、かの朝鮮出兵には「武断派」の面々、加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明の7人の圧力が、そうとうに加担していたことになるのでしょう。

(※ご承知のとおり『前野家文書』(武功夜話)は過去に偽書と言われ続けたものの、小和田哲男先生は歴史資料としての有用性を認め、前出の藤田先生もまた「良質な史料とは言い難いかもしれないが、信長や秀吉に関する一次史料の空白を補う参考資料としては貴重」としています)


となれば、その後の、徳川家康による上杉征伐から関ヶ原合戦へという大戦略の企図は、そもそも家康が、高禄を欲する「武断派」七将を手なずけ、ともに一大合戦を企てて、彼らにたんまりと日本国内に!!! 広大な領地を与えて“共存の新体制”を築くための大戦略だったのかと思えてなりません。…

その犠牲(いけにえ)にされたのが、豊臣政権の構造は温存したいと願う「吏僚派(集権派)」諸大名の領地だった… などというグランドデザインがあったとすれば、三成の危機感は当然のことであり、もちろん家康の思惑が一筋縄で行かなかったのも当然ですが、それにしても、家康の大戦略の結果は、三成の「革命」による中央集権国家とは“真逆の封建社会”に向かっている(逆行している)と見えたのではなかったでしょうか。





で、それから268年後、家康が築いた幕藩体制(官僚制的封建主義)が崩壊し、ふたたび「分権」と「集権」が大逆転しました。

薩摩藩の下級藩士から明治新政府の巨頭となって君臨し、西南戦争にも勝った<大久保利通>は、盟友・西郷隆盛の戦死を聞かされた時に「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が…」とつぶやいたと言われます。

以上の事柄を踏まえて、つぶやきの真意を想像してみますと、ともに幕藩体制を突き崩したものの、国民皆兵の思想にまではなじめず、征韓論を唱えて失脚した<西郷隆盛>という人は、どこか「武断派」七将… なかんずく加藤清正か福島正則のように見えて来て、清正や正則は本来なら、豊臣「新政府」のためにもう少し、三成と歩調を合わせられなかったのかと、時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説を夢想するわけなのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年09月14日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?






徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?


江戸後期の駿府城の体裁をかろうじて守った「坤(ひつじさる)櫓」/ 平成26年復元

これが例えば『東海道分間延絵図』の府中(=駿府)では…



天守と城下とのビスタ(vista/眺望)と言いますと、例えば岡崎城と大樹寺を結んだ一直線のビスタラインなどが有名ですが、似たようなことが駿府城でも言えるのかもしれず、ご覧のように東海道分間延絵図(文化3年完成)では、城の西側からの東海道の先(真正面)に、城内の重層の櫓が見えたかのように描かれています。

ご覧の三重櫓は、近年に復元された坤櫓とも見えますが、しかし地図上で厳密に線を引いてみますと、このビスタラインの真正面に建っていたのは、やはり本丸の「天守」に他ならなかった、ということがよく分かります。


明治22年 静岡市街図より



ためしに冒頭の絵と同じ「東海道分間絵図」の類いを見比べてみますと、時代によって、天守があった頃の描写が踏襲されたものもあり、また具体的な建物(天守か櫓か)がもう特定できなくなった絵図もあるようです。


九代目城代・三枝守俊の頃(延宝8年〜元禄8年)=天守が失われて45年〜



このようにして見て来ますと、「平城」という、平坦地に広がる城下町に囲まれた城においては、天守をどこに置くのか? という問題は、街道のビスタラインと連動したケースがいくつもあったのかもしれません。

そして当ブログはこのところ、聚楽第、広島城、駿府城といった「平城」を話題にして来ましたが、高低差のある平山城ならばともかく、まっ平らな平城の本丸の一遇に天守を置くとなると、それは厳密に申せば、織豊系城郭の縄張りの「求心性」の頂点(中心)とも言い切れなくなり、ちょっと外れてしまう? というやや困った現象が同時に起きたようにも想像するのです。


例えば、丘城(平山城)である岡崎城の復興天守内の模型を例に申せば、

高低差によって天守が「求心性」の頂点だと分かりやすいものの…



平城の駿府城でこうなると、求心性の頂点(中心)はいったいどこ???



こんな平城での困った現象をおぎなうための工夫が、実は前述のビスタラインや、天守じたいの「四方正面」の造形(とりわけ八棟造り)だったのではないか? という新たな興味(仮説)が私の頭の中に浮かんで来たのですが、果たしてどうなのでしょう。…




<八棟造りの「小傳主」は、破風の多い徳川版“見せる天守”の原型だったか>




関ヶ原の東軍大名・中村忠一が、駿府から米子に転封の後にあげた「四重天守」

友森工業様の地域貢献活動(CSR)のCG作品を引用 →右上端が四重五階の天守


さて、前回のブログ記事の最後で、天正の徳川時代の駿府城「小傳主」というのは、後の米子城天守にそっくりだったのではないか、などという勝手な推測を申し上げました。

そんな風に申し上げた理由としては、その後も家康とは縁の深かった「四重天守」であり、なおかつ四方正面(八棟造り)というスタイルであり、また唐破風を使用していて、しかも最上階には高欄廻縁が無い、という家康ゆかりの天守の特徴がいくつも揃ったうえに、中村忠一の移封を考えますと、忠一がそういう「小傳主」を意識的に米子の地に移植(増殖)したのだ、と想定しても全くおかしくないように感じるからです。


そしてもう一つ、家康の側の事情を想像しますと、前回に申し上げた時系列の主な出来事の間には、ある大事な出来事を書き加えなければならないでしょう。


天正13年
 徳川家康、第一回目の駿府城築城を開始。翌年には居城とする

天正16年
 4月、家康は聚楽第行幸に参列する

 5月(『家忠日記』より) 十二日、甲午、てんしゆの才木(ざいもく)のてつたい普請あたり候、家康様より普請ニせいを入とて御使給候、…

 8月、家康は豊臣秀長の大和郡山城を訪ねる

天正17年
 2月(『家忠日記』より) 十一日、己丑、小傳主てつたい普請當候、…



!! 大和郡山城天守の推定シミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)


ご覧のとおり、家康はこの時期に大和郡山城天守を目撃していたことになり、イラストは宮上茂隆先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)に基づいたものですが、このような天守を見た家康はきっと、東西南北・四面の破風の印象で、これが日本初の「四方正面」天守と見えたのではなかったでしょうか。


これまで当サイトでは、天守に「四方正面」が広く求められたのは徳川幕藩体制の確立と深く関わる事柄であり、それまでの織豊期の望楼型天守は明らかに「正面」や「側面」が存在していて、それらは城の大手や城下町、仮想敵の方角とピタリと合致していたはずだと申し上げました。(→天下布武の版図を示した革命記念碑か)

ところが幕藩体制下になると、天守は新たに、各藩の分権統治の中心をなすモニュメントとして役割が見直され、四方に広がる領国や城下町のすべての方角に正面を見せる必要が生じて、「四方正面」の天守が全国的に普及したのだろうと申し上げて来ました。


そういう意味では、大和郡山城天守は時代の変化を先取りしたデザインであったと申し上げていいのでしょうが、大和郡山城も平城に近い地形の城ですから、それを目撃した家康の心には、自らが初めて平城を居城にしたばかりでもあったためか、「四方正面」にもう一つ、別の動機(効果)を見い出したようにも想像できてしまうのです。


―――すなわち、自らが初めて建造する天守(小傳主)は、大和郡山城のような「四方正面」としつつも、さらに破風を増やした「八棟造り」にするならば、それは平城の縄張りの求心性の「自己表現」としても使えるのではないか!? という画期的な効果に気づいたのではなかったのかと。



【ご参考】 同じく平城の尼崎城の「四方正面」四重天守(※荻原一青「旧尼崎城」を引用)

これを築いた戸田氏鉄は、家康に近習として仕えた後、膳所城など四重天守の城の主を歴任した



そして、そんな家康の気づきが、天守におびただしい数の破風が設けられる引き金(トリガー)となり、その後の徳川の巨大天守のデザインにつながって行ったのかもしれません。

以上のように、駿府城「小傳主」は、城内で一基だけの天守建築だからこそ、余計に工夫が凝らされたとも思われ、家康の意地があらわれた部分と妄想するのですが、果たしてどうでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年08月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか






ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか


2013−2014年度リポートで慶長期の駿府城天守についてアレコレと申し上げましたが、その中では、慶長12年末の本丸火災と天守の再建に関して、次のごとき当サイト独自の「新仮説」をご覧いただきました。




―――これはつまり、本丸火災で焼けた天守というのは、そこに豊臣大名の中村一氏か内藤信成の時代からの「御天守」がずっと存在していて、それを包み込むような新規の石垣工事が行なわれ、その結果、“広すぎる天守台”がやや位置を変えて出現したものの、それらが本丸御殿もろとも焼けてしまった、ということではなかったのかという仮説です。

詳しい内容はリポートの方をご覧いただきたいのですが、このような「新仮説」であれば、従来説の(慶長12年末に焼失した「徳川」天守の)建設期間の極端な短さや、幕府御大工・中井正清の不自然な行動、といった矛盾点が一挙に解消されますし、さらには再建時にも繰り返された“広すぎる天守台”の由来までも特定できるかもしれない、という大きなメリットが期待できます。

で、このような「新仮説」の是非は、天守台の発掘調査でシロクロの決着がつくはずですが…


いよいよ発掘調査が始まった駿府城の天守台跡(8月25日撮影)

露出した大天守台の南西隅は、算木積みの隅石が割れているように見え…



隅石の大きさが本丸の石垣と同程度なのは、これが寛永の火災後の再築部分だからなのか?…


それにしても、当然ながら、こんなにデカい天守台を私は見たことがありません。



※上の拡大写真あり









!!! 天守台の一辺をおそらくはまだ半分も掘り切っていないのに、この土砂の量、というのが驚きですが(→多くは栗石?)、このことは現場の説明員の方も心配顔であったのが印象的でした。

と申しますのも、発掘中の土砂というのは簡単に捨てるわけに行かないようでして、開始された静岡市による発掘調査は、今後4年間をかけて駿府城天守台の解明を進めようというのですから、さらに大量の土砂が発生することは確実です。

よもや、それらの土砂は順次「埋め戻し」てしまう!?…のではあるまいと思いつつ、当サイトの「新仮説」のこともあるため、興味津々で今後の成り行きに大注目しております。



静岡市のホームページにある「駿府城跡天守台発掘調査の範囲」を引用

その初年度(H28年度)の範囲を報道した略図を引用

で、この報道の略図を当サイト「新仮説」の上にダブらせますと…



ご覧のように、初年度の調査は天守台の西辺が対象になっていて、より東側の「新仮説」に関わる部分が明らかになるのは、2年度目以降のことになるようです。




<では、天正年間の、徳川家康の第一回目の築城による駿府城には、

 「小天守」とともに大天守も存在したのだろうか?>





さて、今回の調査は、大きな方針の一つとして、天守台跡の地中には「今川期の遺構」があるのではないか、というテーマも掲げられていますが、前述のごとく、慶長年間の徳川時代はもちろん、その前の内藤信成や中村一氏の時代(→過去に瓦の発見例も)、そして第一回目の徳川家康による天正年間の築城(土塁の天守台?)などなど、「今川期」に達する以前にも、天守台石垣の中や下には色んな遺構が複雑に埋まっている可能性がありそうです。

そこで年代の確認のため、例えば天正10年、甲斐の武田氏の滅亡後に、徳川家康が初めて駿府城を得たあたりからの年表をご覧下さい。




このように家康による築城は第一回目・第二回目とあったわけですが、従来からとりわけ大きな「謎」とされて来たのが、第一回目の築城時に、文献上では「小天守」という文言が伝わっているものの、この時、果たして大天守も一緒に存在したのか? という問題でしょう。


(『家忠日記』より)

天正十六年五月
… 十二日、甲午、てんしゆの才木(ざいもく)のてつたい普請あたり候、家康様より普請ニせいを入とて御使給候、…

天正十七年二月
… 十一日、己丑、小傳主てつたい普請當候、…



天正年間の徳川「天守」が文字として現れた記録は、まさにこれだけ(関ヶ原合戦の前哨戦で戦死した松平家忠の日記)のようであり、前出の静岡市のホームページでは、この文言をもとに?天正16年5月12日に「駿府城天守完成」と紹介してありますが、これなどはやや拙速(せっそく)の判断のように感じますし、建物としての存在が確実視できるのは翌17年2月の「小傳主」=小天守だけ、というのが従来から言われて来た考え方です。

(※追記/『家忠日記』には同日の天正16年5月12日に「この日御天守なる」という文言もある、と一部で言われているのは、後世に注釈文として書き加えられた部分ではないでしょうか。でなければ、家康がこの日、普請に精を入れるよう使いを発した記述とも矛盾してしまいます…)

で、この問題で是非ともご確認いただきたいのは、駿府城で起きた主な出来事の“タイミング”でありまして、先ほどの年表をもう一度だけご覧下さい。




ご覧の赤文字の部分のとおり、第一回目の築城と、『家忠日記』の「てんしゆの才木」「小傳主」築造の記述とは、時期的なタイミングがやや異なっておりまして、その間に <聚楽第行幸への参列> というイベントがはさまっていた点に、ご注目をいただきたいのです。

私なんぞの勝手な印象としては、天正の徳川時代の駿府城は、仮称「聚楽第チルドレン」の筆頭と申し上げてもいい城だと思っているのですが、天守の築造と、聚楽第の訪問、という二つの事柄の関連性を考えますと、まさに前回の「広島城」と同じことが、駿府城でも起きていたのではなかったでしょうか?


(( 城の大手から見て <本丸の左手前隅角> の位置を広島城に当てはめると… ))



前回の記事では広島城天守(※江戸時代から昭和20年まで続いた天守)は西ヶ谷恭弘先生の指摘のように関ヶ原合戦後に福島正則が築いたものであり、その前の毛利時代は、聚楽第にならって本丸北西隅が天守台だけになっていたのではないか…

なおかつ、毛利輝元は上記の城絵図の位置に、言わば自前用の、純然たる望楼型の天守(≒小天守)をあげていたのではなかろうか? と申し上げたわけですが、そうした状況は、取りも直さず <「小天守」の記録しかない駿府城> においても、見逃せないポイントになって来るのではないかと思われるのです。

―――言うなれば、この度の聚楽第跡地の地中探査がもたらした聚楽第天守のありようによって、今や豊臣政権の有力大名たちの天守についても、解釈方法の「ドミノ倒し」が起きようとしているのかもしれません。



ここでも、「未完のパズル」がパチンッ! と綺麗にはまる音が聞えるような…


現状の駿府城公園内、「小傳主」はこの辺りに? →後方が天守台の発掘現場


駿府城の場合、それはきっと、人々が思う以上に大規模な「小傳主」… ひょっとすると“四重の天守建築”がここに建っていたのではないか?… と、私なんぞは秘かににらんでいるのですが。



【ご参考】中村忠一が駿府城から米子城に転封の後にあげた「四重天守」…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年08月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問”






毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問”




前回までの記事では、聚楽第跡地の地中探査の結果に基づけば、本丸の北西隅にかなり飛び出た形の広い天守台には、おそらく望楼型の天守がなじまないため、二代目・豊臣秀次の頃になってから『御所参内・聚楽第行幸図屏風』にあるような層塔型「御三階」が、その広い天守台の真ん中に建てられたのではないか… などと申し上げて来ました。

では、それ以前の、豊臣秀吉が関白の頃はどうなっていたのか?と申しますと、天正15年(1589年)に聚楽第が完成したのち、翌16年に毛利輝元ら毛利家の主従が聚楽第を訪れていて、その様子が『輝元公上洛日記』にあり、その中にかすかに聚楽第の建築についても言及があります。


七月廿四日乙亥 雨
…午刻に聚楽へ御出仕候。関白様殿様御進物銀子三千枚折に入御太刀一腰惣金具御馬一疋月毛御鷹五居、金吾様へ沈香百兩虎皮拾枚御太刀一腰金覆輪、北政所様へ銀子貳百枚白糸三折、三丸他御奏者前野但馬守。御対面の御座配の次第御食被進時の段。…

八月七日戊子 天曇
…未刻に聚楽へ御出仕候、碁被成御覧。其以後御座席台所不残見せ被参せ候、駿河大納言大和大納言殿御案内者也。関白様も姫子御いたき被成度候、御出候て御雑談なと有之。…

八月廿七日戊申 天晴
…酉刻に御暇乞関白様へ御出仕候。太刀一腰梨地銀子五十枚御進上。関白様被成御家顔御馬一疋被進候間、御厩の内を御覧にて何成とも御気に入を可有御取の由にて綾の御馬御拝領候。…
 


という風に「御対面(所)」「御座席」「台所」「御厩」を輝元らに見せつつ、それで城内を「不残(のこらず)見せ被参せ候」と言うのですから、この時点の聚楽第というのは、その後、輝元らが一連の旅の最後に大坂城を訪問した際には、秀吉自身がわざわざ「天守」に登って案内したのと比べますと、印象として、けっこうギャップがあるように感じられるものです。

このことからも、以前から城郭ファンや研究者の間では“聚楽第には天守が無かった”との見方が一部で示されて来たわけですが、そうなりますと、近年、佐竹家の臣・平塚滝俊の日記をもとに、改めて話題になった <広島城天守の創建の時期=天正20年以前説> とのカラミが大変に気になってまいります。!

と申しますのも、ご承知のとおり毛利家は、聚楽第の「縄張り」を写して広島城を築いた、との記述が江戸時代の文献にいくつもあるものの、もしも輝元らが“巨大な天守台上にまだ天守の無い聚楽第”を見て帰ったのだとしたら、その後に秀吉に大坂城天守は案内されたものの、帰国後、堂々と広島城に天守を創建できたのだろうか… と、それまでの秀吉(織田家)と毛利家との政治的な経緯(この時も毛利は豊臣配下で最大級の外様大名)からやや心配になるためでして、そのうえさらに、こんな指摘も過去にあったからです。



広島城天守(1958年外観復元)


(西ヶ谷恭弘監修『日本の城 〔戦国〜江戸〕編』1997年より)

広島城天守は二層屋根が大入母屋で、初層・二層が同一平面で、最上階は望楼廻縁となり、確かに古式な手法を伝える。
しかし、三層以上は層塔式という寄棟形式の逓減率(ていげんりつ)が大きくなる手法で、名古屋・松江・萩・姫路城と共通する慶長後期の型を呈している。

以上の点からも、原爆で失われ、今復原されている型の広島城天守の造営は、毛利氏時代ではなく、福島正則時代のことと考えられる。

以上述べた天守成立は、あくまでも昭和二十年八月まであった天守についてである。正則入部前、毛利氏時代に天守の存在を否定するものではない。
毛利氏時代に天守が建造されていたと考えるなら、位置も外容の型も異なるものであったに違いない。

(中略)
毛利氏時代の広島城本丸が現状と異なっていたことは、昭和四十一年の天守台石垣下の発掘調査で、古い時代の石垣が出土したことからも窺える。



この西ヶ谷先生の指摘がずっと私の頭の片隅に残っていたせいか、今回の聚楽第跡地の地中探査から、輝元らが見た聚楽第には“まだ天守が無かったのかもしれない”“平塚滝俊が天守と見誤ったのは前田利家邸の四重?櫓だったか”という疑いを感じた時には、真っ先にこの話を思い出しました。

西ヶ谷先生の指摘は、要するに、上の写真の広島城天守は、聚楽第とは直結しない存在だという考え方です。

しかし先生はこの本の中で「位置も外容の型も異なる」広島城天守の具体像については何もおっしゃっておりませんので、その後、つらつらと想像をめぐらせた中で俄然(がぜん)、私の注意を引いたのが以下の有名な城絵図なのです。


広島市立中央図書館蔵『諸国当城図』「安芸広島」より


ご覧の図は広島城の数ある城絵図の中で、江戸初期・正保以降の一時期の様子を描いたものと言われますが、大きな特徴として、本丸南西側の水掘だけが極端に広く描かれた一枚です。

江戸時代の天守は現状と同じく本丸の北西隅(図では左上の隅)にあったわけですが、何故これほどまでに“南西側の水掘”が強調されて描かれたのか、理由が分かりません。



そして、このことはかの『正保城絵図』の広島図においても、描写の精緻さの差はあっても同様のことで、該当する辺りの水堀には「廣五十三間」という書き込みがあり、城内でも飛びぬけて幅広い水掘であったことが分かります。



【ご参考】本丸南西隅の石垣 → 天守台などと異なり、現状の石垣は明治時代の改修


ちなみに、全国の近世城郭のうち、本丸の一遇に天守があった城を見て行きますと、必ずそうなるという法則は無かったようですが、天守周辺の水堀が城内で最大の堀幅であった、という事例はいくつも見受けられます。


天守周辺の水堀が最も幅広であった城の例(上:松本城/下:八代城)


こうした現象は、前述のような広島城の状況に対して、少なからぬ“疑問”を感じさせるものですし、さらに申し上げるならば、現在の広島城天守の位置は、関ヶ原合戦後に毛利家が築城した萩城とはまるで異なっていて、むしろ萩城の天守の位置(=本丸南西隅)の方が、城の大手から見て<本丸の左手前隅角>という織田信長の作法(当サイト仮説)にかなった姿であり、織豊大名の城としては自然な姿であろうと感じられてなりません。

そこで試しに、城の大手から見て<本丸の左手前隅角>という位置を、広島城に当てはめてみると、どうなるのか―――




もう皆様のご推察のとおり、私が申し上げたい事柄というのは、もしも毛利輝元らが聚楽第で見たのが“天守台だけの状態”であったのなら、毛利家としては僭越(せんえつ)な行為は間違っても出来なかったはずで、ひょっとすると、広島城も危険回避の“横並び感覚”で築城がなされ、本丸北西隅には天守台だけ!! が築かれたのではあるまいか―――

そして問題の本丸の南西隅には、言わば自前用の、純然たる望楼型の天守が上げられたのではなかったのかと。

そしてその場合でも、広島城天守の創建の時期としては「天正20年以前」で間違いないのでしょうが、ただその時に出現した天守は「位置も外容の型も異なるもの」であり、江戸時代から昭和20年まで続いた天守は、やはり福島正則あたりが、毛利家築造の天守台のうえに新築した別の天守であった…

という風に、ここへ来てようやく、未完のままのパズルがカチッカチッ!と綺麗にはまる音が聞えて来たようであり、どうも私なんぞは気分が落ち着かないのです。…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年08月02日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する






最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する


中国語で白鷺と言えばコサギ( Little Egret)→ 夏に後頭部の冠羽(かんむりばね)が立つのが特徴

(※ご覧の写真はウィキペディアより引用)

九羽の白鷺を描いた「九思図(きゅうしず)」の描き方の一例(趙仲穆画/元時代)


ご承知のとおり、伝統的な中国絵画や日本画における「白鷺」の描き方というのは、後頭部の冠羽や胸の飾り羽を描くことが一つの定型になっていたようで、これらが描かれた鳥の絵は「白鷺」であるという約束事があったそうです。

で、このところ申し上げて来た『御所参内・聚楽第行幸図屏風』の聚楽第天守は、建物の構造が他の絵画史料とはかけ離れた形(層塔型)であるうえに、最上階の様子がこれまた特徴的であり、一見すると、どういう構造の階なのか、分かりにくい描き方にもなっています。





このように最上階の長押と敷居の間はずうっと、四隅の柱を残して、全面にわたって水辺の白い鳥や水草の絵になっておりまして、これは果たして、壁に描いた絵なのか、板戸や雨戸に分割して描いた絵なのか、はたまた陣幕の類いなのか、よく分からない状態です。


        

        


ですが、ご覧のごとく、描かれた鳥は明らかに「白鷺」であると申し上げていいのでしょうし、そうなりますと、当サイトで度々申し上げたように、かの『大坂夏の陣図屏風』の天守最上階に描かれた鳥もまた「白鷺」であったことと、ぴったりと符合することになります。!!


『大坂夏の陣図屏風』の場合、それは東西南北の壁に合計九羽の白鷺を掲げて、全体で「九思図」を表現したのでは?…などと申し上げて来ましたが、九思図とは、『論語』の「孔子曰,君子有九思」(孔子曰わく、君子に九思あり)という、君子が持つべき九つの心得を画題としたものです。

となれば、聚楽第の天守(御三階)にも、そうした『論語』の絵!!? が最上階にあったのかもしれないという、豊臣秀吉にはちょっと似つかわしくない(失礼…)可能性が生じるわけで、これが本当ならば、いつ、どんな風にして始まったことなのか?(=誰の発想だったのか?)という興味がわいて来ます。


左:『大坂夏の陣図屏風』より / 右:『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より


そこでまずは、不思議な最上階の描き方の“実像”から推理してみたいのですが、例えば『御所参内・聚楽第行幸図屏風』を検証した狩野博幸先生(日本近世美術史)は、著書において白鷺の絵は「おそらくは行幸の期間だけのしつらえ」と推測されたものの、建築的にどういう構造で、そのどの部分に(臨時に)絵がほどこされたのか、といった具体像までは言及しておられません。

言及しづらいのは当然のことでしょうし、それはこんな構造が実在したかどうかも分からない状態(→絵画上の表現だけの可能性)を踏まえての推測だと思うのですが、それに対して、私なんぞがあえて例示してみたいのは、岡山城の月見櫓なのです。



岡山城の月見櫓(元和〜寛永期の築造 / 重要文化財)

最上階をよく見れば、どこかアンバランスな印象で…



ご覧の月見櫓は、写真の城内側から見た場合と、真反対の城外側から見た様子がまるで違うことでも知られていますが、最上階も同様であり、城内側の南と東の二面だけ、張り出した縁がめぐっていて、その縁の際に高欄(手すり)や雨戸が入る形になっています。

そのため上記写真のようにややアンバランスな格好に見えますし、雨戸をザアッと開くことが出来るため、右端(南東隅)の柱が一本だけ立って見える形にもなり、これが問題の層塔型「御三階」の不思議な描き方を推理するヒントになるのではないでしょうか。




岡山城の月見櫓の場合は、張り出した縁の奥に明かり障子が入っていて、内部は畳敷きの座敷になっておりますが、その周囲にもしも襖や板戸があって、そこに「白鷺の絵」が全面に描かれていたならば、まさにご覧の“不思議な描き方”が現実に出来上がるようにも思えるのです。

かくして、最上階の城内側だけが開放的になっていた、という解釈であれば、屏風絵にかなり近い形になることでしょうし、また屏風絵の詳細に従えば、そのまわりにさらに落ち縁のごとく高欄廻縁が付けられていたのかもしれません。


【ご参考】西本願寺・飛雲閣の二階「歌仙の間」


そして絵の位置についても、場合によっては“座敷の内側”という考え方も出来なくはないように思われ、実際は屏風絵のとおりに見えたのではなく、絵師が「白鷺の絵」の情報をもとに勝手に画面を構成(合成)した描写だ、という可能性もありうるのではないでしょうか。

ですから、長押と敷居の間いっぱいに描かれた「白鷺の絵」は、単なる絵空事でもないように感じますし、奇しくも、岡山城の月見櫓も、聚楽第天守(御三階)も、本丸の「北西隅」を守備する役目を負ったうえで、最上階が遊興の場として使える構造になっていたのかもしれません。



地中探査で判明した聚楽第の天守台跡

ちなみに、岡山城の月見櫓の地階や一階の壁は「武骨一辺倒」であり…

そこは問題の層塔型「御三階」の二階や望楼下の階も似たような造りで描かれる





<では、いったい誰が『論語』にまつわる絵を豊臣家の天守に導入したのか??>




さて、皆様すでにご承知のとおり、「殺生関白」豊臣秀次は、文化的な面において意外に多くの業績を残していて、例えば小和田哲男先生の著書には、足利学校の存続をめぐる秀次の功績について触れた部分があり、そこに思わぬ一文があるため、その前後の文章を、やや長文になりますが引用させていただきます。


(小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』より)

下野国のほとんどが戦国時代末期には後北条氏領に組みこまれたということもあり、足利学校も後北条氏の保護をうけていた。
ところが、天正十八年(一五九〇)の秀吉による小田原攻めで、後北条氏が滅亡し、保護者を失った足利学校もピンチを迎えていたのである。

そのような状況のところへ秀次が足利学校に立ち寄ったというわけである。
秀次が、翌天正十九年(一五九一)六月、九戸政実の乱を鎮定して凱旋する途中、足利に立ち寄り、足利学校を訪れ、庠主(しょうしゅ/校長)の三要、すなわち閑室元佶(かんしつ げんきつ)と会い、窮状を聞かされ、援助の手をさしのべることになったのであろう。

(中略)
足利学校に立ち寄った秀次は、学領として一〇〇石を寄進し、学校の存続を経済的に保証したあと、庠主の三要を伴って帰洛しているが、そのとき、孔子の画像や、さきにみた六経のうち『楽経』を除く五経などの典籍の一部を京都に運ばせているのである。


―――この 孔子の画像!! というのがどんな画像だったのか、いわゆる孔子行教像の類いなのか、これ以上、私にはよく分かりませんが、そうした絵に秀次が関心を抱いていたことに間違いは無さそうです。

ネット上で見つかる孔子行教像の一例『明代孔子行教像』(中国・曲阜市蔵)


この秀次の行動だけで何かが証明できるわけではありませんが、一つの可能性として、豊臣家の天守に『論語』の絵が導入された経緯を想像するヒントにはなるのではないでしょうか。

と申しますのも、冒頭の「九思図」の九つの心得とは、

「孔子が言われた。君子には九つの思うことがある。見るときははっきり見たいと思い、聞くときは細かく聞き取りたいと思い、顔つきは穏やかでありたいと思い、姿は恭しくありたいと思い、言葉は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑わしいことは問うことを思い、怒りにはあとの面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う」

という、君子はかくあるべし、との孔子の言葉でした。


ですから、豊臣家の天守の最上階に掲げられた「白鷺の絵」というのは、その目的や意図は、自らの実力で天下人の座についた秀吉のあと、後継者になった秀次や豊臣秀頼らが、その地位にふさわしい為政者像を自らに課すための「九思図」だったのではないかと、私なんぞは改めて感じるのですが、どうでしょうか。


左:秀頼が再建した大坂城天守の白鷺? / 右:主に秀次時代の 聚楽第「御三階」の白鷺?






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年07月15日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと??






後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと??


もう一つの豊臣秀次像(模写/原本は16世紀の作!で、京都の地蔵院が所蔵)

で、これの顔の部分を拡大してみれば……


(※ご覧の写真はウィキペディアより引用)

ご覧の掛け軸に関しては、すでに大勢の方々が気づいていらっしゃるのでしょうが、ここには、おなじみの瑞泉寺(京都)蔵の豊臣秀次像とはかなり印象の違う、目ヂカラの弱い、『太閤記』等の“殺生関白”とは程遠い感じの、面長のヤサオトコの顔が描かれております。

ただし両あごに特徴的な髭がある点は同一人物だということを伝えているようですし、実は瑞泉寺の方の秀次像は17〜18世紀・江戸初期か江戸中期の作だそうですから、その当時、『太閤記』のイメージが普及した状態を想像しますと、どちらが本当に近かったのか、まったく分からなくなって来ます。…


近年では、有名な秀次事件の原因について、矢部健太郎先生(日本近世史)が <豊臣秀吉は秀次を高野山に追放しただけであって、そんな秀吉の意図に反して、秀次が身の潔白を証明するために自ら腹を切ってしまったのだ> という主旨の新説を打ち出して話題になりました。

で、その矢部説では、自刃した場所が秀吉の生母・大政所の菩提寺(青巌寺)であったために、秀吉は神聖な場所を汚されたという怒りに燃えて、秀次の妻子ら39人を処刑したのだろうと説明していて、その後の聚楽第の徹底的な「破却」についても、「やはり政権の意図に反した「秀次切腹」がきっかけであろう」(『関白秀次の切腹』)と説明しています。




――― では、そもそも <高野山への追放> を引き起こした最初の原因(嫌疑)は何だったのか? と言えば、やはり問題の発端は実子・秀頼の誕生のようで、矢部説においても、当時二歳の秀頼への「権限委譲」を秀吉の命のあるうちにいかに行なうかが急務となり、「何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁(いんとん)させるというのが、政権主体の青写真であった」(上記著書)という風に、秀吉側の陰謀が根底にあったとしています。

そのように、実際の秀次自身は『太閤記』等にある“謀反人”ではなかったし、ましてや残忍な“殺生関白”でもなく、石田三成による讒言(ざんげん)説も怪しい、というのが、おなじみの小和田哲男先生など現在の研究者のほぼ一致した見方のようで、そうした中にあって、謀反の嫌疑に <潔白> だから自刃したのだ、という矢部説の新味さは、この度の探査結果とも、妙な符合を見せているのです。…



聚楽第の外堀→ これは「城」としては <未完の状態> と見るべきか?

とりわけ、南東側の浅い凹みは「今まさに外掘を掘っている途中」だったのか…



(※ご覧の図は京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」の掲載図を引用)


で、ここへ来て、城郭研究の先生方の“出番”が来ていると思えてならないのですが、この度の地中探査(表面波探査)で外堀の様子がよりはっきりと見えて来たことは、秀次事件の真相の解明にも大きく寄与するのではないでしょうか。

その場合、とりわけ注意が必要なのは、探査チームの発表による「聚楽第は単なる邸宅ではなく、本格的な城としての性格が強いことを裏付ける発見」だとのニュース報道のうち、「本格的な城」という言い方でしょう。

と申しますのは、一見、外堀の状態から「本格的な城」と見えても、これをもって秀次の側に「やはり謀反の意図はあった!? 」などと考えてはいけないということでして、むしろ逆の視点から、外堀の状態は「潔白だから自刃した」秀次にとって貴重な“身のあかし”とも言えそうだからです。


もう一度、外堀の配置をよく見れば、南面(=伏見城の側)の工事が後回しになっている…



今回の探査では、ご覧のとおり南面(=伏見城の側)の外堀が後回し! になっていたことが如実に分かり、…ということは、これらの工事が、南からの差し迫った攻撃にそなえた「防御」のつもりではなかったことを、“物的に”証明していると感じられてならないのですが、どうでしょうか。

となれば、この外堀工事は、ただ、ただ、「関白の城」としての体裁を整えるため、といった意図しか無かったのではないか、という風にも想像できますし、秀次ら主従は、それが政治的にどれほど危険な行為になるのか、あまり深く考えずに工事を始めたところ、その情報が秀次の失脚をねらう者らに利用され、工事が進むにつれて“秀次謀反”の嫌疑が(秀吉の間近でも)急速にふくれあがった… という可能性は無かったのかと。


――― かく申し上げますのは、当ブログの先々月からの記事で、かの織田信長が、京の都ではほぼ一貫して寺院に「寄宿」し続けたのは何故か? という疑問や、二重(もしくは三重?)の堀で囲まれた「旧二条城」の足利義昭が、やがて信長への反旗をかかげるに至ったこと、などを申し上げたばかりだからでして、天皇や朝廷に近い洛中において、強固な「城」を築くことの意味合い(危うさ)というのは、本来なら、あらゆる武家が警戒したはずでしょうし、それが常識的な感覚だったのではないでしょうか。

それは関白政権をスタートさせた秀吉であっても、完全な城構えの聚楽第を、わざわざ「第(てい/やしき)」と呼ばせたり、堀を「一重」にとどめたりしたのは、そうした配慮が加わってのことと思えてなりません。

そういう感覚を、なぜ秀次らは持ち合わせていなかったのか、という点は不思議でなりませんが、もし仮に、外堀の工事が秀吉軍の来襲にそなえたものだとしたら、当時は文禄の役の休戦時で、西の諸大名も朝鮮半島から戻っていましたから、秀次ら主従は、彼らとも対峙する籠城戦を(→当然、天皇を擁する「官軍」として!? )闘いぬけると踏んだことになってしまいます。…




そんなはずは無いだろう、と思う以上に、まずもって「洛中の強固な城」という、政治的にきわめて危険な存在に化ける城郭の中に、関白職に執着した秀次が住んでいて、着々と堀の普請を進めているという状況が、都の外からどんな風に受け止められたかと思えば、秀次の「うかつさ」が目についてしまいます。

ですから、事件後に秀吉が聚楽第を「徹底的に破却」したのは、矢部説の言う“秀次が憎かったから”というよりも、洛中にこんな「城」を残しておくことへの恐怖心が上回っていたのでは? と想像するのです。



洛中洛外図屏風(勝興寺蔵)に描かれた徳川の二条城


のちに徳川家康が築いた二条城も、当初は狭い堀が一重しかなく、そうした点について家康本人が “これなら敵に城を奪われても、すぐに奪回できるから好都合だ” などと、一瞬、不可解とも感じられる言葉を発したと伝わっていますが、これなども、もしも秀次謀反の嫌疑の発端が聚楽第の「外堀」にあって、そんな洛中の城の「宿命」を語った言葉なのだとすれば、当時の人々は「なるほど…」と納得したのかもしれません。

以上のように、秀次は「潔白だから自刃した」という矢部説と、今回の地中探査の結果をつき合わせてみますと、厳密に言えば「妻子ら39人の処刑」と「聚楽第の破却」は直接の原因が異なる二つの事件であり、この二つは、切り分けて考える必要があるように思えて来るのです。




【前回記事の訂正/「京都天主」は妙顕寺城の天守かもしれない】

さて、最後に前回記事の訂正を少々させていただきたいのですが、摩阿姫をめぐる『兼見卿記』の記録のうち、天正14年正月16日条の「京都天主」というのは、同年の『御湯殿上日記』にも摩阿姫を「関白京の天守の女房」と呼んだ部分がありまして、当時の豊臣秀吉の洛中の城としては、いわゆる「妙顕寺城」しか該当する城がないため、ひょっとすると、摩阿姫は妙顕寺城の天守にも住んでいたのかもしれません。

この点、取り急ぎ訂正しつつ、この件については、摩阿姫の居場所の矛盾点を整理したうえで、改めて申し上げてみたく存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年07月04日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体






異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体





前回の記事で申し上げた聚楽第天守をめぐる推論(暴論?)は、先ごろ発表された地中探査の結果にもとづき、40m四方もの広さの天守台を備えていたのなら、それはきっと層塔型の天守であり、有名な『聚楽第図屏風』にはまだその“天守台”しか描かれていないのではないか… という思い切った仮説でした。


広島市立図書館ウェブギャラリー『諸国古城之図』の聚楽第より


そして、地中探査で見えた天守台の形状が “本丸の北西隅にかなり飛び出た形” であったことは、ご覧の『諸国古城之図』もまさにそのように描かれておりまして、多くの方がこの一致ぶりに驚かれたのではないでしょうか。

この絵図には、今回判明した「外堀」や「北ノ丸」などが(まだ)描かれていない点が注目を集めていて、そこから聚楽第の「城」としての変遷が色々と取りざたされており、ご覧の「北ノ丸」が無い状態は、まさに天正年間の豊臣秀吉の時代を描いたものであろうと言われます。


このような点は前回ブログの仮説(→『聚楽第図屏風』の天守は、実は、加賀少将=前田利家邸の四重櫓!? )とも合致する可能性がありますが、その一方では、この仮説は、前田利家の娘で豊臣秀吉の側室・摩阿姫(まあひめ/加賀殿)が“聚楽第天守に住んでいた”という話と矛盾するのでは?… とお感じになった方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、その話というのは、例えば摩阿姫をめぐる桑田忠親先生の著作(『桃山時代の女性』ほか)によりますと、むしろ当ブログの推論を“補強する話”でもあるようなのです。

何故なら、摩阿姫は側室といっても、初めは秀吉の養女として天正14年の春ごろ(桑田忠親説)に15才で大坂城に引き取られ、それから約4年間は養女として京都や聚楽第(天正15年に完成)で暮らしたらしく、側室になったのは天正18年になってからだと考えられるからだそうです。





(桑田忠親『桃山時代の女性』より)

この、まあ姫が、秀吉の側室とされたのは、いつかというに、神道家吉田兼見の日記である『兼見卿記』の天正十八年七月十九日の条に「前田筑州息女、十九歳、殿下へ御参也。」と見えるから、天正十八年(一五九〇)、十九歳で、前田筑前守利家の息女のまあ姫が、関白殿下秀吉の側室となったことが知られる。
(中略)
なお、『兼見卿記』の天正十八年九月十六日の条に、「前田筑州息女、天主に御座也。」と見えるから、かの女が、当時、京都の内野の聚楽第の天守閣にいたこともわかる。


ということでして、ただし桑田先生がここで例示した7月19日条の「…殿下へ御参也」というのは、いわゆる割書(本文の途中に二行で小さく書き加えた註)の部分でありまして、それよりは同年の5月16日の条に、本文でちゃんと「前田筑州息女、殿下へ御参、殿主ニ御座也、連ゞ祈念之義承之」という記述がありますから、こちらの方を取って、天正18年の5月に側室になったのだ、と解釈すべきなのでしょう。


であるなら、この時に、摩阿姫は聚楽第天守に住み始めたのか?? と申しますと、これがまことに判断に苦しむ状態でありまして、この件の情報はひとえに『兼見卿記』によるのですが、それがどういう状態になっているのか、是非ともご理解をいただきたく、そのため今回は、『兼見卿記』に摩阿姫の名が登場する箇所を(私が分かる範囲で)すべて列挙してみたいと思うのです。!!

そしてそれは、早くも、天正14年に始まっているのです…


〔※以下は『兼見卿記』第3・第4/八木書店刊行より〕

〔※ほぼ全ての箇所は、吉田兼見が摩阿姫の依頼で御祓い(おはらい)を行なった記録になる〕

〔※以下の文面の(  )内は現代の校訂者による註ですのでご注意を〕



【1】天正14年正月16日条
京都天主(前田利家女、摩阿)之御女房衆・同城介殿(織田信忠)御息(秀信)へ神供・御祓進上之、…

【2】天正14年5月16日条
関白御女房(前田利家女、摩阿)衆、正月ヨリ御祈祷之義承之間、…
殿主(前田利家女、摩阿)之御女中ヨリ美濃紙 十帖 到來了、

【3】天正15年正月15日条
相國御女房(前田利家女、摩阿)衆御在京、近年進之、御祓ニ神供、

【同年7月26日条「聚楽ニ御座」→この日、秀吉が正式に聚楽第に入った!とある】

【4】天正15年9月16日条
殿主(前田利家女、摩阿)へ御祓 二、…
… (前田)玄以殿主へ今日出頭、…

【5】天正18年正月18日、19日、20日の条
聚楽天主(利家女、前田筑州息女、十九才、摩阿)去年已來御祈祷之事承也、…
… 自天主(前田利家女、摩阿)御女房衆御乳人厄神祈念撫物、…
天主厄神之御祓、…

【6/前出】天正18年5月16日条
前田筑州息女(利家女、摩阿)、殿下へ御参、殿主ニ御座也、連ゞ祈念之義承之、

【7】天正18年7月14日条
天主(前田利家女、摩阿)ヨリ五月御祈祷料請取之、直ニ塗師屋へ相渡候、使 左介、(前田)玄以之天主ニ御座候かミさま也、前田筑州女房(利家室、篠原氏)衆へ角豆一折遣之、同天主へ一折進之、筑州息女也、…

【8/前出】天正18年7月19日条
… 自天主御乳人 前田筑州息女、十九才、殿下(秀吉)へ御参也、給御棰、…

【9/前出】天正18年9月16日条
天主(前田利家女、摩阿)へ、御祓、台所人取次、二十疋、…
前田筑州息女(利家女、摩阿)天主ニ御座也、御祓・一折進上之、…

【10】天正18年11月20日条
天主(前田利家女、摩阿)、前田息女、殿下へ祗候也、…

【11】天正19年正月14日条
天主(前田利家女、摩阿)、前田筑州息女、殿下祗候之、御乳人也、…

【12】天正19年5月18日条
関白御内義 天主(前田利家女、摩阿)、大津(近江滋賀郡)ニ御座也、…



!!―― という風に、吉田兼見は【1】や【2】では、聚楽第が完成する一年半も前から、摩阿姫を「京都天主」様とか「殿主」様と呼んだ形になっていて、しかもそのあとの【3】の「御在京」という記述を踏まえれば、まだ摩阿姫が京都にも来ていない段階から【2】では「関白御女房」と呼んでしまっている形なのです。


……これはいったいどういうことかと邪推しますと、ひょっとすると『兼見卿記』という文献は、世に出る過程のなかで、吉田兼見みずからが(もしくは後に写本を書き写した人物が)摩阿姫らの呼称について“ある種の統一化”をはかり、時系列をさかのぼって“書き改めた”疑いもあるのではないでしょうか。??

その辺りのことは、なかなか門外漢の私には分かりづらい領域ですが、一見して「京都天主」「殿主」「聚楽天主」「天主」という風に、摩阿姫は聚楽第天守に住んだ側室だというレッテル(キャラクター付け)が一貫しておりまして、しかしそれは逆を申せば、では本当に聚楽第天守に住んだのは、いつなのか? については、とても断定できない、という状況を生んでいるのです。


――― という状態にあるわけですが、上記の列挙を総合して勘案しますと、やはり前述の、天正18年5月の「前田筑州息女(利家女、摩阿)、殿下へ御参、殿主ニ御座也」という本文の記述はかなり確実なもののように感じられますし、この時に、摩阿姫は秀吉の側室になり、同時に聚楽第天守に住み始めたのだ、と考えるのが妥当なのではないでしょうか。


とすれば、まさにこの直前(翌年には秀吉は聚楽第を豊臣秀次に与える)までは、本丸の「40m四方の天守台」の上に天守は存在せず、この頃から層塔型の「御三階」が建造されたのではなかろうか… という当ブログの推論とも、時期的にはかなり“合致”することになります。



そしてここが、聚楽第の天守台の痕跡の真上!!(裏門通りを北側から見る)



ですから摩阿姫は、前回ブログの仮説のとおりならば、約1年半という短い期間ですが、新築の層塔型「御三階」に住んだことになりそうなのです。…

で実は、このあたりから、摩阿姫自身は病がちの身になったそうで、【12】天正19年5月の「大津ニ御座也」とあるように、まもなく聚楽第の天守や本丸を出て、有馬の湯治場や実家の前田邸で過ごすことになったのだそうです。

あの有名な醍醐の花見も、摩阿姫は言わば“序列五位”の女性として参加したものの、それは伏見の前田邸から出掛けた形だったといいます。


ではありますが…、摩阿姫はかの豪姫(=秀吉に、男ならば後継者だと言わせた姫君)の姉にあたる女性ですから、どうも私なんぞは、本当に病気がちだったのか、それとも前田利家の後ろ盾で“仮病”を使い始めたのか(→ なんと摩阿姫は秀吉の最晩年に側室を辞したうえ、秀吉の許可を得て再婚し、一子・前田利忠を産んだ!!そうですから)よく分かりませんが、どちらにしても、摩阿姫は慶長10年に34才で死んでいて、人生の主要な期間を、秀吉の養女や側室として費やしたことに違いはないのでしょう。

――― という風に見て来ますと、問題の、聚楽第本丸の北西隅に“飛び出た形”の天守台というのは、ひょっとすると、当初のねらいは、大事な姫がどこかに行ってしまわないように、ちゃんと、しまっておくためだったのか… などと妙な連想も頭に浮かんでしまうのですが。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年06月20日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…






40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…




今回もまた、驚きの調査結果がもたらす意外な可能性について、当サイトなりの推論(暴論?)を申し上げてみたいと思うのですが、先ごろ、京都大学の防災研究所などの地中探査によって、聚楽第の未発見の外堀や天守台の痕跡が見つかった、というニュースがありました。




ご覧の図は、その探査結果を伝えた京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」というネットニュースに掲載の図をそのまま引用したものですが、この際、ニュースの文面も一部、引用させていただくことにしますと…


現在の「今新在家町」あたりで天守台が削られたとみられる高まりを検出。約40メートル四方の天守台と考えられ、同町と隣の「新白水丸町(しんはくすいまるちょう)」の付近に絢爛(けんらん)な天守閣があったと考えられる。
(中略)
表面波探査は、地面を木づちでたたいて発生する表面波の強弱を測り、地中の痕跡を見つける。京大防災研の釜井俊孝教授らが防災地盤調査を兼ねて昨年10月から実施していた。


というものだそうで、屏風絵などの断片的な情報しか残っていない聚楽第天守が、ついにその片鱗(へんりん)を見せたか、と私なんぞは思わず心が踊ったものの、ニュースの内容をよくよく見れば、これまでの聚楽第天守に対する漠然とした想定をみごとに裏切るような情報が含まれています。

どういうことかと申しますと、例えば上記の探査結果の図を、現地の地図上にダブらせてみますと、驚くべき事柄が見えて来ます。






!!―― 天守台だけが、北西の隅角にかなり“飛び出た形”になる



ご覧のとおり、その天守台は、単独でずいぶんと北西側に“飛び出た形”になるわけで、これが本当だとしますと、私の直感として、そうした天守は広島城や萩城のように本丸の隅角に築かれた「望楼型天守」の手法(=本丸側の登閣口や接続の仕方を重視した形)とは明らかに異なる!!タイプではないか、と思えて来るのです。

――― それは例えて言うなら、現存の二条城天守台のように多少、水掘の側へ飛び出たスタイルの、“超”強調型とでも言うべきもの、と感じられてなりません。


現存の二条城天守台 / 40m四方とは、これの東西・南北へ約2倍ずつの規模にあたる



しかも、そんな形の天守台が40m四方(約20間四方)もあったとなりますと、これはもう、駿府城や名古屋城、篠山城、福井城、今治城といった徳川の矩形の平城に特有の、大型の天守台や天守曲輪の類いが連想されるものでしょう。

ということは、そこにあるべき天守は、十中八九、望楼型ではなくて、むしろ「四方正面の天守」=層塔型に近い天守が、かなり広めの天守台の真ん中に建っていた、という可能性が濃厚にならざるをえないように思うのです。

むろん、そのような状況は、これまで屏風絵だけから想像してきた聚楽第天守のイメージとはかけ離れたものになりますし、また層塔型天守の発祥の時期の問題もからんで難しい解釈になるのでしょうが、今回の探査結果を尊重するかぎり、こうした類いの新しい見方が不可欠にならざるをえないのではないでしょうか。…


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』より


ではここで、有名な『聚楽第図屏風』を改めて検討してみたいのですが、例えばご覧のように、この屏風絵には実は “本丸の天守は描かれておらず”、これまで天守に接続した「橋台」とその土塀と思われて来た部分が、実は “突出した大型の天守台だけの状態を描いたもの” という風には見えませんでしょうか。

そして、これまでずっと天守だと思われて来た建物は、屏風の貼り紙のとおりに(北ノ丸の築造以前からその周辺に造営された)加賀少将(=前田利家)邸の四重櫓?であった、としたならば、どうなのでしょう。




そして今回、是非とも申し上げてみたいのは、こうした描画上の“錯誤”が、このほかの聚楽第を描いた絵画史料にも“伝染して行った”可能性はなかったのか? という問題なのです。



【ご参考】層塔型に描かれた聚楽第天守(御三階?)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



そこで、当ブログで再度、言及させていただきたいのが、ご覧の層塔型の聚楽第天守の絵です。


ご承知のように、この絵は問題の『聚楽第図屏風』の系統の描き方とは明らかに異なっておりまして、そのためか、上越市教育委員会が行なった学術調査報告書では…

「(屏風絵の)聚楽第天守には定型があったにもかかわらず、このように全く異なる姿で描かれたということは、その定型が忘れ去られる程度の時代に描かれたか、もしくは、三井本や堺市本は狩野派の絵師が描いたとされているので、それ以外の絵師、たとえば町絵師などが描いた可能性がある」
「天守、行幸御殿、東大手門には絵師の建築に対する理解の低さがうかがえる」


などと、かなり厳しい評価が下されてしまったわけですが、私なんぞは決して、ここに描かれた特異な「層塔型天守」に対する興味を失ってはおりません。


と申しますのも、これがもしも秀次時代にかけて問題の天守台上にあげられた天守(御三階櫓)であったと仮定しますと、それは当然ながら、太閤秀吉の伏見城からも見える距離にあったわけで、そうした政治的なエクスキューズとして、層塔型「御三階」という形を取った可能性は、決して低くないはず、…という風にも感じられてならないからです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年06月09日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか…






驚嘆、信長の「天下」観念は今日にも通じているのか…


元亀3年、織田信長が、対立する足利義昭に突きつけた最後通牒(さいごつうちょう)と言われる「十七ヶ条の異見書」の十七条目には、このように書かれていました。

<諸事について御欲にふけられ候儀、理非にも外聞にも立ち入られざるの由、その聞え候、しかれば不思儀の土民・百姓にいたるまでも、あしき御所と申しなし候由に候>




出典:http://i.imgur.com

そして、足利義昭の坐像(等持院蔵/ウィキペディア)より


【口語訳】

あなたは万事欲が深い。金を貯めたり、怪しいことをして懐(ふところ)をこやしている。理非曲直を明らかにせず、世間の批評も耳に入らないという評判だ。そのため、物を考える力のない無知の土民・百姓までもが、悪い将軍だといっている。

(朝尾直弘ほか共著『天下人の時代』掲載の訳文より)


ご承知のとおり信長は「天下の評判」を人物評価の物差しとして使い、自らの家臣の働きぶりをほめた書状でも、ご覧の足利将軍に対する最後通牒においても、そういう言い方をしていたことが知られています。

この件については、上の訳文が載っている著書『天下人の時代』で、歴史学(日本近世史)の巨頭のお一人、朝尾直弘先生が以下のように解説しておりまして、やはり私なんぞは、こんな見方の方がしっくり来るのです。




(朝尾直弘ほか共著『天下人の時代』2003年より)

ここで、信長は「土民・百姓」の意見を受けとめるかたちをとって、義昭を批判しています。

武田信玄がこの意見書を見て「信長という男はたいへんなやつだ」といったというエピソードが伝わっていますが、信長が「天下のほうへん(褒貶)」、すなわちほめるとけなすと、世間の動向をいうとき、それには「土民・百姓」が含まれていました。

「土民・百姓」はたんなる支配の対象でなく、政治的見解をもつ一つの勢力、世論を構成する主体として位置づけられていたと考えられます。「土民・百姓」の勢力がそれだけ無視しえないものに成長していたこと、信長の天下がそれだけ厚みをもってとらえられていたことを示していました。



このような見方の中でも、私は武田信玄がふと感じたはずの違和感(危機感?)に興味を感じておりまして、どういうことかと申しますと、織田信長が決して「土民・百姓」の味方でなかったことは明白でしょうし、それはおそらく武田信玄も百も承知だったと思うのですが、戦国大名(信長)が現職の足利将軍を詰問するのに、こともあろうに「土民・百姓」まで使って散々に言い立てる、という感覚に対して、まるで新種の生き物に出くわしたような(いよいよ出て来たか、といった)驚きが信玄の心にあったのではないでしょうか。


そもそも領国の“実効支配”に血道をあげていた戦国大名らが、自分たちは何者か、というアイデンティティをどこに求めたかと言えば、信玄などは文句なく“新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の血筋”がよりどころでしょうが、そんな信玄であれば、もしも足利将軍を詰問する立場になったとしても、絶対に「土民・百姓」の意見など、根拠にすることはなかったでしょう。

ところが、信長は違ったわけで、何故そんなことが出来たか?という点で、「天守」を創造するに至った信長や豊臣秀吉ら、織豊大名の「出自」が大きく関わっていたのだろうと思えてなりません。

当ブログで何度も申し上げたことですが、貴種の生まれでない武家が足利将軍を追放し、自らが天下人として君臨するとなれば、それ相当の軍事力があってもまだ不安のようで、そこで例えば、従う信者達の信仰心とか、民衆の「世論」といった、人々の「数」の力をよりどころにして、貴種の力に対抗するしかなかったのではないでしょうか。



BS朝日「歴史ミステリー 日本の城見聞録」徹底解明!天守の建築美 より




さて、そこで話はちょっと変わりまして、先ごろ、皆様おなじみの「城」番組において、木岡敬雄(きおか たかお)先生の出演で「天守の建築美」が語られたりしていましたが、番組での木岡先生の解説は主に技術的な観点からのもので、これを観ていた私なんぞは、どうしても、城主や大工の動機の面… つまり「見せる天守」を造り上げた原動力はどこから発していたのか? という面の方が気になって仕方がありませんでした。


その点で、前述の朝尾先生の「信長の天下がそれだけ厚みをもってとらえられていた」との指摘がググッと突き刺さるわけでして、つまり「見せる天守」を見せる対象というのは、それだけ厚みのある、当時の日本社会のあらゆる階層を想定したもので、それらをまるごと吸引する“力”のある建築が求められ、そのための「建築美」の追求であったように感じるのです。

とりわけ、我が国の「天守」が領国周辺のあらゆる人々に見せつけることを目的としたのに対して、西洋の美しい城館などは、その多くが領民の眺められる場所には建っていなかった、という事実は、美しい天守を造りあげた原動力が、どこから発したのかを如実に物語っているのでしょう。




<信長は結局、将軍にも、関白にも、太政大臣にもならずに(なる前に)

 いきなり“キングメーカー”になろうとしていた、という朝尾説への興味>





ではここで、信長をめぐる論議の最大のテーマ「信長の未完の政権構想とは」という問題で、少々確認をしておきたいのですが、信長が目指したのは将軍か関白か太政大臣かと、諸先生方や作家の方々がいろんな説をとなえた中で、前出の朝尾先生は(いまや古典的な?)解釈を表明されました。

すでにご承知の方も多いとは思いますが、朝尾先生は『御湯殿の上の日記』にある“正親町天皇の譲位と誠仁親王の天皇即位の費用は信長が負担するので、その後に官位の話はお受けする”という天正9年(本能寺の変の前年)の信長の返答について、次のように解釈しておられます。


(前出『天下人の時代』より)

信長の態度、考え方はここにはっきりと述べられています。

すなわち、かれのねらいは将軍や太政大臣など、朝廷の官職に無条件につくのではなく、キング・メーカーとして誠仁親王を即位させ、そのもとで権力をふるうところにありました。

これは秀吉が後陽成天皇を擁立し、太閤(前関白)として権力を行使し、家康が後水尾天皇を立て、大御所(前将軍)として政権を掌握したのと同じパターンです。

信長は「前右府(さきのうふ/前右大臣)」として死にましたが、かれのねらいは官職の制約を受けず、天皇の地位を左右する実力者として君臨するところにあったのです。



思えば、前回のブログ記事でも申し上げた「死ぬその時まで都の寺に<寄宿>し続けたのは何故なのか」というナゾも含めて考えますと、朝尾先生の言う、信長は結局、将軍にも、関白にも、太政大臣にもならずに(なる前に)いきなりキングメーカーになろうとしていたのだ、という極めてストレートな解釈は、たいへん魅力的に見えるのです。

信長は、朝廷が与える官職の枠に取り込まれず、より自由な立場で自らの政権を構想したい、という建て前を押し通したかったのであり、むろん足利将軍の位を簒奪(さんだつ)するつもりはなく、朝尾先生の言う「将軍に代わる新しい武家=天下人」による体制を模索していたのでしょう。


ですから、そんな信長らの美しい天守=「見せる天守」には、それ相応の動機や意図や思惑があったはず、という前提で申しますと、天守は言うなれば“安土桃山時代のマスメディア”でもあったのかもしれない… と思えて来まして、それは信長が気にした「天下の評判」にも、かなり巧妙に作用していたように思えるのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年05月25日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった?






話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった?


前回の地図に、古代文化調査会の「旧二条城」の推定位置をダブらせると…




前回記事のアップとちょうど前後して、京都で様々な発掘調査を行なってきた民間団体の古代文化調査会(家崎孝治代表)が、発掘した土塁の堀跡は「旧二条城」の内堀と外堀の間に急造された“第三の堀”と考えられる、という発表を行なってニュースになりました。

その“第三の堀”というのは、ご覧の図のとおり、前回記事の高橋康夫先生が想定した「旧二条城」よりも、いくぶん西側に広い範囲を城域として、その中に、あとから掘られた土塁の堀だということで、それは足利義昭が、対立の度を深めた織田信長の攻撃に備えて急造したものであろう、との解釈を調査会の方ではしているようです。

そもそも、これまでにも高橋先生のような想定のほかに、文献の記述等から、各専門家によって「旧二条城」は色々な想定の仕方があったわけですが、まず決定的だったのは昭和50年の地下鉄工事で発見された石垣の堀跡であり…




それらに基づいて「旧二条城」は内堀と外堀、二重の堀で守られた城であった、との見方がなされて来たものの、今回の“第三の堀”という考え方が出て来たのは、その地下鉄工事の調査の際に、もう一つ、南内堀のすぐ南側の(地下鉄ルート上の)地点を東西に走る土塁の堀跡も見つかっていた、という話などを踏まえてのことでしょう。

ですから図のように、それが今回の土塁の堀跡と結び付くなら、ぐるりと城の全周をめぐる“第三の堀”の可能性が生じるのでしょうが、発見当時はもっぱら、足利義昭の前の(前回ブログ記事でも申し上げた)義輝時代の二条御所(武衛陣の御構え)の堀跡であろう、と言われたものです。

その他の発掘成果も含めて解釈が揺れ動いている昨今ですが、今回の土塁の堀跡を“第三の堀”と解釈して(使って)しまいますと、ならば義輝時代の二条御所はどう考えるのか?という、言わばイタチゴッコのような真相究明の作業がこの先に待っているのかもしれません。…




<ではその後、「旧二条城天主」はいったい何処へ行ったのか??

 という問題にこだわってみると……>





平安女学院大学の角にある「旧二條城跡」の石碑と説明文


さて、ご覧の説明文はちょっと小さな字になって恐縮ですが、この文中に <その後、織田信長は旧二条城から足利義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された> とあるのが、思わず目を引きます。

と申しますのは、後半の <天正4年…に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された> という部分は、『言継卿記』の天正4年9月24日の条にあるそうした記述に基づいたもので、それについて高橋康夫先生は「残っていた西之御楯、すなわち天主をはじめ、南の門、東の門などがあいついで解体され、安土城の建設が始まっていた安土へ引かれた」と説明しておられます。


しかしその一方で、前半の <その後、織田信長は…東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていた> という部分はどうなのでしょう。!!…

もしそうだとすれば、問題の「天主」は約3年間、次期天皇への即位は間違いなしと目された誠仁(さねひと)親王が、使っていたか、もしくは居住していた!!?天主(立体的御殿)だという可能性が出て来て、これは天守の歴史を語るうえでコペルニクス的な大事件になります。

よもや、よもや、と思いつつ、この件を確認しようとしますと、思いのほか、この件について明確に説明した本は少なく、かろうじて金子拓先生が(前々々回記事の「五畿内説」を強く主張されている先生ですが)最近作『織田信長権力論』に掲載の略年譜やその解説文で、誠仁親王は弘治3年に「御方御所」に入居して以降は、天正7年に信長から「二条御新造」を献上されるまで、その他の御所に移ったことを示すような文献は見当たらない、としています。




ということは、綿密な史料批判で知られる金子先生ですから、この略年譜に間違いは無いとしますと、どういうことになるかと言えば、「旧二条城」は信長に攻められ炎上もした後は、おそらく御殿などが破却されて、誠仁親王はもちろん誰もそこを御所として使えた状態ではなく、その後の安土築城や「二条御新造」造営が始まるまでの約3年間は、天主や門、庭だけが寂しく残り、石垣の石が人々に略奪されるままに放置…もしくはある種の維持がなされていた、ということなのでしょう。


一説には信長自身が使った、との話もあるようですが、その年以降も毎年、信長は京の都では妙覚寺や知恩院、相国寺などに「寄宿」した記録がちゃんとありますから、とても「旧二条城」を修繕して使ったようには思えません。

となると、これもまた「3年間も放置された信長の天主があった」!!というコペルニクス的な事件になりそうで、いったいぜんたい「旧二条城天主」はどうなってしまったのか? という疑問が大きくふくらんで来るのです。


そこで、信長の意図をつかむため、ためしに永禄11年の上洛以降、信長は京の都でどこを「宿所」にしていたのか、非常にざっくりとした年譜にまとめてみますと、それだけで、ちょっと異様な感のある傾向が(信長の本意か、結果論なのか分かりませんが)透けて見えるようです。






という風に、結局、織田信長が「本能寺で死んだ」ということは、ほぼすべての日本人が知っているような事柄ですが、では何故、信長は天下人とされた晩年に至っても、京の都ではほぼ一貫して寺院に「寄宿」し続け、そこで落命する、などという結末を(あえて)迎えてしまったのか? という疑問が当然のごとくあるわけで、そこを信長本人はどういうつもりでいたのか、という動機や原因については、まだ良く解明されていないのではないでしょうか。…

信長が洛中に強固な「城」を築かなかったことは、義昭や朝廷からもそれを心配する声が出たと『信長公記』にありますし、これは「城郭論」のテーマとしても、かなり重要な問題を含んでいると思われ、例えば、西ヶ谷恭弘先生がかつて指摘された「吉田山築城計画」(『城郭史研究』19号)などが頓挫(とんざ)していなければ、本能寺の変は起きたかどうかも分からない感があります。


ちなみに上記の年譜に登場する寺は、位置も宗派もバラバラであり、あえて共通点を探すと、最初の清水寺をのぞけば、下京・上京の町組からほんの一歩外れた位置にあった寺を、好んで選んだかのように見えます。

で、そうした寺に「寄宿」しながら、足利義昭との暗闘を続け、浅井・朝倉や石山本願寺など各方面の敵と戦い続けた信長は、その間に造営した「二条御新造」をわずかな日数を使っただけで誠仁親王に献上し、再び寺院での「寄宿」に戻っていたわけです。


この「慎ましやかさ」と言うのか、何なのか分からない信長の習癖(ある種の信条か政策か)は、いったい何に起因したものだったのでしょう。??

余談ながら、ひょっとすると、明智光秀はそういった信長の習癖が「弱点」になりうることに早くから気づいていて、虎視眈々(こしたんたん)と“チャンス”を待っていたようにさえ思えてしまうのです。



以前のブログ記事でお見せした「織田信長の天守」

天正10年「本能寺の変」の時点で、可能性のある天守を積極的に挙げてみた――



(※「内陸部」「海寄り」「海辺・湖畔」の定義は2011年度リポートと同様)


さて、それではここで、前述の旧二条城天主の「3年間も放置された信長の天主があった」コペルニクス的な事件を改めて考えますと、ご覧の図はやや時期が違うものの、旧二条城が陥落した天正元年の時点では、もうすでに信長の天主は、畿内を中心にある程度の数があげられていた可能性があるのでしょう。

当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という仮説を申し上げておりますが、その立場から、洛中に「3年間も放置された信長の天主があった」原因を想像しますと、それは、いったん京の都に掲げた「記念碑」や「旗印」を、そう簡単に降ろすわけにはいかなかったからだ――― という風に想像できるのですが、どうでしょうか。


そうした考え方が許されるのなら、解体されて安土へ運ばれた「旧二条城天主」は、まず間違いなく「安土城天主」の建造に使われたに違いない、と申し上げることも出来そうですし、したがって「旧二条城天主」という存在には、もっと注意を向けるべきだったのかもしれません。

そしてその先をさらに申すなら、安土城じたいの成り立ちについても、例えば、おなじみの小牧山城(=南側に大手道のある城)と岐阜城(=西向きの山城)と、話題の旧二条城(=大型の天主がある、行幸を前提にした城)という三つの城が合わさって、言わば三位一体の“合体形”として、安土城は構想されたのでは… といった勝手気ままな夢想も出来るのかもしれません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年05月10日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々・信長の「天下」――安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響






安土城天主は天皇の行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、とする見方の多大な影響


前々回から、織田信長が意図したはずの「天下」の語義について申し上げて来ましたが、結局のところ、私なんぞには「天下布武」の「天下」の中に足利将軍の居場所は殆ど無かったように思われますし、また信長が使った「天下」の中に領域的な「五畿内」という意味が含まれていても、それはまず「天皇」が千年にわたり遷座を行なった都の地、としての畿内であったのだろうと感じられてなりません。




ですが、そうなりますと、一点だけ、気がかりな問題がありまして、それは10年以上前に、滋賀県が行なった安土城の発掘調査から、伝本丸にあった建物は「慶長年間に改修された京都御所内の天皇の日常の住まいであった清涼殿と酷似」していて、それこそ伝承の行幸殿「御幸の御間」である、という驚きの調査結果が出て、論議を巻き起こした一件です。


いまや懐かしい、調査結果を紹介した本の一例 /『図説 安土城を掘る』2004年より

安土城天主は足元の行幸殿を見おろしていた?(同書の平面図をもとに作成)


ご承知のとおり、この一件は、調査結果が出た後に三浦正幸先生や川本重雄先生から「発掘された遺構を清涼殿に見立てるのは恣意的で無理がある」という主旨の(古建築の分野からの)反論があり、その後の論議の中でしだいに勢いを失った経緯があります。


ただ、この時期に、多くの論述やメディアにおいては <信長の居所であった安土城天主は、行幸殿の上にそびえ立ち、天皇を見おろす形になっていた> というニュアンスの言われ方が度々なされました。

―――その物理的な分かり易さもあってか、例えば「天皇を従える信長」(小島道裕『信長とは何か』)「神仏や朝廷(行幸後)よりも上位にある信長のイメージを焼き付けることが可能であった」(藤田達生『信長革命』)「いわゆる天下布武の中での、彼なりの物の示し方というのか、権力の具現化、示し方だったのではないか」(木戸雅寿ほか『信長の城・秀吉の城』)という風に、二つの建物の上下の位置関係が、信長の人物像にまで多大な影響を与えてしまったようです。


結局、「御幸の御間」の具体的な位置や姿かたちは判らずじまいですが、いずれにしても狭い主郭の中のことですから、それが天主近くの“足元”にあったことは事実でしょうし、そんな行幸殿と天主の関係は、見るからに「天皇を従える信長」のようでもあったのでしょう。


しかし一方では、その天主の内部に描かれた障壁画は「安土城最上層の、三皇五帝をはじめとする、神話時代の聖天子や、孔子および孔門十哲の図など、ぼくのいうチャイニーズ・ロアの図像は、内裏の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)にそのままつながるものを持っている」…「安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないか」(大西廣・太田昌子『朝日百科 安土城の中の「天下」』)といった見方もありました。

となると、安土城天主に紫宸殿の「賢聖障子」を連想させる絵があったのなら、もし安土に行幸があった場合は、そのまま天主への登閣があれば、天皇は自身の目でそういう“見慣れた絵”?を目撃することになっていたわけで、そのあたりの計算を信長の方はどういう風に心づもりしていたのでしょう。??


ということで、果たして信長の天主は、天皇を威圧的に見おろす建物だったのか否か… そんな問いの答えをさぐるためには、別の「行幸」を前提として京の都にそびえた“ある天主”が大いに参考になるのかもしれません。



徳川の二条城の行幸殿に入った後水尾天皇は、ご覧のような角度で天守を見上げたはず


(歴史群像 名城シリーズ11『二条城』1996年より)


寛永3年、徳川幕府が大改築した二条城に、かねてから幕府との確執があった後水尾天皇が行幸を行いました。その時、城内に建てられた行幸殿と天守との位置関係を、まずは安土城との比較で確認しておきたいと思います。


中井家蔵『二條御城中絵図』

絵図の上に安土城の平面図(ブルー)をほぼ同縮尺にしてダブらせると…


ご覧のとおり、安土城の天主と伝本丸との距離は、二条城の天守と行幸御殿との距離の三分の一くらいであり、かなり近い関係に見えるものの、これは安土山頂の狭い土地におさめなければならなかった事情もありそうで、その一方では、安土城も二条城も、方角的には似たような位置関係(→行幸殿が天主の東南東?)にあったとも見えます。

ちなみに二条城の天守も、内部は金碧障壁画で飾られていて、おそらく徳川の天守の中で一二を争う華美な造りだったのでしょうが、ここに後水尾天皇は五日間の滞在中に二度も登って眺望を楽しんだそうで、そうした経緯は、この天守が天皇自身の登頂を大前提として建てられたことを物語っているのでしょう。




<そもそも「行幸」を得るための築城、という発想はどこから??>




行幸と城… と言いますと、私なんぞは聚楽第行幸をまず思い浮かべますが、それまでに行なわれた武家の邸宅への行幸としては、足利義満の有名な「花の御所」や北山第への行幸がよく知られています。

しかしそれらは足利将軍の「御所」と言うべき邸宅ばかりで、「城」となると例が無かったようで、例えば歴代の足利将軍邸の中で初めて「城」と呼ばれたのが足利義輝の二条御所(武衛陣の御構え)だそうですが、それは完成の前に三好義継や松永久秀に攻め込まれて、義輝自身が落命のうきめに会ってしまいました。

そして義輝の死後、すっかり廃墟になった二条御所を大きく拡張して出来上がったのが、織田信長が足利義昭のために築いた、いわゆる「旧二条城」でした。


実に興味深い、織田信長(足利義昭)の「旧二条城」のあり方



ご覧の「旧二条城」と言えば、宣教師の記録に築城時の有名なエピソードがあり、その規模はかなりのものであったにも関わらず、色々な呼び方がなされて名称が一つに定まらないという不思議な城でしたが、この図は主に高橋康夫先生の論考を参照しながら、京都におけるその他の時代の御所や城の位置をまとめて表示してみたものです。


で、このようにしてまずお解りのとおり、足利将軍の幕府が「室町幕府」と呼ばれるのは、花の御所が室町通りに面した今出川付近(室町)にあったためですが、上記の義輝の二条御所や、信長(義昭)の「旧二条城」もまた、このように室町通りに面した形で築かれたそうで、それは義輝や義昭の足利将軍としての体面に配慮した形だと申し上げていいのでしょう。

なにしろ「旧二条城」の建設は、西側の(室町通りの側の)石垣を積む工事から始まったことが象徴的ですし、その結果、「大手門というべき西門櫓が中心街路である室町通りに面していた」(高橋康夫ほか『豊臣秀吉と京都』)そうですから、この城の性格がよく分かろうというものです。


そして徳川の二条城とまったく同様に、この「旧二条城」にも南西の隅に(三重の)「天主」があったことが確実視されています。

で、その位置は城の全体の(つまり二ノ丸の)南西の隅であったように解説した本もありますが、当ブログの図では、地下鉄工事で判明した「内堀」で分けられた本丸と二ノ丸は、高橋説の範囲に築かれた輪郭式の構造とあえて解釈し、その本丸の南西隅に★印をつけてみました。

こうしてみますと「旧二条城」というのは、城の立地は、かつての花の御所を踏襲した室町通り沿いの南北に細長い城でありながら、輪郭式の構造や天主の位置を見れば、まるで徳川の二条城(→しかも行幸のための寛永修築後の姿)にそっくりだという、たいへんに興味深い城であった可能性が浮き彫りになるのです。




ということであれば、「旧二條城」はこれだけの配慮を行なった上での築城だったのですから、それはもちろん、花の御所と同様に、いずれは「天皇の行幸」があることを想定していなかったはずはない!… と思われるのですが、そこには時代の変化をあらわす「天主」が新たにそびえ立ったことになります。

つまりは、築城を差配した信長も、それを使う側の義昭も、両人ともこの城に「天主」のごとき高層建築が加わることに特段の支障は感じておらず、義昭自身は「天主」で度々、公家との対面や雑談、町衆の踊りの見物などをしていたと言います。


したがって、以上の事柄を総合しますと、天皇の行幸が想定された城において、天主と行幸殿の位置関係というのは、ひょっとすると、織田信長が足利義昭のために築いた「旧二条城」に始まり、それが安土城、聚楽第、徳川の二条城と、脈々と踏襲された“形式”のようなものが存在していたのかもしれない、と思えて来るのです。

ですから、そんな中で安土城天主だけが、取り立てて行幸殿の上にそびえ立ち、見おろしていた、という見方はやや唐突な感じがしますし、少なくとも武家の側で <天守をあげること> と <そこから行幸殿を見おろしてやる>といった意識が直結したことは、まずは無かったのではないか、と感じるのですが、いかがでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年04月25日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか?






続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか?




前回に続き、織田信長が意図したはずの「天下」の意味について、もう少し申し上げてみようと思うのですが、まず最初に、ご覧の本はNHKの番組と連動した中身だろうと思っていたら、副題の <戦国時代を「城」で読み解く> にあたる章の中に、思わずヒザを打つ文章が並んでいたことの方が印象的でした。

そのクライマックスは「天守や石垣の有無、礎石・瓦の使用を近世城郭の指標として城を捉えるのは、歴史観として大きな問題があり、適切ではないと言わなくてはならないのです。… それでは近世城郭成立の本質的な指標とすべきものは何か。それはずばり城の形、とりわけ階層的な城郭構造の成立…」という部分に続く一文でしょうが、私はその前の「戦国期拠点城郭の登場」と題した部分にもハッとしました。



(上記の本より)

織田信長というと、非常に先進的で時代を先取りする人物という印象が一人歩きしていますが、天下統一に乗り出す以前には、室町時代的な館城を本拠としていました。後で触れる那古野城や清須城がそうです。信長が室町的な館城から脱するのは、永禄六年(一五六三)の小牧山城の築城からでした。
(中略)
小牧山城や岐阜城を築くことで、信長はようやく当時の他の戦国大名たちのスタイルに追いついたと言えるでしょう。



私なんぞは小牧山城や岐阜城の発掘成果の方に気をとられ過ぎのようで、それらがすごい、すごいと、頭の中でリフレインするばかりでしたが、千田先生は城の全体像(戦国期拠点城郭との類似)から「ようやく当時の他の戦国大名たちのスタイルに追いついたと言える」と冷静にサラリと言ってのけたところに、思わずハッとしたのです。


―――であるならば、そのせっかく「追いついた」ばかりの小牧山城をわずか4年で捨てて、しかももう一度、同じ「スタイル」のはずの岐阜城を、わざわざ新たな居城として修築した動機は何だったのか… と、逆にこの点が頭の中でクローズアップされて、気になって来たのです。


と申しますのも、小牧山城が「尾張統一の総仕上げ(『信長の城』)」として、あれだけ画期的に、かつ大規模な築城で、しかも新規に出来上がった城と城下であることが判明したのですから、それをさっさと惜しげもなく捨てた信長自身の「動機」(→小牧山城のままでは何故ダメだったのか?)がますます問われるべきだと思うからでして、この点について、当の千田先生はどう説明して来られたかと言うと、

「信長の小牧在城期間の短さは結果論であり、あらかじめ信長がすべてを見越して行動したと考える方が不自然ではないでしょうか」(『信長の城』)

という風に、予想外に美濃の攻略が早く済んでしまったから!… と説明されていたように記憶しています。


その時点では「まぁそうかな…」と感じたものの、こうして「天下」の語義が揺れ動き、信長はいったい何を目指していたのか、改めて確認せねばならない状況になりますと、“美濃の攻略が早く済んだから”では、岐阜への早急な居城移転の動機として、ちょっと弱いのでは… とも感じられてしまい、例えば、本当に岐阜への移転は既定路線だったのか? 画期的な小牧山城を捨ててまでして岐阜で実現したかったものは何だったのか? という点を、もう一度、確認しておく必要があるのではないでしょうか。





ご覧の画像は、おなじみの「織田信長公居館跡発掘調査ホームページ」から画像検索で出て来るトップ画面をそのまま引用させていただいたものですが、はからずも、このトップ画面に、先ほど申し上げた「小牧山城を捨ててまでして岐阜で実現したかったもの」が如実に現れている気がしてなりません。

と申しますのも…

岐阜城と足利義政の東山山荘(銀閣寺)との酷似

山頂の城砦と山麓の御殿・庭園という組み合わせ、しかも同じ「西向き」の城として…



室町幕府八代将軍・足利義政の晩年の木像(慈照寺蔵/写真はクリエイティブ・コモンズより)



ご覧の岐阜城と東山山荘の酷似という件は、過去のブログ記事でも申し上げたものの、この際、私自身、この件の「意味」を改めて問い直してみたいと思っておりまして、上の引用画像の「信長公居館跡」で発掘された庭園が、足利義政の東山山荘にならったものであろう、という指摘は発掘調査チームの報告にもあったわけですが、それは本当に「ならった」だけ?だったのでしょうか。


信長は何のために庭園群を?? それは「おもてなし」のためでなく、

<自らが足利将軍(義政)に成り変わった姿> を見せつけるためではなかったのか…



(※発掘調査チームが発表したイラストの引用)


つまり、これらは「ならった」と言うよりも、稲葉山城を手に入れて現地をじっくりと眺めた信長が、カミナリに撃たれたように直感したアイデア―――

すなわち、これは似ている、これなら面白く修築できると、敬愛する諸芸の祖・足利義政の東山山荘をスケールアップしてダイナミックに再現できるのかもしれない、という気付きがあったのかもしれず、それを我が物としてアピールできる「政治的効果への誘惑」こそ、信長が小牧山城をあっさりと捨てて、居城移転に踏み切った真の「動機」だったのではないでしょうか?? と申し上げてみたいわけなのです。


で、そういう観点から申せば、移転前の小牧山城というのは、やはり永禄2年に十三代将軍・足利義輝に謁見すべく上洛したことと「セット」になった築城(まさに「尾張統一の総仕上げ」)という感がして来ますし、その後に、肝心の義輝が横死してしまうと、信長の心には“これでもダメだ”という一種の切迫感が生じていたのではなかったでしょうか。


ですから、岐阜城の完成後にそこを訪れた宣教師らや山科言継、今井宗久といった面々に対して、信長が自ら破格のもてなしをしてみせたのは、彼らが信長にとっての大切なVIPだからこそで、彼らを通じた政治的アピール(→その先にある信長の真のねらい)にひたすら懸命であったのだと思うのです。

先頃もまた新たな発掘成果が報告された庭園は、今やその全体像の「意味づけ」がこの上もなく重要になって来ているようでして、私なんぞには、それこそ <この信長が足利義政公に取って代わる決意> <足利将軍を上に仰ぎ見ていた過去の自分、そして旧体制との決別宣言をも心に秘めた行為> であったと感じられてなりません。

つまり信長にとって、岐阜への移転というのは、他の戦国期拠点城郭の大名らとの「横並び」状態を脱して、いちはやく足利将軍と肩を並べる(…いずれは凌駕してみせる)という意図を表明するための行動だったのではないでしょうか。


先日はちょうど東京・赤坂の迎賓館が一般公開されましたが、これに例えて申せば、信長がやった行為というのは、東京以外の某有力都市が、本家を上回るほどの「新・迎賓館」を大々的に建設・公開し、そこに海外の注目のVIPらを国賓(こくひん)として!!招待して、一気に国内外からの注目を集めてしまおうとする行為(=政治的策謀)とでも言うべきものとさえ思われます。

ところが――



(岐阜市の「日本遺産【「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜】ストーリー」より)

(信長が)急峻な岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも手厚いおもてなしであった。信長は軍事の力で征服するだけでなく、文化の力で公家、商人、有力大名等の有力者をもてなすことで、仲間を増やしていったのである。



!!!… 確かに現在の状況は長年の発掘調査のたまものではありましょうが、その反面、山麓御殿と庭園を「迎賓館」になぞらえた専門家の解説が、どんどん一人歩きしているようです。

いま話題のインバウンドの観光促進 等々の目下の急務があるとは言え、岐阜城の山麓御殿や庭園をまるで「おもてなしの楽園」とだけとらえて、国内外に紹介(翻訳)して行くのは、それこそ織田信長という人物像や「天下布武」の真意、そして岐阜城という日本史上に特筆すべき城を、あらぬ方向へ大きく誤解させてしまうのではないかと、将来への心配がチラつくのは私の頭の中だけでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年04月11日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から






信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から


天正10年に織田信長が拡大した最大版図(本能寺の変の時点)


近年、信長の時代に「天下」という言葉が示した範囲は、実は、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五カ国)であった場合が多く、そのため信長が印判に使った「天下布武」の「天下」もまた五畿内を意味していて、したがって信長は、足利義昭を連れて軍勢を五畿内に進め、幕府を再興しつつ中央政治を安定させたかっただけであり、全国統一など まるで目指してはいなかった!――という新たな信長像が大流行しつつあります。

こうした解釈を主導して来たのは、日本中世史(とりわけ中世後期の宗教社会史)がご専門の東洋大学教授・神田千里先生(1949年生まれ)ということになるのでしょうが、例えば神田先生の『織田信長』(ちくま新書)にはこんな風に書いてあります。



「天下」の範囲について、五畿内という限定された地域を考えれば、「天下布武」の朱印も、五畿内における将軍秩序樹立のスローガンということになろう。

もちろん毛利氏の中国諸国の領有や、上杉氏の越後国支配とも何ら抵触しない、むしろ両立可能なものということになる。そうなれば、この印判を毛利元就や上杉謙信への書状に押捺した織田信長の意図も理解できよう。

あくまでも畿内における「天下」の秩序の樹立をめざす者である、と信長は自己アピールしていたことになる。




このように「天下布武」の「天下」が五畿内に限られるなら、その印判を押した書状を毛利や上杉に送っても何ら問題は起きず、逆に、もしも「天下布武」が“全国制覇”を意味していたなら、そんな印判状をわざわざ毛利や上杉に送った信長は“バカではないか”というロジック(理屈)は、この他にも松下浩先生や金子拓先生も踏襲して著書で使っておられます。



(前出の『織田信長』より)

織田信長が元亀元年に毛利元就に送った朱印状をみてみよう。その内容はこの年の四月に行った越前攻めに始まる、朝倉・浅井との抗争、有名な姉川合戦などの経緯を報告したものである。

そして最後に「畿内やその他の様子をお聞きになりたいとのことなので、実態を詳しく書きました。また申します」<畿内その他の躰、聞き届けられたき由候条、有姿端々筆を染め候。猶追て申すべき事>と記されている(七月一〇日朱印状、『織田信長文書の研究』上二四五)。

一見して対等な大名同士の友好的なやりとりであり、どこにも「天下統一」の野望を公言する様子はみられない。




というように、そのロジックを神田先生は説明しておられるのですが、ここでアレッ… と自分なんぞは引っかかるものがあり、ちょっと待って下さい、この朱印状は本当に「対等な大名同士の友好的なやりとり」ですか?… と申し上げたくなってしまうのです。

確かに文面は丁重な言葉を使ってはいるものの、こんな内容を書き送った信長の本音は、言わば、恫喝(どうかつ)そのもの!!… じゃないか、と私なんぞは感じてしまう方でして、ここに「天下布武」の印が押されていることに、きっと毛利氏の面々は信長の真意をいぶかり、やがて戦慄(せんりつ)したのではなかったか、とも想像してしまいます。


で、ご承知のように当サイトは <天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説> という仮説をテーマにしてやって来ておりますから、「天下」の語義が揺れ動くようでは、やりにくいことこの上ない、という面もありますし、このところのブログ記事は大坂城つながりで書いて来たものの、この先、さらに「立体的御殿」の話題を書き進めるには、やはり「天下」の意味がはっきりしないと、どんどん書きづらくなるでしょう。

そこで当サイトのスタンスをはっきりさせるために、この「天下」の語義の問題について、このあたりで当サイトなりの思うところを一度、申し上げておくべきだろう、と思い立った次第です。



近年、群馬県で発見された本願寺宛て「天下布武」朱印状(天正4年)


さて、信長の「天下布武」印というのは、かの禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とした、という故事(『政秀寺古記』)が知られています。

以来、その朱印や黒印を押した書状は、全国に650通ほども残っているそうで、例えば奥野高廣著『織田信長文書の研究』によりますと…


【尾張坂井利貞宛朱印状】

為扶助、旦嶋内弐拾貫文申付上、全知行、不可有相違之状如件、
 永禄十
   十一月日                  信長(朱印=天下布武印)
    坂井文助殿



これは信長が美濃を攻略した永禄10年、尾張の坂井氏に宛てて「扶助として、旦の島(現在の岐阜市内)のうち弐拾貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違あるべからざるの状 くだんの如し」という風に知行分を与えた朱印状で、これが「天下布武」印を押した最も早い例の一つだそうです。

それから6年、いよいよ信長と将軍・足利義昭の対立が深まり、ついに義昭を京都から追放した元亀4年の後も、大量の印判状を発給し続けました。

そして「天下布武」朱印状のいちばん最後としては、なんと、天正10年5月7日付の書状もあるそうで、時まさに、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てて発給したものだそうです。


【神戸信孝宛朱印状】

  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、

右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿



これは四国の長宗我部氏を討伐したあかつきには、信孝に讃岐国を、三好康長に阿波国をあてがうことを約束し、伊予・土佐の両国については自分が淡路に出陣した時に申し渡す、と指令した文書です。

で、天正10年5月7日といえば、3月に甲斐の武田氏を朝敵として攻め滅ぼし、それから一カ月以上かけて安土に帰還した直後になりますから、こうして生涯の最大版図を得たあとでも、なおも信長は「天下布武」の印判を使い続けていたわけで、この朱印状は信長が本能寺で死ぬ一カ月前のものになります。

(※黒印状を含めれば、これ以後の一カ月間にも何通かあるとのことです…)




では、ご覧の図の時点でもなお「天下布武」の「天下」の意味が、神田先生らがおっしゃった「五畿内」(「足利義昭による畿内平定」)となると、信長本人の意識としては、いったいどういうことになるのでしょう。??

これでは、信長という武将は「もはや無効になった昔の勲章を、いつまでも、死ぬまぎわまで胸に飾り続けた男」…という、いささか情けない人物であったことにもなりかねませんし、場合によっては、もっと始末の悪いことに「そんな振る舞いや天下静謐(せいひつ)という大義名分の陰で、実際は、自らの征服地をどんどん桁違いにまで拡大した男」という、ずいぶんと腹黒い!!人物評価さえ出て来てしまうのではないでしょうか。

ですから、文献史学に私のごときド素人が何かと申し上げるのは恐縮ですが、神田先生のご指摘のように「天下」の語句の用例には色々あったのだとしても、とりわけ信長の使った「天下」が「畿内五カ国だけ」という昨今の大流行の解釈に対しては、どうにもガテンが行かないままなのです。


――そこで、百歩ゆずって考え直せば、晩年の信長は「朝廷の軍事守護者(立花京子)」「天皇の軍隊(松下浩)」ではずっとあり続けたわけですから、そういう意味で、信長本人は「天下布武」印を使い続けていたのだと考えれば、まだ納得できるわけです。


つまり信長の心理の“奥底において”は、「朝廷の軍事守護者」であることが第一義であって、足利幕府の再興には殆ど重きが無く!!、足利義昭(及びその子の義尋)という存在は、やはり“方便”に過ぎなかったのではないでしょうか。

おそらく信長の目から見れば、尾張統一の頃の守護であった斯波義銀(しば よしかね)なども、足利義昭と、ほぼ同じ存在にしか見えていなかったように感じられますし、彼らは言わば既得権益で社会の支配層たりえた武家でしかなく、本当の武力の保持者=<軍事的実力者> である自分(信長)らこそ、それらを下克上して君臨すべきなのだ、というのが信長の終生の“本音”だったと思えてなりません。


そこでは、横死した足利義輝への失望も大きく作用したことでしょうし、その後の信長の生涯にとっては、「下克上」と「天下布武(天下静謐)」はまったく矛盾しない!! という画期的な気づき(→言わば「天正維新」という形?)が、この上なく決定的だったのではないでしょうか。

かく申し上げますのも、信長本人の価値観というのは、武家の「下克上」が起きるなら起こるにまかせればいい、何故なら、「上が弱い」というのがそもそもダメなんだから――― という経験則に裏打ちされていたように思えてならないからです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年03月29日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると…






続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると…


(※前回も引用の『完訳フロイス日本史』より)

(最上階の)この席において関白は大いに心をこめて決意を述べ、下(しも)の九ヵ国を豊後、薩摩、山口の諸国主に分配するつもりだが…(中略)こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。


最上階に登った豊臣秀吉と宣教師らは、降りる時だけ、複数の階段群を使った…

これはすなわち「表の階段・奥の階段」という構造ならではの出来事か!?



ご覧のとおり、天正14年のコエリョら宣教師一行の大坂城訪問において、関白(秀吉)と宣教師は天守の最上階に登ったあと、降りる時になると突如、複数の階段群を使ったことがフロイスの『日本史』に書かれています。

細かい事を申し上げて恐縮ですが、この「降りる時だけ複数の別々の階段」という妙な現象は、よくよく考えますと、表・奥の2系統の階段群であれば、なんら不思議ではなかったことが解ります。

つまり、登りの行程では、秀吉がアレコレと天守内を案内しつつゾロゾロと行くため、一筋のルートしか行けなかったわけですが、最上階から降りる場合は、三十人以上の一行が(例のごとき急階段を)スムーズに降りて行くためには、2系統の階段群をすべて使った方が手っ取り早い、と思われたのではなかったでしょうか?

くどいようですが、こうした点もまた、豊臣大坂城天守には2系統以上の階段群があった、という可能性を補強しているように思えてなりません。




では、その2系統以上の階段群は「何階まで」達していたのだろうか? という点に興味は移ると思うのですが、その前に、皆様におわびを申し上げねばならないのは、思えば、ご覧の天守イラストは、内部の「階」の想定について、これまで一度も説明を申し上げて来ておらず、図示などもしておりません。

これはまことに私の手落ちであったと反省しつつ、早速、豊臣大坂城天守の内部についての当サイトの想定をご覧いただきたく思うのです。



それは「8階」建ての構造に「中5階」が加わり「橋敷以上九ツ」になっていたのでは…

(青文字=『輝元公上洛日記』より / 赤文字「御蔵」=『大友家文書録』より)



まず、フロイス『日本史』に最上階が「八階」と書かれたのは、コエリョやフロイスらが一番下の土間の階から入って順に上まで登ったからでしょうし、この時、秀吉は別のルート(おそらくは付壇・付櫓の方)から先回りして入っていて、それが『日本史』に「関白は、この門の鍵を所持している、一人の修道女のような剃髪した比丘尼(ビクニン)だけを伴って、すでに上から降りて来ていた」と伝えられたのだろうと想像しています。


そして毛利輝元の訪問などを記した『輝元公上洛日記』には、各階の名称について「金乃間、銀の間、銭の間、御宝物の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重也」とあり、筆者の平佐就言が「以上七重也」と書きながら、階の名称は六つしか挙げていない、ということは、その他に名称の無い階(穴倉など)があったことを証言しているのでしょう。

したがって上記のイラストのごとく、天守台上の1階(3階)が「御武具の間」にあたり、その名の由来としては、内部に付櫓から雁行する形で対面所が設けられ、例えばその最奥に記念の甲冑(秀吉自身の、もしくは旧主・織田信長の??)を飾ったことで「御武具の間」という名称がついたのでは… などと想像しております。


で、そこから上は『輝元公上洛日記』のとおりの各階が続いたとしますと、ちょうど「御小袖の間」(4階)が「御上(おうえ)の階」(天守台上の2階)にあたることになりまして、まさにここに正室・北政所らの部屋があって、旧主・織田信長の天主の構想が反映されていたのではないでしょうか。

しかもこの階は、全部で「八階」と記したフロイスが「四階で茶を飲んだ」とも書いていますから、ここがその場所であったことになり、この階より上が“財宝類を納めた塔の領域”になるだけに、極めて妥当な話だと思われます。


さらにご注目をいただきたいのは「中5階」の張り出しでありまして、前述のように全体が8階建てと思われるのに、なぜか『大友家文書録』には「橋敷以上九ツ」=土台の上に階段が九つもあった(→10階建て!!?)と記録されていて、それはこの「中5階」のごとき特殊な構造が、間に組み込まれていたからではないか… と想定しているわけです。




かくして、壮大で、なおかつ新種の「立体的御殿」豊臣大坂城天守は、旧主・信長の構想を受け継ぎつつも、上層階の塔の領域を「宝物蔵」とする、ある意味で実に秀吉らしい発想を具現化した天守であったと思うのです。




<2系統の階段群は、天守台上の「何階」まで達していたか?

 という観点で、他の各城の天守を区分すると…>





さて、以上のような豊臣大坂城天守において、2系統以上の階段群はどの階まで達していたのか? と考えますと、例えばこれに近いはずの彦根城天守・広島城天守・姫路城天守など、付櫓などで「二つの登閣路」があった天守でも、それらのほとんどは天守台上の1階で一つに合流してしまい、それより上に2系統の階段群が伸びる形にはなっておりません。

つまり2系統の階段群というのは、確認できる天守の中では、けっこう珍しい部類に含まれていて、それだけ「立体的御殿」のなごりは希少な現象であったのでしょうが、しかしそれらには“ある共通点”がしっかりと残されているようです。すなわち…


■2系統の階段群が天守台上の「3階」まであった例

名古屋城大天守


徳川再建の大坂城天守(願生寺蔵「大坂御天守指図」部分より)

ご覧の写真で右端に写っている「三重目」を拡大して見れば…



■2系統の階段群が天守台上の「4階」まであった例

松本城天守(天守四階平面図/『国宝松本城』より)


ご覧の名古屋城大天守、徳川再建の大坂城天守、松本城天守の三つは、階段の付け方が各々バラバラのようでいて、実はこんな共通点があります。




このように、いずれの天守も、天守台上の1階から、いちばん上から数えて三重目の階まで、2系統の階段群があった形になります。

で、この「上から数えて三重目の階まで」という共通点について申しますと、さらに当サイトの我田引水になってしまって恐縮ですが、かの安土城天主!! もまた、そうであったと申し上げざるをえないところなのです。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』より 五重目 小家ノ段

それはご覧の『天守指図』そのままの全体図においても…

また当サイト独自の「新解釈『天守指図』復元案」でも…


したがって、この件に関して、豊臣秀吉の天守もやはり、旧主・織田信長の構想をしっかりと受け継いでいたはず… つまり「上から数えて三重目の階まで」というのが、今回の話題の結論になるのではないかと思うのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年03月16日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣大坂城天守も階段群が2系統か →ならば建物の造りは「立体的御殿」のうち??






豊臣大坂城天守も階段群が2系統か →ならば建物の造りは「立体的御殿」のうち??


(『完訳フロイス日本史』「副管区長が大坂に関白を訪れた時の(関白の)歓待と恩恵について」より)

その後関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔(トルレ)の門と窓を急ぎ開くように命じた。彼自ら城内を案内することになっていたが…
(中略)
そして途中では閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いて行った。このようにして我らを第八階まで伴った。
(中略)
この最上階において関白はおもむろに着座し、我ら一同は彼の周りに座を占めた。その場所は狭く、我らの一行は三十名を越えるほど多かったので、幾人かは関白の衣服に触れたほどであった。

この席において関白は大いに心をこめて決意を述べ、下(しも)の九ヵ国を豊後、薩摩、山口の諸国主に分配するつもりだが…
(中略)こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。


このところ話題の豊臣大坂城天守は、その内部の様子が断片的にしか伝わっておらず、おそらく実際は「宝物蔵」として使ったらしい、という風に(上記のフロイス日本史など)様々な記録をもとに考えられ、当ブログもそのように紹介してまいりましたが、実は若干、そう言い切っていいのか… と思える節もあります。

と申しますのは、上記の引用文には「種々の別の階段から降り始めた」とありまして、天守の最上階から下の階には、複数の別々の階段を使って降りられる構造であった、と書かれたわけで、この天守も、内部の各階が2系統以上の階段群で接続されていた可能性があるからです。



2系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか…



【模式図】立体的御殿は階段にも「表」と「奥」があったのでは?



これらの図は過去のブログ記事で何度もご覧いただいたものですが、御殿建築が縦に重なった「立体的御殿(=天守の原初的なスタイル)」を当時の人々が不都合なく使うためには、ご覧のように、階段の位置が非常に重要なポイントであったはずでしょう。

そこで例えば「表の階段」「奥の階段」という風に、2系統の階段群で上下の階を接続すれば、かなり便利に使えたのかもしれませんし、現に、名古屋城大天守などは手前と奥に2系統の階段群が設けてあって、それらは「立体的御殿」のなごりとも見て取れます。

ということで、かの豊臣大坂城天守にも2系統以上の階段群があったとなれば、「実際上は宝物蔵」という解釈とは別に、建物の構造としては、やはり「立体的御殿」の影響を濃厚に受け継いだ建築物であった、という風にも思えてならないのです。




さらに申しますと、冒頭の引用文から、最上階は「畳敷きの座敷」であったことが明らかでしょうし、その点でも「立体的御殿」が感じられ、いっそう大胆なことを申せば、その引用文に続くくだりが、さらなる大問題に発展しそうなのです。!!


(冒頭の引用文の続き)

こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。

そして我らは同所から今まで見たものよりもさらに秘された幾つかの部屋のところで立ち止りながら進んだところ、関白はさらに自分が平素夫人と寝る場所を我らに見せた。
彼は納戸になっている室の戸を自ら開き、その中でおもむろに坐ったので、我らも彼とともに着座した。

その際、関白が彼女たちに、彼ら伴天連らを見たければ出てくるがよいと許可を与えたところ、かなりの人数の女たちが姿を現した。

(中略)
こうした談話と歓待で二時間以上が経過した後に、関白は我らに別れを告げた。

彼は一、二の婦人に平素は開けない秘密の門の鍵を奥から持って来るように命じ、そこから出るのがもっとも近道だからと言った。

そして彼は先頭に立って降りて行き、我らが先に通り、関白と我らが互いに会見した場所まで来ると立ち止り、非常に嬉しそうな面持でふたたび我らに別れを告げた。



さあ、ご覧の引用文が描いた「場所」は、いったいどこなのでしょう??

従来の解釈では、関白(豊臣秀吉)と宣教師らは、天守を出て、天守のすぐ足元の「御納戸御殿」に入り、そこで「夫人と寝る場所」を拝見したり、「かなりの人数の女たち」を目撃したのだと言われて来ましたが、本当にそうでしょうか。

ここで私なんぞが申し上げてみたいのは、織田信長の岐阜城においては、山麓御殿の四階建て楼閣の二階は、みごとな装飾の「婦人部屋」「王妃の休憩室」であったという宣教師の報告でありまして、すなわち「立体的御殿」の二階は「御上(おうえ)の階」=正室の部屋とする、信長の構想があったように思われる点です。




こうした仮説の延長線上で話を進めますと、ひょっとすると、秀吉の豊臣大坂城天守も二階は「御上(おうえ)の階」であったのかもしれず、そのため、先ほどの引用文が描写した「場所」も実は天守の二階!!!であったのかもしれない、という可能性が生じてまいります。

そして引用文に「彼は先頭に立って降りて行き」とあるように、秀吉らは問題の場所から“さらに降りて行った”ことが示されていますし、これらの点を総合して勘案しますと、豊臣大坂城天守の内部は“素っ気ない宝物蔵”と言うよりも、構造的に見れば、れっきとした「立体的御殿」の造りが施された格式ある空間であった、と考えてしかるべきではないでしょうか。


そう仮定して冒頭の引用文を見直しますと、「主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔(トルレ)の…」という妙な表現のしかたも、フロイスらの「原初的な望楼型天守」に対する深い洞察を示しているのかもしれない… とさえ思えて来るのです。





→ 豊臣大坂城天守も階によって、使い方に差があった? →「立体的御殿」の範疇(はんちゅう)か





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



1 2 3 4 5 6 7 8 9    全249件