城の再発見!天守が建てられた本当の理由/一覧

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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2017年10月18日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング





さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング


江戸遺跡研究会編『江戸築城と伊豆石』(2015年)所収の

後藤宏樹「江戸城跡と石丁場遺跡」の中には、一目で分かり易い図解が…




「玉突き事故」と申せば問題になりそうですが、前回に引用させていただいた江戸城の石垣工事の時期の図解は、よくよく見ますと、本丸の北部まで、慶長19年どころか、部分的には慶長11年!! の工事で、現在見られる高石垣がすでに出来上がっていたと受け取れる描き方です。

つまり『江戸始図』で話題になった本丸北部の「三重の丸馬出し」は、なんと慶長11年の、徳川家康が慶長度天守台を築き始めた際の工事によってすでに失われ、高石垣に変えられていた、という描き方になっているのです。

→→『江戸始図』『慶長十三年江戸図』はどちらも矛盾(むじゅん)している!?


冒頭の図解に従えば、「慶長度天守」と「三重の丸馬出し」は同時には存在しえない



…… ちょっと驚いてしまうのですが、本丸北部の高石垣というのは、城郭ファンの間では、慶長19年から10年近く先の元和年間に、手狭(てぜま)になった家康時代の本丸を北側に拡張して出来上がるものであり、その際に天守も北側に移動させて「元和度天守」として築き直した工事によるもの、という認識が定着しております。

それは例えば―――




(小松和博『江戸城−その歴史と構造−』1985年より)

元和8年の工事
元和八年二月二十八日に開始された工事は、本丸の徹底的な改造であった。

幕府機構の整備が進み、諸大名の江戸城出仕の制も整うと、『慶長十三年江戸図』にみるような殿舎では、いかにも手ぜまとなってきたためである。

本丸の地積をひろげるため、北部の濠を埋めて北の出曲輪をとり込むとともに、中央部にあった天守を北辺に移す工事を行なった。
このさい梅林坂あたりにあった徳川忠長(家光の弟)の邸もとりこわされている(『御当家紀年録』ほか)。



という小松先生の解説が、私なんぞはもう骨の髄(ずい)まで染み込んでおりまして、それだけに、冒頭の図解は「何が起きたのか」「書き間違いでは?」とにわかに信じられなかったのですが、その論考を書かれた日比谷図書文化館の学芸員の後藤宏樹先生によれば、それは石垣の「刻印」に基づいた図解であり、大まじめな話だというのです。




(後藤宏樹「江戸城跡と石丁場遺跡」からの引用)

慶長十一年(一六〇六)に構築された石垣のうち現存する石垣は、江戸城本丸を中心としてわずかに残る。すなわち、白鳥濠、富士見櫓台〜埋門、乾櫓台、御休息所多聞櫓台(富士見多聞櫓)といった本丸を取り巻く石垣である。
(中略)
1.北桔橋門西側の乾櫓台石垣
乾櫓台石垣の西面角石に「加藤肥後守内」の刻印があり、八から十九までの段数を示すと思われる刻印が角石に刻まれている。

この地点の石垣には数多くの刻印があり、その主体は熊本藩加藤家を示す「◎」であり、または名古屋城などで加藤家を示す「二巴」もみられる。
「さエ門」と「△坂」の人名を示す刻印が認められる。前者は福島正則(羽柴左衛門大夫)と考えられ、後者は不明であるが、同じ組合せの刻印が大手下乗門北側石垣にもみられる。

(中略)
慶長十九年(一六一四)の構築範囲は、史料に本丸山手とあることから、北側台地の乾濠・平川濠に沿った高石垣を指しているのであろう。


ということで、まずは本丸北部の乾櫓台の石垣に「加藤肥後守内」「さエ門」という刻印があることから、加藤家(清正か忠広)や福島正則の関与が考えられ、これを文献上の記録と突き合わせたうえで、他の場所の刻印の組み合わせとの類似性も加味して、この場所が慶長11年の工事によるものだと判定したそうです。

さらに、前回の記事でも紹介した「本丸山ノ手の高石垣」という記録を(当ブログは富士見多聞櫓の石垣と申しましたが)、後藤先生は本丸北面の平川濠の高石垣などに見立てて、慶長19年の工事であろうと推定したそうで、論考の文意をくみ取れば、少なくとも北桔橋門の西側は慶長11年に、東側は慶長19年には完成していた、と主張されたのです。




とにかく「刻印」には多くの種類があって、石材を切り出した大名家の印だけに限らず、奉行や普請組、丁場の範囲や順番、石の寸法や年代、保管者を示した印まであるそうで、例えば後藤先生が論考に添えた江戸城内の「刻印」を羅列した図表を見ても、私なんぞはまるで判断がつかず、これは「刻印」の専門家にしか分からない領域だと感じました。


ですから、そういう専門分野からの指摘は、門外漢にはなかなか論点の良し悪しも分からず、YESかNOか(受け入れるか受け入れないか)になってしまうため、当ブログでは話の都合上、こうした考え方をまとめて【「刻印」優先論 】と申し上げて行きたいと思います。

何故なら、石垣中の石に「刻印」があれば、それは本当に最初からそこにあった石だと言い切れるのだろうか… 再利用された石の可能性は無いのか? といった素朴なギモンも頭に浮かび、さも「刻印」だけが水戸黄門の印籠のように扱われるのはどうかと感じるからです。

現にこの点は後藤先生も論考の中で…


(同じく「江戸城跡と石丁場遺跡」からの引用)

江戸城では、大坂城や名古屋城といった公儀普請で造られた他の城郭のように、普請丁場図がほとんど残されていないため、石垣刻印と大名丁場との関連性を指摘することが難しい。

元和期に完成した江戸城内郭石垣では、同一地点で数名の大名を示す刻印が認められる特徴がある。これは、寛永十三年以前には石材を調達する大名と構築する大名が異なることに起因していると思われ



という風に「同一地点で数名の大名を示す刻印が」と書いておられ、いろいろな経緯を経た石材(再利用も?)が、工事の中では一緒にどんどん使われていた実態もありそうでして、そうなると「一つの刻印」が必ずしも絶対的な証拠や指標にはならないことになります。


しかしそれでも安心が出来ないのは、江戸城に関する大著『江戸城 築城と造営の全貌』を書かれた野中和夫先生もまた、「刻印」優先論に立っておられる点ではないでしょうか。

――― 例えば前出の小松和博先生の「元和8年の工事」の解説文と対比させる意味で、野中先生の「元和八年の修築工事」(『石垣が語る江戸城』)の解説文をご覧になれば、まことに対照的な内容になっておりまして、是非ともご一読をいただきたいのです。


(野中和夫編『石垣が語る江戸城』2007年より)

元和八年の修築工事
この年の修築工事は、主として本丸の殿閣と天守台の改築を目的としたものである。

殿閣の改修は、慶長十一年(一六〇六)以来、一六年ぶりであるが、表方と奥方とを分担し、表方は、老中土井大炊頭利勝を奉行として大工棟梁が中井大和、奥方は、酒井雅楽頭忠世として大工棟梁鈴木近江が各々受持っている。十一月十日には殿閣が竣工したとの記録がある。

天守台は、阿部四郎五郎正之を奉行として九月九日、浅野但馬守長晟・加藤肥後守忠広に命じている。
また、松平伊予守忠昌・安藤右京進重長も石垣の築造に任じられているが、そのうち安藤重長は天守台脇の石垣(小天守)を築いたことは明らかであるが、松平忠昌の担当箇所は判然としない。





ご覧のとおり野中先生の解説には、元和8年の工事で“本丸の敷地が北側へ大きく拡張された”などという話は一切、出て来ないわけでして、そうした本丸北部の土木・石垣工事は、すでに慶長11年(乾櫓台)から19年までに終わっていたという前提です。


こうした「刻印」優先論に立つ先生方の考え方が正しいのならば、話題の『江戸始図』や『慶長十三年江戸図』という二つの城絵図は、「慶長度天守」と「三重の丸馬出し」が一緒に(同時に)描き込まれているのですから、どう見ても【ナゾの城絵図】としか言いようの無い事態になってしまうのです。!!

しかも、その場合、徳川家康と秀忠と幕閣らは、豊臣との最終決戦・大坂の陣を前にして、江戸城本丸は「三重の丸馬出し」よりも「一重の高石垣」の方が良い(=防御的に優れている)との最終判断を下したことになるわけで、城好きにとって見のがせる問題ではありません。


そこで最後に、やぶれかぶれの措置ですが、百歩ゆずって、以上の「刻印」優先論を踏まえた形での、慶長11年(1606年)から元和8年(1622年)工事までの16年間(=家康の晩年から二代目・秀忠の治世まで)の江戸城本丸の姿を、ためしに当ブログの以前の作図を使ってシミュレーションしてみますと……


本丸御殿はそのままに、北側を高石垣にして、大坂の陣や元和偃武を迎えたことになる


広大な「?」スペースは、16年もの間、どうなっていたと言うのか――


(※今回の記事は、当方の勝手な都合により、いつもの隔週ペースよりも早いタイミングでUPいたしました)



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年10月13日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか??





『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか??




前回の記事の補足として、ちょっとだけお話させていただきますと、前回に引用した「江戸始図」=『極秘諸国城図』の江戸城図において、ご覧のように本丸西面(蓮池濠/はすいけぼり)の高石垣に「慶長19年」の工事と書き入れましたのは、例えば鈴木理生先生(『幻の江戸百年』)や小松和博先生などなど、江戸城を研究して来られた諸先生方の、ほぼ一致した見解に基づいたものです。

一例を挙げれば、野中和夫編『石垣が語る江戸城』では「慶長十九年(一六一四)江戸城修築助役大名一覧」という表の中で、かの細川越中守忠興が「本丸山ノ手の石垣」、佐土原藩の島津左馬頭忠興も「本丸山ノ手の高石垣」を担当したとありまして、本丸西面の石垣工事について特定の大名の名前が挙がっているのは、この慶長19年の工事だけのようなのです。


そして江戸遺跡研究会編『江戸築城と伊豆石』所収の

後藤宏樹「江戸城跡と石丁場遺跡」の中には、一目で分かり易い図解が…




ご覧のように本丸の西面(図では左側)の石垣は、慶長11年か19年の工事しか該当する時期は考えられないそうで、そういう中で、前述のごとく「本丸山ノ手の石垣」といった特定の記録があるのは「慶長19年だけ」という状況なのです。


――― しかしそうなりますと、逆を申せば、この場所の石垣は、それ以降の江戸時代や近・現代を通じて、大きな改修工事はずっと行なわれて来ていない、ということにもなります。

ならば当然のこと、『江戸始図』で蓮池濠に突き出すほど強調して描かれた「小天守」は、現状の石垣にも何らかの痕跡が無ければ不自然でしょうし、何も無ければ、それこそ「小天守はどこに消え失せたのか?」という矛盾が生じてしまうでしょう。



【現状】蓮池濠の本丸側の高石垣 〜南西側から〜


そしてご覧の現地は、一見したところ、蓮池濠に大きく突き出た「小天守台」らしき石垣は見当たりませんので、この点において『江戸始図』の描写にはちょっとしたナゾがあるわけです。


そこで、一つの可能性として、『江戸始図』にある小天守は、慶長19年の石垣工事よりも「前の」状態なのでは?…… つまり、小天守がある『江戸始図』というのは、もう少し前の、慶長11年工事から19年工事までの「8年間だけ」の状態を(少なくとも本丸石垣については)描いたもので、だから現状の石垣には突出した小天守台が無いのだ、といった考え方も出来なくはないのかもしれません。

そしてその場合、ひょっとすると、下記の『慶長十三年江戸図』の方が(※「十三年」という呼称にも関わらず)慶長19年工事より「後の」状態を描いているのかもしれず、したがって『慶長十三年江戸図』と『江戸始図』との時系列的な順番は、逆なのかもしれない、ということです。…




まさにご覧のとおり、石垣の屈曲の様子だけを見れば、こちらの方がまだ(問題の「小天守台」が無いだけに)現状の石垣に近いと言えなくもなさそうです。


ところが、そう考えた場合には、問題の「小天守」は19年工事の時に“積極的に”撤去されたことになってしまい、それは時期的に申しますと、ちょうど「大坂冬の陣」がこれから始まろうという極めて重要な時期に当たります。

いよいよ徳川vs豊臣の歴史的な決着をつけようというタイミングで、せっかく詰ノ丸の西側の守りを固めた「小天守」を、あえて取り壊した、というのは、いかにも楽観的すぎる行動であろうと感じられてなりません。→ 幕府軍全体の士気にも関わりそうです…。


ですから、『慶長十三年江戸図』と『江戸始図』それぞれの位置づけや関係性がはっきりしない現状では、やはり前回記事のとおりに『慶長十三年江戸図』が慶長11年工事から19年工事までの本丸の状態、そして『江戸始図』が19年工事のあとの状態を示した、と考えるのが妥当かと思うのですが、いかがでしょうか。



【ご参考】富士見多聞櫓(御休息所前多聞)がある辺りの蓮池濠の高石垣



さて、それでは「小天守(台)はどこに消え失せたのか?」という問題で多少なりとも話を進めますと、まずは「小天守」の位置がどのあたりなのか、見当をつけてみましょう。


おなじみの画像に、小松和博先生の「寛永17年ごろの本丸と二の丸」図をダブらせると…




このように『江戸始図』の小天守は、現状の富士見多聞櫓がある石垣の張り出し部分の、北側(図では左側)三分の一ほどのスペースに建っていたらしく見えます。

で、そのあたりの石垣をもう一度、よくよく見直しますと……





ちょっと見づらい写真で恐縮ですが、ご覧の石垣には、いくつもの境界面や積み直しの跡がありそうで、色々な経緯が隠れている可能性(→小天守台もそうとうな高さのはず…)が感じられ、これら江戸城の中心部の石垣は、宮内庁の頑強な障壁のせいで、これまで本格的な調査がほとんど行なわれて来ていない、という事情があります。

ですから当時、ご覧の部分はいったん、二段式で石垣が積まれたなかで問題の「小天守(台)」が突出した形に築かれ、そしてその後すぐに、現状のごとく一段の高石垣として積み増しされたようにも想像できそうでありまして、果たして真相はどうなのでしょう。…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年09月29日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点





家康が本当に好んだ天守の姿から問う、「江戸始図」解釈への疑問点


徳川家康の江戸城(慶長度)天守をめぐる最近の論調について、

最大の疑問点(反論)は、下記の赤丸部分は本当に「多聞櫓」か??という点であり、

この部分の「線の太さ」は、二ノ丸以下の線とまるで変わらないことにご注目を。



しかも…



(※以上は松江歴史館蔵『極秘諸国城図』の江戸城図=いわゆる「江戸始図」より)



ご覧の各図で、今回の記事で申し上げたい事柄は、半分以上は紹介してしまったようにも思いますが、前回の「城の形が似ている」ことで何が読み取れるか?というテーマの第二弾として、今回は徳川家康が創建した江戸城の慶長度天守を取り上げてみたく存じます。



当サイト2012年度リポートの引用画像

故・内藤昌先生の復元による慶長度天守(イラストレーション:中西立太)


松江城管理事務所(当時)蔵『極秘諸国城図』の江戸城図を、現在の地図上にかぶせた状態


これらは2012年度リポートの冒頭でご覧いただいた図ですが、作図のもとになったのは、内藤昌先生の著書『ビジュアル版 城の日本史』(1995年出版)に載っていた『極秘諸国城図』の江戸城図でありまして、それまでよく知られていた『慶長十三年江戸図』に比べると、はるかに克明に本丸や詰ノ丸(天守構え)の様子が描かれていました。




そこで内藤先生復元のイラストレーションと作図を並べてご覧いただいたわけですが、厳密に申せば、内藤先生の復元はむしろ『慶長十三年江戸図』の方に基づいていたと申し上げざるをえないようです。

それはイラストの小天守や櫓の様子から言えることでして、三基?の天守や櫓で詰ノ丸を囲んだ環立式(連立式)天守として描きつつも、よくよく見れば小天守の位置がちょうど大天守に重なっていてハッキリしない、という辺りが、小天守の無い『慶長十三年江戸図』を主体にイラスト化をした経緯を、ありありと物語っているのではないでしょうか。

ですからその点で申しますと、冒頭の絵図のごとく、復元を『極秘諸国城図』の江戸城図=いわゆる「江戸始図」に基づいて行なうのならば、天守や櫓(多聞櫓)は本当に詰ノ丸を「完全に」囲っていたのだろうか?? という疑問を持たざるをえないことになります。


最大の疑問点は、赤丸部分は本当に「多聞櫓」か?という点であり、

この部分の「線の太さ」は、二ノ丸以下の線とまるで変わらない


(※ご覧の図は前出「極秘諸国城図をかぶせてみた状態」とは方角がほぼ逆。)


しつこいようで恐縮ですが、私が申し上げたい第一のポイントは、このように家康の慶長度天守は、必ずしも「櫓で完全に囲った環立式(連立式)天守だ」とは思えない、ということでありまして、問題の赤丸部分は、むしろ石垣上の狭間塀(さまべい)の類いだと読み取る方が、よほど自然であろうと感じられてなりません。

最近は、家康の慶長度天守を、姫路城とまったく同じ連立式(環立式)の天守だった、と紹介する雑誌やTV番組も登場していて、この第一のポイントだけは何としても皆様にお伝えしたいと思っておりまして、そう強く願うのは、家康の慶長度天守を「どういう天守の系譜のうえに考えるか」という大問題が前に横たわっているからなのです。


ここで、ネット上にある岡崎城天守の復元CG(三浦正幸先生考証)を引用しますと…


ご覧の岡崎城天守は元和3年(家康の死の翌年)に本多氏が建造した天守ですから、岡崎城が家康出生の城だとは言っても、この建物じたいは家康と直接の関係は無かったわけですが、何故か、東側(図では右側)に小天守とも言えそうな井戸櫓を連結し、南側には付櫓を段々に連ねていたところが、別のある天守に似ていて、たいへん気になる存在です。


松岡利郎先生作図「慶長度二条城(二条御屋敷・二条御構)推定図」(部分)


別のある天守と申し上げたのが、ご覧のとおりの、家康創建の二条城天守でありまして、松岡先生の考証によれば、こちらもまた東側(右側)に小天守を連結し、一方の南側は取付櫓や南廊下を連ねていたのだそうで、またご承知のとおり、この天守の木造部分は、豊臣秀長の大和郡山城天守をそのまま移築したものと判明しています。


つまりこの二条城天守と岡崎城天守は、90度違う方角にそれぞれ小天守と付櫓群を張り出すという、言わば「連結式天守」と「複合式天守」を組み合わせたような、独特のスタイルで共通していたわけです。

ですから、これらは新たに「複合連結式天守」と呼んでもいいような気がいたしますが、この独特のスタイルは、実は、家康の江戸城(慶長度)天守も、そうではなかったのか――― というのが本日最大のアピールポイントです。


<<家康の江戸城天守の「形」は、姫路城よりも、自身の二条城天守に似ていた!!?>>



冒頭から申し上げているとおり、ご覧の赤丸部分が狭間塀の類いであったなら、大小天守や付櫓・多聞櫓の連なりは基本的に「逆L字型」までであって、赤丸のあたりは抜けていたことになりますから、慶長度天守はまさに、家康自身の二条城と同じプラン(複合連結式)を踏襲したものと言えるでしょう。

そして二条城の「取付櫓」「南の廊下」に相当する江戸城の櫓は、ひょっとすると岡崎城のごとく段々に重階が低くなっていく櫓群(→それが図の左下から左方向へグーンと続いていく石塁上の多聞櫓ともシンクロする形)だったのではないかと想像しているのです。


かくして、家康の江戸城天守を「どういう天守の系譜のうえに考えるか」という大問題については、当サイトはこれまでに、家康好みの天守の原点は、天正17年建造の駿府城小天守(「小傳主」)のはずだと、年度リポートブログ記事で申し上げて来ました。


そこで、「系譜」のいちばん最初はその小天守、最後に岡崎城天守を(家康を回顧するための)二条城のリバイバル版として建造されたものと想定しますと、少なくとも、次の四つが「系譜」上に並ぶのではないでしょうか。

1)天正期の駿府城小天守(→中村忠一が移封先の米子城で模倣か)

2)二条城天守(豊臣秀長の大和郡山城天守の移築)

3)江戸城(慶長度)天守

4)岡崎城天守


これら四天守はどれも、当サイトが申し上げて来た「唐破風天守」と思われ…


宮上茂隆先生による二条城天守の復元(最上層の屋根に唐破風)

2012年度リポートでの『東照社縁起絵巻』に基づく江戸城天守

前出の岡崎城天守


このように並べてみて、家康自身が本当に好んだ天守はこのような姿ではなかったか、ということがボンヤリと(私なんぞには)見える気がしておりまして、いずれも破風の配置で「四方正面」を表現しつつ、最上階は高欄廻縁が無く、屋根に「唐破風」をすえ、櫓群を「複合連結式」で従えた姿で一貫しており、こうした天守を居城のトレードマークにしたのではなかったかと感じるのです。


(※ちなみに図中の江戸城天守だけ、桁行いっぱいの千鳥破風や入母屋破風がありませんが、これは江戸城天守の巨大さゆえという考え方が一つと、もう一つの考え方は、大手門や本丸御殿側の天守東面はこうした比翼千鳥破風であり、天守西面はやはり超大型の千鳥破風が一つだった、という考え方もありうるのではないでしょうか?

 と申しますのは、『東照社縁起絵巻』を描いた狩野探幽は、家康に江戸城内で謁見したとも言われ、そのおりに探幽が目撃したはずの慶長度天守は、当然ながら大手門側の東面であったはずですから、そんな記憶やスケッチ?をたどりつつ探幽は『東照社縁起絵巻』を仕上げたのだとしますと、天守は本丸御殿側の破風の数を多くすることがある、という伝統的な手法を慶長度天守も採用していたかもしれないからです…)



狩野探幽筆『東照社縁起絵巻』(日光東照宮蔵/巻第二 第五段「相国宣下」後の巻末部分より)


さて、当サイトは2012年度リポートにおいて、ご覧の絵は駿府城天守ではなくて、家康の江戸城天守を描いたものではないのか? という大胆仮説を展開しましたが、今回の記事の内容はこの絵にもぴったり当てはまり、ますます私なんぞは確信の度を深めております。


例えば、ご覧の絵から誰もが感じることと言えば、徳川の世の城郭でいっせいに普及する「白漆喰」が、小天守や付櫓の方に使われていて、大天守だけが、白漆喰とは違う“何か特別な意匠”で仕上げられている点でしょう。


このことは、家康が例の豊臣大坂城の「西ノ丸天守」で示した行動を思わず連想させるものでして、きっと家康は、複数の天守を比べて見せる“政治的効果”に味を占めていたのではないでしょうか。

――― つまり当時、白漆喰が以前より安く使えるようになった、ということは、すでに少なからぬ日本人が知っていた情報なのでしょうから、それを天下普請の江戸城天守で大々的に使ったからと言って、諸大名相手には、大した威圧効果も無かったのでは… という気がして来ます。

(※追記/慶長14〜15年頃に完成したはずの大天守は、ご承知のとおり、「白い天守」としてはすでに最先端でもなく、家康の二条城天守や伏見城天守の数年遅れにあたり、姫路城天守の一年近く後の完成です)

それよりはいっそのこと、白漆喰の巨大な小天守や櫓を周囲に配しつつ、その中心に特別な意匠の大天守がそびえ立つ姿を見せた方が、徳川の圧倒的なヘゲモニーを示す格好にもなったのではないかと想像しているのです。


では最後に、そのようにして絵画史料の中に残された、当サイトが想定する江戸城(慶長度)天守の状態を、この際、思い切って異論は覚悟のうえで図示いたしますと…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年09月16日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か





「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か


前回の世界地図(トルデシリャス条約による分割)では、スペイン側の西半球(南北アメリカ大陸)とポルトガル側の東半球(アフリカからアジア)でその後の運命はかなり違ったようで、西半球では独自の言語まで失った民族が多いことに愕然(がくぜん)とするわけですが、我が国も終戦直後、GHQ(進駐軍)による「日本語のローマ字化計画」という恐ろしい話もあったそうで、無条件降伏など、二度としてはならんと強く思うばかりです。

などと申し上げつつも、前回のマラッカ地図を見つけてから、アレ? 右側の要塞の形や位置が「籐堂高虎の宇和島城にソックリじゃないか」と気づきまして、以来、そればかりが気になっております。

かつて「空角の経始(あきかくのなわ)」と言われた、宇和島城の五角形の縄張り

そして前回の、1780年のマラッカ地図(オランダ領時代)の要塞も…



ご覧のとおり、両者のちょっとひしゃげた「五角形」の感じが非常によく似ておりまして、これは本当に偶然か?…と疑いたくなるほどですが、両者は写実的なスケッチのごとく、要塞(城)の中央部がこんもりと盛り上がった丘(山)であった点も共通していました。

したがってこの両者は「五角形」とは言っても、五稜郭(ごりょうかく)などの「稜堡式」の城とは、まるで別の手法から生まれたもののようです。


ならば何故?―――という点で、昔から宇和島城について言われて来たのは、かの「空角の経始(あきかくのなわ)」という、敵の目を四角形の城と錯覚させて、攻撃の手を狂わせるための、籐堂高虎の巧みな経始(設計)だったという解釈ですが、さすがに最近はこれを言う解説文は少ないようです。

ただ、前述のマラッカ要塞との共通項 →中央部が丘や山であり、敵に高所から見下ろされても「五角形が分かりにくい」という要素は確かにあるようでして、なんとも言い難いものの、ここでもう一つ比べてみたいのが、海に面して築かれた「鳥羽城」でしょう。


鳥羽城古絵図(浅野文庫蔵/ウィキペディアより)


このとおり、これら三つの城は <海に面した五角形(六角形)の平山城> という点では共通していたようで、何が目的だろうかと頭をひねるのですが、これらの城はどれも海辺にあって、敵が周囲をぐるっと回り込みにくいわけですから、少なくとも「空角の経始(あきかくのなわ)」は考え過ぎではないか…

むしろ、例えば <琵琶湖畔の三角形の縄張りの城> →坂本城・長浜城・大津城・膳所城(+瀬戸内海の三原城)あたりと同じ類いで、何か「浮城」としての運用上の問題なのか、もしくは「水辺に」石垣を築く場合の技術的な問題(波の影響?)が関係していたようにも想像するのですが、どうでしょうか。

…… ということで、今回の記事は「城の形が似ている」ことで何が読み取れるか、というお話を、もう少ししてみたいと思います。



織田信長が足利義昭のために築いた、旧二条城の推定位置(黄色=当ブログ)



さて、これは昨年5月の記事でご覧いただいた図ですが、この「旧二条城」に関しては、横田冬彦先生が足利義輝以後の「京の城」をめぐる論考のなかで、

南と西に「御楯」=櫓(やぐら)がある。さらに「坤申(ひつじさる)三重櫓」があり、これがのちに「天主壁」の修理記事にいうところの塗壁をもった「天主」であろうと考えられる。

という紹介があったうえで、次のような指摘があります。


(横田冬彦「城郭と権威」/『岩波講座 日本通史』第11巻 近世1より)

このような「京の城」はどのようにして建設されたのであろうか。
(中略)
天文一五年(一五四六)の足利義輝元服式に「御大工 池上五郎左衛門、棟梁衛門」が参列していたことがあげられ(『応仁後記』)、永禄二年(一五五九)からの義輝御所造営も彼らが管轄していたとみられる。
また右衛門定宗は、義輝の後援のもとに禁裏大工惣官職の兼帯も望み、禁裏大工 木子(きご)家との間で度重なる争論をおこす。

(中略)
そして信長による義昭御所(※旧二条城)造営の最中に、将軍義昭が強硬に木子宗久の違乱停止と右衛門定宗の惣官職安堵を朝廷に申し入れ、取りなしを求められた信長がこれを拒否したことは(『言継卿記』)、信長ないし奉行村井貞勝・嶋田英満の指揮下で右衛門定宗が造営に参加していたからであろう。


ということで、「旧二条城」は将軍義昭の御所であっただけに、その作事は室町幕府の御大工(右衛門定宗なる人物)が担当したはずだというのです。

ここで思わず私なんぞの興味をかき立てるのは、ならば「京の城」の権威を示すシンボルとして <新機軸の天主の位置> も大切な要素だったのでは? という手前勝手な推測でありまして、何故なら、この信長の「旧二条城」と、その後の江戸時代に徳川秀忠・家光が改築した「二条城」とは、天守の位置がおなじ坤申(ひつじさる)=南西隅で一致していて、あたかも聚楽第の北西隅に対して、そっぽを向く!ような姿であったからです。




すなわち「京の城」の代表格、豊臣秀吉の聚楽第は、天守台の位置が旧二条城に比べて90度ズレていて、三方にあった虎口も含めて考えますと、90度右回り(時計回り)に回転したとも言えそうであり、その後、徳川秀忠・家光改築の二条城は、そんな聚楽第と決別して、ふたたび旧二条城のスタイル=先駆的な「京の城」の形にゆりもどしたようにも見えるのです。

「京の城」の天守位置 →【先駆的な旧二条城式 vs 新機軸の聚楽第式】

横田先生の論考からは、こんな図式が見えて来るような気がしまして、秀吉以後はあまりに多くの「聚楽第式」が全国に普及したため(→広島城、駿府城、家康の二条城…等々)もともとの「旧二条城式」がかすんでしまったものの、例えば松平忠輝の越後高田城の三重櫓が同様であり、そしてそして伊達政宗の仙台城の伝・天守台もそうである(南西隅!)という、隠然たるコントラストを見せていました。


一方、東国の金箔瓦の城を見ても、半数以上(黄緑色の四角付き)が「聚楽第式」


では「聚楽第式」の方を少し見比べてみますと、ご覧の図は、甲府の金箔シャチ瓦を加藤光康の躑躅ヶ崎館のものと仮定させていただき、さらに二俣城の天守台(本丸の西隅)もこれらに含めた場合ではありますが、半数以上が聚楽第にならったことになります。

で、これらの中でいちばん興味深いケースと言えば、仙石秀久の「小諸城」ではないでしょうか。


小諸城に残る天守台


と申しますのも、かなり以前に私が現地を訪れ、有名な城門(三の門)から城内に入ったとき、ここが「穴城(あなじろ)」だと聞いていたこともあってか、本丸に向かってゆるやかに下っていく感覚があり、てっきり「南」に下って行ったかのような錯覚をおぼえました。

そうして「南?」に下った先に本丸があり、その右奥の隅に天守台があったため、てっきり本丸の「南西隅」に天守台はあるものと錯覚していたのですが、今回、縄張り図などを見直しますと、下記のごとく、天守台はかなりシッカリと「北西隅」に築かれていたのです。!


小諸城の絵図(『南佐久郡古城址調査』より抜粋)


かくして地形的にずいぶんと複雑な小諸城においても、仙石秀久はキッチリと聚楽第を踏襲していたわけで、その執念?には恐れ入るばかりですが、そこは仙石秀久…… これだけに留まらない、とんでもない措置を講じていたようなのです。



(※当図は#カシミール3D #真田丸 pic.twitter.com/QaxDmDmJaH からの引用です)


画面中央の「三角形」が小諸城の本丸であり、その中に小さな四角点で天守台も表示されておりますが、こうした画面からも、小諸城は(南北の断崖の堀ぎわまで接近しないと)周囲からは全く見通せない本丸であったということが、よくお解りいただけるのではないでしょうか。

さすがは「穴城」ですが、ひょっとしますと、左側の断崖下を流れる千曲川から見上げた場合でも、せっかくの天守は見えなかったのでは… とさえ思うほどの状態です。


しかも驚くべきことに、加藤理文先生によれば、豊臣政権下の金箔瓦の使い方には、城(城主)によって程度にいろいろと差が付けられたそうで、「豊臣一門衆の城では、軒丸瓦、軒平瓦を中心に、シャチや鬼瓦、飾り瓦にいたるまで金箔瓦が使用され」たなかで、秀久の小諸城は「わずか五万石程度ぐらいの武将です。それなのに、豊臣一門とまったく同じ金箔瓦を葺いて」いたのだそうです。(『信長の城・秀吉の城』)

ということは、秀久は、天守の位置や金箔瓦という「形だけ」はフルに、しっかりと聚楽第を踏襲しておきながら、実際は、本丸の堀ぎわまで近づくか、城内を訪れないかぎり、ほとんど見ることも出来ない!!? 天守や金箔瓦だった、ということになりそうなのです。…




この驚くべき状態は、仙石秀久という人物の特異なキャラクターがにじみ出た結果という気もしますが、このことは「京の城」にならった「見せる城」としてどう評価すべきか、難しいテーマを含んでいるようで、結局のところ、権威の見せ方とは、伝聞による情報伝達(=世間の評判)に多くを負っているのだ、という現実の裏返しなのでしょうか。
(→ 秀久は、地域での評判よりも、中央とのつながりの方を死守した?…)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年09月01日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと…





ポルトガル海上帝国と「川の城」岐阜城 →あえて「C地区」の構造的な欠陥を疑うと…


ポルトガル領マラッカの要塞(FORTALEZA)

スペイン語版ウィキペディアにある「ポルトガル帝国 1415-1543」の図



前回の記事では「ゴアのサバヨの…」=ポルトガル領インドの首都ゴアの「印度総督邸」が想像以上に大規模であり、その都市建設はインド西海岸の川の河口近くに、同じく河口の港湾都市「リスボン」を手本にしながら進められたことを申し上げました。

上記の世界地図に書かれたホルムズ、ゴア、マラッカなどの数多くの拠点港(占領地)は、そうしたポルトガル王国の交易システムを支えた基盤であり、これらは同じくトルデシリャス条約で世界を二分したスペインに比べると、陸上の植民地支配よりも「海上覇権」が主眼であったので、我が国の歴史学では「ポルトガル海上帝国」という呼び方もして来たそうです。

このことは以前に、織田家中で「津島」担当だった?羽柴秀吉と「兵商」との関わりのお話をした時から、いつかまた取り上げたいと思っていた話題でありまして、ご覧のスペイン語版ウィキペディアは、どうやらポルトガルへの悪意(自らの植民地支配の引け目?)があるのか、日本の種子島も!ポルトガル海上帝国の一部であったかのように紹介しています。

(→ほかの英語版などは“単なる到達年”と紹介。種子島の位置は若干違うものの…)




このように種子島への到達(→実際は漂着)が1542年ということは、この地図上の拠点港の到達年をたどれば、ポルトガルは延々と120年以上をかけて、東半球の海洋からベネチアやイスラムの勢力を駆逐しつつ、日本までたどりついた様子が見えて来ます。

で、この件は…


ポルトガル語版のウィキペディアにある「ポルトガル帝国 1588-1654」の図では…




ご覧の「自国語」版ウィキペディアではそんな書き方はしていないものの、こちらはこちらで、その後のオランダ帝国(七連邦共和国)との争いに負けて行ったことを、わざわざ色分けで図示しながら、特に横縞のゾーンで「領有をめぐる紛争海域」を示しているあたりに、当時の「ポルトガル海上帝国」の本質が現れているようです。




つまり海洋の交易ルートの独占こそが「海上帝国」そのものであって、港(土地)の占領はそのための“お膳立て”に過ぎず、その後の港湾都市や要塞の建設は、敵対勢力に港をうばい返されないことが主眼で、例えば、占領した旧領主や旧王朝との“陸の戦争”をそこから始めること(→橋頭堡という考え方)は二の次、三の次であったようです。

(※その点、次のオランダによる海上覇権の奪取は、現地の旧領主への介入や属国化によって「陸」からポルトガルを攻めたことが功を奏したようです)


ポルトガル領時代のマラッカ市街図(左側に住宅街が続く)


そしてご覧のごとく、香辛料貿易の中心的な港「マラッカ」の要塞においても、前回のゴアの印度総督邸と同じく、四階建て以上の「塔」がそびえていました。

これは塔の位置から想像するに、リスボンの有名な「ベレンの塔」→インド航路の発見を記念した塔(1521年建造)にならったのかもしれませんが、次のオランダ領(1641年〜)時代のマラッカの絵には、こうした高層建築は見当たらなくなるため(→要塞 FORTALEZA の位置にわざわざ敵方の砲撃の目標物を置かないため?)この塔はひょっとすると、ポルトガル海上帝国の覇権を見せつけるための、港の「目印」でもあったのでしょうか。…


1780年のマラッカ地図


さらにオランダ領時代の詳細な地図を見れば、要塞と市街地はともにマラッカ海峡に面していたものの、実際に荷の揚げ下ろしを行なったのは、マラッカ川の河口部に設けた港であったことが分かります。




このような外洋船と川舟との使い分けは、前回にご覧いただいた旧ゴア市街図もよくよく見直しますと、広いマンドヴィ川の河口部まで入った「外洋船」と、実際の港に入った「川舟」との使い分けが、ちゃんと絵図の中に描かれておりました。


旧ゴア市街図(1750年/アントワーヌ・フランソワ・プレヴォの著作より)


かくして「交易システム」を国力の柱として世界に君臨したポルトガル海上帝国では、拠点港と要塞が現地の「川べり」にあることが重要な条件になっていて、海上覇権と言いつつも、実際には「川の城」がその強大なパワーの源泉であったことに、是非とも注目をしてみたいのです。




<織田信長の「川の城」として、清須城・小牧山城・岐阜城を考えてみる>




五条川が城内をつらぬく形で復元考証された、清須城の模型(清洲城天守蔵)


さて、ここで織田信長の話に移るのは、やや唐突な印象を持たれるかもしれませんが、私はかねてから、ご覧の清須城がど真ん中を五条川が貫いていた形について、仮にもしも敵勢が多数の川舟で下ってきて強襲されたら危なかったのでは?… という心配が頭に浮かび、この縄張りには少々ガテンが行きませんでした。

近年ですと旧五条川の考証から、現状のような五条川の流れは信長の時代より後に出来上がったもの(=当時は城内を真っ直ぐに貫いてはいなかった)とする説もあるようですが、これについては『信長公記』の有名な「小牧移転」のエピソードが決定的な証言をしておりまして、やはり五条川は(強襲の危険もかえりみず)城内を南北に貫いたことに間違いは無さそうなのです。


『信長公記』首巻「二宮山御こしあるべきの事」より

一、上総介信長 奇特なる御巧みこれあり。清洲と云ふ所は国中、真中にて、富貴の地なり。

或る時、御内衆悉
(ことごと)く召し列(つ)れられ、山中高山、二宮山へ御あがりなされ、此の山にて御要害仰せ付けられ侯はんと上意にて、
(中略)
此の山中へ清洲の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、上下迷惑大形(おおかた)ならず。

(さ)侯ところ、後に小牧山へ御越し侯はんと仰せ出だされ侯。小真木(こまき)山へは、ふもとまで川つゞきにて、資財雑具取り侯に自由の地にて侯なり。どうと悦んで罷り越し侯ひしなり。


たいへんに有名なエピソードで、城を清須から小牧山に移すのなら「五条川」があるから“ずっと楽だ”と家中の全員が胸をなでおろした、という記録であり、それほど五条川は清須城の間際にあったことにもなりますので、したがって清須城もまた、上記のマラッカ要塞などと同じく、海洋(伊勢湾)につながる港を守った「川の城」と考えることも可能なのではないでしょうか。



現在の主な水系で、それぞれの城と川を確認しますと…


尾張国二宮の大縣(おおあがた)神社の奥宮がある本宮山(「二宮山」!


ここでまことに興味深いのは、信長が最初に興味を示した「二宮山」も、これまた上記地図のごとく「五条川」の最上流部が、ちゃんと山のふもとを流れていた、という点でしょう。

しかしご覧の標高293mという、小牧山に比べて3倍以上もの高さがあることで断念に至った(…信長の“深謀遠慮”という話はどうも信じられません)のであって、そこにはこの山が神社のご神体として古くから「日出(いず)る山」と呼ばれたことも関係していたのかもしれず、この話の本筋は、この時すでに信長は、経済を支える「川の城」と崇拝の対象となる「高い山城」を両立させたい! との願望を持っていた“証拠”になるのではないでしょうか。(→→岐阜城の先取り?)



<小真木(小牧)山へは、ふもとまで川つゞきにて…>

→ 小牧山城では「合瀬川」に一番近い曲輪を、信長自身の「山麓居館」としたのか?



(※現地の案内看板より)


そして次の小牧山城では、ご存じのとおり、信長の頃は山麓の南東側にひときわ大きな曲輪が築かれていて、ここが信長自身の「山麓居館」であろうと言われて来ていますが、その理由はひとえに、この曲輪の「段違いの大きさ」によるものでした。

そこで今回の「川の城」という観点から申しますと、この曲輪のすぐ近くには、小牧山の東側のきわを流れる「合瀬(あいせ)川」がピッタリと寄り添う形で流れておりますが、一方、前述『信長公記』の「小真木(小牧)山へは、ふもとまで川つゞきにて…」という記述に対して、現状では「五条川」が小牧山のふもとまで“直結”しているわけではなく、その支流がやっと小牧の城下町の西側に近づく程度なのです。


春日井郡小牧村絵図解読図(小牧市ホームページより引用)


これはいったいどういうことか?と考えますと、ご覧の絵図は幕末(とっくの昔に廃城後)の小牧山周辺を描いたものですが、山の東側に合瀬川(図では「古木津」とある川)が南北にずうっと流れております。

この川、もとは江戸初期の正保5年に開削が始まった「木津用水(こっつようすい)」=古木津用水ともいう農業用水だそうで、となると当然、信長の時代はまだ存在しなかった川のはずですが、この合瀬川…“合わせ川?”という名前からして、当時、本当に一から全ての農業用水を開削したのだろうか… という疑問もあり、現に地元の建設会社のホームページには「瀬が合わさった(流路を合わせる)ことから由来したものと推測」などと、その名がやはり、木津用水の成り立ち方に関係したとの見方がされています。


ということは、この場所には江戸時代以前も、何がしかの「川」が流れていたと思えてなりませんで、ひょっとすると、それが信長の「山麓居館」の間近を流れていて、それを舟で下れば、間もなく五条川の支流から本流へ、そして清洲、伊勢湾へとつながっていたのではなかったかと想像するのですが…。



岐阜城のある金華山のふもとを流れて来る長良川


さて、いよいよ最後に、岐阜城のお話を。

岐阜城も山城ではあるものの「川の城」だなと私なんぞが感じたのは20年以上前からのことで、長良川との位置取りが城の(とりわけ山麓の曲輪群にとって)生命線であることは、城全体のプランが物語っているはずでしょう。そこで…


下記の、いまだに謎の「?」曲輪は、長良川とのアクセスを考えれば、

小牧山城「山麓居館」とも似たメリットが考えられ、非常に好都合だったはずで…




(※ご覧の図は市教育委員会の「織田信長公居館発掘調査ホームページ」から

  引用した<信長公居館跡地形復元図>に加筆しながら作成しました)

図中の「?」曲輪は、これまでほとんど誰にも論じられたことがなく、これといった名称さえ伝わっていないものの、八王子在住の私の目から見れば、この曲輪の位置づけは、岐阜城の「扇(おうぎ)の要(かなめ)」の存在と思えてなりません。と申しますのも…


【八王子城の場合】※下図はサイト「八王子城 案内」様からの引用です


ご覧の八王子城は比高では岐阜城より若干低い程度の山城ですが、尾根筋を登っていくメインの登城道とともに、山麓のいちばん奥まった曲輪「御主殿」からも、山頂部まで“直接に”上がって行ける城道がありまして、こういう姿が「城」としては当然の構造だろうと思って来たからです。

ただ八王子城は舟運を期待できるほどの川は無く、渓流が曲輪群のわきを流れているだけですので、ここの「御主殿」と岐阜城の「?」曲輪とをまったく同等に語ることは出来ませんが、どちらも、山麓と山頂をつなぐ「扇の要」という点では同じではなかったでしょうか。


そうした観点から申しますと、当ブログでずっと話題の中心の「C地区」は、その奥のB地区の方へと進んでも、その先は<行き止まり>であり、そのまま山頂部の「主城」には上がって行けない“どんづまり”地帯です。(言わば袋のネズミ)




ですから「C地区」が城主の山麓居館となると、城の防備として本当に大丈夫か??… そういう万が一の場合、まずはC地区の南西(図では左下)にある山の中腹の道をたどって「七曲道」等に向かうのでしょうが、「七曲道」等の登り口の安全が確認できないなら、結局は「?」曲輪を通って…… という詰め将棋のごとき構造的な“欠陥”を、八王子在住の城郭ファンとしては、どうしても感じてしまうのです。


【ご参考】紫宸殿を中心とした平安宮内裏の平面図

(※京都市歴史資料館のフィールド・ミュージアム京都より引用)


で、前回のブログ記事では、フロイスの「二本の大きい影を投ずる果樹」という記述から、岐阜城内には「紫宸殿」になぞらえた大建築があった? などという大それた話を申し上げましたが、そんな大建築が果たして城の中に納まるか、という当然の疑問に対して、最後の最後に、また思い切ったシミュレーションをお目にかけましょう。

ためしに、前出の岐阜城山麓の図と、ご覧の内裏の平面図とを「同縮尺」でダブらせてみますと、ちょっと意外な結果になりまして、信長の岐阜城は、ダブらせた結果のとおりだなどと申し上げるつもりは、毛頭も、カケラも、これっぽっちも無いわけですが、その様相は、話題の「?」曲輪の意味合いも含めて、まことにミョーな、面白い納まり方をするのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない





フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない


前回記事の「脱線」のインパクトがけっこう強かったようで、このまま甲府城や躑躅ヶ崎館の話にもどって良いのか迷うところでありまして、とりあえず今回だけは、出来るだけ簡潔に、前回の補足をさせていただこうかと思います。




すでにご覧のとおり、岐阜城出土の金箔瓦(菊花文や牡丹文の棟飾り瓦)は「(織田)信長段階でない」と千田嘉博先生が誌上で断言されたことから、それならば、千畳敷C地区の大規模拡張そのものも“信長段階でない”可能性を疑うべきではなかったか―― という疑念を申し上げました。

つまり「金箔飾り瓦」が9〜7年前に千畳敷の発掘現場で出土した時から、間を置かずして、それらが信長居館の位置を示す“証拠品”であるとの解釈が一気に進み出したわけですが、そうした解釈に対して申し上げるべきは、例えば <フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない> という単純な事実でしょう。

これは「無い」ということを理屈では証明できませんので、是非ともお手元のフロイス日本史など、当時の文献を一度ご確認いただくしかありません。

しかもルイス・フロイスは、時系列的にはその後になる安土城の報告文(第一部八四章)では、ちゃんと「塗金した枠がついた瓦(完訳フロイス日本史)」「金縁瓦(柳谷武夫訳)」と書き、別の部分(第二部三一章)でも「前列の瓦にはことごとく金色の取付け頭がある」と書いており、前回の千田先生や加藤理文先生の解説文のとおりに <織田信長の金箔瓦は安土城から始まった> ということを、言外に認めた形になっています。!



(※ご覧の図はPDF「平成27年度 信長公居館跡 発掘調査成果」からの引用です)


ということは、話題の「信長段階でない」金箔飾り瓦が見つかったのは、ご覧のC地区の拡張部分の右側(西側)の池跡など、きわめて限定的な範囲であったわけですから、この拡張そのものが信長段階でなく、例えば嫡男の織田信忠以降による「改修」であった可能性が疑われても良かったのではないでしょうか。

――― となりますと、ならば信長時代の居館はどこにあったか? という大問題がぶり返してしまいますので、これは“言いっぱなし”で済む事柄でもないでしょうから、ここからは当ブログで初めて申し上げる話題によって、自ら「脱線」の尻ぬぐいをさせていただきます。




<フロイスの岐阜城訪問記にある「ゴアのサバヨ」の予想を超えた巨大さ>




ここまでは文献に「書いてないこと」を軸にお話をしましたが、ここからは逆に「書いてあること」に焦点をしぼり込むため、まずはフロイスの岐阜城訪問記の有名なくだりを確認しておきますと…


(『完訳フロイス日本史』第一部八九章より)

宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。
驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます。

第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。
広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます。

ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが
……


という風に、これは信長がフロイスらに「予の邸」=いわゆる信長居館を見せようとした直前の部分ですが、ここでは是非、文中の「劇場ふうの建物」と広い石段を登って入る「ゴアのサバヨのそれより大きい広間」とは何なのか――― ひょっとすると、それは想像以上の <<巨大建築>> なのかもしれない、というお話をしてみたいのです。

何故なら「二本の大きい影を投ずる果樹」「ゴアのサバヨ」という二つの文言がどうにも心に引っかかるからでして、ご承知のとおり「ゴア」というのは、当時のポルトガル領インドの首都であり、ザビエルら宣教師も寄航したマンドヴィ川河口の港湾都市でしたが、「ゴアのサバヨの…」とは、この頃はポルトガルによる占領後ですから、いわゆる印度総督邸のことになります。

その後の18世紀中頃の首都移転のため、いま現存するのは倉庫にいたる「門」だけという「印度総督邸」とは、いったいどれほどの規模の建造物だったのか、ネット上にある旧ゴア(OLD Goa)の市街図から探ってみますと…



旧ゴア市街図(1750年/アントワーヌ・フランソワ・プレヴォの著作より)

その中心部を拡大していくと…





!! なんとなんと、ゴアの印度総督邸とは、四階建て?の複数の鐘楼や大型の倉庫や礼拝堂を備えた、そうとうに大規模な建築群から成っていたようなのです。

ポルトガル人によるゴア占領後の都市建設は、同じく河口の港湾都市の「リスボン」を手本にしたと言われ、その景観は「東方一の貴婦人」「黄金のゴア」「東方のローマ」などと色々と異名がつくほどの出来栄えで、その中心たる印度総督邸(宮殿)は占領前の要塞を利用しつつ、イスラム建築を模して創建されたそうで、川べりに位置した様子はリスボンのリベイラ宮殿に似ていて、中には王室倉庫や礼拝堂、二つの大きなホールを備えていたと言います。

したがって印度総督邸の大きさについては、間違っても建物の右下の“港の荷役をする象”に惑わされてはいけないわけで、これと同種の旧ゴア市街図でも、印度総督邸は似たような描き方がなされ、旧ゴア市街を代表するランドマークになっています。



(1596年頃/ヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテン画)


……… ということは、当方の岐阜城の「ゴアのサバヨのそれより大きい広間」という“称賛”を込めて書かれた建物は、実際のところ、どれほどの<<巨大建築>>だったのか!!?… と考えざるを得ないことになって来まして、(→「ゴアのサバヨ」は当時の国際常識による大きさの表現か?)そんな難題を解くカギは、やはり信長が植えさせた「二本の大きい影を投ずる果樹」ではないかと思うのです。




<我が国の「古典」の常識から言えば、御殿の前の「二本の大きな樹」というと

 京都御所「紫宸殿」の右近橘(うこんのたちばな)と左近桜(さこんのさくら)を、

 昔の日本人であれば、だれもが想起したはずで……>







(もう一度『完訳フロイス日本史』より)

第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。

広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます。



このフロイスの書き方をもう一度ご覧になって、上記写真との“不思議な一致”をお感じになりませんでしょうか。

今回の話題の中心の「劇とか公の祝祭を催す」「劇場ふうの建物」とは、文字どおりに受け取るなら、信長は何を思ったか「神楽殿」とか「拝殿」の類いを建ててしまったようにも受け取れるものの、全国の神楽殿や拝殿で「両側に」「二本の」「果樹」を植えた例などは、おそらく一例も存在しないでしょう。

(※わずかに、梅と松を植えた北野天満宮の拝殿+本殿が、権現造りによる特殊な事例でしょうか)

ですから「二本の大きい影を投ずる果樹」というのは、非常に変わったスタイルと申しますか、私なんぞにとっては、もう「あの建物」を連想する以外はありえないほどの描写であり、それはきっと、多くの日本人にも同じではなかったか(→信長自身のねらいも全く同じ!?)と思えて来てならないのです。


夏の間は青い「橘(たちばな)」の実は、冬になると赤くなる




現在、紫宸殿(ししんでん)の左右にある樹は、言わずと知れた「右近橘」と「左近桜」ですが、実は「左近桜」は古代においては「梅」であったそうで、もしも信長の選んだ二本の樹が「橘と梅」という古典的なスタイルならば、フロイスらの岐阜城訪問は初夏の頃でしたから、橘にはもう青い実が、梅には黄色みづいた実が無数になっていたに違いありません。!…


… お前は何を言い出すのか? という戸惑いの声が聞えてきそうですが、ご想像のとおり、今回、私が申し上げたいのは、こういう破天荒な措置の可能性も(信長ならば)ありえたのではないか、という超・大胆仮説です。

紫宸殿と言えば、かの足利義満(よしみつ)が「北山第」に造営したという紫宸殿の例もあり、信長もまた義満らにならって「天皇の行幸」を模索するに至った人物なのですから、こんな超・大胆仮説も、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)とばかり言えないのではないでしょうか。

何よりそれが「ゴアのサバヨ」に対比された大建築だった、という一点だけをとっても、岐阜城の調査は、これまでの発掘調査の範囲より西側の、より城下側の「昔御殿跡(むかしごてんあと)」を含む<総合的な調査>に進むことが、岐阜城の国際的な注目度を高めるためにも、急がれるのではないかと改めて申し上げたいのです。




(※ご覧の図は市教育委員会の「織田信長公居館発掘調査ホームページ」から

  引用した<信長公居館跡地形復元図>に「昔御殿跡」を加筆しました)



作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年08月03日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか





どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか


前回は、駿府城の「豊臣系」金箔瓦のニュースから始まって、「徳川包囲網」という考え方に対する、私なんぞの勝手な“疑念”を申し上げてしまいました。

あの中でお伝えしたかったのは、要は、日本人一般の感覚にありがちな <強大な有力大名だから(余裕の)金箔瓦> ではなくて、実際は180度の真逆で、豊臣政権に加わった群小大名が集団で力を得るために <豊臣頼みの弱小大名だから(必死の!)金箔瓦> ではなかったのか??… という逆転の発想でした。

ですから「山形城」についても、金箔瓦が導入された時期は、関ヶ原合戦後に最上氏が57万石の“大藩”になった以降ではなく、もっと前の、豊臣大名の時代に求めるべきであろうと考えた次第です。


(※その意味で「山形城」の金箔瓦は、伊達政宗の江戸時代の居城・仙台城と一緒にはあつかえず、思うに政宗の金箔瓦というのは、言わば豊臣時代の集権派グループへの“意趣返し”、とりわけ直近のライバル「上杉景勝」に対する“あてつけ”や“見かえし”であったと、私なんぞには感じられてなりません。
 と申しますのも、金箔瓦の効果は、天下人に忠誠を示すこと以外は、効果が他の遠隔地の大名らには伝わりにくく、そもそも遠隔地の他家にとってはどうでもいいことであり、やはり主たる目的は、国境を接した隣国に対するアピール効果だと思うからです)


そして奇(く)しくも、前回ブログをアップした直後に本屋で見つけた『歴史REAL』最新号では、おなじみの千田嘉博先生が、やはり「徳川包囲網」という考え方に対する問題意識から「金箔瓦」を解説しておられ、望外の奇遇(きぐう)に驚きいったところです。

しかもその解説文は「千田先生、ついに断言しましたね」と思わず心の内でヒザを叩いてしまった文言を含んでおり、こうなると今回はもう「甲府城天守」の話題を一時中断しても、脱線させていただくしかないな、と即座に決心しました。


『歴史REAL』天下人の城(8月12日発行号)P74〜75


ご覧の本は最新号ですので、千田先生の解説文はほんの一部分だけ引用させていただきますと…


岐阜城出土の金箔瓦は、信長以降の城主が改修して用いたと考えるべきである。岐阜城の発掘成果をすべて信長に引きつけて解釈してしまうと、歴史評価を間違えてしまう。
(中略)
ちなみに岐阜城出土の金箔瓦は文様の飛び出した部分に金箔を貼っており、型式から見ても信長段階でないことは明らかである。


と、千田先生が「(織田)信長段階でない」と断言した、岐阜城出土の金箔瓦

その金箔瓦(牡丹文の飾り瓦)を、日本いぶし瓦株式会社が復元して寄贈したもの


ご覧の地元企業が復元した方の瓦は、ちょっとツヤがあり過ぎる?ような気はするものの、ご覧のとおり、岐阜城の山麓の「千畳敷」曲輪跡から出土して話題になった金箔瓦は、現在までのところ、どれもが瓦の文様の凹凸の凹部に金箔があるのではなくて、凸部に金箔が貼られています。


安土城から出土した金箔瓦 / 文様の凹部に金箔が貼られた「織田系」の典型例

そして旅行サイト「ついっぷる」で見つけた、松坂城出土の金箔瓦も同じく凹部に…



申すまでもなく、ご覧の松坂城の金箔瓦は、織田信長の二男・信雄の居城「松ヶ島城」に葺かれていた瓦が、のちに転用されて松坂城で使われたものと言われ、安土城と同じく凹部に金箔が貼られていて、これが信長が自らと子の居城だけに許した「織田系」金箔瓦の特徴とされます。

厳密に申せば、安土城や松ヶ島城、神戸城(三男の信孝の城)から出土した金箔瓦には、凸部に金箔の瓦も含まれるものの、千田先生は、少なくとも凹部の典型的な「織田系」は、岐阜城では一つも見つかっていない、という基本事項を改めて確認したかたちです。


岐阜城 山麓の「千畳敷」信長公居館の推定復元CG

(「岐阜市信長公450プロジェクト」の告知サイトからの引用)




さて、皆様ご存じの、岐阜市が「信長公450プロジェクト」のために制作した驚異的な出来栄えのCG(玉井哲雄先生ほか監修)ですが、まぁ率直に申しまして、これだけの大建築を裏付けられる「礎石」がいったい何個あるのか?…… と心配になっておられる城郭ファンは、全国に大勢いらっしゃるはずでしょう。

にも関わらず、こうしたCGが岐阜市で“公的に”使われる様子を伝え聞きますと、かつて駿府城天守の再建論議が「礎石も指図も無くては」「根拠が乏しいものはNO」という厳正な結論(※その検討委員会には小和田哲男先生や平井聖先生ほか)に行き着いた過去を思い出してしまい、この先の岐阜市民の反動を想像しますと、さらに心配になります。

そういう中では、今回の千田先生による、岐阜城「千畳敷」出土の金箔瓦は「信長段階でない」という厳正な?発言も、この先、かなりの波紋を呼ぶことになるのかもしれません。


CGは、出土した金箔瓦が、屋根の「棟」に大量に使われたという想定で制作



これら金箔瓦(菊花文・牡丹文の棟飾り瓦)が「信長段階でない」となると、

ご覧のCGは、出来栄えの大きな要素(根拠)を失うことに……



――― で、この際、そもそもの疑問として申し上げたいのは、<どうして岐阜城で「織田系」金箔瓦が発見されないか> という初歩の初歩的な問いかけでありまして、千田先生の解説文によれば、それはまず、織田信長の金箔瓦は安土城から始まったからだ、という答えになるそうです。

また著書の中で「安土城の屋根は、かつて見たこともない輝く瓦で覆われていた。城郭専用瓦で葺かれた初めての城の出現である」と書かれた加藤理文先生もまた、同書で次のごとく説明しています。


(加藤理文『織田信長の城』2016年より)

ところで現在のところ、岐阜城で確認された瓦が、信長の居城最古の瓦とされている。岐阜城では、山頂部および山麓居館推定地周辺から、信長在城期と推定される瓦が出土している。

金箔の棟飾り瓦(信忠段階の可能性もある)を除けば、総量そのものは非常に少ないため、特殊な建物のみを瓦葺にしたという状況であり、瓦もそのために焼かせたという感じではなく、転用したとするのが妥当である。


(さらに同書254頁より)

これらの状況から、信忠が従三位左近衛権中将に叙任され、名実ともに織田家総帥の地位を確実にした天正五年に、「信忠の城」とするための改修が推定される。

それまで天守のなかった岐阜城山上部に天守を築き、さらに山麓御殿に金箔の棟飾り瓦を使用したことによって、その居城の体裁も織田家序列一位に相応しいものとなった。



ということで、まずは、信長時代の岐阜城の山頂に「天守」の類いが全く無かったとされる諸先生方の説明には、私なんぞは未だに納得できずにおります(※たとえ平屋建てでも「天守は天守」というのが当サイトの基本姿勢です…)が、それはそれとして、ご覧のとおり加藤先生もまた、山麓居館の金箔瓦は「信長段階」ではなく、嫡男の信忠の時代のものだとお考えのようです。

このように諸先生方のほぼ一致した見解として、信長の金箔瓦は安土城から始まったのだから、岐阜城で「織田系」が見つからないのは当たり前だ、という風になるものの、当ブログはあえてもう一つ、忘れてはいけない「答え」があるはずだと申し上げてみたいのです。

それはつまり、信長時代の山麓居館一帯が基本的に「山里」曲輪だったから、ではないでしょうか。


巨石で護岸した「千畳敷」中央の渓流

(引用:岐阜城跡 信長公居館発掘調査デジタルアーカイブの掲載写真より)


当時は天守や櫓に限らず、例えば二条城の御殿の飾り瓦にしても、「城の金箔瓦」というのは基本的に、言わば「金色の威(おど)し瓦」=見る者を威嚇(いかく)するための道具だったという感覚を、忘れてはいけないのではないでしょうか。

その点で、信長時代の山麓居館は「450プロジェクト」も盛んにPRしているとおり、かの足利義政の東山殿にならう形で、信長が特別なVIPをまねくための空間として設けた“迎賓館”であり、おそらく「山里」曲輪の発祥でもあったのですから、その中に「威(おど)し瓦」など、あってはいけない存在のはずだと思うのです。

ですから、これまでの山麓居館を中心とした発掘調査では、「織田系」金箔瓦が見つからないのは至極当然のことと感じますし、そこからまた別の問題意識も生じて来ます。




<そんな「山里」を短期間のうちに築き直したりするだろうか??>






ご覧の図は、「平成27年度 信長公居館跡 発掘調査成果」の公開されたPDFの中から、居館の中心的な曲輪(C地区)は、発掘調査の結果、いったん出来上がった敷地がのちに大きく拡張されていたことが判明した時の説明用模式図の引用です。

思いますに、このようなC地区の拡張(築き直し)は、まずは曲輪じたいの「使用目的」が修正・見直しされたことを考えるのが自然な発想でしょうが、そうした解釈はなされなかったようで、結局、信長が城主のうちに(すばやい計画変更で)拡張工事が行なわれたと解釈されました。

そして上記CGでも、まさにその拡張部分に、今回の千田先生の解説文で「信長段階でない」とされた、問題の金箔飾り瓦の建物が建っている形なのです。!!―――


果たして本当に、この急な拡張部分に居館の中核的な建物が建つ、ということが、普通の状態でありえたことなのか。

そのような状況をごく普通に考えるなら、例えば、C地区の中央に「綺麗な庭」がすでに出来上がっていて、その「庭」をつぶさずに新たな建物を建てたい、となって、やむをえず曲輪じたいを拡張し、その拡張部分を使って新しい建物を付け加えた…… といったケースを想像するのが常道ではなかったのか。

つまり、大規模拡張の前と後には、それなりの時期差(時代の差)があったとしますと、C地区の大規模拡張の痕跡と、ちょうどその地点で今回話題の「金箔飾り瓦」が出土していたことこそ、嫡男・信忠以降による「千畳敷」改修の“動かぬ証拠”だと思えて来たのですが、いかがでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年07月20日(Thu)▲ページの先頭へ
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?…





金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?…


すでにご存じのとおり、先日の報道では、発掘調査が進む「駿府城」天守台跡から、従来とは異なる「金箔瓦」が出土していたそうです。




これは例えば産経ニュース <駿府城天守台調査で初めて発見 豊臣系の「金箔瓦」一般公開> によりますと、「今回見つかった「金箔瓦」は、織田信長系の城にみられる、瓦の凹部に金箔を貼り付けたものではなく、凸部に金箔を貼り付けた豊臣秀吉系のもの」とのことです。

この「豊臣系」金箔瓦について、静岡市の歴史文化課では、天正18(1590)年から慶長6(1601)年まで駿府を居城としていた、豊臣大名の中村氏(一氏/忠一)によるものと解釈し、説明を行なっています。

かくして、天正末期から文禄・慶長前期には、天守台の位置のあたりに「豊臣系」天守が建っていた可能性が出てきた、となれば―――




これは当サイトの2013−2014年度リポートで申し上げた、大それた【新仮説】の図でありますが、このように慶長12年の年末の火災で焼けた天守とは、その時、徳川家康が建造中のものではなくて、中村一氏の時代からずっとそこに存続していた天守ではなかったのか? という新仮説を図示したものです。

かくのごとき発想に対して、今回、中村時代の「豊臣系」天守の可能性が出てきたということは、新仮説の前提条件が、一歩も二歩もクリアされたことになりましょうし、私なんぞとしては、今後の発掘調査のさらなる成果に期待を寄せております。



――― で、ここで是非とも確認したいのが、報道の駿府城「豊臣系」金箔瓦は、東国で発見されたのですから、前回も話題に出た甲府城の金箔付きシャチ瓦などと同じく、いわゆる「徳川包囲網」の金箔瓦だと解説されて行くのでしょう。

しかし自分は、実のところ、この「徳川包囲網」の金箔瓦という言い方に、若干の疑問を感じて来た一人でありまして、何故ならば、徳川は豊臣政権下で筆頭の大大名であり、そうした「徳川だけ」を、政権内で公然と敵視するような政策が本当に可能だったのか?… という疑念が、どうにも心の中でぬぐえなかったからです。


そこでお目にかけたい以下の図は、昨年の当ブログ記事で引用した朝尾直弘先生の『豊臣政権論』の、東国の「集権派」「分権派」大名(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)の色分けにしたがって、新たに描いてみた領国の図です。




時期的には、冒頭の駿府城「豊臣系」金箔瓦の主(ぬし)だとされた中村一氏が、駿府に入封した翌年の天正19年を想定した図でありまして、この年は豊臣秀吉による「奥州仕置」が行なわれた直後でもあり、当然のごとく、朝尾先生が「分権派」大大名の一人とした戦国大名の後北条氏は、すでに滅亡したあとになります。

そしてこの時は、同じ「分権派」大大名の徳川家康は関東に移り、もう一人の伊達政宗は極端に領地を削られた状態にあって、このあと政宗は、ひそかに葛西大崎一揆を扇動し、その鎮圧に乗じて、北側の木村吉清の領地をうばって行くことになる直前の様子です。


朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・前田利家…

そして「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…


では念のため、朝尾先生の「豊臣政権論」(『岩波講座 日本歴史9 近世1』所収)の引用文を若干、繰り返しますと…


がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。

一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上 上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。
(中略)
同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。
徳川・北条・伊達 三氏である。
豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。

(中略)
豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。




といった状態にあって、駿府城の「豊臣系」金箔瓦は、たしかに徳川家康の領国に接した「駿河」に配置されたわけですが、では、ご覧の図と、最近までに発見された金箔瓦の分布とをダブらせてみますと…



こうして見直しますと、例えば「蒲生」氏郷の会津若松城の金箔瓦などは、必ずしも「徳川だけ」を包囲したとは言い切れない印象があるのではないでしょうか?

これは山形城の金箔瓦が2014年に発見されたことによる現象で、ちなみに近くの小高城は南北朝時代からの相馬氏の居城であり、長年、伊達氏との領地争いを続け、石田三成と通じた16代目の相馬義胤(よしたね)が関ヶ原戦の結果、領地を没収されるまで、相馬氏本城の輝きを保った城でした。

そして山形城もまた、南北朝時代からの最上氏(斯波氏)の居城でしたが、その11代目の最上義光(よしあき)は、例えば文禄・慶長の役での陣中から、堀の普請の進捗状況をたずねる手紙を出していたそうです。


最上義光が修築した頃の山形城を描いた「最上氏時代山形城下諸家町割図」

→ すでに広大な三ノ丸が広がり、二ノ丸は南東側が丸くなっていて、

本丸の堀は西側が二重になるなど、より複雑な形状だった…



山形城の本丸跡から出土した金箔瓦

(※この写真はサイト「TADyのブログ」様からの引用です)


そこでご覧の金箔瓦は、本丸中央の御殿跡から発掘された、丸い石の野面積み石垣の堀跡などで見つかったもので、どのような状況だったかを、山形市教育委員会が公開しているPDF資料を引用しつつご紹介しますと…


山形城は、江戸時代に入封した鳥居氏による大改修を受けていて、その時、

本丸南東隅に新たに「本丸一文字門」などが設けられました
(→ 図の右下)



現在では、中央の本丸御殿跡は鳥居時代の遺構がほとんど失われたものの…



その下層から、最上義光の時代の野面積み石垣の堀跡などが見つかり、


上記「金箔瓦」はこの堀の中から発見されました



このように山形城は、本丸が江戸時代に全面的に築き直された疑いがあり、義光の時代は堀の位置がかなり違っていたのかもしれず、現に図や写真のとおり、金箔瓦が見つかった場所は、義光の頃には二重の堀で固めた本丸表門?(→図の礎石建物か)のすぐ脇になりますので、その瓦は、まさに「豊臣大名」義光の居城を飾り立てた意匠とも解釈しうるものではないでしょうか?

金箔の貼り方を申せば、冒頭の駿府城「豊臣系」と同じ凸部に施されています。

で、もしもこれらが「豊臣大名」時代にさかのぼる瓦だとすれば、これらはいったい「誰を」包囲していたのか?… とあえて想像力をふくらませますと、再び下図でご覧のように、会津若松城や小高城とともに「伊達政宗」!!を三方から囲んだ金箔瓦だった、と考えることも出来そうです。




かくして、東国の金箔瓦は「徳川包囲網」の目印であると言われておりますが、それは必ずしも「徳川だけ」を包囲したのではなくて、徳川や伊達(や北条)ら「分権派」大大名を包囲網のターゲットにしたのではなかったか…… という勝手な疑念を、私なんぞは捨てきれずにおります。

すなわち、石田三成が首魁(しゅかい)となって糾合した「集権派」群小大名らが、豊臣印をかかげることに命脈を見い出し、各々が必死の思いで中央の許可を得たのが「金箔瓦」であり、そんな屋根瓦の風景こそ、石田・増田グループにとっては、脅威の「分権派」大大名を“集団で押さえ込む”ツールであった、と思えて来てならないのです。

(※さらに「金箔瓦」は集権派グループの目印として拡大解釈が進んだとすれば、例えば九州の佐土原城=島津豊久、日之江城=有馬晴信、麦島城=小西行長という三つの城の金箔瓦は、実のところは“加藤清正包囲網”!!であったのかもしれません…)





そんな中で面白いのは、朝尾先生の引用文の最後の「豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか」の一文でありまして、朝尾先生は前田や浅野も「分権派」に数えられたものの、前田利家(もしくは利長)の金沢城にも金箔瓦はあった(→有名な幻の「辰巳櫓」直下のいもり堀で発見された)ことでしょう。

一般的に申しまして、利家の金沢城に「金箔瓦」があることに違和感を感じる城郭ファンの方は、まずいらっしゃらないと思いますが、今回の記事で申し上げている考え方では“大きな矛盾”をきたしてしまいます。

ですから、これはひょっとすると、晩年の利家の豊臣政権内での立場や、利家死後の利長の微妙な立場が影響して「金箔瓦」につながったのかもしれず、要するに、豊臣政権の末期になって、前田家はいちやく三成らの「集権派」に鞍替(くらが)えして!!? 秀吉亡きあとの主導権をうかがったのではないかとも邪推するのですが、どうでしょうか。


……… そして今回の話題のしめくくりに申し上げたいのが、同じく分権派に <浅野長政> の名前が挙がっていることなのです。


甲府城内で発見された金箔付きシャチ瓦


つまり、ご覧の金箔付きシャチ瓦の主(ぬし)は誰だったか? という問題が、ここ何回かの当ブログの内容(=甲府城「天守」のゆくえ)が集約される一点でありまして、もしも甲府城の金箔瓦が浅野長政のものとすると上記の論理とは矛盾してしまい、その前の領主・加藤光康のものならば、矛盾はしない可能性があるからです。


「集権派?」加藤光康       「分権派」浅野長政


以上の一応の結論として申し上げたいのは、問題の金箔付きシャチ瓦については、やはり加藤光康が「躑躅ヶ崎館の天守」にかかげたものと考えたく、それが甲府城内で出土したのは、浅野長政か幸長が「天守移築用」として豊臣政権末期の“微妙な時期”に甲府城内に運び込んだものではなかったかと想像しています。

そして有名な風神(雷神)の金箔瓦や、城内で多数が出土した浅野家の違鷹羽(ちがい たかのは)紋の瓦のなかに、少数の金箔が付いた瓦も発見されたことは、その同じ動きの中で制作されたものだろうと想像するのですが…。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年07月08日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している





続・甲府城「天守」のゆくえ



(※大分合同新聞の報道写真を引用)

前々回まで熊本城の話題を続けていただけに、九州の記録的大雨の報道には注視していたのですが、想像以上の被害の大きさに驚くとともに、自分もテレビの仕事を長く続けて来たせいか、ある傾向を感じ取りました。

というのは、民放の某テレビ局は、ご覧のような自衛隊の災害救助の映像を <今回は絶対に映さない> としたようでありまして、そうした意図的な映像の選択に限らず、物事は、見えていない部分が多くを語ってくれるのかもしれません。…


そこで当ブログの本題に入りますと、まずは私事で恐縮ですが、自分は小学生の頃に甲府の武田神社(躑躅ヶ崎館)の近くに住んでいた者であり、その後も幾度となく武田神社や甲府城は訪れたはずなのに、先月、20年ぶりくらいで甲府城の中を再訪したところ、自分でも愕然(がくぜん)とするほど、まるで別の印象を受けてしまいました。

それは多少“やりすぎ”の感もある門や塀の再建、石垣の積み直し、江戸時代の縄張りとは無関係のスロープや虎口や橋の新設といった「新たな装い」のせいではなくて、まったくもって、かつての自分の未熟さから来る、重大な見落としをいくつも見つけてしまったからです。…




(※ご覧の本丸内のはげしい起伏は、石切り場など埋設物の保存用だとのこと)

まずはそのさわりの部分から白状しますと、ご覧の写真は、近代に増築された謝恩碑の台上から、本丸の内部とその東側に建つ天守台を眺めたところですが、背景の愛宕山の尾根に見えるのは県立科学館のプラネタリウムでして、現場の感覚ですと、この写真よりもずっと近くに山が迫っている感じです。

すなわち、詰め城ではなかった山が、これほど本丸に迫っている近世城郭も珍しいのではないか… という風に、今更ながら感じたわけでして、例えば地形的に厳しい制約のあった新宮城とか大洲城とは違い、広い甲府盆地の中のここなのですから、これは城の防衛上、見逃すことの出来ない欠点でもあり、どうしてこんな簡単なことに自分は気づかなかったのかと、のっけから自己嫌悪におちいりました。…




で、このことを踏まえて甲府城の構造を見直しますと、背後の愛宕山から見た場合、天守台はちょうど、すぐ西側の足下の本丸御殿や二ノ丸、楽屋曲輪、大手門などを隠す(=さえぎる)かのような位置にあるのだと分かります。




ですから、もしも天守台そのものが遮蔽(しゃへい)物の機能を負っていたなら、そうした天守台の上に、必ずしも木造の天守建物が建っていなくても、防御上の期待にはじゅうぶん応えられたのではないか……

そんな“予想外の疑念”が頭の中に浮かんでしまい、そこで思い出したのが、数年前、おなじみの三浦正幸先生が復元考察された天守について、じつは先生ご自身が講演会で「甲府城の天守台について今回、寸法を測りました。本当は現地で巻尺を使って測るのがよいのですが、今回時間がなかったので図面に基づいて測りました」という風にして、あの有名な復元案を仕上げたことでした。


ここはやはり、天守台の「現物」をもう一度、じっくりと見つめ直した方がいいのではないか? と思い立ち、改めて天守台をぐるぐると見て回れば、またまた、とてつもない重大事を見落としたことに気づいたのです。


天守台の現状 →所々に大ぶりな石(鏡石)を配して圧倒的な迫力を出しているが…





ご覧の天守台の石垣は、近年、間石(詰石)の補充や部分的な石の取り替え(石段の踏み石など?)はなされたものの、基本的には築城時そのままの石垣だそうで、大変に見ごたえがあるのですが、このまま石段を上がっていわゆる「穴倉」の中に入ったとき、その重大事に気づいたのでした。



写真の人物がいるあたりが、天守地階(穴倉)の門や扉になるはずで、

例えば、この人物の右側(北側)の石垣にある縦長の石は、


縦の長さが約170cm。こうした大石がさらに奥まで続いていて


最初に石段を登ったとき、真正面に見えたこの石も、縦の長さが約180cm

似たような調子の石垣が、さらに東面、南面と続いている―――





以上の総括として、もう一度、穴倉の北面の石垣をご覧いただきますと、

左端が穴倉の扉(とびら)のはずですが、そこから奥(右側)の穴倉内部まで

まったく同じ調子で!! 大ぶりな石が配されつつ築かれていたのです



つまり甲府城の天守台は、穴倉の「奥」の方まで、城主や登城者に“見られること”を意識していたことになる―――

こんなことは他の天守にもあったことだろうか… と思わず記憶をたどってみても、例えば会津若松城、犬山城、安土城、津山城、福岡城、松山城などなど、各々それなりに穴倉内の石垣を築いてはいても、どこか“おざなり”な扱いであったように思われますし、それもふだんは真っ暗闇なわけですから、当然のことでしょう。

ところが、甲府城の天守台は、石段を登ってすぐの位置に立つと、本来なら目の前に天守地階(穴倉)の扉や引き戸があって見えない(なおかつ暗い闇の奥になる)はずの、正面奥の石垣に、大ぶりな石がわざわざ配してある……


見た目の直感→ <この明るい状態が、この天守台の「完成形」ではないのか??>



江戸時代にはご覧の手前の位置に小さな門だけが建っていたそうですが、もしもこのように天守の地階が無い“明るい状態”が、もとから天守台の完成形だとすれば、そのことが示す「答え」は単純なはずです。

………ただ、江戸時代に天守の無い状態が長く続いたなかで、これらの石垣が(城主や登城者の目を意識した形に)築き直された、というケースも考えられなくはないでしょうから、そのあたりの確認ができないうちに、ここで性急な結論を出すわけにも行かないでしょう。


ただし一つだけ申し添えたいのは、穴倉の大石はどれも残念なことに「落書き」の跡で汚れておりまして、しかし、だからと言って、これらの石は絶対に取り替えないで欲しい、と強く申し上げておきたく、何故ならば、これらの落書き石は以上のごとく <甲府城最大の歴史の証言者> なのかもしれない… と感じるからです。



城下の多くの場所からよく見える、甲府城の天守台


さて、以上のような天守台は、御殿が建ち並んでいた西側を除けば、城のどの方角からも非常に良く見えるものです。

ですから江戸時代に「天領」の支配の象徴としては、これで十分であったのかもしれませんが、現代の地元の方々にしてみれば、毎日、建物の無い「台だけ」の状態を見せられ続けているわけで、必ずしも地域振興という意味だけでなく、人間の自然な心理的欲求として、天守の再建論議(実在を検証する要求)が起きるのも無理からぬところでしょう。


ですが冒頭から申し上げたとおり、今回の再訪の直感として、私は甲府城の天守台には、どの時代にも「天守」は無かったはずだと、かなり強く思えて来ました。


ならば天守台を築いた大名自身が、あえてそのようにした理由や動機は何だったか? という「謎」は依然として残るわけでして、そこで逆に申し上げてみたいのは、例の躑躅ヶ崎館の「天守台」に加藤光康の頃などに天守が築かれ、それがそのまま浅野長政・幸長の時代にも踏襲されて行き、結局のところ“甲府の城”の天守は、解体されて撤去されるまで、ずうっと、躑躅ヶ崎館の方にあり続けたのではなかったのか!!?… という超大胆仮説です。



(※当図は左が北)


この場合、かつて甲府城の天守「実在」説を勢いづけた金箔付きシャチ瓦などは、例えば、躑躅ヶ崎館から甲府城への「天守移築用」として、浅野幸長の時代などに運び込まれたものの、豊臣秀吉の死に始まる動乱の中で行き場を失い、そのまま甲府城内に埋められてしまったのかもしれない… といった想像も出来なくはなく、私なんぞはますます「躑躅ヶ崎館の天守」がどういうものだったのか、興味が増しているところなのです。


では最後に、お蔭様で当ブログは6月29日に累計200万アクセスを超えまして、この場を借りて、皆様の日頃のご支援にあつく御礼申し上げます。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年06月25日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか





甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか


甲府城天守台の北西側の張り出し部分

→ この城は旧武田領国のど真ん中に出現した「石垣で見せる」城だった



今年3月、甲府城天守の復元の可能性を調べていた山梨県の委員会が、残念ながら、天守そのものの実在を証明する資料は発見できなかったものの、二ノ丸の南西隅の「月見櫓」を江戸時代には「天守」と表記していた城絵図を見つけた、との報道があったことはご記憶に新しいところでしょう。

それは例えば朝日新聞デジタルですと、「江戸中期に編纂された軍学系の城郭図「主図合結記」(大阪府立中之島図書館所蔵)の中から」発見したとのことで、同記事に掲載の城絵図の写真を、見やすいように90度、反時計回りに回転させていただきますと…


月見櫓の位置に「天守」と記した「主図合結記」の城郭絵図

(※ご覧の写真では上が東になります)


同絵図の拡大 / 左端に「天守」と記された月見櫓


このようにハッキリと「天守」と読めるもので、ご想像のとおり、これはおそらく江戸時代に各地の城で出現した“天守代用の櫓”だったのでしょう。

で、この月見櫓は、万治3年(1660年)以前の作と言われる現存最古の「甲府城並近辺之絵図」にも三重の櫓として描かれておりまして、では、その月見櫓は現在どうなっているかと言えば、例えば下記の山梨県ホームページの案内イラスト(右側が東)では、図の左側の真ん中あたりに、三重の「月見櫓」が復元された状態で描かれています。


ところが、その位置は、赤い点線「史跡範囲」の外側になっており…

やはり山梨県ホームページの「旧甲府城の範囲と補修工事地点」の図などでは…


! なんと、せっかく見つかった「天守」代用の「月見櫓」を含む二ノ丸の西端の突出部分は、現在では県道31号線(舞鶴通り)に変貌していた!!… という、なんとも皮肉な結果になってしまいました。


ご覧のあたりの県道に、かつては「天守」代用の月見櫓と石垣が突出していた

二ノ丸の突出部分が削られたあと(右側の部分)


……… ということで、いかに天守の代用とは申せ、仮にも歴史的に「天守」と一部で呼称されていた三重櫓が、今では地元の幹線道路になっている、という現実は、長年にわたり「天守の復元・再建」を目指して来た地元の方々にとっては、さらなる打撃(追い打ち)と言わざるをえない事態でしょう。

こんなことなら、何も発見できない方が良かった… などという天の邪鬼(あまのじゃく)の陰の声も聞えてきそうな状況ですが、甲府城「天守」のゆくえは、ますますの漂流状態に流れ出てしまったのでしょうか。



【ご参考】武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台


さて、先月の当ブログ記事で、躑躅ヶ崎館に増築された天守台の件を申し上げましたが、ご覧の絵図や先生方の縄張り図を参照しますと、天守台上の低い石垣の様子から、ここにあった「天守」の初重は、最大で「9間四方」というかなりの規模であったことが推測できます。


現在のところ、この天守台を増築したのは、武田氏の滅亡後に甲斐を領国におさめた徳川(家臣の平岩親吉)だと言われていて、この時点では、一条小山(甲府城の築城地)と目と鼻の先の躑躅ヶ崎館に、なんと、初重の面積が松本城天守をわずかにしのぐ!ほどの天守が存在した可能性がありうるわけです。

――― ならば、その後の加藤光泰か浅野長政の時代に新たに甲府城を築いた際は、その天守を解体して「移築」をすれば良かったではないか… という当然至極の想像力が頭の中を駆けめぐります。


そのあたりの関係は歴史的にどうなっていたのか??… これまで躑躅ヶ崎館の天守台が(武田神社の立ち入り禁止区域のため)本格的な調査を受けていないこともあって、今日まで両者の関係を議論できるほどの状況は整わず、言わば、その辺がすっぽりと抜け落ちたままの状態が続いております。


で、ここに至っては、これ以上、手をこまねいていても話が進みませんので、この際、5年ほど前に撮影させていただいた写真をお見せしますが、その意図は、話題の躑躅ヶ崎館の天守台には、いわゆる「転用石」が使われているからです。!




本田昇作図「躑躅ヶ崎館図」(村田修三編『図説中世城郭事典』第二巻所収)で位置を示せば…


ご覧のとおり天守台の東面【A】の位置に、高さ的には石垣の総高の中ほどに「転用石」がありまして、一見したところ石灯籠か五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の台座か中台、それとも何かの基壇を断ち割った一部のようにも見えます。

天守台は草におおわれた部分が非常に多く、「転用石」がこれだけなのかは分かりませんでしたが、こうした「転用石」と言えば、いきおい織田・豊臣の重臣らの居城(=福知山城、大和郡山城など)がまず頭に思い浮かびました。

そこで、はたと、徳川の家臣が築いた城の石垣に「転用石」は?…… と記憶をたどっても、その場では思い出せなかったものの、例えば彦根城とか、明石城とか、他にも例が無かったわけではありません。
――― ただしそれらは天守台そのものには使われておらず、その意味ではご覧の躑躅ヶ崎館の例は珍しいもので、もしこれ以外にも何個もの「転用石」が見つかれば、それこそ「平岩親吉の増築」という推定がゆらぐ可能性もあるのではないでしょうか。




次いで図【B】の隅角部ですが、天守台は南東側4分の1強の範囲が、ご覧のような高さ140センチ前後の低い石垣で一段高くなっていて、この上が「9間四方」の広さがあり、この石垣の北面と西面(の高石垣に近い方)に間口一間ほどの登壇口が一箇所ずつ(また私は確認できませんでしたが、高石垣の南面にも中曲輪=本丸内部との直接の連絡用らしき登壇口が一つ)設けられていて、穴倉の類いは無いようでした。

天守台上に礎石の有る無しも分かりませんでしたが、北と西の登壇口がちょうど対照的な位置に設けられるなど、規則正しい印象がありまして、これはただの単なる一段高い壇ではなくて、やはりこの上に、建物がぴっちりと載せられていたことを感じさせるものでした。


躑躅ヶ崎館の天守台(東面)        甲府城の天守台(北面)


そこで試しに、ご覧の石垣と、甲府城の天守台の石垣とを並べて見比べてみますと、甲府城の方が、所々にはるかに大ぶりな石を入れて圧倒的な迫力を出しているうえに、そうした「鏡石」など、割り石を使ってより平滑に仕上げた点が違っています。

その意味では、やはり躑躅ヶ崎館の方が野面積みの古相を示しているのでしょうが、それでもご覧のとおり、石垣全体の雰囲気はけっこう似ておりまして、両者はそれほど時期の差をおかずに築かれた石垣どうしではないのか… という気がしてなりませんでした。


以上のごとく、もしもご覧の躑躅ヶ崎館の天守台の歴史的な位置づけが解明されるならば、それが甲府城「天守」のゆくえにも、大きく関わって来るような予感がしておりまして、とりあえず現状では、甲府城の天守台の方をもう少し、厳密に見つめ直してみるのもいいのかもしれません。

(※次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年06月12日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か





近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か


西南戦争時の熊本鎮台 司令長官・谷干城(たに たてき/かんじょう)少将

籠城前の撮影か          籠城戦の翌年の撮影



前回に続いて「熊本城」についてお話してみたいのですが、やはり熊本は震災のことがありますから、櫓や石垣が崩れ落ちた熊本城に関しても、その「復旧」以外の話題はなかなか話しづらい空気があります。

しかし、だからと言ってこのまま城が復旧する予定の20年後まで、ずっと熊本城を正面から語れない、というのは城郭ファンにとって全く不幸な話ですし、今回のブログ記事はあえて「復旧」以外の話題として、冒頭写真の、西南戦争で熊本城に籠城して西郷隆盛軍と戦った谷干城少将(当時40歳)に焦点を当ててみたいと思うのです。


昭和11年刊行の古川重春著『日本城郭考』掲載の天守台の図


さて、まずこれは前回のブログ記事でもご覧いただいた図で、籠城戦が始まる直前(谷干城が籠城を決意した5日後)の明治10年2月19日、突然、ナゾの出火で本丸の天守や櫓・御殿が全焼してしまい、焼け残った天守台の様子をその後になってから描いたものですが、この上に昭和35年、前回話題の鉄骨・鉄筋コンクリート造の外観復元天守が建てられました。


で、この図と同じように、天守台だけの状態の「古写真」もあるのではないかと、前回記事を書いているなかで探したところ、どの本にもそういう写真は載っておりませんで、一瞬、アレッ?と思ったのですが、それも当然のことでした。

(※唯一見つけたのは『決定版 よみがえる熊本城』掲載の大林組の記録写真でして、大林組は上記のコンクリート天守の建設も手がけ、その前後に天守台の記録写真を多数撮影し、そのことが今回の受注にも役立ったそうです。しかし一般的には…)


絵葉書「熊本百景 第六師団司令部の前」

(※休業中?のアンティーク絵葉書専門店「ポケットブックス」より)

例えばご覧の場所は左端が宇土櫓で、右端が頬当御門の位置であり、この先の本丸周辺は、昭和20年の敗戦までは帝国陸軍・第六師団の司令部が置かれていて、ここから先の天守台のあたりは、まさに司令部の建物の真ん前になり、軍の許可無くしては何人も立ち入れない領域でした。


やはり同じ場所で行なわれた第六師団の凱旋パレードの報道写真


このように、頬当御門を正門とした師団司令部の姿というのは、明治4年の「熊本鎮台」設置までさかのぼる可能性があり、しかも富田紘一先生の研究によりますと、頬当御門の外側(西側)の広大な「西出丸」や「奉行丸」「数奇屋丸」「飯田丸」の櫓や門は、明治10年の籠城戦の開始までにことごとくが撤去され、まさに頬当御門から内側にしか櫓等は無かったそうです。

そんな中で突如起きたのが、前述のナゾの出火による本丸全焼であり、その火災の飛び火で城下町全域をのみ込む大火が発生したうえ、鎮台側も積極的な「清野作戦」を加えたそうで、結果的に熊本城と城下は、開戦前にすでに一面の焼け野原と化してしまい、その城側を写した写真は残っていませんが、おそらく城の高い櫓として見えたのは「宇土櫓」「竹丸五階櫓」のたった二基だけ!!… というトンデモナイ状態で開戦を迎えたのでした。


こんな悲惨な状態で、籠城戦を敢行した司令長官・谷干城の真意とは??


(※当図は富田紘一先生の研究を参考にしながら作成)

このことは、ほぼリアルタイムの明治10年8月刊行の『西南戦争記事』という本でも、その問題の日には「人民の悉(ことごと)く東西に退きしを見て 三発の号砲を相図に城内の天主閣を焼払ふ。時しも西北の風烈しく 見る見る坪井千反畑等の塲家に延焼し」「城の存する処ハ 櫓二棟 土蔵一棟のみ」という有り様で、鎮台側の強権発動の様子がはっきりと伝えられています。




<「放火」という手荒な手段の「城郭改変」が行なわれたのか?…>




現代ではややもすると、<加藤清正の築いた鉄壁の大城砦・熊本城が、西郷軍の猛攻をみごとにはね返した!> などと語られたりすることが多いわけですが、ここまでご覧いただいた現実の熊本城は、そんな話とは雲泥の差でありまして、しかもそこには <加藤清正の築いた鉄壁の熊本城> をあえて否定する明治の軍人たちの行動が、いくつも重なっていたことをお感じになったのではないでしょうか。


―――では、そんな籠城戦を指揮した「谷干城」とはどういう人かと言えば、土佐藩の上士の出身ながら、禄の低かった父親に「京都の御所の塀にもたれて死ね」と育てられ、幕末の倒幕運動(薩土同盟など)に加担した若者であり、そんな生い立ちから「四民皆兵(国民皆兵)」論者でした。

自ら「頑癖(がんぺき)」と語り、同じ土佐出身でも華やかなタイプの板垣退助とは犬猿の仲で、かえって長州の山県有朋と馬が合ったらしく、やがて戊辰戦争では新政府軍の一将として転戦し、甲府での仇敵・近藤勇の捕縛や会津若松城の攻撃などに加わりました。


新政府軍の砲撃をうけた会津若松城天守(ウィキペディアより)


戊辰戦争が終わると、薩長や板垣らが権力闘争を始めた新政府からの誘いを断り、土佐に帰って、土佐藩の兵制改革のためフランス軍の砲兵少尉(!)を招くなどしていた点が興味深いところでしょう。

まもなく再び陸軍に加わると土佐出身でただ一人の陸軍少将になり、征韓論をめぐって新政府が分裂すると、四民皆兵論者の谷は当然のごとく政府側に立ち、そんな谷に(後述の神風連の乱など)不平士族の反乱が相次ぐ九州の守り(=熊本鎮台)が託され、陸軍卿の山県有朋は「萬死の中に在るも熊本城は必ず之を保持せざる可らず」と伝えたそうです。


ですから例えば城南隠士著『谷干城 武人典型』(明治44年刊)という本には、籠城戦を決意した谷の檄文(げきぶん)?が載っておりまして、熊本市民の皆さんにはまたショックな内容が含まれるものの、現場の指揮官の心理をさぐる上では参考になりそうなので、長文ながら引用しておきます。

(※文中の「賊」はもちろん西郷軍のこと)



(『谷干城 武人典型』160頁より)

明治十年二月十四日 熊本鎮台にてハ 鹿児島私学校の徒 暴挙す可きの形跡顕然(けんぜん)たるを以て 此日 谷将軍ハ将校を本台に会して戦略を議すると左の如し


本台防戦の事に於てハ 進んで賊を薩界の険に要撃し 或ハ之を半途に迎撃するの策なきにあらず

然(しか)るに当城の兵 昨年十月 神風黨(しんぷうとう=神風連の乱)不意の襲撃を受けしより兵卒の気魄未だ全く当時の勇悍(ゆうかん)に復する能ハず

而(しか)して賊徒ハ素より強兵の名あり 且つ其怒気の発する処容易に当り難からん

如之(しかのみ)ならず県下の士族 賊に声息を通じ 予謀(よぼう)する所あるものの如くなれば 進んで賊を防ぐの際 別賊 脚下に生ずるの憂(うれひ)なきにあらず

其上 殊死(しゅし)の兇賊を平野に防ぐハ 固(もと)より其必勝を期し難し

一旦城外に迎へ戦ひ 萬一敗(やぶれ)を取る時ハ 兵気沮喪(そそう)して大に賊勢を長ずるに至らん

巳(すで)に沮喪するの兵を以て始めて守城を謀る時ハ 遂に堅守を期し難し

先きに陸軍卿(=山県有朋)ハ余に許する 攻守共に適宜にす可き の命を以てす

此れ本台の存亡ハ西国一般の人心に関するを以て 務めて万全を期するの意に他ならず

余は断然 守城の策を決し 賊を堅城の下に苦め 東京の援軍来るを竢(ま)ち 力を併せて賊を討ち 一挙に之を撈蕩(ろうとう)す可し

是れ実に周亜夫(しゅう あふ)が七国を苦しむるの策なりと




谷の必死の形相が見えそうな檄文のうち、神風連の乱(しんぷうれんのらん)は前年の明治9年に熊本で起きた士族反乱事件ですが、この時には熊本鎮台の種田政明司令長官が殺害され、その後も鎮台内(熊本城内!)で二日間の戦闘が続き、鎮台側の死者約60名、士族側の死者124名を出して鎮圧した事件でした。

そして鎮圧後に再度(二度目の)司令長官に着任したのが谷であり、上記文書に「別賊 脚下に生ずる」とあるとおり、彼は城外の戦闘では西郷軍に呼応した地元士族のゲリラ攻撃を受ける危険を感じたらしく、九州一円が騒然とする中での、孤立無援を覚悟の籠城であったことが分かります。

現に鎮台兵はそうとうに西郷軍や熊本の士族からバカにされたようで、熊本城址保存会が昭和4年に刊行した『西南役と熊本城』には、鎮台兵の生き残りの証言として「我輩が下宿から馬に乗って兵営に出勤する途中など、町の子供が竹の棒などで馬の尻をベタベタ叩き「くそちん…」と冷笑したものだ。「くそちん」とは糞鎮台と云ふ意味だ」と。


そんな鎮台兵(徴兵軍)を鼓舞して戦わざるをえなかった谷の心中は破裂寸前でしたでしょうし、この檄文の最後にある「周亜夫」とは、中国・前漢時代の内乱「呉楚七国の乱」の鎮圧に大活躍した将軍だそうで、呉王ほか七国の王が起こした反乱を鎮圧できたことで、その後の漢王朝はいっそうの中央集権化を果たせたと言いますから、この時の谷の情勢判断をうかがわせる一言です。




さて、両軍の兵力は、記録によって差があるものの、前出『西南役と熊本城』によれば、鎮台守備兵の合計3318名(野砲6門、山砲13門、舊砲7門)に対して、西郷軍の合計2万9100余名(山砲28門、野砲2門、臼砲30門)とあって、しかもなんと、西郷軍の中心人物・桐野利秋(きりの としあき)は熊本鎮台の初代の司令長官でもあり、その桐野が鎮台攻略を強く主張して戦闘が始まりました。

すっかり様変わりした熊本城に桐野は驚いた(拍子抜けした?)ことでしょうが、いざ攻めてみると、激戦は最初の二三日だけで、とても攻めきれない、と西郷軍は判断します。

それも『西南役と熊本城』の藤津参謀長の談によりますと、政府の援軍の来襲に備えたのか「(西郷軍が)攻城に用ゐた数は四千人位に過ぎまい」というのが実態らしく、「守城軍には野砲六門と山砲臼砲を合せて二十四門あるに引代へ、薩軍は僅(わずか)に六門」「そして内四門の砲は花岡山、島崎、安巳橋、長六橋と云ふ方面に据ゑ、二門は予備」「斯かる堅固なる熊本城を屠(ほふ)るのに僅に砲六門とは情ない」という風に、西郷軍は、持てる大砲の十分の一しか! 鎮台攻めに投入しなかったそうなのです。

それはいったい何故か、よほど熊本鎮台を甘く見たのか、甘く見えてしまったのか、それとも逆に、西郷軍の限られた弾薬において、暖簾(のれん)に腕押しの、底なしの徒労感に嫌気(いやけ)がさしたのか―――


【追記】赤紫の囲い文字が鎮台側の砲兵陣地

(※『西南役と熊本城』による/ →近世城郭の縄張りとは無関係に分散させていた!!)




<谷干城がねらったのは、たとえ城櫓が焼け落ちても、それは「落城」ではない、

 というコペルニクス的な一大転換だったか>




このあと西郷軍の主力は、有名な田原坂の戦いなどに転戦して行き、その後の50日にわたる熊本鎮台の籠城戦の方は、ナゾの本丸全焼でうっかり糧食も焼いてしまったことによる「飢え」との戦いに終始しました。


さて、これまで当サイトでは、江戸初期に「天守」の時代の終焉(しゅうえん)宣言を行なった人物として、奇しくも会津若松城主の、保科正之という人に注目してまいりました。

が、ここでもう一人、近代戦における戦術上の緊急性から(※明治維新の政治的なパフォーマンスではなくて)「近世城郭」に積極的な終止符を打った軍人として、谷干城という人物が、もっと注目されてもいいように感じます。


と申しますのも、会津若松城攻めに加わった谷が、砲撃の的として天守や高い櫓ほど格好のものはない、と感じたのは疑いないでしょうし、白虎隊の例からしても、砲撃によって黒煙をあげる城の姿は、味方に「敗色」を感じさせることこの上ない…(とりわけ徴兵の鎮台兵にとっては)と痛感したのではなかったでしょうか。

そこで谷が決断したのは、ならば開戦前にそんなものは全部無くしてしまえ、という大胆極まりない行動であり、良く言えば、城櫓が焼け落ちてもそれは「落城」ではない、というコペルニクス的な一大転換がはかられ、そこから近代戦での籠城戦勝利をねらったのではなかったか、と想像するのです。


ご参考)近代戦での砲撃に備えて、砲撃目標を無くした「稜堡式築城」の五稜郭


かくして、開戦前の突然の本丸全焼というのは、これはもう、谷らの意図的な「放火」によるものであったのは、ほぼ間違いないだろうにも関わらず、それが今日までずっと“ナゾの出火”とされて来たのは、ひとえに谷自身が(その後の政界での活躍等は『谷干城遺稿』他でつまびらかなのに)問題の出火の原因だけは、ついに一言たりとも語らなかったためでしょう。

本来ならば、日本史上(城郭史上)に残る輝かしい戦歴なのですから、これを自慢のタネにしてどんどん語ってもよかったはずなのに、出火の経緯については一切、口をつぐんでしまったのは、何故なのか。


……… 今回の記事では何冊もの本を参照させていただき、その中には『熊本城を救った男 谷干城』という文庫本もありましたが、以上のとおり、谷は熊本城の名城としての「名」は救ったかもしれませんが、城そのものは大いに破壊し、焼き尽くし、城下も焼け野原にした“張本人”と言わざるをえません。

おそらく谷は、東京に無断で「鎮台」に放火したのであり、そのことと西郷軍の火力(実際の大砲の数)を過大評価してしまったことが、その後に、出火の経緯について口をつぐんだ動機だろうと想像するのですが、自ら「頑癖(がんぺき)」と語った谷が、もとは土佐出身の勤王派だった、ということが、色んな面から、熊本城天守の焼失につながったように思うのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年05月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧





これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧


5月から始まった熊本城天守の解体・復旧工事の該当部分(熊本市より)

(※この該当部分の表示のしかたが正しいのかは、記事の後半で…)




あの震災からの復興の“旗印”という大きな意義はあるものの、当ブログが予想したとおりの「事態」が具体的に動き始めました。

各報道によれば、朝日新聞デジタルで「熊本市は天守閣を復興のシンボルと位置付け、2019年までの復旧・公開に向けて作業を進めている」、産経ニュースで「大天守は昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、6階部分は鉄骨造りで耐震性が劣っていた」、そしてYOMIURI ONLINEで「最上階の解体は6月頃に完了し、8月には再建作業が始まる」のだそうです。


で、この工事を受注した大林組のホームページによれば…

事業期間(※1)大天守:2016年11月〜2019年3月(29ヵ月)
        小天守:2016年11月〜2021年3月(53ヵ月)
事業費(※1) 設計業務費:308百万円(税抜)
        建設費:6,334百万円(税抜)
(※1=プロポーザルで提示した事業期間および事業費)


部分的な解体・復旧でも建設費63億円!(税込68億円)だそうで、ここに解体費用は含まれているのか分かりませんが、これらは結果的に <現状のコンクリート天守は守り切る!!> という政治的インセンティブが、市政のうえに強烈に働いたことがうかがわれる事態でありまして、これでおそらく、熊本城のコンクリート天守は、今後100年間は存続する、と、この場で言い切っても間違いにならないのではないでしょうか。

そしてむしろ今回の動きは、ある種の「説話」「伝説」の類い(→いちはやく復活した熊本城天守、云々…)となって、復旧するエレベーター付き耐震化コンクリート天守は、熊本市民の間で未来永劫(みらいえいごう)、存続していく可能性さえ、感じられて来てなりません。





このことは昨年、『日本から城が消える』で加藤理文先生が心配された城郭遺産の未来像とはうらはらに、各地のコンクリート天守は、地元自治体があらゆる手段(→部分改修のくり返し等)で延命化をはかり、欧米ではなかなか見られない建築カテゴリーの「コンクリート天守」が、この先も我が国で永久(とわ)の命を得てしまうのでは…… と当ブログが危惧した状態に向かっているようです。

現に、見れば見るほど興味深い大林組の技術提案書によりますと、今回のすばやい復旧は「熊本地震発生から2年後の平成30年4月には4階以上の足場を解体し、ライトアップを再開することで熊本城の復旧を力強く発信します」などと、政治的な効果を最大限にねらったものであることが分かります。


大天守の工事が終わる平成31年3月の進捗状況の予想図!!(技術提案書から引用)

(東側状況)


(西側状況)→ 小天守台の石垣は一旦、全周にわたって撤去!!!


(南北断面図)


小天守の北面・西面の近況写真


(※小天守台の穴倉は崩壊の激しい動画報告があるものの、被害の詳細は分かりません)


昭和11年刊行の古川重春著『日本城郭考』に掲載の図(左側が大天守台、右側が小天守台)

→ 熊本城の天守台石垣は、日本の城を代表する「文化財」であることは明らか




――― かくのごとき荒療治のアクロバット的な現代工法が展開されるのだそうで、そのなかで例えば、小天守台の外面や穴倉の石垣はどこまで正確に復元できるのか??(崩壊の具合も分からず、技術提案書ではなんと、新しい石材との「取替率」が墨塗り!!…になっている、など)まったくもって分かりません。

ここまでやるのなら、いっそのこと、この機会に、小天守台の下を「発掘調査」してみれば、加藤清正時代の熊本城がもっと良く分かるはずなのに、と私なんぞには思えてならないほどです。…


小天守台がまだ無かった当時(=加藤清正の存命中)を推定した当ブログ記事のイラスト

このイラストの左半分の側に、二代目藩主・加藤忠広が小天守(台)を増築したことになる



かくして熊本城では、再来年の3月には大天守が復活する、という「コンクリート天守」ならではの超スピード復旧がなされるのに対して、文化財の修復になるはずの城全体の「石垣」「櫓」を含めた場合は、熊本市の試算で総額634億円、20年後の完了を目指すと市長が宣言したものの、それでは終わらないのかも… という声が一部にあるほどです。

(※ただし、災害復旧事業はかなりの部分が、国からの補助金でまかなえるのだそうですが)


最後にもう一言、これを申し添えないわけにいかないのが、今回、大林組の関係者の皆様が数多くの「最善」を尽くしておられるのは、技術提案書を拝見しても推察できるわけですが、私が申し上げたいのは、そうした「最善」の数々が、すべて、すべて「コンクリート天守」を存続させてしまう(=我が国の社会・歴史上にそれを「固定化」させてしまう)ことにつながるのだ、という、真っ黒い、落とし穴のごとき「矛盾」を申し上げておきたいのです。

……… 改めて、コンクリート天守の「魔力」を思わざるをえない状況にあります。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年05月19日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」





目的地は“東アジアの下克上”か?…満洲族と日本の17世紀「新興軍事政権」


大砲を持たなかったヌルハチの満洲「八旗」兵の寧遠城 攻め / 城壁を崩した!?…


先月の記事では、澁谷由理著『<軍>の中国史』で「兵士や軍人は不人気なうえにきらわれる存在であったし、現在でも庶民からじつは畏怖敬遠されている」という風に、中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史があることをお伝えしましたが、そんな中でも、最後の帝国・清朝(満洲族)の「八旗」制度の兵だけは、ちょっと違ったニュアンスで紹介されていました。


(澁谷由理『<軍>の中国史』2017年より引用)

清朝のつよさの一因としてかならずあげられる八旗(はっき)制度は、ヌルハチがはじめたことになっている。(中略)一色につきふちどりのない旗とある旗との二本をつくった。
たとえばふちどりのない黄色い旗(およびそのグループ)は「正黄旗(せいこうき)」、同色でもふちどりのある旗は「鑲黄旗(じょうこうき)」、というように区別され、四旗の二倍であるから「八旗」である。





(引用の続き)

戦時には各旗、およびそれ以下の単位にも、役割を分担させて複雑な戦法をとることができた。
ふだんから生活をともにする仲間どうしで部隊が形成されているので団結力もあり、満洲人躍進の原動力となった。

(※「旗」の下の組織単位である)ニル・ジャラン・グサの長は平時においては行政官、戦時においては指揮官であった。日常生活と従軍生活とのメンバーを一致させるしくみは金朝の猛安・謀克の制とおなじだが、時代がくだったためもあり、さらに整然としている。



!… 日常の行政官と戦時の指揮官が同一人物で、しかも日常生活と従軍生活のメンバーがいつも一緒とあっては、兵に対する「蔑視」など、起こりようが無かったのかもしれません。

そんな「八旗」制度の生活を想像するには、日本で言うなら江戸時代の「五人組」とか昭和の戦時下の「隣組(となりぐみ)」などを連想しそうですが、最小単位の「ニル」が兵士300人程度を出せる集団だったと言いますから、規模はケタ違いに大きく、例えばソ連の実験的な集団農場「コルホーズ」の構成人員は60人程度だったそうで、それよりさらに一ケタ以上、大きな集団だったことになります。

では何故、そうした軍の全体が「八つ」の「旗」だったか、と言えば…



杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』2015年(第5回 三島海雲学術賞 受賞)

懐徳堂記念会編『世界史を書き直す 日本史を書き直す』2008年

 

『大清帝国の形成と八旗制』261頁の「巻狩の陣形」の図から


(『大清帝国−』より引用)

八旗の左右翼の区分・序列は、一見すると無原則にも見えるが、このように黄旗を北として南面して翼を閉じた場合、左翼すなわち東方に白旗、右翼すなわち西方に紅旗、そして南方で翼端の両藍旗が合わさって、円陣を構成するようになっているのである。

この中軍すなわち囲底をフェレ(fere)、両翼をメイレン、翼端をウトゥリ(uturi)といい、囲猟の基本型は囲底を中心とする五隊編成で、翼端のウトゥリが合同して包囲陣が完成すると、四面になるのである。

(中略)
狩猟とはすなわち戦闘訓練であるので、これは実戦における包囲戦時の基本配置でもあった。


という風に、前々回の記事からご紹介してきた同書では、実際に、二代目ホンタイジの軍勢が遵化城や大凌河城を包囲した際、この色の配置どおりに城を包囲した記録が紹介されていて、したがって「八旗」とは、狩猟の陣形からヒントを得た初代ハンのヌルハチが、それを軍の編成から社会の統治手法まで一貫させた(ちょっと無茶な感じもする…)壮大な国家制度であったようなのです。


で、私が上記2冊の本に興味をもったのは、藤田達生先生の著書『天下統一』のあとがきに「杉山清彦氏の研究によると … 大清時代の八旗体制(旗とは大名家中、藩に相当する)と江戸時代の幕藩体制との類似点が注目されている」とあったからでして、上記2冊のなかで杉山先生は清帝国(正式な国号は大清)について、歴代の帝国とは決して同列に語れないものであり、当時の世界情勢やアジア情勢が生み出した、特異な「新興軍事政権」なのだと主張されています。

とりわけ、上記左側の大著での満洲族(マンジュ=大清グルン)に関する情報量の多さには、私なんぞは到底、付いて行けるわけがなかったものの、その論述の大枠のねらいに対しては、私なりに大きな共感をおぼえました。


(『大清帝国−』386頁より引用)

大清国家の形成とその特質を一六〜一七世紀のアジア大・世界大の政治・社会変動の一環として捉えることが、中国近世史や日本対外関係史の分野から提起されている。

すなわち、倭寇・海商勢力や明の辺境軍閥、またモンゴルあるいはジュシェン
(※女真)勢力を、「民族」や「国籍」で区分して考えるのではなく、国際商品と銀をめぐる辺境の交易ブームの中でこの時期に形成された新興軍事勢力と把握し、続く一七〜一八世紀を、それらのなかで勝ち残った者が主催者となった近世国家の並存の時代と捉えるのである。




(引用の続き)

私は、八旗が基本的に軍事組織であることの重要性を充分認めつつも、それと表裏一体のものとして国家組織そのものでもあったこと、そして入関(※山海関の突破)以後も引き続き帝国支配の人的中枢たり続けたことをも八旗制のうちに読み込んで、あらためてこれが大清帝国形成の原動力であり、支配の中枢であったことを主張したい。

かかる意味において、当時のユーラシア東方各国の新政権の特徴として村井
(※村井章介)が指摘する、<軍事行動を前提に組織された規律ある社会組織>なる表現の有効性が注目されるのである。

これこそが、大清帝国の根幹をなす八旗制の世界史的意義に他ならない。


(※印は当ブログの補足)


 


そして、ヌルハチ発案の「八旗」制と徳川幕藩体制がよく似ていた、という点については、同じく杉山先生の、上記右側『世界史を書き直す 日本史を書き直す』所収の「大清帝国と江戸幕府 −東アジアの二つの新興軍事政権−」に詳しい説明があります。

その主な類似点を抜き出しますと…

■八旗と幕藩はともに封建的な集団の集合体で、明の完全な官僚制とは異なる

■皇帝は正黄・鑲黄・正白旗だけを率い、徳川将軍も最大の大名として君臨した

■そして譜代と新参の序列については「官位」を与えて秩序づけていた

■さらに親藩・譜代の中でも「旧満洲」「御三家・三河譜代等」は別格とされた

などの点が、いくつも似ていたと言うのです。


ところが、そんな杉山先生も認めるとおり「むろん、似ている似ているといっても、お互いが影響を与えあったり一方が他方を模倣・借用したという関係は、いうまでもなく一切ありません。(同書)」という無関係の間柄であって、しかも長子相続の有無だけは全く逆だったそうですし、両者はやはり、日本海をはさんで、ほぼ同時進行で天下統一をなし遂げた「新興軍事政権」同士であった、としか言えないそうなのです。!


それはまさに、同時進行で、あまりにも近くで、規模も同じ程度で始まり…





かくして、両者の体制が「似ていた」という現象は分かっても、「なぜ似たのか」というメカニズムはいま一つ、解明しきれない感もある八旗制と幕藩体制ですが、そのあたりを私なりの読後感から申し上げるならば、両者の共通項として、少数の満洲族が多数の漢族を従えた清帝国と、徳川の親藩・譜代が外様の大名や領国を従えた幕藩体制、という点に着目するなら、おのずと「支配の二重性」という共通のキーワードが頭に浮かびます。

それは例えば…


武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台

その天守台の現状(南面)

(※ご覧の写真はサイト「古城の歴史」様からの引用です)


突然ですが、天守ファンのひそかな関心の的(まと)… ご覧の躑躅ヶ崎館に残る「天守台」は、織田信長軍による武田氏滅亡や本能寺の変のあと、甲斐を支配した徳川家康(※平岩親吉)の頃に築かれたとされるもので、現在、周辺は武田神社の立ち入り禁止区域のため竹林におおわれ、調査もされて来ておりません。

が、いずれにしても、この天守(台)というのは、戦国の雄・武田信玄のかつての居館内にドカッと「鎮(しず)め石」のように載せられた存在でありまして、その意味では、織豊政権下の新たな支配者の出現を(地侍らに)見せつけるための建造物でしょうし、当時の姿はきっと、甲斐国内の「支配の二重性」を強烈にアピールしたのではなかったでしょうか。…


このように、なんでも天守の話題に引きつけてしまうのが私の悪いクセですが、八旗制と幕藩はなぜ似たのか? という直接の「原因」を素人なりに想像しますと、その形が、各地の新支配地での「支配の二重性」に適した(即応できる!)封建的な軍の制度であり、国家制度でもあった、と考えることも可能なように感じたのです。


そうなりますと、類似性の原点は <織田信長> に求めた方がいいのではないかと思うわけでして、足利義昭の追放後、各地で広がる戦闘において、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益(+徳川家康!)を司令官とする「方面軍」を組織していた信長は、自分の死後の、大陸での清帝国の膨張ぶり(のメカニズム)も、どこか予見していた節があるように思えて来てなりません。

それはもちろん、 夷狄(いてき)が中華に取って代わる「華夷変態(かいへんたい)」を覚悟したものでしょうし、そんな信長の発想の中に、すでに <東アジアの下克上> の「芽」があったと感じるのは、過去に朝尾直弘先生のこんな文章もあったからです。…



(朝尾直弘「東アジアにおける幕藩体制」/『日本の近世1』1991年より)

信長は武家政権の継承者として、その権力の伸張の段階に応じ、天下をときに禁裏(朝廷)とほとんど同義に用い、ときに拡大して北海道と沖縄をのぞく列島とその住民の意味で用い、さらにすすんで「信長に一味することが天下のためであり、自他のためである」との論理でもって、天下と自己との一体化をはかった。 

こうして、野蛮な武力による夷(えびす)が天下人になったとき、日本列島における華夷の価値秩序が逆転した。

武家権力を抑圧しつづけてきた伝統的な価値秩序が崩壊するとともに、天下人の眼がこの秩序の本家である中華に向けられたのは避けられないことであったのではなかろうか。折から世界の拡大とともに、天下人の天下も天の下というそのことばの意味どおり拡大した。

武力による大陸侵略は、そこに起きた。




やはり彼らのエネルギーは、華夷秩序の逆転(=東アジアの天下布武)に向かわざるをえなかった?

ヌルハチが生れた1559年、まだ信長は、上洛して13代将軍・足利義輝に謁見していたが…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年05月04日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応





肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応


ウサマ・ビン・ラディンの遺体をアラビア海に投棄(水葬)した米空母

カール・ヴィンソン, CVN-70



この空母の接近に対して、朝鮮労働党の機関紙・労働新聞は、こともあろうに、

「太って肥大した変態動物を一撃で水葬してしまう戦闘準備を整えた」と……




この21世紀にあって、知らない、知らせない、伝わってない、という事態の怖さを、ひたひたと感じる日々が続いております。

そんな状態をよそに「城」「天守」関連の話題を隔週でお話している当ブログにおきましても、前回の予告では杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』等を通じて織田信長の「天下布武」について取り上げる予定でしたが、目下の韓国大統領選もふくめた情勢は、上記タイトルの話題を、ここで一回、はさんでおくべき様相を呈しているようです。

と申しますのも、今回、<肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応> というタイトルにしましたのは、2011年度リポート「そして天守は海を越えた」を作成した当時、豊臣政権の軍勢30万余の集結・発進基地として築城された肥前名護屋城の威容をもってしても、朝鮮側には開戦前に事の重大性や緊迫感がほとんど伝わらなかった点を申し上げたものの、その原因については、あまり言及できませんでした。


2011年度リポート「そして天守は海を越えた」より

漢城(ソウル)と肥前名護野城との距離は約500km(肥前名護屋−大阪間とほぼ同じ)

肥前名護屋城を描いた当サイト推定復元イラスト


しかしその後、日朝関係の記事や本などをパラパラと目にするうちに、朝鮮側の危機意識の低さが生じた原因として、儒教を国教とした李氏朝鮮の、驚くほどの対日認識が作用していた可能性が感じられました。

とりわけ、下記の河宇鳳(ハ ウボン)著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』(2008年刊)という本では、李氏朝鮮のいわゆる「小中華思想」への傾斜と固執が、すでに、日本をまともに見る目を無くしていた実態が紹介されています。




ちなみにこの本は韓国で、韓国の読者向けに出版された本の翻訳版ですから、著者がいかに日朝・日韓の交流史を冷静に検証してはいても、やはりその言葉の端々は、日本人としては決して心地良い響きでない!…ことをお断りした上で、それでもなお、総勢30万余の軍勢が終結した軍事都市(肥前名護屋城)の出現が、対馬海峡の対岸の半島では、何故ああも無反応(不感症)であったかの<秘密>をさぐる材料としては、有効だと感じました。


(上記書28頁より引用)

朝鮮は中華主義的な華夷(かい)観と事大朝貢体制から見れば「夷狄(いてき)」として分類される。

しかし儒教文化の面では、自ら中国と対等か、あるいは中国の次を行くものとして自負し、「華」と称した。文化的アイデンティティーの方向性を華夷観の中心部に積極的に向けていき、自らを中華と同一視したのである。

こうして朝鮮は自ら「小中華」と称し、中華である明と一体化する一方、周辺国家の日本・女真・琉球を他者化し、「夷狄」とみなした。
これが、いわゆる小中華意識である。

この時期の朝鮮の人々の国際観念と自我意識をよく示しているのが、一四〇二年(太宗二年)に製作された「混一疆理(こんいつきょうり)歴代国郡之図」である。



混一疆理歴代国郡之図(龍谷大学蔵)



ちなみに、これを所蔵する龍谷大学のネット上の解説では…

「この地図は、明の建文4(1402)年、李氏朝鮮で作成されたもので、現存最古の世界地図だ。地図の下段に記される由来によると、朝鮮使として明に派遣された金士衡という官僚が、1399年に2種類の地図を国へ持ち帰った。それは李沢民の『声教広被図』と、仏僧である清濬の『混一疆理図』で、それらを合わせ、さらに朝鮮と日本を描き加えたものである」

ということで、ご覧の地図のうち、いちばん左端の湖のある半島はアフリカ大陸だというから驚きですが、明帝国の側はそんなつもりが無いのに「小中華」を自称していた李氏朝鮮が、こんな地図を意図的に作ったわけでして、上記書が注目したのは、朝鮮半島と日本列島の、逆転させた以上の極端な面積の違いです。


(上記書34頁より引用)

日本に対しては「倭寇の巣窟」というイメージがあり、知識人は華夷観に立脚して日本夷狄(いてき)観をもつようになった。これに加え、朝鮮時代前期には日本を「小国」として認識するようにもなる。

すなわち、朝鮮時代前期の日本認識には、日本夷狄観の上に「日本小国観」も含まれていたのである。

(中略)
十五世紀半ばに日本への通信使の派遣が中断したことで、朝鮮朝廷では日本の国内情勢に対する情報が不足し、辺境の情勢が安定したことも重なって日本に関心を向けない傾向がさらに強まった。


そんな「傾向」はやがて、韓国の国立中央図書館蔵の「天下地図」(18世紀初め)になると…



!! なんと、朝鮮半島の下によく見えるのは「琉球国」であり、日本列島は小島のごとくちっぽけに描かれるか、枠外に排除された地図が作られ、それらが朝鮮国内では「天下地図」と呼ばれる事態へと向かっていたそうなのです。

―――地図は雄弁だと改めて思い知らされますが、次の引用文はやや長文になるものの、是非ともご一読ください。




<朝鮮側の「日本小国観」を、応仁の乱や対馬・宗氏の「偽使」が助長したという指摘>




(上記書178頁より引用)

世祖・成宗代(※1455〜1494年)に至ると、両国の内政は一変し、日朝通交の様相に変化が見られるようになる。

朝鮮の場合、建国当初に比べて政治が安定し、統治体制が整備され、北方開拓を通じて対内的・対外的にも状況が安定していった。しかし、日本は応仁の乱に見られる内乱状態で、室町幕府の弱体化現象は著しくなっていった。

(中略)
この時期の日本の諸侯には、使行時の書契(※書きつけ)から朝鮮上国観ないしは朝鮮大国観が見られる。例えば、当時日本各地の使臣は、世祖を「仏心の天子」と称していた。(註:中村栄考「室町時代の日鮮関係」)

室町幕府八代将軍の足利義政(在位一四四九〜七三)の代に至ると、書契にも朝鮮に対する低姿勢がはっきりと表れるようになる。
具体的には朝鮮を「上国」といったり(『成宗実録』)、また、朝鮮の国王に対しても日朝間の国書で通常使用してきた「殿下」の代わりに「陛下」を用いたりしている。(『世祖実録』)

(中略)
「上国」や「陛下」といった用語は、抗礼国の間で用いられるものではなく、小国が大国に対して、あるいは諸侯国が宗主国に対して使用するものであるのはいうまでもない。

ただ、一四六六年から一四七一年の間に集中的に現れる、こうした室町幕府やそのほかの通交者の「朝鮮大国観」は、当時の日本がおかれていた切迫した状況や、あるいは最近の日本学界の研究で明らかにされたように、大多数の使節が対馬島主の派遣した偽使であるという点を考慮した時、額面どおりに受け取ることは難しい。

しかし、こうした日本の通交者の姿勢と態度が、朝鮮側の日本認識の形成に重要な影響を与えたであろうことは確実である。



最近話題の「応仁の乱」ですが、やっぱりね… というため息が出てしまいますし、自国内の視点だけで、歴史をああだこうだと論じていてはダメだ(危険だ)という思いにかられて来てなりません。

で、上記書に登場する朝鮮の知識人たちは、「儒教」に骨の髄まで染まっていたため、文化的に高度(中華と同一)であれば、国家は安全保障も含めて、すべてうまく行く、と完璧に信じ込んでいたようであり、下等な狢(むじな)の類いの東夷「倭人」の豊臣軍が半島になだれ込む(文禄の役/壬申倭乱)までは、具体的な防衛措置をほとんど講じませんでした。

そしてその30年後、同じく夷狄(いてき)とされた「野人」女真族(満洲族)は、『朝鮮王朝実録』の表現上では「夷狄というより禽獣に近かった」にも関わらず、そんな「野人」の二代目ハーン(後金・清の皇帝)ホンタイジの軍勢によって、朝鮮は物心両面に決定的な打撃=丁卯胡乱(ていぼうこらん)と丙子胡乱(へいしこらん)を加えられました。


「小中華意識」に青天のヘキレキ!!… 三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)の銅版レリーフ

皇帝ホンタイジに三跪九叩頭(さんき きゅうこうとう)の礼をとる朝鮮王・仁祖


(※三跪九叩頭…合計9回、土下座で地面に頭を打ち付ける、清朝の礼式)


1627年(日本では寛永4年)の丁卯胡乱(ていぼうこらん)は、文禄・慶長の役の被害から立ち直ってなかった朝鮮に対して、ホンタイジの後金軍が、わずか3万の軍勢で漢城(ソウル)にまで攻め込んだもので、ソウルの西沖の江華島に逃亡した国王の仁祖は、後金を兄、朝鮮を弟とする盟約を結ばされました。

10年後の丙子胡乱(へいしこらん)は、ホンタイジが皇帝に即位して国号を後金から清に改めたものの、朝鮮側は(帝国末期の)明への配慮からその即位を認めなかったため、ホンタイジ自ら10万の兵を率いて親征したものです。

国王・仁祖は、逃げ込んだソウル近郊の南漢山城から出て、平民の衣服に着替えたうえで、ホンタイジの三田渡(さんでんと)の陣中で「三跪九叩頭」の臣下の礼をとらされました。

この世にこれ以上の屈辱もないだろう、と思うハメに朝鮮国王がおちいり、その後、朝鮮の国民、とりわけ知識人らがどうなったかと言えば、あっと驚く展開に向かったのだそうです。


(上記書42頁より引用)

倭乱と胡乱を経た十七世紀前半、朝鮮思想界では極端な華夷峻別論が強調され、外来文化と民族に対して排他的な認識が深まった。

すなわち、朝鮮時代前期の小中華意識が「朝鮮中華主義」としてさらに強化されたのである。

その結果、受容の対象としての中国(清)、競争の対象としての日本、新たな文明圏である西洋、その三つのすべてを認識の対象から除外してしまった。言い換えれば、周辺諸国の「他者化」というより、他者の除外である。



!!――― あたかも、過度のトラウマが人間をどうしてしまうか、という人類史上の実験のようでもあり、民族的な“独りよがり”がここから始まったのかとも思えるほどの展開でして、歴史のif(イフ)として、もしも李氏朝鮮が「儒教」や「小中華意識」に国をあげて傾斜することが無かったなら、これほどまでに傷は深くなかったのでは… という、まことに勝手な想像を「倭人」の一人としては、せずにいられません。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年04月22日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。





「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、

 死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。





以前の当ブログ記事でも申し上げたとおり、現存する織田信長の「天下布武」朱印状のうち、いちばん最後のものは、下記の天正10年5月7日付け(奥野高廣著『織田信長文書の研究』より)だそうで、その一ヵ月後にはもう本能寺の変が起きるという時期に、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てた書状でした。


【神戸信孝宛朱印状】

  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、

右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿



という風に、信長は死ぬまぎわまで「天下布武」印を使い続けたわけでして、しかもこれから四国を攻め取ろうというこの書状にまで、神田千里先生や金子拓先生らが近年主張される「天下布武」の意味(→それは五畿内に足利将軍の治世を確立させることであり、足利義昭が将軍に就任した永禄11年に達成されたこと)のままの印判を押したというのは、やっぱり、おかしいだろ…… という素朴(そぼく)な疑問が、私なんぞは、どうにもぬぐえないことを申し上げました。


そして皆様すでにご承知のとおり、問題の「天下布武」の本当の意味については、もう一つの新説として、ある画期的な【アマチュアの指摘】がネット上をにぎわせております。

――― すなわち「天下布武」とは、『礼記』の皇宮を歩く時のマナー用語「堂上接武,堂下布武」の「堂下布武」をもじったものであり、この「武」には軍事的な意味合いはまるで無く、「歩く」と同義語であるため、その結果、信長がねらった「天下布武」を意訳すれば、<天皇や神仏等の既成の権威に捕らわれず、天意に沿ってわが道を普通に歩く> または <天下を闊歩(かっぽ)する> という意味になる、との驚くべき新説です。


とりわけこの新説は、二つのサイト(「平成談林」様と「Dagaya Blog」様)がほぼ同時期に言い出したところが面白く、しかも、かつて立花京子先生が「天下布武」を解釈した際の「武を布(し)く」という読み方に対して、そのような読み方は中国の古典には存在せず(!…)、言わば“和製漢語の読み方”なのだと批判している点は、まことに捨て置けない印象があります。




<言われてみれば、だれも「布武」の原典を確認してなかった?… 想定外の落とし穴>




では、諸先生方の「布武」の読み方を、ザッとふり返りますと…


(神田千里『織田信長』2014年 98頁より)

「布武」とは「武力が行きわたる」と解釈できるから、彼は「天下に武力が行きわたる」という標語を旗印にしたと考えざるを得ない。


(小島道裕『信長とは何か』2006年 38頁より)

もっとも、この時代の「天下」は、日本全国という使い方もあるが、むしろ京都を中心とする中央、畿内の意味であり、フロイスなど宣教師が用いる天下tencaの語も主にそのように用いられている。したがって、この「天下布武」の宣言も、中央を平定するという意味になるが、……


(立花京子『信長と十字架』2004年 37頁より)

まず初めに考えたことは、中国の古典に「天下に武を布き静謐と為す」というような語句があるのではないか、であった。
それをどうにかして見つけたいと願い、『論語』などをパラパラとめくってみたが、膨大な漢字の海から、そのような語句が簡単に見つけられるはずがない。

思いあまって、古典に詳しい友人の津田勇氏にこの悩みを話したら、氏はあっさりと「ありますよ」というではないか。
そして、私は、津田氏から、孔子があらわした『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』のことを教えていただいた。
『春秋左氏伝』の魯(ろ)の宣公帝の条に、「七徳(しちとく)の武」という語は存在した。



(朝尾直弘「天下人と京都」/『天下人の時代』2003年所収より)

信長は永禄十年(一五六七)ごろから「天下布武」の朱印をもちいていました。天下を武家の力で統一しようという戦略目標であり、スローガンでもあります。


ご覧のとおり、並みいる諸先生方の中で(かの朝尾直弘先生でさえも)「布武」の読み方について、中国の古典などに用例をあたってみた上で解説をされた先生は、おそらく一人もいらっしゃらなかったのではないか… そして先生方はもっぱら「天下」の意味(地理的な範囲)の方に100%の関心を向けてしまった、という、ちょっと恐ろしい状況が見えて来たのではないでしょうか。


もちろん「天下布武」は、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の第一座もつとめた禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とひっくり返した(『政秀寺古記』)と伝わるものです。

ですから、沢彦の知識が反映されたはずの「布武天下」に対して、「堂下布武」を連想した信長のシャレっ気が加えられて出来たのか、もしくは、ひょっとするとその時、沢彦の側から「堂上接武,堂下布武」の話が冗談まじりに伝えられたのか!??… そんな話を“面白い”と感じた信長の表情が、アリアリと、私の頭の中にふくらんで来て仕方がないのです。




で、かくのごとき新説が飛び出した背景には、パワフルな「検索」機能を使ってネット民が専門家の問題点をあぶりだした、2020東京オリンピックの「エンブレム騒動」を思わせる面もありそうなのです。…


(サイト「平成談林」様より引用)

自分は仏典と中国古典を徹底して調べようと、そのデータベースをチェックした。すると唖然としたほど意外に、簡単にその語源にたどり着けたのだった。

宋本廣韻:で「武」を調べると色々な例があるが、曲禮曰 堂上接武 と出ている。「天下布武」の語源となった、「堂下布武」は禮記(らいき)上の28にある。

(中略)
念のため、「武を布く」という言葉自体が中国の他の古典には在るのだろうか。結論としては 否である。諸子百家・雑家のどの書にも、全くその意味で使われた言葉は無いのだ。


(サイト「Dagaya Blog」様より引用)

布武とは「大股に歩く」の意であることが分かる。兵の行軍のように大股で歩くさまから「武」の文字を用いるらしいが意味するところは軍事とは全く無関係である。

さて、これをかの有名な「天下布武」に適用すれば「天下を大股に歩く」、意訳して「天下を闊歩する」と解することができる。



かくして「天下布武」とは「天意に沿って我が道を歩む」との意味であったのならば、そんな印判を信長が死ぬまぎわまで使い続けたことにも納得できましょうし、そうした姿に私なんぞは思わず(心の中で)拍手を送ってしまうのです。

そして私の最大の驚きは、「天下布武」にもこんな“シャレっ気”が込められていたのか、という点でありまして、思えば、自らの旗印に「永楽通宝」なんかを堂々と掲げた人ですし、自らを「第六天魔王」などと呼び、大事な跡継ぎの子らにも奇妙キテレツな命名をしたことを踏まえますと、自らの印判に“そんなことを”したとしても、何ら不思議ではなかったのかもしれません。




さて、以上のごとく、今回は【アマチュアの指摘】が「天下布武」に新たな光をあてた意義についてお話してみましたが、次回は、話題の【プロの著書】を通して「天下布武」をさぐってみたいと思うのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年04月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から





中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から





天皇を迎えに御所へと向かう関白の牛車(『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より)

前回まで三たび「聚楽第」の話題を続けてしまい、その中では故・足利健亮先生の「外郭」ラインに説得力が感じられ、そこに当てはめた『諸国古城之図』の「せまい本丸」が豊臣秀吉の築城時の本丸かもしれず、その後に二代目の豊臣秀次が、京大防災研究所が探査した「外掘」と一連のものとして、南北に縦長の本丸(内堀)を築き直したのではなかったか… などという勝手な推測を申し上げました。

これ以上、ここで勝手なことを申すつもりはありませんが、豊臣家による聚楽第の盛事というのは、いわゆる貴種の生まれでない織豊大名らが、戦国の世の勝ち抜きレースに勝った“祝祭”であったことは間違いないでしょうし、その一回目の聚楽第行幸は天正16年(1588年)の4月14日に始まりました。


映画「七人の侍」1954年公開より


で、突然ですが、日本映画の最高峰とも言われた「七人の侍」は、ご覧の菊千代の偽(にせ)系図をめぐるシーンから、この映画が<天正14年>を舞台にしていたことが分かります。

―――天正14年と言えば、秀吉が小牧長久手で戦った徳川家康をようやく臣従させ、翌年の九州遠征に向けて準備を進めていた頃であり、全国規模での勝ち組・負け組が決しようという状況が、映画の時代設定として選ばれたのでしょう。


映画はご存じのとおり、主家の滅亡で牢人となった初老の島田勘兵衛をはじめ、仕官や恩賞にもならず、ただ白い飯が腹いっぱい食える、という条件だけで六人(菊千代を入れて七人)の牢人たちが村人に雇われ、山奥の村を野武士から守るべく臨時の防備をほどこして戦い、一人また一人と死んでいく姿を描きました。

現在では私たち城郭ファンは「村の城」や島原の乱で籠城した牢人たちの存在をよく知っているわけですが、黒澤明監督がこの映画を準備していた当時は、こんな話は夢のような“ありえない”歴史的現象として監督や脚本家の目にうつったそうで、思わずこのネタ(設定)に飛びついたと言います。


時代の負け組として行き場を無くしたサムライが、おのれの技量に熱中できる場を与えられれば、そこが山奥の人知れぬ農村であっても、命がけでのめり込んでいくという「七人の侍」の特異な人物設定には、日本人として妙な説得力を感じてしまいます。

かく申し上げる私は、我が国の歴史上にサムライの価値観や行動規範があったからこそ、日本が日本たりえたのだと確信している一人でもあります。




その一方で、かの中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史がある、という興味深い新刊本を読み終えたばかりでして、その本によりますと、中国の有名なコトワザ「良い鉄は釘(くぎ)にはならない、まっとうな人は兵にならない」(好鉄不打釘,好男不当兵)は、中華人民共和国の建国(1949年)の頃までは日常的によく使われたそうです。…


澁谷由理『<軍>の中国史』2017年



全体を読み終えた感想としましては、出版社からの執筆依頼の意図(→ご覧の帯のキャッチフレーズ)のせいか、昨今の南シナ海の問題など、中国共産党の「私兵」である人民解放軍について、北京政府が完全にコントロールしきれない状態の“言い訳さがし”を、歴史的にふり返ったようにも見えてしまう点が、やや損なところのある本だなと感じました。


ですが、それにもまして、著者の澁谷由理(しぶたに ゆり)先生が指摘された、中国の歴代王朝は正規の「国軍」を編成し切れなかった歴史の繰り返しであり、そこでは常に「軍閥(ぐんばつ)」のごとき私兵集団が皇帝の直属軍を補完する立場にあって、時に犯罪者や流民・生活困窮者の収容先としての「軍」も機能していて、そんな素性の悪さから「まっとうな人は兵にならない」というコトワザが社会に定着していた、との論述は印象的でした。


(澁谷由理『<軍>の中国史』より引用)

儒学でもっとも重要なのは、家族の結合を基礎においた社会秩序の維持と、それを尊重する為政者の「仁徳」である。家族とは、生計と先祖祭祀を一にする共同体であるから、その永続こそが為政者に課せられた最大の義務である。
(中略)
収穫物をねらう外敵の侵入と農耕地の防衛は、つねにさけられない問題であり、じゅうぶんに安全を確保するためには兵力を増強しつづけるしかない。

兵力増強のためには、兵役従事期間をながくしなければならず、そうすると農地は十全には維持できない――王朝が農耕民からの徴兵にこだわりつづけるかぎり、解決策のない問題のようにおもわれる。

ところが皮肉なことにこの問題は、王朝(ないしは皇帝)が、最終責任を負わなければ解決するのである。つまり、王朝(皇帝)直属の兵にこだわらなければよい。…



ということで、農耕民を兵役につかせる「兵農一致」は古代の前漢時代に早くもほころび、その後は国防を「豪民」など様々な私兵集団に補完させる政治が繰り返されたそうで、そんな中では、かの曹操(そうそう)が、画期的でありながらも皮肉な結果をまねく政策を打ち出したようです。




(『<軍>の中国史』より引用)

「兵農一致」を維持しようとすれば財政破綻の危機があり、それを回避するために皇帝直属軍を削減すれば内乱をふせぎえないという、古代中国におけるジレンマは、かの『三国志』で有名な、曹操(一五五〜二二〇)のとった「兵農分離」政策により、出口を見いだすことになる。
(中略)
曹操は自軍を安定させるために、兵士とその家族を「兵戸(へいこ)」として、一般民(「編戸」)とは別のあつかいにした(独身の兵士にはむりやり妻帯させてまで「兵戸」をつくった)。

彼らに生活保障をあたえ徴税を免除するかわりに、永代(父子ないしは兄弟間でかならず欠員をうめる)の兵役義務を課し、兵士が逃亡した場合、あるいは反乱をおこしたさいには家族全体に重罰をくだすことにした。

(中略)
しかし特別な待遇をあたえられた「兵戸」も、けっして特権層にはなっていかなかった。一般人とは戸籍が区別され、生まれながらに家族もふくめて戦闘要員として拘束され、農耕定住民になれないかれらは、特殊な境遇ゆえにかえって蔑視(べっし)されるようになる。


という風に、曹操の政策は、兵の安定供給には役立ったものの、兵士を一般の農耕社会から遠い存在に追いやってしまったようです。

ちなみに「兵農分離」と言えば、それを日本で最初に断行したのか?していないのか? と議論の的になっているのが織田信長ですが、本日の話題から申せば、少なくとも信長の家臣団は、恐れられたとしても“蔑視された”形跡は無いようですから、日中間の「兵」をめぐる環境は(実は…)天と地ほども差があったのかもしれません。


ならば、それはいったい何故?? という疑問が、日本人としては当然、気になるわけです。


我が国も古代の律令制下では国軍を編成できたものの、土地の私的所有が進んで律令制が崩れ始めるとそれも難しくなり、やはり私兵集団の「武士」が、各地で軍事的な要求に応えて跋扈(ばっこ)し始めました。


ご承知のとおり「武士」の厳密な起源や定義については、学問的にはいまだ議論のただなかにあるようで、そんな中では、山本博文先生の「政争に平氏や源氏の武士団が私兵として使われるようになると、最初は利用したつもりだったのでしょうが、次第に武士団の軍事力が天皇や上皇の権力を圧倒するようになります」(『歴史をつかむ技法』)という解説が解りやすかった記憶があります。

すなわち、平安時代の王朝国家において、皇位の継承をめぐる「皇統」のあらそいという、日本社会ではそれを上や横から仲裁できない“雲の上の紛争”が起きてしまった時、それを軍事的に“決着させる手立て”として「武士」団(→具体的には保元の乱の平清盛ら)が日本社会にとって欠かせない立場を得たのだ、という山本先生の解説でした。


そのうえ「蔑視」云々では、ざっくばらんに言って、マニュアルどおりに軍務に従事すればいい国軍兵士と、プロフェッショナルな家業の技で敵方と闘う武士(場合によってどちらの味方にもなりうる存在)との違いだろう、という感触が私なんぞにはありまして、では、どちらが尊敬の念を得られるかと言えば、やはり武士の方が、例えば那須与一(なすのよいち)のごとき、あっぱれな武芸で、人々の共感を得やすいというアドバンテージがあったのではないでしょうか。


那須与一像(渡辺美術館蔵/ウィキペディアより)


―――であるならば、例の織田信長が掲げた「天下布武」という謎の文言のうち、「天下」の語意については近年の議論があるものの、一方の「布武」はどうなのかが気になります。

基本的に儒教の体系のなかにある『春秋左氏伝』の「七徳の武」を使って、かつて立花京子先生は「布武」を解説されましたが、本当にそういう中国流の「武」だけで「天下布武」を解釈して大丈夫なのでしょうか?

これには信長自身が「武士」社会に対してどういう態度を取っていたのか、という基本的な事柄を含めて、今回申し上げた話題のとおり、単純な中国語の引用だけで「布武」を考えますと(→日中間の「武」の違い?/「武士」はすでに天下の裁定者?) けっこう大きな間違いをおかす危険があるようにも思えて来たのです。…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年03月24日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる





せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる




前々回ブログの「一回だけ」がまったくのウソになってしまって恐縮しごくですが、前回に申し上げた「本丸が縦長になったのは二代目・豊臣秀次の改造なのでは?」との手前勝手な推測は、そもそも、こんなに「せまい本丸」で、豊臣秀吉による一回目の聚楽第行幸は可能だったのか、という問題がクリアされなければ話にもなりません。

そこで今回は、この一点だけにしぼって、せまい本丸でも行幸は可能だったのかを図上演習で試してみようと思うのですが、まずは、ご覧の『諸国古城之図』のままの本丸を、より詳細な地図とともに拡大してみますと…





この図はあくまでも、仮定(足利健亮先生の外郭ライン)の上にもう一つの仮定(『諸国古城之図』のせまい本丸)を重ねて出来たものであり、内掘の北側三分の二や天守台の位置が京大防災研究所の地中探査に即しただけですから、あまり細かい事を申し上げてもなんですが、ご覧の本丸の中は190m四方ほどになります。

で、こうしてみますと、ここでも伝承地名がいくつも目につき、例えば馬出し曲輪(旧南二ノ丸?)に「須浜町」「須浜東町」があったり、そのまわりに「下山里町」「亀木町」「高台院堅町」「天秤丸町」等があったりするものの、これらはすべて縦長の本丸に由来した町名と考えなければ説明がつきません。

――― といった中でも、ご覧の本丸の内側にある「山里町」「多門町」だけは、ひょっとしますと、この「せまい本丸」の時点まで由来が遡(さかのぼ)れる地名なのでは… という風に考えられなくもなさそうです。

(※ちなみに、図らずも「中立売通」など幾つかの通りが、内掘の形と微妙な感じで合致してしまうのも不思議です)


そんな「本丸」のど真ん中、中立売通に面した ライフコーポレーション西陣店

この地でかつて、天皇を迎えた世紀の饗宴が行なわれたのですが……



(※休館中の上越市立総合博物館蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻より)


さて、ではここで「聚楽第行幸」とは、そもそも何が行なわれたのか? を確認しておく必要がありましょうが、大村由己が秀吉の命令で書いた『聚楽行幸記』によれば、おおよそ次のような日程でした。

初日:行列による聚楽第入り/歓迎の宴/夕方から天皇公家自らの管弦 

二日目:天皇公家への洛中地子献上と諸大名の誓紙提出/引出物の披露と酒宴

三日目:清華成り大名もまじえた和歌の会

四日目:十番におよぶ舞楽の上覧

最終日:行列による還幸



そして行幸の実施に必要な“面積”を考える場合、大切な要素になるのが、行列に加わり五日間の催しに参集した公家衆というのは、夜もふければ各々の屋敷に引きあげ、翌朝はやくに再び出仕する、という内裏での行動パターンが聚楽第でも踏襲されたことでしょう。(もちろん武家衆も同様)

それは『聚楽行幸記』の「次の日は、公卿とくまいり給ひて 早朝し給ひしとなり」という部分にも表れていて、したがって聚楽第の本丸に宿泊したのは「今上皇帝(後陽成天皇)」「准后(新上東門院)」「女御(近衛前子)」とその側に近侍した人々だけということになりそうです。


そうした中で注目すべきは、秀吉自身の動き方と言えそうで、下記の引用文には「まうのぼる」という言葉が何度か登場するため、あらかじめその意味をご覧いただいたうえで、『聚楽行幸記』の注目の部分をご覧いただけますでしょうか。

(Weblio古語辞典より)
まう−のぼ・る 【参上る】
貴人のもとにうかがう。参上する。▽「上る」の謙譲語。
出典源氏物語 桐壺
「まうのぼり給(たま)ふにも、あまりうちしきる折々は」
[訳] (桐壺(きりつぼ)の更衣が帝(みかど)のもとに)参上なさる場合にも、あまりたび重なる折々には。



(『聚楽行幸記』より/赤文字が秀吉の移動を示した部分)

【初日の行列で、天皇公家が聚楽第に先に着き、秀吉の到着を待つときに】

上達部、殿上人、便宜の所にやすらひ給ふに、殿下(=秀吉)御車四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、まうのぼりたまふてより、御座につかせ給ふ時、殿下(天皇の)裾(すそ)をうしろにたたみ、御前に畏(かしこ)まりて、御気色を取り、しばし候はせ給ひて、罷(まか)りしりぞき給へば、御殿の御装束もあらためらる。
ややありて、殿下又まいり給て、おのおの着座の規式あり。



【二日目の諸大名の誓紙提出が終わって】

さて、今日は和歌の御会とさだめられつれども、御逗留の間、翌日までさしのべ給ふ。殿上も、ゆるゆるとして、なにとなきうらうらの御すさみ計なり。
殿下(=秀吉)も、何かの事取まぜ沙汰し給ふとて、申刻(さるのこく=午後4時)ばかりに、まうのぼり給ひぬ。献々の内に御進上物。
一つ、御手本。則之が筆千字文。金の打枝につくる。…

(中略/各々への引出物に領地献上の折紙がそえられて配られ)
各(おのおの)歓喜し給ひあかず。なを、ふけ過ぐるまで御酒宴。
殿下たち給ひて後、いよいよ御かはらけかさなりて、みな酔をつくし給ふなり。




ごく一部分ですが、この文面からお感じになれたでしょうか、秀吉自身は形のうえでは“まねいた側の屋敷の主人(あるじ)然”とは全くしていなくて、あたかも迎賓館の支配人? か何かのごとくに、賓客の気分をはかりながら、いちいち時間はかかるものの最小頻度で、かつ的確に、天皇の前に姿を見せていた点が、私なんぞはものすごく意外に感じられてならないのです。

しかもこれが、天下人・秀吉が命令して書かせた『聚楽行幸記』でこの調子なのですから、これは何かあるぞ、という興味がわいてきて、秀吉の「まうのぼる」とはどういうことなのか、単なる謙譲語に過ぎなかったのか、それとも何か特有の行動パターンを示した言葉なのか、確認してみたくなったのです。

そこで、明確な絵図のある二条城(御水尾天皇の行幸があった寛永再築の「二條御城中絵図」)を使って何か分からないかと思い、ためしに冒頭の「せまい本丸」の「山里町」に、二条城絵図の「二ノ丸庭園」をちょうど重ねる形で(もちろん同縮尺で、方位は若干調整して)ダブらせたところ…




ご覧のとおり、二条城二ノ丸の主要な殿舎は「せまい本丸」に収まったものの、肝心の御水尾天皇を迎えた行幸殿などは、「山里町」にダブリつつ「せまい本丸」からはみ出てしまう形になりました。

つまり、このままでは二条城の行幸のように、二ノ丸に時の将軍・徳川家光がいて、本丸に大御所・徳川秀忠がいて、そのうえで行幸殿に御水尾天皇を迎えるという、三人の主要人物がそろって城内に居並ぶ形は、とても無理だということが判ります。

そこで話題の、秀吉の「まうのぼる」とはどんな動きなのか、という事柄になるわけですが、例えば…




思い切って、大御所・徳川秀忠がいた二条城本丸をグ――ッと西側に切り離して、ちょうど「加賀筑前守」邸がある辺りまで移動させてみた図です。

こうしてみますと、「せまい本丸」とその「加賀筑前守」邸の間にあるのは、現在「多門町」と呼ばれる場所と、旧南二ノ丸よりずっと簡略な「馬出し」がありまして、その延長線上に「加賀筑前守」邸の門が位置していたようにも感じられます。


! と、ここで気づくのが、二条城本丸の門と言えば、現在は解体されたままで復元計画の話もある二階建ての「橋廊下」があって、それで本丸と二ノ丸の御殿と行幸殿とが互いにつながっていた(=地上に下りずに行き来できた)ことが思い出されます。

ということで、例えば、例えばですが…




秀吉の「まうのぼる」とは、こういうことではなかったのか―――

またまたトンデモない仮説を申し上げて恐縮ですが、この間の秀吉の居所は「加賀筑前守」邸の御成り御殿にあったのだと仮定して、そのぶん、本丸はほぼすべて天皇に明け渡すかたちが取られたとしますと、臨時の橋廊下を使った「まうのぼる」動きは、いやがおうにも諸大名の目に印象的に見えた(見せられた)のではないでしょうか?

で、かくのごとき行幸のあり方は、過去の室町将軍邸の行幸においても似たような形が取られておりまして、例えば永享9年、将軍・足利義教の邸では、主屋である「寝殿」を後花園天皇に明け渡して御在所とし、義教自身は「会所」や「常御所」を自らの御殿としたそうです。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収より)

天皇の御在所となる寝殿において、着御・還御の儀や晴の御膳、和歌御会、舞御覧、贈り物の儀など多くの行事が行なわれたこと、その一方で室町将軍邸や中世住宅で注目されている会所では、釣殿になぞらえて使用した詩歌披講を除くと、最終日の一連の一献の儀しか行なわれていないことがわかる。
最終日の一連の会所における一献の儀に際しては、たくさんの献上品が義教から天皇に贈られているので、寝殿が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所は義教の御殿という認識があったものと考えられる。



という風に見てまいりますと、むしろ二条城の徳川による行幸の方が“異様な御殿配置”がなされていて、本来ならば、大御所・秀忠の本丸にこそ後水尾天皇を迎えるべきところを、あえて二ノ丸の“門の脇に”行幸殿を押し込めたのだという、徳川の姿勢(レジームチェンジの視覚化)が如実に分かって来ます。

そこでこの際、秀吉の「まうのぼる」姿をもう少し具体的に想像しますと、前出の『聚楽行幸記』の引用部分で、天皇公家に遅れて聚楽第に着いた秀吉が牛車でくぐった「四足の門」とは、「加賀筑前守」邸の御成り御殿の「門」だということになり、そこから「まうのぼる」臨時の橋廊下の形は、二条城とは若干異なって、あえて秀吉の行き来(=政治的デモンストレーション)が丸見えになる開放的な箇所もあったのでは… などと想えて来るのです。


殿下御車 四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、

まうのぼりたまふてより、(天皇を)御座につかせ給ふ時、……






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…





大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…


前回、この一回だけ、と申し上げておきながら、記事のラストでお見せした「合体図」が、あのままほおってはおけない代物(しろもの)であったようで、下記のごとく見づらく、判然としない状態では、何が問題なのか、ご説明することもままなりません。






そこで今回は、ご覧の『諸国古城之図』(山城 聚楽)は大名の名の当て字が多く、なおかつ屋敷地の場所も違うのでは?と指摘される部分があるものの、それらはひとまずこのままにして、明らかな書き間違いと思われる「細川中越守」「有馬法印」「牧野民部」の三箇所だけ、それぞれ「細川越中守」「前田法印」「牧村民部」と訂正して清書してみますと…





ご覧の図は、前回の説明どおりに、足利健亮先生の思い切った聚楽第「外郭」ラインに沿う形で、堀川と天守台の位置を合わせつつ『諸国古城之図』をはめ込んだものであり、本丸の周辺は『諸国古城之図』のままにしてあります。

このように清書してみて、一見して気になる問題は、大名屋敷の面積が、どれも本丸に比べてけっこう大きいのではないか? という点でしょう。

とりわけ「三好孫七郎(後の豊臣秀次)」「大和大納言(豊臣秀長)」「(徳川)家康公」の三つの屋敷地は、面積で本丸を上回ってしまい、不自然さがいなめません。


文献の記録に照らせば、徳川家康邸は『小牧陣始末記』に「浮田ガ屋敷向カハ三軒ヲ一ツニシテ可進トアリテ是ヲ被進。何レ二町余有リシトナリ」という風に、豊臣秀吉が特別に「二町余」の広さを与えたことが書かれていて、さらに豊臣秀長邸と同じ広さにせよ、と命じたとも伝わっています。

「二町余」と言えば、六尺間の場合、二町(216m)×一町(108m)と少々という意味ですから、図の左下の250mスケールを参照いただくと、家康邸も秀長邸も明らかに大きすぎるようです。


そこで、そこでなのですが、前回に申し上げた「鉄(くろがね)門」は、当図では黒門通と下長者町通の交差点の東側になり、ほぼ正確な位置に来ているようですから、ここで思い切って、当図の下長者町通から下の部分を、縦に(南北に)半分強ほどのサイズに縮めてみることにいたします。





!! 図の下の方がガバッと空いてしまいましたが、これならば、家康邸や秀長邸は文献どおりの広さになりますし、さらに大名屋敷街の中央の通りを広くとれば、黄色く下地を塗った「浮田宰相」「脇坂中務」「加藤左馬助」の三大名(宇喜多秀家・脇坂安治・加藤嘉明)の屋敷がちょうど、かつての浮田町・中書町・左馬殿町の位置に、うまく三つ並んで合致することになります。

したがって、前回に申し上げた「家康公」邸と二条城の位置は離れてしまうものの、この方が大名屋敷の面積と伝承地名をふまえるなら、より正しい姿であろうと言わざるをえないのです。…

そしてこの場合、「金吾中納言(後の小早川秀秋)」ただ一人が、面積で本丸に匹敵する形になり、これは聚楽行幸の際、諸大名の起請文の差出し先が「金吾中納言」宛てであって、この時点では秀吉の後継者と見なされていたことと符合するようでもあります。





さて、そもそもこの図は『諸国古城之図』どおりに、本丸と南二ノ丸(馬出し曲輪)の南側に広大な空地がありますが、これについては『川角太閤記』に、秀吉が小田原攻めの凱旋の祝賀として、あの「金配り」を「三の丸の大庭」で行なったとありまして、櫻井成廣先生は「広い空地が描かれているがこれこそ有名な金配が行なわれた二町の白洲と思われる」(『豊臣秀吉の居城』)と解釈しました。

しかも面白いことに、林羅山の『豊臣秀吉譜』では「金配り」のやり方として、二町の範囲に金銀を台に積み上げ、秀吉自身はその「門戸(本丸虎口?)」の側に座り、秀長はその「東」側に座って!! 金銀の配布を受けたと書いてあり、どうやら秀長は、自らの屋敷の前に陣取っていたようなのです。

かくして文献ではこの場が「三の丸」と伝わっているため、当ブログは『諸国古城之図』の問題の黒い太線を、仮に「三ノ丸築地塀」と呼ばせていただくことにしたいと思うのですが、あえて築地塀としたのは、二代目の豊臣秀次がこの太線の内側にわざわざ「外掘」を掘ったのは、それが防御面ではやや弱い築地塀だったからに他ならないと感じるからです。


さて、この図でもう一つ申し上げたいのが、有名な「日暮(ひぐらし)門」の正体です。




これまで「日暮門」と言えば、その美しさが聚楽第の門で第一と言われ、「聚楽城の巳(み)の方に有て南にむかへる門也。其(その)工(たく)み美々しく、見る人立さらで日をくらす故、名付たり。今の日暮通は其門ありし筋とかや」(『菟芸泥赴(つぎねふ)』)といった具合に、現在の日暮通の名の由来になり、おそらくは聚楽第の内城の南門(正門)であろう、などと言われて来ました。

しかし私なんぞは、上記の文献の「聚楽城の巳(み)の方に有て」という部分が、どうも引っかかるのです。 と申しますのも、もう一度、図をご覧いただくと…




ご覧のとおり、今やどう頑張っても、現在の日暮通を、聚楽城(地中探査で判明した本丸)の位置の巳(み=南南東かそれよりやや東)の方角に持って来ることは出来そうにありませんし、また日暮通そのものが本丸や南二ノ丸の「門」にぶち当たるとも思えませんから、ここはむしろ、あっさりと、日暮門とは、本丸の南南東にあった「大和大納言」邸の御成り門!! と考えた方が、解決が早いのではないでしょうか?

そう考えますと、図のごとくに、現在の日暮通が鍵の手にまがる位置で御成り門=日暮門を想定できそうですし、秀長は天正15年8月にすでに大納言に昇進していましたから、ここに華麗な四脚の唐門があっても不思議ではありません。

しかも上記文献の「南にむかへる門也」という書き方は、ひょっとすると、その意味は、南に向かって入る門、つまり北側が門の表であった、とすれば、まさに本丸からやって来る兄・秀吉を迎えるために、秀長は諸大名の模範となるべく、日本初の?豪華絢爛な「御成り門」をここに構えたのだとも思えて来るのです。




それでは、この図の最初の疑問点 → 南側のガラッと空いてしまった範囲は、いったい何だったのか?というお話ですが、ここは決して空地ではなく、大名屋敷か、町家か、何かがぎっしりと詰まっていたことは間違いなさそうです。

そう考えるヒントとして、前出の櫻井先生は「南方二条城の南隣には最上町がある。そして伊達家の古文書によると最上邸は伊達邸の次であったことが分かるから、伊達政宗邸の位置は今の二条城の東部に当ったのであろう」(『豊臣秀吉の居城』)と推理しておられ、したがって最上義光は、残念なことに「外郭」の外に押し出されていたと言うのです。


ならば、伊達邸のほかは何だったかと言うと、同書の「脇坂、加藤左馬、長宗我部、早川等は皆水軍の将であったから聚楽南部は水軍諸将の邸が集っていたことになる」という指摘は、何らかのヒントになるのかもしれません。…

では、そんな櫻井先生の著書の指摘をすべて加味し、また同書に掲載の『聚楽第分間図』(『諸国古城之図』と同種でありながら若干異なる)もふまえて、もう一度、図を修正しますと…


櫻井先生の著書にしたがって、名前や境界線を修正すると…(黄緑色が修正箇所)



きっと、これでも詳しい方がご覧になれば、色々と問題があるのでしょうが、今回、最後に申し上げておきたいのは、この後、天正19年の「京中屋敷替え」による大名屋敷の大規模な移転と、文禄2年の「北ノ丸」新造についてであり、どちらも二代目・豊臣秀次の関白就任(聚楽第の城主)や二度目の天皇行幸と同時期のことで、無関係の事柄ではないでしょう。

それはとりわけ「北ノ丸」新造が、以上の築城プランの全体像に、少なからぬ変更を強いたように感じるからでして、ただ単に本丸北側の屋敷を“どかせばいい”では済まなかった事情(→慢性的な屋敷地の不足)を想像すると、より大きな改造計画に付随した普請であったようにも感じるからです。


【ここで最終の修正図】

森島康雄先生が想定する「京中屋敷替え」後の大名屋敷地区(青枠)を加えてみれば…


(※京大防災研究所による内堀・外掘も図示しました)




ご覧の大名屋敷の移転例を示した「矢印」のごとく、天正19年「京中屋敷替え」の結果、おそらく秀吉時代の大名屋敷街は、スカスカに抜けて、空地だらけになったことが想像されますし、そんな築地塀の内側はやがて、ことごとくが二代目・秀次の「外掘」でつぶされたことになります。

ですから昨年、京大防災研究所チームが明らかにした「外掘」と、ご覧のように縦長の本丸を囲った「内堀」というのは、そもそもが一連の、秀次時代の“聚楽第改造プラン”による城構えだったのでは… という気もして来るわけです。


で、森島康雄先生の研究(『豊臣秀吉と京都』他)によれば、新たな大名屋敷地区が軒瓦までキンキラキンになったのも天正19年以後、つまりは秀次時代のことだった!! という再認識が不可欠のようで、以上の結論として、聚楽第とその周辺は、二代目の秀次のときに、本丸を縦長に拡張しつつ、二重の堀で城構えをギュッと凝縮(ぎょうしゅく)させ、そのかわりに、内裏(だいり)とつながる街路の方へ大名屋敷を追いやり、そこを大量の金箔瓦でまばゆく変貌させたようなのです。


――― つまり、ある意味、秀次は関白の「城」兼「政庁」として、聚楽第が本来やるべきことをやっただけ、という風にも見えるものの、そんな果敢(かかん)な秀次の行動は、結局、裏目に出てしまったのかもしれません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい





言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい


< 昨年の外堀跡の地中探査によって、聚楽第は
 「面積が従来の推定より約6割も大きかった」
  との報道がありましたが、そういう言い方は正しかったのか。

  むしろ逆に、築城当初よりも“小さくなっていた”!? のでは… >



またか、と思わずに、是非ともこの一回だけお読みいただきたいのですが、下記のような報道における「約6割も大きかった」という言い方(→比較のしかた)に対する疑問についてです。


日本経済新聞 電子版(2016/3/12)
「聚楽第に大規模な外堀 京大など、表面波探査で確認」より

豊臣秀吉が京都に築いた城郭兼邸宅「聚楽第」跡で大規模な外堀の跡が確認され、面積が従来の推定より約6割も大きかったことが分かったと、京都大防災研究所や京都府教育委員会などの研究チームが12日までに発表した。


たびたび引用した当図も、同じ報道発表を扱った京都新聞のもの


ご覧の京都新聞産経ニュースなど、同じ報道発表を扱った記事でも「従来の約1.6倍に広がり」という風に、聚楽第の「面積」が変わったことを伝えておりまして、これはおそらく、京大防災研究所チームが発表した内容を、そのまま直裁に(細かい付帯情報をネグった形で)報道したからなのでしょうが、きっと城郭ファンの皆様は、この点で「アレッ?」とお感じになったことでしょう。

と言いますのも、ご承知のとおり、江戸時代に描かれた聚楽第の内堀の痕跡(京都図屏風/洛中洛外地図屏風)に比べれば、そこに外掘が加われば「6割も大きい」ということにもなるのでしょうが、そもそも、それ以前の豊臣秀吉の築城当時は、下記の絵図のごとき “さらなる広がり” があったことは、城郭ファンの間では、常識の事柄だからです。


広島市立中央図書館蔵『諸国古城之図』山城 聚楽


ですから「6割も大きかった」という言い方は、こうした予備知識がまったく無い一般の方々に対しては、間違った情報伝達(ミスリード)をしてしまったのかもしれません。

歴史の真相としては、豊臣秀次による「外掘」の築造(今回の発見)で聚楽第は「6割も大きかった」かどうかは、極めて疑わしく、むしろやや“小さくなった”のではなかったか―――という気さえ、私なんぞはしてならないのです。


ここで基礎的な確認事項とすべきは、秀吉時代の「外郭」と秀次時代の「外堀」はもちろん別次元のものであり、なおかつ、秀吉時代の「外郭」と上記絵図の黒い太線(石垣をともなった築地塀の類いか?)もまた別のものであった可能性を考慮しなければならず、その場合、我々が「外郭」と呼んで来たのは、上記絵図で申せば、徳川「家康公」屋敷なども含んだ武家屋敷街の全体を指していたのかもしれない、という点でしょう。




そんな「外郭」の広さ(面積)については、聚楽第をずっと研究して来られた森島康雄先生でさえ、「考定作業は極めて困難である」(『豊臣秀吉と京都』)という風に、ザックリとした推定もおっしゃってはいない状態です。

そんな中で、かつて『地理から見た信長・秀吉・家康の戦略』等で話題になった人文地理学者の故・足利健亮(あしかが けんりょう)先生は、著書に思い切った想定図をのせておりまして、それを見た当時は、私なんぞは「本当かなぁ…」と首をかしげたものですが、現在に至ってみると、足利先生が想定した広大な外郭が、かえって説得力を持って来たようにも感じられるのです。…


足利健亮編『京都歴史アトラス』1994年(\6500…図書館でどうぞ)

(同書より)

聚楽第の広さについては、「中四方千間」、つまり、周囲1000間(1800メートル)と記す史料(『兼見卿記』)と、「四方三千歩の石のついがき山のごとし」、つまり、周囲3000間(5400メートル)と記す史料(『聚楽行幸記』)の2つがあり、これによって内郭と外郭、すなわち文字通り大規模な「城郭」構造であったことがわかる。
(中略)
内城の外は有力大名の屋敷地区で、それが外郭をなしていたと考えられる。外郭の広がりは、東を堀川、西を千本、北を元誓願寺、南を押小路で囲まれる5400メートルの外周長をもつものであったと推定される。


こんな足利先生のきっぷのいい?見立てと同書掲載の想定図を参照しつつ、そこに京大防災研究所による内堀・外堀を合わせて地図上に示しますと、なんと、なんと…




!! 後の二条城までもがすっぽりと収まる範囲が「外郭」(=武家屋敷街の全体?)であったのだとしていて、一方の小さい方(『兼見卿記』)の外周1800メートルというのは、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸だけをぐるっと囲んだ範囲が1800メートル強にあたるのだと、足利先生は解説していました。

したがって、聚楽第の面積をその小さい方で考えた場合は、秀次時代の「外掘」を加えた範囲がやや広くなりますから、報道のとおりに、外堀の出現で聚楽第は以前より「大きかった」(大きくなった)ことになります。


ですが、その小さい方では、とても有力大名の屋敷街を囲い込むことは出来ませんので、やはり大きい方(『聚楽行幸記』)を考えざるをえなくなり、その場合は、上記の図のごとく、秀次ら主従は、外郭(二ノ丸)北部の大名屋敷を“食いつぶす”形で、「外堀」をせっせと掘って巡らせたことになるわけです。!!

――― となれば、報道の「6割も大きかった」という言い方じたいが、本当に意味があったのか?…という気がして来ませんでしょうか。

むしろ実態に合った言い方としては、“城をスリムに凝縮(ぎょうしゅく)した”とか“大名屋敷を切り捨てて、二重の掘を実現したのだ”といった言い方のほうが、まだ正しいように思えてしまうのです。




では最後に、少々乱暴なやり方ですが、上記の足利先生の「外郭」を示した図と、右側に並べた『諸国古城之図』山城 聚楽とを“合体”させると、果たしてどうなるでしょう。

基本方針は「本丸北西隅の天守台の付け根」と「堀川」をうまく合致させるようにして、そのため『諸国古城之図』の右側はやや幅をせばめ、左側はやや幅を広めるなどしつつ、見た目の違和感が無いようにダブらせますと…




これの左側は、地図や絵図を3枚も重ねた状態ですので、見づらいことこの上なくて恐縮ですが、じっと目をこらしてご覧いただきますと、色んな“符号点”が見えてまいります。

例えば、何故か、築城当初の状態と言われる『諸国古城之図』の本丸とその南側の馬出し曲輪が、実際の探査で判明してきた縦長の本丸の範囲に、ピッタリと収まってしまうこと。(→下図も参照。改築の疑い?)

しかも、黒門通は、この通りの下長者町付近に聚楽第の「くろがね門」があったことが由来と言われますが、ご覧の合体図では、まさに黒門通と下長者町通の交差点の東側(=外側/猪熊通にも近い地点)で、例の黒い太線上の東門がしっかりとダブって来ること。

(※そのうえ、秀次時代の「外掘」の一部が、その東側すぐの場所を遮断!!している点は、何かゆゆしき事態を示唆しているのか… それともこれは秀吉時代から在る、『探幽縮図』にも描かれた「橋」の証拠なのでしょうか?)



そしてこの場合、前出の徳川「家康公」屋敷と、後に家康自身が築いた二条城とは、ほとんど同じ位置(二条通の北側ないしは突き当たった場所)にあたり、しかも外郭ラインの南東隅を利用して築城を行なった可能性がうかがえる(→まことに家康らしい、二条城の選地の動機か)という、思わぬ結果まで見えて来るのですが…。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年02月14日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…





伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…




前回は加藤理文先生の『織田信長の城』からインスパイアされた仮説を色々と申しましたが、すでにご覧のこの図のうち、天主台下の不思議な礎石列が「階(きざはし)」か「懸け造り」だったかという問題では、そもそも、出どころの『信長公記』の語句がやや気になっております。


と申しますのは、『信長公記』に書かれている語句は、よくよく見れば「階」ではなくて「階道」という二文字になっておりまして、古文の用例として「階」と「階道」はどう違ったのか、まったく同じ意味と受け取っていいのか、その実情について、残念ながら私には知識がありません。

(『信長公記』より)

… 其次、他国衆。各階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候なり。

ですから、この「階道」という語句には、まことに素人っぽい印象しか持ちえないわけですが、この語句を「階(きざはし)状の道」だと受け取るならば、冒頭の図のごとき「懸け造りの柱の間を登っていく階段」とイメージするのも、そう無理な話ではないように感じるのですが、どうなのでしょうか。


ちなみにもう一点、補足させていただきますと、そうした「階道」と立体交差する形で、従来から言われて来た伝本丸への通路もあったはずだと思われますので、念のため、図に書き加えておきたく存じます。



※        ※        ※


さて、ことほど左様に、安土城の実像はたいへんに謎が多く、前回の記事では『完訳フロイス日本史』の「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」という記述について、ひょっとすると、千田嘉博先生の御殿配置の考え方ならば、伝二ノ丸の「奥御殿」にそういう「広大な庭」を想定する余裕も生まれるのでは… などと勝手な推測を申し上げました。




と言いますのも、研究者の方々は「広大な庭」がどこに当たるのか、発掘調査でそれらしき遺構が見つからないため、例えば未調査の「八角平」や「馬場平」ではないのか? といった声が過去にあがったものの、同じく未調査の「伝二ノ丸」を想定した声は、なかなか主流になれず仕舞いでした。

その理由としては、やはり伝二ノ丸にはそれ相応の「奥御殿」や「本丸表御殿」を想定した先生方の復元案や、その壮観なコンピュータグラフィックスが世間をうならせていて、とても「庭」ごときが割り込める“余地”は、論理的にも、空気感としても、無かったということでしょう。


そのような中でも、私なんぞは、ある“別の観点”から、伝二ノ丸には「庭」のような大きな空間スペースがあってしかるべきでは… という思いを抱き続けておりまして、その原因は、当サイトで散々ご覧いただいたイラストの、手前に黒くカットした、きわどい「地形」にあります。





(※この説明図は、冒頭のルート図に比べると、南北=上下がひっくり返った状態です)


安土山北西の湖上から見上げた視点で描いた上記イラストは、手前の黒い部分が伝二ノ丸の地面をカットした状態でありまして、その理由(動機)は、こんな風にしませんと、角度的に、伝二ノ丸の「地形」やそこに想定される「建物」群によって、イラストで見せたい天主周辺がずいぶんと隠れてしまうからでした。

――― では“どのくらい隠れるのか?”をご覧いただくため、手前の地面をカットしない、フルサイズのイラストを今回、初めてお見せいたしましょう。




ご覧のとおり、伝二ノ丸の地形は、山麓の湖上から見上げますと、けっこう天主台の足下を隠してしまうことになり、例えば伝二ノ丸の中に描いた建物は、二階建てを想定して描いたのですが、それでも、ご覧の程度まで隠れてしまいます。

したがって、これまでの諸先生方による伝二ノ丸の復元案というのは、曲輪いっぱいに屋根の高い大型の御殿が並んだり、曲輪の周縁(=最前列)に二重櫓や多聞櫓がめぐっていたりしたのですが、そのような状態で考えますと、おそらく天主の下層階からは、城下や琵琶湖もろくに見えなくなってしまう!! 危険が生じたのではないか、と心配して来たのです。

で、そのことは現地で撮影した写真でも…



(※画面クリックで拡大できます)

やや分かりにくい合成写真で恐縮ですが、これは現状の天主台上の南西の隅に立った状態で、伝二ノ丸の方を180度近くグルッと見回しながら撮影した写真でありまして、ざっくりと合成しただけなので、厳密さに欠ける点はご容赦下さい。

で、何を申し上げたいかと言うと、伝二ノ丸の周囲はご覧のとおりの木々が繁茂しておりまして、例えば城下の信長自慢の武家屋敷や常楽寺港などの範囲の風景は、残念ながら、天主台の上からでも、まったく見えない状態にあります。


ですから、このことは、伝二ノ丸の周縁に「二重櫓」や「多聞櫓」がめぐっていたり、そしてさらに屋根の高い「奥御殿」までがひしめいていたりしたなら、繁茂する木々と“まるで同じ効果”を果たしてしまうのではないか!!?… という心配を感じて来たのです。


ということは、いまさら申すまでもなく、天主こそが「見せる城」の白眉(はくび)であるとして、そうした天主と城下との関係において、こちらから見えにくい、ということは、イコール(すなわち)向こうからも見えにくい、という事に他なりません。

そのような状態では、せっかくの画期的な建造物「天主」が台無しになりかねず、もしも安土城において、城下から見上げた時、天主はちょこんと頭が出ていただけ、というのでは、いったい <何のための天主建造(創造)だったのか?> という気がしてならないのです。…




(『完訳フロイス日本史』より)

(天主の説明があって…)これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲をつくかのように何里も離れたところから望見できた。

それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。

信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。

我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。




さて、以上の結論として、最後に私なりの手前勝手な推測を加えて申し添えますと、伝二ノ丸というのは「奥御殿」の範疇(はんちゅう)ではあっても、そこにあった建物は、例えば「湯殿」や「御休息」といった類いの建物だけであり、それらを「広大な庭」が取り囲むという、言わば信長個人の“くつろぎの場”だったのではないか… そしてその分、「天主」が信長と家族の奥御殿として具体的に機能したのではなかったでしょうか。

そんなレイアウトは例えば、西本願寺・飛雲閣の奥にある二階建ての浴室「黄鶴台」などにつながる構想だったのでは、という風にも勝手に思い描いております。


で、さらに申し添えるなら、広大な庭というのは「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で…」とあえて修飾して伝えたのですから、ひょっとすると、全部が「枯山水」の庭!! という、龍安寺の石庭などを拡大・充実させて、琵琶湖を背景に、安土山の山頂で再現した“白砂と石組みの空中庭園”――― とも想像してしまうのですが、いかがなものでしょうか。



(※写真はウィキペディアより)

フロイスの別の報告文では、その庭には「新鮮な緑」があり、「魚」や「水鳥」が泳ぐ池があったとも伝わりますが、もし龍安寺の石庭のような「庭」が、安土山の山頂で、琵琶湖を背景として広がっていたら、そうした信長個人の精神世界に多聞櫓などは邪魔(じゃま)になったはず… との妄想がふくらむ一方なのです。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした





加藤先生の新刊本はまたも、いろいろと別の考え方をインスパイアさせてくれる本でした




ご覧の表紙の帯イラストは、背景に描かれた安土城天主が、おなじみの三浦正幸先生の監修ではあっても、これまで各誌に登場した「佐藤大規復元版」ではなくて、新しい「中村泰朗復元版」(→同書141頁に立面図あり/昨年末にリニューアル発売のペーパークラフトもあり)のようです。

ですが、それが炎上前の白煙があがった演出なのか、ちょっと分かりにくいイラストになってしまったのは何故なんだろうと、ページを開く前から読み手の関心を誘ったのが、加藤理文先生の新刊本『織田信長の城』でした。


【ご参考】講談社の同書PRサイトからの引用(→上記の表紙の原画でしょうか?)


この「中村泰朗復元版」は同書の立面図などをご覧いただくと、さらによく分かるのですが、天主の建物の構造に、当サイトがずっと主張して来ました「十字形八角平面」(→関連記事<安土城天主に「八角円堂」は無かった!>)を部分的に採り入れたもののように見える辺りが、私なんぞには、実に興味津々の復元案なのです。


――― が、そんな前置きはさておき、加藤先生の新刊本は、織田信長が生まれた城・勝幡城から最後の安土城までを網羅しつつ、表紙の帯キャッチどおりに、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに注力した、かなりの意欲作だと感じ入りました。

しかも、またもや加藤先生の本らしく? 別の考え方もあれこれとインスパイアさせてくれる部分が多々あり、今回は例えば安土城の章から、そういう印象的なくだりの一部を、私なりの独善的チョイスで恐縮ですが、是非ともご紹介してみたく存じます。




<その1.一瞬、思わずノケゾッた、

     安土城「大手道」は山から下りるための“退出用の道”!!?>





安土山の南斜面にある「大手道」/ 次の写真の図では番号1の道

同書に掲載された城内通路の図 / 番号3が百々橋口(どどばしぐち)道


(加藤理文『織田信長の城』より)

『信長公記』(天正一〇年正月一日)には、<隣国の大名・小名御連枝の御衆、各(おのおの)在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ>と、近隣諸国の大名や小名、織田家一門の人々が、百々橋口から登って来たことが記されている。

年頭の挨拶の出仕であるため、正式な通路を使用することが当然で、百々橋口→ハ見寺→伝黒金門→本丸御殿対面の間というのが正式ルートと判明する。

(中略)
『信長公記』の記載から、百々橋口道(番号3)はハ見寺参拝ルートとして、町衆の往来可能な道だったことが判明する。
では、百々橋口から上がった町衆は、どこに下りたのであろう。

「死人が出るほどの混雑」と記されている以上、道は一方通行であったとするのが当然で、町衆は百々橋と接続する大手道を下るのがもっともわかりやすい。

つまり、大手道は町衆の往来も可能な道だったことになる。大手門は、見つからないのではなく存在せず、常に開口していたのである。



!―― 安土城の「大手道」と言えば、発掘調査で姿をあらわした当時はセンセーショナルな報道もなされ、安土城で織田信長が計画したと伝わる幻の天皇行幸では、この大規模な石段こそが、天皇の乗る鳳輦(ほうれん)がしずしずと登る「行幸道」になったはず、などと言われたものでした。

しかし、数々の城郭踏査の経験から“理詰め”で迫る加藤先生は、そんな可能性を全否定しておられ、大手道とは家臣や町衆も通る「往来」であって(※千田嘉博先生は一族や重臣の屋敷地をつらぬく連絡用の道としましたが…)城内の「正式ルート」としては、なんと!山から下りるための“退出用の道”だと解釈されたのです。




思わず私なんぞはイスからずり落ちそうになりましたが、すぐさま、それならば、小牧山城にある「大手道」もまた、正式ルートでは“下りるための退出用の道”なのか!?? と、にわかには納得しがたい気持ちでいっぱいになったものの…

しかし、そこで、いや待てよ… と考えてしまうのが私の悪いクセでありまして、これは信長自身の大手道の使い方としても、ひょっとすると、ひょっとするな、と。



登場したトップスターが先頭で降りて来る、タカラヅカの大階段

(※写真は織田信長役でも知られる月組・龍真咲の「Fantastic Energy!」より)

さて、どうでしょう。

「大手道」の機能としては、どうしても「登る」方に関心が行きがちであったわけですが、加藤先生の解釈はその呪縛(じゅばく)をとくきっかけになるかもしれず、上記の天正10年の正月参賀の件は特殊な用例だとしても、それ以外の普段の機能を考えれば、山頂の“聖域”に住まう天下人の信長が、山麓に居並ぶ兵たちの前に姿をあらわす時に、その姿が見えやすい直線道の部分が(言わば花道として)とりわけ大規模に整備されたのだ… と考えられなくもなさそうです。

これは逆転の発想として実に面白いものの、一方では、城のなかの「直線的な城道」の機能については、過去に当ブログでも一、二度申し上げたように、例えば近江八幡城や犬山城などにある直線道との比較(→重臣屋敷の二ノ丸・三ノ丸の類いを経由しないバイパス道の効果 →専制的な領主の位置づけ)も必要ではないかと感じておりまして、果たしてどうなのでしょうか??


【ご参考】大手道を下りる時の目線で見た南側山麓の風景

→ 木々が繁茂していなければ、向こうからも良く見えたはず!!!







<その2.伝二ノ丸を奥御殿のうちと解釈しつつも、

     三浦正幸先生風の階段(きざはし)を採用したため、

     その奥御殿に天皇の御座所「御幸の御間」があったことに……>





これからご紹介する部分の面白さを伝えるためには、当ブログを昔からお読みのような方々は百も承知の事柄でしょうが、安土城・主郭部の御殿の配置をめぐる研究者間(分野間?学界間?)のケンケンガクガクの大論争をもう一度、思い出していただく必要があります。


はじめに―― 通称「伝本丸」「伝二ノ丸」「伝三ノ丸」などの位置

A【考古学】発掘調査を担当した安土城郭調査研究所の御殿配置案

B【建築史】三浦正幸先生による御殿配置案(『よみがえる真説安土城』を参照)

C【城郭考古学】千田嘉博先生による御殿配置案(『信長の城』の文意から作成)


ご覧のとおり、それぞれの配置案をまずは「表」(公・ハレ)と「奥」(私・ケ)の領域の違いで確認しておきますと、結果的には、奇しくも、A案(安土城郭調査研究所/藤村泉・木戸雅寿両先生ら)とC案(千田嘉博先生)がともに、伝本丸や伝三ノ丸の御殿が「表」にあたり、天主や伝二ノ丸の御殿が「奥」になるという解釈で一致しておられます。

しかもC案の千田先生は、天主台西側の足下にピッタリ寄り添った不思議な礎石列は「外観上、天主と接合しているように見えた「懸(か)け造(づく)り建物」であった」(歴史発見vol.2)と推定され、その点ではA案の木戸雅寿先生も「天主の張出しも考えられる」(よみがえる安土城)と同様の発想で一致していて、手前味噌ながら当サイトもまた「懸け造り舞台」を想定してイラストに描いた経緯があります。


画面右下隅が「懸け造り舞台」→銅板包みを想定して青く描いた

(※なお、手前に降りて来る連絡橋の足下の石垣面には「寄せ掛け柱」も描いた)



そこで注目の加藤先生のお立場なのですが、奇しくも、7年前の当ブログ記事で『信長公記』天正10年の正月参賀のルートを話題にしたおりに、三浦正幸先生監修『よみがえる真説安土城』掲載のルート案をトレースして例示したのが下記の図なのですが、このルート案じたいを作成したのが、他ならぬ加藤先生だったのです。


このルート案では、表(ハレ)と奥(ケ)を横断して、天主以外はくまなく巡ったことに…

(※お馬廻衆・甲賀衆の見学ルートの場合)



ですから加藤先生は当然、三浦先生(B案)がその本で主張された、例の不思議な礎石列の上には「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)があり」とする説を大前提として、このルート案を作成した経緯をお持ちであったわけで、そうした経験などから自説を導き出され、今回の新刊本にも反映しておられます。


(加藤理文『織田信長の城』より)

前掲の『信長公記』の記載で、中枢部の建物配置を考える際、もっとも重要な手掛かりは、<階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候>である。

御幸の御間へは階段を上がって行ったことが判明する。

この記述から、「御幸の御間」は伝二ノ丸南虎口の存在する平坦面から階段を上がった場所に位置していたことになる。



という風に、加藤先生は階(きざはし)案を支持しつつ、一門衆・大小名の見学ルートで言えば、その階(きざはし)で北側の石垣を乗り越えた先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があった、と説明されるのですが、何故そこまで階(きざはし)案を支持するかと言うと…


(上記書より)

(不思議な礎石列のうちの)東側の礎石列Aに沿って天主台に柱が焼けた黒色の痕が残されていたため、ここに斜めの柱があったとの説もあるが、石垣に押し当てて設置してある柱が焼けた場合、通常黒色ラインが残るのではなく、焼け残って柱部分のみ白く残るはずである。

ここで見られた黒色ラインは、焼けた柱組みが東側に倒れ、石垣に寄り添って燃えたための事象と理解される。



という理由で、天主台石垣に残った黒い柱状の焼け焦げは、懸け造りのための寄せ掛け柱ではなくて、階(きざはし)が燃えて倒れかかった結果だと説明されるのですが、そのようにして天主台にピッタリ寄りそう階(きざはし)があり、その先の伝二ノ丸に「御幸の御間」があったとする一方で、加藤先生は、伝二ノ丸は(天主を含めて)信長の居所の「奥御殿」だとも説明するのです。

(※そして伝本丸が正式な対面を行なう政庁=南殿の「表御殿」、伝三ノ丸が行事等を行なう紅雲寺御殿の「会所」に相当する、と。つまり「表」と「奥」の領域の解釈はA案やC案と同じになるのですが…)

――― ということで、この新刊本では、信長自身と家族の居所の「奥御殿」に、天皇の御座所「御幸の御間」があったとしていて、それで具体的にどう使ったのだろうか?… と、やはり心配になってしまいますし、『信長公記』の階(きざはし)の先に「御幸の御間」を含む「御座敷」があった、との記述を重視する考え方も分からないではありませんので、どう受け取ったものか、頭をかかえていますと、例の不思議な礎石列について…



(同書より)

礎石列A、Bの南端で若干位置がずれる二個の礎石(22、23)も確認されている。(中略)南側一間分の軸のずれは、南側の櫓と通路との取り合いの関係が推定される。




ふと見れば、加藤先生の礎石列の説明文には、上記の一文がさり気なく加えられていて、すなわち、例の礎石列は南端の一間のうちに、すでにわずかながら“角度を変えている”とおっしゃるのです。!…

これは実に些細(ささい)な現象でありながら、城郭踏査を重ねた加藤先生ならではの注意力(ある種の違和感の察知)ではないかと感じまして、このこと(※三浦案では無視)を注視して行きますと、礎石列は逆に、南側の櫓との関係性(接続!?)がクローズアップされて来て…


【またもやインスパイアされた仮説】

もしも「懸け造り」の柱の間を登る階(きざはし)が、真逆の南側!!へと登る形で櫓内に至り、

さらに多聞櫓を通じて、伝本丸の御殿群の各所に至る複数のルートがあった、とすると…




→ フロイスが記した「この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿」

の「一つの側」とは??

「一つの側」は普通に読めば、主郭部の東半分という意味であろう、とこれまで多くの方々が受け取って来たものの、ご覧のようにしてみますと、「一つの側」が原文ではどこにかかる“修飾語”だったのか、分からなくなる感じもしてまいりまして、こんなことまで加藤先生の観察眼からインスパイアされてしまうところが、この本の不思議な魅力なのです。

(→もちろん本の全体の論旨は、信長が「権力の象徴」に込めた政治的意図を解き明かすことに、最大限の力が注がれております)


ちなみにご覧の配置図は、千田先生のC案をベースにさせていただきまして、それと言いますのも、千田先生の配置案には言外の大きなメリットが隠れているからです。

そのメリットとは、このように文献上に名前のある御殿がすべて、主郭部の東半分で“処理”できるなら、西側の伝二ノ丸は「奥御殿」ではあっても、そこには、これまたフロイスが記録した「広大な庭」の懸案の居所(いどころ)も推定できる、という多大なメリットに他なりません。


… 最後に、例の礎石列の西列で焼け残った壁材が見つかったという件がやや気になるものの、加藤先生は「壁材(厚さ約三〇センチ)は、礎石16上の炭化柱材の前後、南北方向で立ったままの状態で検出。」「北側西面(13〜16の間)に片開きの戸が設置されていたと考えれば、検出遺構と矛盾なく解釈が可能である」とも説明していて、南向き!の内部階段への「入口」はきちんとクリアできそうです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年01月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…





探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…




もう一回だけ、聚楽第の話題を続けさせていただきたいのですが、前回、絵画史料に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、ひょっとすると本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を(コンバートして)描き込んでしまったのではないか… などと申し上げました。

では、どこの景観なのか? とお感じになった方もいらっしゃるかと思いますので、今回は私なりの腹案を申し上げてみたいと思います。その場合、気をつけたい事柄としては…


話題になった聚楽第の「外堀」は、まだ未完の状態??

例えば、南東側の浅い凹みは「その時まさに掘を掘っていた途中」のようで…




(※ご覧の図は京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」に掲載の図を引用)



二番目の明暗をつけた図は、当ブログの記事ですでにご覧いただいたとおり、外堀全体の配置をよくよく見ますと、南面(=太閤・豊臣秀吉のいた伏見城の側)の工事が後回しになっていて、これは外堀がまさに“造成途中”であったことを感じさせるものです。


ということは、当然、これら外堀の堀際に「櫓」の類いは、どこまで完成していたのだろうか? という疑問も出てこざるをえないのではないでしょうか。

そういう観点から、さらにご覧いただきたいのは…


個人蔵『京都図屏風(洛中洛外地図屏風)』に描かれた聚楽第の痕跡 → 内堀だけ!!



これも有名な絵画史料の一つであり、上記の探査結果がでる以前は、これによって聚楽第のおおよその形を、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸から成るものだと想定していたわけですが、今日、改めてこの屏風絵を見ますと、「どうして、きれいに内堀だけが残ったのか…」という新たな疑問を感じてしまいます。

この屏風は元和6、7年(1621、1622年)か寛永元年(1624年)の制作と考えられるそうですから、聚楽第の取り壊しが始まった文禄4年から数えて、20数年でここまで変わってしまったことになります。




ためしに探査結果の図を、東西・南北の比率をやや変えてぴったりとダブらせますと、問題の「外堀」があっという間に埋められて、市街地に変貌して行った様子が、ありありと想像できます。

破却開始から20数年で、どうして外堀だけが、跡形もなく消えて、いちはやく市街地化したのか? という風に改めて考えてみれば、やはりそれが“造成中”だったから、埋めやすかった(※残土も土塁用にちゃんと残っていた)のではないか、という想像をたくましくしてしまうのです。


……ならば『探幽縮図』の原画は、いったいどこの景観を描いたのか



さて、以上の事柄を踏まえた場合には、ご覧のように石垣の堀際に櫓群を連ねた曲輪というのは、どうしても、本丸か南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸のいずれかを想定せざるをえなくなってしまいます。

そこで、一つの参考事例としてご覧いただきますのが…


前田育徳会蔵『聚楽城古図』より

本丸の北側部分を拡大してみれば…


! これは城の描写が非常に簡略化されていて、なおかつ、そこにある人物名を見ますと、やはり参考資料にとどめなければならないものなのでしょうが、そんな側面をあえて差し引けば、「山口玄蕃頭」という人物の位置づけ―――すなわち、増田長盛や石田三成と並ぶほどの豊臣政権の幹部として、当時の人々に認知されていた可能性をうかがわせるようにも見えます。


そして、その名前がある部分(二ノ丸?の北西部分)を見ますと、そこは文禄2年に「北ノ丸」が新造された範囲に含まれるのか否か、微妙なところでしょう。

北ノ丸と言えば、かつて櫻井成廣先生は「北の丸は『駒井日記』文禄四年四月十二日の条に「北丸御袋様に八木(米の事)千石」の文字が見出されるから、当時関白秀次の母智子(後の瑞竜院日秀)の邸が此の郭に存在したに相違なく、従って彼女の来住以前には秀吉の母大政所が居たのではあるまいかと類推出来る」(『豊臣秀吉の居城』)とまで指摘していて、そこに山口玄蕃頭の屋敷があったとは、ちょっと考えにくい場所ではあります。


それでは、同じく「北ノ丸」がまだ無い状態を描いた、もう一つの資料では…


幕末の画家・名倉希言が書き上げた『豊公築所聚楽城跡形勝』より


なんと、こちらの有名な資料では、同じあたりが加賀少将(前田利家)邸とされていて、こんなチクハグな状態に至った背景を私なりに想像しますと、前々回から申し上げて来た <『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響> がまたここでも“悪さ”を働いて、混乱を助長させたのではなかったのか… と思わず邪推してしまうのです。




かくして、ここでも金雲を使った強引な押し寄せがあり、加賀少将邸の本来の位置はずいぶんと違っていた可能性を含めまして、以上の事柄のすべてを勘案した【仮説】を、この際、お目にかけたいと思うのです。


【本日の結論】 絵画史料に共通した<櫓群>というのは、実は、「北ノ丸」の景観なのでは!!?


(※内堀・外堀の状態は京都大学防災研究所の復元図に基づいて作成)


仮説としてここで申し上げたいのは、山口玄蕃頭の屋敷が本当に「北ノ丸」にあったと言うのではなくて、あくまでも絵図や伝承に基づいた絵師の「見立て」として、このような視点が設定されつつ「北ノ丸」を前景とした景観が(聚楽第を代表して)描かれたのだと仮定しますと、その他の絵画史料との共通性や間違いの伝播(伝染)についても、ある程度、合理的に解釈して行くことが可能なのではないでしょうか。

では、どの絵画史料が一番先で、どれが一番正確なのか、と言われますと、こうした仮説の上に立つなら、『探幽縮図』で本丸からポツンと離れて天守らしき建物が描かれたのも、当ブログ仮説の「加賀少将邸四重櫓」ならば、前田邸の伝承が残る福本町か加賀屋町のいずれであっても、まさにそのように見えた!! ことでしょうから、(※この屏風絵全体は聚楽第の東西南北と行幸の行列との方角が合わなくなるものの…)『探幽縮図』原画の聚楽第の描写じたいは、かなり有力な候補に思えて来てならないのです。




おそらくは、こうした視点から描く『探幽縮図』の原画などが最初に現れ、続いて本丸御殿を強調するためのコラージュ画として『聚楽第図屏風』が作られ、その後に、それらの櫓群(実は北ノ丸)と本丸御殿を踏襲して、城絵図を加味した『聚楽第鳥瞰図』の類いが制作されたのでは… と勝手に想像しているのですが、果たしてどうなのでしょう。??






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年01月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してきた…




前回の年末の記事では、注目の『探幽縮図』と、三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比から見えた「疑惑」について申し上げました。




ご覧のような、金雲を巧妙に使ったギュウギュウの寄せ集め(コラージュ)の可能性を申し上げたわけですが、この『聚楽第図屏風』そのものは、本丸?を囲んだ屋敷に「加賀少将」「松嶋侍従」との貼札があることから、景観の想定としては聚楽第完成の頃(天正15〜16年)と見て矛盾は無く、屏風の制作時期についても、日本美術史の辻惟雄(つじ のぶお)先生が「様式的に見ても、その当時の制作と見て差支えないと思う」と鑑定したものでした。


ということは、その他の聚楽第を描いた絵画史料と比べても、おそらくいちばん早い時期に!…こういう(城郭の主要部分がコラージュされた)描き方の『聚楽第図屏風』が登場したことになりそうです。

ですから、そのことが、もしかすると、幻の聚楽第の描写をめぐる混乱に“いっそう拍車をかけた”元凶ではなかったかとも思えますし、現に、下記のごとき一連の絵画史料の存在が知られています。

個人蔵『聚楽第鳥瞰図』

(これには長谷川等伯が所蔵した屏風絵の「縮本」であるとの裏書きあり)



ご承知のとおり、これと同様の鳥瞰(ちょうかん)図が、大阪城天守閣蔵のものなど何点か伝わっておりまして、これらは一見したところ、堀の配置の様子は伝来の城絵図を踏まえたらしく、ある程度の説得力はあるものの、その一方で、城の中心をなす大型の御殿群が、手前の櫓群のすぐ裏にまで迫って来ています。

思わず私なんぞは、これらが『聚楽第図屏風』のコラージュの(悪)影響ではないのか!?… と叫びたくなってしまいます。


そのうえ、こちらの鳥瞰図はどれも「天守」とおぼしき建物が見当たらない、という別の要素が一貫していて、それはそれで見逃せないものがあり、ならば長谷川等伯(慶長15年没)が所蔵したとか、海北友松(慶長20年没)が描いたとかいう原本の絵図はどう位置づけたらいいのか?… ここは一度、聚楽第の絵画史料の“全体”を見回した整理が必要だと思えて来てなりません。


そこで今回は、注目の『探幽縮図』の方に似た描き方の史料は他にないのか? という観点で見回しますと、有名な堺市博物館蔵の屏風絵が、ほぼ同じ構図であることに気がつきます。



【年初の大胆仮説】聚楽第の構造により忠実な描写は、下の二点なのでは!?

堺市博物館蔵『聚楽第行幸図屏風』との対比 → 構図的には、ずっと近い関係に見える



こちらの二つを並べますと、一見して、ともに左上に本丸御殿があり、両図に共通した<櫓群>は、その本丸御殿とは別郭にあったもののように見えて来ます。

このことはやはり、申し上げた『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響が、いかに(当時の絵師らも含めた)大勢の日本人に、間違った聚楽第のイメージをすり込んできたのか??… という疑念を増幅させるものでしょう。

で、そうした疑念に、追い打ちをかけるような墨書(書き込み)があるのです。


謎解きのヒントは「山口玄蕃屋敷」!!?…



そしてなんと『探幽縮図』には、山口玄蕃頭(げんばのかみ)宗永という、思いもよらぬ名前が書き込まれております。

私なんぞもほとんど知識のなかった武将ですが、玄蕃頭は天文14年(1545年)の生まれと言われ、ちょうど浅野長政らと同世代の豊臣秀吉の家臣でした。


例えば、江戸後期の加賀藩士(富田景周)が加賀・越中・能登の地理歴史をまとめた『三州志』には、山口玄蕃頭について「山口本姓ハ多々良也。周防大内介ノ族ニシテ防州ニアリ。義隆滅亡ノ後秀吉公ニ仕ヘ秀秋ノ後見トナル」とあるそうです。

大内義隆が陶隆房の謀反で死んだのは天文20年ですから、それは玄蕃頭がまだ幼い頃のことであり、それからどのようにして秀吉に仕えたのか、46年も後の慶長2年に小早川秀秋の付家老となって大聖寺城(大正持城)の城主になるまで、その間の経緯があまり分からない、ナゾ多き人物と言っていいでしょう。


玄蕃頭が関ヶ原戦の西軍方として戦死した大聖寺城址 / 天守台かと見まごう本丸の櫓台跡


ただ、その『三州志』には「賦斂(ふれん/税の取り立て)ヲ重クシ金銀ヲ貪(むさぼ)リタレバ領民窮スト云」ともあって、ここからはおのずと、玄蕃頭とは「検地」に巧みな豊臣政権の官僚だったのでは?… という想像力がわいて来ます。(→秀吉の直轄領での検地に活躍した、との話もあるそうですので。)

そして結果的に、玄蕃頭は金銀を大聖寺城に溜め込んだことがあちこちの文献にあるそうで、「家族が城を落ちのびるとき、多量の金銀を持ちきれず、大聖寺川に棄てたという巷説がある。その場所が、今の新橋のあたりだと、幼いころ父から聞いたことを想い出す」と、『聖藩文庫蔵 山口記』を発行した加賀市立図書館の東本進館長が同書で解説しておられます。

ならば、そんな山口玄蕃頭が、もしも『探幽縮図』のとおりに、聚楽第の中に屋敷を与えられていたとすれば、どのあたりが相応しいのでしょうか。



そして、謎解きのもう一つのヒントが「前乃(野)但馬屋敷」??



正直申しまして、こちらの部分に何と書いてあるのか、ちょっと自信が持てないのですが、ひょっとすると「前乃但馬屋敷」と走り書きしたようにも見えまして、正確にはどうなのでしょうか?

―――が、いずれにしましても、上記の玄蕃頭の件と考え合わせれば、これはもう聚楽第の本丸の内であるはずがなく、やはり「別郭」を想定して描いたのだと思わざるをえません。


ということは、結果的に、前回からご覧いただいた『探幽縮図』『聚楽第図屏風』『聚楽第行幸図屏風』『聚楽第鳥瞰図』に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、実際のところは、本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を“コンバートして”描き込んでしまった疑いが出て来るのではないでしょうか。…




(※次回に続く)

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年12月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


今年の6月以来、さんざん話題にして来た「聚楽第」ですが、幻の姿を描いた現存の絵画史料は数が限られていて、その中には、あの狩野探幽(かのう たんゆう)が自らの画業の向上のために書写(スケッチ)し続けた、膨大な量の『探幽縮図』の中にも、聚楽第行幸の屏風絵を書き写したものがあります。

東京芸術大学蔵の『探幽縮図』より / 左端の聚楽第や、門をくぐる天皇の鳳輦(ほうれん)など


(ちなみに、聚楽第の上方に描かれた「天守」らしき建物の拡大)

上記部分のさらに右側 / 天皇の鳳輦から、それを追う関白・豊臣秀吉の牛車まで

上記部分のさらに右側 / 関白の牛車に続く騎馬武者などの行列


さすがに書写(スケッチ)だけに、ちょっと分かりにくい感はあるものの、私なんぞは、聚楽第の御殿の上方にポツンと離れて(!!)描かれた「天守」らしき建物に、まず目を奪われてしまいます。

ですが、それは後ほど詳しく触れるとしまして、この絵の全体を見て(私のごとき素人でも)驚嘆してしまうのは、行列の登場人物がいちいち「名前」を記されている点でしょう。


探幽は原画を手早くスケッチしただけですから、当然、これの原画の屏風絵にも「名前」は書き込まれていたはずであり、そんなところは他の聚楽第の絵画史料には見られない特徴ですから、今回のブログ記事では、ためしに、絵を部分的に拡大しながら、有名な『聚楽第行幸記』にある行列の公家や武将の「名前」と照らし合わせてみたいと思うのです。…


【拡大A】

鳳輦に続くのは、近衛信尹(信輔)、織田信雄、豊臣秀長、豊臣秀次、徳川家康、宇喜多秀家ら…




(『聚楽第行幸記』の行列の記録より / 赤文字が【拡大A】に描かれた公家や武将)


鳳輦。 前後駕輿丁。
 次六位史以下役人。
 此次。
左大臣信輔公。諸大夫。布衣侍。烏帽子着。随身。雑色。かさもち。
内大臣信雄公。随身。  日野烏丸大納言光宣卿
日野新大納言輝資卿。  久我大納言敦通卿。随身。諸大夫。
駿河大納言家(康)卿。随身。諸大夫。
大和大納言秀長卿。随身。諸大夫。


(〜この間の9名の公家は省略〜)

吉田左衛門督兼見卿。  藤右衛門督永孝卿。
備前宰相秀家卿。随身。
関白殿。  前駆。乗馬。



【拡大B】そして「関白殿」の牛車に続くのは…



(『聚楽第行幸記』の続き / 赤文字が【拡大B】に描かれた武将)


関白殿。  前駆。乗馬。
左。
増田右衛門尉。雑色。馬副。此以下同前。 福原右馬助
長谷河右兵衛尉。 古田兵部少輔
加藤左馬助。   糟谷内膳正。
早川主馬首。   池田備中守。


(〜この間の左列26名の武将は省略〜)

稲葉兵庫守。   富田左近将監。
前野但馬守
右。
石田治部少輔。  大谷刑部少輔
山崎右京進。   片桐主膳正
脇坂中務少輔。  佐藤隠岐守。
片桐東市正。   生駒修理亮。


(〜この間の右列26名の武将も省略〜)

松岡右京進。   津田隼人正。
木村常陸介
 雑色左右三十人。
随身。左。
森民部大輔。 野村肥後守。 木下左京亮。
右。
蒔田主水正。 中嶋左兵衛尉。 速水甲斐守。
布衣。
一柳右近大夫。 小出信濃守。 石田木工頭。
三行烏帽子暇衣也。



【拡大C】

さらに続くのは、前田利家、織田信包、豊臣秀勝、小早川秀秋、結城秀康、織田秀信ら…




この【拡大C】に相当する『聚楽第行幸記』の記録は割愛させていただきますが、もうお分かりのとおり、行幸記に記録された「名前」に比べますと、絵の方は、各行列の真ん中あたりの人々を大胆にハショリながら、とりわけ豊臣家に関わる有名どころを“選りすぐって”並べたことが分かります。

そしてここで一つ、大きな“疑問”として申し上げなければならないのは、【拡大B】の騎馬武者の位置が、実際の行幸とは大きく違っているかもしれない、という点でしょう。


もう一度【拡大B】を…


どういうことかと申しますと、ご覧の石田三成から木村重成(重茲)・古田重勝までの左右二列の騎馬武者は、関白の牛車の「前駆」とされた人々であって、実際は牛車の“直前”を進んでいたはずなのに、ご覧の絵では(まさに『聚楽第行幸記』の書き順どおりに!…)牛車の“直後”に描かれている点がおかしい、と言わざるをえないようです。


これは例えば、かつて池享(いけ すすむ)先生が、足利義満や義教による室町第行幸との対比から指摘されたように、「義満・義教の場合、前を行く「太刀帯」「帯刀」は、赤松・伊勢・長・松田・佐々木・土肥・土岐・小早川といった「足利家臣団」=奉公衆クラスで構成されている。私は、これとの対比で、「前駆、乗馬」は増田・石田以下の「秀吉家臣団」を指していると考えたい」(『戦国・織豊期の武家と天皇』)と考証されたとおりだと思うのです。

(→もしそのとおりであれば、関白秀吉の牛車は【拡大B】の木村重成(重茲)の直後を進み、随身らを引き連れつつ、【拡大C】の前田利家がそのすぐ後を続いた、というカンペキな!…位置取りであったことになります)


ですから、これの原画の屏風絵というのは、探幽自身はそれを「永徳かと弟子ノ画」と推定しましたが、以上の事柄から申せば、謎の絵師は少なくとも『聚楽第行幸記』そのものや、その他の聚楽第(行列?等)を描いた絵画史料をしっかりと集めたうえで、それらに基づいて(ある意味で)精緻に、工夫をこらして制作した作品であった、と言って良いのではないでしょうか。




<では肝心の「聚楽第」の描き方はどうなのか?…>





【左端の拡大】→「大ひろ間」などの大型の建物群が、屏風絵の左側に(はみ出して)続いている…



さて、聚楽第行幸は天正16年と20年の2回にわたって行なわれましたが、ここまで申し上げた『聚楽第行幸記』との照合から、ご覧の『探幽縮図』の行列は、まさに天正16年の“1回目”の行幸を想定して描いたことになります。

(※ちなみに、2回目の豊臣秀次による聚楽第行幸では、行列に諸大名の大多数が参加しなかったと言われます)

では、そうした想定を踏まえて『探幽縮図』の聚楽第の描き方に注目しますと、まず本丸御殿の大型の建物群が、屏風絵の左側に大きくはみ出していることが分かります。

そして絵の上端には、ずいぶんと離れた位置に「天守」らしき建物がある、というのは、いったいどういうことなのか? という疑問がふくらむのですが、これの答えになりそうなのが、何度もご紹介してきた三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比です。




左右を比べてよくご覧になればお分かりでしょうが、両者は、堀際の櫓の様子に似たところが何箇所もある一方で、内部の敷地の御殿については、『探幽縮図』の方がずっと広々と、余裕を持って配置されております。

では、この違いは何に起因したのか? と考えますと、結論は、『探幽縮図』の方に原因があるのではなく、むしろ有名な『聚楽第図屏風』の方に大きな原因(描き方の欠陥!?)があるのだと分かって来ます。


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してくる…



いかがでしょう。ご覧のように、両者の対比では、『聚楽第図屏風』は本丸御殿が異様なまでに手前に“押し寄せて”来たことが分かります。!

それを可能にしたのが、赤く変色させた「金雲」でしょう。実に巧妙であり、誰かがこう言わなければ、表面的には何の不自然さも感じさせないほどでした。


……これまでの長い間、聚楽第を描いた絵画史料としては最も「精緻だ」と言われて来た『聚楽第図屏風』ですが、このように見直しますと、かなりの変形や省略、合体などが数多くなされていて、そうした点を踏まえれば、ポツンと離れた「天守」らしき建物も、同様に、本丸側へ、異様なまでに“押し寄せて”来たのでは?… という疑念が生じてまいります。

ですから、これはもう、例えが悪くてたいへんに恐縮ですが、『聚楽第図屏風』の聚楽第というのは、城郭の主要な部分が(金雲を巧妙に使って)ギュウギュウの寄せ集めにされていて、それはあたかも、交通事故でペシャンコになった自動車のような??描き方になっているのではないか… とさえ感じられるのです。


(※次回に続く)




【2016年末の年越しにあたって】

ご承知のとおり、この2年ほどは、恒例の年度リポートをまとめることが出来ないまま、また年越しになりますが、テーマは依然として「聚楽第」を考えておりまして、来たる2017年には、次回の年度リポートを(出来れば聚楽第「御三階」のビジュアル化などを含めて)お届けしたいと思っております。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年12月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること





問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること




このところ申し上げて来た「築城当初の聚楽第には天守が無かった可能性」に関しては、これまでずっと『聚楽第図屏風』等には「天守」が描かれている、と言われ続けて来たわけですから、もし天守が無いとなれば、ご覧の天守らしき建物(四重櫓?/間近の貼紙には「加賀少将」と墨書あり)はいったい何なのか? という一件が、最後に残された問題と言えるでしょう。

かく申し上げて来た私も、この件については、ややおぼつかない状態ですが、ただ、今年発表された聚楽第跡地の地中探査の結果が出る以前から、屏風絵の建物については、ある“印象”を持ち続けて来ました。

――― それは、この建物が、毛利輝元が建造した「萩城天守」と、構造的によく似ているなぁ… という印象でした。


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』をもとに(色味と明るさを変えて)見やすく作成

萩城天守の有名な古写真


などと申しますのは、試しに、ご覧の萩城天守の古写真を、その左右を反転させたうえで、『聚楽第図屏風』の描写と並べて見てみますと…


!!―― 両者ともに、背後に <大型の付け櫓> が付く構造が共通していたのでは?



ご覧のとおり、両者は背後に大型の付け櫓が付属している点が共通しておりまして、それを除く本体部分も規模・構造ともに似たような所があり、そのため右側写真の『聚楽第図屏風』の方は“四重櫓”と言いつつも、その内部は五階か六階建てであったように見えて来ます。


そして、いっそう重要な事柄は、以前のブログ記事でも申し上げたごとく、萩城天守とは、本丸や指月山山頂の詰丸を背後に背負う形であって、そうした姿はどこか <豊臣大坂城の西ノ丸天守> へのオマージュとして(関ヶ原合戦の際にはそこを拠点として天下をうかがった)毛利輝元の“思い”が込められた天守ではなかったのか? という点でしょう。


豊臣大坂城の西ノ丸天守の位置→惣構(そうがまえ)の中心点でもあった※関連記事


萩城天守の位置→絵図の中央やや下(毛利家文庫蔵『萩絵図』より)


すなわち、豊臣秀頼のいた本丸を背後に背負いつつ、西向きに建っていた西ノ丸天守。

そして同じく、指月山の詰丸や本丸を背負いつつ、南向きに建っていた萩城天守。

この萩城天守の方は、天守背後の北面に「大型の付け櫓」を付属させて、本丸との連絡の機能を持たせていた…

となれば、それとよく似た『聚楽第図屏風』の四重櫓もまた、「大型の付け櫓」のある方向に、必ずや「本丸」があったはず!!…




ということで、両者を「大型の付け櫓」を重視しながら見比べますと、このような考え方にならざるをえないわけでして、そうなると、おのずと『聚楽第図屏風』の方の描写は(これが仮に本丸の北西隅の「天守」であったとしても…)そもそも“建物の向きがおかしい”と言わざるを得ないのです。


問題の建物は、構造面から言えば、実際は <真逆> を向いていたはず…




そこで、当ブログなりの想定をさらなる我田引水で申し上げますと、この『聚楽第図屏風』の四重櫓は、聚楽第本丸を取り囲んでいた大名屋敷(広義の二ノ丸)のいずれかで、本丸を背後に背負いつつ、城外を向いて建っていたと考えた場合は、実は、それとよく似た姿の城が一つ、思い当たります。


【ご参考】山形城の古絵図より


豊臣政権下で外様の大大名であった最上義光の山形城は、慶長年間に拡充して修築され、ご覧のとおり(奇しくも聚楽第と同じく?)本丸に天守が無かったかわりに、二の丸の西側の中程に「御三階櫓」を設けていました。


この三重櫓、城内で最大の櫓でありながら、防御的な観点から申せば、どこか中途半端な位置に築かれておりまして、その点では意図がよく分かりません。

ひょっとして、この櫓は豊臣家の「西ノ丸天守」と何か関連性があったのでしょうか?…


では、ここまでご覧いただいたところで、大変に遅ればせながら、聚楽第での「加賀少将邸」の位置を確認しますと…


広島市立中央図書館蔵『諸国古城之図』山城 聚楽



――― 前田利家(加賀筑前守・左近衛権少将)邸は、ご覧の『諸国古城之図』の「山城 聚楽」では、本丸のちょうど西側の!! 二ノ丸にあったとされるのです。


一説には、前田利家邸は、後に築造された「北ノ丸」の位置であったとも伝わりますが、ご覧の有名な絵図では西側の二ノ丸に描かれていて、もしもこの位置に、かの四重櫓(=西ノ丸天守!?)が背後に大型の付け櫓を備えつつ、城外の西を向いて建っていたと仮定しますと、

それは背後の本丸を守る以上に、大陸遠征をひかえたこの時期、より東側の「御所」も守護すべく、ひときわ象徴的に、そこ(王城警護の最前列)に在ったのだとさえ思えて来ます。…

(→この建物は朝鮮出兵では国内残留組の前田利家の預かり、という形か?)


実に、この辺りに、問題の「加賀少将邸」四重櫓の謎を解く、大きなヒントがひそんでいるように感じるのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から





聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から



(※TV報道画面からの切抜き)

(中井均『城館調査の手引き』2016年より)

現在復元が進められている名古屋城(愛知県名古屋市)の本丸御殿は慶長十五年(一六一〇)に造営された慶長期を代表する御殿であったが、表部分が手狭となったため、元和六年(一六二〇)には二の丸に広大な御殿が造営され、藩主御殿は二の丸に移った。

空となった本丸御殿はその後、徳川将軍の上洛用の御殿となるものの、ほとんど使用されることはなかった。






このように江戸時代においては、各地の譜代大名の城などで、本丸が天下人(徳川将軍)の宿所や御成りの場にあてられ、大名自身は二ノ丸に自らの御殿を構えた例がかなりの数に登りました。

そうした慣習に従うならば、城内の各御殿の順位というのは当然、【本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】という順位になるのでしょう。

で、この点について申しますと、そんな慣習(本丸を天下人の宿所にあてること)は必ずしも、江戸時代に入ってから突然始まったとも思えない節がありまして、例えば織田信長の頃に、坂本城を築いた明智光秀が、客人の吉田兼見を小天守でもてなした(→つまり大天守を外した)との記録があったり、または前々回も挙げた小早川隆景の三原城本丸御殿の件(→実は豊臣秀吉の御成り御殿?)があったり、さらには倭城の順天城では在番の小西行長が本丸を使わなかった、等々の事例があるからで、城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想は、江戸時代よりいくぶん前からあったように感じるのです。


そうした中で、どうも不思議だなぁ… と私なんぞが感じて来たのが「高知城」であり、現存する本丸御殿(わずか二例)の一つである高知城の本丸御殿が、築城当初は城主の山内一豊自身の御殿であったという点に、違和感を感じたのです。そこには何か、特殊な事情や仕掛けがあったのではないのかと。

(※ちなみに現存例のもう一方、川越城については、本丸御殿の奥の「天神曲輪」が、実は旧来の本丸(詰ノ丸)ではなかったか? という疑問も残るため、ここでは除外させていただきます)


高知城の航空写真より

本丸周辺の現状の略図


かように申し上げましたのは、今ある本丸御殿は江戸中期の火災後に再建されたもので、天守もほぼ同時期に再建されたのですが、ご覧のごとく天守と本丸御殿が寄り添って建つスタイルは、一豊の築城の頃からの伝統的な姿だとされていて、ならば当時の様子を、改めて想像してみますと…




一豊はこの時、徳川幕府のもとで外様大名の立場(→すなわち徳川将軍の「宿所」の可能性はゼロ)ではあったものの、冒頭から申し上げた“大天守や本丸は天下人のもの”という発想からしますと、ご覧の様子は、どこか僭越(せんえつ)と見られかねない“危険”を私なんぞは感じてしまうのです。

思えば、この時期、同様の立場にあった外様大名(旧織田・豊臣の配下で関ヶ原合戦の東軍諸将)を考えますと、例えば福島正則の広島城は、本丸内に“平然と”自らの御殿と(新築の?)大天守をセットで設けていましたが、その逆に、細川忠興の小倉城や浅野幸長の和歌山城などは、本丸(天守曲輪)を天守や多聞櫓で囲うだけに留めて、自らの御殿は天守とは別の曲輪に設けていた(言わば江戸時代を先取りした?)スタイルであったとも言えるでしょう。

(※追記:ちなみに加藤清正の頃の熊本城も、慶長16年に萩藩の密偵が描いたという「肥後熊本城略図」によれば、やはり後者!の城なのかもしれません。天守は大天守のみの独立式で、本丸に大広間はまだありません!!…)



ですから問題は前者の広島城の方であり、高知城と同じく、それは天下人の豊臣秀吉や徳川家康から「僭越」と見られかねない危険をおかしていたことになりそうですが、しかし、しかし、そこには一つ、ある特殊な事情(仕掛け)があったのではないかと、あえて今回は申し上げてみたいのです。

すなわち…




いかがでしょうか?

そもそも天守の原形は何であったか、それは織田信長の安土城天主のごとき「立体的御殿」であったという事情を知っていた(はずの)旧織豊大名らにしてみれば、本丸内にそうした天守と自らの御殿を並べるという行為は、すでに一つの「方便」として、天下人に対する一応の体裁を整えたことになっていたのではないでしょうか。!!…


…などと申しますのも、一豊が高知城を築き始めた慶長6年には、もはや天守の実態は「立体的御殿」ではなくなっていたのでしょうが、そんな「方便」がまだ通用したのだと仮定しますと、冒頭から申し上げた「城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想」は、実に 織田→豊臣→徳川 と一貫して、諸大名の間の不文律として受け継がれたことになります。

それこそ、藤田達生先生のおっしゃる「預治思想」がこんな部分に影響したのかもしれませんし、その間においては、城内の各御殿の順位が玉突き状にスライドしたのかもしれず、本来の順位は、

【立体的御殿(天守)―本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】

という順位であったのかもしれません。


(※追記:このところ申し上げた記事との関連で整理しますと、豊臣政権下の「外様の大大名」たち=徳川・毛利・織田信雄らに限っては、このような「方便」さえも辞退して、以下の聚楽第の風景にならいつつ、自らの城を「小天守」にとどめたのではなかったでしょうか?)




<築城当初の聚楽第には「天守」がまだ無く、せっかくの天守台上が

 ガラ空きであった可能性の「原因」「理由」としても…>








さて、当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉による築城当初は、まだそこに天守が(少なくとも望楼型の天守は)無かったのではないか?? との疑問を申し上げてまいりました。

例えば徳川家康の二条城においても、築城準備を始めた慶長6年に対して、初代の天守(=大和郡山城天守の移築か)を建てた年は慶長6年説から7年説・8年説・11年説と様々に言われていますから、聚楽第でも、最初は天守が無くても不思議ではないのかもしれませんが、ただ、聚楽第の場合は天守台の独特の形状(本丸の北西隅にかなり飛び出た構造)が原因と思われますので、やはり異様な事態… かなり特殊な事情によるレアケースが持ち上がっていたとも想像できます。


そこで、その「原因」「理由」を大胆に推理しますと、今回申し上げた「どこが天下人の宿所か」という問題が、とりわけ聚楽第は天皇の行幸を大前提として築かれただけに、天守という新種の建築物の使い方をめぐって、足利義教以来の150年ぶりの行幸をおこなう上で、政権内部に思わぬ“混乱”を引き起こしていたとは考えられないでしょうか。


聚楽第に向かう後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



すなわち、聚楽第は豊臣政権の政庁と言われますから、そこに天守があがれば、それは当然、天下人の秀吉を示す旗印であり、秀吉の存在(居住や宿泊)を京都盆地一帯の人々に見せつける強烈なランドマークになったはずでしょう。(→現に妙顕寺城の天守はその可能性も…)

しかし、そんな聚楽第に天皇の行幸をあおいだ最大の眼目は何か、と言えば、諸大名がずらりと居並ぶ大広間において、その最上段に天皇が着座しつつ、それを補佐する形の(天下人)秀吉に対して、すべての大名らが臣従を誓うセレモニーを成功させることであり、それが豊臣政権の命運をにぎっていました。

で、そのために迎えた後陽成天皇の「宿所」はどこか、となると、後の二条城と同様に、城内に行幸殿の「儲(もうけ)の御所」を造営したことが『聚楽第行幸記』に書かれています。


――― ならば、そんな城内の風景の中で、天下人の「宿所」をも意味する(なおかつ公家社会とは無縁の)新機軸の「立体的御殿」(=天守)を、ヌオッと御殿全体を見おろすように建ててしまっても、大丈夫なのか?

――― それが政権の意図とは逆効果になって、重要なセレモニーを進めるうえで、差しさわりが生じるのではないか?…

そんな、日本史上、初めての経験を前にした心配が、相手は天皇や公家らも含むため予断を許さず、ここは緊急避難的に、天守台だけ雄大に(→掘の対岸から見えやすい形状を特別に工夫しつつ!!)築いてみせるものの、そこに天守そのものは建てずにおこう、という超レアケースの対応を、秀吉本人らが決断したのでは? と想像するのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?






加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?




ご覧の加藤理文先生の著書『日本から城が消える』はこの夏に出版されたものですが、刺激的なタイトルに示された懸念については、これまでに当ブログもそれに近い話題(「コンクリート天守」云々…)を記事にして来たため、まことに遅ればせながら、この本についての感想を手短かに申し上げてみたく存じます。


この本は表紙の黄色い帯で「名古屋城、江戸城の再建はほんとうに可能なのか?」という話題のテーマをキャッチコピーにしながらも、内容的には、明治時代から最近までの城郭再建の歩みを網羅(もうら)的にまとめておられます。

とりわけ全国の「コンクリート天守」の耐用年数が終わりつつある問題や、掛川城・大洲城・金沢城などの木造復元の実情(いくつもの妥協があったこと)を紹介しつつ、いま話題の天守の木造再建が「費用や材料の問題以前に、じつは法律の問題が大きく横たわっているにもかかわらず、報道ではまったくふれられていない」ことに焦点を当てたものです。



(同書「はじめに」より)

戦後、城が復興されたときの法律と、今の法律はまったく異なってしまった。

より安全性や利便性が優先された法改正は、「文化」を置き去りにしてしまったのである。

城は、文化財保護法だけではなく、建築基準法や消防法等、一般住宅のために制定された法律の対象となったのである。




つまり、城やその中の天守というのは、本来ならば法隆寺の夢殿や平等院の鳳凰堂などと同類の、我が国の歴史・文化的な「遺産」のはずなのに、高度経済成長期の観光開発として「コンクリート天守」などが重宝(ちょうほう)された結果、今ではそこに消防法!!! までが適用される実態を、加藤先生はこの本でつまびらかにしておられます。

そうした環境の下では、本家本元のはずの現存十二天守は、言わば現行法の規制の対象外として、仕方なく認められたクラシックカーのごとき存在だと分かるのです。!!

ですから話題の名古屋城など、これから木造で天守を再建しようにも、またはコンクリートのまま建て替えようにも、実は「法律」の強力な壁で建て替えられない(→解体したら、もうそのまま消えるしかない)というケースが、全国でいくつも出現する可能性があり、そのため <消える城の危険度> を検証したくだりは、この本の最大の見どころでしょう。


加藤先生が、消滅の時期が最も早い存在、と予想した洲本城の模擬天守



さらに加藤先生は、中世城郭の土の城を含めて、多くの城跡が“公園”と見なされてバリアフリー化していく大きな矛盾についても指摘し、それらが相まって、『日本から城が消える』というタイトルどおりの懸念が現実化する実態に警鐘を鳴らしています。

新刊書ですから、これ以上、“ネタばれ”になる感想は申し上げられませんが、先生ご自身の懸念に対する「結論」とは別に、私なんぞはもう一つ、別の「結論」もありうるような気がいたしました。

…          …

と申しますのは、「コンクリート天守」を抱えた県庁所在地などの自治体は、住民の根強い願望(やはり天守閣は欲しい…)と法律との板ばさみになったあげく、やむなく、苦肉の策に突き進むのかもしれない、という悪い予感です。

――― すなわち、現状の「コンクリート天守」の延命化を、何が何でも、どんな手を使ってでも、新しい建築技術や法の網の目をかいくぐる裏の手段を使ってでも、永久に、頑(かたく)なに続けるだけではないのか… という、ゾッとするような「結論」が頭に浮かんだのです。

勝手な妄想で申しますと、例えば、寿命が近づいた「コンクリート天守」を部分的・計画的・段階的に改修して行って、いつの間にか、それが新築同然!の別のコンクリート天守に“すり替わっている”などという画期的な新工法が開発されるのは、そう難しい話でもないように感じるのは、私だけでしょうか。…


【ご参考】旧川崎銀行の外壁だけ残して近代化された日本興亜損保横浜ビル

これほどの技術なら「昭和のコンクリート天守」を未来永劫、残すことも可能なのでは?…




おきて欲しくない、実に悪い予感ですが、こうした技術を応用して、あくまでも「改修だ」と言い張れば、加藤先生が指摘された法律上の様々な制約には引っかからずに済むのではないかと思われますし、あとは予算と住民願望との折り合いだけで、その結果は、史跡のど真ん中に「昭和のコンクリート天守」が日本の城郭建築として固定化するという、おぞましい未来像が頭に浮かんで来て、それはひとえに現行の「法律」がそうさせるのだ、という点を叫びたくなりました。

ひょっとすると、文化財保護法や建築基準法は、城の分野においては、かつての徳川幕府の「一国一城令」に勝るとも劣らない! 歴史的にいちばん“強固な法令”になって行くのかもしれません。


で、さらに問題なのは、そんな状態が悪いこととは感じない人々が日本社会の多数派かもしれない… とりわけ「天守閣」などは、それでいいじゃないか、と言う人が多いのかもしれない、という絶望的な気分もぶり返して来たのです。


思えば、今年春に耐震改修を終えた小田原城天守閣も、ちょっとそんな印象を感じさせるもので…


(※写真は産経ニュース様より引用させていただきました)

この際、極端な言い方でたいへんに恐縮ですが、おそらく「コンクリート天守」というものは、薬物などと同じで、一度やったら止められない、という類いの強い“魔力”を持っているのではないかと、常々、私なんぞは感じております。

つまるところ、戦後の日本的な民主主義のもとでは、<コンクリート天守の木造再建> などという社会や時代のスケールを超えた難問は、きっと名古屋市の河村たかし市長のような独善的な政治リーダーがいなければ進まないし、解決の道筋も付けられない政治案件なのかもしれません。

――― そこで、さもなくば私なりの一案として、現状維持を旨とした「文化財保護法」に加えて、学術的に間違った現状を、より正しい旧態に戻すことに強力なインセンティブを与える「文化財<保全>法」とでも言うような新法が必要かと思うのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年10月26日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか






信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか


天正20年以前に毛利輝元が広島城で創建した天守(=小天守)か?

天正17年に徳川家康が駿府城で創建した「小傳主」か?


当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉が築いた頃の聚楽第というのは、巨大な天守台が本丸の北西隅にかなり飛び出た形であった可能性が浮上したため、そうした構造は望楼型の天守にそぐわないことから、そこにはまだ天守の類いが建っていなかったのではないか?(天守台だけ)との推測を申し上げました。

で、そのように考えますと、妙なことに、豊臣政権下の“外様の大大名たち”の城も… 例えば上記の広島城や駿府城も、ひょっとすると、当初は聚楽第と同じく本丸北西隅は天守台だけの状態であり、それに代わる「小天守」を別の一隅に建てて、本丸の威厳を保ったように思えることも申し上げました。そこで…


清洲城の模擬天守

『ビッグマンスペシャル 秀吉の城』1994年より


そんな中でさらに申し上げるなら、ご覧の豊臣政権下の清須城(清洲城)も―――すなわち“もう一人の外様の大大名”として名前を挙げざるをえない織田信雄(おだ のぶかつ)以降の清須城もまた、有名な「清洲越し」の伝承において「小天守を名古屋城に移築した」との記録はあるものの、肝心の天守については何も伝えられていない!(それは何故か)という不思議な一面があります。

そこで従来は、上記イラストのような“天守の”推定復元が我々の興味をかき立てるばかりでしたが、冒頭の聚楽第の状況が判明した現在は、ここで一度立ち止まって、50年ほど前の名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)の解体修理で発見された転用材の“意味”を、もう一度、とらえ直してみるのも良いのではないでしょうか。

その場合、50年前の転用材の発見を踏まえた城戸久先生の“視点”が、いまなお大切なキーポイントであると私なんぞには感じられてなりません。


転用材が使われた名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)


(城戸久「付・清洲城の建築」/『名古屋城と天守建築』所収より)

『聞惟筆乗』によると、

 清須櫓と云ふは御城乾角の櫓をいふ。清須の小天守よし

とあって、古くから清洲城小天守を移築したものと伝えられているが、その構造、材料について見ても、他櫓と相違するところが多くあって、所伝は信じるに足るものである。

(中略)
……名古屋城造営にあたって、清洲城の櫓を移築することはこの城の造営事情から見て、清洲城の伝統と由緒をこれに受けつがせる意図があったに相違ないのである。

移築には少なくとも清洲城の代表的城櫓が選ばれたであろうし、古伝には小天守とも北櫓ともいわれているが、それは天守に相当するか、さもなければそれに代わるところの建築物であったと考えてさしつかえはなかろう。



古伝の「清須の小天守よし」の真意は、解体修理の結果から、部材の転用という形であったことになりそうですが、それにしても、城戸先生の言う「意図」を重んじるなら、なぜ天守ではなく「小天守」だったのか? という疑問が、これまでずっとつきまとって来たわけです。

ところが今夏、聚楽第の意外な実態が判明してみれば、まさにコロンブスの卵であり、そもそも織田信雄らの清須城には“「小天守」しか無かった”のならば、全くもって「清須の小天守よし」で問題は無かったことになります。


織田信雄像(総見寺蔵/ウィキペディアより)


そしてさらに気になるのは、西北隅櫓の転用材のうち、床の根太は(旧建物の)手すり勾欄の地覆材であり、それらには飾り金具の跡があったという点でして、したがって問題の清須城「小天守」は(小天守なのに…)きらびやかな高欄・廻り縁のある望楼型の天守建築だという点でしょう。

と申しますのは、歴史上の大小連立天守などで、小天守にそれだけの“華麗さ”を施した例は現状では一つも確認できないように思いますので、これだけをとっても、豊臣政権下の織田信雄→豊臣秀次→福島正則らが城主の清須城には、城内唯一の天守建築として「小天守」しか無かったのだ(→本来の天守台上には何も無かった)という可能性が濃厚に感じられるのですが、いかがでしょうか。



清洲城の本丸跡の天守台らしき台上 / 現状は織田信長を祀る小社

江戸時代の「春日井郡清須村古城絵図」をもとに勝手に推定すれば…





<ならば小早川隆景の三原城など、他の大大名たちの居城はどうなのか?>




正保城絵図「備後国之内 三原城所絵図」(国立公文書館蔵)より


さて、ご覧の三原城は、毛利元就の三男で豊臣五大老の一人・小早川隆景(所領37万石)の居城でしたが、ここも本丸北端(三角形の北西隅)は巨大な「殿主台」だけの状態で、天守が無かった城として知られています。

が、天守は無くとも本丸御殿は壮大なものだそうで、松岡利郎先生によれば…

「その大広間の規模施設や金一の間の座敷飾りは、広島藩家老級のものにしては格式の高すぎる建物である。したがって、建立年代は小早川隆景の築城当初にさかのぼる可能性が高い。

 ちなみに、豊臣秀吉は天正十五年九州遠征や文禄元年(一五九二)名護屋城往還の途中に三原城へ寄って宿泊しており、その御成りを迎えるために設けたと考えられ、きわだった特色が認められる」
(『毛利の城と戦略』1997年より)

というほどの城であったのに、何故そこに天守が必要なかったのか、理由はよく分かっておりません。


かくして、豊臣政権下の“外様の大大名たち”の城は、意外にも、天守らしい天守の無い城がいくつもあり、冒頭の徳川家康の駿府城や江戸城(255万石)、伊達政宗の岩出山城(58万石)、島津義久の富隈城(56万石)、佐竹義宣の水戸城(54万石)、最上義光の山形城(24万石)など、どれも豊臣期の大大名の居城としてはかなり控えめな景観でした。


―――そもそも「天守」とは、おそらくは、貴種の生まれでない天下人(→氏素性の怪しい天下人、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら…)のために考案された政治的モニュメントであろう、というのが当サイトの一貫した考え方でして、その意味では、島津氏などは領国統治のために「天守」など必要なかったと言えましょうが、問題は、下克上で急成長した(もしくは豊臣政権下で移封された)大名たちです。

ですから、徳川家康や伊達政宗らは、本来ならば“天守の力”も借りて豊臣政権下の領国経営を行ないたかったはずだと思うのですが、彼らは外様の諸侯に過ぎなかったためか、聚楽第の景観に一つのアイデア(模範!)を得て、天守台には天守の無い、小天守のみの <聚楽第チルドレンの城> というカテゴリーを産み出していたかのようにも見えるのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた






大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた




前回は「予談の予談」ということで、私なんぞが感じている石田三成の人物像(いま盛んに言われる「義」の武将ではなくて「預治思想」の権化となった成り上がり高級官僚だったのでは?)を思い切って申し上げましたが、その最後には、ご覧の「武断派」七将と徳川家康との“壮大な共犯関係”についても、勝手な見方を申し上げました。

そうした見方の出発点になったのは、豊臣秀長(とよとみのひでなが)が「武断派」諸将を「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」と呼び、「それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」とまで兄の豊臣秀吉に迫ったと伝える『前野家文書』であり、それに着目した白川亨先生の『歴史群像』の記事でした。


 豊臣秀長像(永観堂蔵)


その『前野家文書』の記述や白川先生の指摘が正しいのなら、秀長は「武断派」に対してかなりの危惧を感じていたことになり、彼等の要求は、豊臣政権の行く末にいつまでも不安定感をもたらす(→もし朝鮮出兵が無かったとしても、そのハケグチは国内でどう処理できるのか?)という前途多難なイメージを持っていたのではないでしょうか。

以前のブログ記事では、秀長が「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語ったとおりに、「公儀」を代行した秀長と千利休という巨頭コンビが政権初期を支えたものの、やがて石田三成・安国寺恵瓊らの「吏僚派」が諸大名との取次役として実力をつけ、秀長や利休を圧倒するようになった(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)との指摘を引用しました。


……となりますと、<秀長・利休コンビ―武断派―吏僚派―関白の豊臣秀次> という豊臣内部の各派閥の関係はどうなっていたのか? それぞれが四つ巴の対立だったのか、そうとも言えないのか、頭の中がこんがらがりそうで、整理が必要です。

そもそも「武断派」と石田三成との対立が言われるのは、およそ朝鮮出兵が始まってからのことと断言していいのでしょうから、それは前回も若干触れたように、「武断派」七将は朝鮮出兵の困難と失敗(=高禄への期待外れと徒労感)が原因で、秀吉亡き豊臣政権には期待が持てない(→番頭役の三成が「預治思想」の権化ではまったく救いが無い!!…)と見限って、外様の大大名・徳川家康との“共謀”に走ったのだと見ていいのでしょう。


ですから、ここで一つ確認しておきたいのは、そういう権力闘争の対立軸として、石田三成や加藤清正など秀吉子飼いの武将を <吏僚派と武断派> の二派にわけて論じる言い方はおなじみですが、その一方で、かなり早い時期から、外様の諸大名も含めた形の<「集権派」と「分権派」>という大きな色分けで論じることも可能だとされて来た点です。!


この件は、当サイトが天守の形態(望楼型と層塔型)には建造目的の本質的な差があり、それは結局、城主が「集権」「分権」のいずれを志向したかとも関わる、という独自の主張をして来たこともあって、たいへんに興味のある事柄です。

それと申しますのは、近世史の大御所・朝尾直弘先生の「豊臣政権論」という、いまや古典的な論文(1963年!)なのですが、この論文の中で先生は、天正末期(小田原攻め以前)の豊臣政権の<東国政策>のなかに「集権派」と「分権派」が分かれるシチュエーションが生まれ、やがてそれが豊臣政権を崩壊させる「構造的な矛盾」につながったのだとしていて、私なんぞには、まことに印象的だったのです。…




(朝尾直弘「豊臣政権論」/『岩波講座 日本歴史9 近世1』より)

がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。

一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
ここに、増田・石田―上杉―佐竹・宇都宮・結城―蘆名の系列が形成されていたことがわかる。

これに、比較的この派に近い南部・秋田氏を入れると、その背後に北国海運の商業資本の存在まで予測することも可能であるが、それより大きなこの系統の特徴は、いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。

つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。




朝尾先生が指摘した「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…

小田原攻め直前の、東国大名の領国と支配地(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)


(さらに「豊臣政権論」より)

同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。徳川・北条・伊達 三氏である。

豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。

徳川服従の後は宥和(ゆうわ)路線は家康を通じておこなわれ、富田知信・津田信勝らがこれにからんで動いており、さらに施薬院全宗・和久宗是といった秀吉側近の名が浮かんでいる。

豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。




朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・豊臣秀次…


――― !! という風に、こうして見直しますと、朝尾先生が分類した<「集権派」と「分権派」>の色分けは、この直後の小田原攻め(戦国大名・後北条氏の滅亡)から、秀長の病没(毒殺?)と千利休切腹、関白・豊臣秀次の切腹、と続いた豊臣政権の重大事と深くリンクしているようで、なおかつ!後々の関ヶ原合戦の東西両軍の色分けとも大きく重なっていて、驚きなのです。




<豊臣秀長は外様の「分権派」大大名の取りまとめ役を自任していたか>






さて、そうした中での秀長の役回りが、大きく問われることになると思うのですが、秀長が天正19年に亡くなる3年前に、豊臣に臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

前述のとおり「公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語っていた秀長の心は、外様の大大名との融和に重きがあって、「秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている」(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)という風に、小早川隆景や徳川家康らに対して、兄・秀吉になりかわる格別なもてなしを行いました。

そうした秀長の厚遇に返礼するため郡山を訪れた家康は、そこで秀長の天守を目撃したはずであり、当ブログでは、近年の大和郡山城天守台の調査結果から、かつて宮上茂隆先生らが主張された「大和郡山城→二条城→淀城への天守移築説」の信ぴょう性が高まった件を申し上げ、松岡利郎先生の淀城天守の復原案も踏まえた推定シミュレーション(イラスト)を作ってご覧に入れました。


松岡利郎先生の淀城天守復原案(赤線の図)が、天守台の礎石列に合致!!

松岡利郎先生の淀城天守復原案(立面図)

当サイトの大和郡山城天守の推定復元シミュレーション

(付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現)



で、ご覧のように秀長の大和郡山城天守は、大きな改築をともなわずに、そっくりそのまま、家康によって二条城に移築されたと思わざるをえない“状況証拠”が出て来ております。

この、天守の歴史において、まことに稀有(けう)な出来事は、それ相応の“意図”が無ければ実現しえないことであり、必ずしも秀長自身は「史上初の四方正面天守」という意識は無かったのかもしれませんが、それを見た家康の心には、この天守に対する強い“思い入れ”が生じていたのでしょう。


かくして誕生した家康の二条城「移築」天守というのは、天下分け目の関ヶ原合戦から三成・安国寺恵瓊・小西行長の“斬首”という決着を経て、かつて秀長が擁護(ようご)した「分権派」の最終的勝利を天下に見せつけた、文字どおりの「金字塔」と見えて来てならないのです。


…      …


政権初期を支えた「名補佐役」秀長の尽力によって、豊臣政権は早い時期から「集権」と「分権」の両方をかかえ込んでいたようで、そこにからんだ「武断派」七将の思惑の行方は、朝尾先生の先の論文のしめくくりにある“哲学的な文面”にもあらわされていて、本当に私なんぞは恐れ入ってしまうわけでして、最後は是非とも、その部分をご覧いただきますと…



(朝尾直弘「豊臣政権論」1963年より)

集権体制が強化されながら、それが豊臣政権として終わりを全うしえなかったのはなぜか。

政権が(豊臣)秀次を抹殺し、関白職を頂点とする支配体制を脱皮した瞬間、「天下をきりしたかゆへき」実力が新しい体制原理として上下に貫徹した。

新しく形成された「公儀」は、もはや関白という伝統的権威においてでなく、実力と実力のぶつけあい、その均衡において成立しており、実力の階層序列の新しい編成をめざして 公然たる運動が開始される場として成立していた。

(中略)
その意味では、秀吉が死にさいして家康らを「五人のしゆ(衆)」と呼び、三成らを「五人の物(者)」と私的なニュアンスの強い呼称で区別したのは(『毛利家文書』九六〇)、豊臣政権末期における政権内部の構造的な矛盾がどこにあったかを明確に示すものであったといえよう。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年09月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!「革命」は 信長→秀吉→三成 の三人で完成するはずだった? 時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説






「革命」は 織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった?


天下人の偉業の継承者・石田三成が完成させられなかった「革命」を、

268年後に実現したのが 大久保利通だったのでは… というお話。



!!
<<石田三成は本当に、豊臣家への「義」のために、決起したのだろうか?…>>


全国の三成ファンの方々が聞いたら、今なら一気にフクロ叩きになってしまいそうな、こんな疑問を、実は、私は長いこと胸の内に抱えて来ておりまして、なかなか自信を持てずにいたのですが、最近ようやく藤田達生先生の中公新書『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(2014年刊)を読んだことで、いささか気分が軽くなった思いがしています。




と申しましても、藤田先生の本に、決してそんなことがズバリと書いてあるわけではないのですが、この中の先生の指摘や各分野の学説の動向を読み進むうちに、「やはり、そうだな…」と、けっこうな手応えを感じるに至りました。

すなわち、石田三成は豊臣家に対する「義」のために決起したのではなくて、もっと別の「ある大望」を完成させるには、何としても、それに逆行していた徳川家康という巨魁(きょかい)は排除せざるをえない、というイデオロギッシュな!闘争のために決起したのだ、と。

ご承知のごとく当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という手前勝手な仮説を申し上げておりますので、そういう立場からも、今回はひとつ、余談の余談として、「城」とは関係のないお話をちょっとだけさせていただこうかと思うのです。



<石田三成は「義」に生きた武将? …どこからそういう話が出て来たのか>



昨今ちまたで流行の石田三成の人物像というのは、ゲームの影響がそうとうに大きいのではないかと想像され、試しに、書籍で「義」という文字をタイトルに使っている三池純正著『義に生きたもう一人の武将 石田三成』や、おなじみの『歴史人』9月号(なぜ石田三成は豊臣に殉じたのか?)を例に、本当に三成は豊臣家に対する「義」や「忠誠心」から家康打倒の大軍勢を組織したのか? という観点で確認してみますと、けっこう怪しい結果になるのです。…

例えば『歴史人』の方から申せば、巻頭の特集記事で作家の童門冬二先生は「石田三成の忠誠心は「豊臣秀吉個人」に対する、三成個人の至誠心の表明だ。豊臣政権という組織、あるいは秀吉の後継者秀頼への忠誠心という要素はあまりない。その意味では三成の忠誠心は、「限定された忠誠心」といっていいだろう。」とまで言い切っておられます。


そして一方の『義に生きたもう一人の武将 石田三成』では、三成の動機をさぐる手がかりとして、三成が家康の前で頭巾を取らなかったという『寛元聞書』の逸話や、三成が落とした杖(つえ)を家康が拾って返しても、三成は礼も言わなかったという『淡海落穂草』のエピソードを挙げたうえで…


「これらのエピソードは一面 三成が普段から家康を警戒し、露骨に敵意を表していたことを示しているともいえる。これは、家康は虫が好かないとか、家康とは性格が合わないとか、そんな感情的な次元の話ではなかろう。
(中略)
三成が家康に敵意をむき出しにしていたとすれば、それは、三成は家康が将来 豊臣家の敵となる存在であると早くから見抜いていたということであろう」


という風に“推理する”論述にとどまっていて、具体的に徳川家康の“何が”豊臣家や豊臣秀頼の命運にさしさわるのか、この段階(三成の存命中)では殆ど明確になっておらず、ただ、ただ、家康の豊臣政権内での“増長ぶりが目にあまる”という三成ら奉行からの糾弾が、有名な「内府ちがひの条々」に書き連ねられたことしか、動機の判断材料は無かったのだということが分かります。


したがって、こんな状態で、三成は本当に、豊臣に対する「義」や「忠誠心」のために家康打倒の軍を起こしたのだと判断していいのでしょうか?

そこで冒頭の藤田先生の本に戻りますと、三成が天下人・秀吉のもとで常に意識させられたはずの「大義」と、三成個人の運命?のようなものが見えて来ます。




<藤田先生の著書から読み取れる、天下人による「革命」の最重要ポイント。

 ツルの一声で国替えができる「鉢植え大名」化で、強力な中央集権国家へ>





(藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』より)

時は、スペインやポルトガルが植民地を求めて東アジアに跋扈(ばっこ)した大航海時代だった。東アジア社会の動揺のなかで信長のめざした天下統一とは、預治思想にもとづき領地・領民・城郭を収公して国家のものと位置づける上からの「革命」だった。

秀吉や光秀をはじめとする麾下(きか)の大名たちは、天下人信長からこれらを預かったのであり、政治状況の変化に応じて知行替(転封)が繰り返されることも覚悟せねばならなかった。

鉢植大名となった彼らは、預かった領地で城割・検地などの仕置を強行していった。天下統一に向けて、預治思想にもとづく大名の官僚化と 石高制導入にもとづく軍役負担制度とが一体になった 近世知行制の導入という方向性が示された。…




藤田先生はこの本において、各分野でひるがえりつつある学説の動向をにらみながら、代表作の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』などで示した天下人の戦争のあり方(…若き日には室町幕府に理解を示したはずの信長が、なぜ「天下人」をめざしたのか?)との決着点を見い出されたと感じるのですが、そのキーワードはやはり「預治思想」による「鉢植え大名」化でした。


先生の言う「預治思想」では、領地も、領民も、城郭も天下人のものであり、臣下の大名はそれらを預かりながら全国の統治を分担するだけであって、時に天下人の意のままに“鉢植え”のごとく国替えもせねばならず、そうなると家柄や地縁はほとんど通用せず、ひたすら大名個人や家臣団の能力を限界以上に使って、天下人が思いついた無理難題に必死に応えて行くことになります。

ですから、明智光秀などは“そこで脱落して”反逆したのでしょうし、反対に石田三成は、近江の没落した地侍と言われる一族の中から、「才器の我れに異ならない者は三成のみ」と秀吉に言わしめたほどの才覚を持って現れ、名だたる大々名からも畏怖される存在にまでのし上がりました。


ところが、それほどの権勢にも関わらず、ご承知のとおり(関ヶ原合戦後に落城した)三成の居城・佐和山城には、豪華な財宝類や意匠は一切無かった、という有名な話があり、現に『老人雑話』には三成が「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったと伝えられていて、これらの事柄は単なる“美談の類い”と片付けてよかったのでしょうか。


<<主君より戴いた物は(主君のために使うもので、断じて私の蓄財などに)残してはならない>>

なんと、これって「預治思想」そのもの!!?…… ということは、もしや石田三成という人は、実は、信長と秀吉・二人の天下人が実行した「預治思想」を受け継ぎ、たちまち預治思想の“権化(ごんげ)”と化していった、地侍出身の、成り上がり高級官僚だったのでは―――

そんな、思わぬ人物像が、藤田先生の本からインスパイアされて浮かび上がって見えたのです。


で、もしそうだとすると、そんな三成にしてみれば、徳川家康とは、主君(天下人の秀吉)から戴いた形のものを大量に溜め込んで残す、盗人(ぬすっと)同然の大悪党、と見えて仕方がなかったのだ… とも思えて来てしまいます。

また、とかく印象の悪かった三成の言動も、個人の性格というより、ことごとくが革命家の情念のなせるワザであったと考えれば、納得のいくことばかりではなかったでしょうか。


そして三成は当然ながら「中央」志向が強かったようで、三成の働きぶりを見た秀吉が、九州に33万石の領地を与えようとすると、三成は「私が九州の一大名におさまっては中央の政治に支障が出るので」との理由で加増を断ったという話もあります。

そんな姿に、私なんぞが連想するのは、明治維新を主導して「廃藩置県」などの“革命”を断行した<大久保利通>でありまして、次のことは司馬遼太郎の受け売りなのですが、下級藩士の出の大久保らは、さらに「国民皆兵」という形の革命(=究極の下克上/平民が武士に成り変わる国民国家への道/フランス革命が発祥)も成し遂げたとされ、もしも三成があと10年か15年、豊臣政権を思うままに主導していたなら、何をしでかしただろうか… とまったく余計な夢想をしてしまうのです。



例えば、三成の「大一大万大吉」の紋章。これは由来や意味がはっきりせず、

一説に「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」

などと解釈されていますが、これなどは、まさに… !?






<「革命」は織田信長→豊臣秀吉→石田三成 の三人で完成するはずだった??

 それを押し戻したのが徳川家康、という歴史的な構図も描けるのでは…>








さて、三成渾身の「闘争」が関ヶ原合戦でついえたのち、三成を排撃していた豊臣「武断派」七将の領地は、合戦前は各地にバラバラに細かく散っていたのが、合戦後はそろって大幅に加増され、あたかも集団で西日本を占拠したかのような勢いになっています。

一般にこの状態は、徳川家康によって彼らが東日本から“遠ざけられた結果”だと言われ、さらには笠谷和比古先生が持論の「豊臣・徳川の二重公儀体制」論との兼ね合いから、西日本で“豊臣の”勢力基盤が維持されたようにも言われましたが、今回の石田三成の闘争や「預治思想」を踏まえますと、また違った印象があるのではないでしょうか?

―――ズバリ申し上げるなら、この状態は、壮大な「共犯関係」の収穫物!!(獲物の山分け状態)ではなかったのか、と。

そんな風に私が感じたのは、かつて「三成研究家」を自称しておられた白川亨先生が、「武断派」の面々について、こう書いたことがあったからです。



(『歴史群像シリーズ55 石田三成』所収「関ヶ原決戦の虚実」より)

天正十八年(一五九〇)、病床を見舞った前野長康に対し、(豊臣)秀長は兄・秀吉に朝鮮侵略の無謀なることを諌(いさ)めたことを語っている(『前野家文書』)。

秀長はその言葉の中で「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」として「武断派」の存在を苦々しく語っている。

さらに秀長は、なおも秀吉に対して「(彼らが)それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」と迫り、朝鮮侵略計画の中止と、交易による隣善友好を求めている。

すなわち、秀長の言葉は「武断派」の存在を示唆すると同時に、その武断派が秀長にとって、嫌悪すべき存在であったことも匂わせている。

(中略)
彼らが東軍として家康に味方したのも、彼らなりの豊臣政権以後を睨(にら)んだ処世的行動と結論すべきである。

「武断派」七将が三成を襲撃し、佐和山退隠(たいいん)に追い込んだ日、当時の心ある人は、苦々しく、
「若き大名共、内府(家康)の気に入りたく体にて……云々」
と、家康に迎合する「武断派」七将の動きを冷静に見ていたのである。




こうした『前野家文書』に基づいた理解が正しいのなら、かの朝鮮出兵には「武断派」の面々、加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明の7人の圧力が、そうとうに加担していたことになるのでしょう。

(※ご承知のとおり『前野家文書』(武功夜話)は過去に偽書と言われ続けたものの、小和田哲男先生は歴史資料としての有用性を認め、前出の藤田先生もまた「良質な史料とは言い難いかもしれないが、信長や秀吉に関する一次史料の空白を補う参考資料としては貴重」としています)


となれば、その後の、徳川家康による上杉征伐から関ヶ原合戦へという大戦略の企図は、そもそも家康が、高禄を欲する「武断派」七将を手なずけ、ともに一大合戦を企てて、彼らにたんまりと日本国内に!!! 広大な領地を与えて“共存の新体制”を築くための大戦略だったのかと思えてなりません。…

その犠牲(いけにえ)にされたのが、豊臣政権の構造は温存したいと願う「吏僚派(集権派)」諸大名の領地だった… などというグランドデザインがあったとすれば、三成の危機感は当然のことであり、もちろん家康の思惑が一筋縄で行かなかったのも当然ですが、それにしても、家康の大戦略の結果は、三成の「革命」による中央集権国家とは“真逆の封建社会”に向かっている(逆行している)と見えたのではなかったでしょうか。





で、それから268年後、家康が築いた幕藩体制(官僚制的封建主義)が崩壊し、ふたたび「分権」と「集権」が大逆転しました。

薩摩藩の下級藩士から明治新政府の巨頭となって君臨し、西南戦争にも勝った<大久保利通>は、盟友・西郷隆盛の戦死を聞かされた時に「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が…」とつぶやいたと言われます。

以上の事柄を踏まえて、つぶやきの真意を想像してみますと、ともに幕藩体制を突き崩したものの、国民皆兵の思想にまではなじめず、征韓論を唱えて失脚した<西郷隆盛>という人は、どこか「武断派」七将… なかんずく加藤清正か福島正則のように見えて来て、清正や正則は本来なら、豊臣「新政府」のためにもう少し、三成と歩調を合わせられなかったのかと、時空を超えた<石田三成≒大久保利通>説を夢想するわけなのです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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