城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…


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城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…






40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…




今回もまた、驚きの調査結果がもたらす意外な可能性について、当サイトなりの推論(暴論?)を申し上げてみたいと思うのですが、先ごろ、京都大学の防災研究所などの地中探査によって、聚楽第の未発見の外堀や天守台の痕跡が見つかった、というニュースがありました。




ご覧の図は、その探査結果を伝えた京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」というネットニュースに掲載の図をそのまま引用したものですが、この際、ニュースの文面も一部、引用させていただくことにしますと…


現在の「今新在家町」あたりで天守台が削られたとみられる高まりを検出。約40メートル四方の天守台と考えられ、同町と隣の「新白水丸町(しんはくすいまるちょう)」の付近に絢爛(けんらん)な天守閣があったと考えられる。
(中略)
表面波探査は、地面を木づちでたたいて発生する表面波の強弱を測り、地中の痕跡を見つける。京大防災研の釜井俊孝教授らが防災地盤調査を兼ねて昨年10月から実施していた。


というものだそうで、屏風絵などの断片的な情報しか残っていない聚楽第天守が、ついにその片鱗(へんりん)を見せたか、と私なんぞは思わず心が踊ったものの、ニュースの内容をよくよく見れば、これまでの聚楽第天守に対する漠然とした想定をみごとに裏切るような情報が含まれています。

どういうことかと申しますと、例えば上記の探査結果の図を、現地の地図上にダブらせてみますと、驚くべき事柄が見えて来ます。






!!―― 天守台だけが、北西の隅角にかなり“飛び出た形”になる



ご覧のとおり、その天守台は、単独でずいぶんと北西側に“飛び出た形”になるわけで、これが本当だとしますと、私の直感として、そうした天守は広島城や萩城のように本丸の隅角に築かれた「望楼型天守」の手法(=本丸側の登閣口や接続の仕方を重視した形)とは明らかに異なる!!タイプではないか、と思えて来るのです。

――― それは例えて言うなら、現存の二条城天守台のように多少、水掘の側へ飛び出たスタイルの、“超”強調型とでも言うべきもの、と感じられてなりません。


現存の二条城天守台 / 40m四方とは、これの東西・南北へ約2倍ずつの規模にあたる



しかも、そんな形の天守台が40m四方(約20間四方)もあったとなりますと、これはもう、駿府城や名古屋城、篠山城、福井城、今治城といった徳川の矩形の平城に特有の、大型の天守台や天守曲輪の類いが連想されるものでしょう。

ということは、そこにあるべき天守は、十中八九、望楼型ではなくて、むしろ「四方正面の天守」=層塔型に近い天守が、かなり広めの天守台の真ん中に建っていた、という可能性が濃厚にならざるをえないように思うのです。

むろん、そのような状況は、これまで屏風絵だけから想像してきた聚楽第天守のイメージとはかけ離れたものになりますし、また層塔型天守の発祥の時期の問題もからんで難しい解釈になるのでしょうが、今回の探査結果を尊重するかぎり、こうした類いの新しい見方が不可欠にならざるをえないのではないでしょうか。…


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』より


ではここで、有名な『聚楽第図屏風』を改めて検討してみたいのですが、例えばご覧のように、この屏風絵には実は “本丸の天守は描かれておらず”、これまで天守に接続した「橋台」とその土塀と思われて来た部分が、実は “突出した大型の天守台だけの状態を描いたもの” という風には見えませんでしょうか。

そして、これまでずっと天守だと思われて来た建物は、屏風の貼り紙のとおりに(北ノ丸の築造以前からその周辺に造営された)加賀少将(=前田利家)邸の四重櫓?であった、としたならば、どうなのでしょう。




そして今回、是非とも申し上げてみたいのは、こうした描画上の“錯誤”が、このほかの聚楽第を描いた絵画史料にも“伝染して行った”可能性はなかったのか? という問題なのです。



【ご参考】層塔型に描かれた聚楽第天守(御三階?)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



そこで、当ブログで再度、言及させていただきたいのが、ご覧の層塔型の聚楽第天守の絵です。


ご承知のように、この絵は問題の『聚楽第図屏風』の系統の描き方とは明らかに異なっておりまして、そのためか、上越市教育委員会が行なった学術調査報告書では…

「(屏風絵の)聚楽第天守には定型があったにもかかわらず、このように全く異なる姿で描かれたということは、その定型が忘れ去られる程度の時代に描かれたか、もしくは、三井本や堺市本は狩野派の絵師が描いたとされているので、それ以外の絵師、たとえば町絵師などが描いた可能性がある」
「天守、行幸御殿、東大手門には絵師の建築に対する理解の低さがうかがえる」


などと、かなり厳しい評価が下されてしまったわけですが、私なんぞは決して、ここに描かれた特異な「層塔型天守」に対する興味を失ってはおりません。


と申しますのも、これがもしも秀次時代にかけて問題の天守台上にあげられた天守(御三階櫓)であったと仮定しますと、それは当然ながら、太閤秀吉の伏見城からも見える距離にあったわけで、そうした政治的なエクスキューズとして、層塔型「御三階」という形を取った可能性は、決して低くないはず、…という風にも感じられてならないからです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。