城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体


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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体






異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体





前回の記事で申し上げた聚楽第天守をめぐる推論(暴論?)は、先ごろ発表された地中探査の結果にもとづき、40m四方もの広さの天守台を備えていたのなら、それはきっと層塔型の天守であり、有名な『聚楽第図屏風』にはまだその“天守台”しか描かれていないのではないか… という思い切った仮説でした。


広島市立図書館ウェブギャラリー『諸国古城之図』の聚楽第より


そして、地中探査で見えた天守台の形状が “本丸の北西隅にかなり飛び出た形” であったことは、ご覧の『諸国古城之図』もまさにそのように描かれておりまして、多くの方がこの一致ぶりに驚かれたのではないでしょうか。

この絵図には、今回判明した「外堀」や「北ノ丸」などが(まだ)描かれていない点が注目を集めていて、そこから聚楽第の「城」としての変遷が色々と取りざたされており、ご覧の「北ノ丸」が無い状態は、まさに天正年間の豊臣秀吉の時代を描いたものであろうと言われます。


このような点は前回ブログの仮説(→『聚楽第図屏風』の天守は、実は、加賀少将=前田利家邸の四重櫓!? )とも合致する可能性がありますが、その一方では、この仮説は、前田利家の娘で豊臣秀吉の側室・摩阿姫(まあひめ/加賀殿)が“聚楽第天守に住んでいた”という話と矛盾するのでは?… とお感じになった方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、その話というのは、例えば摩阿姫をめぐる桑田忠親先生の著作(『桃山時代の女性』ほか)によりますと、むしろ当ブログの推論を“補強する話”でもあるようなのです。

何故なら、摩阿姫は側室といっても、初めは秀吉の養女として天正14年の春ごろ(桑田忠親説)に15才で大坂城に引き取られ、それから約4年間は養女として京都や聚楽第(天正15年に完成)で暮らしたらしく、側室になったのは天正18年になってからだと考えられるからだそうです。





(桑田忠親『桃山時代の女性』より)

この、まあ姫が、秀吉の側室とされたのは、いつかというに、神道家吉田兼見の日記である『兼見卿記』の天正十八年七月十九日の条に「前田筑州息女、十九歳、殿下へ御参也。」と見えるから、天正十八年(一五九〇)、十九歳で、前田筑前守利家の息女のまあ姫が、関白殿下秀吉の側室となったことが知られる。
(中略)
なお、『兼見卿記』の天正十八年九月十六日の条に、「前田筑州息女、天主に御座也。」と見えるから、かの女が、当時、京都の内野の聚楽第の天守閣にいたこともわかる。


ということでして、ただし桑田先生がここで例示した7月19日条の「…殿下へ御参也」というのは、いわゆる割書(本文の途中に二行で小さく書き加えた註)の部分でありまして、それよりは同年の5月16日の条に、本文でちゃんと「前田筑州息女、殿下へ御参、殿主ニ御座也、連ゞ祈念之義承之」という記述がありますから、こちらの方を取って、天正18年の5月に側室になったのだ、と解釈すべきなのでしょう。


であるなら、この時に、摩阿姫は聚楽第天守に住み始めたのか?? と申しますと、これがまことに判断に苦しむ状態でありまして、この件の情報はひとえに『兼見卿記』によるのですが、それがどういう状態になっているのか、是非ともご理解をいただきたく、そのため今回は、『兼見卿記』に摩阿姫の名が登場する箇所を(私が分かる範囲で)すべて列挙してみたいと思うのです。!!

そしてそれは、早くも、天正14年に始まっているのです…


〔※以下は『兼見卿記』第3・第4/八木書店刊行より〕

〔※ほぼ全ての箇所は、吉田兼見が摩阿姫の依頼で御祓い(おはらい)を行なった記録になる〕

〔※以下の文面の(  )内は現代の校訂者による註ですのでご注意を〕



【1】天正14年正月16日条
京都天主(前田利家女、摩阿)之御女房衆・同城介殿(織田信忠)御息(秀信)へ神供・御祓進上之、…

【2】天正14年5月16日条
関白御女房(前田利家女、摩阿)衆、正月ヨリ御祈祷之義承之間、…
殿主(前田利家女、摩阿)之御女中ヨリ美濃紙 十帖 到來了、

【3】天正15年正月15日条
相國御女房(前田利家女、摩阿)衆御在京、近年進之、御祓ニ神供、

【同年7月26日条「聚楽ニ御座」→この日、秀吉が正式に聚楽第に入った!とある】

【4】天正15年9月16日条
殿主(前田利家女、摩阿)へ御祓 二、…
… (前田)玄以殿主へ今日出頭、…

【5】天正18年正月18日、19日、20日の条
聚楽天主(利家女、前田筑州息女、十九才、摩阿)去年已來御祈祷之事承也、…
… 自天主(前田利家女、摩阿)御女房衆御乳人厄神祈念撫物、…
天主厄神之御祓、…

【6/前出】天正18年5月16日条
前田筑州息女(利家女、摩阿)、殿下へ御参、殿主ニ御座也、連ゞ祈念之義承之、

【7】天正18年7月14日条
天主(前田利家女、摩阿)ヨリ五月御祈祷料請取之、直ニ塗師屋へ相渡候、使 左介、(前田)玄以之天主ニ御座候かミさま也、前田筑州女房(利家室、篠原氏)衆へ角豆一折遣之、同天主へ一折進之、筑州息女也、…

【8/前出】天正18年7月19日条
… 自天主御乳人 前田筑州息女、十九才、殿下(秀吉)へ御参也、給御棰、…

【9/前出】天正18年9月16日条
天主(前田利家女、摩阿)へ、御祓、台所人取次、二十疋、…
前田筑州息女(利家女、摩阿)天主ニ御座也、御祓・一折進上之、…

【10】天正18年11月20日条
天主(前田利家女、摩阿)、前田息女、殿下へ祗候也、…

【11】天正19年正月14日条
天主(前田利家女、摩阿)、前田筑州息女、殿下祗候之、御乳人也、…

【12】天正19年5月18日条
関白御内義 天主(前田利家女、摩阿)、大津(近江滋賀郡)ニ御座也、…



!!―― という風に、吉田兼見は【1】や【2】では、聚楽第が完成する一年半も前から、摩阿姫を「京都天主」様とか「殿主」様と呼んだ形になっていて、しかもそのあとの【3】の「御在京」という記述を踏まえれば、まだ摩阿姫が京都にも来ていない段階から【2】では「関白御女房」と呼んでしまっている形なのです。


……これはいったいどういうことかと邪推しますと、ひょっとすると『兼見卿記』という文献は、世に出る過程のなかで、吉田兼見みずからが(もしくは後に写本を書き写した人物が)摩阿姫らの呼称について“ある種の統一化”をはかり、時系列をさかのぼって“書き改めた”疑いもあるのではないでしょうか。??

その辺りのことは、なかなか門外漢の私には分かりづらい領域ですが、一見して「京都天主」「殿主」「聚楽天主」「天主」という風に、摩阿姫は聚楽第天守に住んだ側室だというレッテル(キャラクター付け)が一貫しておりまして、しかしそれは逆を申せば、では本当に聚楽第天守に住んだのは、いつなのか? については、とても断定できない、という状況を生んでいるのです。


――― という状態にあるわけですが、上記の列挙を総合して勘案しますと、やはり前述の、天正18年5月の「前田筑州息女(利家女、摩阿)、殿下へ御参、殿主ニ御座也」という本文の記述はかなり確実なもののように感じられますし、この時に、摩阿姫は秀吉の側室になり、同時に聚楽第天守に住み始めたのだ、と考えるのが妥当なのではないでしょうか。


とすれば、まさにこの直前(翌年には秀吉は聚楽第を豊臣秀次に与える)までは、本丸の「40m四方の天守台」の上に天守は存在せず、この頃から層塔型の「御三階」が建造されたのではなかろうか… という当ブログの推論とも、時期的にはかなり“合致”することになります。



そしてここが、聚楽第の天守台の痕跡の真上!!(裏門通りを北側から見る)



ですから摩阿姫は、前回ブログの仮説のとおりならば、約1年半という短い期間ですが、新築の層塔型「御三階」に住んだことになりそうなのです。…

で実は、このあたりから、摩阿姫自身は病がちの身になったそうで、【12】天正19年5月の「大津ニ御座也」とあるように、まもなく聚楽第の天守や本丸を出て、有馬の湯治場や実家の前田邸で過ごすことになったのだそうです。

あの有名な醍醐の花見も、摩阿姫は言わば“序列五位”の女性として参加したものの、それは伏見の前田邸から出掛けた形だったといいます。


ではありますが…、摩阿姫はかの豪姫(=秀吉に、男ならば後継者だと言わせた姫君)の姉にあたる女性ですから、どうも私なんぞは、本当に病気がちだったのか、それとも前田利家の後ろ盾で“仮病”を使い始めたのか(→ なんと摩阿姫は秀吉の最晩年に側室を辞したうえ、秀吉の許可を得て再婚し、一子・前田利忠を産んだ!!そうですから)よく分かりませんが、どちらにしても、摩阿姫は慶長10年に34才で死んでいて、人生の主要な期間を、秀吉の養女や側室として費やしたことに違いはないのでしょう。

――― という風に見て来ますと、問題の、聚楽第本丸の北西隅に“飛び出た形”の天守台というのは、ひょっとすると、当初のねらいは、大事な姫がどこかに行ってしまわないように、ちゃんと、しまっておくためだったのか… などと妙な連想も頭に浮かんでしまうのですが。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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