城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から


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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から





聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から



(※TV報道画面からの切抜き)

(中井均『城館調査の手引き』2016年より)

現在復元が進められている名古屋城(愛知県名古屋市)の本丸御殿は慶長十五年(一六一〇)に造営された慶長期を代表する御殿であったが、表部分が手狭となったため、元和六年(一六二〇)には二の丸に広大な御殿が造営され、藩主御殿は二の丸に移った。

空となった本丸御殿はその後、徳川将軍の上洛用の御殿となるものの、ほとんど使用されることはなかった。






このように江戸時代においては、各地の譜代大名の城などで、本丸が天下人(徳川将軍)の宿所や御成りの場にあてられ、大名自身は二ノ丸に自らの御殿を構えた例がかなりの数に登りました。

そうした慣習に従うならば、城内の各御殿の順位というのは当然、【本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】という順位になるのでしょう。

で、この点について申しますと、そんな慣習(本丸を天下人の宿所にあてること)は必ずしも、江戸時代に入ってから突然始まったとも思えない節がありまして、例えば織田信長の頃に、坂本城を築いた明智光秀が、客人の吉田兼見を小天守でもてなした(→つまり大天守を外した)との記録があったり、または前々回も挙げた小早川隆景の三原城本丸御殿の件(→実は豊臣秀吉の御成り御殿?)があったり、さらには倭城の順天城では在番の小西行長が本丸を使わなかった、等々の事例があるからで、城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想は、江戸時代よりいくぶん前からあったように感じるのです。


そうした中で、どうも不思議だなぁ… と私なんぞが感じて来たのが「高知城」であり、現存する本丸御殿(わずか二例)の一つである高知城の本丸御殿が、築城当初は城主の山内一豊自身の御殿であったという点に、違和感を感じたのです。そこには何か、特殊な事情や仕掛けがあったのではないのかと。

(※ちなみに現存例のもう一方、川越城については、本丸御殿の奥の「天神曲輪」が、実は旧来の本丸(詰ノ丸)ではなかったか? という疑問も残るため、ここでは除外させていただきます)


高知城の航空写真より

本丸周辺の現状の略図


かように申し上げましたのは、今ある本丸御殿は江戸中期の火災後に再建されたもので、天守もほぼ同時期に再建されたのですが、ご覧のごとく天守と本丸御殿が寄り添って建つスタイルは、一豊の築城の頃からの伝統的な姿だとされていて、ならば当時の様子を、改めて想像してみますと…




一豊はこの時、徳川幕府のもとで外様大名の立場(→すなわち徳川将軍の「宿所」の可能性はゼロ)ではあったものの、冒頭から申し上げた“大天守や本丸は天下人のもの”という発想からしますと、ご覧の様子は、どこか僭越(せんえつ)と見られかねない“危険”を私なんぞは感じてしまうのです。

思えば、この時期、同様の立場にあった外様大名(旧織田・豊臣の配下で関ヶ原合戦の東軍諸将)を考えますと、例えば福島正則の広島城は、本丸内に“平然と”自らの御殿と(新築の?)大天守をセットで設けていましたが、その逆に、細川忠興の小倉城や浅野幸長の和歌山城などは、本丸(天守曲輪)を天守や多聞櫓で囲うだけに留めて、自らの御殿は天守とは別の曲輪に設けていた(言わば江戸時代を先取りした?)スタイルであったとも言えるでしょう。

(※追記:ちなみに加藤清正の頃の熊本城も、慶長16年に萩藩の密偵が描いたという「肥後熊本城略図」によれば、やはり後者!の城なのかもしれません。天守は大天守のみの独立式で、本丸に大広間はまだありません!!…)



ですから問題は前者の広島城の方であり、高知城と同じく、それは天下人の豊臣秀吉や徳川家康から「僭越」と見られかねない危険をおかしていたことになりそうですが、しかし、しかし、そこには一つ、ある特殊な事情(仕掛け)があったのではないかと、あえて今回は申し上げてみたいのです。

すなわち…




いかがでしょうか?

そもそも天守の原形は何であったか、それは織田信長の安土城天主のごとき「立体的御殿」であったという事情を知っていた(はずの)旧織豊大名らにしてみれば、本丸内にそうした天守と自らの御殿を並べるという行為は、すでに一つの「方便」として、天下人に対する一応の体裁を整えたことになっていたのではないでしょうか。!!…


…などと申しますのも、一豊が高知城を築き始めた慶長6年には、もはや天守の実態は「立体的御殿」ではなくなっていたのでしょうが、そんな「方便」がまだ通用したのだと仮定しますと、冒頭から申し上げた「城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想」は、実に 織田→豊臣→徳川 と一貫して、諸大名の間の不文律として受け継がれたことになります。

それこそ、藤田達生先生のおっしゃる「預治思想」がこんな部分に影響したのかもしれませんし、その間においては、城内の各御殿の順位が玉突き状にスライドしたのかもしれず、本来の順位は、

【立体的御殿(天守)―本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】

という順位であったのかもしれません。


(※追記:このところ申し上げた記事との関連で整理しますと、豊臣政権下の「外様の大大名」たち=徳川・毛利・織田信雄らに限っては、このような「方便」さえも辞退して、以下の聚楽第の風景にならいつつ、自らの城を「小天守」にとどめたのではなかったでしょうか?)




<築城当初の聚楽第には「天守」がまだ無く、せっかくの天守台上が

 ガラ空きであった可能性の「原因」「理由」としても…>








さて、当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉による築城当初は、まだそこに天守が(少なくとも望楼型の天守は)無かったのではないか?? との疑問を申し上げてまいりました。

例えば徳川家康の二条城においても、築城準備を始めた慶長6年に対して、初代の天守(=大和郡山城天守の移築か)を建てた年は慶長6年説から7年説・8年説・11年説と様々に言われていますから、聚楽第でも、最初は天守が無くても不思議ではないのかもしれませんが、ただ、聚楽第の場合は天守台の独特の形状(本丸の北西隅にかなり飛び出た構造)が原因と思われますので、やはり異様な事態… かなり特殊な事情によるレアケースが持ち上がっていたとも想像できます。


そこで、その「原因」「理由」を大胆に推理しますと、今回申し上げた「どこが天下人の宿所か」という問題が、とりわけ聚楽第は天皇の行幸を大前提として築かれただけに、天守という新種の建築物の使い方をめぐって、足利義教以来の150年ぶりの行幸をおこなう上で、政権内部に思わぬ“混乱”を引き起こしていたとは考えられないでしょうか。


聚楽第に向かう後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



すなわち、聚楽第は豊臣政権の政庁と言われますから、そこに天守があがれば、それは当然、天下人の秀吉を示す旗印であり、秀吉の存在(居住や宿泊)を京都盆地一帯の人々に見せつける強烈なランドマークになったはずでしょう。(→現に妙顕寺城の天守はその可能性も…)

しかし、そんな聚楽第に天皇の行幸をあおいだ最大の眼目は何か、と言えば、諸大名がずらりと居並ぶ大広間において、その最上段に天皇が着座しつつ、それを補佐する形の(天下人)秀吉に対して、すべての大名らが臣従を誓うセレモニーを成功させることであり、それが豊臣政権の命運をにぎっていました。

で、そのために迎えた後陽成天皇の「宿所」はどこか、となると、後の二条城と同様に、城内に行幸殿の「儲(もうけ)の御所」を造営したことが『聚楽第行幸記』に書かれています。


――― ならば、そんな城内の風景の中で、天下人の「宿所」をも意味する(なおかつ公家社会とは無縁の)新機軸の「立体的御殿」(=天守)を、ヌオッと御殿全体を見おろすように建ててしまっても、大丈夫なのか?

――― それが政権の意図とは逆効果になって、重要なセレモニーを進めるうえで、差しさわりが生じるのではないか?…

そんな、日本史上、初めての経験を前にした心配が、相手は天皇や公家らも含むため予断を許さず、ここは緊急避難的に、天守台だけ雄大に(→掘の対岸から見えやすい形状を特別に工夫しつつ!!)築いてみせるものの、そこに天守そのものは建てずにおこう、という超レアケースの対応を、秀吉本人らが決断したのでは? と想像するのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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