城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる


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城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる





せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる




前々回ブログの「一回だけ」がまったくのウソになってしまって恐縮しごくですが、前回に申し上げた「本丸が縦長になったのは二代目・豊臣秀次の改造なのでは?」との手前勝手な推測は、そもそも、こんなに「せまい本丸」で、豊臣秀吉による一回目の聚楽第行幸は可能だったのか、という問題がクリアされなければ話にもなりません。

そこで今回は、この一点だけにしぼって、せまい本丸でも行幸は可能だったのかを図上演習で試してみようと思うのですが、まずは、ご覧の『諸国古城之図』のままの本丸を、より詳細な地図とともに拡大してみますと…





この図はあくまでも、仮定(足利健亮先生の外郭ライン)の上にもう一つの仮定(『諸国古城之図』のせまい本丸)を重ねて出来たものであり、内掘の北側三分の二や天守台の位置が京大防災研究所の地中探査に即しただけですから、あまり細かい事を申し上げてもなんですが、ご覧の本丸の中は190m四方ほどになります。

で、こうしてみますと、ここでも伝承地名がいくつも目につき、例えば馬出し曲輪(旧南二ノ丸?)に「須浜町」「須浜東町」があったり、そのまわりに「下山里町」「亀木町」「高台院堅町」「天秤丸町」等があったりするものの、これらはすべて縦長の本丸に由来した町名と考えなければ説明がつきません。

――― といった中でも、ご覧の本丸の内側にある「山里町」「多門町」だけは、ひょっとしますと、この「せまい本丸」の時点まで由来が遡(さかのぼ)れる地名なのでは… という風に考えられなくもなさそうです。

(※ちなみに、図らずも「中立売通」など幾つかの通りが、内掘の形と微妙な感じで合致してしまうのも不思議です)


そんな「本丸」のど真ん中、中立売通に面した ライフコーポレーション西陣店

この地でかつて、天皇を迎えた世紀の饗宴が行なわれたのですが……



(※休館中の上越市立総合博物館蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻より)


さて、ではここで「聚楽第行幸」とは、そもそも何が行なわれたのか? を確認しておく必要がありましょうが、大村由己が秀吉の命令で書いた『聚楽行幸記』によれば、おおよそ次のような日程でした。

初日:行列による聚楽第入り/歓迎の宴/夕方から天皇公家自らの管弦 

二日目:天皇公家への洛中地子献上と諸大名の誓紙提出/引出物の披露と酒宴

三日目:清華成り大名もまじえた和歌の会

四日目:十番におよぶ舞楽の上覧

最終日:行列による還幸



そして行幸の実施に必要な“面積”を考える場合、大切な要素になるのが、行列に加わり五日間の催しに参集した公家衆というのは、夜もふければ各々の屋敷に引きあげ、翌朝はやくに再び出仕する、という内裏での行動パターンが聚楽第でも踏襲されたことでしょう。(もちろん武家衆も同様)

それは『聚楽行幸記』の「次の日は、公卿とくまいり給ひて 早朝し給ひしとなり」という部分にも表れていて、したがって聚楽第の本丸に宿泊したのは「今上皇帝(後陽成天皇)」「准后(新上東門院)」「女御(近衛前子)」とその側に近侍した人々だけということになりそうです。


そうした中で注目すべきは、秀吉自身の動き方と言えそうで、下記の引用文には「まうのぼる」という言葉が何度か登場するため、あらかじめその意味をご覧いただいたうえで、『聚楽行幸記』の注目の部分をご覧いただけますでしょうか。

(Weblio古語辞典より)
まう−のぼ・る 【参上る】
貴人のもとにうかがう。参上する。▽「上る」の謙譲語。
出典源氏物語 桐壺
「まうのぼり給(たま)ふにも、あまりうちしきる折々は」
[訳] (桐壺(きりつぼ)の更衣が帝(みかど)のもとに)参上なさる場合にも、あまりたび重なる折々には。



(『聚楽行幸記』より/赤文字が秀吉の移動を示した部分)

【初日の行列で、天皇公家が聚楽第に先に着き、秀吉の到着を待つときに】

上達部、殿上人、便宜の所にやすらひ給ふに、殿下(=秀吉)御車四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、まうのぼりたまふてより、御座につかせ給ふ時、殿下(天皇の)裾(すそ)をうしろにたたみ、御前に畏(かしこ)まりて、御気色を取り、しばし候はせ給ひて、罷(まか)りしりぞき給へば、御殿の御装束もあらためらる。
ややありて、殿下又まいり給て、おのおの着座の規式あり。



【二日目の諸大名の誓紙提出が終わって】

さて、今日は和歌の御会とさだめられつれども、御逗留の間、翌日までさしのべ給ふ。殿上も、ゆるゆるとして、なにとなきうらうらの御すさみ計なり。
殿下(=秀吉)も、何かの事取まぜ沙汰し給ふとて、申刻(さるのこく=午後4時)ばかりに、まうのぼり給ひぬ。献々の内に御進上物。
一つ、御手本。則之が筆千字文。金の打枝につくる。…

(中略/各々への引出物に領地献上の折紙がそえられて配られ)
各(おのおの)歓喜し給ひあかず。なを、ふけ過ぐるまで御酒宴。
殿下たち給ひて後、いよいよ御かはらけかさなりて、みな酔をつくし給ふなり。




ごく一部分ですが、この文面からお感じになれたでしょうか、秀吉自身は形のうえでは“まねいた側の屋敷の主人(あるじ)然”とは全くしていなくて、あたかも迎賓館の支配人? か何かのごとくに、賓客の気分をはかりながら、いちいち時間はかかるものの最小頻度で、かつ的確に、天皇の前に姿を見せていた点が、私なんぞはものすごく意外に感じられてならないのです。

しかもこれが、天下人・秀吉が命令して書かせた『聚楽行幸記』でこの調子なのですから、これは何かあるぞ、という興味がわいてきて、秀吉の「まうのぼる」とはどういうことなのか、単なる謙譲語に過ぎなかったのか、それとも何か特有の行動パターンを示した言葉なのか、確認してみたくなったのです。

そこで、明確な絵図のある二条城(御水尾天皇の行幸があった寛永再築の「二條御城中絵図」)を使って何か分からないかと思い、ためしに冒頭の「せまい本丸」の「山里町」に、二条城絵図の「二ノ丸庭園」をちょうど重ねる形で(もちろん同縮尺で、方位は若干調整して)ダブらせたところ…




ご覧のとおり、二条城二ノ丸の主要な殿舎は「せまい本丸」に収まったものの、肝心の御水尾天皇を迎えた行幸殿などは、「山里町」にダブリつつ「せまい本丸」からはみ出てしまう形になりました。

つまり、このままでは二条城の行幸のように、二ノ丸に時の将軍・徳川家光がいて、本丸に大御所・徳川秀忠がいて、そのうえで行幸殿に御水尾天皇を迎えるという、三人の主要人物がそろって城内に居並ぶ形は、とても無理だということが判ります。

そこで話題の、秀吉の「まうのぼる」とはどんな動きなのか、という事柄になるわけですが、例えば…




思い切って、大御所・徳川秀忠がいた二条城本丸をグ――ッと西側に切り離して、ちょうど「加賀筑前守」邸がある辺りまで移動させてみた図です。

こうしてみますと、「せまい本丸」とその「加賀筑前守」邸の間にあるのは、現在「多門町」と呼ばれる場所と、旧南二ノ丸よりずっと簡略な「馬出し」がありまして、その延長線上に「加賀筑前守」邸の門が位置していたようにも感じられます。


! と、ここで気づくのが、二条城本丸の門と言えば、現在は解体されたままで復元計画の話もある二階建ての「橋廊下」があって、それで本丸と二ノ丸の御殿と行幸殿とが互いにつながっていた(=地上に下りずに行き来できた)ことが思い出されます。

ということで、例えば、例えばですが…




秀吉の「まうのぼる」とは、こういうことではなかったのか―――

またまたトンデモない仮説を申し上げて恐縮ですが、この間の秀吉の居所は「加賀筑前守」邸の御成り御殿にあったのだと仮定して、そのぶん、本丸はほぼすべて天皇に明け渡すかたちが取られたとしますと、臨時の橋廊下を使った「まうのぼる」動きは、いやがおうにも諸大名の目に印象的に見えた(見せられた)のではないでしょうか?

で、かくのごとき行幸のあり方は、過去の室町将軍邸の行幸においても似たような形が取られておりまして、例えば永享9年、将軍・足利義教の邸では、主屋である「寝殿」を後花園天皇に明け渡して御在所とし、義教自身は「会所」や「常御所」を自らの御殿としたそうです。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収より)

天皇の御在所となる寝殿において、着御・還御の儀や晴の御膳、和歌御会、舞御覧、贈り物の儀など多くの行事が行なわれたこと、その一方で室町将軍邸や中世住宅で注目されている会所では、釣殿になぞらえて使用した詩歌披講を除くと、最終日の一連の一献の儀しか行なわれていないことがわかる。
最終日の一連の会所における一献の儀に際しては、たくさんの献上品が義教から天皇に贈られているので、寝殿が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所は義教の御殿という認識があったものと考えられる。



という風に見てまいりますと、むしろ二条城の徳川による行幸の方が“異様な御殿配置”がなされていて、本来ならば、大御所・秀忠の本丸にこそ後水尾天皇を迎えるべきところを、あえて二ノ丸の“門の脇に”行幸殿を押し込めたのだという、徳川の姿勢(レジームチェンジの視覚化)が如実に分かって来ます。

そこでこの際、秀吉の「まうのぼる」姿をもう少し具体的に想像しますと、前出の『聚楽行幸記』の引用部分で、天皇公家に遅れて聚楽第に着いた秀吉が牛車でくぐった「四足の門」とは、「加賀筑前守」邸の御成り御殿の「門」だということになり、そこから「まうのぼる」臨時の橋廊下の形は、二条城とは若干異なって、あえて秀吉の行き来(=政治的デモンストレーション)が丸見えになる開放的な箇所もあったのでは… などと想えて来るのです。


殿下御車 四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、

まうのぼりたまふてより、(天皇を)御座につかせ給ふ時、……






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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