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歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2017年09月16日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か





「京の城」の伝統的な天守の位置 →聚楽第の「北西隅」はむしろ新機軸の異端か


前回の世界地図(トルデシリャス条約による分割)では、スペイン側の西半球(南北アメリカ大陸)とポルトガル側の東半球(アフリカからアジア)でその後の運命はかなり違ったようで、西半球では独自の言語まで失った民族が多いことに愕然(がくぜん)とするわけですが、我が国も終戦直後、GHQ(進駐軍)による「日本語のローマ字化計画」という恐ろしい話もあったそうで、無条件降伏など、二度としてはならんと強く思うばかりです。

などと申し上げつつも、前回のマラッカ地図を見つけてから、アレ? 右側の要塞の形や位置が「籐堂高虎の宇和島城にソックリじゃないか」と気づきまして、以来、そればかりが気になっております。

かつて「空角の経始(あきかくのなわ)」と言われた、宇和島城の五角形の縄張り

そして前回の、1780年のマラッカ地図(オランダ領時代)の要塞も…



ご覧のとおり、両者のちょっとひしゃげた「五角形」の感じが非常によく似ておりまして、これは本当に偶然か?…と疑いたくなるほどですが、両者は写実的なスケッチのごとく、要塞(城)の中央部がこんもりと盛り上がった丘(山)であった点も共通していました。

したがってこの両者は「五角形」とは言っても、五稜郭(ごりょうかく)などの「稜堡式」の城とは、まるで別の手法から生まれたもののようです。


ならば何故?―――という点で、昔から宇和島城について言われて来たのは、かの「空角の経始(あきかくのなわ)」という、敵の目を四角形の城と錯覚させて、攻撃の手を狂わせるための、籐堂高虎の巧みな経始(設計)だったという解釈ですが、さすがに最近はこれを言う解説文は少ないようです。

ただ、前述のマラッカ要塞との共通項 →中央部が丘や山であり、敵に高所から見下ろされても「五角形が分かりにくい」という要素は確かにあるようでして、なんとも言い難いものの、ここでもう一つ比べてみたいのが、海に面して築かれた「鳥羽城」でしょう。


鳥羽城古絵図(浅野文庫蔵/ウィキペディアより)


このとおり、これら三つの城は <海に面した五角形(六角形)の平山城> という点では共通していたようで、何が目的だろうかと頭をひねるのですが、これらの城はどれも海辺にあって、敵が周囲をぐるっと回り込みにくいわけですから、少なくとも「空角の経始(あきかくのなわ)」は考え過ぎではないか…

むしろ、例えば <琵琶湖畔の三角形の縄張りの城> →坂本城・長浜城・大津城・膳所城(+瀬戸内海の三原城)あたりと同じ類いで、何か「浮城」としての運用上の問題なのか、もしくは「水辺に」石垣を築く場合の技術的な問題(波の影響?)が関係していたようにも想像するのですが、どうでしょうか。

…… ということで、今回の記事は「城の形が似ている」ことで何が読み取れるか、というお話を、もう少ししてみたいと思います。



織田信長が足利義昭のために築いた、旧二条城の推定位置(黄色=当ブログ)



さて、これは昨年5月の記事でご覧いただいた図ですが、この「旧二条城」に関しては、横田冬彦先生が足利義輝以後の「京の城」をめぐる論考のなかで、

南と西に「御楯」=櫓(やぐら)がある。さらに「坤申(ひつじさる)三重櫓」があり、これがのちに「天主壁」の修理記事にいうところの塗壁をもった「天主」であろうと考えられる。

という紹介があったうえで、次のような指摘があります。


(横田冬彦「城郭と権威」/『岩波講座 日本通史』第11巻 近世1より)

このような「京の城」はどのようにして建設されたのであろうか。
(中略)
天文一五年(一五四六)の足利義輝元服式に「御大工 池上五郎左衛門、棟梁衛門」が参列していたことがあげられ(『応仁後記』)、永禄二年(一五五九)からの義輝御所造営も彼らが管轄していたとみられる。
また右衛門定宗は、義輝の後援のもとに禁裏大工惣官職の兼帯も望み、禁裏大工 木子(きご)家との間で度重なる争論をおこす。

(中略)
そして信長による義昭御所(※旧二条城)造営の最中に、将軍義昭が強硬に木子宗久の違乱停止と右衛門定宗の惣官職安堵を朝廷に申し入れ、取りなしを求められた信長がこれを拒否したことは(『言継卿記』)、信長ないし奉行村井貞勝・嶋田英満の指揮下で右衛門定宗が造営に参加していたからであろう。


ということで、「旧二条城」は将軍義昭の御所であっただけに、その作事は室町幕府の御大工(右衛門定宗なる人物)が担当したはずだというのです。

ここで思わず私なんぞの興味をかき立てるのは、ならば「京の城」の権威を示すシンボルとして <新機軸の天主の位置> も大切な要素だったのでは? という手前勝手な推測でありまして、何故なら、この信長の「旧二条城」と、その後の江戸時代に徳川秀忠・家光が改築した「二条城」とは、天守の位置がおなじ坤申(ひつじさる)=南西隅で一致していて、あたかも聚楽第の北西隅に対して、そっぽを向く!ような姿であったからです。




すなわち「京の城」の代表格、豊臣秀吉の聚楽第は、天守台の位置が旧二条城に比べて90度ズレていて、三方にあった虎口も含めて考えますと、90度右回り(時計回り)に回転したとも言えそうであり、その後、徳川秀忠・家光改築の二条城は、そんな聚楽第と決別して、ふたたび旧二条城のスタイル=先駆的な「京の城」の形にゆりもどしたようにも見えるのです。

「京の城」の天守位置 →【先駆的な旧二条城式 vs 新機軸の聚楽第式】

横田先生の論考からは、こんな図式が見えて来るような気がしまして、秀吉以後はあまりに多くの「聚楽第式」が全国に普及したため(→広島城、駿府城、家康の二条城…等々)もともとの「旧二条城式」がかすんでしまったものの、例えば松平忠輝の越後高田城の三重櫓が同様であり、そしてそして伊達政宗の仙台城の伝・天守台もそうである(南西隅!)という、隠然たるコントラストを見せていました。


一方、東国の金箔瓦の城を見ても、半数以上(黄緑色の四角付き)が「聚楽第式」


では「聚楽第式」の方を少し見比べてみますと、ご覧の図は、甲府の金箔シャチ瓦を加藤光康の躑躅ヶ崎館のものと仮定させていただき、さらに二俣城の天守台(本丸の西隅)もこれらに含めた場合ではありますが、半数以上が聚楽第にならったことになります。

で、これらの中でいちばん興味深いケースと言えば、仙石秀久の「小諸城」ではないでしょうか。


小諸城に残る天守台


と申しますのも、かなり以前に私が現地を訪れ、有名な城門(三の門)から城内に入ったとき、ここが「穴城(あなじろ)」だと聞いていたこともあってか、本丸に向かってゆるやかに下っていく感覚があり、てっきり「南」に下って行ったかのような錯覚をおぼえました。

そうして「南?」に下った先に本丸があり、その右奥の隅に天守台があったため、てっきり本丸の「南西隅」に天守台はあるものと錯覚していたのですが、今回、縄張り図などを見直しますと、下記のごとく、天守台はかなりシッカリと「北西隅」に築かれていたのです。!


小諸城の絵図(『南佐久郡古城址調査』より抜粋)


かくして地形的にずいぶんと複雑な小諸城においても、仙石秀久はキッチリと聚楽第を踏襲していたわけで、その執念?には恐れ入るばかりですが、そこは仙石秀久…… これだけに留まらない、とんでもない措置を講じていたようなのです。



(※当図は#カシミール3D #真田丸 pic.twitter.com/QaxDmDmJaH からの引用です)


画面中央の「三角形」が小諸城の本丸であり、その中に小さな四角点で天守台も表示されておりますが、こうした画面からも、小諸城は(南北の断崖の堀ぎわまで接近しないと)周囲からは全く見通せない本丸であったということが、よくお解りいただけるのではないでしょうか。

さすがは「穴城」ですが、ひょっとしますと、左側の断崖下を流れる千曲川から見上げた場合でも、せっかくの天守は見えなかったのでは… とさえ思うほどの状態です。


しかも驚くべきことに、加藤理文先生によれば、豊臣政権下の金箔瓦の使い方には、城(城主)によって程度にいろいろと差が付けられたそうで、「豊臣一門衆の城では、軒丸瓦、軒平瓦を中心に、シャチや鬼瓦、飾り瓦にいたるまで金箔瓦が使用され」たなかで、秀久の小諸城は「わずか五万石程度ぐらいの武将です。それなのに、豊臣一門とまったく同じ金箔瓦を葺いて」いたのだそうです。(『信長の城・秀吉の城』)

ということは、秀久は、天守の位置や金箔瓦という「形だけ」はフルに、しっかりと聚楽第を踏襲しておきながら、実際は、本丸の堀ぎわまで近づくか、城内を訪れないかぎり、ほとんど見ることも出来ない!!? 天守や金箔瓦だった、ということになりそうなのです。…




この驚くべき状態は、仙石秀久という人物の特異なキャラクターがにじみ出た結果という気もしますが、このことは「京の城」にならった「見せる城」としてどう評価すべきか、難しいテーマを含んでいるようで、結局のところ、権威の見せ方とは、伝聞による情報伝達(=世間の評判)に多くを負っているのだ、という現実の裏返しなのでしょうか。
(→ 秀久は、地域での評判よりも、中央とのつながりの方を死守した?…)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年05月04日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応





肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応


ウサマ・ビン・ラディンの遺体をアラビア海に投棄(水葬)した米空母

カール・ヴィンソン, CVN-70



この空母の接近に対して、朝鮮労働党の機関紙・労働新聞は、こともあろうに、

「太って肥大した変態動物を一撃で水葬してしまう戦闘準備を整えた」と……




この21世紀にあって、知らない、知らせない、伝わってない、という事態の怖さを、ひたひたと感じる日々が続いております。

そんな状態をよそに「城」「天守」関連の話題を隔週でお話している当ブログにおきましても、前回の予告では杉山清彦著『大清帝国の形成と八旗制』等を通じて織田信長の「天下布武」について取り上げる予定でしたが、目下の韓国大統領選もふくめた情勢は、上記タイトルの話題を、ここで一回、はさんでおくべき様相を呈しているようです。

と申しますのも、今回、<肥前名護屋城の出現と「小中華意識」に没入した李氏朝鮮の無反応> というタイトルにしましたのは、2011年度リポート「そして天守は海を越えた」を作成した当時、豊臣政権の軍勢30万余の集結・発進基地として築城された肥前名護屋城の威容をもってしても、朝鮮側には開戦前に事の重大性や緊迫感がほとんど伝わらなかった点を申し上げたものの、その原因については、あまり言及できませんでした。


2011年度リポート「そして天守は海を越えた」より

漢城(ソウル)と肥前名護野城との距離は約500km(肥前名護屋−大阪間とほぼ同じ)

肥前名護屋城を描いた当サイト推定復元イラスト


しかしその後、日朝関係の記事や本などをパラパラと目にするうちに、朝鮮側の危機意識の低さが生じた原因として、儒教を国教とした李氏朝鮮の、驚くほどの対日認識が作用していた可能性が感じられました。

とりわけ、下記の河宇鳳(ハ ウボン)著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』(2008年刊)という本では、李氏朝鮮のいわゆる「小中華思想」への傾斜と固執が、すでに、日本をまともに見る目を無くしていた実態が紹介されています。




ちなみにこの本は韓国で、韓国の読者向けに出版された本の翻訳版ですから、著者がいかに日朝・日韓の交流史を冷静に検証してはいても、やはりその言葉の端々は、日本人としては決して心地良い響きでない!…ことをお断りした上で、それでもなお、総勢30万余の軍勢が終結した軍事都市(肥前名護屋城)の出現が、対馬海峡の対岸の半島では、何故ああも無反応(不感症)であったかの<秘密>をさぐる材料としては、有効だと感じました。


(上記書28頁より引用)

朝鮮は中華主義的な華夷(かい)観と事大朝貢体制から見れば「夷狄(いてき)」として分類される。

しかし儒教文化の面では、自ら中国と対等か、あるいは中国の次を行くものとして自負し、「華」と称した。文化的アイデンティティーの方向性を華夷観の中心部に積極的に向けていき、自らを中華と同一視したのである。

こうして朝鮮は自ら「小中華」と称し、中華である明と一体化する一方、周辺国家の日本・女真・琉球を他者化し、「夷狄」とみなした。
これが、いわゆる小中華意識である。

この時期の朝鮮の人々の国際観念と自我意識をよく示しているのが、一四〇二年(太宗二年)に製作された「混一疆理(こんいつきょうり)歴代国郡之図」である。



混一疆理歴代国郡之図(龍谷大学蔵)



ちなみに、これを所蔵する龍谷大学のネット上の解説では…

「この地図は、明の建文4(1402)年、李氏朝鮮で作成されたもので、現存最古の世界地図だ。地図の下段に記される由来によると、朝鮮使として明に派遣された金士衡という官僚が、1399年に2種類の地図を国へ持ち帰った。それは李沢民の『声教広被図』と、仏僧である清濬の『混一疆理図』で、それらを合わせ、さらに朝鮮と日本を描き加えたものである」

ということで、ご覧の地図のうち、いちばん左端の湖のある半島はアフリカ大陸だというから驚きですが、明帝国の側はそんなつもりが無いのに「小中華」を自称していた李氏朝鮮が、こんな地図を意図的に作ったわけでして、上記書が注目したのは、朝鮮半島と日本列島の、逆転させた以上の極端な面積の違いです。


(上記書34頁より引用)

日本に対しては「倭寇の巣窟」というイメージがあり、知識人は華夷観に立脚して日本夷狄(いてき)観をもつようになった。これに加え、朝鮮時代前期には日本を「小国」として認識するようにもなる。

すなわち、朝鮮時代前期の日本認識には、日本夷狄観の上に「日本小国観」も含まれていたのである。

(中略)
十五世紀半ばに日本への通信使の派遣が中断したことで、朝鮮朝廷では日本の国内情勢に対する情報が不足し、辺境の情勢が安定したことも重なって日本に関心を向けない傾向がさらに強まった。


そんな「傾向」はやがて、韓国の国立中央図書館蔵の「天下地図」(18世紀初め)になると…



!! なんと、朝鮮半島の下によく見えるのは「琉球国」であり、日本列島は小島のごとくちっぽけに描かれるか、枠外に排除された地図が作られ、それらが朝鮮国内では「天下地図」と呼ばれる事態へと向かっていたそうなのです。

―――地図は雄弁だと改めて思い知らされますが、次の引用文はやや長文になるものの、是非ともご一読ください。




<朝鮮側の「日本小国観」を、応仁の乱や対馬・宗氏の「偽使」が助長したという指摘>




(上記書178頁より引用)

世祖・成宗代(※1455〜1494年)に至ると、両国の内政は一変し、日朝通交の様相に変化が見られるようになる。

朝鮮の場合、建国当初に比べて政治が安定し、統治体制が整備され、北方開拓を通じて対内的・対外的にも状況が安定していった。しかし、日本は応仁の乱に見られる内乱状態で、室町幕府の弱体化現象は著しくなっていった。

(中略)
この時期の日本の諸侯には、使行時の書契(※書きつけ)から朝鮮上国観ないしは朝鮮大国観が見られる。例えば、当時日本各地の使臣は、世祖を「仏心の天子」と称していた。(註:中村栄考「室町時代の日鮮関係」)

室町幕府八代将軍の足利義政(在位一四四九〜七三)の代に至ると、書契にも朝鮮に対する低姿勢がはっきりと表れるようになる。
具体的には朝鮮を「上国」といったり(『成宗実録』)、また、朝鮮の国王に対しても日朝間の国書で通常使用してきた「殿下」の代わりに「陛下」を用いたりしている。(『世祖実録』)

(中略)
「上国」や「陛下」といった用語は、抗礼国の間で用いられるものではなく、小国が大国に対して、あるいは諸侯国が宗主国に対して使用するものであるのはいうまでもない。

ただ、一四六六年から一四七一年の間に集中的に現れる、こうした室町幕府やそのほかの通交者の「朝鮮大国観」は、当時の日本がおかれていた切迫した状況や、あるいは最近の日本学界の研究で明らかにされたように、大多数の使節が対馬島主の派遣した偽使であるという点を考慮した時、額面どおりに受け取ることは難しい。

しかし、こうした日本の通交者の姿勢と態度が、朝鮮側の日本認識の形成に重要な影響を与えたであろうことは確実である。



最近話題の「応仁の乱」ですが、やっぱりね… というため息が出てしまいますし、自国内の視点だけで、歴史をああだこうだと論じていてはダメだ(危険だ)という思いにかられて来てなりません。

で、上記書に登場する朝鮮の知識人たちは、「儒教」に骨の髄まで染まっていたため、文化的に高度(中華と同一)であれば、国家は安全保障も含めて、すべてうまく行く、と完璧に信じ込んでいたようであり、下等な狢(むじな)の類いの東夷「倭人」の豊臣軍が半島になだれ込む(文禄の役/壬申倭乱)までは、具体的な防衛措置をほとんど講じませんでした。

そしてその30年後、同じく夷狄(いてき)とされた「野人」女真族(満洲族)は、『朝鮮王朝実録』の表現上では「夷狄というより禽獣に近かった」にも関わらず、そんな「野人」の二代目ハーン(後金・清の皇帝)ホンタイジの軍勢によって、朝鮮は物心両面に決定的な打撃=丁卯胡乱(ていぼうこらん)と丙子胡乱(へいしこらん)を加えられました。


「小中華意識」に青天のヘキレキ!!… 三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)の銅版レリーフ

皇帝ホンタイジに三跪九叩頭(さんき きゅうこうとう)の礼をとる朝鮮王・仁祖


(※三跪九叩頭…合計9回、土下座で地面に頭を打ち付ける、清朝の礼式)


1627年(日本では寛永4年)の丁卯胡乱(ていぼうこらん)は、文禄・慶長の役の被害から立ち直ってなかった朝鮮に対して、ホンタイジの後金軍が、わずか3万の軍勢で漢城(ソウル)にまで攻め込んだもので、ソウルの西沖の江華島に逃亡した国王の仁祖は、後金を兄、朝鮮を弟とする盟約を結ばされました。

10年後の丙子胡乱(へいしこらん)は、ホンタイジが皇帝に即位して国号を後金から清に改めたものの、朝鮮側は(帝国末期の)明への配慮からその即位を認めなかったため、ホンタイジ自ら10万の兵を率いて親征したものです。

国王・仁祖は、逃げ込んだソウル近郊の南漢山城から出て、平民の衣服に着替えたうえで、ホンタイジの三田渡(さんでんと)の陣中で「三跪九叩頭」の臣下の礼をとらされました。

この世にこれ以上の屈辱もないだろう、と思うハメに朝鮮国王がおちいり、その後、朝鮮の国民、とりわけ知識人らがどうなったかと言えば、あっと驚く展開に向かったのだそうです。


(上記書42頁より引用)

倭乱と胡乱を経た十七世紀前半、朝鮮思想界では極端な華夷峻別論が強調され、外来文化と民族に対して排他的な認識が深まった。

すなわち、朝鮮時代前期の小中華意識が「朝鮮中華主義」としてさらに強化されたのである。

その結果、受容の対象としての中国(清)、競争の対象としての日本、新たな文明圏である西洋、その三つのすべてを認識の対象から除外してしまった。言い換えれば、周辺諸国の「他者化」というより、他者の除外である。



!!――― あたかも、過度のトラウマが人間をどうしてしまうか、という人類史上の実験のようでもあり、民族的な“独りよがり”がここから始まったのかとも思えるほどの展開でして、歴史のif(イフ)として、もしも李氏朝鮮が「儒教」や「小中華意識」に国をあげて傾斜することが無かったなら、これほどまでに傷は深くなかったのでは… という、まことに勝手な想像を「倭人」の一人としては、せずにいられません。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年03月24日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる





せまい本丸で聚楽第行幸は実現可能だったか?を図上演習してみる




前々回ブログの「一回だけ」がまったくのウソになってしまって恐縮しごくですが、前回に申し上げた「本丸が縦長になったのは二代目・豊臣秀次の改造なのでは?」との手前勝手な推測は、そもそも、こんなに「せまい本丸」で、豊臣秀吉による一回目の聚楽第行幸は可能だったのか、という問題がクリアされなければ話にもなりません。

そこで今回は、この一点だけにしぼって、せまい本丸でも行幸は可能だったのかを図上演習で試してみようと思うのですが、まずは、ご覧の『諸国古城之図』のままの本丸を、より詳細な地図とともに拡大してみますと…





この図はあくまでも、仮定(足利健亮先生の外郭ライン)の上にもう一つの仮定(『諸国古城之図』のせまい本丸)を重ねて出来たものであり、内掘の北側三分の二や天守台の位置が京大防災研究所の地中探査に即しただけですから、あまり細かい事を申し上げてもなんですが、ご覧の本丸の中は190m四方ほどになります。

で、こうしてみますと、ここでも伝承地名がいくつも目につき、例えば馬出し曲輪(旧南二ノ丸?)に「須浜町」「須浜東町」があったり、そのまわりに「下山里町」「亀木町」「高台院堅町」「天秤丸町」等があったりするものの、これらはすべて縦長の本丸に由来した町名と考えなければ説明がつきません。

――― といった中でも、ご覧の本丸の内側にある「山里町」「多門町」だけは、ひょっとしますと、この「せまい本丸」の時点まで由来が遡(さかのぼ)れる地名なのでは… という風に考えられなくもなさそうです。

(※ちなみに、図らずも「中立売通」など幾つかの通りが、内掘の形と微妙な感じで合致してしまうのも不思議です)


そんな「本丸」のど真ん中、中立売通に面した ライフコーポレーション西陣店

この地でかつて、天皇を迎えた世紀の饗宴が行なわれたのですが……



(※休館中の上越市立総合博物館蔵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」左隻より)


さて、ではここで「聚楽第行幸」とは、そもそも何が行なわれたのか? を確認しておく必要がありましょうが、大村由己が秀吉の命令で書いた『聚楽行幸記』によれば、おおよそ次のような日程でした。

初日:行列による聚楽第入り/歓迎の宴/夕方から天皇公家自らの管弦 

二日目:天皇公家への洛中地子献上と諸大名の誓紙提出/引出物の披露と酒宴

三日目:清華成り大名もまじえた和歌の会

四日目:十番におよぶ舞楽の上覧

最終日:行列による還幸



そして行幸の実施に必要な“面積”を考える場合、大切な要素になるのが、行列に加わり五日間の催しに参集した公家衆というのは、夜もふければ各々の屋敷に引きあげ、翌朝はやくに再び出仕する、という内裏での行動パターンが聚楽第でも踏襲されたことでしょう。(もちろん武家衆も同様)

それは『聚楽行幸記』の「次の日は、公卿とくまいり給ひて 早朝し給ひしとなり」という部分にも表れていて、したがって聚楽第の本丸に宿泊したのは「今上皇帝(後陽成天皇)」「准后(新上東門院)」「女御(近衛前子)」とその側に近侍した人々だけということになりそうです。


そうした中で注目すべきは、秀吉自身の動き方と言えそうで、下記の引用文には「まうのぼる」という言葉が何度か登場するため、あらかじめその意味をご覧いただいたうえで、『聚楽行幸記』の注目の部分をご覧いただけますでしょうか。

(Weblio古語辞典より)
まう−のぼ・る 【参上る】
貴人のもとにうかがう。参上する。▽「上る」の謙譲語。
出典源氏物語 桐壺
「まうのぼり給(たま)ふにも、あまりうちしきる折々は」
[訳] (桐壺(きりつぼ)の更衣が帝(みかど)のもとに)参上なさる場合にも、あまりたび重なる折々には。



(『聚楽行幸記』より/赤文字が秀吉の移動を示した部分)

【初日の行列で、天皇公家が聚楽第に先に着き、秀吉の到着を待つときに】

上達部、殿上人、便宜の所にやすらひ給ふに、殿下(=秀吉)御車四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、まうのぼりたまふてより、御座につかせ給ふ時、殿下(天皇の)裾(すそ)をうしろにたたみ、御前に畏(かしこ)まりて、御気色を取り、しばし候はせ給ひて、罷(まか)りしりぞき給へば、御殿の御装束もあらためらる。
ややありて、殿下又まいり給て、おのおの着座の規式あり。



【二日目の諸大名の誓紙提出が終わって】

さて、今日は和歌の御会とさだめられつれども、御逗留の間、翌日までさしのべ給ふ。殿上も、ゆるゆるとして、なにとなきうらうらの御すさみ計なり。
殿下(=秀吉)も、何かの事取まぜ沙汰し給ふとて、申刻(さるのこく=午後4時)ばかりに、まうのぼり給ひぬ。献々の内に御進上物。
一つ、御手本。則之が筆千字文。金の打枝につくる。…

(中略/各々への引出物に領地献上の折紙がそえられて配られ)
各(おのおの)歓喜し給ひあかず。なを、ふけ過ぐるまで御酒宴。
殿下たち給ひて後、いよいよ御かはらけかさなりて、みな酔をつくし給ふなり。




ごく一部分ですが、この文面からお感じになれたでしょうか、秀吉自身は形のうえでは“まねいた側の屋敷の主人(あるじ)然”とは全くしていなくて、あたかも迎賓館の支配人? か何かのごとくに、賓客の気分をはかりながら、いちいち時間はかかるものの最小頻度で、かつ的確に、天皇の前に姿を見せていた点が、私なんぞはものすごく意外に感じられてならないのです。

しかもこれが、天下人・秀吉が命令して書かせた『聚楽行幸記』でこの調子なのですから、これは何かあるぞ、という興味がわいてきて、秀吉の「まうのぼる」とはどういうことなのか、単なる謙譲語に過ぎなかったのか、それとも何か特有の行動パターンを示した言葉なのか、確認してみたくなったのです。

そこで、明確な絵図のある二条城(御水尾天皇の行幸があった寛永再築の「二條御城中絵図」)を使って何か分からないかと思い、ためしに冒頭の「せまい本丸」の「山里町」に、二条城絵図の「二ノ丸庭園」をちょうど重ねる形で(もちろん同縮尺で、方位は若干調整して)ダブらせたところ…




ご覧のとおり、二条城二ノ丸の主要な殿舎は「せまい本丸」に収まったものの、肝心の御水尾天皇を迎えた行幸殿などは、「山里町」にダブリつつ「せまい本丸」からはみ出てしまう形になりました。

つまり、このままでは二条城の行幸のように、二ノ丸に時の将軍・徳川家光がいて、本丸に大御所・徳川秀忠がいて、そのうえで行幸殿に御水尾天皇を迎えるという、三人の主要人物がそろって城内に居並ぶ形は、とても無理だということが判ります。

そこで話題の、秀吉の「まうのぼる」とはどんな動きなのか、という事柄になるわけですが、例えば…




思い切って、大御所・徳川秀忠がいた二条城本丸をグ――ッと西側に切り離して、ちょうど「加賀筑前守」邸がある辺りまで移動させてみた図です。

こうしてみますと、「せまい本丸」とその「加賀筑前守」邸の間にあるのは、現在「多門町」と呼ばれる場所と、旧南二ノ丸よりずっと簡略な「馬出し」がありまして、その延長線上に「加賀筑前守」邸の門が位置していたようにも感じられます。


! と、ここで気づくのが、二条城本丸の門と言えば、現在は解体されたままで復元計画の話もある二階建ての「橋廊下」があって、それで本丸と二ノ丸の御殿と行幸殿とが互いにつながっていた(=地上に下りずに行き来できた)ことが思い出されます。

ということで、例えば、例えばですが…




秀吉の「まうのぼる」とは、こういうことではなかったのか―――

またまたトンデモない仮説を申し上げて恐縮ですが、この間の秀吉の居所は「加賀筑前守」邸の御成り御殿にあったのだと仮定して、そのぶん、本丸はほぼすべて天皇に明け渡すかたちが取られたとしますと、臨時の橋廊下を使った「まうのぼる」動きは、いやがおうにも諸大名の目に印象的に見えた(見せられた)のではないでしょうか?

で、かくのごとき行幸のあり方は、過去の室町将軍邸の行幸においても似たような形が取られておりまして、例えば永享9年、将軍・足利義教の邸では、主屋である「寝殿」を後花園天皇に明け渡して御在所とし、義教自身は「会所」や「常御所」を自らの御殿としたそうです。


(川本重雄「行幸御殿と安土城本丸御殿」/『都市と城館の中世』所収より)

天皇の御在所となる寝殿において、着御・還御の儀や晴の御膳、和歌御会、舞御覧、贈り物の儀など多くの行事が行なわれたこと、その一方で室町将軍邸や中世住宅で注目されている会所では、釣殿になぞらえて使用した詩歌披講を除くと、最終日の一連の一献の儀しか行なわれていないことがわかる。
最終日の一連の会所における一献の儀に際しては、たくさんの献上品が義教から天皇に贈られているので、寝殿が天皇の起居する天皇の御殿であったのに対して、会所は義教の御殿という認識があったものと考えられる。



という風に見てまいりますと、むしろ二条城の徳川による行幸の方が“異様な御殿配置”がなされていて、本来ならば、大御所・秀忠の本丸にこそ後水尾天皇を迎えるべきところを、あえて二ノ丸の“門の脇に”行幸殿を押し込めたのだという、徳川の姿勢(レジームチェンジの視覚化)が如実に分かって来ます。

そこでこの際、秀吉の「まうのぼる」姿をもう少し具体的に想像しますと、前出の『聚楽行幸記』の引用部分で、天皇公家に遅れて聚楽第に着いた秀吉が牛車でくぐった「四足の門」とは、「加賀筑前守」邸の御成り御殿の「門」だということになり、そこから「まうのぼる」臨時の橋廊下の形は、二条城とは若干異なって、あえて秀吉の行き来(=政治的デモンストレーション)が丸見えになる開放的な箇所もあったのでは… などと想えて来るのです。


殿下御車 四足の門へいらせ給ひ、御車よせにており給ひ、

まうのぼりたまふてより、(天皇を)御座につかせ給ふ時、……






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年03月11日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…





大名屋敷の面積や伝承地名をふまえて清書(リライト)すると…


前回、この一回だけ、と申し上げておきながら、記事のラストでお見せした「合体図」が、あのままほおってはおけない代物(しろもの)であったようで、下記のごとく見づらく、判然としない状態では、何が問題なのか、ご説明することもままなりません。






そこで今回は、ご覧の『諸国古城之図』(山城 聚楽)は大名の名の当て字が多く、なおかつ屋敷地の場所も違うのでは?と指摘される部分があるものの、それらはひとまずこのままにして、明らかな書き間違いと思われる「細川中越守」「有馬法印」「牧野民部」の三箇所だけ、それぞれ「細川越中守」「前田法印」「牧村民部」と訂正して清書してみますと…





ご覧の図は、前回の説明どおりに、足利健亮先生の思い切った聚楽第「外郭」ラインに沿う形で、堀川と天守台の位置を合わせつつ『諸国古城之図』をはめ込んだものであり、本丸の周辺は『諸国古城之図』のままにしてあります。

このように清書してみて、一見して気になる問題は、大名屋敷の面積が、どれも本丸に比べてけっこう大きいのではないか? という点でしょう。

とりわけ「三好孫七郎(後の豊臣秀次)」「大和大納言(豊臣秀長)」「(徳川)家康公」の三つの屋敷地は、面積で本丸を上回ってしまい、不自然さがいなめません。


文献の記録に照らせば、徳川家康邸は『小牧陣始末記』に「浮田ガ屋敷向カハ三軒ヲ一ツニシテ可進トアリテ是ヲ被進。何レ二町余有リシトナリ」という風に、豊臣秀吉が特別に「二町余」の広さを与えたことが書かれていて、さらに豊臣秀長邸と同じ広さにせよ、と命じたとも伝わっています。

「二町余」と言えば、六尺間の場合、二町(216m)×一町(108m)と少々という意味ですから、図の左下の250mスケールを参照いただくと、家康邸も秀長邸も明らかに大きすぎるようです。


そこで、そこでなのですが、前回に申し上げた「鉄(くろがね)門」は、当図では黒門通と下長者町通の交差点の東側になり、ほぼ正確な位置に来ているようですから、ここで思い切って、当図の下長者町通から下の部分を、縦に(南北に)半分強ほどのサイズに縮めてみることにいたします。





!! 図の下の方がガバッと空いてしまいましたが、これならば、家康邸や秀長邸は文献どおりの広さになりますし、さらに大名屋敷街の中央の通りを広くとれば、黄色く下地を塗った「浮田宰相」「脇坂中務」「加藤左馬助」の三大名(宇喜多秀家・脇坂安治・加藤嘉明)の屋敷がちょうど、かつての浮田町・中書町・左馬殿町の位置に、うまく三つ並んで合致することになります。

したがって、前回に申し上げた「家康公」邸と二条城の位置は離れてしまうものの、この方が大名屋敷の面積と伝承地名をふまえるなら、より正しい姿であろうと言わざるをえないのです。…

そしてこの場合、「金吾中納言(後の小早川秀秋)」ただ一人が、面積で本丸に匹敵する形になり、これは聚楽行幸の際、諸大名の起請文の差出し先が「金吾中納言」宛てであって、この時点では秀吉の後継者と見なされていたことと符合するようでもあります。





さて、そもそもこの図は『諸国古城之図』どおりに、本丸と南二ノ丸(馬出し曲輪)の南側に広大な空地がありますが、これについては『川角太閤記』に、秀吉が小田原攻めの凱旋の祝賀として、あの「金配り」を「三の丸の大庭」で行なったとありまして、櫻井成廣先生は「広い空地が描かれているがこれこそ有名な金配が行なわれた二町の白洲と思われる」(『豊臣秀吉の居城』)と解釈しました。

しかも面白いことに、林羅山の『豊臣秀吉譜』では「金配り」のやり方として、二町の範囲に金銀を台に積み上げ、秀吉自身はその「門戸(本丸虎口?)」の側に座り、秀長はその「東」側に座って!! 金銀の配布を受けたと書いてあり、どうやら秀長は、自らの屋敷の前に陣取っていたようなのです。

かくして文献ではこの場が「三の丸」と伝わっているため、当ブログは『諸国古城之図』の問題の黒い太線を、仮に「三ノ丸築地塀」と呼ばせていただくことにしたいと思うのですが、あえて築地塀としたのは、二代目の豊臣秀次がこの太線の内側にわざわざ「外掘」を掘ったのは、それが防御面ではやや弱い築地塀だったからに他ならないと感じるからです。


さて、この図でもう一つ申し上げたいのが、有名な「日暮(ひぐらし)門」の正体です。




これまで「日暮門」と言えば、その美しさが聚楽第の門で第一と言われ、「聚楽城の巳(み)の方に有て南にむかへる門也。其(その)工(たく)み美々しく、見る人立さらで日をくらす故、名付たり。今の日暮通は其門ありし筋とかや」(『菟芸泥赴(つぎねふ)』)といった具合に、現在の日暮通の名の由来になり、おそらくは聚楽第の内城の南門(正門)であろう、などと言われて来ました。

しかし私なんぞは、上記の文献の「聚楽城の巳(み)の方に有て」という部分が、どうも引っかかるのです。 と申しますのも、もう一度、図をご覧いただくと…




ご覧のとおり、今やどう頑張っても、現在の日暮通を、聚楽城(地中探査で判明した本丸)の位置の巳(み=南南東かそれよりやや東)の方角に持って来ることは出来そうにありませんし、また日暮通そのものが本丸や南二ノ丸の「門」にぶち当たるとも思えませんから、ここはむしろ、あっさりと、日暮門とは、本丸の南南東にあった「大和大納言」邸の御成り門!! と考えた方が、解決が早いのではないでしょうか?

そう考えますと、図のごとくに、現在の日暮通が鍵の手にまがる位置で御成り門=日暮門を想定できそうですし、秀長は天正15年8月にすでに大納言に昇進していましたから、ここに華麗な四脚の唐門があっても不思議ではありません。

しかも上記文献の「南にむかへる門也」という書き方は、ひょっとすると、その意味は、南に向かって入る門、つまり北側が門の表であった、とすれば、まさに本丸からやって来る兄・秀吉を迎えるために、秀長は諸大名の模範となるべく、日本初の?豪華絢爛な「御成り門」をここに構えたのだとも思えて来るのです。




それでは、この図の最初の疑問点 → 南側のガラッと空いてしまった範囲は、いったい何だったのか?というお話ですが、ここは決して空地ではなく、大名屋敷か、町家か、何かがぎっしりと詰まっていたことは間違いなさそうです。

そう考えるヒントとして、前出の櫻井先生は「南方二条城の南隣には最上町がある。そして伊達家の古文書によると最上邸は伊達邸の次であったことが分かるから、伊達政宗邸の位置は今の二条城の東部に当ったのであろう」(『豊臣秀吉の居城』)と推理しておられ、したがって最上義光は、残念なことに「外郭」の外に押し出されていたと言うのです。


ならば、伊達邸のほかは何だったかと言うと、同書の「脇坂、加藤左馬、長宗我部、早川等は皆水軍の将であったから聚楽南部は水軍諸将の邸が集っていたことになる」という指摘は、何らかのヒントになるのかもしれません。…

では、そんな櫻井先生の著書の指摘をすべて加味し、また同書に掲載の『聚楽第分間図』(『諸国古城之図』と同種でありながら若干異なる)もふまえて、もう一度、図を修正しますと…


櫻井先生の著書にしたがって、名前や境界線を修正すると…(黄緑色が修正箇所)



きっと、これでも詳しい方がご覧になれば、色々と問題があるのでしょうが、今回、最後に申し上げておきたいのは、この後、天正19年の「京中屋敷替え」による大名屋敷の大規模な移転と、文禄2年の「北ノ丸」新造についてであり、どちらも二代目・豊臣秀次の関白就任(聚楽第の城主)や二度目の天皇行幸と同時期のことで、無関係の事柄ではないでしょう。

それはとりわけ「北ノ丸」新造が、以上の築城プランの全体像に、少なからぬ変更を強いたように感じるからでして、ただ単に本丸北側の屋敷を“どかせばいい”では済まなかった事情(→慢性的な屋敷地の不足)を想像すると、より大きな改造計画に付随した普請であったようにも感じるからです。


【ここで最終の修正図】

森島康雄先生が想定する「京中屋敷替え」後の大名屋敷地区(青枠)を加えてみれば…


(※京大防災研究所による内堀・外掘も図示しました)




ご覧の大名屋敷の移転例を示した「矢印」のごとく、天正19年「京中屋敷替え」の結果、おそらく秀吉時代の大名屋敷街は、スカスカに抜けて、空地だらけになったことが想像されますし、そんな築地塀の内側はやがて、ことごとくが二代目・秀次の「外掘」でつぶされたことになります。

ですから昨年、京大防災研究所チームが明らかにした「外掘」と、ご覧のように縦長の本丸を囲った「内堀」というのは、そもそもが一連の、秀次時代の“聚楽第改造プラン”による城構えだったのでは… という気もして来るわけです。


で、森島康雄先生の研究(『豊臣秀吉と京都』他)によれば、新たな大名屋敷地区が軒瓦までキンキラキンになったのも天正19年以後、つまりは秀次時代のことだった!! という再認識が不可欠のようで、以上の結論として、聚楽第とその周辺は、二代目の秀次のときに、本丸を縦長に拡張しつつ、二重の堀で城構えをギュッと凝縮(ぎょうしゅく)させ、そのかわりに、内裏(だいり)とつながる街路の方へ大名屋敷を追いやり、そこを大量の金箔瓦でまばゆく変貌させたようなのです。


――― つまり、ある意味、秀次は関白の「城」兼「政庁」として、聚楽第が本来やるべきことをやっただけ、という風にも見えるものの、そんな果敢(かかん)な秀次の行動は、結局、裏目に出てしまったのかもしれません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい





言いそびれてしまった聚楽第の話題を、一回だけ追加させて下さい


< 昨年の外堀跡の地中探査によって、聚楽第は
 「面積が従来の推定より約6割も大きかった」
  との報道がありましたが、そういう言い方は正しかったのか。

  むしろ逆に、築城当初よりも“小さくなっていた”!? のでは… >



またか、と思わずに、是非ともこの一回だけお読みいただきたいのですが、下記のような報道における「約6割も大きかった」という言い方(→比較のしかた)に対する疑問についてです。


日本経済新聞 電子版(2016/3/12)
「聚楽第に大規模な外堀 京大など、表面波探査で確認」より

豊臣秀吉が京都に築いた城郭兼邸宅「聚楽第」跡で大規模な外堀の跡が確認され、面積が従来の推定より約6割も大きかったことが分かったと、京都大防災研究所や京都府教育委員会などの研究チームが12日までに発表した。


たびたび引用した当図も、同じ報道発表を扱った京都新聞のもの


ご覧の京都新聞産経ニュースなど、同じ報道発表を扱った記事でも「従来の約1.6倍に広がり」という風に、聚楽第の「面積」が変わったことを伝えておりまして、これはおそらく、京大防災研究所チームが発表した内容を、そのまま直裁に(細かい付帯情報をネグった形で)報道したからなのでしょうが、きっと城郭ファンの皆様は、この点で「アレッ?」とお感じになったことでしょう。

と言いますのも、ご承知のとおり、江戸時代に描かれた聚楽第の内堀の痕跡(京都図屏風/洛中洛外地図屏風)に比べれば、そこに外掘が加われば「6割も大きい」ということにもなるのでしょうが、そもそも、それ以前の豊臣秀吉の築城当時は、下記の絵図のごとき “さらなる広がり” があったことは、城郭ファンの間では、常識の事柄だからです。


広島市立中央図書館蔵『諸国古城之図』山城 聚楽


ですから「6割も大きかった」という言い方は、こうした予備知識がまったく無い一般の方々に対しては、間違った情報伝達(ミスリード)をしてしまったのかもしれません。

歴史の真相としては、豊臣秀次による「外掘」の築造(今回の発見)で聚楽第は「6割も大きかった」かどうかは、極めて疑わしく、むしろやや“小さくなった”のではなかったか―――という気さえ、私なんぞはしてならないのです。


ここで基礎的な確認事項とすべきは、秀吉時代の「外郭」と秀次時代の「外堀」はもちろん別次元のものであり、なおかつ、秀吉時代の「外郭」と上記絵図の黒い太線(石垣をともなった築地塀の類いか?)もまた別のものであった可能性を考慮しなければならず、その場合、我々が「外郭」と呼んで来たのは、上記絵図で申せば、徳川「家康公」屋敷なども含んだ武家屋敷街の全体を指していたのかもしれない、という点でしょう。




そんな「外郭」の広さ(面積)については、聚楽第をずっと研究して来られた森島康雄先生でさえ、「考定作業は極めて困難である」(『豊臣秀吉と京都』)という風に、ザックリとした推定もおっしゃってはいない状態です。

そんな中で、かつて『地理から見た信長・秀吉・家康の戦略』等で話題になった人文地理学者の故・足利健亮(あしかが けんりょう)先生は、著書に思い切った想定図をのせておりまして、それを見た当時は、私なんぞは「本当かなぁ…」と首をかしげたものですが、現在に至ってみると、足利先生が想定した広大な外郭が、かえって説得力を持って来たようにも感じられるのです。…


足利健亮編『京都歴史アトラス』1994年(\6500…図書館でどうぞ)

(同書より)

聚楽第の広さについては、「中四方千間」、つまり、周囲1000間(1800メートル)と記す史料(『兼見卿記』)と、「四方三千歩の石のついがき山のごとし」、つまり、周囲3000間(5400メートル)と記す史料(『聚楽行幸記』)の2つがあり、これによって内郭と外郭、すなわち文字通り大規模な「城郭」構造であったことがわかる。
(中略)
内城の外は有力大名の屋敷地区で、それが外郭をなしていたと考えられる。外郭の広がりは、東を堀川、西を千本、北を元誓願寺、南を押小路で囲まれる5400メートルの外周長をもつものであったと推定される。


こんな足利先生のきっぷのいい?見立てと同書掲載の想定図を参照しつつ、そこに京大防災研究所による内堀・外堀を合わせて地図上に示しますと、なんと、なんと…




!! 後の二条城までもがすっぽりと収まる範囲が「外郭」(=武家屋敷街の全体?)であったのだとしていて、一方の小さい方(『兼見卿記』)の外周1800メートルというのは、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸だけをぐるっと囲んだ範囲が1800メートル強にあたるのだと、足利先生は解説していました。

したがって、聚楽第の面積をその小さい方で考えた場合は、秀次時代の「外掘」を加えた範囲がやや広くなりますから、報道のとおりに、外堀の出現で聚楽第は以前より「大きかった」(大きくなった)ことになります。


ですが、その小さい方では、とても有力大名の屋敷街を囲い込むことは出来ませんので、やはり大きい方(『聚楽行幸記』)を考えざるをえなくなり、その場合は、上記の図のごとく、秀次ら主従は、外郭(二ノ丸)北部の大名屋敷を“食いつぶす”形で、「外堀」をせっせと掘って巡らせたことになるわけです。!!

――― となれば、報道の「6割も大きかった」という言い方じたいが、本当に意味があったのか?…という気がして来ませんでしょうか。

むしろ実態に合った言い方としては、“城をスリムに凝縮(ぎょうしゅく)した”とか“大名屋敷を切り捨てて、二重の掘を実現したのだ”といった言い方のほうが、まだ正しいように思えてしまうのです。




では最後に、少々乱暴なやり方ですが、上記の足利先生の「外郭」を示した図と、右側に並べた『諸国古城之図』山城 聚楽とを“合体”させると、果たしてどうなるでしょう。

基本方針は「本丸北西隅の天守台の付け根」と「堀川」をうまく合致させるようにして、そのため『諸国古城之図』の右側はやや幅をせばめ、左側はやや幅を広めるなどしつつ、見た目の違和感が無いようにダブらせますと…




これの左側は、地図や絵図を3枚も重ねた状態ですので、見づらいことこの上なくて恐縮ですが、じっと目をこらしてご覧いただきますと、色んな“符号点”が見えてまいります。

例えば、何故か、築城当初の状態と言われる『諸国古城之図』の本丸とその南側の馬出し曲輪が、実際の探査で判明してきた縦長の本丸の範囲に、ピッタリと収まってしまうこと。(→下図も参照。改築の疑い?)

しかも、黒門通は、この通りの下長者町付近に聚楽第の「くろがね門」があったことが由来と言われますが、ご覧の合体図では、まさに黒門通と下長者町通の交差点の東側(=外側/猪熊通にも近い地点)で、例の黒い太線上の東門がしっかりとダブって来ること。

(※そのうえ、秀次時代の「外掘」の一部が、その東側すぐの場所を遮断!!している点は、何かゆゆしき事態を示唆しているのか… それともこれは秀吉時代から在る、『探幽縮図』にも描かれた「橋」の証拠なのでしょうか?)



そしてこの場合、前出の徳川「家康公」屋敷と、後に家康自身が築いた二条城とは、ほとんど同じ位置(二条通の北側ないしは突き当たった場所)にあたり、しかも外郭ラインの南東隅を利用して築城を行なった可能性がうかがえる(→まことに家康らしい、二条城の選地の動機か)という、思わぬ結果まで見えて来るのですが…。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年01月17日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…





探査で判明した聚楽第「外堀」は、まだ櫓等が完成していなかったとすれば…




もう一回だけ、聚楽第の話題を続けさせていただきたいのですが、前回、絵画史料に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、ひょっとすると本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を(コンバートして)描き込んでしまったのではないか… などと申し上げました。

では、どこの景観なのか? とお感じになった方もいらっしゃるかと思いますので、今回は私なりの腹案を申し上げてみたいと思います。その場合、気をつけたい事柄としては…


話題になった聚楽第の「外堀」は、まだ未完の状態??

例えば、南東側の浅い凹みは「その時まさに掘を掘っていた途中」のようで…




(※ご覧の図は京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」に掲載の図を引用)



二番目の明暗をつけた図は、当ブログの記事ですでにご覧いただいたとおり、外堀全体の配置をよくよく見ますと、南面(=太閤・豊臣秀吉のいた伏見城の側)の工事が後回しになっていて、これは外堀がまさに“造成途中”であったことを感じさせるものです。


ということは、当然、これら外堀の堀際に「櫓」の類いは、どこまで完成していたのだろうか? という疑問も出てこざるをえないのではないでしょうか。

そういう観点から、さらにご覧いただきたいのは…


個人蔵『京都図屏風(洛中洛外地図屏風)』に描かれた聚楽第の痕跡 → 内堀だけ!!



これも有名な絵画史料の一つであり、上記の探査結果がでる以前は、これによって聚楽第のおおよその形を、本丸と南二ノ丸・西ノ丸・北ノ丸から成るものだと想定していたわけですが、今日、改めてこの屏風絵を見ますと、「どうして、きれいに内堀だけが残ったのか…」という新たな疑問を感じてしまいます。

この屏風は元和6、7年(1621、1622年)か寛永元年(1624年)の制作と考えられるそうですから、聚楽第の取り壊しが始まった文禄4年から数えて、20数年でここまで変わってしまったことになります。




ためしに探査結果の図を、東西・南北の比率をやや変えてぴったりとダブらせますと、問題の「外堀」があっという間に埋められて、市街地に変貌して行った様子が、ありありと想像できます。

破却開始から20数年で、どうして外堀だけが、跡形もなく消えて、いちはやく市街地化したのか? という風に改めて考えてみれば、やはりそれが“造成中”だったから、埋めやすかった(※残土も土塁用にちゃんと残っていた)のではないか、という想像をたくましくしてしまうのです。


……ならば『探幽縮図』の原画は、いったいどこの景観を描いたのか



さて、以上の事柄を踏まえた場合には、ご覧のように石垣の堀際に櫓群を連ねた曲輪というのは、どうしても、本丸か南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸のいずれかを想定せざるをえなくなってしまいます。

そこで、一つの参考事例としてご覧いただきますのが…


前田育徳会蔵『聚楽城古図』より

本丸の北側部分を拡大してみれば…


! これは城の描写が非常に簡略化されていて、なおかつ、そこにある人物名を見ますと、やはり参考資料にとどめなければならないものなのでしょうが、そんな側面をあえて差し引けば、「山口玄蕃頭」という人物の位置づけ―――すなわち、増田長盛や石田三成と並ぶほどの豊臣政権の幹部として、当時の人々に認知されていた可能性をうかがわせるようにも見えます。


そして、その名前がある部分(二ノ丸?の北西部分)を見ますと、そこは文禄2年に「北ノ丸」が新造された範囲に含まれるのか否か、微妙なところでしょう。

北ノ丸と言えば、かつて櫻井成廣先生は「北の丸は『駒井日記』文禄四年四月十二日の条に「北丸御袋様に八木(米の事)千石」の文字が見出されるから、当時関白秀次の母智子(後の瑞竜院日秀)の邸が此の郭に存在したに相違なく、従って彼女の来住以前には秀吉の母大政所が居たのではあるまいかと類推出来る」(『豊臣秀吉の居城』)とまで指摘していて、そこに山口玄蕃頭の屋敷があったとは、ちょっと考えにくい場所ではあります。


それでは、同じく「北ノ丸」がまだ無い状態を描いた、もう一つの資料では…


幕末の画家・名倉希言が書き上げた『豊公築所聚楽城跡形勝』より


なんと、こちらの有名な資料では、同じあたりが加賀少将(前田利家)邸とされていて、こんなチクハグな状態に至った背景を私なりに想像しますと、前々回から申し上げて来た <『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響> がまたここでも“悪さ”を働いて、混乱を助長させたのではなかったのか… と思わず邪推してしまうのです。




かくして、ここでも金雲を使った強引な押し寄せがあり、加賀少将邸の本来の位置はずいぶんと違っていた可能性を含めまして、以上の事柄のすべてを勘案した【仮説】を、この際、お目にかけたいと思うのです。


【本日の結論】 絵画史料に共通した<櫓群>というのは、実は、「北ノ丸」の景観なのでは!!?


(※内堀・外堀の状態は京都大学防災研究所の復元図に基づいて作成)


仮説としてここで申し上げたいのは、山口玄蕃頭の屋敷が本当に「北ノ丸」にあったと言うのではなくて、あくまでも絵図や伝承に基づいた絵師の「見立て」として、このような視点が設定されつつ「北ノ丸」を前景とした景観が(聚楽第を代表して)描かれたのだと仮定しますと、その他の絵画史料との共通性や間違いの伝播(伝染)についても、ある程度、合理的に解釈して行くことが可能なのではないでしょうか。

では、どの絵画史料が一番先で、どれが一番正確なのか、と言われますと、こうした仮説の上に立つなら、『探幽縮図』で本丸からポツンと離れて天守らしき建物が描かれたのも、当ブログ仮説の「加賀少将邸四重櫓」ならば、前田邸の伝承が残る福本町か加賀屋町のいずれであっても、まさにそのように見えた!! ことでしょうから、(※この屏風絵全体は聚楽第の東西南北と行幸の行列との方角が合わなくなるものの…)『探幽縮図』原画の聚楽第の描写じたいは、かなり有力な候補に思えて来てならないのです。




おそらくは、こうした視点から描く『探幽縮図』の原画などが最初に現れ、続いて本丸御殿を強調するためのコラージュ画として『聚楽第図屏風』が作られ、その後に、それらの櫓群(実は北ノ丸)と本丸御殿を踏襲して、城絵図を加味した『聚楽第鳥瞰図』の類いが制作されたのでは… と勝手に想像しているのですが、果たしてどうなのでしょう。??






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年01月03日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





続報――『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してきた…




前回の年末の記事では、注目の『探幽縮図』と、三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比から見えた「疑惑」について申し上げました。




ご覧のような、金雲を巧妙に使ったギュウギュウの寄せ集め(コラージュ)の可能性を申し上げたわけですが、この『聚楽第図屏風』そのものは、本丸?を囲んだ屋敷に「加賀少将」「松嶋侍従」との貼札があることから、景観の想定としては聚楽第完成の頃(天正15〜16年)と見て矛盾は無く、屏風の制作時期についても、日本美術史の辻惟雄(つじ のぶお)先生が「様式的に見ても、その当時の制作と見て差支えないと思う」と鑑定したものでした。


ということは、その他の聚楽第を描いた絵画史料と比べても、おそらくいちばん早い時期に!…こういう(城郭の主要部分がコラージュされた)描き方の『聚楽第図屏風』が登場したことになりそうです。

ですから、そのことが、もしかすると、幻の聚楽第の描写をめぐる混乱に“いっそう拍車をかけた”元凶ではなかったかとも思えますし、現に、下記のごとき一連の絵画史料の存在が知られています。

個人蔵『聚楽第鳥瞰図』

(これには長谷川等伯が所蔵した屏風絵の「縮本」であるとの裏書きあり)



ご承知のとおり、これと同様の鳥瞰(ちょうかん)図が、大阪城天守閣蔵のものなど何点か伝わっておりまして、これらは一見したところ、堀の配置の様子は伝来の城絵図を踏まえたらしく、ある程度の説得力はあるものの、その一方で、城の中心をなす大型の御殿群が、手前の櫓群のすぐ裏にまで迫って来ています。

思わず私なんぞは、これらが『聚楽第図屏風』のコラージュの(悪)影響ではないのか!?… と叫びたくなってしまいます。


そのうえ、こちらの鳥瞰図はどれも「天守」とおぼしき建物が見当たらない、という別の要素が一貫していて、それはそれで見逃せないものがあり、ならば長谷川等伯(慶長15年没)が所蔵したとか、海北友松(慶長20年没)が描いたとかいう原本の絵図はどう位置づけたらいいのか?… ここは一度、聚楽第の絵画史料の“全体”を見回した整理が必要だと思えて来てなりません。


そこで今回は、注目の『探幽縮図』の方に似た描き方の史料は他にないのか? という観点で見回しますと、有名な堺市博物館蔵の屏風絵が、ほぼ同じ構図であることに気がつきます。



【年初の大胆仮説】聚楽第の構造により忠実な描写は、下の二点なのでは!?

堺市博物館蔵『聚楽第行幸図屏風』との対比 → 構図的には、ずっと近い関係に見える



こちらの二つを並べますと、一見して、ともに左上に本丸御殿があり、両図に共通した<櫓群>は、その本丸御殿とは別郭にあったもののように見えて来ます。

このことはやはり、申し上げた『聚楽第図屏風』のコラージュの悪影響が、いかに(当時の絵師らも含めた)大勢の日本人に、間違った聚楽第のイメージをすり込んできたのか??… という疑念を増幅させるものでしょう。

で、そうした疑念に、追い打ちをかけるような墨書(書き込み)があるのです。


謎解きのヒントは「山口玄蕃屋敷」!!?…



そしてなんと『探幽縮図』には、山口玄蕃頭(げんばのかみ)宗永という、思いもよらぬ名前が書き込まれております。

私なんぞもほとんど知識のなかった武将ですが、玄蕃頭は天文14年(1545年)の生まれと言われ、ちょうど浅野長政らと同世代の豊臣秀吉の家臣でした。


例えば、江戸後期の加賀藩士(富田景周)が加賀・越中・能登の地理歴史をまとめた『三州志』には、山口玄蕃頭について「山口本姓ハ多々良也。周防大内介ノ族ニシテ防州ニアリ。義隆滅亡ノ後秀吉公ニ仕ヘ秀秋ノ後見トナル」とあるそうです。

大内義隆が陶隆房の謀反で死んだのは天文20年ですから、それは玄蕃頭がまだ幼い頃のことであり、それからどのようにして秀吉に仕えたのか、46年も後の慶長2年に小早川秀秋の付家老となって大聖寺城(大正持城)の城主になるまで、その間の経緯があまり分からない、ナゾ多き人物と言っていいでしょう。


玄蕃頭が関ヶ原戦の西軍方として戦死した大聖寺城址 / 天守台かと見まごう本丸の櫓台跡


ただ、その『三州志』には「賦斂(ふれん/税の取り立て)ヲ重クシ金銀ヲ貪(むさぼ)リタレバ領民窮スト云」ともあって、ここからはおのずと、玄蕃頭とは「検地」に巧みな豊臣政権の官僚だったのでは?… という想像力がわいて来ます。(→秀吉の直轄領での検地に活躍した、との話もあるそうですので。)

そして結果的に、玄蕃頭は金銀を大聖寺城に溜め込んだことがあちこちの文献にあるそうで、「家族が城を落ちのびるとき、多量の金銀を持ちきれず、大聖寺川に棄てたという巷説がある。その場所が、今の新橋のあたりだと、幼いころ父から聞いたことを想い出す」と、『聖藩文庫蔵 山口記』を発行した加賀市立図書館の東本進館長が同書で解説しておられます。

ならば、そんな山口玄蕃頭が、もしも『探幽縮図』のとおりに、聚楽第の中に屋敷を与えられていたとすれば、どのあたりが相応しいのでしょうか。



そして、謎解きのもう一つのヒントが「前乃(野)但馬屋敷」??



正直申しまして、こちらの部分に何と書いてあるのか、ちょっと自信が持てないのですが、ひょっとすると「前乃但馬屋敷」と走り書きしたようにも見えまして、正確にはどうなのでしょうか?

―――が、いずれにしましても、上記の玄蕃頭の件と考え合わせれば、これはもう聚楽第の本丸の内であるはずがなく、やはり「別郭」を想定して描いたのだと思わざるをえません。


ということは、結果的に、前回からご覧いただいた『探幽縮図』『聚楽第図屏風』『聚楽第行幸図屏風』『聚楽第鳥瞰図』に共通して描かれた < 櫓 群 > というのは、実際のところは、本丸の東面や南面の堀際の櫓群ではなくて、まるで違う別郭の景観を“コンバートして”描き込んでしまった疑いが出て来るのではないでしょうか。…




(※次回に続く)

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年12月21日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い





手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い


今年の6月以来、さんざん話題にして来た「聚楽第」ですが、幻の姿を描いた現存の絵画史料は数が限られていて、その中には、あの狩野探幽(かのう たんゆう)が自らの画業の向上のために書写(スケッチ)し続けた、膨大な量の『探幽縮図』の中にも、聚楽第行幸の屏風絵を書き写したものがあります。

東京芸術大学蔵の『探幽縮図』より / 左端の聚楽第や、門をくぐる天皇の鳳輦(ほうれん)など


(ちなみに、聚楽第の上方に描かれた「天守」らしき建物の拡大)

上記部分のさらに右側 / 天皇の鳳輦から、それを追う関白・豊臣秀吉の牛車まで

上記部分のさらに右側 / 関白の牛車に続く騎馬武者などの行列


さすがに書写(スケッチ)だけに、ちょっと分かりにくい感はあるものの、私なんぞは、聚楽第の御殿の上方にポツンと離れて(!!)描かれた「天守」らしき建物に、まず目を奪われてしまいます。

ですが、それは後ほど詳しく触れるとしまして、この絵の全体を見て(私のごとき素人でも)驚嘆してしまうのは、行列の登場人物がいちいち「名前」を記されている点でしょう。


探幽は原画を手早くスケッチしただけですから、当然、これの原画の屏風絵にも「名前」は書き込まれていたはずであり、そんなところは他の聚楽第の絵画史料には見られない特徴ですから、今回のブログ記事では、ためしに、絵を部分的に拡大しながら、有名な『聚楽第行幸記』にある行列の公家や武将の「名前」と照らし合わせてみたいと思うのです。…


【拡大A】

鳳輦に続くのは、近衛信尹(信輔)、織田信雄、豊臣秀長、豊臣秀次、徳川家康、宇喜多秀家ら…




(『聚楽第行幸記』の行列の記録より / 赤文字が【拡大A】に描かれた公家や武将)


鳳輦。 前後駕輿丁。
 次六位史以下役人。
 此次。
左大臣信輔公。諸大夫。布衣侍。烏帽子着。随身。雑色。かさもち。
内大臣信雄公。随身。  日野烏丸大納言光宣卿
日野新大納言輝資卿。  久我大納言敦通卿。随身。諸大夫。
駿河大納言家(康)卿。随身。諸大夫。
大和大納言秀長卿。随身。諸大夫。


(〜この間の9名の公家は省略〜)

吉田左衛門督兼見卿。  藤右衛門督永孝卿。
備前宰相秀家卿。随身。
関白殿。  前駆。乗馬。



【拡大B】そして「関白殿」の牛車に続くのは…



(『聚楽第行幸記』の続き / 赤文字が【拡大B】に描かれた武将)


関白殿。  前駆。乗馬。
左。
増田右衛門尉。雑色。馬副。此以下同前。 福原右馬助
長谷河右兵衛尉。 古田兵部少輔
加藤左馬助。   糟谷内膳正。
早川主馬首。   池田備中守。


(〜この間の左列26名の武将は省略〜)

稲葉兵庫守。   富田左近将監。
前野但馬守
右。
石田治部少輔。  大谷刑部少輔
山崎右京進。   片桐主膳正
脇坂中務少輔。  佐藤隠岐守。
片桐東市正。   生駒修理亮。


(〜この間の右列26名の武将も省略〜)

松岡右京進。   津田隼人正。
木村常陸介
 雑色左右三十人。
随身。左。
森民部大輔。 野村肥後守。 木下左京亮。
右。
蒔田主水正。 中嶋左兵衛尉。 速水甲斐守。
布衣。
一柳右近大夫。 小出信濃守。 石田木工頭。
三行烏帽子暇衣也。



【拡大C】

さらに続くのは、前田利家、織田信包、豊臣秀勝、小早川秀秋、結城秀康、織田秀信ら…




この【拡大C】に相当する『聚楽第行幸記』の記録は割愛させていただきますが、もうお分かりのとおり、行幸記に記録された「名前」に比べますと、絵の方は、各行列の真ん中あたりの人々を大胆にハショリながら、とりわけ豊臣家に関わる有名どころを“選りすぐって”並べたことが分かります。

そしてここで一つ、大きな“疑問”として申し上げなければならないのは、【拡大B】の騎馬武者の位置が、実際の行幸とは大きく違っているかもしれない、という点でしょう。


もう一度【拡大B】を…


どういうことかと申しますと、ご覧の石田三成から木村重成(重茲)・古田重勝までの左右二列の騎馬武者は、関白の牛車の「前駆」とされた人々であって、実際は牛車の“直前”を進んでいたはずなのに、ご覧の絵では(まさに『聚楽第行幸記』の書き順どおりに!…)牛車の“直後”に描かれている点がおかしい、と言わざるをえないようです。


これは例えば、かつて池享(いけ すすむ)先生が、足利義満や義教による室町第行幸との対比から指摘されたように、「義満・義教の場合、前を行く「太刀帯」「帯刀」は、赤松・伊勢・長・松田・佐々木・土肥・土岐・小早川といった「足利家臣団」=奉公衆クラスで構成されている。私は、これとの対比で、「前駆、乗馬」は増田・石田以下の「秀吉家臣団」を指していると考えたい」(『戦国・織豊期の武家と天皇』)と考証されたとおりだと思うのです。

(→もしそのとおりであれば、関白秀吉の牛車は【拡大B】の木村重成(重茲)の直後を進み、随身らを引き連れつつ、【拡大C】の前田利家がそのすぐ後を続いた、というカンペキな!…位置取りであったことになります)


ですから、これの原画の屏風絵というのは、探幽自身はそれを「永徳かと弟子ノ画」と推定しましたが、以上の事柄から申せば、謎の絵師は少なくとも『聚楽第行幸記』そのものや、その他の聚楽第(行列?等)を描いた絵画史料をしっかりと集めたうえで、それらに基づいて(ある意味で)精緻に、工夫をこらして制作した作品であった、と言って良いのではないでしょうか。




<では肝心の「聚楽第」の描き方はどうなのか?…>





【左端の拡大】→「大ひろ間」などの大型の建物群が、屏風絵の左側に(はみ出して)続いている…



さて、聚楽第行幸は天正16年と20年の2回にわたって行なわれましたが、ここまで申し上げた『聚楽第行幸記』との照合から、ご覧の『探幽縮図』の行列は、まさに天正16年の“1回目”の行幸を想定して描いたことになります。

(※ちなみに、2回目の豊臣秀次による聚楽第行幸では、行列に諸大名の大多数が参加しなかったと言われます)

では、そうした想定を踏まえて『探幽縮図』の聚楽第の描き方に注目しますと、まず本丸御殿の大型の建物群が、屏風絵の左側に大きくはみ出していることが分かります。

そして絵の上端には、ずいぶんと離れた位置に「天守」らしき建物がある、というのは、いったいどういうことなのか? という疑問がふくらむのですが、これの答えになりそうなのが、何度もご紹介してきた三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比です。




左右を比べてよくご覧になればお分かりでしょうが、両者は、堀際の櫓の様子に似たところが何箇所もある一方で、内部の敷地の御殿については、『探幽縮図』の方がずっと広々と、余裕を持って配置されております。

では、この違いは何に起因したのか? と考えますと、結論は、『探幽縮図』の方に原因があるのではなく、むしろ有名な『聚楽第図屏風』の方に大きな原因(描き方の欠陥!?)があるのだと分かって来ます。


赤く変色させた「金雲」がクセモノか??

最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してくる…



いかがでしょう。ご覧のように、両者の対比では、『聚楽第図屏風』は本丸御殿が異様なまでに手前に“押し寄せて”来たことが分かります。!

それを可能にしたのが、赤く変色させた「金雲」でしょう。実に巧妙であり、誰かがこう言わなければ、表面的には何の不自然さも感じさせないほどでした。


……これまでの長い間、聚楽第を描いた絵画史料としては最も「精緻だ」と言われて来た『聚楽第図屏風』ですが、このように見直しますと、かなりの変形や省略、合体などが数多くなされていて、そうした点を踏まえれば、ポツンと離れた「天守」らしき建物も、同様に、本丸側へ、異様なまでに“押し寄せて”来たのでは?… という疑念が生じてまいります。

ですから、これはもう、例えが悪くてたいへんに恐縮ですが、『聚楽第図屏風』の聚楽第というのは、城郭の主要な部分が(金雲を巧妙に使って)ギュウギュウの寄せ集めにされていて、それはあたかも、交通事故でペシャンコになった自動車のような??描き方になっているのではないか… とさえ感じられるのです。


(※次回に続く)




【2016年末の年越しにあたって】

ご承知のとおり、この2年ほどは、恒例の年度リポートをまとめることが出来ないまま、また年越しになりますが、テーマは依然として「聚楽第」を考えておりまして、来たる2017年には、次回の年度リポートを(出来れば聚楽第「御三階」のビジュアル化などを含めて)お届けしたいと思っております。





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年12月07日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること





問題の「加賀少将邸」四重櫓と萩城天守との構造的な“類似”から言えること




このところ申し上げて来た「築城当初の聚楽第には天守が無かった可能性」に関しては、これまでずっと『聚楽第図屏風』等には「天守」が描かれている、と言われ続けて来たわけですから、もし天守が無いとなれば、ご覧の天守らしき建物(四重櫓?/間近の貼紙には「加賀少将」と墨書あり)はいったい何なのか? という一件が、最後に残された問題と言えるでしょう。

かく申し上げて来た私も、この件については、ややおぼつかない状態ですが、ただ、今年発表された聚楽第跡地の地中探査の結果が出る以前から、屏風絵の建物については、ある“印象”を持ち続けて来ました。

――― それは、この建物が、毛利輝元が建造した「萩城天守」と、構造的によく似ているなぁ… という印象でした。


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』をもとに(色味と明るさを変えて)見やすく作成

萩城天守の有名な古写真


などと申しますのは、試しに、ご覧の萩城天守の古写真を、その左右を反転させたうえで、『聚楽第図屏風』の描写と並べて見てみますと…


!!―― 両者ともに、背後に <大型の付け櫓> が付く構造が共通していたのでは?



ご覧のとおり、両者は背後に大型の付け櫓が付属している点が共通しておりまして、それを除く本体部分も規模・構造ともに似たような所があり、そのため右側写真の『聚楽第図屏風』の方は“四重櫓”と言いつつも、その内部は五階か六階建てであったように見えて来ます。


そして、いっそう重要な事柄は、以前のブログ記事でも申し上げたごとく、萩城天守とは、本丸や指月山山頂の詰丸を背後に背負う形であって、そうした姿はどこか <豊臣大坂城の西ノ丸天守> へのオマージュとして(関ヶ原合戦の際にはそこを拠点として天下をうかがった)毛利輝元の“思い”が込められた天守ではなかったのか? という点でしょう。


豊臣大坂城の西ノ丸天守の位置→惣構(そうがまえ)の中心点でもあった※関連記事


萩城天守の位置→絵図の中央やや下(毛利家文庫蔵『萩絵図』より)


すなわち、豊臣秀頼のいた本丸を背後に背負いつつ、西向きに建っていた西ノ丸天守。

そして同じく、指月山の詰丸や本丸を背負いつつ、南向きに建っていた萩城天守。

この萩城天守の方は、天守背後の北面に「大型の付け櫓」を付属させて、本丸との連絡の機能を持たせていた…

となれば、それとよく似た『聚楽第図屏風』の四重櫓もまた、「大型の付け櫓」のある方向に、必ずや「本丸」があったはず!!…




ということで、両者を「大型の付け櫓」を重視しながら見比べますと、このような考え方にならざるをえないわけでして、そうなると、おのずと『聚楽第図屏風』の方の描写は(これが仮に本丸の北西隅の「天守」であったとしても…)そもそも“建物の向きがおかしい”と言わざるを得ないのです。


問題の建物は、構造面から言えば、実際は <真逆> を向いていたはず…




そこで、当ブログなりの想定をさらなる我田引水で申し上げますと、この『聚楽第図屏風』の四重櫓は、聚楽第本丸を取り囲んでいた大名屋敷(広義の二ノ丸)のいずれかで、本丸を背後に背負いつつ、城外を向いて建っていたと考えた場合は、実は、それとよく似た姿の城が一つ、思い当たります。


【ご参考】山形城の古絵図より


豊臣政権下で外様の大大名であった最上義光の山形城は、慶長年間に拡充して修築され、ご覧のとおり(奇しくも聚楽第と同じく?)本丸に天守が無かったかわりに、二の丸の西側の中程に「御三階櫓」を設けていました。


この三重櫓、城内で最大の櫓でありながら、防御的な観点から申せば、どこか中途半端な位置に築かれておりまして、その点では意図がよく分かりません。

ひょっとして、この櫓は豊臣家の「西ノ丸天守」と何か関連性があったのでしょうか?…


では、ここまでご覧いただいたところで、大変に遅ればせながら、聚楽第での「加賀少将邸」の位置を確認しますと…


広島市立中央図書館蔵『諸国古城之図』山城 聚楽



――― 前田利家(加賀筑前守・左近衛権少将)邸は、ご覧の『諸国古城之図』の「山城 聚楽」では、本丸のちょうど西側の!! 二ノ丸にあったとされるのです。


一説には、前田利家邸は、後に築造された「北ノ丸」の位置であったとも伝わりますが、ご覧の有名な絵図では西側の二ノ丸に描かれていて、もしもこの位置に、かの四重櫓(=西ノ丸天守!?)が背後に大型の付け櫓を備えつつ、城外の西を向いて建っていたと仮定しますと、

それは背後の本丸を守る以上に、大陸遠征をひかえたこの時期、より東側の「御所」も守護すべく、ひときわ象徴的に、そこ(王城警護の最前列)に在ったのだとさえ思えて来ます。…

(→この建物は朝鮮出兵では国内残留組の前田利家の預かり、という形か?)


実に、この辺りに、問題の「加賀少将邸」四重櫓の謎を解く、大きなヒントがひそんでいるように感じるのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から





聚楽第天守台の謎解き【案】→どこが天下人の「宿所」かの変遷(へんせん)から



(※TV報道画面からの切抜き)

(中井均『城館調査の手引き』2016年より)

現在復元が進められている名古屋城(愛知県名古屋市)の本丸御殿は慶長十五年(一六一〇)に造営された慶長期を代表する御殿であったが、表部分が手狭となったため、元和六年(一六二〇)には二の丸に広大な御殿が造営され、藩主御殿は二の丸に移った。

空となった本丸御殿はその後、徳川将軍の上洛用の御殿となるものの、ほとんど使用されることはなかった。






このように江戸時代においては、各地の譜代大名の城などで、本丸が天下人(徳川将軍)の宿所や御成りの場にあてられ、大名自身は二ノ丸に自らの御殿を構えた例がかなりの数に登りました。

そうした慣習に従うならば、城内の各御殿の順位というのは当然、【本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】という順位になるのでしょう。

で、この点について申しますと、そんな慣習(本丸を天下人の宿所にあてること)は必ずしも、江戸時代に入ってから突然始まったとも思えない節がありまして、例えば織田信長の頃に、坂本城を築いた明智光秀が、客人の吉田兼見を小天守でもてなした(→つまり大天守を外した)との記録があったり、または前々回も挙げた小早川隆景の三原城本丸御殿の件(→実は豊臣秀吉の御成り御殿?)があったり、さらには倭城の順天城では在番の小西行長が本丸を使わなかった、等々の事例があるからで、城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想は、江戸時代よりいくぶん前からあったように感じるのです。


そうした中で、どうも不思議だなぁ… と私なんぞが感じて来たのが「高知城」であり、現存する本丸御殿(わずか二例)の一つである高知城の本丸御殿が、築城当初は城主の山内一豊自身の御殿であったという点に、違和感を感じたのです。そこには何か、特殊な事情や仕掛けがあったのではないのかと。

(※ちなみに現存例のもう一方、川越城については、本丸御殿の奥の「天神曲輪」が、実は旧来の本丸(詰ノ丸)ではなかったか? という疑問も残るため、ここでは除外させていただきます)


高知城の航空写真より

本丸周辺の現状の略図


かように申し上げましたのは、今ある本丸御殿は江戸中期の火災後に再建されたもので、天守もほぼ同時期に再建されたのですが、ご覧のごとく天守と本丸御殿が寄り添って建つスタイルは、一豊の築城の頃からの伝統的な姿だとされていて、ならば当時の様子を、改めて想像してみますと…




一豊はこの時、徳川幕府のもとで外様大名の立場(→すなわち徳川将軍の「宿所」の可能性はゼロ)ではあったものの、冒頭から申し上げた“大天守や本丸は天下人のもの”という発想からしますと、ご覧の様子は、どこか僭越(せんえつ)と見られかねない“危険”を私なんぞは感じてしまうのです。

思えば、この時期、同様の立場にあった外様大名(旧織田・豊臣の配下で関ヶ原合戦の東軍諸将)を考えますと、例えば福島正則の広島城は、本丸内に“平然と”自らの御殿と(新築の?)大天守をセットで設けていましたが、その逆に、細川忠興の小倉城や浅野幸長の和歌山城などは、本丸(天守曲輪)を天守や多聞櫓で囲うだけに留めて、自らの御殿は天守とは別の曲輪に設けていた(言わば江戸時代を先取りした?)スタイルであったとも言えるでしょう。

(※追記:ちなみに加藤清正の頃の熊本城も、慶長16年に萩藩の密偵が描いたという「肥後熊本城略図」によれば、やはり後者!の城なのかもしれません。天守は大天守のみの独立式で、本丸に大広間はまだありません!!…)



ですから問題は前者の広島城の方であり、高知城と同じく、それは天下人の豊臣秀吉や徳川家康から「僭越」と見られかねない危険をおかしていたことになりそうですが、しかし、しかし、そこには一つ、ある特殊な事情(仕掛け)があったのではないかと、あえて今回は申し上げてみたいのです。

すなわち…




いかがでしょうか?

そもそも天守の原形は何であったか、それは織田信長の安土城天主のごとき「立体的御殿」であったという事情を知っていた(はずの)旧織豊大名らにしてみれば、本丸内にそうした天守と自らの御殿を並べるという行為は、すでに一つの「方便」として、天下人に対する一応の体裁を整えたことになっていたのではないでしょうか。!!…


…などと申しますのも、一豊が高知城を築き始めた慶長6年には、もはや天守の実態は「立体的御殿」ではなくなっていたのでしょうが、そんな「方便」がまだ通用したのだと仮定しますと、冒頭から申し上げた「城の最重要の建物や曲輪を“天下人のもの”とする発想」は、実に 織田→豊臣→徳川 と一貫して、諸大名の間の不文律として受け継がれたことになります。

それこそ、藤田達生先生のおっしゃる「預治思想」がこんな部分に影響したのかもしれませんし、その間においては、城内の各御殿の順位が玉突き状にスライドしたのかもしれず、本来の順位は、

【立体的御殿(天守)―本丸御殿―二ノ丸御殿―三ノ丸御殿…】

という順位であったのかもしれません。


(※追記:このところ申し上げた記事との関連で整理しますと、豊臣政権下の「外様の大大名」たち=徳川・毛利・織田信雄らに限っては、このような「方便」さえも辞退して、以下の聚楽第の風景にならいつつ、自らの城を「小天守」にとどめたのではなかったでしょうか?)




<築城当初の聚楽第には「天守」がまだ無く、せっかくの天守台上が

 ガラ空きであった可能性の「原因」「理由」としても…>








さて、当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉による築城当初は、まだそこに天守が(少なくとも望楼型の天守は)無かったのではないか?? との疑問を申し上げてまいりました。

例えば徳川家康の二条城においても、築城準備を始めた慶長6年に対して、初代の天守(=大和郡山城天守の移築か)を建てた年は慶長6年説から7年説・8年説・11年説と様々に言われていますから、聚楽第でも、最初は天守が無くても不思議ではないのかもしれませんが、ただ、聚楽第の場合は天守台の独特の形状(本丸の北西隅にかなり飛び出た構造)が原因と思われますので、やはり異様な事態… かなり特殊な事情によるレアケースが持ち上がっていたとも想像できます。


そこで、その「原因」「理由」を大胆に推理しますと、今回申し上げた「どこが天下人の宿所か」という問題が、とりわけ聚楽第は天皇の行幸を大前提として築かれただけに、天守という新種の建築物の使い方をめぐって、足利義教以来の150年ぶりの行幸をおこなう上で、政権内部に思わぬ“混乱”を引き起こしていたとは考えられないでしょうか。


聚楽第に向かう後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



すなわち、聚楽第は豊臣政権の政庁と言われますから、そこに天守があがれば、それは当然、天下人の秀吉を示す旗印であり、秀吉の存在(居住や宿泊)を京都盆地一帯の人々に見せつける強烈なランドマークになったはずでしょう。(→現に妙顕寺城の天守はその可能性も…)

しかし、そんな聚楽第に天皇の行幸をあおいだ最大の眼目は何か、と言えば、諸大名がずらりと居並ぶ大広間において、その最上段に天皇が着座しつつ、それを補佐する形の(天下人)秀吉に対して、すべての大名らが臣従を誓うセレモニーを成功させることであり、それが豊臣政権の命運をにぎっていました。

で、そのために迎えた後陽成天皇の「宿所」はどこか、となると、後の二条城と同様に、城内に行幸殿の「儲(もうけ)の御所」を造営したことが『聚楽第行幸記』に書かれています。


――― ならば、そんな城内の風景の中で、天下人の「宿所」をも意味する(なおかつ公家社会とは無縁の)新機軸の「立体的御殿」(=天守)を、ヌオッと御殿全体を見おろすように建ててしまっても、大丈夫なのか?

――― それが政権の意図とは逆効果になって、重要なセレモニーを進めるうえで、差しさわりが生じるのではないか?…

そんな、日本史上、初めての経験を前にした心配が、相手は天皇や公家らも含むため予断を許さず、ここは緊急避難的に、天守台だけ雄大に(→掘の対岸から見えやすい形状を特別に工夫しつつ!!)築いてみせるものの、そこに天守そのものは建てずにおこう、という超レアケースの対応を、秀吉本人らが決断したのでは? と想像するのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年10月26日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか






信雄(のぶかつ)時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか


天正20年以前に毛利輝元が広島城で創建した天守(=小天守)か?

天正17年に徳川家康が駿府城で創建した「小傳主」か?


当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉が築いた頃の聚楽第というのは、巨大な天守台が本丸の北西隅にかなり飛び出た形であった可能性が浮上したため、そうした構造は望楼型の天守にそぐわないことから、そこにはまだ天守の類いが建っていなかったのではないか?(天守台だけ)との推測を申し上げました。

で、そのように考えますと、妙なことに、豊臣政権下の“外様の大大名たち”の城も… 例えば上記の広島城や駿府城も、ひょっとすると、当初は聚楽第と同じく本丸北西隅は天守台だけの状態であり、それに代わる「小天守」を別の一隅に建てて、本丸の威厳を保ったように思えることも申し上げました。そこで…


清洲城の模擬天守

『ビッグマンスペシャル 秀吉の城』1994年より


そんな中でさらに申し上げるなら、ご覧の豊臣政権下の清須城(清洲城)も―――すなわち“もう一人の外様の大大名”として名前を挙げざるをえない織田信雄(おだ のぶかつ)以降の清須城もまた、有名な「清洲越し」の伝承において「小天守を名古屋城に移築した」との記録はあるものの、肝心の天守については何も伝えられていない!(それは何故か)という不思議な一面があります。

そこで従来は、上記イラストのような“天守の”推定復元が我々の興味をかき立てるばかりでしたが、冒頭の聚楽第の状況が判明した現在は、ここで一度立ち止まって、50年ほど前の名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)の解体修理で発見された転用材の“意味”を、もう一度、とらえ直してみるのも良いのではないでしょうか。

その場合、50年前の転用材の発見を踏まえた城戸久先生の“視点”が、いまなお大切なキーポイントであると私なんぞには感じられてなりません。


転用材が使われた名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)


(城戸久「付・清洲城の建築」/『名古屋城と天守建築』所収より)

『聞惟筆乗』によると、

 清須櫓と云ふは御城乾角の櫓をいふ。清須の小天守よし

とあって、古くから清洲城小天守を移築したものと伝えられているが、その構造、材料について見ても、他櫓と相違するところが多くあって、所伝は信じるに足るものである。

(中略)
……名古屋城造営にあたって、清洲城の櫓を移築することはこの城の造営事情から見て、清洲城の伝統と由緒をこれに受けつがせる意図があったに相違ないのである。

移築には少なくとも清洲城の代表的城櫓が選ばれたであろうし、古伝には小天守とも北櫓ともいわれているが、それは天守に相当するか、さもなければそれに代わるところの建築物であったと考えてさしつかえはなかろう。



古伝の「清須の小天守よし」の真意は、解体修理の結果から、部材の転用という形であったことになりそうですが、それにしても、城戸先生の言う「意図」を重んじるなら、なぜ天守ではなく「小天守」だったのか? という疑問が、これまでずっとつきまとって来たわけです。

ところが今夏、聚楽第の意外な実態が判明してみれば、まさにコロンブスの卵であり、そもそも織田信雄らの清須城には“「小天守」しか無かった”のならば、全くもって「清須の小天守よし」で問題は無かったことになります。


織田信雄像(総見寺蔵/ウィキペディアより)


そしてさらに気になるのは、西北隅櫓の転用材のうち、床の根太は(旧建物の)手すり勾欄の地覆材であり、それらには飾り金具の跡があったという点でして、したがって問題の清須城「小天守」は(小天守なのに…)きらびやかな高欄・廻り縁のある望楼型の天守建築だという点でしょう。

と申しますのは、歴史上の大小連立天守などで、小天守にそれだけの“華麗さ”を施した例は現状では一つも確認できないように思いますので、これだけをとっても、豊臣政権下の織田信雄→豊臣秀次→福島正則らが城主の清須城には、城内唯一の天守建築として「小天守」しか無かったのだ(→本来の天守台上には何も無かった)という可能性が濃厚に感じられるのですが、いかがでしょうか。



清洲城の本丸跡の天守台らしき台上 / 現状は織田信長を祀る小社

江戸時代の「春日井郡清須村古城絵図」をもとに勝手に推定すれば…





<ならば小早川隆景の三原城など、他の大大名たちの居城はどうなのか?>




正保城絵図「備後国之内 三原城所絵図」(国立公文書館蔵)より


さて、ご覧の三原城は、毛利元就の三男で豊臣五大老の一人・小早川隆景(所領37万石)の居城でしたが、ここも本丸北端(三角形の北西隅)は巨大な「殿主台」だけの状態で、天守が無かった城として知られています。

が、天守は無くとも本丸御殿は壮大なものだそうで、松岡利郎先生によれば…

「その大広間の規模施設や金一の間の座敷飾りは、広島藩家老級のものにしては格式の高すぎる建物である。したがって、建立年代は小早川隆景の築城当初にさかのぼる可能性が高い。

 ちなみに、豊臣秀吉は天正十五年九州遠征や文禄元年(一五九二)名護屋城往還の途中に三原城へ寄って宿泊しており、その御成りを迎えるために設けたと考えられ、きわだった特色が認められる」
(『毛利の城と戦略』1997年より)

というほどの城であったのに、何故そこに天守が必要なかったのか、理由はよく分かっておりません。


かくして、豊臣政権下の“外様の大大名たち”の城は、意外にも、天守らしい天守の無い城がいくつもあり、冒頭の徳川家康の駿府城や江戸城(255万石)、伊達政宗の岩出山城(58万石)、島津義久の富隈城(56万石)、佐竹義宣の水戸城(54万石)、最上義光の山形城(24万石)など、どれも豊臣期の大大名の居城としてはかなり控えめな景観でした。


―――そもそも「天守」とは、おそらくは、貴種の生まれでない天下人(→氏素性の怪しい天下人、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら…)のために考案された政治的モニュメントであろう、というのが当サイトの一貫した考え方でして、その意味では、島津氏などは領国統治のために「天守」など必要なかったと言えましょうが、問題は、下克上で急成長した(もしくは豊臣政権下で移封された)大名たちです。

ですから、徳川家康や伊達政宗らは、本来ならば“天守の力”も借りて豊臣政権下の領国経営を行ないたかったはずだと思うのですが、彼らは外様の諸侯に過ぎなかったためか、聚楽第の景観に一つのアイデア(模範!)を得て、天守台には天守の無い、小天守のみの <聚楽第チルドレンの城> というカテゴリーを産み出していたかのようにも見えるのです。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年08月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問”






毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば… 広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問”




前回までの記事では、聚楽第跡地の地中探査の結果に基づけば、本丸の北西隅にかなり飛び出た形の広い天守台には、おそらく望楼型の天守がなじまないため、二代目・豊臣秀次の頃になってから『御所参内・聚楽第行幸図屏風』にあるような層塔型「御三階」が、その広い天守台の真ん中に建てられたのではないか… などと申し上げて来ました。

では、それ以前の、豊臣秀吉が関白の頃はどうなっていたのか?と申しますと、天正15年(1589年)に聚楽第が完成したのち、翌16年に毛利輝元ら毛利家の主従が聚楽第を訪れていて、その様子が『輝元公上洛日記』にあり、その中にかすかに聚楽第の建築についても言及があります。


七月廿四日乙亥 雨
…午刻に聚楽へ御出仕候。関白様殿様御進物銀子三千枚折に入御太刀一腰惣金具御馬一疋月毛御鷹五居、金吾様へ沈香百兩虎皮拾枚御太刀一腰金覆輪、北政所様へ銀子貳百枚白糸三折、三丸他御奏者前野但馬守。御対面の御座配の次第御食被進時の段。…

八月七日戊子 天曇
…未刻に聚楽へ御出仕候、碁被成御覧。其以後御座席台所不残見せ被参せ候、駿河大納言大和大納言殿御案内者也。関白様も姫子御いたき被成度候、御出候て御雑談なと有之。…

八月廿七日戊申 天晴
…酉刻に御暇乞関白様へ御出仕候。太刀一腰梨地銀子五十枚御進上。関白様被成御家顔御馬一疋被進候間、御厩の内を御覧にて何成とも御気に入を可有御取の由にて綾の御馬御拝領候。…
 


という風に「御対面(所)」「御座席」「台所」「御厩」を輝元らに見せつつ、それで城内を「不残(のこらず)見せ被参せ候」と言うのですから、この時点の聚楽第というのは、その後、輝元らが一連の旅の最後に大坂城を訪問した際には、秀吉自身がわざわざ「天守」に登って案内したのと比べますと、印象として、けっこうギャップがあるように感じられるものです。

このことからも、以前から城郭ファンや研究者の間では“聚楽第には天守が無かった”との見方が一部で示されて来たわけですが、そうなりますと、近年、佐竹家の臣・平塚滝俊の日記をもとに、改めて話題になった <広島城天守の創建の時期=天正20年以前説> とのカラミが大変に気になってまいります。!

と申しますのも、ご承知のとおり毛利家は、聚楽第の「縄張り」を写して広島城を築いた、との記述が江戸時代の文献にいくつもあるものの、もしも輝元らが“巨大な天守台上にまだ天守の無い聚楽第”を見て帰ったのだとしたら、その後に秀吉に大坂城天守は案内されたものの、帰国後、堂々と広島城に天守を創建できたのだろうか… と、それまでの秀吉(織田家)と毛利家との政治的な経緯(この時も毛利は豊臣配下で最大級の外様大名)からやや心配になるためでして、そのうえさらに、こんな指摘も過去にあったからです。



広島城天守(1958年外観復元)


(西ヶ谷恭弘監修『日本の城 〔戦国〜江戸〕編』1997年より)

広島城天守は二層屋根が大入母屋で、初層・二層が同一平面で、最上階は望楼廻縁となり、確かに古式な手法を伝える。
しかし、三層以上は層塔式という寄棟形式の逓減率(ていげんりつ)が大きくなる手法で、名古屋・松江・萩・姫路城と共通する慶長後期の型を呈している。

以上の点からも、原爆で失われ、今復原されている型の広島城天守の造営は、毛利氏時代ではなく、福島正則時代のことと考えられる。

以上述べた天守成立は、あくまでも昭和二十年八月まであった天守についてである。正則入部前、毛利氏時代に天守の存在を否定するものではない。
毛利氏時代に天守が建造されていたと考えるなら、位置も外容の型も異なるものであったに違いない。

(中略)
毛利氏時代の広島城本丸が現状と異なっていたことは、昭和四十一年の天守台石垣下の発掘調査で、古い時代の石垣が出土したことからも窺える。



この西ヶ谷先生の指摘がずっと私の頭の片隅に残っていたせいか、今回の聚楽第跡地の地中探査から、輝元らが見た聚楽第には“まだ天守が無かったのかもしれない”“平塚滝俊が天守と見誤ったのは前田利家邸の四重?櫓だったか”という疑いを感じた時には、真っ先にこの話を思い出しました。

西ヶ谷先生の指摘は、要するに、上の写真の広島城天守は、聚楽第とは直結しない存在だという考え方です。

しかし先生はこの本の中で「位置も外容の型も異なる」広島城天守の具体像については何もおっしゃっておりませんので、その後、つらつらと想像をめぐらせた中で俄然(がぜん)、私の注意を引いたのが以下の有名な城絵図なのです。


広島市立中央図書館蔵『諸国当城図』「安芸広島」より


ご覧の図は広島城の数ある城絵図の中で、江戸初期・正保以降の一時期の様子を描いたものと言われますが、大きな特徴として、本丸南西側の水掘だけが極端に広く描かれた一枚です。

江戸時代の天守は現状と同じく本丸の北西隅(図では左上の隅)にあったわけですが、何故これほどまでに“南西側の水掘”が強調されて描かれたのか、理由が分かりません。



そして、このことはかの『正保城絵図』の広島図においても、描写の精緻さの差はあっても同様のことで、該当する辺りの水堀には「廣五十三間」という書き込みがあり、城内でも飛びぬけて幅広い水掘であったことが分かります。



【ご参考】本丸南西隅の石垣 → 天守台などと異なり、現状の石垣は明治時代の改修


ちなみに、全国の近世城郭のうち、本丸の一遇に天守があった城を見て行きますと、必ずそうなるという法則は無かったようですが、天守周辺の水堀が城内で最大の堀幅であった、という事例はいくつも見受けられます。


天守周辺の水堀が最も幅広であった城の例(上:松本城/下:八代城)


こうした現象は、前述のような広島城の状況に対して、少なからぬ“疑問”を感じさせるものですし、さらに申し上げるならば、現在の広島城天守の位置は、関ヶ原合戦後に毛利家が築城した萩城とはまるで異なっていて、むしろ萩城の天守の位置(=本丸南西隅)の方が、城の大手から見て<本丸の左手前隅角>という織田信長の作法(当サイト仮説)にかなった姿であり、織豊大名の城としては自然な姿であろうと感じられてなりません。

そこで試しに、城の大手から見て<本丸の左手前隅角>という位置を、広島城に当てはめてみると、どうなるのか―――




もう皆様のご推察のとおり、私が申し上げたい事柄というのは、もしも毛利輝元らが聚楽第で見たのが“天守台だけの状態”であったのなら、毛利家としては僭越(せんえつ)な行為は間違っても出来なかったはずで、ひょっとすると、広島城も危険回避の“横並び感覚”で築城がなされ、本丸北西隅には天守台だけ!! が築かれたのではあるまいか―――

そして問題の本丸の南西隅には、言わば自前用の、純然たる望楼型の天守が上げられたのではなかったのかと。

そしてその場合でも、広島城天守の創建の時期としては「天正20年以前」で間違いないのでしょうが、ただその時に出現した天守は「位置も外容の型も異なるもの」であり、江戸時代から昭和20年まで続いた天守は、やはり福島正則あたりが、毛利家築造の天守台のうえに新築した別の天守であった…

という風に、ここへ来てようやく、未完のままのパズルがカチッカチッ!と綺麗にはまる音が聞えて来たようであり、どうも私なんぞは気分が落ち着かないのです。…






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年08月02日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する






最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する


中国語で白鷺と言えばコサギ( Little Egret)→ 夏に後頭部の冠羽(かんむりばね)が立つのが特徴

(※ご覧の写真はウィキペディアより引用)

九羽の白鷺を描いた「九思図(きゅうしず)」の描き方の一例(趙仲穆画/元時代)


ご承知のとおり、伝統的な中国絵画や日本画における「白鷺」の描き方というのは、後頭部の冠羽や胸の飾り羽を描くことが一つの定型になっていたようで、これらが描かれた鳥の絵は「白鷺」であるという約束事があったそうです。

で、このところ申し上げて来た『御所参内・聚楽第行幸図屏風』の聚楽第天守は、建物の構造が他の絵画史料とはかけ離れた形(層塔型)であるうえに、最上階の様子がこれまた特徴的であり、一見すると、どういう構造の階なのか、分かりにくい描き方にもなっています。





このように最上階の長押と敷居の間はずうっと、四隅の柱を残して、全面にわたって水辺の白い鳥や水草の絵になっておりまして、これは果たして、壁に描いた絵なのか、板戸や雨戸に分割して描いた絵なのか、はたまた陣幕の類いなのか、よく分からない状態です。


        

        


ですが、ご覧のごとく、描かれた鳥は明らかに「白鷺」であると申し上げていいのでしょうし、そうなりますと、当サイトで度々申し上げたように、かの『大坂夏の陣図屏風』の天守最上階に描かれた鳥もまた「白鷺」であったことと、ぴったりと符合することになります。!!


『大坂夏の陣図屏風』の場合、それは東西南北の壁に合計九羽の白鷺を掲げて、全体で「九思図」を表現したのでは?…などと申し上げて来ましたが、九思図とは、『論語』の「孔子曰,君子有九思」(孔子曰わく、君子に九思あり)という、君子が持つべき九つの心得を画題としたものです。

となれば、聚楽第の天守(御三階)にも、そうした『論語』の絵!!? が最上階にあったのかもしれないという、豊臣秀吉にはちょっと似つかわしくない(失礼…)可能性が生じるわけで、これが本当ならば、いつ、どんな風にして始まったことなのか?(=誰の発想だったのか?)という興味がわいて来ます。


左:『大坂夏の陣図屏風』より / 右:『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より


そこでまずは、不思議な最上階の描き方の“実像”から推理してみたいのですが、例えば『御所参内・聚楽第行幸図屏風』を検証した狩野博幸先生(日本近世美術史)は、著書において白鷺の絵は「おそらくは行幸の期間だけのしつらえ」と推測されたものの、建築的にどういう構造で、そのどの部分に(臨時に)絵がほどこされたのか、といった具体像までは言及しておられません。

言及しづらいのは当然のことでしょうし、それはこんな構造が実在したかどうかも分からない状態(→絵画上の表現だけの可能性)を踏まえての推測だと思うのですが、それに対して、私なんぞがあえて例示してみたいのは、岡山城の月見櫓なのです。



岡山城の月見櫓(元和〜寛永期の築造 / 重要文化財)

最上階をよく見れば、どこかアンバランスな印象で…



ご覧の月見櫓は、写真の城内側から見た場合と、真反対の城外側から見た様子がまるで違うことでも知られていますが、最上階も同様であり、城内側の南と東の二面だけ、張り出した縁がめぐっていて、その縁の際に高欄(手すり)や雨戸が入る形になっています。

そのため上記写真のようにややアンバランスな格好に見えますし、雨戸をザアッと開くことが出来るため、右端(南東隅)の柱が一本だけ立って見える形にもなり、これが問題の層塔型「御三階」の不思議な描き方を推理するヒントになるのではないでしょうか。




岡山城の月見櫓の場合は、張り出した縁の奥に明かり障子が入っていて、内部は畳敷きの座敷になっておりますが、その周囲にもしも襖や板戸があって、そこに「白鷺の絵」が全面に描かれていたならば、まさにご覧の“不思議な描き方”が現実に出来上がるようにも思えるのです。

かくして、最上階の城内側だけが開放的になっていた、という解釈であれば、屏風絵にかなり近い形になることでしょうし、また屏風絵の詳細に従えば、そのまわりにさらに落ち縁のごとく高欄廻縁が付けられていたのかもしれません。


【ご参考】西本願寺・飛雲閣の二階「歌仙の間」


そして絵の位置についても、場合によっては“座敷の内側”という考え方も出来なくはないように思われ、実際は屏風絵のとおりに見えたのではなく、絵師が「白鷺の絵」の情報をもとに勝手に画面を構成(合成)した描写だ、という可能性もありうるのではないでしょうか。

ですから、長押と敷居の間いっぱいに描かれた「白鷺の絵」は、単なる絵空事でもないように感じますし、奇しくも、岡山城の月見櫓も、聚楽第天守(御三階)も、本丸の「北西隅」を守備する役目を負ったうえで、最上階が遊興の場として使える構造になっていたのかもしれません。



地中探査で判明した聚楽第の天守台跡

ちなみに、岡山城の月見櫓の地階や一階の壁は「武骨一辺倒」であり…

そこは問題の層塔型「御三階」の二階や望楼下の階も似たような造りで描かれる





<では、いったい誰が『論語』にまつわる絵を豊臣家の天守に導入したのか??>




さて、皆様すでにご承知のとおり、「殺生関白」豊臣秀次は、文化的な面において意外に多くの業績を残していて、例えば小和田哲男先生の著書には、足利学校の存続をめぐる秀次の功績について触れた部分があり、そこに思わぬ一文があるため、その前後の文章を、やや長文になりますが引用させていただきます。


(小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』より)

下野国のほとんどが戦国時代末期には後北条氏領に組みこまれたということもあり、足利学校も後北条氏の保護をうけていた。
ところが、天正十八年(一五九〇)の秀吉による小田原攻めで、後北条氏が滅亡し、保護者を失った足利学校もピンチを迎えていたのである。

そのような状況のところへ秀次が足利学校に立ち寄ったというわけである。
秀次が、翌天正十九年(一五九一)六月、九戸政実の乱を鎮定して凱旋する途中、足利に立ち寄り、足利学校を訪れ、庠主(しょうしゅ/校長)の三要、すなわち閑室元佶(かんしつ げんきつ)と会い、窮状を聞かされ、援助の手をさしのべることになったのであろう。

(中略)
足利学校に立ち寄った秀次は、学領として一〇〇石を寄進し、学校の存続を経済的に保証したあと、庠主の三要を伴って帰洛しているが、そのとき、孔子の画像や、さきにみた六経のうち『楽経』を除く五経などの典籍の一部を京都に運ばせているのである。


―――この 孔子の画像!! というのがどんな画像だったのか、いわゆる孔子行教像の類いなのか、これ以上、私にはよく分かりませんが、そうした絵に秀次が関心を抱いていたことに間違いは無さそうです。

ネット上で見つかる孔子行教像の一例『明代孔子行教像』(中国・曲阜市蔵)


この秀次の行動だけで何かが証明できるわけではありませんが、一つの可能性として、豊臣家の天守に『論語』の絵が導入された経緯を想像するヒントにはなるのではないでしょうか。

と申しますのも、冒頭の「九思図」の九つの心得とは、

「孔子が言われた。君子には九つの思うことがある。見るときははっきり見たいと思い、聞くときは細かく聞き取りたいと思い、顔つきは穏やかでありたいと思い、姿は恭しくありたいと思い、言葉は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑わしいことは問うことを思い、怒りにはあとの面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う」

という、君子はかくあるべし、との孔子の言葉でした。


ですから、豊臣家の天守の最上階に掲げられた「白鷺の絵」というのは、その目的や意図は、自らの実力で天下人の座についた秀吉のあと、後継者になった秀次や豊臣秀頼らが、その地位にふさわしい為政者像を自らに課すための「九思図」だったのではないかと、私なんぞは改めて感じるのですが、どうでしょうか。


左:秀頼が再建した大坂城天守の白鷺? / 右:主に秀次時代の 聚楽第「御三階」の白鷺?






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年07月15日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと??






後継者・秀次の墓穴(ぼけつ)――最大の過失は、洛中に強固な「城」を築いてしまったこと??


もう一つの豊臣秀次像(模写/原本は16世紀の作!で、京都の地蔵院が所蔵)

で、これの顔の部分を拡大してみれば……


(※ご覧の写真はウィキペディアより引用)

ご覧の掛け軸に関しては、すでに大勢の方々が気づいていらっしゃるのでしょうが、ここには、おなじみの瑞泉寺(京都)蔵の豊臣秀次像とはかなり印象の違う、目ヂカラの弱い、『太閤記』等の“殺生関白”とは程遠い感じの、面長のヤサオトコの顔が描かれております。

ただし両あごに特徴的な髭がある点は同一人物だということを伝えているようですし、実は瑞泉寺の方の秀次像は17〜18世紀・江戸初期か江戸中期の作だそうですから、その当時、『太閤記』のイメージが普及した状態を想像しますと、どちらが本当に近かったのか、まったく分からなくなって来ます。…


近年では、有名な秀次事件の原因について、矢部健太郎先生(日本近世史)が <豊臣秀吉は秀次を高野山に追放しただけであって、そんな秀吉の意図に反して、秀次が身の潔白を証明するために自ら腹を切ってしまったのだ> という主旨の新説を打ち出して話題になりました。

で、その矢部説では、自刃した場所が秀吉の生母・大政所の菩提寺(青巌寺)であったために、秀吉は神聖な場所を汚されたという怒りに燃えて、秀次の妻子ら39人を処刑したのだろうと説明していて、その後の聚楽第の徹底的な「破却」についても、「やはり政権の意図に反した「秀次切腹」がきっかけであろう」(『関白秀次の切腹』)と説明しています。




――― では、そもそも <高野山への追放> を引き起こした最初の原因(嫌疑)は何だったのか? と言えば、やはり問題の発端は実子・秀頼の誕生のようで、矢部説においても、当時二歳の秀頼への「権限委譲」を秀吉の命のあるうちにいかに行なうかが急務となり、「何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁(いんとん)させるというのが、政権主体の青写真であった」(上記著書)という風に、秀吉側の陰謀が根底にあったとしています。

そのように、実際の秀次自身は『太閤記』等にある“謀反人”ではなかったし、ましてや残忍な“殺生関白”でもなく、石田三成による讒言(ざんげん)説も怪しい、というのが、おなじみの小和田哲男先生など現在の研究者のほぼ一致した見方のようで、そうした中にあって、謀反の嫌疑に <潔白> だから自刃したのだ、という矢部説の新味さは、この度の探査結果とも、妙な符合を見せているのです。…



聚楽第の外堀→ これは「城」としては <未完の状態> と見るべきか?

とりわけ、南東側の浅い凹みは「今まさに外掘を掘っている途中」だったのか…



(※ご覧の図は京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」の掲載図を引用)


で、ここへ来て、城郭研究の先生方の“出番”が来ていると思えてならないのですが、この度の地中探査(表面波探査)で外堀の様子がよりはっきりと見えて来たことは、秀次事件の真相の解明にも大きく寄与するのではないでしょうか。

その場合、とりわけ注意が必要なのは、探査チームの発表による「聚楽第は単なる邸宅ではなく、本格的な城としての性格が強いことを裏付ける発見」だとのニュース報道のうち、「本格的な城」という言い方でしょう。

と申しますのは、一見、外堀の状態から「本格的な城」と見えても、これをもって秀次の側に「やはり謀反の意図はあった!? 」などと考えてはいけないということでして、むしろ逆の視点から、外堀の状態は「潔白だから自刃した」秀次にとって貴重な“身のあかし”とも言えそうだからです。


もう一度、外堀の配置をよく見れば、南面(=伏見城の側)の工事が後回しになっている…



今回の探査では、ご覧のとおり南面(=伏見城の側)の外堀が後回し! になっていたことが如実に分かり、…ということは、これらの工事が、南からの差し迫った攻撃にそなえた「防御」のつもりではなかったことを、“物的に”証明していると感じられてならないのですが、どうでしょうか。

となれば、この外堀工事は、ただ、ただ、「関白の城」としての体裁を整えるため、といった意図しか無かったのではないか、という風にも想像できますし、秀次ら主従は、それが政治的にどれほど危険な行為になるのか、あまり深く考えずに工事を始めたところ、その情報が秀次の失脚をねらう者らに利用され、工事が進むにつれて“秀次謀反”の嫌疑が(秀吉の間近でも)急速にふくれあがった… という可能性は無かったのかと。


――― かく申し上げますのは、当ブログの先々月からの記事で、かの織田信長が、京の都ではほぼ一貫して寺院に「寄宿」し続けたのは何故か? という疑問や、二重(もしくは三重?)の堀で囲まれた「旧二条城」の足利義昭が、やがて信長への反旗をかかげるに至ったこと、などを申し上げたばかりだからでして、天皇や朝廷に近い洛中において、強固な「城」を築くことの意味合い(危うさ)というのは、本来なら、あらゆる武家が警戒したはずでしょうし、それが常識的な感覚だったのではないでしょうか。

それは関白政権をスタートさせた秀吉であっても、完全な城構えの聚楽第を、わざわざ「第(てい/やしき)」と呼ばせたり、堀を「一重」にとどめたりしたのは、そうした配慮が加わってのことと思えてなりません。

そういう感覚を、なぜ秀次らは持ち合わせていなかったのか、という点は不思議でなりませんが、もし仮に、外堀の工事が秀吉軍の来襲にそなえたものだとしたら、当時は文禄の役の休戦時で、西の諸大名も朝鮮半島から戻っていましたから、秀次ら主従は、彼らとも対峙する籠城戦を(→当然、天皇を擁する「官軍」として!? )闘いぬけると踏んだことになってしまいます。…




そんなはずは無いだろう、と思う以上に、まずもって「洛中の強固な城」という、政治的にきわめて危険な存在に化ける城郭の中に、関白職に執着した秀次が住んでいて、着々と堀の普請を進めているという状況が、都の外からどんな風に受け止められたかと思えば、秀次の「うかつさ」が目についてしまいます。

ですから、事件後に秀吉が聚楽第を「徹底的に破却」したのは、矢部説の言う“秀次が憎かったから”というよりも、洛中にこんな「城」を残しておくことへの恐怖心が上回っていたのでは? と想像するのです。



洛中洛外図屏風(勝興寺蔵)に描かれた徳川の二条城


のちに徳川家康が築いた二条城も、当初は狭い堀が一重しかなく、そうした点について家康本人が “これなら敵に城を奪われても、すぐに奪回できるから好都合だ” などと、一瞬、不可解とも感じられる言葉を発したと伝わっていますが、これなども、もしも秀次謀反の嫌疑の発端が聚楽第の「外堀」にあって、そんな洛中の城の「宿命」を語った言葉なのだとすれば、当時の人々は「なるほど…」と納得したのかもしれません。

以上のように、秀次は「潔白だから自刃した」という矢部説と、今回の地中探査の結果をつき合わせてみますと、厳密に言えば「妻子ら39人の処刑」と「聚楽第の破却」は直接の原因が異なる二つの事件であり、この二つは、切り分けて考える必要があるように思えて来るのです。




【前回記事の訂正/「京都天主」は妙顕寺城の天守かもしれない】

さて、最後に前回記事の訂正を少々させていただきたいのですが、摩阿姫をめぐる『兼見卿記』の記録のうち、天正14年正月16日条の「京都天主」というのは、同年の『御湯殿上日記』にも摩阿姫を「関白京の天守の女房」と呼んだ部分がありまして、当時の豊臣秀吉の洛中の城としては、いわゆる「妙顕寺城」しか該当する城がないため、ひょっとすると、摩阿姫は妙顕寺城の天守にも住んでいたのかもしれません。

この点、取り急ぎ訂正しつつ、この件については、摩阿姫の居場所の矛盾点を整理したうえで、改めて申し上げてみたく存じます。




作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年07月04日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体






異例の側室・摩阿(まあ)姫が住んだ「京都天主」「聚楽天主」の正体





前回の記事で申し上げた聚楽第天守をめぐる推論(暴論?)は、先ごろ発表された地中探査の結果にもとづき、40m四方もの広さの天守台を備えていたのなら、それはきっと層塔型の天守であり、有名な『聚楽第図屏風』にはまだその“天守台”しか描かれていないのではないか… という思い切った仮説でした。


広島市立図書館ウェブギャラリー『諸国古城之図』の聚楽第より


そして、地中探査で見えた天守台の形状が “本丸の北西隅にかなり飛び出た形” であったことは、ご覧の『諸国古城之図』もまさにそのように描かれておりまして、多くの方がこの一致ぶりに驚かれたのではないでしょうか。

この絵図には、今回判明した「外堀」や「北ノ丸」などが(まだ)描かれていない点が注目を集めていて、そこから聚楽第の「城」としての変遷が色々と取りざたされており、ご覧の「北ノ丸」が無い状態は、まさに天正年間の豊臣秀吉の時代を描いたものであろうと言われます。


このような点は前回ブログの仮説(→『聚楽第図屏風』の天守は、実は、加賀少将=前田利家邸の四重櫓!? )とも合致する可能性がありますが、その一方では、この仮説は、前田利家の娘で豊臣秀吉の側室・摩阿姫(まあひめ/加賀殿)が“聚楽第天守に住んでいた”という話と矛盾するのでは?… とお感じになった方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、その話というのは、例えば摩阿姫をめぐる桑田忠親先生の著作(『桃山時代の女性』ほか)によりますと、むしろ当ブログの推論を“補強する話”でもあるようなのです。

何故なら、摩阿姫は側室といっても、初めは秀吉の養女として天正14年の春ごろ(桑田忠親説)に15才で大坂城に引き取られ、それから約4年間は養女として京都や聚楽第(天正15年に完成)で暮らしたらしく、側室になったのは天正18年になってからだと考えられるからだそうです。





(桑田忠親『桃山時代の女性』より)

この、まあ姫が、秀吉の側室とされたのは、いつかというに、神道家吉田兼見の日記である『兼見卿記』の天正十八年七月十九日の条に「前田筑州息女、十九歳、殿下へ御参也。」と見えるから、天正十八年(一五九〇)、十九歳で、前田筑前守利家の息女のまあ姫が、関白殿下秀吉の側室となったことが知られる。
(中略)
なお、『兼見卿記』の天正十八年九月十六日の条に、「前田筑州息女、天主に御座也。」と見えるから、かの女が、当時、京都の内野の聚楽第の天守閣にいたこともわかる。


ということでして、ただし桑田先生がここで例示した7月19日条の「…殿下へ御参也」というのは、いわゆる割書(本文の途中に二行で小さく書き加えた註)の部分でありまして、それよりは同年の5月16日の条に、本文でちゃんと「前田筑州息女、殿下へ御参、殿主ニ御座也、連ゞ祈念之義承之」という記述がありますから、こちらの方を取って、天正18年の5月に側室になったのだ、と解釈すべきなのでしょう。


であるなら、この時に、摩阿姫は聚楽第天守に住み始めたのか?? と申しますと、これがまことに判断に苦しむ状態でありまして、この件の情報はひとえに『兼見卿記』によるのですが、それがどういう状態になっているのか、是非ともご理解をいただきたく、そのため今回は、『兼見卿記』に摩阿姫の名が登場する箇所を(私が分かる範囲で)すべて列挙してみたいと思うのです。!!

そしてそれは、早くも、天正14年に始まっているのです…


〔※以下は『兼見卿記』第3・第4/八木書店刊行より〕

〔※ほぼ全ての箇所は、吉田兼見が摩阿姫の依頼で御祓い(おはらい)を行なった記録になる〕

〔※以下の文面の(  )内は現代の校訂者による註ですのでご注意を〕



【1】天正14年正月16日条
京都天主(前田利家女、摩阿)之御女房衆・同城介殿(織田信忠)御息(秀信)へ神供・御祓進上之、…

【2】天正14年5月16日条
関白御女房(前田利家女、摩阿)衆、正月ヨリ御祈祷之義承之間、…
殿主(前田利家女、摩阿)之御女中ヨリ美濃紙 十帖 到來了、

【3】天正15年正月15日条
相國御女房(前田利家女、摩阿)衆御在京、近年進之、御祓ニ神供、

【同年7月26日条「聚楽ニ御座」→この日、秀吉が正式に聚楽第に入った!とある】

【4】天正15年9月16日条
殿主(前田利家女、摩阿)へ御祓 二、…
… (前田)玄以殿主へ今日出頭、…

【5】天正18年正月18日、19日、20日の条
聚楽天主(利家女、前田筑州息女、十九才、摩阿)去年已來御祈祷之事承也、…
… 自天主(前田利家女、摩阿)御女房衆御乳人厄神祈念撫物、…
天主厄神之御祓、…

【6/前出】天正18年5月16日条
前田筑州息女(利家女、摩阿)、殿下へ御参、殿主ニ御座也、連ゞ祈念之義承之、

【7】天正18年7月14日条
天主(前田利家女、摩阿)ヨリ五月御祈祷料請取之、直ニ塗師屋へ相渡候、使 左介、(前田)玄以之天主ニ御座候かミさま也、前田筑州女房(利家室、篠原氏)衆へ角豆一折遣之、同天主へ一折進之、筑州息女也、…

【8/前出】天正18年7月19日条
… 自天主御乳人 前田筑州息女、十九才、殿下(秀吉)へ御参也、給御棰、…

【9/前出】天正18年9月16日条
天主(前田利家女、摩阿)へ、御祓、台所人取次、二十疋、…
前田筑州息女(利家女、摩阿)天主ニ御座也、御祓・一折進上之、…

【10】天正18年11月20日条
天主(前田利家女、摩阿)、前田息女、殿下へ祗候也、…

【11】天正19年正月14日条
天主(前田利家女、摩阿)、前田筑州息女、殿下祗候之、御乳人也、…

【12】天正19年5月18日条
関白御内義 天主(前田利家女、摩阿)、大津(近江滋賀郡)ニ御座也、…



!!―― という風に、吉田兼見は【1】や【2】では、聚楽第が完成する一年半も前から、摩阿姫を「京都天主」様とか「殿主」様と呼んだ形になっていて、しかもそのあとの【3】の「御在京」という記述を踏まえれば、まだ摩阿姫が京都にも来ていない段階から【2】では「関白御女房」と呼んでしまっている形なのです。


……これはいったいどういうことかと邪推しますと、ひょっとすると『兼見卿記』という文献は、世に出る過程のなかで、吉田兼見みずからが(もしくは後に写本を書き写した人物が)摩阿姫らの呼称について“ある種の統一化”をはかり、時系列をさかのぼって“書き改めた”疑いもあるのではないでしょうか。??

その辺りのことは、なかなか門外漢の私には分かりづらい領域ですが、一見して「京都天主」「殿主」「聚楽天主」「天主」という風に、摩阿姫は聚楽第天守に住んだ側室だというレッテル(キャラクター付け)が一貫しておりまして、しかしそれは逆を申せば、では本当に聚楽第天守に住んだのは、いつなのか? については、とても断定できない、という状況を生んでいるのです。


――― という状態にあるわけですが、上記の列挙を総合して勘案しますと、やはり前述の、天正18年5月の「前田筑州息女(利家女、摩阿)、殿下へ御参、殿主ニ御座也」という本文の記述はかなり確実なもののように感じられますし、この時に、摩阿姫は秀吉の側室になり、同時に聚楽第天守に住み始めたのだ、と考えるのが妥当なのではないでしょうか。


とすれば、まさにこの直前(翌年には秀吉は聚楽第を豊臣秀次に与える)までは、本丸の「40m四方の天守台」の上に天守は存在せず、この頃から層塔型の「御三階」が建造されたのではなかろうか… という当ブログの推論とも、時期的にはかなり“合致”することになります。



そしてここが、聚楽第の天守台の痕跡の真上!!(裏門通りを北側から見る)



ですから摩阿姫は、前回ブログの仮説のとおりならば、約1年半という短い期間ですが、新築の層塔型「御三階」に住んだことになりそうなのです。…

で実は、このあたりから、摩阿姫自身は病がちの身になったそうで、【12】天正19年5月の「大津ニ御座也」とあるように、まもなく聚楽第の天守や本丸を出て、有馬の湯治場や実家の前田邸で過ごすことになったのだそうです。

あの有名な醍醐の花見も、摩阿姫は言わば“序列五位”の女性として参加したものの、それは伏見の前田邸から出掛けた形だったといいます。


ではありますが…、摩阿姫はかの豪姫(=秀吉に、男ならば後継者だと言わせた姫君)の姉にあたる女性ですから、どうも私なんぞは、本当に病気がちだったのか、それとも前田利家の後ろ盾で“仮病”を使い始めたのか(→ なんと摩阿姫は秀吉の最晩年に側室を辞したうえ、秀吉の許可を得て再婚し、一子・前田利忠を産んだ!!そうですから)よく分かりませんが、どちらにしても、摩阿姫は慶長10年に34才で死んでいて、人生の主要な期間を、秀吉の養女や側室として費やしたことに違いはないのでしょう。

――― という風に見て来ますと、問題の、聚楽第本丸の北西隅に“飛び出た形”の天守台というのは、ひょっとすると、当初のねらいは、大事な姫がどこかに行ってしまわないように、ちゃんと、しまっておくためだったのか… などと妙な連想も頭に浮かんでしまうのですが。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年06月20日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…






40m四方の天守台!? →『聚楽第図屏風』には天守が描かれていないのかもしれない…




今回もまた、驚きの調査結果がもたらす意外な可能性について、当サイトなりの推論(暴論?)を申し上げてみたいと思うのですが、先ごろ、京都大学の防災研究所などの地中探査によって、聚楽第の未発見の外堀や天守台の痕跡が見つかった、というニュースがありました。




ご覧の図は、その探査結果を伝えた京都新聞「聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明」というネットニュースに掲載の図をそのまま引用したものですが、この際、ニュースの文面も一部、引用させていただくことにしますと…


現在の「今新在家町」あたりで天守台が削られたとみられる高まりを検出。約40メートル四方の天守台と考えられ、同町と隣の「新白水丸町(しんはくすいまるちょう)」の付近に絢爛(けんらん)な天守閣があったと考えられる。
(中略)
表面波探査は、地面を木づちでたたいて発生する表面波の強弱を測り、地中の痕跡を見つける。京大防災研の釜井俊孝教授らが防災地盤調査を兼ねて昨年10月から実施していた。


というものだそうで、屏風絵などの断片的な情報しか残っていない聚楽第天守が、ついにその片鱗(へんりん)を見せたか、と私なんぞは思わず心が踊ったものの、ニュースの内容をよくよく見れば、これまでの聚楽第天守に対する漠然とした想定をみごとに裏切るような情報が含まれています。

どういうことかと申しますと、例えば上記の探査結果の図を、現地の地図上にダブらせてみますと、驚くべき事柄が見えて来ます。






!!―― 天守台だけが、北西の隅角にかなり“飛び出た形”になる



ご覧のとおり、その天守台は、単独でずいぶんと北西側に“飛び出た形”になるわけで、これが本当だとしますと、私の直感として、そうした天守は広島城や萩城のように本丸の隅角に築かれた「望楼型天守」の手法(=本丸側の登閣口や接続の仕方を重視した形)とは明らかに異なる!!タイプではないか、と思えて来るのです。

――― それは例えて言うなら、現存の二条城天守台のように多少、水掘の側へ飛び出たスタイルの、“超”強調型とでも言うべきもの、と感じられてなりません。


現存の二条城天守台 / 40m四方とは、これの東西・南北へ約2倍ずつの規模にあたる



しかも、そんな形の天守台が40m四方(約20間四方)もあったとなりますと、これはもう、駿府城や名古屋城、篠山城、福井城、今治城といった徳川の矩形の平城に特有の、大型の天守台や天守曲輪の類いが連想されるものでしょう。

ということは、そこにあるべき天守は、十中八九、望楼型ではなくて、むしろ「四方正面の天守」=層塔型に近い天守が、かなり広めの天守台の真ん中に建っていた、という可能性が濃厚にならざるをえないように思うのです。

むろん、そのような状況は、これまで屏風絵だけから想像してきた聚楽第天守のイメージとはかけ離れたものになりますし、また層塔型天守の発祥の時期の問題もからんで難しい解釈になるのでしょうが、今回の探査結果を尊重するかぎり、こうした類いの新しい見方が不可欠にならざるをえないのではないでしょうか。…


三井記念美術館蔵『聚楽第図屏風』より


ではここで、有名な『聚楽第図屏風』を改めて検討してみたいのですが、例えばご覧のように、この屏風絵には実は “本丸の天守は描かれておらず”、これまで天守に接続した「橋台」とその土塀と思われて来た部分が、実は “突出した大型の天守台だけの状態を描いたもの” という風には見えませんでしょうか。

そして、これまでずっと天守だと思われて来た建物は、屏風の貼り紙のとおりに(北ノ丸の築造以前からその周辺に造営された)加賀少将(=前田利家)邸の四重櫓?であった、としたならば、どうなのでしょう。




そして今回、是非とも申し上げてみたいのは、こうした描画上の“錯誤”が、このほかの聚楽第を描いた絵画史料にも“伝染して行った”可能性はなかったのか? という問題なのです。



【ご参考】層塔型に描かれた聚楽第天守(御三階?)/『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より



そこで、当ブログで再度、言及させていただきたいのが、ご覧の層塔型の聚楽第天守の絵です。


ご承知のように、この絵は問題の『聚楽第図屏風』の系統の描き方とは明らかに異なっておりまして、そのためか、上越市教育委員会が行なった学術調査報告書では…

「(屏風絵の)聚楽第天守には定型があったにもかかわらず、このように全く異なる姿で描かれたということは、その定型が忘れ去られる程度の時代に描かれたか、もしくは、三井本や堺市本は狩野派の絵師が描いたとされているので、それ以外の絵師、たとえば町絵師などが描いた可能性がある」
「天守、行幸御殿、東大手門には絵師の建築に対する理解の低さがうかがえる」


などと、かなり厳しい評価が下されてしまったわけですが、私なんぞは決して、ここに描かれた特異な「層塔型天守」に対する興味を失ってはおりません。


と申しますのも、これがもしも秀次時代にかけて問題の天守台上にあげられた天守(御三階櫓)であったと仮定しますと、それは当然ながら、太閤秀吉の伏見城からも見える距離にあったわけで、そうした政治的なエクスキューズとして、層塔型「御三階」という形を取った可能性は、決して低くないはず、…という風にも感じられてならないからです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか






全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか


前回、中心部分をお見せした肥前名護屋城の遠景イラストの全貌を、今回は是非ご覧いただきたいと思うのですが、その前に、遊撃丸の「舞台」についてチョットだけ申し添えておきます。

何故なら、そこでは、ある戦慄すべき舞楽が行われようとした可能性がありうるからです。


<まさに左に唐、右に高麗、倒錯の雅楽舞いが…>


儲の御所は檜皮葺なり。御はしの間に御輿よせあり。庭上に舞台、左右の楽屋をたてらる。(大村由己『聚楽行幸記』より)




前回、遊撃丸の殿舎としては、聚楽第行幸と同様の、儲の御所(もうけのごしょ)が建てられたのではないか、と申し上げたわけですが、上記の文中の「庭上に舞台、左右の楽屋」というのは、近世の大城郭に付き物の「能舞台」ではなくて、明らかに「雅楽」のための舞台だったと言えそうです。

それは行幸の演出として「雅楽」が必須であったことに加え、「左右の楽屋」という文言が雅楽用であったことを示唆しているからです。


左舞(唐楽)の蘭陵王(らんりょうおう) / 右舞(高麗楽)の納曽利(なそり)

(※左写真はウィキペディア、右写真は「奈良かんさつブログ」様より引用)


正直、私もこの件を調べるまでは知らなかったのですが、雅楽とは、すべての楽曲が左楽(さがく)と右楽(うがく)に分かれていて、左楽は中国伝来(という伝承・想定)の楽曲で「唐楽」(からがく)といい、これは赤い装束で舞うそうです。

一方の右楽は、朝鮮半島伝来(という伝承・想定)の楽曲で「高麗楽」(こまがく)といい、こちらは緑の装束で舞い、楽器の編成もやや違うとのこと。

例えば上の写真で、左の赤い装束はメディア上でもよく見かける蘭陵王(らんりょうおう)で、これに対応する右舞が、右写真の納曽利(なそり)になります。

つまり雅楽というのは、古代からの変遷を経て、中国大陸と朝鮮半島から伝来した楽曲を、両建てで上演する、というスタイルにまとめられた舞楽なんだそうです。


で、そうした雅楽の舞台が遊撃丸にあった場合、その配置は「天子は南面す」という原則にのっとって、儲の御所の南側に舞台が造られたはずです。

―――ですが、この城の特殊なロケーションと、戦略上の目的を思いますと、ひょっとすると、これらの殿舎の配置は、真逆(北)を向いていた可能性はないのか… という妙な想像にとらわれてしまうのです。




(※当図は右が南)

こんなことは「天子は南面す」という原則から言えば、ありえないことですが、仮にこのようにしてみますと、儲の御所にいる天皇の視点からは、舞台の背景の向こう側、つまり玄海灘の海の彼方に <左に中国大陸、右に朝鮮半島> という構図がダブることになります。

したがってこの舞台は、実際上も、左に「唐」、右に「高麗」となり、これから征服しようとする「明」と「朝鮮」をダブらせながら、雅楽を両建てで愉しむ、という倒錯の舞楽会を挙行することも出来たわけで、このように狡猾なアイデアを豊臣秀吉ほどの策略家が気付かぬはずはなかったようにも思うのですが…。






<金色白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか>


さて、肝心の遠景イラストの話に戻りまして、ご覧の前回イラストの下のはるか枠外に、上山里丸の奥(西)で発見された「茶室」が位置する形になります。

茶室そのものの復元に関しては、名護屋城博物館の研究紀要や高瀬哲郎『名護屋城跡』(2008年)にイラストが載ったり、博物館に実物大の茶室が展示されたりと、いくつか参考事例がありました。


ただし、その周りの「庭園」がどうなっていたのかについては、色々と解釈の難しいハードル(発掘結果)が横たわっているようです。

例えば「山里の風景のなかにひっそりと佇む茶室」(前出『名護屋城跡』)と言っても、周辺から「庭石」の類はひとつも発見されなかったようですし、逆に「池」はどうかと言えば、茶室の東側でS字状の妙な形の堀跡が見つかり、しかもその堀は垣根で囲われていたらしい… などという不思議な調査結果が出ています。


その辺を当イラストは大胆に解釈し、茶室の周辺は、山里と言っても典型的な数寄の庭ではなくて、むしろ「菜園」というか、「百姓家の畑や棚田」が再現されていて、それは秀吉個人の“心の風景”“尾張中村の故郷の断片”だったのではないか――― というアイデアで描いてみたのが下のイラストです。




ご覧のとおり、茶室の山側には「麦畑」を描き、茶室の東側(左側)のS字状の堀は「ワサビ田」として描いてみました。

(※ワサビはちょうどこの頃、栽培が始まったようで、徳川家康に栽培ワサビを献上した記録があるそうです)




そして茶室の壁をすべて「青竹」にして、屋根をカヤの苫葺き(とまぶき)の切妻屋根にしたのは、名護屋城博物館の研究紀要に基づいたものです。

執筆者の五島昌也さんは、山里の御座敷開きに列席した神谷宗湛の日記に「柱も其他みな竹なり」とある点に注目したそうです。


(五島昌也「名護屋城跡上山里丸検出茶室空間の遺構状況と復元根拠について」/名護屋城博物館「研究紀要 第4集」1998年所収)

秀吉が大坂から名護屋に至る折々に建築した同様の茶室は、「青カヤ」「青松葉」「杉の青葉」「青柴」で壁を作り、屋根を葺いたとされている。
彼は、積極的に「青」を意識しているのであり、植物の生命力あふれた青々とした材料を使うことに主眼をおいていたと推定される。
このことは、この茶室の利用形態にも影響を与えそうである。つまり、材料がその青さを保っている間の極めて短期間の利用を前提とした建物であったことも考えられる。



私はこの研究紀要の指摘に強いインスピレーションを感じておりまして、これがひいては、肥前名護屋城という「城」の本質までも言い当てているように感じます。

例えば「その青さを保っている間の極めて短期間の利用」というのは、秀吉の意識(もくろみ)として、城にも“賞味期限”があるかのような姿勢が透けて見えていて、そうならば、もしも朝鮮出兵が成功裏に進み、秀吉がまだ存命していたら、まもなく肥前名護屋城は廃城されるか、もしくは石垣山城と同様に、大名の誰かに下げ渡されたのではないでしょうか。


思えば、織田信長が次々と居城を移したり、秀吉がさっさと聚楽第を破却してしまうなど、織豊政権にとっての「城」とは、後の徳川幕藩体制の城に比べて、フットワークの感覚(?)がそうとうに違っていたのかもしれません。

ひょっとすると秀吉あたりは“城は道具に過ぎん”とでも言い放ったかもしれず、ご覧の青竹の茶室と白亜の大城塞とのコントラストは、規模のギャップがありながらどちらも“仮の宿”であったという意味で、いわゆる「見せる城」の本質を露呈しているかのようです。

その好き嫌いの評価はいずれにしましても、このようなことを独断で実行できたのは、日本史上、秀吉ただ一人であったことだけは間違いありません。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年02月22日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!遠景イラストで見る遊撃丸 屋根を這う「金龍」






遠景イラストで見る遊撃丸 屋根を這う「金龍」


じつは、肥前名護屋城の天守を山里丸の茶室あたりから見上げたら、どんな風に見えるかと思い、描き始めた広い画角のイラストがありまして、残念ながらリポートの完成には間に合わなかったものの、なんとかご覧いただける状態になりました。

で、今回はその遠景イラストの中心部分をお見せしながら、話題として<問題の遊撃丸の行幸御殿とは、どんな建物だった可能性があるのか?>という件を申し上げたいと思います。




ご覧の状態は、手前の竹林の下方(画の枠外)に上山里丸の奥の茶室が隠れている形でして、このような北東からの視点で眺めた場合、天守の左側に本丸、そして天守の右奥に遊撃丸の殿舎が見えたことになります。

どのように見えたかについての史料は、群馬本の肥前名護屋城図屏風では「遊撃曲輪」と表記された曲輪に、3〜4棟の殿舎が“コの字形”に並んで描かれていて、「名博本」の方も似たような描写になっています。

当サイトのリポートでは、その殿舎群こそ、秀吉の大陸経略構想にあった後陽成天皇の北京行幸に備えた“行幸御殿”ではないのか? と申し上げたわけですが、その具体像をさぐろうと、遊撃丸に酷似する曲輪(伝本丸)をもつ安土城を参考に考え始めますと、何故か、妙な迷路にはまってしまうのです…。


と申しますのは、安土城の「御幸の御間」を参考にしますと、私などは川本重雄先生の説に最も共鳴しておりますので、「御幸の御間」はあくまでも、形式上の行幸殿として殿舎内に設けられた「上々段」ということになります。

ところが「上々段」をもつ御殿は、どれも規模が大き過ぎるようなのです。


例えば有名な聚楽第の大広間ですと、伝世の絵図面を梁間10間と読んだ場合、それを同縮尺で遊撃丸に当てはめますと…


これ一棟で曲輪が満杯状態に!(当図は右が南)


ご覧のとおり、とても3〜4棟どころの状態ではありません。

そもそも聚楽第大広間は公式の対面用の御殿であって、本丸の中心を成すべき建物ですから、このような比較図はナンセンスと言えばナンセンスなのでしょう。

しかしこの他に「上々段」をもつ御殿と言えば、例えば建築書『匠明』の当代広間之図も同規模ですし、仙台城の大広間となれば、もはや遊撃丸には納まらない規模に達します。

逆に、規模の点では合格ラインに入る(上々段をもつ)寺院の書院建築のどれかを、この遊撃丸に想定するわけにも行かず、はたと思考が止まってしまうのです。




そこで、ひとまず「上々段」の件を忘れて、屏風絵の3〜4棟という描写に矛盾しない建物は何か? という風に方向を変えますと、まさに聚楽第の行幸において、後陽成天皇を迎えた「儲の御所(もうけのごしょ)」が思い当たるわけです。


儲の御所とは、儲け(設け)の御殿ということで、この時のためだけに造営された御成り御殿、という意味らしく、『聚楽行幸記』はこの建物について、

儲の御所は檜皮葺なり。御はしの間に御輿よせあり。庭上に舞台、左右の楽屋をたてらる。

という説明があって、正面中央で天皇が鳳輦(ほうれん)に直接乗り降りできた建物ということは分かるものの、規模を示した記述は特にありません。

―――ですが、かつて櫻井成廣先生が、聚楽第や伏見城にまつわる移築伝承のある正伝寺(京都西賀茂)の方丈を参考例に挙げて、こんな推定を行いました。


(櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』1971年より)

聚楽第行幸は凡てを北山、室町両第行幸の規式に拠ったのであるが、『北山殿行幸記』に「儲(もうけの)御所御装束ノ儀。寝殿南面七間」とある様に此の正伝寺方丈も身舎の桁行七間である。


正伝寺方丈は桁行7間、梁間6間という(奇しくも「主殿」建築なみの)手頃なサイズで、これと同等ならば他に2〜3棟の殿舎(左右の楽屋と舞台?)を併設しても、じゅうぶんに遊撃丸に納まるでしょう。


3〜4棟が“コの字形”に配置可能!


(※方丈の見やすい写真→サイト「百寺巡礼・名庭散策」様

そこでひょっとすると、遊撃丸には、儲の御所とそっくり同じものが造営された、という考え方もありうるのではないでしょうか。

その理由は、朝鮮出兵を開始した天正20年(文禄元年)の正月に、二度目の聚楽第行幸があったばかりで、一度目の行幸時に聚楽第で居並んだ(名護屋在陣の)諸大名にとっては、もしも遊撃丸に、儲の御所とそっくり同じものが建った――― となれば、これほど分かりやすい“目印”は無かったようにも思われるからです。

それは、殿舎内の上々段よりも、政治的ポーズの効果ははるかに大きかったかもしれません。



狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』2010年


さて、「儲の御所」と言えば、近年発見された屏風絵で、その屋根上に巨大な「金龍」の置物が据えられた描写が話題になりました。


(上記書の解説文より)

この屏風で最も注目すべき描写のひとつがこの場面で、これまでに確認されている聚楽第を描いた作品にまったく登場していなかったのが、「儲の御所」の屋根のてっぺんにまします龍の姿である。
『聚楽第行幸記』に「玉虎風にうそぶき、金龍雲に吟ず」とあるのは、「玉虎」がしゃちほこを意味するとは思えても、「金龍」に格別の意味があるとは思えず、いわゆる言葉の綾と考えられてきた。
「儲の御所」の屋根の上には龍の巨大な置物が這っていたのだ。



こうなると、ひょっとして、肥前名護屋城でも似たような金龍が屋根上を這い回っていたのかも… と思い立ち、ご覧のとおりに描き込んでみた次第です。ちょっと遠景のままで恐縮ですが…

(※次回に続く)








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年02月07日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守解説「しゆらく(聚楽)のにもまし申候」の真相






天守解説「しゆらく(聚楽)のにもまし申候」の真相


2011年度リポートはアップ直後の3日間ほど、色々とお見苦しい点があり、その後すぐに修正したものの、心理的ショックを引きずっておりまして、今回はとにかく、文中で予告した天守イラストの補足説明をさせていただこうと思います。

肥前名護屋城天守の推定復元イラスト


と申しますのは、佐竹義宣の家臣・平塚滝俊(たきとし)がこの天守について書き送った「てんしゆ(天守)なともしゆらく(聚楽)のにもまし申候」という表現には、聚楽第天守と比べたくなる特殊な事情があったようにも感じるからです。


この滝俊という人物、義宣に随行して肥前名護屋にいたる道中の様子を国元に書き送ったなかで、各地で見た城に関しても色々と記しています。

例えば広島城の普請は聚楽第に劣らないとか、各々の天守を「見事」「一段見事」と抽象的にほめ上げた一方で、肥前名護屋城天守については直接、聚楽第天守と比べて“上回っている”と断定したことが、どうも気になるのです。


左は三井記念美術館蔵「聚楽第図屏風」の天守の描写


ご覧の両者がともに白壁の天守であったことは(「群馬本」の発見もあり)ほぼ間違いないようですし、最上階の華頭窓などの意匠が共通することは度々指摘されて来ました。

―――で、それ以外にも、外観上の類似点があったらしく、具体的には「窓」と「金具」であったように思うのです。



<聚楽第天守の窓はすべて「突き上げ戸」であり、出格子窓(でごうしまど)は無かった!?>





近年、聚楽第を描いた新たな屏風の発見が相次いだ中でも、今なお三井記念美術館蔵の「聚楽第図屏風」は詳細な描写で他を凌駕しています。

その天守周辺の描写のうち、赤丸で囲った窓は、一見しますと、太い堅格子(たてごうし)を並べた出窓式の武者窓(出格子窓)のようにも受け取れます。


出格子窓(丸岡城天守/津山城の備中櫓)


このため誌上等では、聚楽第天守の復元イラストで初重に出格子窓を描いたり、その影響なのか、肥前名護屋城天守も初重に出格子窓を描く復元CGがあったりしましたが、ところが、この絵を解像度の高い写真で拡大して見ますと…


なんと、突き上げ用の“棒”が――

突き上げ戸(今治城の御金櫓/松山城の本壇内門の上部)


ご覧のとおりこの絵は、堅格子の描き方など、ちょっとまぎらわしい点はあるものの、はっきりと突き上げ用の棒が描かれています。

また、その上の白い小屋根のように見える部分も、うっすらと「白木の色」が残っていて、これも突き上げた戸板の可能性があります。

つまりこの屏風の天守周辺の窓は、最上階の華頭窓以外は、すべて「突き上げ戸」ということになりそうなのです。


試しに屏風全体を見渡しますと、他の櫓においても出格子窓は一箇所も無い、という事実に突き当たりますし、改めて新発見の屏風など、他の聚楽第天守の描写を点検してみますと、確認できる窓はどれも「突き上げ戸」と判るのです。

このように、聚楽第天守は“白壁に白木や黒塗りの突き上げ戸”という外観が基本であったらしく、現状で例えますと、今治城の櫓(上写真の左側)に最も印象が近かったのかもしれません。



<聚楽第天守の「金具」類は、姫路城の菱の門によく似たデザインが…>





一方、同様に最上階を拡大しますと、華頭窓などを飾った金具についても、細かく描写されていることが分かります。



金具類は二つ並んだ華頭窓の窓枠にも、長押の釘隠しとしても、さらに右側の開き戸の枠木(?)にも丁寧に施されています。

で、この金具の様子が、どうもあの門を連想させてならないのです。


姫路城 菱の門(華やかな格子窓と華頭窓、そして白い出格子窓も)


お馴染みの菱の門(重要文化財)ですが、これは創建が「桃山時代」とされていて、ご覧の華やかな意匠も当時からのものかどうか、詳しい史料を持ち合わせておりませんが、現状の金具類は“とにかく似ている”としか思えないのです。

ひょっとすると、個々の窓に散りばめられた小さな「桐紋」「菊紋」の配置やデザインまでも、聚楽第図屏風の描写とまったく同じなのでは、と見えるほどです。


―――と、このように見て来て、冒頭の平塚滝俊の「てんしゆ(天守)なともしゆらく(聚楽)のにもまし申候」という断定の、背後の事情がボンヤリと頭に浮かんで来て、それを反映させたのが冒頭からご覧のイラストなのです。




イラストの天守二重目にある「石落し用の張り出し」は、リポートの屋根の検討から導き出されたものです。

で、それに該当する部分を下の左右の屏風で確認しますと、二重目の中央部に横長の窓が描かれているため、これをイラストでは「菱の門」同様の格子窓として描きました。

肥前名護屋城図屏風/通称「名博本」と「群馬本」



で、改めて上下左右の4枚を見比べてみますと、外観上の個々の要素は同じなのに、組み合せ方が違う、といった感じではないでしょうか。


つまり聚楽第と肥前名護屋の天守の外観は、「白木と黒塗りの突き上げ戸」や「金具のデザイン」など、個々の意匠はパズルのような応用形になっていながら、肥前名護屋の方は下三重が同大という、大きさの印象だけが異なっていた―――

このことが平塚滝俊をして、両天守を直接に比較したうえで「まし申候」(上回っている)と言わせた原因だったのでは… と推理したわけです。










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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