コンクリート天守の木造化

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?






加藤先生の『日本から城が消える』との懸念には、もう一つのおぞましき結論も?




ご覧の加藤理文先生の著書『日本から城が消える』はこの夏に出版されたものですが、刺激的なタイトルに示された懸念については、これまでに当ブログもそれに近い話題(「コンクリート天守」云々…)を記事にして来たため、まことに遅ればせながら、この本についての感想を手短かに申し上げてみたく存じます。


この本は表紙の黄色い帯で「名古屋城、江戸城の再建はほんとうに可能なのか?」という話題のテーマをキャッチコピーにしながらも、内容的には、明治時代から最近までの城郭再建の歩みを網羅(もうら)的にまとめておられます。

とりわけ全国の「コンクリート天守」の耐用年数が終わりつつある問題や、掛川城・大洲城・金沢城などの木造復元の実情(いくつもの妥協があったこと)を紹介しつつ、いま話題の天守の木造再建が「費用や材料の問題以前に、じつは法律の問題が大きく横たわっているにもかかわらず、報道ではまったくふれられていない」ことに焦点を当てたものです。



(同書「はじめに」より)

戦後、城が復興されたときの法律と、今の法律はまったく異なってしまった。

より安全性や利便性が優先された法改正は、「文化」を置き去りにしてしまったのである。

城は、文化財保護法だけではなく、建築基準法や消防法等、一般住宅のために制定された法律の対象となったのである。




つまり、城やその中の天守というのは、本来ならば法隆寺の夢殿や平等院の鳳凰堂などと同類の、我が国の歴史・文化的な「遺産」のはずなのに、高度経済成長期の観光開発として「コンクリート天守」などが重宝(ちょうほう)された結果、今ではそこに消防法!!! までが適用される実態を、加藤先生はこの本でつまびらかにしておられます。

そうした環境の下では、本家本元のはずの現存十二天守は、言わば現行法の規制の対象外として、仕方なく認められたクラシックカーのごとき存在だと分かるのです。!!

ですから話題の名古屋城など、これから木造で天守を再建しようにも、またはコンクリートのまま建て替えようにも、実は「法律」の強力な壁で建て替えられない(→解体したら、もうそのまま消えるしかない)というケースが、全国でいくつも出現する可能性があり、そのため <消える城の危険度> を検証したくだりは、この本の最大の見どころでしょう。


加藤先生が、消滅の時期が最も早い存在、と予想した洲本城の模擬天守



さらに加藤先生は、中世城郭の土の城を含めて、多くの城跡が“公園”と見なされてバリアフリー化していく大きな矛盾についても指摘し、それらが相まって、『日本から城が消える』というタイトルどおりの懸念が現実化する実態に警鐘を鳴らしています。

新刊書ですから、これ以上、“ネタばれ”になる感想は申し上げられませんが、先生ご自身の懸念に対する「結論」とは別に、私なんぞはもう一つ、別の「結論」もありうるような気がいたしました。

…          …

と申しますのは、「コンクリート天守」を抱えた県庁所在地などの自治体は、住民の根強い願望(やはり天守閣は欲しい…)と法律との板ばさみになったあげく、やむなく、苦肉の策に突き進むのかもしれない、という悪い予感です。

――― すなわち、現状の「コンクリート天守」の延命化を、何が何でも、どんな手を使ってでも、新しい建築技術や法の網の目をかいくぐる裏の手段を使ってでも、永久に、頑(かたく)なに続けるだけではないのか… という、ゾッとするような「結論」が頭に浮かんだのです。

勝手な妄想で申しますと、例えば、寿命が近づいた「コンクリート天守」を部分的・計画的・段階的に改修して行って、いつの間にか、それが新築同然!の別のコンクリート天守に“すり替わっている”などという画期的な新工法が開発されるのは、そう難しい話でもないように感じるのは、私だけでしょうか。…


【ご参考】旧川崎銀行の外壁だけ残して近代化された日本興亜損保横浜ビル

これほどの技術なら「昭和のコンクリート天守」を未来永劫、残すことも可能なのでは?…




おきて欲しくない、実に悪い予感ですが、こうした技術を応用して、あくまでも「改修だ」と言い張れば、加藤先生が指摘された法律上の様々な制約には引っかからずに済むのではないかと思われますし、あとは予算と住民願望との折り合いだけで、その結果は、史跡のど真ん中に「昭和のコンクリート天守」が日本の城郭建築として固定化するという、おぞましい未来像が頭に浮かんで来て、それはひとえに現行の「法律」がそうさせるのだ、という点を叫びたくなりました。

ひょっとすると、文化財保護法や建築基準法は、城の分野においては、かつての徳川幕府の「一国一城令」に勝るとも劣らない! 歴史的にいちばん“強固な法令”になって行くのかもしれません。


で、さらに問題なのは、そんな状態が悪いこととは感じない人々が日本社会の多数派かもしれない… とりわけ「天守閣」などは、それでいいじゃないか、と言う人が多いのかもしれない、という絶望的な気分もぶり返して来たのです。


思えば、今年春に耐震改修を終えた小田原城天守閣も、ちょっとそんな印象を感じさせるもので…


(※写真は産経ニュース様より引用させていただきました)

この際、極端な言い方でたいへんに恐縮ですが、おそらく「コンクリート天守」というものは、薬物などと同じで、一度やったら止められない、という類いの強い“魔力”を持っているのではないかと、常々、私なんぞは感じております。

つまるところ、戦後の日本的な民主主義のもとでは、<コンクリート天守の木造再建> などという社会や時代のスケールを超えた難問は、きっと名古屋市の河村たかし市長のような独善的な政治リーダーがいなければ進まないし、解決の道筋も付けられない政治案件なのかもしれません。

――― そこで、さもなくば私なりの一案として、現状維持を旨とした「文化財保護法」に加えて、学術的に間違った現状を、より正しい旧態に戻すことに強力なインセンティブを与える「文化財<保全>法」とでも言うような新法が必要かと思うのですが、どうでしょうか。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年01月05日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!名案か!!【天守「木造化」宝くじ】の創設は





名案か!!【天守「木造化」宝くじ】の創設は


費用をどうするのか?…国指定史跡のコンクリート天守の木造化


前回の記事では、コンクリート天守群がこのまま歴史的に固定化してしまう危険性を申し上げましたが、これらを全て「木造化」していくには、木材や技術者の件はもちろん、それに先立つ「費用」の面が、もはや並大抵の努力では解決困難なレベルになりつつあるとも申せましょう。

中でも飛びぬけて大きく、高価なヒノキ材を使う名古屋城天守が342億円(再建中の本丸御殿の2倍以上)と試算されたのは記憶に新しく、その他の天守については、話題の小田原城もまだざっくりとした額しか言われておらず、その小田原を上回るはずの五重天守群はどの程度になるのか全く分かりません。

そんな段階でありますが、費用の捻出(ねんしゅつ)方法に関して、昨年12月の小田原城シンポジウムで、ちょっと耳寄りな話が出ましたので、今回の記事はそれをお伝えしてみたいと思います。



「平成の駿府城をつくる会」の宮城島弘正(みやぎじま ひろまさ)代表理事

(※清水市長時代の写真より)


当日のパネリストの一人、宮城島さんは、かの駿府城天守の再建運動のいきさつ(※地元で再建への気運が高まったものの、収集できた資料類を検討委員会が史実への忠実性は低いと評価し、現段階での再建はすべきでないとの結論に至った)を踏まえたお話をされました。

その中で、今なお運動は継続中として「費用については、宝くじがいいのかもしれない」と発言され、会場からホーッという反応を得ました。

まさに自治体首長の経験がある宮城島さんらしいアイデアであって、ご本人いわく「宝くじは率がいい」からなんだそうです。

宝くじと天守。一見、ほど遠い間柄であり、また市民運動がベースになる木造再建を話題にして来た中では、いささか“邪道”のように聞えますが、実は、我が国の歴史をふり返りますと、これに似た手法は、100年以上にわたって行われて来たという事実があります。


谷中感応寺 富くじ興行 の絵(江戸名所百人一首より)

(※ご覧の絵はサイト「江戸落語の舞台を歩く」様からの引用です)


ご存じのとおり、日本の宝くじのルーツは江戸時代の「富くじ」でして、それがどのように行われていたかと言えば、基本的に、寺や神社の修復費用を集める目的で発売されたのでした。


概略を申せば、江戸初期、徳川幕府は大阪で流行し始めた「富くじ」に一旦、禁令を発したものの、やがて寺社に対してのみ、建物の修復費用調達の手段として「富くじ」の発売を許したそうなのです。

それ以後、上記の絵に描かれた谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺(目黒不動)そして湯島天神の発売する富くじが「江戸の三富」として人気を博し、この手法が、幕末の天保の改革まで続きました。


ということですから、もしも今後、天守の木造化など、伝統建築を修復する「宝くじ」が登場したなら、それは邪道どころか、むしろ日本の歴史にならった、最も正統的な「宝くじ」とさえ言えそうなのです。



現在の全ての「宝くじ」は法律で地方自治体が発売元

なんと発売総額の41%が自治体の公共事業へ(平成23年度/宝くじ公式サイトのグラフを引用)



では現代はどうかと言えば、宮城島さんが「率がいい」とおっしゃったのは、ちゃんと法律のねらいに基づいた運営がされているからで、法律(当せん金付証票法)には「地方財政資金の調達」が目的だと明記されているそうです。

そのため、いわゆる払い戻し率(当せん金総額の割合)は五割を超えてはならない(!…)とも規定されているそうで、発売する側に「率がいい」のは当たり前のシステムになっています。


ちなみに、宝くじ公式サイトの収益金充当事業一覧(都道府県別)を見ますと、収益金が様々な事業に使われている姿は多少分かるものの、どの宝くじがどの事業に当てられたか?といった細かな追跡はできない状態です。

何故なら、例えば全国自治宝くじの収益金は、合算して各県に、ジャンボ売上げ成績に応じて!分配されるとかで…


使い道が明らかな変り種としては、一昨年に宮崎県など4県が共同発行した「口蹄疫復興宝くじ」

わずか10日間の全国発売で、23億7000万円を売上げた



果たして宮城島さんは、どういう規模や内容のものをイメージされているのか分かりませんが、もしもこの先、天守の木造化に決意を固めた各県や政令指定都市が、総務大臣の認可を経て、共同で、何十年もかけて、地道に発売をして行けたならば、それこそ思いのほかの満願成就(まんがんじょうじゅ)も夢ではないのかもしれません。


仮称【天守閣「木造化」宝くじ】で、大小様々の新しい木造天守が日本列島に並ぶのか





<「市民運動」と「宝くじ」という、まるで異質な二つの手法。

 宝くじ収益金で出来た天守に、市民からの深い愛着はわいて来ない!?>





さて、問題は、小田原の「みんなでお城をつくる会」がすでに寄付金の募集を始めているように、現状の基本は、コンクリート天守を抱えた市民が <自分達の手で全国にほこれる天守を造りたい> という意識や市民運動にあるのに対して、そういう動機と宝くじが合い入れるのだろうか、という心配でしょう。

世間ではふつう、宝くじの収益金で出来た道路や橋などに、特別な思い入れを感じる人は少ないでしょうし、むしろ心の底では「ラッキー…」という他力本願な感覚をおぼえる方です。


また、宝くじの発売元になれるのは、実際には都道府県か政令指定都市であるという点も、市民の動機がストレートに結びつかない(もう一段の政治判断がはさまる)のかもしれません。


このように宝くじにはいくつか欠点があるものの、この先、アベノミクスがどうなろうと、従前の地方財政のままでは、殆どのコンクリート天守は“無期限の凍結保存”“安全のための利用制限”しか将来の道がないようにも感じます。

そんな状況下では、宝くじの制度的なパワーは大きな魅力ですし、ここは江戸時代の先人達の知恵に学びつつ、一方で、小田原モデルの「地産地消」という幅広い業種の市民が関われるスタイル(林業・木造建築・観光業など)を加味すれば、宝くじの“無機質さ”をいくらかでも救えるのかもしれない、と私なんぞは思うのですが…。



駿府城公園の近くの神社境内にある看板の絵(画:渡辺重明)

天守の描き方は、内藤昌先生の復元を微妙にアレンジしているようで…




さてさて、最後に今回の発案者・宮城島さんが取り組んでおられる駿府城天守ですが、当サイトも厳しい見方をさせていただいたように、やはり復元のための具体的な根拠の問題が、依然として横たわっています。

ではありますが、何とかして早期にその問題をクリアして、駿府城(静岡県か静岡市)が共同発行などに加われるよう、是非とも、発案者の宮城島さんに力を発揮していただきたいものです。



【お知らせ/2013年度リポートは「駿府城天守」をテーマに作業中です】


年も明けてからこんなお知らせをするのは不格好と思いつつ、昨年中のブログ記事の流れも尊重しますと、やはりここで「駿府城天守」にケリをつけておくべきでは?という思いを強くしました。

そこで新リポートは、以下の内容に変更して鋭意、作業中です。


【仮題】
最後の「立体的御殿」としての駿府城天守

     二重目高欄からの眺望は全周360度!

     〜朱柱と漆黒の御殿空間をビジュアル化する〜








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年12月22日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!コンクリート天守を追認してきた文化財保護法に対する“そもそも論”を少々





コンクリート天守を追認してきた文化財保護法に対する“そもそも論”を少々


初めに、今回の話題はあくまでも「コンクリート天守の寿命とその後をどうするのか」という件に関してだけ申し上げたいのであって、決して、文化財保護法そのものについて、何か口をはさむほどの能力や資格は、私なんぞには微塵(みじん)もありません。

ただ、この先、よもや文化財保護法が、凍結保存(現状維持を貫く規制)という建て前から、結局、コンクリート天守を“守る側”につくのではあるまいか? という重大な危機感を、日本人の一人として、ひたひたと感じているがゆえの心配事と申し上げておきましょう。




<必要なら何でもあり、を許した岐路が「コンクリート化」だった>




コンクリート天守のある、国指定史跡(特別史跡を含む)を挙げてみると…


いやはや、これだけのビッグネームが日本列島に並んでしまうことに、改めて愕然(がくぜん)としますが、ご覧の城跡の中には、国の史跡としての指定が、コンクリート天守を建設しようという地元の気運を高めたケースもあったようです。

つまり史跡の指定が先だったか、コンクリート天守の建設が先だったかは両方のケースがあり、そのどちらにしても「国指定の史跡である」ことと「コンクリート天守がある」ことの間には、大した問題点は指摘されなかったわけです。


そもそも「史跡」の指定というのは、私の地元の八王子城がかつて虫食いのような開発行為で荒らされた一件のごとく、一般的には、貴重な遺跡を開発行為から守るためになされるそうで、史跡の意味を分かりやすく示す役目もあるものの、文部科学省が公表した「史跡」の指定基準には、ちゃんと次の一文があるそうです。


「我が国の歴史の正しい理解のために欠くことができず、かつ、その遺跡の規模、遺構、出土遺物等において、学術上価値あるもの」

(特別史跡名勝天然記念物 及び史跡名勝天然記念物指定基準 より)


御存じ! 特別史跡・名古屋城の天守の、吹き抜けらせん階段、最上階の土産物店、来館者用エレベーター


同じく特別史跡・大阪城の、「近代建築」として延命改修された天守閣

→コンクリート天守は歴史遺産の一部として着々と固定化しつつある



一方、2004年に木造再建された大洲城天守の内部

いかに需要や要望があっても、この中にエレベーターや土産物店まで置こうという話にはならない



史跡の「正しい理解」とは何なのか、天守(天守閣)に関して、暗澹(あんたん)たる気分になることが多いのは、私だけでしょうか。

申し上げたいのは、ここはもうコンクリート天守なんだから、エレベーターが必要なだけあっていいし、最上階に土産物店でも何でもあっていいじゃないか、という風にハードルがどんどん下がり、開き直りに近い状態まで「正しい理解」がすり替わって来た側面があるのではないか、という点です。

もしも本物の天守の中に、土産物店をつくれば、それは間違いなく「開発行為」でしょう。


そして今後、上記の地図上のコンクリート天守が続々と寿命を迎えても、大阪城の「近代建築」という妙案に習えば、現状そのままの姿で、延命化の新しい技術でどんどん“凍結保存”が出来てしまうのかもしれません。

これはもう、言わば、終わりのない悪夢です。

それもこれも、必要なら何でもあり、を許した重大な岐路(=あやまち)が「コンクリート化」だったのではないでしょうか。




<そもそも「天守」に対する国民的な無理解が、同じ伝統建築の中でも

 大きな「あつかいの差」を生んで来たのでは…>





ここで少し観点を変えて、例えば名古屋城天守の木造化に反対される意見の中に、「戦災に合った市民感情として二度と燃えないコンクリート天守を望んだのだ」というものがあります。

これについても、私に言わせていただけるなら、被災した市民感情という発端は理解できますし、焼け落ちる天守の姿も痛ましかったことと察しますが、それでも「コンクリート天守」という結論に至るまでには、無意識のうちに、余計なフィルターが何枚もはさまっていたのではないでしょうか??


端的に申せば、もしも戦災で焼けたのが法隆寺や東大寺、金閣や銀閣であっても、それらを「二度と燃えないように」鉄筋コンクリート製で外観だけ復元しよう、内部は大阪城天守閣みたいに資料館にしよう、などという結論になったでしょうか。

そうはならなかったはず、という確信に近い想像ができる一方で、天守については同じ条件での議論は不可能だったと感じます。

「天守閣なんて、お大名の見栄っ張りだったんでしょ」

「昔のものでも軍事的な建物や支配の象徴に血税を使って欲しくない」

「どうせ観光目的の客寄せなんだから」

「敗戦国は経済優先でいいんだよ」 等々 等々


この問題の底辺には、天守というものに対する、世間の圧倒的な無理解や打算(経済的・政治的な思惑)が根強く介在していて、その結果、耐火性が真に追求される住宅・オフィス・娯楽施設とは異なるはずの「天守」が、伝統建築の中でも、極めて大きな「あつかいの差」を受けて来たと感じられてならないのです。



さて、文句ばかり申し上げてもしょうがないので、希望的な談話として一つ、ご覧になった方も多いとは思いますが、『文化庁月報 平成24年7月号(No.526)』の一文を振り返ってみます。



史跡の現地保存,凍結保存,及び復元について
文化財部記念物課長 矢野和彦
「3. 史跡の復元について」より部分引用


復元建造物は,遺構を損壊したり,史跡自体のオーセンティシー(真正性)を害することが明らかではない限り,ただでさえ表現力の弱い史跡を分かりやすくして,国民,市民の理解を得て,保存やマネージメントをもっとやりやすくしようという,文化財保護の一つの積極的な試みに他なりません。

もちろん,元々天守閣がなかったのに天守閣を創建する,というようなことは論外ですが,地下遺構が残され,瓦,礎石,柱の一部などが残存するなどの発掘調査結果やこれまでの学術成果の結果を踏まえたり,近世以降の城郭であれば,絵図面,写真,工事記録等に基づいて,史跡を復元するのは,もちろん「慎重に」という形容詞付きですが,「あり」だと考えています。




ならば「コンクリート化」という禁断の領域に手をそめてしまった城は、現状をどうして行けばいいのでしょう。


よもや天下の文化財保護法が、今後の「コンクリート天守の木造化」をはばむ役回りに、結果的になってしまう、などという事態は、本末転倒以外の何ものでもありません。


ですから、仮に百歩譲って申し上げるなら、国指定史跡のコンクリート天守が「昭和遺産」等々の名目で保全改修がきく間は見逃したとしても、その後は、それこそ文化財保護法の名にかけて、最低限、「コンクリート等による再々建は断じて許さない」!! という強力な枠組みが不可欠なのでしょう。


 
せめて今世紀の前半までには、こんな状態は根絶すべきと思うのですが…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年12月09日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!推定イラスト/将軍上洛時の小田原城天守の廻縁は、安土城・駿府城とならぶ壮観さか





将軍上洛時の小田原城天守の廻縁は、安土城・駿府城とならぶ壮観さか


11月30日「天守の森」命名記念の伐採イベントより


先日、小田原城天守の木造化をめざすNPO「みんなでお城をつくる会」が行った伐採イベントや、翌日のシンポジウムで、またまたハッとする気付きがありまして、思わず新規のイラスト制作となりました。

と申しますのも、第一に、NPOでは、旧小田原藩の所有林(現在は辻村農園の所有)を「天守の森」と名づけて、今後の木材供給のベースとしていく構想を打ち出しました。

この注目の「天守の森」構想は、木材の地産地消をかかげた小田原モデルらしいやり方ですし、昨今、各地で天守木造化の声があがる中で、木材の争奪戦による価格高騰や資源の枯渇というような、いらざる騒動を防ぐためにも、是非とも全国的に広がるムーブメントに化けて欲しいものです。




<明治維新で解体された「宝永天守」もいいが、どうせなら

 近世城郭として最盛期の「三代将軍・家光の上洛時の天守」を木造化できないのか、

 という市民・NPO関係者のストレートな願望にも一理ある…>





さて、翌日のシンポジウムでは、東海道の五つの城(江戸・小田原・掛川・駿府・名古屋)の木造再建を担う方々がパネリストになりました。

この場で、私なんぞには思いもよらぬ発言が聞かれ、逆に、それまでの自分のうかつさを思い知ったのです。


《ある発言》

… いまの鉄筋コンクリート造の小田原城天守は、江戸中期に再建された通称「宝永天守」をベースに外観を設計したため、それ以前のものに比べて、頭でっかちな設計になっていて、かつてはもっと頭が小さく、朱塗りの欄干が美しい、徳川三代将軍・家光が登ったという天守も、小田原城にはあったのです。…



!! 私はてっきり、小田原で木造再建するのは、明治維新まで存続した「頭でっかちな」宝永天守だとばかり勝手に思い込んでいて、疑いもしませんでした。

発言はとりたてて宝永天守を否定する意図はなさそうでしたが、それでも大変に意外だったのは、礎石など、当時の遺構が一切ない小田原城天守にとって、復元の(ある程度)確実なよりどころになるのは、有名な解体途中の古写真(=宝永天守)だけと言っても過言ではないからです。

そのため文化庁の許可を得る観点からも、また古くから藤岡通夫先生の研究などが既にある宝永天守しか、再建の可能性は無いはず、と頭から決めてかかっていたわけです。


ですが、「出来るなら最盛期の小田原城を…」と言われてみれば、確かに、もしも遠い将来の話として、将軍家光が宿泊した本丸御殿の復元も、という話を視野に入れるなら、宝永天守で木造化してしまうと、本丸御殿は時代が合わずに後の祭り、ということにもなりかねません。





この点では、我が事として「木造化」を考えている市民やNPO関係者の方々と、私なんぞとの間には、ある種の真剣さにおいて差があったのではないかと、シンポジウム会場の一角で密かに反省した次第なのです。




<そこで試しに、将軍家光の上洛時の天守を推定イラストにしてみる>




(『小田原資料覚書』貞享3年1686年より)

御天主、上段四間に六間、二段三段八間十間、穴倉、四段目拾間拾弐間


ということで、家光が登った天守を、試しにイラストにしてみようと思い立ったわけですが、推定のもとになる史料はほんのわずかです。

それでも、上記の短い文章にもちゃんと注目点はあり、例えば「穴倉」が「四段目(=初重)」とまったく同じ10間×12間と読み取れるのは、すなわち半地下式の穴倉構造(上半分が初重と同規模)だった可能性を示しているのでしょうし、とりわけこの点は、かつて豊臣秀吉の石垣山城天守がほんの目と鼻の先にあったことを思えば、大注目と言わざるをえません。

(※→小田原城と秀吉の城の「天守台の酷似」についてはこちらの記事を)


また、最上階「上段」だけが急に小さくなっている物理的な関係から、最上階の直下には、かなり大ぶりな二層目の屋根がかかり、その内部に“屋根裏階”を考えざるをえないのではないでしょうか。

この形は、やはり当サイトが注目してきた、層塔型天守への過渡期にも見られた <最上階の直下の屋根裏階> の一例(他に姫路城など)であろうと思われ、以上のような形態的な特徴は、この天守が豊臣期の手法を部分的にひきずっていた可能性を物語っています。


内閣文庫蔵の相模国小田原城絵図(正保図)の本丸周辺

家光が箱根の山々や相模湾を眺めたという天守が描かれている



さらに、この天守の外観を知る手がかりは、ご覧の城絵図のほかに殆ど無く、地元で長年、小田原城の研究をされた田代道彌先生は、絵の描写について「最上層と第二層に勾欄をめぐらせた美しい姿で、屋根には破風をのせず、全体に桃山風の典雅さに満ちている」(『歴史群像 名城シリーズ8』)と評しておられます。

となると、問題は、文献に伝わる各階の規模と、上下二つの高欄廻縁はどういう風に配置されたのか、という点が検討課題になるわけで、とりわけ上記の城絵図の天守は、下の方の高欄廻縁が“やや厚みがある”かのように描かれているところが、推定のポイントかもしれません。


二つの考え方


ふつうに考えますと、左の図のように、文献の「二段」が前述の“屋根裏階”を兼ねていて、そのまま素直に「三段」「四段目」「穴倉」と重なる形が思い当たります。


その一方で、上下二つの高欄廻縁、というゴージャスな意匠(家光の江戸城天守にも無い!)はいったい何を思って造型したのか、と考えますと、これはもう、織田信長の安土城天主や、神君・徳川家康の駿府城天守を想起させるものでしょう。

安土城天主にも、上下二つの高欄廻縁があったとする復元

宮上茂隆案             西ヶ谷恭弘案


当サイト案

そもそも近世城郭としての小田原城は、寛永11年、将軍家光の上洛に合わせるため急ピッチで整備されたわけで、その年の正月まで城主として工事を督励しつつ急死した稲葉正勝(春日の局の子)が、家光のために、あえて天守に格別の意匠を施したものと考えても、さほど不自然ではありません。

(※また小田原城は「公儀の城」でもあったと言われ、格別の意匠は、すでに完成した天守への「後補」であった可能性も含まれるでしょう)

そこで気になるのが、城絵図に描かれた“やや厚みがある”下の方の高欄廻縁でありまして、そういう形状(…安土城天主を模した?)を実現するため、イラストは図の「右のプラン」で作ってみました。






現在の復興天守 / 天守の西側の八幡山古郭東曲輪から眺めた状態 / 本丸は天守の向こう側になる


同じ位置から眺めた、家光上洛時の天守の推定イラスト


さてさて、実際の家光上洛時は、本丸の周囲にこんなに木々が生い茂っていたとも思えず、その辺りは何とぞご容赦のほどを…。

ですがまぁ、ご覧のとおり、復興天守(≒宝永天守)と寛永の天守は、これほど印象が違うのか!! ということには我ながら驚きがあり、細部の推定については色々とご意見はありましょうが、建物のプロポーション自体が違うという点は間違いのないところです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年05月24日(Thu)▲ページの先頭へ
城の再発見!黄鶴楼(こうかくろう)を笑えない!天守の意味の脱落






黄鶴楼(こうかくろう)を笑えない!天守の意味の脱落


――すでに築50年を越えた大型のコンクリート天守――

大阪城天守閣(築81年)       和歌山城天守(築54年)


広島城天守(築54年)        名古屋城天守(築53年)

小倉城天守(築53年)        熊本城天守(築53年)


この2〜3週間、どういう訳か、前回も申し上げた「コンクリート天守の木造再建」のことが頭から離れず、やや大仰に申しますと、これは今の世代に託された命題ではないのか? とも感じられてなりません。

で、いっそのこと、当ブログ独自に「木造再建の優先度ランキング」でも作ってご覧に入れようかと思ったものの、考えれば考えるほど、これは難解だ、ということが分かって七転八倒しております。


その最大の理由は、明治維新のとき天守の“大量絶滅”(封建主義の象徴の一掃)があったわけですが、それも言わば「我が国の歴史の声だ」と考えて尊重すべきなのか、またそれとは正反対に、現在の日本が再び(明治以来の中央集権から)分権社会に向かっている中で、改めて木造天守を“地域分権のモニュメント”として見直すのもいいのではないか、という二つの考え方に、まったく折り合いがつかないからです。


―――例えば前者の考え方ですと、明治に取り壊された天守(小田原城ほか)を確たる理由もなく再興することは歴史のねじ曲げになりかねず、むしろその後の昭和にアメリカ軍の空爆や原爆投下(という天守の歴史とは無関係な理由)で失われた七基の天守こそ、まずは最優先で木造再建すべきだということになります。

※七基の天守(被災順)=名古屋城、岡山城、和歌山城、大垣城、水戸城御三階、広島城、福山城


―――ところが後者の考え方ですと、破竹の勢いの官軍(明治新政府)に恭順し、いちはやく廃城願いを出して取り壊された、大久保家の小田原城天守など、合わせて三十数基にのぼる天守や御三階が、逆に、中央集権化に走った政治の犠牲者(スケープゴート)として見直されることにもなるでしょう。

―――そして奇妙なことに、この二つの考え方では、冒頭の写真の大阪城天守閣や小倉城天守、そして一昨年に話題になった江戸城天守などは、どちらにも含まれず、ランキングはずっとずっと下の方に位置づけられてしまうのです。


そこで今回は(収拾のつかないランキングは断念しまして)天守の焼失・再建・破却・復興をめぐる不可思議な歴史をザッと振り返り、何故そんなことになったのか、外国の事例とも比べながら申し上げてみたいと思います。



<保科正之(ほしな まさゆき)の腹芸?がもたらした、天守の意味の脱落>



江戸初期には天守が失われていた福岡城と江戸城


幕末にも天守があった会津若松城と松山城


上の2枚の写真のように、福岡城と江戸城はともに江戸初期に天守が失われましたが、その原因は大きく違うものでした。

元和6年(1620年)、ご承知のとおり黒田長政(くろだ ながまさ)が将軍・徳川秀忠に「徳川の世は城もいらないので天守を崩しました」という意味の言上をし、居城・福岡城の天守を進んで取り壊したと言われます。

これは、当サイトの第一弾リポートの最後でも申し上げたように、天守は本来、徳川幕府の治世とは水と油の関係にあるという本質を、長政が熟知していたからこそ行えたスタンドプレーではないでしょうか。

と申しますのは、徳川幕府は、各藩が天守を統治の象徴として代々受け継ぐことは許すものの、例えば、藩主の代替わりや国替えの度に新しい天守(=革命記念碑!)がボコボコと新造(造替)されるような事態は、断じて許さない、という基本姿勢があって、そういう“幕府の意”を長政が大仰に解釈してへりくだってみせたのではないかと…。


そして一方の江戸城天守は、明暦(めいれき)の大火で焼けると三代将軍・家光の弟・保科正之が「軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり」と進言して、以後、再建されることはありませんでした。

正之の進言がじつに意味深長だと思うのは、天守は確かに「軍用に益なく」かもしれませんが、政治的な効果はたっぷりと含んだままであり、その証拠には、正之自身の居城・会津若松城の天守はしっかりと幕末まで存続し、親藩や譜代が封建体制の中で 徳川将軍を支える姿勢を示し続けたことからも間違いないように思われるのです。

つまり正之は「徳川将軍はもはや巨大な天守で諸大名を威嚇する必要はない」と進言しただけであって、それ以後、徳川将軍家の大坂城や二条城の天守が焼失すると再建されなかったのに対し、再建されたのは徳川御三家や松平家・大久保家・池田家・中川家の天守と御三階(松山城ほか)だったのです。


高取城へ登る道/山中の石垣


ところが保科正之の進言と幕府の治世は予想以上の効果をもたらし、やがて日本人すべてに「天守とは何だったか」をボンヤリ分からなくさせてしまったようです。

例えば明治時代の“大量絶滅”で最後に取り壊された天守は高取城の御三階で、明治6年の廃城令で「廃城」と決まりながらも明治24年(1891年)まで残り、それはただ標高580mの山頂にあったために取り壊しが面倒だったらしく、したがって当時、天守は政治的にはとうに“捨て置いて構わないもの”に成り下がっていたようです。

ということは、保科正之の進言から高取城の破却まで、二百三十年あまりの時をかけて、天守はゆっくりと「その意味が脱落していった」のだと思えてならないのです。



<いわゆる歴史主義建築とも違う、分類不能?のコンクリート天守が登場>



さて、その後、世界では19世紀から20世紀初めにかけて「歴史主義建築」の建設が流行し、これにはパリのオペラ座やベルリンの国会議事堂、日本の初代の歌舞伎座などが含まれるそうです。

これらは劇場や議事堂などを建てるとき、それに似合った時代の様式を施主や建築家がチョイスして建てた、ということらしく、今回の話題のコンクリート天守のように(あえてストレートに表現するなら)特定の××城天守にそっくりな外観の展望台や資料館を、その故地に建ててしまった、というケースとは訳が違うようなのです。

となると、コンクリート天守というのは、なかなか世界的にも類似の有名建築が見当らない特殊な存在みたいで、あえて一番よく似た建物を探すと、今は中国の「黄鶴楼」あたりになるのではないでしょうか?


世界で一番よく似た建物? 湖北省武漢市のコンクリート造「黄鶴楼」


有名な黄鶴楼は有史以来、1700年あまりの間に何度も焼けて建て直され、先代の清の時代のものも1884年に火災で焼けたことを踏まえて、ちょうど百年後(1983年)に現在の建物がコンクリート造(エレベータ付)で登場しました。

正直に申しまして、何度も建て直したこと自体が“かの国の誇るべき歴史”なのに、現代中国人の「燃えないからいい」という感覚はやはり何かに毒されている証拠であり、異様だと思うものの、少し見慣れて来ると、つい最初の違和感を忘れてしまうのがなんとも恐ろしい限りです。


―――で、これとほぼ同じことが、昭和から平成にかけて、我が国の主要都市の中心部で繰り広げられたわけで、当時の復興天守の位置づけを市史で確認しますと、明らかに「地域振興のための観光開発」であり、文化行政とはお門(かど)違いであったことが分かります。


和歌山市史より→「昭和二十五年頃から話題になっていた和歌山城の再建が実現」「和歌浦・加太友ケ島地区と合わせて」「紀勢本線の全通を契機に一層の観光客誘致を」

広島新史より→「産業博を大々的に行い、郷土産業の振興を」「広島城あとに天守閣の復原が決定、第3会場に追加された」

名古屋市史より→「この年の名古屋まつりは名古屋開府三五〇年、市制施行七〇周年に加え、名古屋城再建完成といった三重の意味で、名古屋の発展を祝う盛り沢山の行事が企画されていた」



という状態ですから、役所内の建設発注の担当部署も、おそらくは産業振興とか観光とか土木・公園というセクションであったことは疑いようもありません。

要するに、歴史的に意味が脱落していた「天守」は、もう外見さえそれらしく造ればOKな、公共の施設(建築基準法に基づくビル建築)でもよかったのでしょう。


外観復元した和歌山城天守の開館を待つ人々(昭和33年1958年/和歌山市史より)


そして当時、全国のコンクリート天守が参考にしたのは大阪城天守閣だったという点は、かなり重要なポイントを占めているのかもしれません。

いまや築81年、現役最長老のコンクリート天守・大阪城天守閣は、渡辺武・元館長の著書『大阪城話』によれば、役所内の所管部署がグルグル移り変わったそうで、その理由は、開業したては「展望台効果」で観光客を吸引したものの、その後、高度成長期に歴史資料の収集に力を入れて、約8000点を所蔵する「歴史博物館」として路線転換したことが大きかったそうです。

じつに先見の明というか、罪つくりというか(失礼)、大阪城天守閣はひじょうに特殊な成功事例だったわけで、それを後から追いかけた全国のコンクリート天守は(各県に専門の歴史博物館が出来たため)ハシゴを外された格好になり、そのままゆっくりと今日まで老朽化が進んで来ているのです。



<地産地消の木造化をめざす「小田原モデル」とは>



そこで「小田原 城普請会議」の皆さんの手法が俄然、注目されそうです。

小田原の木造化のポイントは「地産地消」だそうで、今後もし計画が進むなら、近隣地域の木材を使いながら、具体的には現存の松江城天守のように複数の材を束ねて太い柱にするそうですが、それでも天守の脱落した“意味”を何か取り戻せるのかもしれません。

と言うのも、伊勢神宮の式年遷宮ではありませんが、そうした地元の長い持続的な裏づけこそ、意味不明の「天守閣もどき」を脱する、歴史的な第三の道かもしれないと感じるからです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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