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2015年05月02日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?






いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?


前回は話題を急拠、佐賀城天守の復元案に対する疑問に差し替え、次回はまた岐阜城の話題にもどりますと申し上げましたが、せっかく天守の外形的な問題に触れたチャンスでもありますので、この機会に、佐賀城天守とも関係があり、岐阜城の山頂天守とも関連性のある話題として、いわゆる「唐造り(からづくり)」に焦点を当てて、さながら半分だけ“もどる”お話をさせていただこうかと思います。


唐造りの例(左:高松城天守の古写真 / 右:小倉城の復興天守)


ご承知のとおり「唐造り」は、南蛮造りとも呼ばれ、大概の天守は下から上へと階の大きさが逓減(ていげん)するのに対して、その一部分だけ、下階よりも上階の方を張り出させた独特の構造を言い、佐賀城天守も、細川忠興による小倉城天守に学んだとの伝承のもとに、三浦正幸先生らの復元案では最上階がこんな構造であったと考証しています。

そもそも人々は何をもってこれを「唐風」「南蛮風」と呼んだのか、よく解らないところがあり、上階を張り出すことが中国建築や南蛮(南欧や東南アジア)の建物の特徴だった、などということは殆ど言えないわけ(→例外は後述)ですから、日本人の勝手な思い込みだったのでしょうか。


で、この唐造りの「現物」は、今はどこにも現存しておりませんで、そのため古写真や文献の各階の記録から、張り出しの幅は「半間」程度であったと分かるものの、それ以上の具体的な構造は不明のままなのです。

ですから、それを例えば、望楼型天守によく見られた普通の高欄廻縁を“ふさいで内縁にしたもの”と見るなら、天守から高欄廻縁が失われていく過程での、ある種の進化形(試行錯誤)と見ることも出来ましょうし、そういう意味では「唐造り」はいくぶん新しいスタイルだということになります。

ところが…


「唐造り」の事例の中でも特徴的な 岩国城天守

古図!に基づく藤岡通夫先生の作図(『城−その美と構成−』1964年より)



いくつかあった事例の中で、いちばん興味を引くのは、ご覧の岩国城天守ではないでしょうか。

小倉城や高松城のように最上階ではなくて、中層の三階と四階も「唐造り」の構造になっていて、ご覧の藤岡先生の図にあるように、その部分の下の階が「ほらの間」と呼ばれていたことは注目せざるをえません。

これは思わず、以前に何度も申し上げた「屋根裏階と張り出し」との関係を連想してしまいますし、そちらの場合、第一の目的は大屋根におおわれた屋根裏階の明りとりのための構造でしたから、もしも「唐造り」も同じ目的から始まったのであれば、そのルーツはずっと古いことになるでしょう。

そして現状の復興天守を設計した藤岡先生は、この岩国城天守を「古風な天守」と解釈しておられたのです。



(藤岡通夫『カラーブックス 城−その美と構成−』1964年より)

岩国城は関ヶ原役後 吉川広家が建設したものだが、錦帯橋で著名な錦川に沿った横山の山頂に築かれている。
建て始められたのが慶長七年(一六〇二)であるが、古風な山城であっただけに、その天守もいろいろと古風な点があり、図を見ると軒先も塗籠とせず白木のままで、屋根もこけら葺ではなかったかと思われる。
これより少し早く文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)の間に建てられた信州高嶋城の天守もこけら葺であったし、その他の例からみても関ヶ原役前後までは、このように武備からみると不備な古風な天守が建てられていたわけである。




錦帯橋と復興天守(見上げた様子は、まるで岐阜城の山頂天守のようで…)


藤岡先生は主に屋根が柿(こけら)葺きだった点から「武備からみると不備な古風な天守」と評したわけですが、これは言葉を変えますと、柿葺きの天守が、岩国城や鳥取城のようにかなり高い山頂に築かれた天守か、逆に高島城のように湖中の浮城の本丸隅角に築かれた天守という、比較的安全な立地と言いますか、二の丸に侵入した敵から直接の攻撃を受けないような位置にあったことが、古い「柿葺き」の温存につながったのではなかったでしょうか。

すなわち、織豊系城郭や近世城郭の平山城などで“精緻な縄張り”が進む前の城に「柿葺き」天守があったのであれば、一方の「唐造り」についても、岩国城のように中層に設けたスタイルの方が、冒頭の小倉城などより、ずっと原初的な姿であったのかもしれません。


と、ここまで申し上げて来たところで、「古風」というキーワードと、「唐」「南蛮」という呼び方を意識しつつ、やや突飛な連想を申し上げてみたいのですが…



19世紀の報道画家 W・シンプソンが描いた ヒマラヤの建築様式

( from "The Architecture in the Himalayas" 1970, New York )


かねてから私なんぞは、ヒマラヤ山脈の城や山岳寺院は、日本の多聞櫓のある城や天守曲輪に <ものすごく似ている!!> と感じて興味をそそられて来ました。

この件では、私が多大な影響を受けたと感じている建築家の神谷武夫先生によるサイト「インド・ヒマラヤ建築紀行」の、第6章「異形の寺院とコトカイの城郭」などに詳しい紹介があり、上記の絵や以下のもう一枚の絵は、そのサイト中で例示されたものです。


で、ご覧のように一目瞭然、城郭ファンなら誰しも「これって唐造り!!?…」と、思わず人類の悠久の歴史や文化の伝播(でんぱ)に想像力がめぐってしまいそうで、是非とも神谷先生の現地取材の写真もご覧になっていただきたいところです。


サイトの紹介文によれば、ヒマラヤ山脈(インド北部のヒマーチャル地方)の城や山岳寺院には、ご覧の「角塔」という、上部が張り出した塔が付設された例が多いそうなのです。

角塔の下の部分は、水平に組んだ木の井桁の中に石をぎっしり詰めて積み重ねた「ドルマイデ構造」というもの(→まるで栗石を詰めた日本の石垣のよう!?)で、それを高く建てて角塔とし、最上階にバルコニーをまわして、切妻や入母屋の屋根を架けているとのことです。

張り出した部分はあくまでも「バルコニー」だそうですが、その一方で、この建物への出入りは、最上階や中層の木造部分までは「階段」をドルマイデ構造に外付け!して上り下りする形だそうで(→下図ご参照)こうした様子は、とどのつまりは“外敵が来襲した時の立て籠もり”を想定した建築なのだと受け止めざるをえません。

(※また他の考え方として「積雪対策」もありえそうですが、その辺りは神谷先生の紹介文に説明はありませんし、寺院の他の建物にドルマイデ構造が無いところを見ますと、やはりこれは「立て籠もり」用なのではないでしょうか)


0.C.ハンダのスケッチによる、チャイニのヨーギニー寺院

( from "Art and Architecture of Himachal Pradesh" by M.G. Singh )


こういうものを見てからは、またぞろ私の悪い猜疑心(さいぎしん)が頭をもたげまして、ならば「唐造り」というのは、本来的には、何のために考案されたのだろうかという疑問が芽生え、それは美観上の意匠で始まったものではなくて、元々は軍事的な、防御上の工夫だったのでは… という疑いが増して来たのです。

かと言って、ご覧のヒマラヤの城や寺院が、日本の「唐造り」と直接の関係があったなどと申し上げるつもりは毛頭ありませんが、時代や国柄・文化の違いをこえて <下階より上階を張り出す> という行為そのものに、やはり防御的な意味合いがあったのではなかろうか、と思われてなりません。

―――すなわち頑丈な(入口や窓もない)下層部分で敵の猛攻を耐えつつ、その上から敵に反撃を加えて撃退をくり返し、その建物だけでも籠城戦を闘いぬく、といった必死な形相を「唐造り」に感じるようになってしまったのです。

現に、一階はろくに窓もなく、ひたすら敵の攻撃を耐えしのぶだけの(まるで石垣の代用か延長であるかのような)蔵づくりの壁面の櫓や天守は、いくつか事例がありますし、そんな構造の場合、すぐ上の二階からの銃撃などは、引きつけた敵に対する有効な反撃手段だったはずでしょう。


例えば、「××紀功図巻」に描かれた順天城の本丸と天守…


慶長の役における順天城の戦いを描いたご覧の絵は、どこまで正確に実像を伝えたものか解りませんが、天守はけっこう細かく描かれていて、初重の白壁には窓が無く、二重目の雨戸?か堅格子窓?は四方にやや張り出していて「唐造り」であったかのような描写になっています。

もしこれが本当のことなら、中層の「唐造り」は岩国城天守と共通しますし、初重の状態はヒマラヤの「角塔」のごとく、敵の攻撃にひたすら耐えるだけの構造だったのかもしれません。

こうした画像を見るにつけ、「唐造り」というのは、本来の意図は、言わば「石落し」の原形か派生形(=天守直下の銃撃や監視用)のごときものに思えて来たのです。


ですから、ひょっとすると「唐風」「南蛮風」という呼び方も、異国風のエキゾチックな意匠というニュアンスではなくて、その180度逆の、歴史的に常に異民族と対峙してきた人々の厳しい住環境のイメージをまとっていた、ということはなかったのでしょうか?







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年04月21日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!どうも気がかりで急拠UP <佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは…>という心に消えない疑問






<佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは…>という心に消えない疑問


(一昨年の佐賀新聞より)天守台跡の礎石配置から三浦正幸教授らが作成した1階部分の復元図



当ブログでは何回か前の記事から、階段の付け方、表と奥・ハレとケの使い分け、といった観点から、名古屋城や岐阜城を例にあげつつ、天守の原形「立体的御殿」の内部の構造について、何か見えて来るのではないかとアレコレ申し上げて来ました。

そうした中では、一昨年、天守台の発掘調査に基づく三浦正幸先生の興味深い復元案が示された「佐賀城天守」は、一階に書院造りの部屋が並んでいたという驚きの内容もあって、何か関連で申し上げられるのではないかと感じていました。

で、そんな風に思っていたところ、しだいに三浦先生の復元案そのものについて「…ちょっと待てよ」と、ある疑問が頭に浮かび、予定では今回の記事も岐阜城の話の続きのつもりでいたのですが、どうにも佐賀城天守への疑問の方が気になって仕方なく、急拠、こちらの方に(今回だけ)話題を変えてみたいと思うのです。


復元案の発表は一昨年ですから、概略はご記憶のことと思いますが、まずは当時の報道内容をもう一度なぞって、思い出していただくことにしましょう。



佐賀城天守は書院造り 礎石から構造推測

(佐賀新聞 2013年01月07日更新)

 佐賀城天守台跡(佐賀市城内)を調査した城郭研究の第一人者で広島大学大学院の三浦正幸教授(文化財学)は、天守1階部分が「武者走(むしゃばし)り」と呼ばれる廊下が部屋を二重に囲み、内側には広い縁側が付いていた可能性があるとの研究をまとめた。三浦教授は内部構造について「豪華な書院造りだった」とみており、来年以降に著書『天守閣(仮称)』で発表する予定。
 佐賀市教委が実施している現地調査で、柱を支えたとみられる礎石が多数見つかっており、三浦教授は、複雑な礎石の配置から、部屋の間取りを割り出したという。
 それによると、武者走りは幅1.5間(約2.7メートル)で、籠城の際に兵が動きやすいように二重になっており、さらに外周側と内周側との境には、上層の階を強固に支えた柱があったと推測。また、部屋の両側には幅1間(約1.8メートル)の広縁があり、2.5間幅の部屋など「半間」という寸法が多用されているとみて、「部屋に床の間や違い棚を設けた書院造り」と結論付けた。
 三浦教授は「書院造りは安土城や大阪城でみられる。佐賀藩主が大阪城を訪れた際、城作りの参考にしたのではないか」と話している。
 佐賀市教委は来年度にも天守台跡の保存・活用策を検討する委員会を開く予定で、三浦教授の見解も参考に「埋土保存や部分展示など、どんな方策が最適かを見極めたい」と話す。




というものでして、その後、佐賀市教育委員会から現地説明会用の資料がPDFで出ていて、冒頭の図と同じことですが、その一図をご覧いただきますと…



(※資料「佐賀城天守台発掘調査」から引用)


ご覧のような驚きの間取りが示された中で、私の疑問がふくらんで来たのは「二重の武者走り」でして、これは天守が天守台石垣いっぱいに建っていたのなら、その範囲に天守一階の間取りの折り合いをつける必要があるため、そういう結論になったのかもしれません。

つまり <佐賀城天守は天守台いっぱいに建っていたはず> という事柄は、これまでどなたも疑問を差し挟んだことは無かったようですし、この度の発掘調査においても、例えば天守台上に、それらしき雨落ち石は発見されなかったとか、何か理由が挙げられるのかもしれませんが、それにしても、本当にそうなのか… という部分が私の「疑問」の出発点なのです。

そこで私の「疑問」を順序だてて申し上げますと…



疑問の論点【1】

一昨年の復元案では、礎石列の解釈方法から、天守の一階に「二重の武者走り」があったとしていますが、二重の武者走りとは一体、どういう使い方になるのか、(上記の報道文では「籠城の際に兵が動きやすいように二重に」とありますが)よくよく考えますと、どうも私なんぞには戦闘時の具体的な様子が頭に浮かんで来ません。

その逆に、実際の戦闘では、かえって混乱の元になるのではないかという心配もありそうですし、むしろそれは、三浦先生がよく指摘される「江戸軍学の机上の空論」から生まれた設計であった… というのであれば、解らないでもない、といった印象なのです。


疑問の論点【2】

そこで礎石列の解釈方法について、復元案とは違う考え方として、今回発見された礎石の範囲内だけに天守の建物は建っていて、天守台石垣のきわまでいっぱいには建っていなかった、という風に、解釈の方向性を変えてみますと、「二重の武者走り」というような復元を無理に行う必要は無くなります。




疑問の論点【3】

そしてご覧のようなスタイルは、まさに天守台近くの有名な「鯱の門」や、他の城では会津若松城の天守など、石垣上の建物の周囲に「空地」(犬走り)がぐるりとめぐっていた様式として、全国的にいくつも類例がありますし、とりわけこうした解釈方法であれば、以前から懸案の「佐賀城天守は五重か?四重か?」という大問題の決着にも糸口が見えて来るのかもしれません。


左:佐嘉小城内絵図         右:寛永御城并小路町図
 


すなわち、前出の会津若松城天守のケースでは、その空地の外側・石垣のきわには「土塀」(狭間塀)がぐるりとめぐっていて、これが外観上、天守のひとつの階のようにも見えたことは、城郭ファンなら誰もが知る事柄だからです。





ちなみに上記の左右二つの絵図のうち、特に左側の絵図を見ますと、見た目の初重と二重目にだけ「窓」の類いが描かれていて、この初重が実は土塀だったとしますと、そうとうに特徴的な(例えば金沢城の石落し付きの土塀のような)防御性を高めたものだったのか、その正反対に(一階の書院造りに呼応するような)優雅な透き塀がめぐっていたのか、新たな興味もわいて来ます。

しかも絵図のとおりなら、見た目の二重目は、そんな土塀の上から堅格子の武者窓をのぞかせて周囲を威嚇していたようですから、土塀の高さとの兼ね合いで、天守の初重は内部が二階建てになっていて、その二階が「見た目の二重目」だったのかもしれません。


結局、話題の佐賀城天守は、図らずも会津若松城天守に似た手法(構造)を選択しつつ、初重の内部は「一重の武者走り」に囲まれた書院造りと広縁であったように感じるのですが、いかがでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年01月22日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・七重の層塔型「屈折」天守と「いちばん小さな天守」をめぐる異論






続・七重の層塔型「屈折」天守と「いちばん小さな天守」をめぐる異論




前回の会津若松城「七重」天守の推定イラストでは、窓の配置について、ちょっと違和感を感じた方もいらっしゃったのではないでしょうか。

と申しますのは、このように初重と二重目が同大で建ち上がった天守は、ほとんどが初重と二重目の窓の位置を、互い違いにずらして設けたものばかりで、イラストのように窓の位置を縦にそろえたケースは、ごく部分的にしか見られなかったからです。


しかし前々回に引用させていただいた平井聖先生の考察のように、層塔型の要素をもつ七重天守が実在した場合、そこには蒲生氏郷の「創意」が大きく関わっていたと思われてなりません。

その創意を斟酌するなら、「天守をもっと整然とした形で造型してみたい」というものであったはずでしょう。

そういう文人大名の発想のもとでは、従前の手法を捨てて、窓の配置まで「整然と並べてみたい」という渇望が勝ったのではあるまいか… などと勝手に推量しまして、イラストのように描いてみた次第です。





さて、こうなりますと問題は、<層塔型天守の誕生と普及>の経緯をどう考えればいいのか、ということになるわけですが、「普及」の方については、当サイトでは、徳川幕藩体制のもとで天守が城下町の中心に屹立するようになって、初めて四方正面が意識され、諸大名が(徳川将軍の天守にならって)採用したものだろうと申し上げて来ました。


一方、「誕生」の方に関しては、私なんぞが以前からずっと気になって来たのが、藤堂高虎(とうどう たかとら)時代の宇和島城天守です。(上図の右側/大竹正芳先生の復原図にもとづく略式イラスト)


この天守は諸先生方の復元研究によって、外観はかなり複雑かつ未整理な印象であったことが判っているものの、その実態として、天守本体の初重の平面形が真四角! 正方形になっていた点がたいへん興味深いのです。

と申しますのも、これを建造した高虎が、朝鮮出兵を経て、その後に丹波亀山城で「史上初」と言われる層塔型天守を築いたのですから、「誕生」の芽は、この辺りにあったのだと申し上げてもいいはずでしょう。



ところがこの度、それに先駆けた蒲生氏郷の会津若松城「七重」天守もあったとなりますと、実はこちらの天守も「平面形は正方形でありながらも外観が層塔型になりきれていない」という点では、ともに共通している(!)わけなのです。

つまり、ここに何か、層塔型天守の「誕生」をめぐる未解明のキーファクターがありそうな気がするものの、今のところは何なのか見当もつきません。



エジプトの通称「屈折ピラミッド」(写真:ウィキペディアより)


また冒頭の七重のイラストを見ていて、我ながら「屈折ピラミッドみたいだ」と感じまして、ちょっとウィキペディアを覗いてみますと、傾斜角度が途中で変わっていることの理由としては…

●勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した
●建造中に王が病気になったので、完成を急ぐため高さの目標を下げた
●これが完成形であり、下エジプトと上エジプトの合一を象徴している


などとバラバラで、こちらも理由がよく分からない様子です。

しかもこの屈折ピラミッドを経て、古代エジプトでは、より「整然とした」ギザの大ピラミッドの建造に至るわけですから、層塔型天守とピラミッド、けっこう浅からぬ縁があるのではないでしょうか。…


では最後に、このところ「七重」「九重」と景気のいい話が続きましたので、逆にグーンと小さな天守の話をさせていただきましょう。




<いちばん小さな天守〜雛形(ひながた)〜をめぐる異論をひとつ>




藤森照信 前橋重二『五重塔入門』2012年/「国宝五重塔の高さくらべ」のページ


最近、別の用件で「五重塔の心柱」に関する本を図書館であれこれと漁っていたところ、ふとご覧のページが目に入りまして、アリャっ…と我が身の不勉強を思い知ったところです。

と申しますのは、国宝指定の五重塔の中には、このように高さが4〜5mしかないものが含まれていて、しかもそれらは、いわゆる設計時の「雛形」とは言い切れない存在なのだ(!…)ということを、今の今まで把握していなかったからです。


海龍王寺五重小塔(国宝)/写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です


ご覧の海龍王寺(奈良市)の五重小塔は、奈良時代の建立で、内部が箱造りになっていて、そこに仏舎利か経典を納めたらしいと言われています。つまりこれも立派に五重塔であったわけです。(失礼)


元興寺極楽坊五重小塔(国宝)/こちらも写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用


一方、元興寺極楽坊(奈良市)の五重小塔は、反対に、内部まで精巧につくられていて、そのため中に通常サイズの舎利容器や経典を納めることは出来ないそうです。

となると設計時の雛形かと言えば、そうでもない事情を抱えているようで、そのあたりを本の著者、おなじみの建築史家で建築家の藤森照信先生は…


(藤森照信『五重塔入門』2012年より)

ではいったい造塔の目的は何なのか。これについては、従来ふたつの仮説が提示されてきた。

ひとつは、建築前につくられた「建築模型」であるとの説。
(中略)いかにもありそうだけど、残念ながらこの小塔とじっさいに建てられた大塔とはかなりちがっていた。
(中略)
致命的なのは大塔と小塔の側柱の位置が一致しないこと。大塔の礎石はいまも跡地に保存されていて、側柱の位置が正確に決定でき、それは安政の実測図ともよく一致する。ひるがえって小塔はどのように拡大しても、この礎石上にぴったりおさまるようには建てられない。
(中略)

第二の仮説は、小塔院に安置されていたとするもの。
小塔院は、大塔と伽藍中軸線をはさんで左右対称の位置にあり、この堂内に五重小塔が本尊として置かれていたと考える。
欠点は目撃証言がないことで
(…以下略)


という風に、「建築模型」説はかなり弱く、かつてこの五重小塔は本堂の一隅に安置されていて、「小塔院」という専用のお堂のような名前の建物にあった証拠はない、とのことです。ならばいったい何のための… という謎の国宝なのです。




小田原城天守の雛形(小田原城天守閣蔵/写真はサイト「地球の歩き方 旅スケ」様からの引用)

※こちらも、実在した天守とは合致しない部分を含んだ雛形


ということで、では「天守の雛形」はどうなのだ?と考えた時、自分なんぞはどうも昔から「雛形は着工前に城主に見せるため」とか「大工棟梁が修理の最善の方法を探るため」等々といった伝承や説明に、本当か… それだけのために… 絵図面ではダメだったのか… と引っかかってきた感覚が、一気にぶり返して来たのです。


ひょっとすると、五重小塔のごとく、天守の雛形にも、立派に天守に準ずる格や位置づけが与えられた可能性はないのか…

また製作時期で天守の創建や修理とおおよそ符合する伝承があったとしても、それは例えば、「工事期間中の天守の身代わり」というような意味が込められた可能性はなかったのだろうか…

等々と、あの人気の姫路城「天空の白鷺」を造れなかった時代の人々を案ずる、余計な心配やお節介が、あれこれと頭の中を駆け巡ってしまうのです。








作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年01月08日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!会津若松城「七重」天守の推定イラストをご覧下さい






会津若松城「七重」天守の推定イラストをご覧下さい


平井聖先生の指摘を中心に「七重」天守を現地に再建してみますと…


前回の予告で申し上げたイラストですが、いつもどおりに作ってみたところ、話題の「七重」はまったく現地の天守台等と違和感が無く、我ながらちょっと驚いております。


で、多少の説明を申し上げますと、現在の復興天守の位置は、江戸時代までと同じく天守台上の北西隅に寄せられていて、その建物中心に合わせて天守台の穴倉が、外側の石垣よりも明らかに新しい手法で築かれています。

そこで「七重」天守の頃の穴倉は、内部が違う形状であったと仮定して、その上の天守台上の様子は、おそらく帯曲輪側(北・西・南)の三方に、等間隔の空地が天守周囲をめぐる形であったろうと想定しました。

その結果、「七重」の壮大さが、本丸御殿(イラストのこちら側)からよく見える状態になりました。


また外観の意匠については、七重に描かれた『領国絵図』のとおり「白壁」であったのなら、それはやはり聚楽第天守にならったものだろう、と考えるのが自然なアプローチでしょう。

しかも『領国絵図』は七層の屋根のうち、最下層だけ違う描き方にしてあるため、これは現地で出土した金箔瓦が関係しているものと考えて、聚楽第天守の絵画史料と同様に、最下層だけ金箔押しの無い土瓦、その上の軒先はすべて金箔瓦、という使い分けがなされたと推定しました。


このように会津若松城の「七重」天守は、穴倉内を含めれば「九重」天守とも言えそうであり、これ一基だけで、東北地方全域に存在感を示そうという気概を感じさせる建造物であったと思われます。






さて余談ですが、前々回にお知らせしたとおり、2012年度リポートは以下の内容に変えて急ピッチで作業中です。ご覧いただけるのは2月に入ってからと思われます。

東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
〜「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ〜









作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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