城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?


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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年09月14日(Wed)
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城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?






徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?


江戸後期の駿府城の体裁をかろうじて守った「坤(ひつじさる)櫓」/ 平成26年復元

これが例えば『東海道分間延絵図』の府中(=駿府)では…



天守と城下とのビスタ(vista/眺望)と言いますと、例えば岡崎城と大樹寺を結んだ一直線のビスタラインなどが有名ですが、似たようなことが駿府城でも言えるのかもしれず、ご覧のように東海道分間延絵図(文化3年完成)では、城の西側からの東海道の先(真正面)に、城内の重層の櫓が見えたかのように描かれています。

ご覧の三重櫓は、近年に復元された坤櫓とも見えますが、しかし地図上で厳密に線を引いてみますと、このビスタラインの真正面に建っていたのは、やはり本丸の「天守」に他ならなかった、ということがよく分かります。


明治22年 静岡市街図より



ためしに冒頭の絵と同じ「東海道分間絵図」の類いを見比べてみますと、時代によって、天守があった頃の描写が踏襲されたものもあり、また具体的な建物(天守か櫓か)がもう特定できなくなった絵図もあるようです。


九代目城代・三枝守俊の頃(延宝8年〜元禄8年)=天守が失われて45年〜



このようにして見て来ますと、「平城」という、平坦地に広がる城下町に囲まれた城においては、天守をどこに置くのか? という問題は、街道のビスタラインと連動したケースがいくつもあったのかもしれません。

そして当ブログはこのところ、聚楽第、広島城、駿府城といった「平城」を話題にして来ましたが、高低差のある平山城ならばともかく、まっ平らな平城の本丸の一遇に天守を置くとなると、それは厳密に申せば、織豊系城郭の縄張りの「求心性」の頂点(中心)とも言い切れなくなり、ちょっと外れてしまう? というやや困った現象が同時に起きたようにも想像するのです。


例えば、丘城(平山城)である岡崎城の復興天守内の模型を例に申せば、

高低差によって天守が「求心性」の頂点だと分かりやすいものの…



平城の駿府城でこうなると、求心性の頂点(中心)はいったいどこ???



こんな平城での困った現象をおぎなうための工夫が、実は前述のビスタラインや、天守じたいの「四方正面」の造形(とりわけ八棟造り)だったのではないか? という新たな興味(仮説)が私の頭の中に浮かんで来たのですが、果たしてどうなのでしょう。…




<八棟造りの「小傳主」は、破風の多い徳川版“見せる天守”の原型だったか>




関ヶ原の東軍大名・中村忠一が、駿府から米子に転封の後にあげた「四重天守」

友森工業様の地域貢献活動(CSR)のCG作品を引用 →右上端が四重五階の天守


さて、前回のブログ記事の最後で、天正の徳川時代の駿府城「小傳主」というのは、後の米子城天守にそっくりだったのではないか、などという勝手な推測を申し上げました。

そんな風に申し上げた理由としては、その後も家康とは縁の深かった「四重天守」であり、なおかつ四方正面(八棟造り)というスタイルであり、また唐破風を使用していて、しかも最上階には高欄廻縁が無い、という家康ゆかりの天守の特徴がいくつも揃ったうえに、中村忠一の移封を考えますと、忠一がそういう「小傳主」を意識的に米子の地に移植(増殖)したのだ、と想定しても全くおかしくないように感じるからです。


そしてもう一つ、家康の側の事情を想像しますと、前回に申し上げた時系列の主な出来事の間には、ある大事な出来事を書き加えなければならないでしょう。


天正13年
 徳川家康、第一回目の駿府城築城を開始。翌年には居城とする

天正16年
 4月、家康は聚楽第行幸に参列する

 5月(『家忠日記』より) 十二日、甲午、てんしゆの才木(ざいもく)のてつたい普請あたり候、家康様より普請ニせいを入とて御使給候、…

 8月、家康は豊臣秀長の大和郡山城を訪ねる

天正17年
 2月(『家忠日記』より) 十一日、己丑、小傳主てつたい普請當候、…



!! 大和郡山城天守の推定シミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)


ご覧のとおり、家康はこの時期に大和郡山城天守を目撃していたことになり、イラストは宮上茂隆先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)に基づいたものですが、このような天守を見た家康はきっと、東西南北・四面の破風の印象で、これが日本初の「四方正面」天守と見えたのではなかったでしょうか。


これまで当サイトでは、天守に「四方正面」が広く求められたのは徳川幕藩体制の確立と深く関わる事柄であり、それまでの織豊期の望楼型天守は明らかに「正面」や「側面」が存在していて、それらは城の大手や城下町、仮想敵の方角とピタリと合致していたはずだと申し上げました。(→天下布武の版図を示した革命記念碑か)

ところが幕藩体制下になると、天守は新たに、各藩の分権統治の中心をなすモニュメントとして役割が見直され、四方に広がる領国や城下町のすべての方角に正面を見せる必要が生じて、「四方正面」の天守が全国的に普及したのだろうと申し上げて来ました。


そういう意味では、大和郡山城天守は時代の変化を先取りしたデザインであったと申し上げていいのでしょうが、大和郡山城も平城に近い地形の城ですから、それを目撃した家康の心には、自らが初めて平城を居城にしたばかりでもあったためか、「四方正面」にもう一つ、別の動機(効果)を見い出したようにも想像できてしまうのです。


―――すなわち、自らが初めて建造する天守(小傳主)は、大和郡山城のような「四方正面」としつつも、さらに破風を増やした「八棟造り」にするならば、それは平城の縄張りの求心性の「自己表現」としても使えるのではないか!? という画期的な効果に気づいたのではなかったのかと。



【ご参考】 同じく平城の尼崎城の「四方正面」四重天守(※荻原一青「旧尼崎城」を引用)

これを築いた戸田氏鉄は、家康に近習として仕えた後、膳所城など四重天守の城の主を歴任した



そして、そんな家康の気づきが、天守におびただしい数の破風が設けられる引き金(トリガー)となり、その後の徳川の巨大天守のデザインにつながって行ったのかもしれません。

以上のように、駿府城「小傳主」は、城内で一基だけの天守建築だからこそ、余計に工夫が凝らされたとも思われ、家康の意地があらわれた部分と妄想するのですが、果たしてどうでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。