駿府城

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2016年09月14日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?






徳川家康の画期的な着眼か→ 四方正面(八棟造り)は平城の「求心性の自己表現」にもなる?


江戸後期の駿府城の体裁をかろうじて守った「坤(ひつじさる)櫓」/ 平成26年復元

これが例えば『東海道分間延絵図』の府中(=駿府)では…



天守と城下とのビスタ(vista/眺望)と言いますと、例えば岡崎城と大樹寺を結んだ一直線のビスタラインなどが有名ですが、似たようなことが駿府城でも言えるのかもしれず、ご覧のように東海道分間延絵図(文化3年完成)では、城の西側からの東海道の先(真正面)に、城内の重層の櫓が見えたかのように描かれています。

ご覧の三重櫓は、近年に復元された坤櫓とも見えますが、しかし地図上で厳密に線を引いてみますと、このビスタラインの真正面に建っていたのは、やはり本丸の「天守」に他ならなかった、ということがよく分かります。


明治22年 静岡市街図より



ためしに冒頭の絵と同じ「東海道分間絵図」の類いを見比べてみますと、時代によって、天守があった頃の描写が踏襲されたものもあり、また具体的な建物(天守か櫓か)がもう特定できなくなった絵図もあるようです。


九代目城代・三枝守俊の頃(延宝8年〜元禄8年)=天守が失われて45年〜



このようにして見て来ますと、「平城」という、平坦地に広がる城下町に囲まれた城においては、天守をどこに置くのか? という問題は、街道のビスタラインと連動したケースがいくつもあったのかもしれません。

そして当ブログはこのところ、聚楽第、広島城、駿府城といった「平城」を話題にして来ましたが、高低差のある平山城ならばともかく、まっ平らな平城の本丸の一遇に天守を置くとなると、それは厳密に申せば、織豊系城郭の縄張りの「求心性」の頂点(中心)とも言い切れなくなり、ちょっと外れてしまう? というやや困った現象が同時に起きたようにも想像するのです。


例えば、丘城(平山城)である岡崎城の復興天守内の模型を例に申せば、

高低差によって天守が「求心性」の頂点だと分かりやすいものの…



平城の駿府城でこうなると、求心性の頂点(中心)はいったいどこ???



こんな平城での困った現象をおぎなうための工夫が、実は前述のビスタラインや、天守じたいの「四方正面」の造形(とりわけ八棟造り)だったのではないか? という新たな興味(仮説)が私の頭の中に浮かんで来たのですが、果たしてどうなのでしょう。…




<八棟造りの「小傳主」は、破風の多い徳川版“見せる天守”の原型だったか>




関ヶ原の東軍大名・中村忠一が、駿府から米子に転封の後にあげた「四重天守」

友森工業様の地域貢献活動(CSR)のCG作品を引用 →右上端が四重五階の天守


さて、前回のブログ記事の最後で、天正の徳川時代の駿府城「小傳主」というのは、後の米子城天守にそっくりだったのではないか、などという勝手な推測を申し上げました。

そんな風に申し上げた理由としては、その後も家康とは縁の深かった「四重天守」であり、なおかつ四方正面(八棟造り)というスタイルであり、また唐破風を使用していて、しかも最上階には高欄廻縁が無い、という家康ゆかりの天守の特徴がいくつも揃ったうえに、中村忠一の移封を考えますと、忠一がそういう「小傳主」を意識的に米子の地に移植(増殖)したのだ、と想定しても全くおかしくないように感じるからです。


そしてもう一つ、家康の側の事情を想像しますと、前回に申し上げた時系列の主な出来事の間には、ある大事な出来事を書き加えなければならないでしょう。


天正13年
 徳川家康、第一回目の駿府城築城を開始。翌年には居城とする

天正16年
 4月、家康は聚楽第行幸に参列する

 5月(『家忠日記』より) 十二日、甲午、てんしゆの才木(ざいもく)のてつたい普請あたり候、家康様より普請ニせいを入とて御使給候、…

 8月、家康は豊臣秀長の大和郡山城を訪ねる

天正17年
 2月(『家忠日記』より) 十一日、己丑、小傳主てつたい普請當候、…



!! 大和郡山城天守の推定シミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)


ご覧のとおり、家康はこの時期に大和郡山城天守を目撃していたことになり、イラストは宮上茂隆先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)に基づいたものですが、このような天守を見た家康はきっと、東西南北・四面の破風の印象で、これが日本初の「四方正面」天守と見えたのではなかったでしょうか。


これまで当サイトでは、天守に「四方正面」が広く求められたのは徳川幕藩体制の確立と深く関わる事柄であり、それまでの織豊期の望楼型天守は明らかに「正面」や「側面」が存在していて、それらは城の大手や城下町、仮想敵の方角とピタリと合致していたはずだと申し上げました。(→天下布武の版図を示した革命記念碑か)

ところが幕藩体制下になると、天守は新たに、各藩の分権統治の中心をなすモニュメントとして役割が見直され、四方に広がる領国や城下町のすべての方角に正面を見せる必要が生じて、「四方正面」の天守が全国的に普及したのだろうと申し上げて来ました。


そういう意味では、大和郡山城天守は時代の変化を先取りしたデザインであったと申し上げていいのでしょうが、大和郡山城も平城に近い地形の城ですから、それを目撃した家康の心には、自らが初めて平城を居城にしたばかりでもあったためか、「四方正面」にもう一つ、別の動機(効果)を見い出したようにも想像できてしまうのです。


―――すなわち、自らが初めて建造する天守(小傳主)は、大和郡山城のような「四方正面」としつつも、さらに破風を増やした「八棟造り」にするならば、それは平城の縄張りの求心性の「自己表現」としても使えるのではないか!? という画期的な効果に気づいたのではなかったのかと。



【ご参考】 同じく平城の尼崎城の「四方正面」四重天守(※荻原一青「旧尼崎城」を引用)

これを築いた戸田氏鉄は、家康に近習として仕えた後、膳所城など四重天守の城の主を歴任した



そして、そんな家康の気づきが、天守におびただしい数の破風が設けられる引き金(トリガー)となり、その後の徳川の巨大天守のデザインにつながって行ったのかもしれません。

以上のように、駿府城「小傳主」は、城内で一基だけの天守建築だからこそ、余計に工夫が凝らされたとも思われ、家康の意地があらわれた部分と妄想するのですが、果たしてどうでしょうか。…







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2016年08月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか






ならば聚楽第チルドレンの筆頭・天正期の駿府城には「小天守」とともに大天守もあったのか


2013−2014年度リポートで慶長期の駿府城天守についてアレコレと申し上げましたが、その中では、慶長12年末の本丸火災と天守の再建に関して、次のごとき当サイト独自の「新仮説」をご覧いただきました。




―――これはつまり、本丸火災で焼けた天守というのは、そこに豊臣大名の中村一氏か内藤信成の時代からの「御天守」がずっと存在していて、それを包み込むような新規の石垣工事が行なわれ、その結果、“広すぎる天守台”がやや位置を変えて出現したものの、それらが本丸御殿もろとも焼けてしまった、ということではなかったのかという仮説です。

詳しい内容はリポートの方をご覧いただきたいのですが、このような「新仮説」であれば、従来説の(慶長12年末に焼失した「徳川」天守の)建設期間の極端な短さや、幕府御大工・中井正清の不自然な行動、といった矛盾点が一挙に解消されますし、さらには再建時にも繰り返された“広すぎる天守台”の由来までも特定できるかもしれない、という大きなメリットが期待できます。

で、このような「新仮説」の是非は、天守台の発掘調査でシロクロの決着がつくはずですが…


いよいよ発掘調査が始まった駿府城の天守台跡(8月25日撮影)

露出した大天守台の南西隅は、算木積みの隅石が割れているように見え…



隅石の大きさが本丸の石垣と同程度なのは、これが寛永の火災後の再築部分だからなのか?…


それにしても、当然ながら、こんなにデカい天守台を私は見たことがありません。



※上の拡大写真あり









!!! 天守台の一辺をおそらくはまだ半分も掘り切っていないのに、この土砂の量、というのが驚きですが(→多くは栗石?)、このことは現場の説明員の方も心配顔であったのが印象的でした。

と申しますのも、発掘中の土砂というのは簡単に捨てるわけに行かないようでして、開始された静岡市による発掘調査は、今後4年間をかけて駿府城天守台の解明を進めようというのですから、さらに大量の土砂が発生することは確実です。

よもや、それらの土砂は順次「埋め戻し」てしまう!?…のではあるまいと思いつつ、当サイトの「新仮説」のこともあるため、興味津々で今後の成り行きに大注目しております。



静岡市のホームページにある「駿府城跡天守台発掘調査の範囲」を引用

その初年度(H28年度)の範囲を報道した略図を引用

で、この報道の略図を当サイト「新仮説」の上にダブらせますと…



ご覧のように、初年度の調査は天守台の西辺が対象になっていて、より東側の「新仮説」に関わる部分が明らかになるのは、2年度目以降のことになるようです。




<では、天正年間の、徳川家康の第一回目の築城による駿府城には、

 「小天守」とともに大天守も存在したのだろうか?>





さて、今回の調査は、大きな方針の一つとして、天守台跡の地中には「今川期の遺構」があるのではないか、というテーマも掲げられていますが、前述のごとく、慶長年間の徳川時代はもちろん、その前の内藤信成や中村一氏の時代(→過去に瓦の発見例も)、そして第一回目の徳川家康による天正年間の築城(土塁の天守台?)などなど、「今川期」に達する以前にも、天守台石垣の中や下には色んな遺構が複雑に埋まっている可能性がありそうです。

そこで年代の確認のため、例えば天正10年、甲斐の武田氏の滅亡後に、徳川家康が初めて駿府城を得たあたりからの年表をご覧下さい。




このように家康による築城は第一回目・第二回目とあったわけですが、従来からとりわけ大きな「謎」とされて来たのが、第一回目の築城時に、文献上では「小天守」という文言が伝わっているものの、この時、果たして大天守も一緒に存在したのか? という問題でしょう。


(『家忠日記』より)

天正十六年五月
… 十二日、甲午、てんしゆの才木(ざいもく)のてつたい普請あたり候、家康様より普請ニせいを入とて御使給候、…

天正十七年二月
… 十一日、己丑、小傳主てつたい普請當候、…



天正年間の徳川「天守」が文字として現れた記録は、まさにこれだけ(関ヶ原合戦の前哨戦で戦死した松平家忠の日記)のようであり、前出の静岡市のホームページでは、この文言をもとに?天正16年5月12日に「駿府城天守完成」と紹介してありますが、これなどはやや拙速(せっそく)の判断のように感じますし、建物としての存在が確実視できるのは翌17年2月の「小傳主」=小天守だけ、というのが従来から言われて来た考え方です。

(※追記/『家忠日記』には同日の天正16年5月12日に「この日御天守なる」という文言もある、と一部で言われているのは、後世に注釈文として書き加えられた部分ではないでしょうか。でなければ、家康がこの日、普請に精を入れるよう使いを発した記述とも矛盾してしまいます…)

で、この問題で是非ともご確認いただきたいのは、駿府城で起きた主な出来事の“タイミング”でありまして、先ほどの年表をもう一度だけご覧下さい。




ご覧の赤文字の部分のとおり、第一回目の築城と、『家忠日記』の「てんしゆの才木」「小傳主」築造の記述とは、時期的なタイミングがやや異なっておりまして、その間に <聚楽第行幸への参列> というイベントがはさまっていた点に、ご注目をいただきたいのです。

私なんぞの勝手な印象としては、天正の徳川時代の駿府城は、仮称「聚楽第チルドレン」の筆頭と申し上げてもいい城だと思っているのですが、天守の築造と、聚楽第の訪問、という二つの事柄の関連性を考えますと、まさに前回の「広島城」と同じことが、駿府城でも起きていたのではなかったでしょうか?


(( 城の大手から見て <本丸の左手前隅角> の位置を広島城に当てはめると… ))



前回の記事では広島城天守(※江戸時代から昭和20年まで続いた天守)は西ヶ谷恭弘先生の指摘のように関ヶ原合戦後に福島正則が築いたものであり、その前の毛利時代は、聚楽第にならって本丸北西隅が天守台だけになっていたのではないか…

なおかつ、毛利輝元は上記の城絵図の位置に、言わば自前用の、純然たる望楼型の天守(≒小天守)をあげていたのではなかろうか? と申し上げたわけですが、そうした状況は、取りも直さず <「小天守」の記録しかない駿府城> においても、見逃せないポイントになって来るのではないかと思われるのです。

―――言うなれば、この度の聚楽第跡地の地中探査がもたらした聚楽第天守のありようによって、今や豊臣政権の有力大名たちの天守についても、解釈方法の「ドミノ倒し」が起きようとしているのかもしれません。



ここでも、「未完のパズル」がパチンッ! と綺麗にはまる音が聞えるような…


現状の駿府城公園内、「小傳主」はこの辺りに? →後方が天守台の発掘現場


駿府城の場合、それはきっと、人々が思う以上に大規模な「小傳主」… ひょっとすると“四重の天守建築”がここに建っていたのではないか?… と、私なんぞは秘かににらんでいるのですが。



【ご参考】中村忠一が駿府城から米子城に転封の後にあげた「四重天守」…





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年08月04日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続々「最後の立体的御殿」…屋根と破風の全貌を推定する






続々「最後の立体的御殿」…屋根と破風の全貌を推定する


破風の配置はまったく同じ手法か/駿府城天守?と名古屋城大天守


いよいよ、当サイト仮説の駿府城天守について、前回までに申し上げて来た「小さなコロンブスの卵」や小堀遠州の関与、そして「築城図屏風は駿府城天守の平側の立面図をもとに無理やり描いたものでは?」といった推理をすべて突き合せた場合、どういう屋根や破風の構成になりうるのか、その推定図をご覧いただくことにしましょう。


その際に注意すべきは、やはり諸文献の駿府城天守の記録のうち、「唐破風」の位置ではないでしょうか。

何故なら、ご承知のとおり「唐破風」は、文献によって四重目にあったとする記録と、五重目にあったとする記録があって、その原因を想像しますに、おそらくは「どちらともつかない」配置であった疑いもありうるからです。


例えば、据唐破風(すえからはふ)…/中井家蔵「二条城天守指図」をもとに作成


ご覧の据唐破風(向唐破風や置唐破風ともいう)の場合、この寛永度の二条城天守ほどに破風の規模が大きいと、上の屋根にも接してしまい、遠目にはどちらの屋根の破風なのか、判断を誤る危険性もあったのではないでしょうか。

まさにこれと同じ事が、駿府城でも発生していたのではないか… と申し上げたいのでして、より具体的に申せば、冒頭の仮説で平側には六重目に大きな唐破風があったと考えておりますので、諸文献の「唐破風」は妻側、つまり大手門の側から見えた四重目と五重目の屋根の間にあったものと想定しました。


全ての仮説を突き合わせた、駿府城天守の屋根と破風の推定図


ご覧のうち妻側(図では左側の面)の唐破風は、とりあえず平側のものと同じ規模としましたが、このように全体の印象は、唐破風が据唐破風であること以外は、たとえ六重目に入母屋の屋根がかかっていても、名古屋城大天守と極めて似ていたのではないでしょうか。




と申しますのも、前回記事の「四方正面」の画期的デザインが本当に小堀遠州によるものなら、おそらくはもっと細部のデザインに至るまで、駿府城から名古屋城へと踏襲されたはずだと思うからです。

ご承知のように名古屋城大天守の印象を決めているのは、破風の配置方法だけでなく、他の天守よりも少し強めの屋根の反りだとか、破風が軒先近くまでせり出している点などにもあって、こうした細かなニュアンスの出し方は、元々の設計者が「小堀遠州」だと思えば、実に合点のいくところでしょう。

ですから、そういう手法がすでに駿府城天守で試されていた場合、屋根の印象はずいぶんと似ていたように思われるのです。


小堀遠州(ウィキペディアより)


また何度も申し上げたことで恐縮ですが、やはり織豊期の天守は、政権の版図を示す記念碑として明らかにベクトル(攻略の方向性)を持っていたように感じられてならず、一方、徳川幕藩体制下の天守は、そうしたベクトルを捨てて、あくまでも領地や城下町の中心(分権統治の象徴)として「四方正面」を強調した層塔型天守が好まれたのでしょう。

そうした中で、小堀遠州のずば抜けた才気は、織田信長が創始した天主(天守)に対して、その根本的な変質をいとも軽々と具体化して、すんなりと世間を納得させてしまった感があり、誰がその依頼者(発注者)かという興味は別として、遠州こそが“世紀の妙案”をひねり出した張本人であろうと申し上げたいのです。


ちなみに上記のイラストでは、築城図屏風にならって最上階にも高欄を描きましたが、これは前々回記事の「実用上の機能は三重目までで完結か」の仮説にしたがえば、彦根城天守などと同様の、見せかけの欄干であったのかもしれません。




<ならば、屏風絵の初重の大ぶりな千鳥破風の正体は??>






さて、一連の仮説の最初から懸案になっているのが、ご覧の千鳥破風(入母屋破風?)の正体であり、今回は、これについても一つの解釈(解決法)を申し上げておきたいと思います。


そのための第一の着眼点は、ご覧の破風が <すぐ上の屋根の下に収まっている> かのように描かれた点でして、普通、これだけの幅(桁行と同じ)であれば、それは上の屋根を突き抜け、さらに上の屋根に接するほどの高さであってもおかしくありません。

しかし屏風絵は、そうではない… という点を最大限に解釈しますと、これはひょっとすると、天守一階に小規模な平屋の「付櫓」があり、その付櫓の入母屋屋根が立面図に一緒に記載されていて、それが絵師の混乱を誘発したのではあるまいか… という推理も出来そうなのです。


当ブログ仮説の図でその「付櫓」の範囲を想像すると

天守一階の南東角から東側へ、張り出し分がおおよそ4間×4間の付櫓か



ここでお願いしたいのは、ご覧のような付櫓の状態と、その一方で、問題の立面図には平側(図では右側)から見た建物(天守と付櫓)だけが描かれていたら… という、ちょっと複雑なシチュエーションを思い描いていただきたいのです。

つまり、その場合、絵師が見たであろう立面図は、おそらく文献の記録どおりの駿府城天守と、その一階の左端に入母屋屋根の小屋が一緒に張り付いたような図であったでしょう。


そして、もしもそういう状態で、絵師に「これで四方正面の天守を描け」という注文が来たら、どうなるでしょうか。

…仮説の、仮説の話ではありますが、絵師が大変な混乱をきたすのは間違いありません。


勿論、そのままの状態では「四方正面」になりえず、また駿府城の特異な天守台の状況も知りえない絵師は、かなりヤケッパチな(「とにかく四方正面であればいいのだ…」といった)気持ちで、問題の描画にたどり着いたのではないか、というのが私の想像力の結論なのです。



しかも立面図にあったのは「石落し」ではなく「唐破風の玄関」だった??


そこでもう一つ気になるのが屏風絵の「石落し」でして、これもまた同じ原因から、絵師が立面図を見誤って描いた箇所ではないかと思われます。


ご参考)名古屋城の本丸御殿に復元された唐破風屋根の玄関

(※名古屋市ホームページに掲載の完成予想イラストをもとに作成)




ご覧の推定図でお察しのとおり、付櫓には当然のごとく玄関が設けられていたはずですが、そこに名古屋城の本丸御殿などと同じ唐破風屋根があった可能性も十分にありうるでしょう。

それが、問題の立面図の上ですと、ちょうど付櫓の左側に飛び出すような形で描かれることになり、しかもそこに地面の表記がたまたま無かった場合、それを絵師が「石落しか」と誤解しても無理はなかったように感じられるからです。


これまでの「立面図」仮説等を全て突き合せた、謎解きの結論


ご覧の玄関は、仮説で申し上げて来た「露台」の下を通って入る形になりますが、天守(御殿)の右手前という位置関係から、駿府城天守はやはり「最後の立体的御殿」として、名古屋城の本丸御殿などと同じ「雁行」スタイルを踏まえていたことにもなりそうです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年07月21日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について






続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について


破風(はふ)の見本市のような彦根城天守


そもそも天守と言えば、何故これほどまでに「破風」だらけの建物になったのでしょうか…… この素朴な疑問に対する明快な答えは、思えば過去にも殆ど無かったような気がいたします。


で、このことは、当ブログがスタートしたばかりの頃の記事「破風は重要なシグナルを担った」でも一度、扱った問題です。

そして不覚にも、その記事の中であっさりと触れておきながら、今日まで4年以上もほったらかしにしておいた、破風の配置方法に関する「小堀遠州が介在した作意と画期」について、今回、ようやく有態に申し上げられることになりそうです。

それは前回も申し上げた「駿府城天守は実用上の機能が三重目までで完結していた」のならば、四重目以上は何だったのか? という話題が、その説明になりそうだからです。




名古屋市博物館蔵「築城図屏風」より


ご覧の絵はひょっとすると、絵師が駿府城天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに、「四方正面」の天守を無理やり描いたものではないのか… という以前に申し上げた“仮説”を、改めて分かりやすくご覧いただくために色を加減してみたものです。

右側のカラーの部分が、立面図などにあった部分ではないかと思われ、こうして見直しますと、一見、複雑きわまりなかった破風の状態も、さほど不自然な配置ではないことが分かって来ます。


破風の配置はまったく同じ手法か/駿府城天守?と名古屋城大天守


ご覧のとおり、左右の天守は、屏風絵の初重の大ぶりな千鳥破風を除けば、まったく同じ手法のもとに配置されたと申し上げてもいいのではないでしょうか。

ちなみに、屏風絵の方がもし駿府城天守だとしますと、左右の城はともに、小堀遠州(こぼり えんしゅう)が作事奉行として築城に関与した城です。


そして何より肝心なのは、これらは、建造の時期から言えば、徳川特有の破風配置の第一号であった可能性でしょう。


これ以前にも破風を多用した天守としては、当サイトが仮に「唐破風天守」と申し上げて来た、加納城天守や姫路城天守(および2012年度リポートの江戸城天守)などもあったわけですが、それらは決して「四方正面」を強調するためのデザインであったとは言えません。

ところが慶長後期に入ると、名古屋城など、徳川幕府が直轄で建造した巨大天守において、平側と妻側にほぼ同数の破風を配置しつつ、二連と単独の高さを互い違いにして美観を高め、それらの効果で「四方正面」をいっそう際立たせた、画期的なデザインが登場しました。


「四方正面」を際立たせた破風の配置/名古屋城大天守(1959年外観復元)


厳密に申せば、この名古屋の築城以前にも、例えば福井城天守や冒頭写真の彦根城天守など、最上重に「唐破風」を設けつつ、それ以下の各重で<似たような配置>を行った例もあったわけですが、写真のような、後の寛永度江戸城天守にもつながる<最も整然とした配置方法>は、ひょっとすると、駿府城天守に始まっていたのではあるまいか… と申し上げたいのです。

そう申し上げる最大の動機は、この件はおのずと、時代が徳川幕藩体制に向かう中で、天守の質的な転換(分権統治の象徴にふさわしい四方正面)をみごとに表現して見せた画期的デザインは、いったい誰の発案だったのか… という一点に集約されると思うからです。


「遠州好み」と言われる桂離宮・松琴亭の市松模様(画面左側)

小堀遠州の作庭 切石の直線・直角で囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)


小堀遠州と言えば、直線的・幾何学的なデザインも大胆に採り入れつつ、江戸初期の建築・庭園・茶道をリードして、いわゆる「綺麗さび」の美を生み出した巨匠として知られています。

そういう小堀遠州が公儀作事奉行として、将軍の居館から内裏や寺社の造営を取り仕切った時代、作事の現場を担った最大のパートナーが、幕府御大工の中井正清と正純の父子であったと言われます。


ならば、駿府城天守の設計者はどちらであったか?と言えば、そこは諸先生方もはっきりとは明言しにくい様子ですが、亡くなった内藤昌先生は「そのデザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」(『城の日本史』)とまで言い切っておられました。

かく言う私も、ここまで申し上げた内容から、かつて森蘊(もり おさむ)先生が「時のアイデアマン」と評された小堀遠州の方に、かなり大きなアドバンテージがあると感じられてならないのです。




<文献上にのこる駿府城天守の「四基の隅櫓」
 それは大久保長安が進言した、天守台上?の四つの御金蔵が原点だった>





長安所用の頭巾(南蛮帽子)城上神社蔵/島根県庁ホームページより


さて、大久保長安(おおくぼ ながやす)という人は、東京の八王子に在住の私にとっても、けっこう身近なはず(※市の中心部に長安の陣屋跡あり)なのに、なかなか地元民も話題にしない、黒い大きな影を引きずった人物だという印象があります。

猿楽師の家に生まれながら、金山経営の手腕を買われ、幕府草創期の勘定奉行にまで登りつめ、巨額の財政を取り仕切った長安…。

そんな長安が、駿府城天守の「四基の隅櫓」増築の言い出しっぺだった、という話が『古老夜話』にあり、隅櫓・多聞櫓説を支える重要な文献とされています。

それは慶長13年(火災の翌年)の記述でして、徳川家康が天守を再建したいとの意向を示したところ、「石見(大久保石見守長安)」がすかさず、ある進言をしたという話です。


(『古老夜話』より)

駿河御天守御たて被成度思召候へとも、金銀御不足ゆえ御立不被成、此儀を石見承り、金子差上可申よしにて、三十万枚差上候、御天守と四方に御金くら御建なさる、益なき事と御意なされ候、そこにて石見金子の儀は何程にても差上可申候間、御建可被成よし申上る、殊の外御満足なされ、四方に三かゐの矢倉御たて被成候


この文面によれば、天守再建の財源を案じていた家康に対して、長安が、金子(きんす)「三十万枚」を献上しますので、どうぞ天守と四方の御金蔵をお建て下さい、と進言したところ、家康はそれを「益なき事」と断じたらしいのです。

しかしそこで引き下がっては面目丸つぶれと感じたのか、長安は“何を建てても結構ですから”金子三十万枚は献上します、と再度、進言したところ、家康はとたんに満足して「四方に三かゐの矢倉」を建てた、という経緯だったようなのです。


で、この文面の焦点は、二つあると思われ、一つは「四方に御金くら」が本当に天守台上のことだったのか? という問題であり、もう一つは、この話は最終的に天守の話が消えていて、ただ「四方に三かゐの矢倉」が建つまでの裏話になっている点でしょう。

つまりこの話は、肝心かなめの「御金蔵」や「四方の三階櫓」がどの場所の話なのか、という大切なポイントが、ぼやけているのではないでしょうか。


大阪城にのこる金蔵と復興天守


例えば、当ブログの記事「だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?」でも申し上げたとおり、天守台上に御金蔵を建てる、というのは、そう突飛な話でもなくて、大久保長安の頃までは、天守が御金蔵を兼ねるというのは、ごく自然な姿であったようなのです。

ですが、上記の文面の、御金蔵を「四つ」に分けて、天守のまわりに配置するというのは、いったいどういう意味があったのでしょう。

これはなかなか理解できず、強いて申せば、本丸御殿の火災の直後でしたから、御殿から離れた天守台上に“四つに分散配置”して、天守からの延焼のリスクも軽減するつもりだったのでしょうか。


それにしても(前回の記事のとおり)天守の一階二階は「住宅」建築であったわけですから、どうも話がチグハグというか… 
いえ、そういう点を、まさに家康が「益なき事」として却下したのかもしれませんが、いずれにしても、長安の進言を「天守台上の四つの御金蔵」と考えるのは、チョット無理があるように思われてなりません。


むしろ、長安の真意は「金子三十万枚で、天守の再建と、城内の四方に御金蔵を分散して配置されてはいかが…」という意味の提案だったと解釈する方が、現代人の我々にはずっと自然に感じられます。

で、それをまた「益なき事」と断じた家康の考え方も、まぁ分からないではありません。



復元される二ノ丸「坤櫓(ひつじさるやぐら)」完成予想図/静岡市ホームページより

ちなみに二ノ丸の巽櫓・坤櫓・清水隅櫓はいずれも内部三階!だった


以上の結論として、やはり四基の三階櫓というのは、天守台に関わるものではなかったのではないでしょうか。


さらに『古老夜話』を隅櫓・多聞櫓説を支える文献として見た場合には、文章のニュアンスからして、おそらく四基の隅櫓は(完成までに2年は要したはずの)天守よりも、ずっと早くに完成したことになりそうです。

となると、話題の「天守二重目の高欄」は、そういう最中に、もう目の前に櫓群が立ちはだかる状況下で、施工や仕上げ作業が進められたことになるでしょう。

全体の計画がチグハグなのに、管轄の壁が越えられず、個々の作業はそのまま進んでしまう… なんていう話は今でもよくありますが、そんなワビシイ状態のなかで「最後の立体的御殿」は誕生したのでしょうか。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年07月07日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?






「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?


3月の記事でご覧いただいた「小さなコロンブスの卵」


ご覧の図のように、文献史料にある駿府城天守の各重の規模(桁行・梁間)は、実は六重目だけ、桁行と梁間がひっくり返った形で記述されたのでないか… そう考えた場合は、きれいに文献どおりの「五重七階」で復元できることを申し上げました。

そしてもう一点、是非ともご注目いただきたいのが、文献によって数値が二種類 伝わっている、三重目なのです。


ここは雨戸で閉じ切ることも出来る、半間幅の内縁がめぐっていたのではないか…


これまでにも、この三重目の規模のあいまいさについては、例えば大竹正芳先生をはじめとして、「三階は内側に幅半間の回縁がめぐり、外壁は雨具仕立で高欄が付けられていたとする説もある」(大竹/1994)といった考え方が示されていて、私なんぞもこれに説得力を感じてまいりました。

雨戸というのは、当時、豊臣秀吉などが最新式の建具として使い始めたものとも言われますし、聚楽第大広間の平面図に「雨戸」と書き込まれたり、大坂城二ノ丸の秀長屋敷にもあって、訪れた徳川家康らが雨戸を一斉に閉める音に驚いた、などという伝承もあったりします。


そうした最新式の「雨戸」は、さっそく天守にも、とりわけ風雨がきつい最上階の望楼で重宝されたようで、ご承知のとおり熊本城では、大小天守ともに、最上階はいちばん外側に幅半間ほどの狭い内縁(落縁)がめぐっていて、そこに欄干があり、さらに雨戸を閉められる構造になっていました。


最上階に雨戸の戸袋 / 独立式時代の大天守を推定した当ブログ作画より


これは小倉城天守も同じ形式を(八代城や柳川城も?)採用したようで、やはり半間幅の廻縁高欄の外側を、雨戸がおおう形であったと言います。

しかも小倉城ではこの階を「黒段」と呼び、それは雨戸や戸袋がすべて黒塗りだったため、全部を閉じ切ると、階がまるごと真っ黒に見えたからだそうです。


ひょっとすると、最後の立体的御殿も、真っ黒な三重目??


【雨戸の高さの確認】駿府城天守の真ん中で東西方向に縦切りにしてみる


すると駿府城は天守台があまりに巨大なので…(堀の水底からの高さが11間と伝わる)



ちょっと強引かもしれませんが、このように見て来ますと、当時、天守の最上階で重宝された雨戸が、駿府城天守では三重目にあった可能性があるとなれば、それは取りも直さず、三重目が実質的な望楼(物見)だったのではないか… という想像も働くわけなのです。

そして上図のように、その高さ(位置)は、巨大な天守台のおかげで、他の有力大名の天守の最上階に匹敵していたのですから、あながち暴論とも言えないのではないでしょうか。


3月の記事から「二重目の高欄の目的」を話題にして来ましたが、実は、そのすぐ上に、実質的な望楼(最上階!)があったというならば、駿府城天守においては <実用上の機能は三重目までで完結していた> という可能性も出て来ることでしょう。

じゃあ、その上の階はいったい何なんだ!?… という疑問は次回の検討課題とさせていただいて、ここはやはり、天守台上の周縁を取り囲んでいたとも言われる「四基の隅櫓と多聞櫓」は、二重目の高欄からの眺望をさえぎり、なおかつ実質的な望楼(三重目)にとっても視界の邪魔だったかもしれない、となれば、ますます居場所が無いように思われて来るのです。




<メカニズムの源流… 宮上重隆「金閣」復元図との突き合わせ>






さて、ここでちょっと話が飛ぶようで恐縮ですが、京都・鹿苑寺の「金閣」は、一・二階が同一の規模であり、一階に落縁、二階に高欄がめぐっている点で、駿府城天守と様式が同じであると言われます。

そしてさらに、室町幕府の三代将軍・足利義満による創建時から、ちょうど徳川家康が生まれる数年前まで、金閣は、形や色がそうとうに現状(昭和の再建)とは違うものであった可能性が、宮上茂隆先生によって指摘されました。


宮上茂隆「金閣」復元図 / 引用:『週刊朝日百科 通巻558号』1986年より

宮上先生の下記の解説文に沿って、着色を当ブログが修正してみたもの


ご覧の図は、1950年(昭和25年)の放火で焼失した金閣は、明治時代の解体修理の際に、個々の部材に至るまで詳細な実測図が作られていて、それらをもとに、宮上先生が創建時の様子を復元した図です。


(宮上茂隆解説『金閣寺・銀閣寺』1992年より)

1.当初、三階は内外金箔押しであったが、三階床と縁の床・高欄・腰組はすべて黒漆塗りであった。
(中略)
2.当初、二階は、高欄を除いて内外ともすべて黒漆塗りだった。現在は三階と同じように、床以外すべて金箔押しになっている。
(中略)
3.当初、三階の中心は、一・二階の西側主室の中心と一致していた。二階屋根の東部は入母屋屋根であった。屋根は檜皮葺きであったとみられる。現在の三階中心は、一・二階の全体の中心と一致している。屋根は腰屋根で、柿葺きである。


現状の金閣に比べますと、三階の位置がまるで違うこと、そして二階がほぼ真っ黒であったことに驚いてしまいますが、こういう結論に至った、宮上先生の分析(解説文)には説得力が感じられます。

そして特に、次の部分が重要であるように、私なんぞには感じられてなりません。


(宮上先生の前掲書より)

(八代将軍の足利)義政が発した質問に対する僧 亀泉集証(きせん しゅうしょう)の答えから、金閣は舎利殿であること、二階の観音像は、当初の観音が乱中に失われ、乱後に替わりのものを安置したこと、三階は阿弥陀三尊と二十五菩薩来迎像を安置していたが、いまは来迎像の白雲だけしか残っていないことがわかる。

舎利殿は、義満が敬愛した夢窓疎石(むそう そせき)が作庭した西芳寺の、庭園内中心建物であった。一階は座禅の床となる住宅建築、二階は舎利を安置した禅宗様(唐様)仏堂だったとみられる。

金閣が、釣殿(つりどの)である住宅建築の上に、仏堂(二階は和様、三階は唐様)を載せる構成になっているのは、それを模したものということになる。





つまり金閣は庭園の楼閣ではあるものの、西芳寺の舎利殿にならって、一階を住宅建築とし、二階・三階を本来の目的である仏堂(舎利殿)という形で、立体的に構成した建物だというのです。

しかもその構成に忠実な色彩として、一階は素木(しらき)造り、二階・三階は「黒塗り」「金箔押し」という風に、内外の仕上げも使い分けていたことになります。

ちなみに宮上先生の解説文によれば、金閣がこうした創建時の状態から、現状に近い姿に改築されたのは、天文6年(1537年)の修理の際ではないかとされています。




そこでもう一度、駿府城の三重目に注目しますと、あくまでも「三重目が黒塗りの雨戸であったら」という仮定の上の話ではありますが、慶長12年末の火災ののち、この天守が巨大な天守台穴倉?の底面の上に再建されることになった時、いったい誰がそこに「金閣に似た」構造や色彩を提案したのか…

三重目が「黒塗り」という、様々な意味を踏まえた意匠であったのなら、それこそ、発案者としての「小堀遠州」の影が、(私なんぞの頭の中には)チラついてならないのです。





追記)ちなみに宮上先生の復元図には、当サイト仮説の安土城天主の「天守指図」新解釈が、大きな影響を受けておりますことを、この際、白状いたします。このことには、実は「天守指図」五重目と、金閣の創建時の二階・三階の内部構造が似ている、という思わぬ事情が反映されています。


そしてこれは、構造面だけでなく、階下の住宅と、高層階の別目的、という建物の使用形態にも話が及ぶものです。…





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2013年04月14日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!駿府城天守のまわりは付櫓か? それとも広大な「露台」か!?






駿府城天守のまわりは付櫓か? それとも広大な「露台」か!?


天守から何が見えたのか/…反対の南側には太平洋の水平線も

北東に見える富士山(この写真はサイト「BLUE STYLE 第二事業部」様からの引用です)

(※静岡県庁別館21階からの撮影/写真左下が駿府城公園の一部)


お話は前々回からの続きになりますが、大日本報徳社蔵の城絵図によって、これまで「天守台四隅の隅櫓」と思われた墨塗り部分が、よくよく見れば天守にしっかりと接続していることは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じています。

では、天守台上の幅広い墨塗りをどう解釈すべきか?と申しますと、天守と接続していることから該当するのは、まずは下写真のような「付櫓(つけやぐら)」ではないでしょうか。


福山城天守に接続した付櫓(園尾裕先生所蔵の古写真より)



もしも古写真のような付櫓の類であったなら、図の駿府城天守に登閣した者は、そのまま二階から水平移動で、天守のまわりの付櫓に入ることが出来たでしょうし、さらに歩を進めて天守台周囲の風景を眺めることも出来たでしょう。

ですから、こうした構造であれば、前々回に引用させていただいた八木清勝先生の懸念(天守二階からの眺望の問題)は、もしかすると、取り越し苦労になるのかもしれません。

で、多少、前々回とダブりますが、もう一度だけ、八木先生の文章を確認しておきますと…


(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守の二階に高欄を設けたのは、二階からの眺望を得るためと思われる。
天守台上の地面と外側石垣との差は十二尺五寸(約三・八メートル)で、二階床面がわずかに外側石垣の天端より高い程度である。
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでの建物である。
少なくとも富士山や臨済(りんざい)寺、浅間(せんげん)神社を見渡せる西北から東にかけての方角には、二階からの眺望を妨げる、多聞櫓のような高さ二十尺(約六メートル)を超える桁行の長い建物は建てられなかったと思われる。



ご覧の文面でお気づきのとおり、八木先生の指摘で肝心かなめの部分は、懸念の発端が「二階に高欄を設けた」のは何故か? という、高欄の目的にある点です。

ですから「付櫓」であってもダメ…… と言いますか、とにかく天守二階の高欄からの眺望をさえぎるものは、それが何であれ、天守の設計と矛盾してしまうだろう、という考え方なのです。

(※この観点は、前々回も申し上げた「隅櫓や多聞櫓は文献史料に一言も書かれていない」という件も深く関係して来るでしょう)

まぁ細かい事をつつくようですが、この部分が一番大事なキモになるわけですから、それにしたがって第二の可能性を探ることにしますと、次に浮上して来るのが、ちょっと意外な「露台(ろだい)」なのではないでしょうか。!!


露台造りの実例:手前の板張り部分が厳島神社の平舞台(国宝)

(※この写真はサイト「日本の遺産〜日本で出会う遺産」様からの引用です)


露台とは、ご覧のように屋根の無い、御殿から張り出した広い縁側のような構造物でして、一般にはその上で池庭を鑑賞したり、宴席を設けたり、という目的で造られて来たものです。
ただし写真の厳島神社「平舞台」の場合は、これそのものが本殿の前の「庭」という位置づけだそうです。

そういう言わば遊興施設?の一部ですから、天守のまわりに露台、というのは前代未聞のことで、またまた私の妄想癖が始まった(…)とお感じになるかもしれません。


ですが、天守のまわりの天守台上に(どういう目的なのか)空地を設けた事例が歴史的にいくつかあったことも、ご承知のとおりです。

例えば以下の各天守で、その空地の目的が判明しているものは一つも無く、これらはおそらく、過去の何らかの形態のなごりではなかったのかと、私なんぞには感じられてなりません。

・会津若松城天守
・小松城本丸御櫓
・金沢城御三階櫓
・安土城天主(当サイト仮説)等々


一方、これらと駿府城天守との違いは、駿府の方には大きな「穴倉」状のくぼみがあることで、言葉を換えれば、天守台上が大きな矩形の石塁で囲われている点でしょう。

ですから、露台でその上を覆ってしまうのなら、何故、わざわざ天守台を石塁で囲んだのか… この場所は防御的なのか開放的なのか、方向性がはっきりせず、設計に矛盾が生じるではないか… といった疑問は当然のことです。


この件に関しては、以前のブログ記事でも申し上げた、駿府城天守の完成までの特異な経緯(駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか)や、下図の名古屋城との相似形の裏に、疑問に対する答えや真相が隠れているのではないかと勝手に想像しております。




これについてはすぐに答えが得られるわけでもありませんので、ここは、今回のお話を最後まで申し上げてしまいますと、天守のまわりに「露台」という前代未聞の形でスペースが設けられたとしても、正直申しまして、私はさほど違和感を感じません。

何故かと申しますと、以前にもご覧いただいたイラストですが…


天守のいちばん原初的なイメージ 〜織豊期城郭の求心的な曲輪配置の頂点に〜

 
ともに派生形か… 天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説) / 本丸石垣の一隅に建つ高知城天守(現存)


ご覧のように、そもそも最初の天守は、おそらく敷地の台上にタップリと空地があったのだろうと想像しているからです。

ですから駿府城天守のまわりに広大な「露台」がめぐっていたとしても、それは全く奇異なことではなくて、むしろ天守の発祥に関わる、原初的な形態を踏まえた(才気あふれる)デザインなのだと感じられてなりません。

そこには中国古来の「台」の伝統も垣間見えるようで、駿府城天守の造型に小堀遠州が関与した可能性は低いとも言われますが、もしも今回申し上げたような構造が天守の周囲に施されていたなら、そこはまさしく、大王の「国見(くにみ)」の場にもふさわしい気配が漂っていたのではないか… などと思わず空想してしまうのです。


広大な露台に囲まれた、新「王朝」府の天守か






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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城の再発見!続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する






続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する


これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…


大雑把に描いたものと思われた「黒い墨塗り」が、発掘調査等に基づく天守台に当てはめてみると、天守の部分が「10間×12間」に測ったようにジャストフィットしてしまう!!
この意外な現象は、大日本報徳社の城絵図に対する、これまでの見方を改める必要性を問いかけているのではないでしょうか。

とりわけ「四隅に独立した隅櫓」とされて来た墨塗り部分が、原資料の城絵図では天守にしっかりと接続していることは、これまで全く省みられなかった点です。

少なくともこの点だけは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じます。
ということは、これらは最低限、「隅櫓」ではなく「付櫓(つけやぐら)」か何かと考えるべきであって……



<閑話休題>



まことに恐縮ながら、このように前回から続く構造的なアプローチのお話はここで一旦、次回に先送りさせていただきまして、今回は是非とも、当ブログが「究極の立体的御殿」として駿府城天守にこだわる理由について、ちょっとだけ、念押しさせていただけないかと思います。

と申しますのは、この件ではどうも筆者だけが勝手に興奮しているようで、こうまでしてお話を続けている心理的な背景が、今ひとつ、伝わっていないような気がしてならないからです。


諸書に「朱茶色の柱」と解説される築城図屏風(名古屋市博物館蔵)の天守


前回も申し上げたとおり、駿府城天守を描いた絵画史料としては、ご覧の「築城図屏風」がたいへん有意義な点を含んでいると思われ、この描写を一方の「東照社縁起絵巻」と比べた場合、いくつもある相違点のうち、最も特徴的なのは「朱茶色の柱」でしょう。

この「朱茶色」は屏風の経年変化でどれだけ退色した状態か分かりませんが、赤系統の一色で塗られた柱や長押、妻飾りなどの描き方は、全国の丹塗りの神社仏閣でよく見かける手法になっています。


例えば、筑波山の日枝神社・春日神社の拝殿(写真はサイト「Thanking Nature」様からの引用)

築城図屏風の描き方も、破風の豕扠首(いのこさす)などソックリ


破風内で斜め材と束を組み合わせた「豕扠首」は、神社仏閣や官衙(かんが)建築でポピュラーな妻飾りであり、写真の拝殿は江戸初期・寛永10年の造営です。

一方、このように赤い柱や長押を建物全体に見せた天守は、現在、屏風絵など美術品の表現でしか見られませんが、しかし天守の歴史において“赤い部材”は皆無だったか、と言えば、そんなことは無いわけです。


徳川家康は安土城で何に心ひかれたのか? と想像すると…


前々回も申しましたが、天正10年、家康主従は本能寺の変の半月ほど前に安土に招かれ、その様子は『当代記』の「五月十五日、家康安土へ着給」で始まるくだりに紹介されていて、安土滞在の最終日、一行は山頂主郭部の御殿や天主を一日かけて見物することが出来たようです。


(『当代記』より)

廿日家康を高雲寺の御殿(※江雲寺御殿か)へ被稱(あげられ)、酒井左衛門尉を始家老之衆、并武田陸奥守穴山事(※穴山梅雪)被召寄、殿守見物仕、さて元の殿へ帰 膳を被下、夜半迄色々被盡美


この約二ヶ月前に“朝敵”武田勝頼を共に討ち果たし、今度はその家康に安土城の天主をじっくり見せた織田信長の底意を推し量りますと、改めて「天下布武」の体制転換の構想を、同盟者の家康にも理解させたい、という願望があったように感じられてなりません。

例えば以前のブログ記事でもご紹介した、『朝日百科 安土城の中の「天下」』の解説文の「安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないか」というほどのニュアンスが、この時、家康らに伝わったのかどうか分かりませんが、その後の家康の生涯を見ますと、慶長20年の禁中並公家諸法度(きんちゅう ならびに くげしょはっと)によって、徳川幕府が天皇から日本国の大政をあずかる「大政委任」という形に持ち込んだことは重要でしょう。

そういう政治動向の影響なのか、江戸初期、徳川親藩をはじめ大名らの間では「王朝風」の美術品や庭園・建築等が盛んにもてはやされ、また家康自身は外国人から「皇帝」と呼ばれたことなどは、当時の公武関係の(逆転した)空気を物語っているのかもしれません。


安土城天主の「赤」の復元方法 … 宮上茂隆案 / 内藤昌案 / 兵頭与一郎案


そうした時流の推移を踏まえて、家康の安土訪問を振り返りますと、安土城天主は中層部分に「赤い漆を塗った木柱」(フロイス『日本史』柳谷武夫訳)があり、ひょっとすると家康は、まばゆい金箔瓦や金具よりも、むしろその“王朝風の赤い柱”の方に心ひかれたのではあるまいか… などという妄想に、私なんぞは捕らわれてしまうのです。

そうであったとすれば、色んな事柄に一本、筋が通るような気がしてならないからです。


平安京の赤色の再現 / 近代以降では平安神宮の蒼龍楼(1894年造営)など





<駿府城の普請奉行・小堀遠州(こぼり えんしゅう)
 王朝的古典建築に通じた遠州は、天守の設計には関与しなかったのか??
 ならば、あの初重・二重目の御殿風の造りは、いったい誰の発意だったのか…>





小堀遠州(頼久寺蔵の肖像画/ウィキペディアより)


さて、ここで是非とも申し上げたいのが、下記の森蘊(もり おさむ)先生の古典的著作で「時のアイデアマン」と評された、小堀遠州の存在なのです。(※当ブログはようやく遠州について触れられる段階に来ました…)


(森蘊『小堀遠州の作事』1966年より)

将軍家が作介(=小堀遠州)の実力を認めはじめたのは、慶長十一年(一六〇六)後陽成院御所の作事奉行に任じ、同十三年(一六〇八)駿府城奉行をつとめさせた時以来であって、その機会に従五位下遠江守として諸大夫の一人に取立てられたのである。
更に慶長十六年(一六一一)からは禁裏の造営、十七年(一六一二)名古屋城天守の修復にと、遠州の活動範囲が急にひろがっている。

(中略)
遠州は前述の如く諸大名が単に賦役的に名を連ねた作事奉行と同列ではない。
また中井大和守正清、五郎介正純親子のような家系による大工頭や棟梁というような職人的技術家でもない。
幼少の頃から作事奉行としての父新介の現場指導振りを見聞し、物心ついてからは南都一乗院はじめ王朝的古典建築の意匠を理解し、それを時代とともに移り変る宮廷生活に適合させるよう便化すべきを提案した。



小堀遠州の頭抜けた才能を示した、仙洞御所の切石で囲んだ池庭(復元)

(※お茶の郷博物館より/写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用)


この遠州こそ、天守の歴史にもただならぬ影響を与えた人物だと思うのですが、駿府城の普請奉行をつとめた慶長の頃はまだ「細部意匠に口ばしをはさむ余地はなかった(上記書)」とも言われ、そのせいか、遠州と駿府城天守の造型との関係はほとんど言われて来ておりません。

しかしそうだとすれば、あの初重・二重目の御殿風の造り(開放的な落縁や高欄)はまったくもって突然変異のようで、いったい誰があんな構想を言い出したのでしょう。

よもや大工棟梁の中井正清の進言とも思えませんし、やはりこうして考えた場合、発案者として最も相応しいのは「小堀遠州」であり、もしも遠州ではないとしたら、それこそ「家康その人か」という結論にもなって来るわけで、この事柄の意味合いに、もっと議論がなされるべきだと思うのですが、どうでしょうか。




それぞれの天守に込められたモチーフは…

安土城→皇帝の館か / 豊臣大坂城→八幡神の塔か / 駿府城→ 新「王朝」府か


そろそろ今回の結論を申し上げるなら、慶長13年頃の段階で、駿府城天守が全身に赤い柱や長押を見せていた場合を想像しますと、それは必ずや近いうちに豊臣関白家を討滅して、天皇から日本国の大政をあずかるに相応しい新「王朝」府を、先取りして築いたかのように見えてなりません。

それは伝統に対する巨大な欺瞞(ぎまん)と申しますか、軍略家としてのハッタリと申しますか、新たな関東武家政権として、いよいよ図に乗る風を、上方にあてつけがましく見せていたようにも感じられます。

そこには戦場の勝利者ならではの身勝手さが横溢(おういつ)していて、政権簒奪(さんだつ)の象徴として打ち立てられた「朱柱」の「最後の立体的御殿」、というところに、私なんぞは思わず興奮してしまうのです。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年03月17日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える






「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える




前回に「小さなコロンブスの卵」としてお目にかけた図では、天守の上層部分にうっすらと唐破風を描きましたが、おそらくこれをご覧になって、「唐破風」は文献史料では四重目か五重目と書いてあるじゃないか… という疑問をお持ちになったのではないでしょうか。

実はこの点が、またもう一つ、ここで是非とも申し上げておきたいポイントだと思っておりまして、何故かと申しますと…


徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守


ご覧の三つの天守は、以前の熊本城天守のブログ記事(徳川系の天守か?)でご覧いただいたものですが、このように同じ唐破風でも、右側の福井城天守や熊本城大天守は独特の設置の仕方をしていました。




そしてご覧の位置に「唐破風」を想定しますと、福井城や熊本城のケースとたいへんに良く似た状態になるわけでして、このことが決して酔狂で済まされないのは、以前は“駿府城を描いた屏風絵”として盛んに誌上等で取り上げられた絵が、これらとまた良く似た要素を持っているからです。


お馴染み!! 名古屋市博物館蔵「築城図屏風」(謎の天守が描かれた部分)


(内藤昌編著『城の日本史』1995年より)

この屏風絵は、慶長12年前田家の御手伝普請を描いたもので、第6扇下に描かれた白地に赤丸(日の丸)は本多家、三巴が篠原家の家紋で、両家が助役した天下普請は慶長12年の駿府城築城に限られるから、9月利家が駿府に出仕した頃の図と断定できる。


という風に、以前は「築城図屏風」はこういう言われ方をされていて、徳川幕府による駿府城二ノ丸の天下普請(石垣工事)を描いた絵と見られていたものの、昨今では、むしろ前田家の居城・金沢城の石垣普請を描いたものではないか、とも言われています。

そうであるなら、ここにあるのは金沢城天守ですが…


そぐわない点は多々あるものの、どこか捨て切れない両者の類似性


ご覧のとおり、前回の「小さなコロンブスの卵」で読み直した文献史料の記録と、以前は駿府城天守とも見られていた描写との間に「どこか捨て切れない類似性」が見て取れるわけなのです。!…


そしてもし仮に、左側の絵の描き方に“多少の”間違いが含まれていた場合は、類似性はますます見過ごせないものになるでしょう。

現に、絵の天守は盛り沢山の破風が描かれていますが、それらは平側と妻側が細かい破風まで完璧に同じ(!!)という、他に類例の無い、妙な姿で描かれていて、この部分を絵師の“筆の誤り”として割り引いて見た場合はどうでしょうか。


まことに勝手な推理として、この絵は、天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに絵師が「四方正面の天守」を強引に描いてしまった結果なのでは? といった邪推をしますと、破風の配置としては、他にも幾つか類例のあるスタイルに近づくように思われます。

(※ちなみに当ブログは、決して四重目か五重目の「唐破風」を否定するものではありませんので、おそらく妻側の中層部分の屋根にも唐破風があったものと考えます…)




右写真:日光東照宮蔵「東照社縁起絵巻」より引用


と、ここまで申し上げて来た事柄は、2012年度リポートの「東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか」という内容と密接に関係していることは、ご推察のとおりです。

かく申し上げる私の本音としましては、駿府城天守を描いた絵画史料としては、実は「東照社縁起絵巻」よりも「築城図屏風」の方が、ずっと有意義なのではあるまいか… という事に他なりません。

ただ一点、気がかりな問題は、上左写真の「築城図屏風」の初重の大ぶりな破風だけは、『当代記』等の記録と明らかにバッティングしてしまう点で、これについてはまた一つ、お伝えしたいポイントがあるのです。





<これまでの多くの復元案にある、天守台四隅の「隅櫓」や「多聞櫓」は、
 「立体的御殿」のねらいを台無しにしてしまう復元方法ではないのか??
 しかもそれらは何故、文献史料には、一言も書かれなかったのか…>








(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守曲輪の外周には多聞櫓が廻り、四隅には隅櫓があったという説もあるが、二階に高欄が廻っていることを考慮すると、この説にただちに賛成することには躊躇する。
(中略)
駿府で永年過ごした家康にとって、富士山に対する思い入れは相当なものであったと推察され、晩年、隠居城を造営するに当って富士山の眺望を無視することは考えられない。
(中略)
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでである。


これまでの多くの復元案が、天守台の四隅に隅櫓、石塁上に多聞櫓が廻っていたとするのに対して、上記の八木先生の指摘は異彩を放っています。

指摘の内容は、駿府城天守を最後の、究極の「立体的御殿」と考える当サイトの立場からしますと、まことに核心を突いた指摘であると申し上げざるをえません。


とりわけ慶長13年当時、すでに65歳の太った徳川家康が、これに登ることも大前提とした天守のまわりに、本当に、独立した隅櫓や多聞櫓をぐるりと廻らせたでしょうか。

その場合、家康が多聞櫓の向こうの景色を見るためには天守の三重目以上に、二重程度の隅櫓の向こうを見るには四重目以上に登らなくてはならなかったでしょう。


この疑問(少数派の疑問)を解いてくれるヒントが、実は「隅櫓・多聞櫓説」の根拠とされた絵図の中に、コッソリと隠れているのです。


大日本報徳社蔵『駿州府中御城図』の天守周辺


この絵図の黒い墨塗り部分が「隅櫓・多聞櫓説」の根拠となったものですが、ご覧のような墨塗りの様子と、実際に天守台四隅に隅櫓を付設した淀城天守(寛永度)の例を参考にしながら、「隅櫓・多聞櫓説」は出来上がったと申し上げていいでしょう。

ただしその時、墨塗り部分の「面積」や「形」については、かなり大雑把に描いたものだろう、という先入観がすでにあったはずです。……


駿府城公園の整備計画図(静岡市ホームページより引用)


では実際の天守台はどうだったか?と申しますと、発掘調査などの結果、ご覧のような、思った以上にひしゃげた平面形をしていたことが判って来ております。(画面中央の左上あたり)

そこで試しに、その平面形に合わせて、静岡県立中央図書館蔵の『駿府城御本丸御天主台跡之図』に書かれた寸法等を当てはめてみますと、次のようなイラストが描けるでしょう。




で、このイラストに合わせて、前出の大日本報徳社の絵図をダブらせつつ、さらにその上に、文献記録の初重の規模(10間×12間)を載せてみますと、究極の「立体的御殿」の実情をうかがわせる、大変に、大変に面白いことが分かるのです。


10間×12間が、天守の墨塗り部分にピッタリ!!

ところが隅櫓や多聞櫓の墨塗りは、石塁の内側に大きくハミ出て、天守と接続!!




これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…

むしろ参考にすべき天守は…


(※次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2013年03月03日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!駿府城天守の復元方法をめぐる「小さなコロンブスの卵」






駿府城天守の復元方法をめぐる「小さなコロンブスの卵」




天正10年5月、徳川家康一行は安土城におもむき、織田信長みずからの饗応を受けました。

その半月後には本能寺の変が起きたわけですが、この時、家康らが目撃した安土城天主の印象は、間違いなく後の駿府城天守の造型に反映されたはずだとも言われます。

ですから駿府城天守こそ、最後にして、究極の「立体的御殿」であったと申し上げるべきであり、奇しくも『信長公記』類の安土城天主の記録ほどではないにしても、建物の要点はしっかりと『当代記』等々の文献に記録されました。

その記述内容はもう良くご存知のことと思いますが…


(『当代記』此殿守模様之事)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落 椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
            懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
          懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
          懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
     破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
     鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金
           


この他に、例えば『慶長政事録』には「三重目 九間に十一間 各々四面に欄あり」とあって、三重目の造りが二重目までとはちょっと違っていた可能性がある点や、「七重目 四間に五間 物見の殿という」とも書かれていて、最上階の規模もちゃんと分かる点など、ご承知のとおりです。

で、これほど詳しい記録があるにも関わらず、それにしては諸先生方の復元案がかなり、かなり相違していて、こうまでも<専門家の足並みがそろわなかった>のは何故なのでしょうか?

そこには、そうなるだけの「落とし穴」が、文献の文字情報そのものの中に、コッソリと潜んでいるからではないのかと思われます。例えば…




<普通に読めば「五重天守」なのに、屋根が六層になってしまう… この怪現象は何なのか??>




文献に書かれた各重の規模を 単純に積み上げると…


前述の『当代記』に類似して、たいがいの関連文献にある「屋根」と「腰屋根」は合計5つであり、したがって駿府城天守は五重七階であったと、すなおに読み取れそうなのに、いざ立体的に検討を始めますと、屋根が6つ!必要になってしまうのです。

これこそ文字情報の中に潜んだ「落とし穴」のせいだと思われ、諸先生方の復元がバラついた最大の元凶のように思われます。


(大竹正芳「駿府城」/西ヶ谷恭弘監修『名城の「天守」総覧』1994年所収より)

駿府城天守の五階と六階の逓減(ていげん)率は平側が一間差、妻側が二間差と一定でない。これは望楼型天守によく見られるパターンである。


このように逓減率の不規則さを指摘されていた大竹先生は、ご自身の復元画では、幕府直轄の層塔型の名古屋城天守などに、望楼型に近い慶長度二条城天守などの要素(入母屋屋根を交互に重ねるスタイル)を兼ね備えた天守として描かれました。

しかし私なんぞは、いっそのこと、現存の松本城天守に見られる、逓減率の不規則な扱い方(層塔型の変則形)の方が、今回の謎解きのヒントになるような気がしてならないのです。


層塔型の松本城天守 / ただし最上階とその直下の階は この東西面では同じ幅になっている


同じ階の南北面の方はふつうに逓減しているため、この部分の屋根は上下階の不規則な変化になんとか対応していて、一般に松本城天守と言いますと、れっきとした層塔型天守とされるのに、部分的にはこういう“荒業”もやっているわけです。

しかもここで是非とも、ご注目いただきたいのは、最上階屋根の大棟は、この「変則形」の長短とは90度ちがう方角に向いている、という点なのです。(!!)


これは大変に重要なポイントではないかと、かねがね感じて来たのですが、その上、駿府城天守はこの松本城天守を参考にして築かれた、という所伝もあるそうでして、仮にこの「変則形」をそのまま駿府城天守の記録に当てはめてみますと、アッと驚く「コロンブスの卵」があらわれます。


すなわち、最上階の直下の六重目は、桁行と梁間の数値が、実際とはひっくり返った形で『当代記』等々の文献に記されて来たのではないか!?… ということなのです。


「小さなコロンブスの卵」


否、前言を小訂正。冒頭の引用文をもう一度ご確認下さい。そもそも『当代記』等には「桁行」と「梁間」の指定がありません!! …まさに「落とし穴」です。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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