小牧山城

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2014年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し





「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し


 【前回記事の大胆仮説】

  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、

  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。

  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか!?



前回記事の最後にまたまた妄言を申し上げてしまいましたが、この件についてもう少し、妄言の心理的な背景をご説明させていただきたいと思います。


一乗谷・朝倉館の建物群

(※養父市ホームページ掲載の「越前朝倉氏 朝倉館 配置図」を使って作成)


御殿が雁行していた一乗谷の朝倉館は、研究者によって個々の建物の想定が少しずつ異なるため、ご覧の書き込みは引用の配置図どおりとし、一部、「会所」に平井聖先生などがおっしゃる(楼閣か)という一言を加えさせていただいたものです。

あえて色分けしたとおり、接客や対面に使われた「主殿」など、手前の西寄りの建物群が表向きのもので、新たに日常生活の場として設けられた「常御殿」から向こうが、奥向きの建物ではないかと言われています。

で、冒頭の“妄言”は、これらのひとそろいの御殿を、山城の山頂の「台」上に建て込めるだろうか?という仮定の話ですので、試しに、小牧山城の主郭石垣を同縮尺でダブらせてみますと…


やはり、かなり手狭な印象!! →「立体的御殿」化への直接の動機か


ご覧のように、山城の主郭としては充分な広さがあるはずの小牧山城でも、その山頂部を巨石を積んだ別格扱いの「台」と考えた場合は、そこにどれだけの御殿を建て込めるかという <スペース的な制約> が生じて、その時、初めて「立体的御殿」が現実の課題になったのではないかと申し上げたいのです。

そしてその中では、例えば朝倉館の「遠侍」から一番奥の「数寄屋」等々まで、すべてを立体化して縦に重ねたのか? と言いますと、必ずしもそうではない節もありまして、それは「天主取付台」に関してちょっと気になる点があるからです。…




織田信長の奇妙な行為から推理した、安土城主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域案


ご覧の下の方の図は、4年前のブログ記事でお目にかけた図の抜粋でして、これは天正10年、織田信長が家臣らを安土城に招いたおりに、家臣らが差し出した礼銭を信長がみずから受け取り、後ろに投げた、という有名な逸話をもとに、その隠れた意図を推理してみた図になります。

すなわち、信長はその時、ハレ(表)とケ(奥)の境界線上に当たる場所に立っていて、銭を背後に投げるという行為そのもので「銭は受け取った!」という意思表示をおおげさに家臣に見せた、ということではなかったかと思うのです。

もしそうだとしますと、「天主取付台」はケ(奥)の領域のいちばん手前に位置づけられていたことになるため、どうも私なんぞには、天主取付台は“常御殿の一部”として機能していたと感じられてなりません。

ですから、立体的御殿(萌芽期の天守)はどこから奥の御殿を立体化したのか?という先程の疑問については、結局、<常御殿から奥が台上で立体化された> と申し上げざるをえないように思うのです。…



発掘当時の小牧山城の主郭石垣 / 左上が小牧市歴史館のある主郭内

台上に誕生したのは「殿守」か「天主」か「殿主」か


おなじみの木戸雅寿先生は、当時、様々な文献に書かれた天守の文字は「殿守」「殿主」「天主」「天守」と色々であり、それらのうち「殿守」「天主」がいくつもの城で使われた一方、「殿主」は安土城天主を示した別称でもあり、豊臣政権の成立後はすべて「天守」に統一されたと指摘しておられます。(『信長の城・秀吉の城』2007年)

こうした書き方の問題からも、天守の起源について、色々とアプローチがなされて来ましたが、今は小牧山城の発掘成果(とりわけ主郭石垣の重大な意味)によって、新たな段階が見えてきたのではないでしょうか。

と申しますのは、機能を分化した「書院造」や望楼の立体化で誕生した「殿守〜天守」と、逆に一棟に機能を集約していた「主殿」建築も網羅して考えるなら、これまでにない建築史的な天守の解明が、いっそう系統的に進むのではないか… といった将来への希望的観測も感じられるようだからです。



ご参考) 天主取付台に大型の付櫓が続く可能性を主張されて来た、西ヶ谷恭弘先生の復原案

著書『復原図譜 日本の城』1992年の表紙より



このように、意外にも「天主取付台」は多くの可能性を秘めていると思えてならず、それは小牧山築城の4年後に早くも移転した居城・岐阜城においても、同じことが言えるのかもしれません。





<峻険な岐阜城の山頂の天守は、手前に「天守取付台」を考えれば…>





岐阜城 山頂の復興天守


さて、織田信長の時代、岐阜城の山頂(「主城」)に「天守」はあったのか無かったのか。

現状では「無かった」とおっしゃる研究者の方が、多数派を占めておられるようです。

その理由としては、現状の復興天守が載っている天守台石垣はもちろん明治以降に度々積み直されたもので、それ以前の、古図にある天守台も池田輝政時代のものである可能性があり、信長の時代は、険しい山頂部分に大規模な石垣を築けず、「天守」に充分なスペースは無かった、と考える方々が多いからのようです。


復興天守に入る天守台石段の周辺 / 当記事ラストの図の「写真A」の角度から

前掲書の岐阜城のページ(古図に基づく復原 / イラストレーション:香川元太郎)


しかし私なんぞは、そもそも、城内での建てられた「位置」(曲輪群の求心性の頂点)と「台」こそが天守の物理的な必要条件であって、三重から五重の階層が無ければ「天守でない」等とはツユほども感じませんので、多くの方々のような心配はまったく気になりません。

しかもその上、この度の小牧山城の大発見によって、岐阜城にも、ほぼ同じプランの萌芽期の天守(二〜三重程度の望楼と御殿の複合立体化)が、しっかりと建っていた可能性が見えたように感じております。


(※香川元太郎先生のイラストレーションをそのまま使わせていただきながら図示してみました。

  前出の小牧山城の図とは、ちょうど反対側から見たような形になります)










作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年03月03日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!小牧山城でおぼろげに感知できる「立体的御殿(天守)」造型のDNA





小牧山城でおぼろげに感知できる「立体的御殿(天守)」造型のDNA


前回記事では「小牧山城の主郭石垣こそ、天守台の原型でもあるのではないか」!?などという突飛な考え方を申し上げましたが、試しに、その広さを安土城の天主台と比べてみますと…




ご覧のとおり、広さは格段の差があるものの、やや角ばった環状の平面形(※小牧山のは元々の地山とは無関係に造成されたもの!)が何故か似ているようです。

そして小牧山城にあった基壇状のスペース(オレンジ色)と、安土城天主の建物初重の広さがほぼ同じだということもあってか、さも両図は、望楼と御殿が合体して天守に変わる「以前」「以後」を見ているかのようでもあります。

しかし昨今、小牧山城では、望楼はすでに主郭の御殿の屋根上に載っていた、という形の復元方法も推定イラスト等でよく見かけるようになって来ておりまして、果たしてこの城から「立体的御殿(天守)」は始まっていたのかどうか、まことに興味は尽きません。


そういう中では、前回と同じく、千田嘉博先生の次の一言もたいへん気になるところで、それは話題の「櫓台」について「この櫓はほかの主郭内の建物と、ひとつづきにつながっていた可能性が高いと思います」(『信長の城』)という見方です。

何故これが気になるかと申しますと、もし本当にそうなら、私はアレコレと連想が止まらなくなり、その果てに、ある“共通項”が浮かび上がるからなのです。



小牧山城の基壇状スペースに対応する位置の、安土城の「天主取付台」に着目しますと…






!!… ご覧のとおり、小牧山城の基壇状のスペースに対応するかのような位置に、斜めに付櫓や本丸御殿が接続した天守が、この他にも色々と連想できまして、しかもそれらの位置関係については、これまでに(※小牧山城の大発見までに)何か指摘されたことは一度も無いだろう、という点がたいへん気になります。

そして「雁行(がんこう)」と言えば、私なんぞは城郭ファンとして、てっきり二条城の二ノ丸御殿で確立したスタイルとばかり思い込んでいたのですが、そうでもない、と言いますか、逆に、明らかな間違いなのだそうです。…





(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)

雁行形の建築は近世においてその完成を見る。しかし、その形態を持つものがそれ以前になかったわけではない。むしろ相当に古くからあり、それが時代とともに発展し、近世に洗練され完成に至ったと考えるべきである。
(中略)
寝殿造も中国伝来の左右対称形の配置を踏襲するものも残るが、その一方で割合早い時期から、その配置形式を崩していたことがわかる。


さらに、15世紀初頭の応永度内裏を描いた町田本の洛中洛外図(部分)にもハッキリと…

「せいりやうてん」貼り札の上半分が紫宸殿、下半分が清涼殿。この絵は左が北



(前出本より)

平安期の火災以後、紫宸殿と清涼殿は、規模や形あるいは周囲の建物を変えながらも、雁行状の配置関係を一貫して変えることはない。
この紫宸殿と清涼殿の雁行配置の一貫性は、それが日本の権威の中枢にある象徴的な建物だけに、影響力もあったはずで、注目すべき点であると思われる。




この本の著者・川道麟太郎先生によりますと、古代から平安時代にかけて、内裏や寝殿造の建物群は(中国古来の四合院住宅の影響で)左右対称形で建てられていたものの、いわゆる国風文化の広がりとともに左右対称は崩れ、早くも宇多天皇の離宮・朱雀院(9世紀)で非対称が始まり、白河上皇の仙洞御所・鳥羽殿(11世紀)で日本人好みの典型的な「雁行」は始まっていた、と指摘しておられます。

その後は、一棟に機能を集約する「主殿」がいっとき現れたものの、再び複数の棟で機能を分ける「書院造」の普及によって「雁行」はいっそう広がりを見せ、われわれ城郭ファンにもおなじみの一乗谷朝倉氏館など、武士階級のステイタスとしても「雁行」形はすでに認知されていたようなのです。


ということは… ここからは私の勝手な空想が混じりますが、小牧山城の歴史的発見から見えて来た、御殿と望楼の雁行(の可能性)というのは、あえて巨石を並べた主郭石垣上の建築を、さらに“別格の存在”として建て込みたい、という意志の現れではなかったでしょうか。







ここで再び大胆仮説

  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、

  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。

  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか!?>





「天守」はいかにして誕生したか、という大テーマは、当サイトにとってもこの上ない関心事です。

それが織田信長時代の小牧山城での発見を契機に、解明の糸口が見えて来るなら、まことに嬉しいかぎりですし、しかもその場合、山頂の「台」が不可欠の役割を演じていた可能性がありそうだということにも、思わず興奮してしまうのです。

(次回に続く)







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年02月17日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!天守は「台」の方が重要かもしれない、という観点から小牧山城の歴史的発見を見れば…





天守は「台」の方が重要かもしれない、という観点から小牧山城の歴史的発見を見れば…


小牧山城の航空写真(小牧市所蔵)


ご覧の山頂部分で発掘された総石垣づくりの主郭は、尾張の城としても、織田信長にとっても、初の大規模な石垣であったようですが、その意図は何か? 建物はどうなっていたのか? といった疑問は(主郭内部の改変もあって)完全には明らかになりそうもありません。


調査報告書の「主郭石垣概要平面図」を使って作成(上が真北)


小牧山城と言いますと、私なんぞは思わず、ここに原初的な天守(「御城には二層、屋上に楼を設けて三間四方、欄干より眺望雲煙十里…」武功夜話)があったかのような記録が頭に浮かぶ一方で、おなじみの千田嘉博先生は、北西に張り出した「櫓台」の発見に注目しておられます。



(千田嘉博『信長の城』2013年より抜粋)

小牧市歴史館建設前の図面や写真によると、主郭内には建物の存在をうかがわせる基壇状の高まりがあって、かなりの規模の建物が建っていたことは間違いありません。

発掘した櫓台石垣から規模を復元すると、櫓は東西方向に八メートルほど張り出し、南北方向も石垣塁線上ではおよそ八メートルでした。一間を六尺五寸(約一九七センチメートル)とすると、およそ四間となります。(中略)
天主の成立過程を考える上でも、小牧山城主郭の櫓は重要な意味をもつでしょう。



では、問題の「櫓台」はどうしてこの位置で北西側なのか? という点に関しては、千田先生は同書で「この櫓台が張り出した北西のはるか先には、信長が攻略目標にしていた稲葉山城(岐阜城)を今も望むことができ」るから、としておられます。

この重要な指摘は、私なんぞも5年前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)で申し上げたように、いわゆる「四方正面」以前の望楼型天守には、明らかに「正面」があり、しかもその正面には、攻略目標を意味した「外正面」と、真逆の自陣側を意味した「内正面」があったはず… などと申し上げた考え方ともピタリと合致します。


しかし、ここではもう一つ、<なぜ北西か?> に関して、それ以上に見逃せない理由があったように思えてならず、これが今回の記事の中心テーマなのです。




<なぜ北西側に?? もう一つの、見逃せない理由とは>




例えば、千田先生が以前に作成した縄張り図を使わせていただくと…

村田修三編『図説中世城郭事典 第二巻』所収/小牧城図(千田嘉博作図)のページ


同図の中心曲輪群の部分を使って作成(上が真北)


ご覧のように作成した中では、「山腹の横堀と土塁」はご承知のとおり、後の小牧長久手戦のおりに徳川が改修した部分らしい、と判って来ましたので、この部分は割り引いて考えなければなりません。

そして大手道から山頂主郭に至るルートとしては、蓬左文庫に伝わる江戸時代の古地図に、上図のようなクネクネと山腹を登るルートが描かれていて、それが調査報告書にも採り入れられています。


ところが、ところが! 例えば、おなじみの超有名サイト「余湖くんのお城のページ」の小牧山城の鳥瞰図などでは、まったく別のルートが印象づけられ(提起され)ていて、思わず、古地図に対する疑問がふつふつとわき上がって来るのです。…


「余湖くんのお城のページ/小牧山城の鳥瞰図」を引用させていただきました



ご覧のとおり、大手道の続きはさらに真っ直ぐ山を登っていて、小牧山の鞍部にまで登り、馬出し的な機能を果たしたと見られる曲輪(鳥瞰図の3、その下の図の5)を経たうえで、「土橋」を渡って中心曲輪群に入る、というルートが強調されているのです。

もちろん前述のように、山腹の横堀は徳川による改修箇所ですから注意が必要なものの、もしもこれを大手道から主郭に至る「メインルート」と考えた場合には、問題の「櫓台」の意図が、ずっと明確に見えて来るのではないでしょうか。


土橋を渡る先の真正面に! 原初的な天主(殿守)が? / 主郭石垣概要平面図の合成


いかがでしょうか。思えば、岐阜城の天守(山頂「主城」)や安土城天主もこんなレイアウトがされていたように感じられ、例えば安土城ですと、伝黒金門の手前の長い石段がちょうど「土橋」と同じ位置づけになり、それとは別のルートが南からも主郭に達する形になっています。





すでに報告書等で指摘されているとおり、小牧山城と安土城の築城方法の間にはかなりの類似性が見られ、それはまた、大手道から主郭や天主に至るルートの設け方についても、ほとんど同じ手法だと言えそうな感じです。


そして私なんぞが特に気になるのは、いずれも、土橋や伝黒金門の側から見れば、ルートは天主の背後に回り込んでから天主の建物に入る、という形をとっている点です。

これは、発祥まもない天守と主郭石垣(≒天守台)との関係を解き明かす糸口のように思われ、そういう観点に立ちますと、問題の櫓台の「真正面に見せつける」という意図がより明確になるのではないでしょうか。
と申しますのも…


私なんぞが思う、天守のいちばん原初的なイメージ 〜それは求心的な曲輪配置の頂点に〜

 
天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説)  / 本丸石垣の一隅に建つ、天守台の無い高知城天守(現存)


高知城天守(別の方角から見上げた、本丸石垣の一隅に建つ様子 / 大手門からの城道を威圧する)



ご覧のように高知城天守の建つ位置と、小牧山城での大発見とを並べて考えてみますと、問題の櫓台は千田先生のおっしゃる「のちの天主につづいていく象徴的な櫓」であるとともに、<話題の大規模な主郭石垣こそ、天守台の原型でもあるのではないか> !?という、突飛な考え方(可能性)にたどり着いてしまうのです。…



今回の記事のタイトルに、天守は「台」の方が重要かもしれない、としたのは、例えばこのような事柄もあるからです。

念のため説明を付け加えますと、天守台の「台」というのは、天守建築の研究(特に「立体的御殿」としての発祥)と、近年の山城をめぐる様々な研究成果(とりわけ織豊系城郭の求心性)とをつなぐ、言わば近接的な学際研究のミッシングリンクとでも言うべき、見逃されて来た存在ではないのかと、改めて強く申し上げたいのです。


ですからこの際、何度でも申しますが、我が国の「城」の歴史から見れば、天守は「台」の方が重要かもしれないのだ、と。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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