城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか


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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか





甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか


甲府城天守台の北西側の張り出し部分

→ この城は旧武田領国のど真ん中に出現した「石垣で見せる」城だった



今年3月、甲府城天守の復元の可能性を調べていた山梨県の委員会が、残念ながら、天守そのものの実在を証明する資料は発見できなかったものの、二ノ丸の南西隅の「月見櫓」を江戸時代には「天守」と表記していた城絵図を見つけた、との報道があったことはご記憶に新しいところでしょう。

それは例えば朝日新聞デジタルですと、「江戸中期に編纂された軍学系の城郭図「主図合結記」(大阪府立中之島図書館所蔵)の中から」発見したとのことで、同記事に掲載の城絵図の写真を、見やすいように90度、反時計回りに回転させていただきますと…


月見櫓の位置に「天守」と記した「主図合結記」の城郭絵図

(※ご覧の写真では上が東になります)


同絵図の拡大 / 左端に「天守」と記された月見櫓


このようにハッキリと「天守」と読めるもので、ご想像のとおり、これはおそらく江戸時代に各地の城で出現した“天守代用の櫓”だったのでしょう。

で、この月見櫓は、万治3年(1660年)以前の作と言われる現存最古の「甲府城並近辺之絵図」にも三重の櫓として描かれておりまして、では、その月見櫓は現在どうなっているかと言えば、例えば下記の山梨県ホームページの案内イラスト(右側が東)では、図の左側の真ん中あたりに、三重の「月見櫓」が復元された状態で描かれています。


ところが、その位置は、赤い点線「史跡範囲」の外側になっており…

やはり山梨県ホームページの「旧甲府城の範囲と補修工事地点」の図などでは…


! なんと、せっかく見つかった「天守」代用の「月見櫓」を含む二ノ丸の西端の突出部分は、現在では県道31号線(舞鶴通り)に変貌していた!!… という、なんとも皮肉な結果になってしまいました。


ご覧のあたりの県道に、かつては「天守」代用の月見櫓と石垣が突出していた

二ノ丸の突出部分が削られたあと(右側の部分)


……… ということで、いかに天守の代用とは申せ、仮にも歴史的に「天守」と一部で呼称されていた三重櫓が、今では地元の幹線道路になっている、という現実は、長年にわたり「天守の復元・再建」を目指して来た地元の方々にとっては、さらなる打撃(追い打ち)と言わざるをえない事態でしょう。

こんなことなら、何も発見できない方が良かった… などという天の邪鬼(あまのじゃく)の陰の声も聞えてきそうな状況ですが、甲府城「天守」のゆくえは、ますますの漂流状態に流れ出てしまったのでしょうか。



【ご参考】武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台


さて、先月の当ブログ記事で、躑躅ヶ崎館に増築された天守台の件を申し上げましたが、ご覧の絵図や先生方の縄張り図を参照しますと、天守台上の低い石垣の様子から、ここにあった「天守」の初重は、最大で「9間四方」というかなりの規模であったことが推測できます。


現在のところ、この天守台を増築したのは、武田氏の滅亡後に甲斐を領国におさめた徳川(家臣の平岩親吉)だと言われていて、この時点では、一条小山(甲府城の築城地)と目と鼻の先の躑躅ヶ崎館に、なんと、初重の面積が松本城天守をわずかにしのぐ!ほどの天守が存在した可能性がありうるわけです。

――― ならば、その後の加藤光泰か浅野長政の時代に新たに甲府城を築いた際は、その天守を解体して「移築」をすれば良かったではないか… という当然至極の想像力が頭の中を駆けめぐります。


そのあたりの関係は歴史的にどうなっていたのか??… これまで躑躅ヶ崎館の天守台が(武田神社の立ち入り禁止区域のため)本格的な調査を受けていないこともあって、今日まで両者の関係を議論できるほどの状況は整わず、言わば、その辺がすっぽりと抜け落ちたままの状態が続いております。


で、ここに至っては、これ以上、手をこまねいていても話が進みませんので、この際、5年ほど前に撮影させていただいた写真をお見せしますが、その意図は、話題の躑躅ヶ崎館の天守台には、いわゆる「転用石」が使われているからです。!




本田昇作図「躑躅ヶ崎館図」(村田修三編『図説中世城郭事典』第二巻所収)で位置を示せば…


ご覧のとおり天守台の東面【A】の位置に、高さ的には石垣の総高の中ほどに「転用石」がありまして、一見したところ石灯籠か五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の台座か中台、それとも何かの基壇を断ち割った一部のようにも見えます。

天守台は草におおわれた部分が非常に多く、「転用石」がこれだけなのかは分かりませんでしたが、こうした「転用石」と言えば、いきおい織田・豊臣の重臣らの居城(=福知山城、大和郡山城など)がまず頭に思い浮かびました。

そこで、はたと、徳川の家臣が築いた城の石垣に「転用石」は?…… と記憶をたどっても、その場では思い出せなかったものの、例えば彦根城とか、明石城とか、他にも例が無かったわけではありません。
――― ただしそれらは天守台そのものには使われておらず、その意味ではご覧の躑躅ヶ崎館の例は珍しいもので、もしこれ以外にも何個もの「転用石」が見つかれば、それこそ「平岩親吉の増築」という推定がゆらぐ可能性もあるのではないでしょうか。




次いで図【B】の隅角部ですが、天守台は南東側4分の1強の範囲が、ご覧のような高さ140センチ前後の低い石垣で一段高くなっていて、この上が「9間四方」の広さがあり、この石垣の北面と西面(の高石垣に近い方)に間口一間ほどの登壇口が一箇所ずつ(また私は確認できませんでしたが、高石垣の南面にも中曲輪=本丸内部との直接の連絡用らしき登壇口が一つ)設けられていて、穴倉の類いは無いようでした。

天守台上に礎石の有る無しも分かりませんでしたが、北と西の登壇口がちょうど対照的な位置に設けられるなど、規則正しい印象がありまして、これはただの単なる一段高い壇ではなくて、やはりこの上に、建物がぴっちりと載せられていたことを感じさせるものでした。


躑躅ヶ崎館の天守台(東面)        甲府城の天守台(北面)


そこで試しに、ご覧の石垣と、甲府城の天守台の石垣とを並べて見比べてみますと、甲府城の方が、所々にはるかに大ぶりな石を入れて圧倒的な迫力を出しているうえに、そうした「鏡石」など、割り石を使ってより平滑に仕上げた点が違っています。

その意味では、やはり躑躅ヶ崎館の方が野面積みの古相を示しているのでしょうが、それでもご覧のとおり、石垣全体の雰囲気はけっこう似ておりまして、両者はそれほど時期の差をおかずに築かれた石垣どうしではないのか… という気がしてなりませんでした。


以上のごとく、もしもご覧の躑躅ヶ崎館の天守台の歴史的な位置づけが解明されるならば、それが甲府城「天守」のゆくえにも、大きく関わって来るような予感がしておりまして、とりあえず現状では、甲府城の天守台の方をもう少し、厳密に見つめ直してみるのもいいのかもしれません。

(※次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。