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2017年07月20日(Thu)▲ページの先頭へ
続々・甲府城「天守」のゆくえ →金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?…





金箔付きシャチ瓦も「徳川包囲網」の目印だったのか?…


すでにご存じのとおり、先日の報道では、発掘調査が進む「駿府城」天守台跡から、従来とは異なる「金箔瓦」が出土していたそうです。




これは例えば産経ニュース <駿府城天守台調査で初めて発見 豊臣系の「金箔瓦」一般公開> によりますと、「今回見つかった「金箔瓦」は、織田信長系の城にみられる、瓦の凹部に金箔を貼り付けたものではなく、凸部に金箔を貼り付けた豊臣秀吉系のもの」とのことです。

この「豊臣系」金箔瓦について、静岡市の歴史文化課では、天正18(1590)年から慶長6(1601)年まで駿府を居城としていた、豊臣大名の中村氏(一氏/忠一)によるものと解釈し、説明を行なっています。

かくして、天正末期から文禄・慶長前期には、天守台の位置のあたりに「豊臣系」天守が建っていた可能性が出てきた、となれば―――




これは当サイトの2013−2014年度リポートで申し上げた、大それた【新仮説】の図でありますが、このように慶長12年の年末の火災で焼けた天守とは、その時、徳川家康が建造中のものではなくて、中村一氏の時代からずっとそこに存続していた天守ではなかったのか? という新仮説を図示したものです。

かくのごとき発想に対して、今回、中村時代の「豊臣系」天守の可能性が出てきたということは、新仮説の前提条件が、一歩も二歩もクリアされたことになりましょうし、私なんぞとしては、今後の発掘調査のさらなる成果に期待を寄せております。



――― で、ここで是非とも確認したいのが、報道の駿府城「豊臣系」金箔瓦は、東国で発見されたのですから、前回も話題に出た甲府城の金箔付きシャチ瓦などと同じく、いわゆる「徳川包囲網」の金箔瓦だと解説されて行くのでしょう。

しかし自分は、実のところ、この「徳川包囲網」の金箔瓦という言い方に、若干の疑問を感じて来た一人でありまして、何故ならば、徳川は豊臣政権下で筆頭の大大名であり、そうした「徳川だけ」を、政権内で公然と敵視するような政策が本当に可能だったのか?… という疑念が、どうにも心の中でぬぐえなかったからです。


そこでお目にかけたい以下の図は、昨年の当ブログ記事で引用した朝尾直弘先生の『豊臣政権論』の、東国の「集権派」「分権派」大名(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)の色分けにしたがって、新たに描いてみた領国の図です。




時期的には、冒頭の駿府城「豊臣系」金箔瓦の主(ぬし)だとされた中村一氏が、駿府に入封した翌年の天正19年を想定した図でありまして、この年は豊臣秀吉による「奥州仕置」が行なわれた直後でもあり、当然のごとく、朝尾先生が「分権派」大大名の一人とした戦国大名の後北条氏は、すでに滅亡したあとになります。

そしてこの時は、同じ「分権派」大大名の徳川家康は関東に移り、もう一人の伊達政宗は極端に領地を削られた状態にあって、このあと政宗は、ひそかに葛西大崎一揆を扇動し、その鎮圧に乗じて、北側の木村吉清の領地をうばって行くことになる直前の様子です。


朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・前田利家…

そして「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…


では念のため、朝尾先生の「豊臣政権論」(『岩波講座 日本歴史9 近世1』所収)の引用文を若干、繰り返しますと…


がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。

一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上 上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。
(中略)
同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。
徳川・北条・伊達 三氏である。
豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。

(中略)
豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。




といった状態にあって、駿府城の「豊臣系」金箔瓦は、たしかに徳川家康の領国に接した「駿河」に配置されたわけですが、では、ご覧の図と、最近までに発見された金箔瓦の分布とをダブらせてみますと…



こうして見直しますと、例えば「蒲生」氏郷の会津若松城の金箔瓦などは、必ずしも「徳川だけ」を包囲したとは言い切れない印象があるのではないでしょうか?

これは山形城の金箔瓦が2014年に発見されたことによる現象で、ちなみに近くの小高城は南北朝時代からの相馬氏の居城であり、長年、伊達氏との領地争いを続け、石田三成と通じた16代目の相馬義胤(よしたね)が関ヶ原戦の結果、領地を没収されるまで、相馬氏本城の輝きを保った城でした。

そして山形城もまた、南北朝時代からの最上氏(斯波氏)の居城でしたが、その11代目の最上義光(よしあき)は、例えば文禄・慶長の役での陣中から、堀の普請の進捗状況をたずねる手紙を出していたそうです。


最上義光が修築した頃の山形城を描いた「最上氏時代山形城下諸家町割図」

→ すでに広大な三ノ丸が広がり、二ノ丸は南東側が丸くなっていて、

本丸の堀は西側が二重になるなど、より複雑な形状だった…



山形城の本丸跡から出土した金箔瓦

(※この写真はサイト「TADyのブログ」様からの引用です)


そこでご覧の金箔瓦は、本丸中央の御殿跡から発掘された、丸い石の野面積み石垣の堀跡などで見つかったもので、どのような状況だったかを、山形市教育委員会が公開しているPDF資料を引用しつつご紹介しますと…


山形城は、江戸時代に入封した鳥居氏による大改修を受けていて、その時、

本丸南東隅に新たに「本丸一文字門」などが設けられました
(→ 図の右下)



現在では、中央の本丸御殿跡は鳥居時代の遺構がほとんど失われたものの…



その下層から、最上義光の時代の野面積み石垣の堀跡などが見つかり、


上記「金箔瓦」はこの堀の中から発見されました



このように山形城は、本丸が江戸時代に全面的に築き直された疑いがあり、義光の時代は堀の位置がかなり違っていたのかもしれず、現に図や写真のとおり、金箔瓦が見つかった場所は、義光の頃には二重の堀で固めた本丸表門?(→図の礎石建物か)のすぐ脇になりますので、その瓦は、まさに「豊臣大名」義光の居城を飾り立てた意匠とも解釈しうるものではないでしょうか?

金箔の貼り方を申せば、冒頭の駿府城「豊臣系」と同じ凸部に施されています。

で、もしもこれらが「豊臣大名」時代にさかのぼる瓦だとすれば、これらはいったい「誰を」包囲していたのか?… とあえて想像力をふくらませますと、再び下図でご覧のように、会津若松城や小高城とともに「伊達政宗」!!を三方から囲んだ金箔瓦だった、と考えることも出来そうです。




かくして、東国の金箔瓦は「徳川包囲網」の目印であると言われておりますが、それは必ずしも「徳川だけ」を包囲したのではなくて、徳川や伊達(や北条)ら「分権派」大大名を包囲網のターゲットにしたのではなかったか…… という勝手な疑念を、私なんぞは捨てきれずにおります。

すなわち、石田三成が首魁(しゅかい)となって糾合した「集権派」群小大名らが、豊臣印をかかげることに命脈を見い出し、各々が必死の思いで中央の許可を得たのが「金箔瓦」であり、そんな屋根瓦の風景こそ、石田・増田グループにとっては、脅威の「分権派」大大名を“集団で押さえ込む”ツールであった、と思えて来てならないのです。

(※さらに「金箔瓦」は集権派グループの目印として拡大解釈が進んだとすれば、例えば九州の佐土原城=島津豊久、日之江城=有馬晴信、麦島城=小西行長という三つの城の金箔瓦は、実のところは“加藤清正包囲網”!!であったのかもしれません…)





そんな中で面白いのは、朝尾先生の引用文の最後の「豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか」の一文でありまして、朝尾先生は前田や浅野も「分権派」に数えられたものの、前田利家(もしくは利長)の金沢城にも金箔瓦はあった(→有名な幻の「辰巳櫓」直下のいもり堀で発見された)ことでしょう。

一般的に申しまして、利家の金沢城に「金箔瓦」があることに違和感を感じる城郭ファンの方は、まずいらっしゃらないと思いますが、今回の記事で申し上げている考え方では“大きな矛盾”をきたしてしまいます。

ですから、これはひょっとすると、晩年の利家の豊臣政権内での立場や、利家死後の利長の微妙な立場が影響して「金箔瓦」につながったのかもしれず、要するに、豊臣政権の末期になって、前田家はいちやく三成らの「集権派」に鞍替(くらが)えして!!? 秀吉亡きあとの主導権をうかがったのではないかとも邪推するのですが、どうでしょうか。


……… そして今回の話題のしめくくりに申し上げたいのが、同じく分権派に <浅野長政> の名前が挙がっていることなのです。


甲府城内で発見された金箔付きシャチ瓦


つまり、ご覧の金箔付きシャチ瓦の主(ぬし)は誰だったか? という問題が、ここ何回かの当ブログの内容(=甲府城「天守」のゆくえ)が集約される一点でありまして、もしも甲府城の金箔瓦が浅野長政のものとすると上記の論理とは矛盾してしまい、その前の領主・加藤光康のものならば、矛盾はしない可能性があるからです。


「集権派?」加藤光康       「分権派」浅野長政


以上の一応の結論として申し上げたいのは、問題の金箔付きシャチ瓦については、やはり加藤光康が「躑躅ヶ崎館の天守」にかかげたものと考えたく、それが甲府城内で出土したのは、浅野長政か幸長が「天守移築用」として豊臣政権末期の“微妙な時期”に甲府城内に運び込んだものではなかったかと想像しています。

そして有名な風神(雷神)の金箔瓦や、城内で多数が出土した浅野家の違鷹羽(ちがい たかのは)紋の瓦のなかに、少数の金箔が付いた瓦も発見されたことは、その同じ動きの中で制作されたものだろうと想像するのですが…。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2017年07月08日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」の内側も“見られること”を意識している





続・甲府城「天守」のゆくえ



(※大分合同新聞の報道写真を引用)

前々回まで熊本城の話題を続けていただけに、九州の記録的大雨の報道には注視していたのですが、想像以上の被害の大きさに驚くとともに、自分もテレビの仕事を長く続けて来たせいか、ある傾向を感じ取りました。

というのは、民放の某テレビ局は、ご覧のような自衛隊の災害救助の映像を <今回は絶対に映さない> としたようでありまして、そうした意図的な映像の選択に限らず、物事は、見えていない部分が多くを語ってくれるのかもしれません。…


そこで当ブログの本題に入りますと、まずは私事で恐縮ですが、自分は小学生の頃に甲府の武田神社(躑躅ヶ崎館)の近くに住んでいた者であり、その後も幾度となく武田神社や甲府城は訪れたはずなのに、先月、20年ぶりくらいで甲府城の中を再訪したところ、自分でも愕然(がくぜん)とするほど、まるで別の印象を受けてしまいました。

それは多少“やりすぎ”の感もある門や塀の再建、石垣の積み直し、江戸時代の縄張りとは無関係のスロープや虎口や橋の新設といった「新たな装い」のせいではなくて、まったくもって、かつての自分の未熟さから来る、重大な見落としをいくつも見つけてしまったからです。…




(※ご覧の本丸内のはげしい起伏は、石切り場など埋設物の保存用だとのこと)

まずはそのさわりの部分から白状しますと、ご覧の写真は、近代に増築された謝恩碑の台上から、本丸の内部とその東側に建つ天守台を眺めたところですが、背景の愛宕山の尾根に見えるのは県立科学館のプラネタリウムでして、現場の感覚ですと、この写真よりもずっと近くに山が迫っている感じです。

すなわち、詰め城ではなかった山が、これほど本丸に迫っている近世城郭も珍しいのではないか… という風に、今更ながら感じたわけでして、例えば地形的に厳しい制約のあった新宮城とか大洲城とは違い、広い甲府盆地の中のここなのですから、これは城の防衛上、見逃すことの出来ない欠点でもあり、どうしてこんな簡単なことに自分は気づかなかったのかと、のっけから自己嫌悪におちいりました。…




で、このことを踏まえて甲府城の構造を見直しますと、背後の愛宕山から見た場合、天守台はちょうど、すぐ西側の足下の本丸御殿や二ノ丸、楽屋曲輪、大手門などを隠す(=さえぎる)かのような位置にあるのだと分かります。




ですから、もしも天守台そのものが遮蔽(しゃへい)物の機能を負っていたなら、そうした天守台の上に、必ずしも木造の天守建物が建っていなくても、防御上の期待にはじゅうぶん応えられたのではないか……

そんな“予想外の疑念”が頭の中に浮かんでしまい、そこで思い出したのが、数年前、おなじみの三浦正幸先生が復元考察された天守について、じつは先生ご自身が講演会で「甲府城の天守台について今回、寸法を測りました。本当は現地で巻尺を使って測るのがよいのですが、今回時間がなかったので図面に基づいて測りました」という風にして、あの有名な復元案を仕上げたことでした。


ここはやはり、天守台の「現物」をもう一度、じっくりと見つめ直した方がいいのではないか? と思い立ち、改めて天守台をぐるぐると見て回れば、またまた、とてつもない重大事を見落としたことに気づいたのです。


天守台の現状 →所々に大ぶりな石(鏡石)を配して圧倒的な迫力を出しているが…





ご覧の天守台の石垣は、近年、間石(詰石)の補充や部分的な石の取り替え(石段の踏み石など?)はなされたものの、基本的には築城時そのままの石垣だそうで、大変に見ごたえがあるのですが、このまま石段を上がっていわゆる「穴倉」の中に入ったとき、その重大事に気づいたのでした。



写真の人物がいるあたりが、天守地階(穴倉)の門や扉になるはずで、

例えば、この人物の右側(北側)の石垣にある縦長の石は、


縦の長さが約170cm。こうした大石がさらに奥まで続いていて


最初に石段を登ったとき、真正面に見えたこの石も、縦の長さが約180cm

似たような調子の石垣が、さらに東面、南面と続いている―――





以上の総括として、もう一度、穴倉の北面の石垣をご覧いただきますと、

左端が穴倉の扉(とびら)のはずですが、そこから奥(右側)の穴倉内部まで

まったく同じ調子で!! 大ぶりな石が配されつつ築かれていたのです



つまり甲府城の天守台は、穴倉の「奥」の方まで、城主や登城者に“見られること”を意識していたことになる―――

こんなことは他の天守にもあったことだろうか… と思わず記憶をたどってみても、例えば会津若松城、犬山城、安土城、津山城、福岡城、松山城などなど、各々それなりに穴倉内の石垣を築いてはいても、どこか“おざなり”な扱いであったように思われますし、それもふだんは真っ暗闇なわけですから、当然のことでしょう。

ところが、甲府城の天守台は、石段を登ってすぐの位置に立つと、本来なら目の前に天守地階(穴倉)の扉や引き戸があって見えない(なおかつ暗い闇の奥になる)はずの、正面奥の石垣に、大ぶりな石がわざわざ配してある……


見た目の直感→ <この明るい状態が、この天守台の「完成形」ではないのか??>



江戸時代にはご覧の手前の位置に小さな門だけが建っていたそうですが、もしもこのように天守の地階が無い“明るい状態”が、もとから天守台の完成形だとすれば、そのことが示す「答え」は単純なはずです。

………ただ、江戸時代に天守の無い状態が長く続いたなかで、これらの石垣が(城主や登城者の目を意識した形に)築き直された、というケースも考えられなくはないでしょうから、そのあたりの確認ができないうちに、ここで性急な結論を出すわけにも行かないでしょう。


ただし一つだけ申し添えたいのは、穴倉の大石はどれも残念なことに「落書き」の跡で汚れておりまして、しかし、だからと言って、これらの石は絶対に取り替えないで欲しい、と強く申し上げておきたく、何故ならば、これらの落書き石は以上のごとく <甲府城最大の歴史の証言者> なのかもしれない… と感じるからです。



城下の多くの場所からよく見える、甲府城の天守台


さて、以上のような天守台は、御殿が建ち並んでいた西側を除けば、城のどの方角からも非常に良く見えるものです。

ですから江戸時代に「天領」の支配の象徴としては、これで十分であったのかもしれませんが、現代の地元の方々にしてみれば、毎日、建物の無い「台だけ」の状態を見せられ続けているわけで、必ずしも地域振興という意味だけでなく、人間の自然な心理的欲求として、天守の再建論議(実在を検証する要求)が起きるのも無理からぬところでしょう。


ですが冒頭から申し上げたとおり、今回の再訪の直感として、私は甲府城の天守台には、どの時代にも「天守」は無かったはずだと、かなり強く思えて来ました。


ならば天守台を築いた大名自身が、あえてそのようにした理由や動機は何だったか? という「謎」は依然として残るわけでして、そこで逆に申し上げてみたいのは、例の躑躅ヶ崎館の「天守台」に加藤光康の頃などに天守が築かれ、それがそのまま浅野長政・幸長の時代にも踏襲されて行き、結局のところ“甲府の城”の天守は、解体されて撤去されるまで、ずうっと、躑躅ヶ崎館の方にあり続けたのではなかったのか!!?… という超大胆仮説です。



(※当図は左が北)


この場合、かつて甲府城の天守「実在」説を勢いづけた金箔付きシャチ瓦などは、例えば、躑躅ヶ崎館から甲府城への「天守移築用」として、浅野幸長の時代などに運び込まれたものの、豊臣秀吉の死に始まる動乱の中で行き場を失い、そのまま甲府城内に埋められてしまったのかもしれない… といった想像も出来なくはなく、私なんぞはますます「躑躅ヶ崎館の天守」がどういうものだったのか、興味が増しているところなのです。


では最後に、お蔭様で当ブログは6月29日に累計200万アクセスを超えまして、この場を借りて、皆様の日頃のご支援にあつく御礼申し上げます。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


※当サイトはリンクフリーです。

※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2017年06月25日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか





甲府城「天守」のゆくえ →躑躅(つつじ)ヶ崎館の天守台との関係はどうなっていたのか


甲府城天守台の北西側の張り出し部分

→ この城は旧武田領国のど真ん中に出現した「石垣で見せる」城だった



今年3月、甲府城天守の復元の可能性を調べていた山梨県の委員会が、残念ながら、天守そのものの実在を証明する資料は発見できなかったものの、二ノ丸の南西隅の「月見櫓」を江戸時代には「天守」と表記していた城絵図を見つけた、との報道があったことはご記憶に新しいところでしょう。

それは例えば朝日新聞デジタルですと、「江戸中期に編纂された軍学系の城郭図「主図合結記」(大阪府立中之島図書館所蔵)の中から」発見したとのことで、同記事に掲載の城絵図の写真を、見やすいように90度、反時計回りに回転させていただきますと…


月見櫓の位置に「天守」と記した「主図合結記」の城郭絵図

(※ご覧の写真では上が東になります)


同絵図の拡大 / 左端に「天守」と記された月見櫓


このようにハッキリと「天守」と読めるもので、ご想像のとおり、これはおそらく江戸時代に各地の城で出現した“天守代用の櫓”だったのでしょう。

で、この月見櫓は、万治3年(1660年)以前の作と言われる現存最古の「甲府城並近辺之絵図」にも三重の櫓として描かれておりまして、では、その月見櫓は現在どうなっているかと言えば、例えば下記の山梨県ホームページの案内イラスト(右側が東)では、図の左側の真ん中あたりに、三重の「月見櫓」が復元された状態で描かれています。


ところが、その位置は、赤い点線「史跡範囲」の外側になっており…

やはり山梨県ホームページの「旧甲府城の範囲と補修工事地点」の図などでは…


! なんと、せっかく見つかった「天守」代用の「月見櫓」を含む二ノ丸の西端の突出部分は、現在では県道31号線(舞鶴通り)に変貌していた!!… という、なんとも皮肉な結果になってしまいました。


ご覧のあたりの県道に、かつては「天守」代用の月見櫓と石垣が突出していた

二ノ丸の突出部分が削られたあと(右側の部分)


……… ということで、いかに天守の代用とは申せ、仮にも歴史的に「天守」と一部で呼称されていた三重櫓が、今では地元の幹線道路になっている、という現実は、長年にわたり「天守の復元・再建」を目指して来た地元の方々にとっては、さらなる打撃(追い打ち)と言わざるをえない事態でしょう。

こんなことなら、何も発見できない方が良かった… などという天の邪鬼(あまのじゃく)の陰の声も聞えてきそうな状況ですが、甲府城「天守」のゆくえは、ますますの漂流状態に流れ出てしまったのでしょうか。



【ご参考】武田信玄の居館・躑躅(つつじ)ヶ崎館の古絵図(江戸時代の様子)

同絵図の拡大 / 主郭の北(北西)隅にあるのは増築された天守台


さて、先月の当ブログ記事で、躑躅ヶ崎館に増築された天守台の件を申し上げましたが、ご覧の絵図や先生方の縄張り図を参照しますと、天守台上の低い石垣の様子から、ここにあった「天守」の初重は、最大で「9間四方」というかなりの規模であったことが推測できます。


現在のところ、この天守台を増築したのは、武田氏の滅亡後に甲斐を領国におさめた徳川(家臣の平岩親吉)だと言われていて、この時点では、一条小山(甲府城の築城地)と目と鼻の先の躑躅ヶ崎館に、なんと、初重の面積が松本城天守をわずかにしのぐ!ほどの天守が存在した可能性がありうるわけです。

――― ならば、その後の加藤光泰か浅野長政の時代に新たに甲府城を築いた際は、その天守を解体して「移築」をすれば良かったではないか… という当然至極の想像力が頭の中を駆けめぐります。


そのあたりの関係は歴史的にどうなっていたのか??… これまで躑躅ヶ崎館の天守台が(武田神社の立ち入り禁止区域のため)本格的な調査を受けていないこともあって、今日まで両者の関係を議論できるほどの状況は整わず、言わば、その辺がすっぽりと抜け落ちたままの状態が続いております。


で、ここに至っては、これ以上、手をこまねいていても話が進みませんので、この際、5年ほど前に撮影させていただいた写真をお見せしますが、その意図は、話題の躑躅ヶ崎館の天守台には、いわゆる「転用石」が使われているからです。!




本田昇作図「躑躅ヶ崎館図」(村田修三編『図説中世城郭事典』第二巻所収)で位置を示せば…


ご覧のとおり天守台の東面【A】の位置に、高さ的には石垣の総高の中ほどに「転用石」がありまして、一見したところ石灯籠か五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の台座か中台、それとも何かの基壇を断ち割った一部のようにも見えます。

天守台は草におおわれた部分が非常に多く、「転用石」がこれだけなのかは分かりませんでしたが、こうした「転用石」と言えば、いきおい織田・豊臣の重臣らの居城(=福知山城、大和郡山城など)がまず頭に思い浮かびました。

そこで、はたと、徳川の家臣が築いた城の石垣に「転用石」は?…… と記憶をたどっても、その場では思い出せなかったものの、例えば彦根城とか、明石城とか、他にも例が無かったわけではありません。
――― ただしそれらは天守台そのものには使われておらず、その意味ではご覧の躑躅ヶ崎館の例は珍しいもので、もしこれ以外にも何個もの「転用石」が見つかれば、それこそ「平岩親吉の増築」という推定がゆらぐ可能性もあるのではないでしょうか。




次いで図【B】の隅角部ですが、天守台は南東側4分の1強の範囲が、ご覧のような高さ140センチ前後の低い石垣で一段高くなっていて、この上が「9間四方」の広さがあり、この石垣の北面と西面(の高石垣に近い方)に間口一間ほどの登壇口が一箇所ずつ(また私は確認できませんでしたが、高石垣の南面にも中曲輪=本丸内部との直接の連絡用らしき登壇口が一つ)設けられていて、穴倉の類いは無いようでした。

天守台上に礎石の有る無しも分かりませんでしたが、北と西の登壇口がちょうど対照的な位置に設けられるなど、規則正しい印象がありまして、これはただの単なる一段高い壇ではなくて、やはりこの上に、建物がぴっちりと載せられていたことを感じさせるものでした。


躑躅ヶ崎館の天守台(東面)        甲府城の天守台(北面)


そこで試しに、ご覧の石垣と、甲府城の天守台の石垣とを並べて見比べてみますと、甲府城の方が、所々にはるかに大ぶりな石を入れて圧倒的な迫力を出しているうえに、そうした「鏡石」など、割り石を使ってより平滑に仕上げた点が違っています。

その意味では、やはり躑躅ヶ崎館の方が野面積みの古相を示しているのでしょうが、それでもご覧のとおり、石垣全体の雰囲気はけっこう似ておりまして、両者はそれほど時期の差をおかずに築かれた石垣どうしではないのか… という気がしてなりませんでした。


以上のごとく、もしもご覧の躑躅ヶ崎館の天守台の歴史的な位置づけが解明されるならば、それが甲府城「天守」のゆくえにも、大きく関わって来るような予感がしておりまして、とりあえず現状では、甲府城の天守台の方をもう少し、厳密に見つめ直してみるのもいいのかもしれません。

(※次回に続く)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2015年08月21日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!釈明を兼ねた独自仮説――沼田城には関東の「北辺」を守備する四重五階の天守がそびえていた






沼田城には関東の「北辺」を守備する四重五階の天守がそびえていた


前回記事より / 沼田城天守は五重天守ではなかった、という立場の作図

一方、沼田市観光協会のHP「ようこそ沼田へ」には壮大な五重天守の想像図が…


沼田城天守ほど、歴史的な位置づけに迷う「五重天守」もないだろうと感じて来ましたが、観光協会の想像図は、かつての宮上茂隆先生の復元案に基づいて描かれたものでしょう。

そしてその前を言えば、西ヶ谷恭弘先生の復元案も黒い五重天守として強い印象を残しましたし、一般に、真田信之(のぶゆき/いわゆる幸村の兄/正室は本多忠勝の娘)が関東でいちはやく五重天守を上げたのは慶長2年(1597年)であったとも、徳川の江戸城天守と同時期の慶長12年(1607年)だとも言われて来ました。

(※ちなみに私の勝手な自論ですと、その江戸城天守は四重の天守のはず、と申し上げて来ておりますので、当時、沼田城天守は依然として関東で唯一無比の五重天守だったのかもしれませんが…)


そうした中で、現在、ウィキペディア等では、信之の孫・真田信利(のぶとし)が抱いた真田本家・松代藩への過剰な対抗意識が、沼田藩主就任の1658年(=明暦4年!明暦大火の翌年!)以降に破格の五重天守を生んだのだという異説が踊っていまして、当ブログの冒頭の作図は(時系列的に見れば)その異説を支持しているかのようでもあり、ちょっとマズい状態にあります。

ちなみに昭和30年代から城の復元運動があったという沼田の地元としては、こんな異説まで出て来るようでは、ますます前途多難でしょうが、とにかく当ブログの作図はそうした異説とは無縁である、という釈明を兼ねまして、この際、自前の大胆仮説を申し上げておきたいと思うのです。



正保城絵図「上野国沼田城絵図」の本丸周辺(当図は右が北)




さて、かくのごとく正保城絵図に描かれたのですから、城絵図の作成が命じられた正保元年(1644年)の前後には、絵のごとき天守が沼田城に実在していたはずです。

とはいうものの、城絵図の天守台に「石かき高八間」と墨書されている点については、現地を訪れた方々は、口をそろえて“とても信じられない”とおっしゃいます。

高さ8間と言えば15〜16mであり、およそ5階建てのアパートにも相当するからで、いったいどういうことなのか、現地の様子を写真でザザッとご紹介しますと…


沼田駅から眺めた城址 / 木々におおわれた台地の突端が本丸 / 左の遠景は三峰山

各曲輪のかつての位置をダブらせた地図(オレンジ色はわずかに残る微高地)


台地の上には広い平坦な土地が広がっていて、そこに本丸以下の城と城下町があったわけですが、現在、公園や市街地になった台地上の印象は、城下から本丸までほとんど地表高に変化がなく、本丸の先の「古城(捨曲輪)」「侍屋敷(二之丸)」がガクンと低くなり、その先が急崖で落ちている形です。

で、地図上のアルファベットの各地点から見た様子は…

【写真A】台地の上、沼田公園の入口付近

【写真B】本丸堀が部分的に残った池


わずかに残った本丸堀のこの部分の石垣は、城絵図に「石かき高三間」と墨書されていて、例えばこの堀の東側(写真では右側の見えない部分)の微高地と同じ高さまで石垣が積まれていたと想像しますと、ちょうどそれは「三間」の高さになりそうで、墨書はまんざらウソでもなさそうなのです。
しかし…



【写真C】本丸堀を埋め立てた場所から、天守台の方向を見ると…


【写真D】本丸内から見た利根英霊殿 / わずかな微高地の上に建つ


ご覧のとおり、天守があった辺りは、先ほどの本丸掘の石垣の想定とほとんど同じ地表高の微高地でしかなく、とてもここに、5階建てアパートに匹敵するような壮大な天守台石垣を思い描くのは困難なのです。

もし本当にここにあったのだとすれば、その膨大な土砂や石材はそっくり綺麗に取り去られたことになりますし、それを使って本丸堀を埋め立てたのだろうか?と考えるしかありません。

ところが、ところが…


【写真E】利根英霊殿のすぐ裏=北側は、軽く10m以上はある土塁が落ち込んでいる!!!

どういうことかと言いますと…


ここでもう一度、城全体の構造を踏まえて天守の位置を再確認しますと、前述のとおり、城内の北端でガクンと低くなった「古城(捨曲輪)」「二之丸」と、本丸との間を画する大きな土塁上の際に、天守は建てられていたのです。

これは正保城絵図が東側から眺めた状態、すなわち本丸の大手虎口が正面になるような角度で描かれたため、なかなか意識されなかったことなのでしょうが、構造的に見れば、天守は城の「北」方を意識していて、「北」を仮想敵とする姿でそびえていたと思えてなりません。

しかも、その土塁は図のように、沼田城と言えばいつも写真が出る「本丸西櫓台」まで、一続きの土塁として考えることが出来そうでして、ということは、現状はここに石垣の痕跡は確認できないものの、ここには、天守と本丸西櫓が左右に居並ぶ形で!北方の仮想敵に見せつけるための構造が出来上がっていたのではないでしょうか。


そういう姿を解りやすくするため、今までご覧いただいた地図をひっくり返して、北を手前にしてご覧いただきますと…



2010年度リポートより / 天守は詰ノ丸の左手前隅角に!=豊臣大坂城にみる織田信長の作法


いよいよ冒頭で申し上げたごとく、沼田城天守の歴史的な位置づけに関わる話になって来るのですが、このように天守が「北」を強く意識して築かれたとなると、その完成が慶長2年であれ、慶長12年であれ、それは城主・真田信之と、江戸の徳川家康(および妻の実家・本多忠勝)との関係の中で、この天守は構想されたのだと考えざるをえないでしょう。


言うなれば、“江戸の防衛の最前線の役目”を買って出る意味合いが、信之の天守建造には込められていたのではなかったでしょうか。!…


ご承知のとおり、信之という武将は、父の真田昌幸、弟の幸村(信繁)に比べれば一般の方々の認知度は低いものの、第一次上田合戦での闘いぶりから、敵方の徳川家康や本多忠勝が信之の胆力を大いに評価し、やがて忠勝の娘・小松姫が家康の養女として信之の正室に迎えられる関係になりました。

そこから真田一族のドラマチックな歴史が複雑さを増すわけですが、ここまで申し上げたように、問題の天守も、そんな歴史と深く切り結ぶ存在であったとしますと、その間、現実には高崎城の井伊直政、厩橋城の平岩親吉、館林城の榊原康政といった徳川の譜代大名らが、すぐ間近から、信之の行動に監視の目を光らせていたのでしょうから、沼田城天守とは、そういう風当たりも受け止めながら建っていたのだと私には思えてなりません。


【ご参考】沼田城絵図(前述の信利の時代 / 当図も右が北)

大まかだが、天守の平面形の長短は“東西棟”のように見える



かくして、問題の「石かき高八間」というのは、おそらくは天守台の“北面”にあった高石垣の数値ではないかと思うのです。

しかも、下記の正保城絵図の拡大でもお分かりのように、天守の“向き”を考えた場合、この絵図は天守の屋根が“南北棟”であるように描いていますが、これが慶長期の層塔型天守としますと、先ほどの全体構造のねらいや、天守台の微高地の長短を踏まえるなら、むしろ実際のところは“東西棟”だったと考える方が自然でしょう。

となれば、この絵図に描かれたのは、墨書のある天守台ごと! 実は「北」から見た天守の姿なのだ、ということにもなりうるのです。

正保城絵図の拡大


そろそろ今回の記事もラストスパートですが、ご覧のとおり、城絵図は天守そのものの描き方もちょっと奇妙で、左側の櫓や門は普通なのに、これだけ天守台の内側に“めり込んだ”ような描写になっておりまして、ここにも大きな秘密が隠れていて、それは例えば、佐倉城の天守(御三階櫓)と同じ方式で、高石垣の内側の土塁に半分のっかるように建っていたからではないでしょうか。

佐倉城の場合、床下階を含めて五階の四重天守でしたが、城外の側の半分だけが土塁上に乗っかるように建てたため、その結果、城外からはちゃんと三階建ての「御三階櫓」に見えたという工夫でした。

そこで沼田城の場合も、建物は文献の記述どおりに五階建てであっても、同様の工夫の結果、城外からは四重天守のように見えたのではないかと思われ、その意図としては、慶長の天下普請の江戸城天守を取り巻く“有望大名の四重天守群”(→2012年度リポート/松岡利郎先生の指摘)のうちの一基とするための工夫ではなかったのか、と私なんぞは思うのですが、いかがでしょう。


【ご参考】上野国沼田倉内城絵図(城の破却直後の作/当図も右が北)

天守は四重に描かれ、なおかつ石垣からやや離れて建つ。

また天守台は、特に大きな隆起も無く、本丸石垣と一直線の高さである






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年05月11日(Sun)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか





続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか


歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」


前回に申し上げた“戯れ言”(=この浮世絵こそ福岡城天守の実像なのでは?…)は、どうやら言いっぱなしのままでは済まない状態のようで、弁明のための補足説明をいくつか申し上げたいと思うのです。

まず、背景の海は「実は博多湾ではないか」という件ですが、逆を申せば、表題どおりの姫路城と播磨灘だとしますと、現実には、とてもこの浮世絵のような景観がありえないことは明らかでしょう。


姫路城天守の最上階からの眺め(南の播磨灘方面 / 外港の飾万津は約4km先)


(※上写真2枚はサイト「神戸観光壁紙写真集」様からの引用です)


こうして見直してみますと、冒頭の浮世絵が「本来は姫路城の描写でない…」という私の勝手な疑念も、決してまとはずれではないようですし、さらに石橋を叩いて、姫路の外港だった飾万津(しかまづ)の景観を確認しておきますと…


播州名所巡覧図に描かれた飾磨津(飾万津)


(拡大)

ご参考1)冒頭の浮世絵の拡大  飾万津にこれだけ多数の蔵が建ち並んでいたか…


江戸時代、飾万津の港には、姫路藩の米蔵「飾磨御蔵」や水軍「御船手組」の奉行所などが置かれ、河岸には回船問屋が軒をならべて繁盛したと伝わるものの、そこに「博多」と肩を並べるほどの数の蔵があったかと言えば、そうとは言えないようです。しかも…


ご参考2)同じ浮世絵の左下部分  城の北々西の海岸沿いに小さく「橋」が見える


(拡大)

(※ちなみに「貞秀画」の右下の「通油町 藤慶版」はこの浮世絵の版元の情報)


前回はご覧に入れなかった浮世絵の左下部分ですが、小さいながらも目を引く橋が描かれていて、これを仮に、福岡の波戸港に入る手前の橋だったと考えますと、描写の「正確さ」「緻密さ」という点で、歌川貞秀ならではの特異な世界(→後述)が顔をのぞかせるのです。


ご参考3)「福博古図」にも福岡城の北々西の海ぎわに、ちゃんと「橋」がある


(拡大)現在の福岡市中央区荒戸と西公園の境界あたり


!!! ご覧のとおり、問題の浮世絵は一見、羽柴秀吉(真柴久吉=絵本太功記の役名)が鳶職の親方のように描かれるなど、太閤記の人気にあやかったオチャラけた要素がありながらも、実は、背景の町並みはそうとうに「正確」かつ「緻密」に描かれた可能性があるのです。




<「空とぶ絵師」歌川貞秀とは、何を描いた人物なのか

 「絵画と地図のあいだ」と言われるマニアックな筆致と遠近法>





歌川貞秀が、富士山の火口部分だけをパノラマ風に描いた「大日本富士山絶頂之図」


どうでしょうか。浮世絵でこんな絵!を描いたのが歌川貞秀(五雲亭貞秀、玉蘭斎貞秀とも)です。

神奈川県立歴史博物館が平成9年に行った「横浜浮世絵と空とぶ絵師 五雲亭貞秀」展の図録によれば、貞秀自身がある版本の序文で「親しく実地を踏みて見ざれば其真景ハ写しかたし」と自らの作風を記したそうで、この驚きの作画は、実際に本人が、富士山に何度も登頂して描いたものと考えられています。

そして貞秀は「横浜浮世絵」というジャンルでも精緻さを突き詰めていて、あまりの細密さから、貞秀が活躍した幕末から明治初期、浮世絵の業界では「彫り師泣かせ」の絵師と言われたそうです。

例えば以下の絵は、それぞれ画面クリックで拡大サイズ版にもリンクしておりますので、是非ご参照下さい。


歌川貞秀「再改横浜風景」(拡大版:3481×856 pix 横浜市立大学蔵)

歌川貞秀「東都両国橋夏景色」(拡大版:1602×785 pix 江戸東京博物館蔵か)


前述の図録によれば、貞秀の絵は「絵画と地図のあいだ」と評されているそうで、遠近法の採用も手伝って、観る者に“そこに行ったかのような体験”をさせようという、まるで現代のハイビジョンや4K画像(8K、IMAX…)等々と同じねらいを持っていることに、私なんぞは舌を巻いてしまうのです。

晩年になって貞秀は「凡そ浮世絵の上乗は。その時の風俗をありのまゝに写して。偽り飾らず。後の世にのこして。考証を備えしむるに在り」と語ったそうで、浮世絵というものに対して、一般の人々が抱いているイメージとは、かなり違う世界を追い求めていたのかもしれません。


歌川貞秀「楠正成 河内国千早城 鎌倉勢惣責寄手破軍大合戦」(拡大版:2000×991 pix)


一方、ご覧の千早城の絵など、貞秀は多くの合戦図の類いも描いていて、特にこの絵は、有名な楠木勢の奇策を(大胆に翻案して)櫓をガラガラと敵兵の頭の上に崩す形で描いた面白さで知られています。

ただ、これら何点かの「城」がらみの絵を見ますと、千早城や堺の籠城戦、北条執権の館などに「高石垣」を描いてしまうなど、どれも厳密な城の考証から申せば、貞秀の「正確さ」が急に怪しくなっているのは事実です。

これは、さすがの貞秀も、鎌倉から室町時代の城がどういうものか、もはや現地でも確認できなかった影響なのか、それでも依頼主の注文に応えるため、やむなく自らの画法を捨てて、世間一般が容易に「城」だと認識できるような確信犯的な手法に堕してしまったのかもしれません。



歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(拡大版:2000×956 pix)


さて、以上のような歌川貞秀の人物像を踏まえて、改めて問題の浮世絵をながめますと、上記の合戦図などと明らかに違うのは、なにより「姫路城は現存する城」であって、貞秀は西国への旅のおりに、池田家築造の現存天守なら何べんでも見られたはず、という一点に尽きるでしょう。

そういう中で、貞秀は現存天守とは似ても似つかぬ天守を描いた一方で、背景の海については「博多湾」をはっきりと意識して、正確に、細密に、描き込んだ可能性があるわけです。

!?…


この矛盾の背景を推理してみますと、作画に色々と策をろうした貞秀のことですから、もしかすると、羽柴秀吉時代の天守が現存天守とは異なることを百も承知のうえで、「ならば…」と、まったく別の城の原画を下敷きにして“真柴久吉の天守”を(はるかに精密に)仕立て上げた、という彼一流の芸当をやってのけたのではないでしょうか。


であるならば、そこに描かれた「博多湾」と「切妻破風」という共通項は、とりもなおさず、幻の福岡城天守につながるものでしょうし、前述の「後の世にのこして、考証を備えしむるに在り」という貞秀の言葉が、にわかに、意味深な謎かけに聞えて来るのです。







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2014年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
城の再発見!幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ





幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ


4月19日 日本城郭史学会の大会「黒田官兵衛の戦略・築城」

講師の西ヶ谷恭弘先生  /  小和田哲男先生  /  丸山雍成先生



先週は城郭史学会の大会がありましたが、今年は各地で黒田官兵衛の城をテーマにしたシンポジウムが行われていて、西ヶ谷先生は2月の福岡の市民フォーラム『黒田如水と福岡城天守閣』にもパネリストで出席された関係から、話題になった天守復元の件についても一言、印象を述べておられました。


おなじみの福岡城天守の復元CG(佐藤正彦先生の著書より)


西ヶ谷先生の印象としては、ご覧の復元案は「広島城天守などを参考にしたためか、福岡城で多用された切妻の屋根や破風が一つも無く、その点がやはり気になる」というもので、この発言には私も思わず(心の内で)ポン!と膝を叩いたのです。


ご承知のとおり、現実の福岡城は… 例:南の丸多聞櫓の切妻屋根


ということで、今回の記事は、西ヶ谷先生の「切妻」発言にたいへん意を強くしまして、またまた立体的御殿の話題を先送りさせていただきつつ、この際、私なんぞが以前から「幻の福岡城天守」に感じて来ました、ある“戯れ言”をひとつ、申し上げてみたいと思うのです。


(※ちなみに私は天守の存在肯定派でありまして、思いますに、否定派の方々の反論は、黒田家に対する先入観や若い市長への反感が先走りしているように見えてならず、文献上に「天主」「天守」の文字がいくつも散見されるのに、天守そのものは全く無かったという理由を、当時の史料等でちゃんと示せていないのではないでしょうか。

とりわけ否定派の「代用天守説」では、黒田家はなんと、代用天守で徳川将軍を言いくるめようとしたことになりかねません。!!!…)




四重天守? と二基の三重櫓が見える


さて、ご覧の絵は、大会講師の丸山先生の発表用資料にもあったもので、キャプションは <『吉田家傳録』福岡城軒唐破風四層櫓(中央)> であり、荻野忠行著『福岡城天守と金箔鯱瓦・南三階櫓』や『福岡城天守は四層(四重)か』でもそのように表記されています。

ですが、見たところ「軒唐破風」?というよりも「切妻破風の張り出し(出窓)」ではないのかと思えてなりませんが、そんな点を踏まえて、是非とも、この見なれた浮世絵をご覧いただきたいのです。!!



歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(江戸末期/兵庫県立歴史博物館蔵)


おなじみの姫路城の浮世絵で、「えええ!? 浮世絵など当てになるのか」と即座に思われたことでしょうが、今回、是非とも申し上げたいのは、もし仮に、この絵に“浮世絵でないバージョンの絵”が存在したなら、話はかなり違って来るはずだということでして、もうしばらく我慢してお読みいただけますでしょうか。


まず、歌川貞秀(うたがわ さだひで)は江戸後期から明治時代(文化4年〜明治11年頃)に生きた浮世絵師で、美人画、武者絵、風景画(特に精密な鳥瞰図)を得意としたため、「空とぶ絵師」とも呼ばれる人物です。

そしてご覧の浮世絵は表題のとおり、姫路城の築城を題材にした江戸末期の作で、この浮世絵と福岡城とをつなぐような事柄は、何ら存在しておりません。

しかしこの絵は…



1.羽柴(豊臣)秀吉ゆかりの姫路城として描かれたものの、実際の姫路城天守とは似ても似つかない

2.「切妻破風」を最も多用した天守として描かれている

3.城外からは「四重天守」に見えた可能性がある

  (※浮世絵の下端にかすかに描かれた初重の屋根は、切妻破風の張り出しを伴わない腰屋根 )

4.左右に二基の三重櫓を従えていて、黒田官兵衛を思わせる「天守曲輪」か

5.全体の「築城図」風の描き方が“築城名人”の関与を感じさせる



といった辺りが、気がかりな現象が重複しているところでして、そのため「これは本来、幻の福岡城天守の描画だったのでは…」という勝手な疑念が、私の頭の中でだんだん大きくなって来たのです。

そしてもちろん、この浮世絵の見所は、鳶(とび)職らの作業風景のようでいながら、それらの人物が「真柴久吉(羽柴秀吉)」など、豊臣家ゆかりの武将らに見立てられた(=差し替えられた)面白さにあります。


貼り札は左上から「真柴久吉」「麻野長正」「畑切且元」「佐藤清正」「滝坂塵内」等々

(※また最上階の屋根は、平側だけでなく、妻側にも「切妻破風」!)


で、ご覧のとおり、この絵は天守築造の作業風景を大雑把に描いたものとも言えましょうから、これには築城図としての「原画」が別途、存在していたのでは?… といった想像も出来るのかもしれません。

現に歌川貞秀は、江戸末期に全国を旅しながら各地の鳥瞰図構図の風景画も描いた人だそうで、どこかの地でそんな「原画」を見い出したのかもしれない、などという都合のいい空想が私の頭の中を飛びかうようになりました。

そう思って手がかりは何か無いのかと浮世絵を見ますと、背景の「海」の描き方が、ひょっとして福岡や博多湾の様子に似ていたりはしないのかと……


背景に広がるのは瀬戸内の海ではなく、「博多湾」だとしたら??

この絵の右下部分 / 港や、ぎっしりと並んだ蔵、水平線上の起伏の連なり



ご参考1)城と港の位置関係  金子常光画「福岡市及附近案内図」昭和7年


(拡大)

(※上図1はサイト「博多湾大図鑑/博多湾古地図ギャラリー」様からの引用です)



ご参考2)博多の蔵や港  林圓策画「福岡・博多鳥瞰図」明治20年(※上半分が福岡と中洲、下半分が博多)


(拡大)



ご参考3)水平線上の様子 「福岡城下町・博多・近隣古図」(※いわゆる「福博古図」文久9年写し)


(拡大)





という風に、ご覧いただいた図は少しずつ時代が違うものですし、まぁ、このような景色であれば、偶然の一致ということもあるのかもしれません。

それにしても、幻の福岡城天守から眼下に広がっていた博多湾は、右手の方に港や蔵の町並み、その向こうの水平線上には立花山から名島の丘、海ノ中道の砂州、そして左手の島々までと、ずうっと、この浮世絵のように起伏が連なって見えたことでしょう。


この一件の調べは(歌川貞秀についても)まだまだ不充分であり、やはり私なんぞには、史上最多の「切妻破風」を積み重ねた天守の描写が、どうにも気がかりで仕方がないわけです。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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