熊本城・大和郡山城・今治城

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ!!
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城の再発見!天守が建てられた本当の理由
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2017年05月29日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧





これもコンクリート天守の「魔力」がなせる技か… 熊本城天守のすばやい解体と復旧


5月から始まった熊本城天守の解体・復旧工事の該当部分(熊本市より)

(※この該当部分の表示のしかたが正しいのかは、記事の後半で…)




あの震災からの復興の“旗印”という大きな意義はあるものの、当ブログが予想したとおりの「事態」が具体的に動き始めました。

各報道によれば、朝日新聞デジタルで「熊本市は天守閣を復興のシンボルと位置付け、2019年までの復旧・公開に向けて作業を進めている」、産経ニュースで「大天守は昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、6階部分は鉄骨造りで耐震性が劣っていた」、そしてYOMIURI ONLINEで「最上階の解体は6月頃に完了し、8月には再建作業が始まる」のだそうです。


で、この工事を受注した大林組のホームページによれば…

事業期間(※1)大天守:2016年11月〜2019年3月(29ヵ月)
        小天守:2016年11月〜2021年3月(53ヵ月)
事業費(※1) 設計業務費:308百万円(税抜)
        建設費:6,334百万円(税抜)
(※1=プロポーザルで提示した事業期間および事業費)


部分的な解体・復旧でも建設費63億円!(税込68億円)だそうで、ここに解体費用は含まれているのか分かりませんが、これらは結果的に <現状のコンクリート天守は守り切る!!> という政治的インセンティブが、市政のうえに強烈に働いたことがうかがわれる事態でありまして、これでおそらく、熊本城のコンクリート天守は、今後100年間は存続する、と、この場で言い切っても間違いにならないのではないでしょうか。

そしてむしろ今回の動きは、ある種の「説話」「伝説」の類い(→いちはやく復活した熊本城天守、云々…)となって、復旧するエレベーター付き耐震化コンクリート天守は、熊本市民の間で未来永劫(みらいえいごう)、存続していく可能性さえ、感じられて来てなりません。





このことは昨年、『日本から城が消える』で加藤理文先生が心配された城郭遺産の未来像とはうらはらに、各地のコンクリート天守は、地元自治体があらゆる手段(→部分改修のくり返し等)で延命化をはかり、欧米ではなかなか見られない建築カテゴリーの「コンクリート天守」が、この先も我が国で永久(とわ)の命を得てしまうのでは…… と当ブログが危惧した状態に向かっているようです。

現に、見れば見るほど興味深い大林組の技術提案書によりますと、今回のすばやい復旧は「熊本地震発生から2年後の平成30年4月には4階以上の足場を解体し、ライトアップを再開することで熊本城の復旧を力強く発信します」などと、政治的な効果を最大限にねらったものであることが分かります。


大天守の工事が終わる平成31年3月の進捗状況の予想図!!(技術提案書から引用)

(東側状況)


(西側状況)→ 小天守台は一旦、全周にわたって撤去!!!


(南北断面図)


小天守の北面・西面の近況写真


(※小天守台の穴倉は崩壊の激しい動画報告があるものの、被害の詳細は分かりません)


昭和11年刊行の古川重春著『日本城郭考』に掲載の図(左側が大天守台、右側が小天守台)

→ 熊本城の天守台石垣は、日本の城を代表する「文化財」であることは明らか




――― かくのごとき荒療治のアクロバット的な現代工法が展開されるのだそうで、そのなかで例えば、小天守台の外面や穴倉の石垣はどこまで正確に復元できるのか??(崩壊の具合も分からず、技術提案書ではなんと、新しい石材との「取替率」が墨塗り!!…になっている、など)まったくもって分かりません。

ここまでやるのなら、いっそのこと、この機会に、小天守台の下を「発掘調査」してみれば、加藤清正時代の熊本城がもっと良く分かるはずなのに、と私なんぞには思えて来てならないのです。…


小天守台がまだ無かった当時(=加藤清正の存命中)を推定した当ブログ記事のイラスト

このイラストの左半分の側に、二代目藩主・加藤忠広が小天守(台)を増築したことになる



かくして熊本城では、再来年の3月には大天守が復活する、という「コンクリート天守」ならではの超スピード復旧がなされるのに対して、文化財の修復になるはずの城全体の「石垣」「櫓」を含めた場合は、熊本市の試算で総額634億円、20年後の完了を目指すと市長が宣言したものの、それでは終わらないのかも… という声が一部にあるほどです。

(※ただし、災害復旧事業はかなりの部分が、国からの補助金でまかなえるのだそうですが)


最後にもう一言、これを申し添えないわけにいかないのが、今回、大林組の関係者の皆様が数多くの「最善」を尽くしておられるのは、技術提案書を拝見しても推察できるわけですが、私が申し上げたいのは、そうした「最善」の数々が、すべて、すべて「コンクリート天守」を存続させてしまう(=我が国の社会・歴史上にそれを「固定化」させてしまう)ことにつながるのだ、という、真っ黒い、落とし穴のごとき「矛盾」を申し上げておきたいのです。

……… 改めて、コンクリート天守の「魔力」を思わざるをえない状況にあります。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2016年10月12日(Wed)▲ページの先頭へ
城の再発見!大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた






大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた




前回は「予談の予談」ということで、私なんぞが感じている石田三成の人物像(いま盛んに言われる「義」の武将ではなくて「預治思想」の権化となった成り上がり高級官僚だったのでは?)を思い切って申し上げましたが、その最後には、ご覧の「武断派」七将と徳川家康との“壮大な共犯関係”についても、勝手な見方を申し上げました。

そうした見方の出発点になったのは、豊臣秀長(とよとみのひでなが)が「武断派」諸将を「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」と呼び、「それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」とまで兄の豊臣秀吉に迫ったと伝える『前野家文書』であり、それに着目した白川亨先生の『歴史群像』の記事でした。


 豊臣秀長像(永観堂蔵)


その『前野家文書』の記述や白川先生の指摘が正しいのなら、秀長は「武断派」に対してかなりの危惧を感じていたことになり、彼等の要求は、豊臣政権の行く末にいつまでも不安定感をもたらす(→もし朝鮮出兵が無かったとしても、そのハケグチは国内でどう処理できるのか?)という前途多難なイメージを持っていたのではないでしょうか。

以前のブログ記事では、秀長が「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語ったとおりに、「公儀」を代行した秀長と千利休という巨頭コンビが政権初期を支えたものの、やがて石田三成・安国寺恵瓊らの「吏僚派」が諸大名との取次役として実力をつけ、秀長や利休を圧倒するようになった(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)との指摘を引用しました。


……となりますと、<秀長・利休コンビ―武断派―吏僚派―関白の豊臣秀次> という豊臣内部の各派閥の関係はどうなっていたのか? それぞれが四つ巴の対立だったのか、そうとも言えないのか、頭の中がこんがらがりそうで、整理が必要です。

そもそも「武断派」と石田三成との対立が言われるのは、およそ朝鮮出兵が始まってからのことと断言していいのでしょうから、それは前回も若干触れたように、「武断派」七将は朝鮮出兵の困難と失敗(=高禄への期待外れと徒労感)が原因で、秀吉亡き豊臣政権には期待が持てない(→番頭役の三成が「預治思想」の権化ではまったく救いが無い!!…)と見限って、外様の大大名・徳川家康との“共謀”に走ったのだと見ていいのでしょう。


ですから、ここで一つ確認しておきたいのは、そういう権力闘争の対立軸として、石田三成や加藤清正など秀吉子飼いの武将を <吏僚派と武断派> の二派にわけて論じる言い方はおなじみですが、その一方で、かなり早い時期から、外様の諸大名も含めた形の<「集権派」と「分権派」>という大きな色分けで論じることも可能だとされて来た点です。!


この件は、当サイトが天守の形態(望楼型と層塔型)には建造目的の本質的な差があり、それは結局、城主が「集権」「分権」のいずれを志向したかとも関わる、という独自の主張をして来たこともあって、たいへんに興味のある事柄です。

それと申しますのは、近世史の大御所・朝尾直弘先生の「豊臣政権論」という、いまや古典的な論文(1963年!)なのですが、この論文の中で先生は、天正末期(小田原攻め以前)の豊臣政権の<東国政策>のなかに「集権派」と「分権派」が分かれるシチュエーションが生まれ、やがてそれが豊臣政権を崩壊させる「構造的な矛盾」につながったのだとしていて、私なんぞには、まことに印象的だったのです。…




(朝尾直弘「豊臣政権論」/『岩波講座 日本歴史9 近世1』より)

がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。

一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
ここに、増田・石田―上杉―佐竹・宇都宮・結城―蘆名の系列が形成されていたことがわかる。

これに、比較的この派に近い南部・秋田氏を入れると、その背後に北国海運の商業資本の存在まで予測することも可能であるが、それより大きなこの系統の特徴は、いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。

つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。




朝尾先生が指摘した「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…

小田原攻め直前の、東国大名の領国と支配地(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)


(さらに「豊臣政権論」より)

同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。徳川・北条・伊達 三氏である。

豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。

徳川服従の後は宥和(ゆうわ)路線は家康を通じておこなわれ、富田知信・津田信勝らがこれにからんで動いており、さらに施薬院全宗・和久宗是といった秀吉側近の名が浮かんでいる。

豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。




朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・豊臣秀次…


――― !! という風に、こうして見直しますと、朝尾先生が分類した<「集権派」と「分権派」>の色分けは、この直後の小田原攻め(戦国大名・後北条氏の滅亡)から、秀長の病没(毒殺?)と千利休切腹、関白・豊臣秀次の切腹、と続いた豊臣政権の重大事と深くリンクしているようで、なおかつ!後々の関ヶ原合戦の東西両軍の色分けとも大きく重なっていて、驚きなのです。




<豊臣秀長は外様の「分権派」大大名の取りまとめ役を自任していたか>






さて、そうした中での秀長の役回りが、大きく問われることになると思うのですが、秀長が天正19年に亡くなる3年前に、豊臣に臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

前述のとおり「公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語っていた秀長の心は、外様の大大名との融和に重きがあって、「秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている」(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)という風に、小早川隆景や徳川家康らに対して、兄・秀吉になりかわる格別なもてなしを行いました。

そうした秀長の厚遇に返礼するため郡山を訪れた家康は、そこで秀長の天守を目撃したはずであり、当ブログでは、近年の大和郡山城天守台の調査結果から、かつて宮上茂隆先生らが主張された「大和郡山城→二条城→淀城への天守移築説」の信ぴょう性が高まった件を申し上げ、松岡利郎先生の淀城天守の復原案も踏まえた推定シミュレーション(イラスト)を作ってご覧に入れました。


松岡利郎先生の淀城天守復原案(赤線の図)が、天守台の礎石列に合致!!

松岡利郎先生の淀城天守復原案(立面図)

当サイトの大和郡山城天守の推定復元シミュレーション

(付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現)



で、ご覧のように秀長の大和郡山城天守は、大きな改築をともなわずに、そっくりそのまま、家康によって二条城に移築されたと思わざるをえない“状況証拠”が出て来ております。

この、天守の歴史において、まことに稀有(けう)な出来事は、それ相応の“意図”が無ければ実現しえないことであり、必ずしも秀長自身は「史上初の四方正面天守」という意識は無かったのかもしれませんが、それを見た家康の心には、この天守に対する強い“思い入れ”が生じていたのでしょう。


かくして誕生した家康の二条城「移築」天守というのは、天下分け目の関ヶ原合戦から三成・安国寺恵瓊・小西行長の“斬首”という決着を経て、かつて秀長が擁護(ようご)した「分権派」の最終的勝利を天下に見せつけた、文字どおりの「金字塔」と見えて来てならないのです。


…      …


政権初期を支えた「名補佐役」秀長の尽力によって、豊臣政権は早い時期から「集権」と「分権」の両方をかかえ込んでいたようで、そこにからんだ「武断派」七将の思惑の行方は、朝尾先生の先の論文のしめくくりにある“哲学的な文面”にもあらわされていて、本当に私なんぞは恐れ入ってしまうわけでして、最後は是非とも、その部分をご覧いただきますと…



(朝尾直弘「豊臣政権論」1963年より)

集権体制が強化されながら、それが豊臣政権として終わりを全うしえなかったのはなぜか。

政権が(豊臣)秀次を抹殺し、関白職を頂点とする支配体制を脱皮した瞬間、「天下をきりしたかゆへき」実力が新しい体制原理として上下に貫徹した。

新しく形成された「公儀」は、もはや関白という伝統的権威においてでなく、実力と実力のぶつけあい、その均衡において成立しており、実力の階層序列の新しい編成をめざして 公然たる運動が開始される場として成立していた。

(中略)
その意味では、秀吉が死にさいして家康らを「五人のしゆ(衆)」と呼び、三成らを「五人の物(者)」と私的なニュアンスの強い呼称で区別したのは(『毛利家文書』九六〇)、豊臣政権末期における政権内部の構造的な矛盾がどこにあったかを明確に示すものであったといえよう。







作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。



2014年12月15日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・豊臣秀長の遺産…“オール礎石”の石垣へ!? 城郭の「切石」普及のきっかけをめぐる夢想





“オール礎石”の石垣へ!? 城郭の「切石」普及のきっかけをめぐる夢想


産経フォト「郡山城天守は高さ20m 豊臣ゆかり、構造判明」2014年9月13日よりの引用


天下人・豊臣秀吉の弟で名補佐役と言われる豊臣秀長(とよとみのひでなが)が総石垣造りで大改修した大和郡山城において、天守台の上の発掘調査が行われ、そこから「天守」の歴史に関わる大きな発見があったことを、当ブログも話題にして参りました。

で、この天守台ですが、今回の調査報告では豊臣期(秀長→秀保→増田長盛の在城期)に築かれたものと結論づけていて、そうした中で当ブログは、天守も天守台も、初代の秀長が築いたのでなければ、その後の二度にわたる天守の(まるで改変の無い!)移築の理由が分からないため、そうした理由をさぐるシミュレーションのイラストなどをご覧いただいた次第です。


思えば、発掘調査の以前には、この天守台は豊臣期よりずっと後の時代に築かれたものではないか… 例えば元和・寛永の頃に、徳川家康の長女(亀姫)の子・松平忠明が城主だった時期(秀長の築城から約30〜50年後)などに、天守台がまるごと築き直された(もしくは石垣が張り直された)のではなかったか? という見方もありました。


もとは羅城門の礎石という言い伝えの「転用石」(天守台の北東の隅角部/下の三つ)


と申しますのも、ご覧のような切石の転用石や角の稜線を整形した石が、天守台のとりわけ北東の隅角部に集中的に積まれていて(※他の方角の隅角部は必ずしも転用石ではありませんが)その印象が、他の豊臣大名らの城の石垣よりずっと新しく見えるからでしょうか。

しかし今回の調査の結果、もしもこの天守台が松平忠明の時代にまるごと築き直されたのなら、発掘された天守の礎石の状況から、忠明はここに淀城天守にそっくりの(しかも天下人の規格と言われる柱間2.2m!の)天守を自ら再建したことになるのでしょうから、そんなことはありえたのか!?…と、これまた驚きの結論になってしまいます。

そこで、問題の隅角部の写真を、もう一度、別の観点からご覧になっていただきたいのですが…


算木積みを目指した感のある上部の石と、とても算木積みにはなりえない下部の転用石


【ご参考/切石による算木積みの例】駿府城の本丸堀で発掘された石垣

その発掘当時の写真 →隅角上部の三〜四石の完璧な「切石」に対して、

下方の矢穴のある二〜三石は慶長の天下普請とも…(=秀長の築城の約20年後)



このように「算木積み」と「切石」という観点から、問題の大和郡山城の天守台を見直してみますと、結局、新しいとも古いとも言えないと申しますか、少なくとも、ご覧の駿府城の石垣に比べれば、駿府城の上部の隅角部のような「完璧な切石による算木積み」には到達していない、新旧が混在した、まことに過渡的な状態である、と申し上げてよいのでしょう。


では、転用石ではない「自前の切石」を初めて使用した城はどこだったのか? と考えてみますと、おそらくは(上の駿府城の写真のように)石垣の隅角部だけに「切石」が入った、部分的な切込ハギが最初であろうとは思うものの、先生方の解説書等を読んでみても、どの城が最初だったかは、今ひとつハッキリしません。

例えば加藤理文先生は「文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い後の大名の配置替え、徳川・豊臣の対立により、石垣構築技術は格段に進歩するが、「より高く、より強く」という基本的志向が変化することはなかった。このころ、規格加工石材が使用されるようになり、さらに隅だけに完全加工を施した切込ハギも登場する」(『よみがえる日本の城25』)といった説明をされています。

またつい先日も、「太閤なにわの夢募金 豊臣石垣公開プロジェクト」が共催した歴史講座「地下に眠る豊臣大坂城の石垣を探る」において、玉野富雄先生(地盤工学)が「豊臣期石垣と徳川期石垣の構造論」というお話をされたようで、大阪城は徳川期の石垣が、算木積みが切込ハギで平石部が打込ハギという形になり、徳川期に最高技術レベルに達したことを強調されたそうです。


徳川幕府が修築させた大阪城の高石垣 / 算木積みだけが「切石」で統一されている

同じことは徳川の二条城天守台(寛永度)などのほか…

幕府の本拠地・江戸城では「そこだけ御影石の切石」でコントラストが強調された


ご覧のような状態は、現代人の我々にとって、どこか“当たり前の風景”になっていて、算木積みに「切石」が入っていることは、強度的にも、美観上の費用対効果からも、十分に納得できる、まったく違和感の無い手法として感じています。


ですが、ですが、慶長後期から寛永期のその当時、自然石や割り石の算木積みが「切石」の算木積みに比べて強度的に(明らかに)劣っているという人々の認識や、「切石」の普及をうながす具体的な事故などがあったかと言えば、そういう話は、なかなか聞いたことが無いのではないでしょうか。…

つまり、何を申し上げたいかと言うと、おそらくはその頃、誰かが率先して「切石」を算木積みに使って見せたことから、全ては始まったのであって、どこかの(大名家や石垣職人らの)研究や検証の末に「自前の切石」が城の算木積みに試験採用された、などという懇切丁寧なプロセスでは無かったはず… という、ちょっと強引な見立てをしてみたいのです。





<大和郡山城天守台の隅角部も、徳川家康が自らの城に“継承”したのか??

 我が国の城に「切石」が普及したきっかけをめぐる 夢想その2>






【ご参考】大和郡山城の築城から約千年前、岩屋山古墳(明日香村)に積まれた精緻な切石!

(※ご覧の写真はサイト「Panchoの新・飛鳥路巡り」様からの引用です)


大和の国と言えば古墳の多い地域でもあり、大和郡山城は石垣に、礎石、墓石、供養塔、石仏、臼、燈籠、石棺など、数多くの「転用石」が使われていることでも有名です。

ちなみに「転用石」というのは、侍たちの生死を分けた城郭において、どうして墓石のような“縁起でもない物”を使ったのだろうか? という素朴な疑問が付きまとうわけですが、その動機としては「まじない」「霊力」といった指摘もされたものの、近年では「寺社勢力に対する徴発」という意味合いの説明が強調されているようです。

そして豊臣秀長は大改修の際に、領内の家々に石の供出を命じたため、人々が争って石をかき集め、騒動になったことが知られています。




そんな中で、この問題の隅角部も築かれたのなら、ここはひょっとすると「伝羅城門礎石」だけでなく、その上の石についても、石質は違うものの、いくつかは「転用石」ではないのでしょうか!? (しかも矢穴による割り石の技術は鎌倉時代からあるそうですし…)

その辺がもしもはっきりすれば、この天守台をまるごと秀長時代の築造と考えても不都合は無いことになるのでしょうし、現状と同じ姿を、徳川家康も目撃していた可能性は高まるでしょう。

さらに、豊臣秀長に仕え、大和郡山城に関連した人物としては、当ブログに何度も登場した籐堂高虎や中井正清、そして小堀遠州の父・正次もいて、そのため遠州自身は、父の正次が秀長・秀保・増田長盛の三代の城主に仕えたことから、幼少期を大和で過ごし、なんと10歳!で大和郡山城に登城した記録もあるのだそうです。


小堀遠州


その遠州のデザインとして、世界的に有名な孤篷庵(こほうあん)の延段(のべだん)

切石の直線(直角)と自然石の丸みとのダイナミックな組み合わせ




これも遠州の発案、天授庵の方丈前庭(東庭)/写真はウィキペディアより



【小堀遠州の略年譜】

天正7年(1579)/近江国坂田郡小堀村(現:長浜市)に生まれる。

天正13年(1585)7歳/大和郡山城主となった豊臣秀長に従って、父・正次とともに大和に移住する。

天正16年(1588)10歳/大和郡山城に登城し、秀長の屋敷ではじめて千利休に会い、翌日は豊臣秀吉の茶の給仕に出る。

文禄2年(1593)15歳/新城主の豊臣秀保が、600石を父・正次の知行から遠州に割譲するよう命ずる。

慶長元年(1596)18歳/伏見六地蔵に設けた自邸に洞水門(水琴窟)を工夫し、師匠の古田織部を驚かす。

慶長2年(1597)19歳/籐堂高虎の養女(豊臣秀次家臣・籐堂嘉清の娘)を正室として迎える。

慶長5年(1600)22歳/父・正次、徳川家康に従い小山へ出陣、続いて関ヶ原合戦に参戦。12月、正次が1万5千石を拝領し、備中国奉行として備中松山へ赴任。遠州も同道する。



ということで、遠州は7歳から22歳まで、大和郡山城とは付かず離れずの状態で生活していたわけでして、とりわけ10歳で登城した時に、城内のいたる所に「切石」の転用石が埋まっている石垣を見ただろうことは、まず、間違いないのではないでしょうか。


遠州の代表的な作庭、切石で池泉を囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※この庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)


遠州が庭を完成させた当時の絵図 …直線・直角と自然の山水の風景とのコラボレーション


……ご覧の世界的に有名なデザインについて、これも実は“秀長の遺産”だったのでは? などという戯言を口にしてしまうのは、本当にマズイことなのかもしれませんが、正直申しまして、今回のような夢想をあえて申し上げてみたいと思った動機はここにあります。


以上のように、今回の“夢想その2”で申し上げたかったのは、大和郡山城の「転用石」は人々に色んなインスピレーションを起させたのかもしれず、とりわけ問題の天守台の隅角部は、これまた家康に強い印象を残したのではなかったか? という点なのです。


宮上茂隆先生による二条城天守の復元案


そこで私なんぞは、(もはや幻ではない)家康の二条城天守の天守台には、きっと家康の記憶の中の「あの転用石」に似せた!!!「自前の切石」が、我が国の城で初めて、算木積みに使われたのではなかろうか…… などと、まことに手前勝手な夢想をふくらませているわけです。


二条城二ノ丸の北部 / 家康の天守跡と思われる周辺の微妙な地面の盛り上がり

冒頭から問題の隅角部分(下の三石が「伝羅城門礎石」)

例えば、その約70年後に築かれた江戸城の現存天守台…


ですから、全国の城に「切石」が普及した最初のきっかけが、本当に、秀長の大和郡山城の“問題の隅角部分”にあったのだとしたら、ご覧の江戸城の状態には“これは、オール礎石の天守台か!?” なんていう冗談も飛ばしたくなるのです。…

要は、物事は、何がきっかけになるか分からない、ということで。






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2014年11月28日(Fri)▲ページの先頭へ
城の再発見!豊臣秀長の遺産…雄大な「帯曲輪」や「切石」も継承されたのか





豊臣秀長の遺産…雄大な「帯曲輪」や「切石」も継承されたのか


大和郡山城天守のシミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)

ご覧の雄大な印象の帯曲輪(石垣)も含めて、徳川家康は気に入ったのか…


巨大な天守台をもつ、家康の駿府城天守(当サイト仮説のイラスト)

ちなみに両天守を同縮尺の略図で並べてみると…

やはりどこか似た印象を感じさせる天守周辺 / ともに右下(南東)が本丸



前回の記事まで2回にわたり、大和郡山城の天守台の発掘成果をめぐって、とりわけ豊臣秀長と徳川家康の関係性を中心にいろいろ申し上げ、家康の心象風景をさぐるイラストなどをお見せしましたが、その結果、上記の両天守台の印象は、どこか似かよっていることにも気づきました。

ここで特に確認しておきたいのは、比較の図でお判りのとおり、両天守の平面規模は、ザックリ申し上げて、各辺ともに帯曲輪(駿府城は天守台)の半分くらいの長さでありまして、この程度の比率でなければ、ご覧の天守と帯曲輪(天守台)のようなプロポーションにはなりえない、という点です。

で、もしもこの「秀長の天守」が、もっと色んな面で他の城に継承されたのであったなら… という想像力を働かせますと、とたんに、アレもコレもと頭に思い浮かぶものがあります。

そこで今回の記事では、そんな秀長の遺産?をめぐる夢想を、いくつか申し上げてみたいと思うのです。




<大和郡山城天守を囲っていた雄大な帯曲輪(≒巨大な天守台)は、

 豊臣秀長の家臣でもあった籐堂高虎の「今治城」にも波及していた!?

 ナゾの今治城天守をめぐる 夢想その1>





今治城の本丸(写真中央)と昭和55年に竣工した模擬天守


ご覧の貴重な角度からの写真は、本丸がちょうど手前によく見渡せるもので、サイト「RenoStyle 不動産のブログ」様からの引用です。

ご承知のとおり、この今治城の本丸には初の層塔型天守があったのではないか、という主張を三浦正幸先生がなさっていて、その天守が後に、城主・籐堂高虎の発意で解体されて徳川家康に献上され、それが天下普請の丹波亀山城の天守として移築されたのだと言います。


城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図

(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)


城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写


ご覧の丹波亀山城天守の移築説は、申すまでもなく『寛政重修諸家譜』に「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」という記述があるためで、これについては過去の当ブログ記事でも引用したのですが、以前は三浦先生ご自身が…


(三浦正幸 監修・編集・執筆『よみがえる天守』2001年より)

高虎は今治城主であったが、慶長十三年に伊賀、伊勢の城主として転封しており、(丹波)亀山城普請を命じられた時は転封の直後であった。
大名の転封の際に居城の天守を持ち去ることは異例であるので、今治城天守を移建したとする点は信じ難い。
しかし、今治城天守新築の用材を準備中に転封となり、その材を新しい持ち城である伊賀上野城天守に利用する予定にしたところ、(丹波)亀山城天守に急に転用したと解すれば合理的であろう。



とおっしゃっていて、この本の時点では、従来からある今治城天守の否定論(第一の理由=遺構が見つからない!!)に目配せした考え方も示しておられ、私なんぞは、この頃のお考えの方に説得力を感じてしまうのです。

そしてこれもまた過去のブログ記事の繰り返しで恐縮ですが、この時の三浦先生の想定を時系列で整理しつつ、そこに徳川家康の慶長度江戸城「天守台」の件を合わせて考えますと、まるで違った状況も見えて来ます。


慶長5年  籐堂高虎、関ヶ原の戦功により伊予国で20万石に加増される
慶長7年  高虎、今治で居城の築城を開始し、慶長9年に一応の完成をみる
      (※注:三浦先生はこの後の慶長9〜13年に今治城天守が新築
          されたという形に、現在では自説を改めておられます)
慶長11年 高虎が縄張りした江戸城本丸改修の天下普請が始まる
慶長12年 『当代記』に「二十間四方」と伝わる江戸城天守台が築かれる
慶長13年 高虎、伊勢・伊賀に加増転封され、居城の津城を改修し始める。
      その一方で今治城天守の用材を大坂屋敷に保管する
慶長14年 高虎、その天守用材を家康に献上する
慶長15年 丹波亀山城が竣工する
慶長16年 高虎、支城の伊賀上野城を改修し、13間×11間の天守台を築く



といった一連の出来事において、文中の天守用材と、江戸城「二十間四方」天守台との、時系列的なカンケイを思い切って邪推してみた場合、問題の今治城天守が建てられたか 建てられなかったか 分からない時期に、ちょうど、江戸城の「二十間四方」天守台が築かれたことになります。



ちなみに今治城の本丸は約100m四方(≒約50間四方)の曲輪

(※石垣の状態は現状に基づいた作図です)


さて、ここから今回の「夢想」を順次申し上げてみたいのですが、図のように今治城の本丸は隅櫓や多聞櫓に囲まれた約100m四方の曲輪であり、もしここに三浦先生の(以前の)お考えどおりに、本丸内の地面に直接、丹波亀山城天守の前身の天守の木造部分が建てられようとした事を想像しますと、ちょっとバランス(比率)が悪かったのでは? と思えて来るのです。


前出の城戸久先生の略図どおりの丹波亀山城天守を建て込んだ場合、

これで「天守」として存在感を出せたのか?と、周囲からの埋没がやや心配な状態に…



さらにバランスの悪さは天守の高さについても言えそうでして、現状の模擬天守は北隅櫓の櫓台上に建てられていて、コンクリート造の建物部分の高さが約30mだそうですから、丹波亀山城天守の木造部分の高さは(古写真のプロポーションから考えますと)模擬天守の8割強といった辺りになるのでしょう。

しかも三浦先生のおっしゃるように、その木造部分だけが本丸内の地面に直接、建っていたとしますと、櫓台の分の高さが失われるわけで、結果的に、合計の高さは模擬天守よりもかなり低かったはずです。


で、まことに勝手ながら、先に引用させていただいた写真の上に

丹波亀山城天守の写真(模写)をダブらせてみますと…



おそらくはこんな感じになるのではないかと思われ、現在、本丸にある吹揚神社の木々にも埋もれてしまいそうであり、当時は周囲に隅櫓や多聞櫓があった状況を想像しますと、いかにもバランスが悪いというか、わざわざ「天守」として建てるだけの存在感を出せたのだろうかと心配になります。


ちなみに、三浦先生のお考えのキモは、慶長前期までの技術ではゆがみのない天守台を建てることが出来なかったため、初の層塔型天守を実現したのは、どこかの天守台の上ではなく、今治城の本丸内のような平らな地面の上であったはず、というものでしょう。

であるなら、そうした考え方の中にも、先ほど申し上げた「同時期の江戸城の20間四方の天守台」という一件を加味して考えて行きますと、例えば、こんな可能性はないのでしょうか。


江戸城天守のプロトタイプ用としての「材木」が準備されていた、という想定ですと…


「なんだこれはッ!」「そんな法外な話があるか」というお怒りは御もっともでしょうが、これが今回申し上げたかった【夢想その1】でして、今治城の本丸というのは、全体が「巨大天守台」の一種だったと想定しますと、それは高虎が豊臣秀長・秀保に仕えた頃に見慣れた大和郡山城天守の印象とも、大きさのバランスが合致するように見えます。


それと言うのも、慶長前期の伏見城の18間×16間とも伝わる天守台や、実際に江戸城に築かれた「二十間四方」天守台といった、徳川家康の巨大天守をめぐる動きがあったからこそであり、高虎はそうした動向をいちはやく察知し、先行して構想をねり、居城の今治城に「巨大天守台」を築き上げていたのではなかったでしょうか。

そしてそれに合わせて高虎が準備し、大坂屋敷に保管したのは、やはり建物としては一度も組み上げられたことの無かった(=三浦先生の以前のお考えどおりの)天守用の「材木」であったように感じるのです。




とんでもない夢想を申し上げてしまったのかもしれませんが、ご覧のように今治城の本丸で意図されたのは、高虎お得意の真四角な平面形で、なおかつ史上最大の、究極の層塔型天守をめざした実験場!!…だったのではないか、という風に、私なんぞには思えてしまうわけです。



徳川家康と籐堂高虎


さて、以前のブログ記事でも申し上げたとおり、高虎は家康のブレーンの一人として、家康時代の「天守」のあり方について少なからぬ貢献をしたはずでしょう。

そんな高虎にしてみれば、てっきり、徳川の世の天守はすべて、究極の「四方正面」である、真四角な平面形のオベリスクのような層塔型天守になるものと確信していたのかもしれず、それが現実には、江戸城や駿府城に長方形の平面の天守が建てられたわけで、高虎の思惑ははずれたことになるのでしょう。


で、それもこれも、実は、豊臣秀長の大和郡山城天守が、そっくりそのまま二条城に「継承」されてしまったという、高虎の予想以上の出来事の結果だったのかもしれません。

そして慶長16年、高虎が伊賀上野城で13間×11間の天守台を築いたのは、そんな高虎がめざとく状況を悟り、算盤をはじいた行動だったのでしょうか?


(※今回もすでに長文になってしまい、【夢想その2】は、改めて次回に申し上げることにいたします)





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2014年11月10日(Mon)▲ページの先頭へ
城の再発見!あえてイラスト化する「初めて見た四方正面の天守…」徳川家康の心象風景





あえてイラスト化する「初めて見た四方正面の天守…」徳川家康の心象風景


徳川家康と、家康を大和郡山城に招いた豊臣秀長


左写真は徳川家康の側室・西郷の局ゆかりの宝台院(静岡市)に伝わる家康像だそうで、右写真は豊臣秀長の菩提寺・春岳院(大和郡山市)に伝わる秀長像です。

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみのひでなが)は豊臣政権の前半期を支えた名補佐役として有名ですが、天正16年、秀吉に対して臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

この時、秀長はわざわざ木津まで家康一行を出迎えたという話も有名で、この二人の関係を思えば、その後、もしも秀長が秀吉より長生きしていたなら、日本の歴史はどう変わっていたか(…果たして関ヶ原合戦は起きたかどうか)分からない、などと言う人が多かった二人です。


で、前回のブログ記事では、大和郡山城の天守(台)をめぐる宮上茂隆先生の“世紀の大予言”=二度の移築説が、この度の発掘調査によって、そうとうに証明されたような感があることを申し上げました。

しかもその「移築」はほとんど改変の無いもの(そのまま継承?)であった可能性が濃厚のようで、なぜ徳川家康や幕府が、豊臣政権の中枢にあった人物(豊臣秀長→秀保→増田長盛)の居城の天守を、そこまで丁重に扱ったのかは、大変に大きな謎だと言わざるをえません。


赤い図は松岡利郎先生による淀城天守の復原案 / 背景のカラー画は発掘調査報告より


改めてご覧のとおり、少なくとも天守の主要な構造には大きな改変は無かったらしく、もし細部についてもそっくりそのままであったのなら、そんな異例の措置の動機としては、それこそ冒頭の二人の関係性の他には、ちょっと考えようが無いのではないでしょうか?


ただしそれには、大和郡山城の天守がいつ建造されたかが問題になるわけでして、調査報告では、天守台の礎石等に修復のあとが無いため、おのずと天守は豊臣秀長か、その後継者の秀保(ひでやす)か、もしくは豊臣五奉行の一人・増田長盛のいずれかの時代に一度しか建てられなかったはずであり、それ以上の細かい時期は特定できなかった、としています。

ということは、天正16年、徳川家康が郡山を訪問した時、そこにはまだ「秀長の天守」が完成していなかった可能性(天正14年に完成直前の地震で崩れたとの記録あり)も若干は残っているわけですが、もしそんなことであれば、天守の「二度の継承」は、どこにも理由が見つけられられなくなってしまうことでしょう。

で、やや観点を変えて申し上げたいのは…




【新たな注意点 その2】

 大和郡山城天守が大きな付櫓台を介した「妻入り」天守ならば、

 それは豊臣大名らの望楼型天守群に含めるよりも、その後の、

 徳川将軍の「妻入り」層塔型天守につながる「祖形」と位置づけるべきか






この度の調査報告においても、現存の天守台の上に北東側から登る「石段」は、後の時代に付け加えられたものであり、創建時の登閣口は、大きな付櫓台の南面の石垣に痕跡がある「地階入口跡」であったことが確認されました。

そうなりますと俄然、気になって来るのが「大きな付櫓台」の由来でして、何故なら、天守台そのものに匹敵する広さをもち、かつ南側から「雁行」するように取り付き、その南面に登閣口があった「付櫓台」と言えば…






という風に、当ブログが仮説で申し上げて来た「立体的御殿」が「天守」として形を整えたプロセス(※上の3図は時系列とは逆の並び)の中でも、大和郡山城天守は、古い方と新しい方の形態を、両方そなえているように感じるからです。

どういうことかと申しますと、上記の天守群は初重の長辺・短辺の向きで言えば、福山城・豊臣大坂城は「平入り」の建物だったのに対し、大和郡山城のは明らかに「妻入り」であって別の要素を含む一方で、付櫓台の広さで言えば、福山城・豊臣大坂城と、最初期の小牧山城との中間に位置していることになりそうだからです。


ちなみに、この付櫓台に関しては、産経新聞(「郡山城の主は天下人クラス!?〜」ほか)の記事において、おなじみの千田嘉博先生が「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」とのコメントをされたそうです。

まさに付櫓台の地中から発見された「地階」は、安土城天主の天主取付台の南面!の石段に似たものであったのかもしれません。

そこで、イラスト化を行うための、当サイトなりの「付櫓」の規模や位置についての想定ですが、一説に、付櫓台はその西端に石塁があった可能性も言われていますので、下図のような想定でイラスト化を進めました。





さて、もう一方の「妻入り」の件で申しますと、天守の「平入り」「妻入り」の違いと、時系列とをからめて考えた場合、例えば…


豊臣大坂城と小田原城の天守台の、意外な類似性


以前のブログ記事で比較した天守台ですが、実は、この両者は「平入り」「妻入り」の違いを抱えていて、時系列的には、大和郡山城天守はこの二つの間の時期に建てられたことになります。ですから…




ご覧のように、間に大和郡山城天守をはさんで考えますと(三代将軍・徳川家光の上洛の時に建造された小田原城天守を含めて)徳川将軍のための「妻入り」層塔型天守につながる過渡的な形として、大和郡山城天守をとらえることも出来そうなのです。!…


で、以上をもう一度、整理しますと、大和郡山城天守は「大きな付櫓台」という観点では小牧山城につながる古い形を残し、安土城天主を思わせる壮大な構造をもっていた可能性がありながらも、「妻入り」という観点では、同時期の豊臣大名らの望楼型天守群を飛び越えて、ずっと後の徳川将軍の妻入り層塔型天守につながる「祖形」になったように思えてならず、この意味では、たいへんにユニークな存在だったのではないでしょうか。


このように考えて来ますと、やはり冒頭で申し上げた「家康と秀長」という関係を抜きにしては、とても大和郡山城天守を解釈できないように思われます。

おそらくは、家康の側が、この天守をことのほか、気に入ったのではなかったでしょうか。…


そこで今回は、そんな家康の「心象風景」がどういうものだったかをシミュレーションするため、以上の考え方に基づいて、大和郡山城天守をあえてイラスト化してみました。


付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現!!


ご覧の天守の本体は、宮上茂隆先生の二条城天守の復元案に基づき、細部の意匠は豊臣秀吉の弟・秀長の天守として違和感の無い状態としつつ、それを北東側から眺めた様子を、現在、本丸にある柳澤神社の本殿とともにイラスト化したものです。


こんなシミュレーションにおいて、まず申し上げたいのは、破風の印象によって、これが「四方正面」の天守に見えた、ということではないでしょうか。

このことは宮上先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)にあった三重目の東西南北面の大入母屋と千鳥破風が、細部の意匠を「秀長の天守」と割り切って想定したことで、その印象がいっそう際立った結果だと言えるでしょう。


しかもそれは家康にとって「初めて見た四方正面の天守…」であっただろうことは、時期的に見てまず間違いないでしょうから、これが家康をして「この建物をそのまま移築したい」という欲求に駆り立てた原因のように思えます。

きっちりとした四方正面の天守は、徳川が幕藩体制を確立しようという時期から流行したものであり、それが「天守」の本質的な意味の転換に沿ったデザイン(織豊権力の版図を示した革命記念碑 → 幕藩体制下の分権統治の中心的な象徴)ではなかったか、という点は当サイトが再三再四、申し上げて来たことです。

そうしたダイナミックな転換の折り返し点が、実は、大和郡山城天守と、それを見た家康の心象風景だったのかもしれません。!…



(※画面クリックで1280×960pixの拡大サイズでもご覧いただけます)


そして家康の心理には、ダブルイメージとして、「豊臣秀長」という人物に対する記憶が、強く影響を及ぼした可能性もありそうです。

例えば秀長の言葉として「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」という言葉があまりにも有名ですが…


(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」/『織豊期の政治構造』2000年所収より)

秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている。
豊臣政権が全国統一を進める中では、臣従した大名が大坂・京都へ出仕して豊臣大名として編成がなされるが、その出仕においては秀長が積極的に関わり、大名と秀吉を円滑に結びつける役割を果たしたのであった。

(中略)
秀長は秀吉の弟として、血族で一族大名として最高の位置にあり、統一戦争の先頭にたって活躍した。そのため、戦時や交渉には秀吉の権限を代行する「名代」の役割を担った。大友氏の書状にみえる「公儀之事」は、まさに秀長の「名代」の役割を示すものであった。
(中略)
しかし、一方では大名との交渉には大名の後見として内々に折衝する「取次」も存在した。九州大名に対し「内々之儀」を扱う千利休に代わって登場した石田三成や安国寺恵瓊は、秀吉と直接結びつき「公儀」を代行する秀長をも押さえるようになったのであった。
(中略)
その後、秀長は病気となり、奥羽仕置では血族中次に位置する秀次が「名代」として参加するのであった。
そして朝鮮の役では、出兵に専念しようとする秀吉に対して、国内統治を「名代」としての秀次が関白に就任して担当する。これは第一章で述べたフロイス書簡にいうように、本来は秀長の役割であった。



ここからは私の勝手な想像ですが、有力大名を豊臣政権下にまとめることに心をくだいた「公儀の人」秀長は、最大の外様大名であった徳川にとっては、まさに命綱であり、そんな心理が、秀長の四方正面の天守を、言わば「公儀の天守」として、強く記憶の中に刻み込んだのではなかったでしょうか。……




望楼型天守と初期の層塔型天守 …「唐破風」が示した天守の正面性(当サイト仮説)


さて、当サイトでは、望楼型から層塔型に移り変わる時期に、その正面性を保つための代用物として「唐破風」が導入された可能性を申し上げて来ましたが、その原点でもある大和郡山城天守の段階では、言わば <どちらも正面である=四方正面> という工夫のために採用されていたのではないでしょうか。


なおシミュレーションのイラストは、大小の連立天守(複合式)として描きましたが、これは秀長の支城の和歌山城がすでに連立天守だったという伝もあり、なおかつ移築先の家康の二条城にも小天守があったように洛中洛外図屏風に描かれているため、おのずと大和郡山城も、付櫓の上に望楼部分があった可能性はかなり高い、と見てそのように描きました。

またこの天守の影響が濃いと感じられる天守(江戸城・小田原城・岡崎城など)との共通項で言えば、やはり宮上先生の主張どおりに、最上階には高欄廻縁がすでに無かったのかもしれません。

さらにシミュレーションの結果としては、ご覧の帯曲輪の雄大な印象の石垣も含めて、家康は気に入ったのかもしれない… と思えて来るのです。




(※これはさながら駿府城天守のようであり、次回は駿府城の話題に戻ります)





作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。




2014年10月21日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!世紀の大予言 的中。話題の大和郡山城の発掘成果では「新たな注意点」も





世紀の大予言 的中。話題の大和郡山城の発掘成果では「新たな注意点」も


先々週ようやくお届けできた年度リポートは、まだ色々と補足して申し上げるべき事柄や画像が残っているものの、リポートの追い込み作業の頃に発表された「郡山城天守台発掘調査」の方がどうにも気になって仕方なく、こちらの話題を先にさせていただこうかと思うのです。…




(※上記の写真や図は「郡山城天守台発掘調査現地説明会資料」のPDFをもとに作成しました)


もうとっくにご存知の事とは思いますが、一応、ネット上の報道の文面をなぞっておきますと…


(毎日新聞 2014年09月12日)

豊臣秀吉の弟、秀長が城主だった郡山城(奈良県大和郡山市)の跡で、天守を支えた礎石群(16世紀末)が見つかり、同市教委が12日に発表した。
天守は礎石の配置などから1階は南北約18メートル、東西約15メートルの5階建て程度に復元できるという。金箔(きんぱく)が一部に残る瓦も、城内から初めて出土した。豊臣政権期の築城で様相が明らかな城は少なく、十文字健・市文化財係副主任は「城郭構造や築城技術の発展を考える上で重要」としている。

郡山城の天守に関する史料はほとんどなく、築造年代も不明で天守の存在を疑う説もあった。今回、出土した瓦の形や製作技法、天守台上面に再建や修復の痕が無いことから、秀長らが居城とした16世紀末の築造と判断した。

石川県金沢城調査研究所の北垣聡一郎名誉所長は「発掘により築造時期が分かる城は珍しい。全国の天守を比較して研究する際の基準になる」と評価している。





ということで、発掘された天守台上には、上図のように「井桁」状に並んだ礎石列(縦の南北方向に二列、横の東西方向に三列)の痕跡があり、その列の数はあたかも、約20年前、かの宮上茂隆先生が提起して賛否両論を巻き起こした「大和郡山城天守の二度の移築説」を後押しするような状態でありまして、私なんぞはこれを見て思わず、ブルッと身が震えたのです。

ご承知のとおり「二度の移築説」というのは、この大和郡山城天守が、徳川家康の二条城天守として移築され、それがさらに松平定綱の淀城天守として二度目の移築が行われたはず、というものでした。

しかし『愚子見記』等に基づいた宮上先生の主張は、なかなか最後の決め手を欠いたまま今日に至っており、それが今回の発掘調査で、ようやく決着がついたようなのです。

その驚きの結末を、図解でご覧いただきますと…


宮上先生が「二度の移築説」において参照した、松岡利郎先生の淀城天守復原案

(『探訪日本の城 別巻』1978年より)


同復原案の「二階」(一階と同大) →これが宮上説では二度目の移築後の状態に当たる

当の松岡先生は、二度の移築説にやや問題点をお感じのようでしたが…

赤く表示した「二階」と、調査報告の図を同縮尺!でダブらせると、なんと!!


上図の拡大 !!! 世紀の大予言 ほぼ的中。

天守台上の周縁部に、南側を中心に、数十cm平均の控えがあるだけ


礎石列の合致の具合など、もう何も、何も言葉が出ません…


ご覧のように、故・宮上茂隆先生(1940−1998)の指摘(世紀の大予言!)をめぐって大変なことが起きているようで、とても心おだやかでいられません。

これで、大和郡山城→二条城→淀城という天守の移築が、ほぼ証明されたかのような印象ではありますが、それにしても「移築」と言えば、旧天守の古材を使いながらも、建物はもっと改変された事例(彦根城天守など)しか知らなかったわけで、今回のは移築と言うより、そっくりそのまま「継承」されたかのように、殆ど改変が無かったことになりそうです。!

しかもそれが“二度にわたって”行われた可能性があるわけで、これには本当に、驚きを禁じえません。


で、その理由(→徳川幕府が何故この天守だけを丁重に扱ったのか?)については今後、色々と研究がなされるのでしょうが、今回のブログ記事で是非、申し上げておきたいのは、大和郡山城→二条城→淀城と、天守がそっくりそのまま「継承」されたのなら、そのことによって逆に、宮上説に対する【新たな注意点】も浮き彫りになったのではないでしょうか?






【新たな注意点 その1】

 大和郡山城天守もやはり、最上層屋根の「唐破風」の向きは、

 淀城天守や二条城天守の復元とまったく同じに、

 建物の「平側」であったはず

 



前出の松岡先生の淀城天守の復原案より(平側!の立面図に唐破風)

そして宮上先生ご自身による二条城天守の復元案(平側!の立面図に唐破風)


ご覧のように、一度目の移築の二条城天守、二度目の淀城天守と、宮上・松岡両先生の復元では、どちらも天守の建物の平側(長辺の側)の最上層屋根に「唐破風」が想定されていて、これは国宝の彦根城天守や姫路城天守と共通した手法になります。

そして今回の発掘調査で、建物の礎石の配置までが、大和郡山城−二条城−淀城の天守は事細かに共通(継承)していた可能性が濃厚となった以上は、当然のごとく、原点の大和郡山城天守もまた「平側」に唐破風があったと考えてしかるべきでしょう。

ところが、かつて宮上先生が提起した大和郡山城天守の復元案だけは、何故か(…ある“思惑”のためか?)「妻側」に唐破風を想定するなど、すべての破風が90度、方角をずらして配置されたのでした。


宮上先生の大和郡山城天守の復元案(『復元大系 日本の城』1992年より)

ご覧のイラストは北東から見た状態なので…


いったい何故?という印象でしょうが、宮上先生がこのような復元をあえて行ったことの背景を推理しますと、ちょっと複雑な話になるわけでして、結論から先に申せば、下記の豊臣大坂城天守の「宮上復元案」との“整合性”を持たせたかった、ということに他ならないのでしょう。


先ごろ新装版が出た名著(文句なく名著です!)の表紙を引用させていただきますと…



現に宮上先生は、ご覧の本のあとがきで「私は、安土城天主や、大坂城と兄弟関係の大和郡山城天守を、信頼できる史料によって復元設計しています」と書いておられ、豊臣大坂城と大和郡山城の天守を「兄弟関係」とまで想定していました。

しかし、上の表紙のような破風の配置の復元方法は、かの「大坂夏の陣図屏風」の、豊臣大坂城の西側と南側を混在して描いてあったことの影響(まことに残念な結果)によるものだろう、という一件は、当サイトの「リポートの前説」で詳しく申し上げたとおりです。

すなわち、そもそも豊臣大坂城天守の唐破風(徳川幕府の監視下での秀頼再建時)も、彦根城や姫路城と同じく「平側」スタイルのはずでありまして、この件には今なお強い確信を抱いております。




世紀の大予言を的中させた宮上先生について、これ以上、アレコレ申し上げるのは本当に心苦しいのですが、今回の発掘成果の発表があって以来、大和郡山城天守に対する世間(地元?)の注目もあり、事あるごとに引き合いに出される推定復元の画像などが、すべて宮上説か、宮上説を参照したCG等ばかりで、どうにも見逃せない状況になって来ています。


で、あえて心を鬼にして申し上げますと、ご承知のとおり、前出の松岡先生の復元図のもとになった原史料には、ある「欠陥」が存在していたのですが、宮上説の肝は、その欠陥をあえて逆手にとることで成立した、と申し上げても宜しいのではないでしょうか。


原史料の「山州淀御城天守木口指図」二階(欠陥=桁行と梁間の長さがあべこべ)と

松岡先生によるその欠陥の修正(復原)図(これが発掘調査とピッタリ合致しました!!)



一方、宮上先生は、原史料の桁行と梁間の長さ(長辺・短辺)をそのまま大和郡山城の天守台に当てはめれば、ちょうど最上階の唐破風が「大坂夏の陣図屏風」と同じ向きになる、という点にも着目したようで…



ですが、これは今回の発掘調査の成果によって、出土した礎石の配置とまるで噛み合わないことが証明されたわけです。

これは言うなれば、宮上先生の大予言は的中したものの、天守の具体像は“思惑がはずれた”と申し上げてもいいのかもしれません。


この度のニュース解説用に出回った略図も、宮上説の影響で、南の妻側に唐破風が…



以上の結論としまして、例えばご覧の略図や、同じく宮上説を参照された奈良産業大学の「郡山城CG再現プロジェクト」につきましても、天守の破風の配置は90度、方角がずれていると申し上げざるをえないのです。…




【新たな注意点 その2】

 大和郡山城天守が大きな付櫓台を介した「妻入り」天守ならば、

 それは豊臣大名らの望楼型天守群に含めるよりも、その後の、

 徳川将軍の「妻入り」層塔型天守につながる「祖形」と位置づけるべきか




(※突然で恐縮ですが、すでにかなりの長文になってしまったため、

  ここから先の内容は、次回のブログ記事で、改めて申し上げることに致します)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!続・熊本城天守は徳川系か 「四方正面」の最先端に変身していた!?






続・熊本城天守は徳川系か 「四方正面」の最先端に変身していた!?


前回に引き続き、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について申し上げたいのですが、今回はガラリと雰囲気を変えて、純然たる“天守の構造面”のお話をさせていただこうと思います。

その本題の前に、前回に写真をお見せした「唐破風」の件にチョットだけ触れておきますと、当サイトはスタート時から、天守の最上重屋根の唐破風は徳川が覇権をにぎる時期にそのトレードマークとして盛んに設けた可能性があり、例えば下写真の三天守はどれも「徳川将軍の娘婿(むすめむこ)」の天守であった可能性を申し上げました。


加納城御三階 / 姫路城天守 / 大坂城の豊臣秀頼再建天守(当サイト仮説)


そして前回写真の三天守も同様であり、加藤清正もまた、結果的に徳川将軍の娘婿(むすめむこ)になっていたことを忘れるわけにいきません。


徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守


清正の正室(継室)は清浄院(しょうじょういん)という女性で、この人は家康の叔父・水野忠重の娘であって、豊臣秀吉の死去の翌年に、家康の養女として清正と結婚しました。

そして彼女は関ヶ原合戦の直前に熊本城に入ったと言いますから、ちょうどその頃、大天守が完成しようとしていたわけで、どうにも問題の唐破風とは浅からぬ縁があったように思われてなりません。


ただしこの唐破風は、熊本城の大手が歴史的に東か西であったと言われる点では、大天守の南北面に据えられていて、大手を向いていない点がやや不審です。

―――この点では、同じく軒唐破風ではなく「据唐破風(すえからはふ)」だった福井城天守(写真中央)も同様の位置関係であり、これには何か理由があったのかもしれません。

―――さらには、今日に伝わる熊本城を描いた屏風絵の多くが、南か、北から描かれていて、したがって熊本城の絵の描写は城の大手とは関係なく、結果的に大天守の唐破風を正面にして描かれ続けたことも、また何か理由がありそうで、気になる点です。



<今回の本題――
 北野隆先生が紹介した“小天守なき城絵図”が物語る、大天守の重大な転機>







さて、熊本城の大小天守は、天守台の築き方も含めて、大天守と小天守の建造の手法がまったく違うことでも知られています。

そして小天守台の石垣が大天守台に覆い被さる構造が確認されてからは、現状の小天守はあとから付設されたものであり、その後、宮上茂隆先生や北野隆先生の指摘によって、関ヶ原合戦後の慶長年間に「宇土城」の天守を移築したものと考えられるようになりました。

ですが前回も申し上げたとおり、これもまた北野先生が紹介されたように、はるか以前の文禄年間に“小殿守の広間が完成”云々と記した清正の書状があり、これが「古城(ふるしろ)」ではなく熊本城(新城)のことならば、大小天守はそうとうに入り組んだ経緯を経て出来上がったことになります。

そのあたりの出来事を箇条書きにしますと…



文禄3年(1594)  清正書状「小殿守ノひろま出来」次第に2階3階の工事を命ず

            【小天守の完成時期 第1案】

慶長4年(1599)  ※熊本城内で「慶長四年」銘の瓦が出土
            清正書状「おうへ(御上)の小殿守のなおし所」の工事を命ず

慶長5年(1600)  9月、清正らの軍勢、宇土城を攻めて開城させる
            10月、清正書状「天守之作事」を急がせ、畳を敷くよう命ず

慶長6年(1601)  【この年か前年の末に大小天守ともに完成か 第2案】

慶長12年(1607) 清正書状「天守之井出」(小天守の井戸か)の出来具合を問う

            【小天守の完成時期 第3案】

慶長13年(1608) ※宇土城跡で「慶長十三年」銘の瓦が出土/清正隠居所に改修か

慶長16年(1611) 清正、熊本で死去

慶長17年(1612) 幕府が宇土城など三支城の破却を命ずる

慶長18年(1613) 宇土城の破却が始まる(この時、天守を熊本城に移築か)

            【小天守の完成時期 第4案】




考えられる小天守の完成時期を【第1案〜第4案】で示してみましたが、結局、どこまでを「古城」の話と考えるかで結論は違って来ますし、また慶長4年に熊本城(新城)のすべての築城が始まったとする「慶長4年説」に立つ場合も、これまた様相が違って見えるでしょう。

ですが、仮に【第1案】の小天守が「古城」のものとするなら、それはそれで、古城にもすでに「大天守」が(少なくとも4階か5階の規模で)存在していた可能性が生じてしまい、古城の意外な完成度や、その大天守はどこへ行ったのか? ひょっとして… という、またやっかいな話にも発展しかねません。


この複雑怪奇なパズルを解く“道しるべ”の一つとして、ある城絵図が、北野先生によって紹介されています。



谷川健一編『加藤清正 築城と治水』2006年

※左ページの城絵図は「肥後熊本城略図」(山口県文書館蔵)とそのトレース画


(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収より)

萩藩では慶長一六年(一六一一)一二月二六日の毛利秀就(ひでなり)の初入国と藩内巡視にあたり、九州諸藩の動向を探る内偵が行われた。
内偵が行われたのは、肥後藩を中心にして北であり、
(中略)
小倉藩、佐賀藩、熊本城では縄張図、各建物の姿図が描かれており、「肥後熊本城略図」は肥後藩の本城である熊本城の縄張図と各建物の姿図を描いたものである。


ということで、まさに清正が死去した慶長16年当時の熊本城について、驚くべき状況が萩藩の内偵で報告されていた、というのです。



トレース画の中心部分(上記書の掲載画より/当図は上が東)


なんと、ご覧のように本丸には大天守しか描かれておらず、当時は、小天守があるはずの大天守左側(北側)は通路(帯曲輪?)が通っていたようなのです。

しかも逆の本丸右側(南側)はかなり曲輪の配置や形が現状と異なり、ちょうど東竹ノ丸のあたりを突き抜けるようにして、通路が屈曲しながら本丸の東部分に達していた、と示されているのです。

この城絵図の解釈について、北野先生は同書のなかでこう結論づけておられます。


(北野隆「加藤時代の熊本城について」/上記書所収)

本丸には独立式天守(現在の大天守)がそびえ、本丸へは東竹ノ丸の南から東に廻って入れるようになっていた。本丸は東向きであった。
独立式天守の北側は、不開門(あかずのもん)から西へ伸びる通路になっていた。現在の小天守の位置である。
清正代には小天守はなかったことになる。



と、同書では、北野先生は清正の時代を通して「小天守はなかった」と結論づけておられ、つまり「築城400年」の築城年(完成年)にも小天守はまだ無く、その年に清正が書状でわざわざ出来具合を問うた「井戸」も古城のもの(…?)ということになりますが、そうした点について同書はそれ以上の特段の言及はありません。

現れては消える“神出鬼没の”小天守の話はこの辺でいったん止めにして、それよりも今回の記事で是非 申し上げたいのは、一方の「大天守」はその間、どうなっていたのか? という観点なのです。


―――で、北野先生が紹介された城絵図が真実の報告だとしますと、その時点の大天守を画像化すれば、おそらくこうなるわけです。(!)



これぞ「四方正面」の最先端にして究極形!? 独立式の頃の大天守を推定

(※北西側から見上げた様子/この左側に小天守が付設されたことになる)


どうでしょうか――― このようにして見直しますと、この大天守が東西南北の四面にほぼ同大で(しかも上下二段に重ねて)設けた「千鳥破風」の意図が、いっそう明確になって来るのではないでしょうか。

しかも初重の特徴的な「石落し」は、グルッと四面にわたって周囲を威圧していたことになりそうです。

これらの点は明らかに、この天守が「四方正面」の意匠を極めようという意図をもって建てられたこと、またそれは時期的に見て、徳川の天守に特徴的だった「四方正面」を先取りしたか、または追い抜こうとした意気込みを物語っているのではないでしょうか??


結局、小天守がいつ存在したかで話は変わるものの、最大限に見積もれば清正晩年の10年余り、少なく見積もっても数年間は、こうした当時最先端の姿を見せていた可能性があるのです。



<この時期に「天守」の意味が変わった?―――
 天下布武の版図を示す革命記念碑から、各領国の中心を成すモニュメントへ>




当サイトは一貫して、同じ天守建築であっても、織豊期と徳川期の天守は質的に(建造の目的が)別物ではないかと申し上げて来ました。

そのことは3年ほど前の記事(天守の「四方正面」が完成するとき)でも詳しく触れたとおり、織豊期と徳川期の天守を見分ける外観上の目安の一つが「四方正面」であったように思われます。


どういうことかと申しますと、織豊期の天守には明確に「正面」が存在していて、それに対して天守の「四方正面」とは、徳川幕藩体制に移行すると共に、天守が各藩の分権統治の象徴として“城下町の中心に”屹立するようになって、初めて意識的に導入された手法ではなかったか、という考え方に基づくものです。


その点では、ご覧の清正の独立式天守は、まさに時代の最先端を突っ走っていたわけで、そうした措置の背景には、もちろん清正の情勢判断や政治的志向が働いたはずでしょう。

秀吉の死後、清正が家康に急接近したのは、よく言われる豊臣内部の吏僚派との確執もあったでしょうが、そもそも清正の農本主義的な統治手法から言えば、政治的路線としては秀吉よりも、むしろ家康の方にシンパシーを感じていたのではないでしょうか。


そして冒頭の「唐破風」の件でも、清正の対応はすばやく、関ヶ原合戦の前にそれを行っていたことになります。

―――この点では、いずれ年度リポートでも取り上げたい重要なテーマとして「徳川はなぜ唐破風を重視したか」という問題があるのですが、そうした意匠の深意(新政権の哲学)についても、するどく清正は見抜いていたようで、それならば「四方正面」を先取りすることも十分に可能であったように思われるのです。


そんな究極の「四方正面」を実現したにも関わらず、清正の死後、わざわざ小天守を付設(再付設)して、せっかくの形を崩してしまったのは、二代目の加藤忠広とその重臣らだったということになりそうです。


で、私なんぞには、おそらく清正は、実際はどこかの時点で最初の小天守をあえて壊し、その上で急遽、大天守を新時代(分権統治の世)にふさわしく、破風の改装などを進めたのではないか… と想像されてなりません。

ですから、そうした清正の意図的な独立式天守(とその後の増築建物)を、なおも“豊臣の天守”と解釈することには、どうにも強い抵抗を感じざるをえないわけなのです。








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2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
城の再発見!熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える






熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える


豊臣秀吉の存命中には無かった!熊本城天守(大天守の上層部分/外観復元)


2011年度リポートの中の「豊臣大名の天守マップ」において、これは一言、別途申し添えなければと強く感じたのが、熊本城天守です。

加藤清正による天守の完成は慶長5年か6年(つまり関ヶ原合戦の年か翌年)と言われ、秀吉の存命中はずっと未完成であったため、マップ(慶長3年当時)にも表示しておりません。



―――ところが熊本城天守は、その黒い壁面のためか“豊臣の天守”の代表格として挙げられることが大変に多く、完成の時期から言えば、徳川家康の二条城天守や結城(松平)秀康の福井城天守などと同じく、徳川の覇権が確立される最中に登場した天守だという、重要なポイントがないがしろにされている感があります。


二条城天守/福井城天守/熊本城天守 …これらは唐破風を高く掲げた 同期の桜?


そこで今回から、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について、近年の熊本城の状況も含めて申し上げてみたいと思います。



<熊本城は築城400年か、完成400年か、熊本市長の政治的手腕の妙…>



加藤清正による築城は、ご承知のように天正16年(1588年)に城地の一角「古城(ふるしろ)」に入城したものの、全面的な築城工事は「慶長六年(1601)に起こされ同十二年に完成した」(『日本城郭辞典』)等とされて来ました。

しかし天守については、例えば北野隆先生の指摘で、文禄3年(1594年)に小天守の広間が完成したり、慶長5年(1600年)に大天守の畳を敷くなど、着々と完成に向かっていたことが判ります。


ということは、一般的に言われた慶長6年の「全面的な築城工事」の直前には、すでに大小天守は完成していたばかりか、そうであるなら、少なくとも本丸の石垣普請は“完全に”出来上がっていたはずでしょう。

となると、なおさら気になって仕方が無いのが、近年の城ブームにも多大な貢献を果たした「熊本城築城400年」の築城年のとらえ方なのです。


華やかに復元された大広間 …復元整備計画の目玉の一つ


思えば番組「司馬遼太郎と城を歩く」の制作当時、熊本城を担当した高橋ディレクターから、熊本城の“築城年”をめぐる市側の説明を又聞きして驚いた記憶があり、それは申し上げたとおりに、清正の熊本(隈本)入城や天守の件が頭にあったからです。

しかし「築城400年」の起算年について、熊本市はまったく違うやり方をしていたわけで、これは三角保之(みすみ やすゆき)前市長、幸山政史(こうやま せいし)現市長(2002年就任/現在3期目)の二代にわたる政治的手腕の結果と言うべきでしょう。

では熊本市政が“築城年”の設定にいかに関わって来たのか、下の表をご覧下さい。




ご覧のとおり、“築城年”が市政の都合で設定されて来た経緯が、再確認いただけるのではないでしょうか。

すなわち「築城400年」とは、清正の入城400年目ではなく、全面的な築城再開400年目でもなく、もっとあとの城の完成400年目(2007年/平成19年)に合わせたものであり、一見、正当性があるようでいて、復元整備計画が1997年に出来たことから考えますと、もはやこれしか選択肢は無かった――― と言えるのかもしれません。


ただし、ここで見逃せない(もはや言わずにいられない)重要なポイントは、市の主張する築城年と、いま韓国で公然と言われている「俗説」との、妙な因果関係なのです。



<「熊本城は韓国人が築いた」という俗説の蔓延と、それを許した築城年の解釈>



ご存知の城郭ファンはすでに多いこととは思いますが、改めて「俗説」の概略を申しますと、それは、熊本城は加藤清正が朝鮮の蔚山城(うるさんじょう)から連れ去った1000人の朝鮮人技術者が築いた城で、だから熊本城の見事さは朝鮮の技術によるものなのだ、という内容です。

で、これが韓国では学校教育の場にも採り入れられ、それを学んだ生徒達が、修学旅行で熊本に大挙してやって来る、という流れも出来ているそうです。


この「俗説」が間違いであることは、ご承知のように蔚山城の戦いは、新築の城に篭城した日本勢が、押し寄せた明・朝鮮連合軍を最終的には撃退して終わっていることから明らかで、そこから朝鮮の技術者を1000人も連れ帰るなど、シチュエーションとしてありえなかったことです。

おそらくは、膨大な数の捕虜や陶工などを日本国内に連行した件と、有名な蔚山城の激戦とがごっちゃになって出来上がった「俗説」と思われますが、それにしても、最低限、<熊本城は韓国人が築いた>という誤りは正さなければなりません。

ところが、そこで問題になるのが、例の「築城年」の一件なのです。


つまり、城が完成した慶長12年(1607年)をあくまでも「築城年」にしたい熊本市と、蔚山城の戦い(慶長2年末/1597年)という朝鮮出兵の最終局面で連れ去られた朝鮮人技術者が… という「俗説」を言いたい韓国側とが、妙な符合を見せているのです。

どういうことかと言いますと、ここでもしも(前述の天守の完成時期など)朝鮮出兵が終わる前後には、もう熊本城の中核部分は出来上がっていた(!)という話が社会的にオーソライズされてしまったら、熊本市も、韓国側も、両者とも<都合の悪い立場>に陥ってしまうわけなのです。




(※上写真はブログ「日本全国ビッグマックの旅」様より引用)


現職の幸山政史市長は「選ばれる都市へ」というキャッチフレーズをご自身のホームページに掲げておられますが、そうした姿勢の甲斐あってかどうか、韓国からの観光客もかなり増えたと言われます。

そしてそれに呼応するように、「熊本城は韓国人が築いた」説の火の粉は市長にも降りかかったようで、その中身は朝鮮日報の電子版(「魚拓」云々の画面をもう一度クリック)をご覧いただくとして、ネット情報によれば、熊本市は「市長はそんな発言をしていない」と朝鮮日報の報道を打ち消すコメントを出したとも言います。


そうであるならば、幸山市長は韓国の親善団体と会った時、熊本城の築城過程について、どういう説明をしたのか、たいへん気になるのですが、なんと同時期には、幸山市長の朝鮮総連の関連施設に対する温情的な政策をめぐって、訴訟が起き、こちらは最高裁で市長側敗訴の判決が確定したそうです。

これはひょっとすると、先々、熊本城もあらぬ運命を背負わされ、タダゴトで済まないのかもしれない、という危惧を抱くのは私だけでしょうか。

(※幸山市長は圧倒的な票差で3期目の当選を果たしています)


熊本市民の皆さん、どうなのでしょう。儲かるなら、こんなことは構わないのでしょうか?


(※次回に続く)






作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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